「体重とは何か」に関する形而上学的考察

伊勢田哲治

体重とは何か?体重の正確な値を量るとはどのようなことなのか? ダイエットなどの理由により日に何度か体重計に乗ったことのある ものならば誰でも、体重計の表示が場合によっては一日1kg近くも 変動することを知っているであろう。はたしてそうした変動は 何を意味するのか?体重そのものが重くなったり軽くなったりして いるのか、それとも、体重そのものは比較的安定しているが体重計に 表示される重さが変動しているだけなのか? 本稿の目的は、以上のような古来からの難問に対し、 実はこれは人間の身体とは何かということにかかわる 抜き差しならない形而上学的問題であると示すことにある。

議論をはじめる前にいくつか断り書きをしておく。 ここであつかうのは「ひとの体重とは何か」という問題であって、 植物やひと以外の動物の体重については別個な考察が必要であろう。 煩雑をさけるために以下では「ひとの」という形容詞は 特に必要がない限り省くが、以下の議論はすべてひとの体重や身体に関する 議論として意図されていることを念頭において読んでいただきたい。 また、体重を質量と考えるか重量と考えるかというのは、宇宙や月面 での体重を考察する上では重要な区別になってくるだろうが、ここでは 1Gのもとでの重量に話を限定することでこの問題を回避する。

1問題設定:食事と体重

「正確な体重」を考える上で、最大のファクターは消化器系の内容物を どのようにとらえるかということであろう。本稿の議論ももっぱら この点をめぐって展開される。ここで出てくるのは、たとえば 以下のような問題である。
食事は体重とどういう関わりを持つのか?
食前と食後ではどちらが正確な体重が量れるのか?
通常、われわれが体重計を用いて体重を量る場合、胃や腸の内容物の重量は 体重に加算されている。したがって、大量に食べたあとは体重計の表示は 大きく、少量しか食べなかった場合は体重計の表示は小さくなる。 いずれの場合も食前よりも食後の方が体重計の表示が大きくなる。 (もちろん、食事中に腕を切り落とされるなど特殊な事情があれば 別であるが。)これを、「食べる量によって体重の変化が違う」 「食前と食後で体重が変化した」と理解してよいのだろうか? これらの問いに対する肯定的な答は、自然なようでいて、 実は身体についての暗黙の形而上学的前提にもとづいている。 まず、このことを、わたしが「身体に関する空間説」と呼ぶ考え方の 二つのバージョンを比較することで明らかにしよう。

2身体に関する空間説

「体重とは何か」を考える上で避けて通れないのが、「身体とは何か」 という問いであろう。というのも、体重は、もっとも端的には 「体重とは身体の重さである」と定義できるであろうが、この定義に内容 を与えるには身体とは何かということに答えねばならないからである。 まずは、単純に身体というものを空間的にとらえる「身体に関する 空間説」を考えてみよう。

身体に関する空間説とは、身体とはある空間的 範囲内にあるものすべてをいい、したがって体重も、その空間 内にあるすべてのものの重量を加算したものである、とする立場である。 この空間的範囲は皮膚と呼ばれるひとつながりの生物学的組織によって 通常定義されるが、体毛・頭髪などは例外的に皮膚外にあっても身体の 一部とみなされる。 身体に関する空間説は、さらに消化器系の捉え方によって消化器系外部説 と消化器系内部説に分けることができる。消化器系外部説とは、 身体をトーラス状の空間としてとらえ、食道・胃・腸などの壁を 外皮と同等のしきりとみなす考え方である。消化器系内部説は身体を 球面状の空間としてとらえ、口や肛門を内部と外部の境と考える考え方 である。つまり、両者は、消化器系の壁および口と肛門で囲まれた空間 (以下、「消化器系空間」と呼ぶ)を内部とみなすか外部と見なすかで 意見がことなるわけである。 さて、食事というものを、まずは単純に、「食物を消化器系空間へ移動する 作業」ととらえてみよう(この定義が不十分であることは空間説への批判のなか で明らかになるであろうが、まずは空間説の立場にのっとって考える)。 当然ながら、消化器系外部説では食物はこれでは身体の一部とはならず、 内部説ではこれで食物が身体の一部となる。体重計の表示との 関わりで言えば、消化器系外部説の立場からは食事前の方が正確な体重が 量れ、内部説の立場からはどちらでも正確な体重が量れるということには かわりがないことになる。ただし、外部説の観点から本当に正確な体重を 量ろうとすれば、体重計に乗る前に下剤をかけて消化器系空間内の重量を できるかぎり減らすことが必要となろう。 いずれにせよ、「食べる量によって体重の変化が違う」 「食前と食後で体重が変化した」等の言明を受け入れるかどうかは、 消化器系内部説か外部説かという形而上学的立場の違いによって変わる のである。

3 行き先理論とその問題点

ダイエットをするものにとって、真の体重をできるだけ低く見積もる 消化器系外部説は一種の福音であろう(体重計に乗るたびに下剤をかけ なくてはならないという不便はあるにせよ)が、同時に、この説は偽りの 福音ではないかという疑念も拭いがたく存在するであろう。 はたして胃袋の中身は身体の外部か内部かというのは、本当に二分法的に とらえられる問題なのだろうか?胃袋の内容物のある部分は腸壁を通じて 「体内」(つまり消化器系外部説でも身体の内部と認められる 領域)へと吸収されるであろうし、他の部分はそのまま排泄されるであろう。 体重を考える上で、この両者を同列に扱うことはできないのではないだろうか? このような直観は、とりわけダイエットのために体重を量るものにとって 切実なものであり、「まだ吸収されていないから体の一部ではない」と 気軽に言ってすませられる問題ではないだろう。 そうした直観を生かした身体・体重の定義はできないものであろうか? とりあえず身体に関する空間説の例外規定として何か付け加えることで この問題は回避できないだろうか?

この直観を素直に定式化するならば、「消化器系空間に関する行き先理論」 (以下「行き先理論」と略)ともいうべきものが考えられるだろう。 この理論によれば、消化器系空間内の物質は、それが最終的に排泄されずに 体内に吸収される場合、その場合に限って身体の一部であるとみなされる。 この立場をとった場合、真の体重を量るには 胃や腸の内容物を分析する必要が出てくる。真の体重は体重計で単純に量れる 量ではなくなってしまうだろう。もちろん下剤をかけて消化器系空間をからにして しまえば話は簡単だが、それは(行き先理論の観点からすれば) 量られるべき対象そのものに干渉していることになるのであるから、 正確な体重を量るという観点からは望ましい解決ではない。 実際的な解決策としては、食事をする前に食物の重量の測定と栄養学的分析を 行うことである程度正確な値を見積もることはできるだろう。

行き先理論は体重というものに関するある種の直観をうまく説明してくれるが、 同時にさまざまな形而上学的難題を抱え込むことになる。 まず、行き先理論の考え方からすれば、食べる前の食物も、食べることが はっきり決まっている場合には体重に算入せねばならないことになるのでは ないだろうか? これは、行き先理論を消化器系外部説に対する例外規定として考えた場合 に顕著にあらわれる問題である(しかし行き先理論の考え方を整合的に あてはめようとするなら、内部説でも同じような問題は生じるだろう)。 口の外にあるか中にあるかは、消化器系外部説の観点からはどうでもよい ことであったはずであり、ましてや食物は口を通した瞬間(ないし飲み下した 瞬間)に急に変質するわけでもない。「食べる」という一連の過程の 中で口を通すというのは食物の行き先を決める上での一つのステップに 過ぎず、そこにあまりに重点を置くことは外部説の考えにも行き先理論の 考えにも背くことになるだろう。嚥下することで消化・吸収の不可逆な プロセスが始まる、という点に差を求める反論に対しては、本当に吸収 されるまではいつでもプロセスに介入して吸収を妨げることができる、 と答えることができる。 以上のことを考えると、食べる前か後かというのは些細な差であり、 食前に体重計に乗るなら、食べる予定の食物(の吸収されるであろう分)も 同時に体重計に乗せるのが正しい量り方だということになる。 これは、一見して思われるほどにナンセンスな結論ではない (ダイエットをする上ではこのような量り方にも十分意味があるだろう) が、身体というものについてのわれわれの ナイーブな直観とこの結論との間に摩擦があることは否めないだろう。

行き先理論の考え方を押し進めるならば、排出のプロセスも問題になって こざるをえない。大腸から吸収された水分のあるものは、比較的速やかに 尿として体外に排出されるであろう。あるいは、同じく比較的速やかに 汗として排出されるかもしれない。そのような排出のされかたと、一度も 腸壁を通さずに肛門から排出されるされかたとの間には、形而上学的にいって ほんとうに大きな差があるのだろうか?(両者のプロセスが生物学的に 区別されることに異論を唱えるものはないだろうが、それが「身体」に ついての形而上学的理論の観点からいってどう見えるかがここで問題に なっているのである。)「最終的にどこにいきつくか」 という観点からすれば、結局体外に行き着いているのであり、身体の一部 にはならなかったと判定するのが妥当なのではなかろうか?

ここで、腸壁を通すか通さないかについて、どんな差が考えられるだろうか? 排出に至る時間的な差というのは一つ考えら得る。 直観的な言い方をすれば、そのまま肛門から排出される物質は 「速く流れて」いき、一旦腸壁を通した後腎臓をへて尿として排出される 物質は「少し遅く流れて」いくのである。(汗として排出されるものは 「もっと遅く流れて」いくことになるであろう。)しかし、そうした 速さ・遅さという時間的要素は、ある物質が身体の一部かどうかという 本質的な問題に関して、大きな違いといえるだろうか? あるいは、確率的な違いの要素を加味することもできるかもしれない。 腸から吸収された物質は、比較的簡単に排出されるかもしれないが、 体の器質的な構成要素の一部として使われることになるかもしれない。 一旦吸収されてから排出されるものとそもそも吸収されないものの間では この確率的プロセスを経ているかどうかの差がある。 しかし、この確率的な差が本質的なものかどうかはやはり疑わしい。 というのも、吸収されるかそのまま排出されるかの区別も、部分的には 確率の要素が入るからである(もちろん食べても吸収されえないものも あるが)。すでに胃袋の中に入った時点で、いや、先の議論を参照するなら 食べると決めた時点で、確率的プロセスは始まっているのである。 先に、「食事」を一旦「食物を消化器系空間に移す行為」と定義したが、 ここでの考察を加味するなら、食事とは「あるひとかたまりの食物が 排出されるものとされないものに確率的に振り分けられていく一連の プロセス」だと定義しなおされることになるだろう。

4 身体に関する基幹物質説

以上のように考えて、「結局排出されるもの」は、一旦吸収されようが されまいが身体の一部ではない(したがって体重にも含まれない)と 考えるなら、これは身体についての空間説そのものを否定することになる。 ここに至ったのは行き先理論を整合的に突き詰めていく過程においてで あるから、実は行き先理論は、それ自体の内部に空間説を否定するような 景気を含んでいたということになる。 とりあえずすぐに思いつく対案として、「身体に関する基幹物質説」 を考えてみよう。 この説によれば、身体は、「結局排出されるもの」を除いた、継続的に そこに存在する物質(これを基幹物質と呼ぶ)によって定義される。 この考え方によって正しく体重を量るとすれば、 一旦飲食をやめて「結局排泄されるもの」を一旦出し尽くし (数日はかかるだろうか)、しかるのちに体重計に乗ることになる。

身体に関する基幹物質説が安定的な立場でないことは、すでに上の 定義をもってしても明らかだろう。身体を構成する物質はゆっくりと 新陳代謝しており、その大半について「結局排出されるもの」という 記述があてはまる。ただ、速く排出されるものと非常にゆっくり(何年も かけて)排出されるものの差があるだけのことである。そうしたものを まったく体重に含めないとすれば、確かに体重はとても軽くなるであろうが、 直観的な体重概念との齟齬はもはや無視できないものとなるであろう。 なによりその意味での体重は体重計で量るのが極めて困難である。

5 身体についてのプロセス説

このように考えてくると、身体についての基幹物質説すら不十分だと 言わざるをえなくなる。問題は、おそらく、身体についての空間説・ 基幹物質説とも、身体というものを静的にとらえていることにある だろう。そこで要請されるのが身体をもっと動的にとらえる考えかたである。 ある物質が身体の構成要素かどうかということは 空間的な基準では考えることができず、身体をめぐるさまざまな プロセスの内容と意味を考えることではじめて明らかになる。 身体を構成している(していた・するであろう)物質の中にも「早く流れていく」 部分と「ゆっくり流れていく」部分がある。「早く流れていく」もの (吸収されずにそのまま排出されていく食物など)はほとんど身体の一部 とはいえず、「ゆっくり流れていくもの」(一旦骨や細胞の一部となり、 ゆっくりと新陳代謝されていく物質など)は比較的安定した「身体の一部」 となる。両者の間にさまざまなレベルの「流れの速さ」があり、速さに応じて 身体の一部としての度合いが変わることになる。 この立場を「身体についてのプロセス説」と呼ぼう。

このように身体をプロセスとしてとらえた場合、体重とはいったい何なのか、 また、それを体重計でどうやって量ればよいのか? これは難問のように思われるが、身体がプロセスであるならば体重もまた プロセスの属性である。ある一時点における体重を特定しようとするのではなく 通時的なプロセスの値として体重を考えるなら、ある程度の見通しは立つ。 体重は、プロセスの属性として、日周変動や場合によってはもう少し長期的 な変動をあらわす一つのグラフとして表されることになるだろう。 つまり、その一つ一つの時点における値が体重なのではなく、どのような 状態でどのような値を取るかという組み合わせの全体が体重なのである。 体重を静的にとらえることをやめれば、内部か外部かという些細な問題に 煩わされることもない。外部から内部に取り入れられまた外部に出ていく その全体の変化を記述しさえすればよいのである。 「食前と食後ではどちらが正確な体重が量れるのか」などという問いは、 体重の概念そのものの誤解に基づくナンセンスな問いとなる。 この意味での体重を正確に記述するには一日中体重計に乗っておく必要が あるだろうし、食物も排泄物もプロセスの一部ととらえられる限りにおいて 体重の計測値に上乗せする必要があるだろう。しかし、形而上学的に満足の いく体重概念にもとづいた計測を行うということの意味を考えれば、そうした 犠牲は大した問題とは思われなくなるだろう。

6 結語

以上、体重とは何か、また体重の正確な値をはかるとはどのようなこと なのかについて、身体とは何かという形而上学的な問題を解く形で解答を 試みてきた。以上のような考察を通して、形而上学が、ダイエットのような 比較的日常的な出来事と密接に結びついていることが示せたのではないかと 考える。