議論をはじめる前にいくつか断り書きをしておく。 ここであつかうのは「ひとの体重とは何か」という問題であって、 植物やひと以外の動物の体重については別個な考察が必要であろう。 煩雑をさけるために以下では「ひとの」という形容詞は 特に必要がない限り省くが、以下の議論はすべてひとの体重や身体に関する 議論として意図されていることを念頭において読んでいただきたい。 また、体重を質量と考えるか重量と考えるかというのは、宇宙や月面 での体重を考察する上では重要な区別になってくるだろうが、ここでは 1Gのもとでの重量に話を限定することでこの問題を回避する。
身体に関する空間説とは、身体とはある空間的 範囲内にあるものすべてをいい、したがって体重も、その空間 内にあるすべてのものの重量を加算したものである、とする立場である。 この空間的範囲は皮膚と呼ばれるひとつながりの生物学的組織によって 通常定義されるが、体毛・頭髪などは例外的に皮膚外にあっても身体の 一部とみなされる。 身体に関する空間説は、さらに消化器系の捉え方によって消化器系外部説 と消化器系内部説に分けることができる。消化器系外部説とは、 身体をトーラス状の空間としてとらえ、食道・胃・腸などの壁を 外皮と同等のしきりとみなす考え方である。消化器系内部説は身体を 球面状の空間としてとらえ、口や肛門を内部と外部の境と考える考え方 である。つまり、両者は、消化器系の壁および口と肛門で囲まれた空間 (以下、「消化器系空間」と呼ぶ)を内部とみなすか外部と見なすかで 意見がことなるわけである。 さて、食事というものを、まずは単純に、「食物を消化器系空間へ移動する 作業」ととらえてみよう(この定義が不十分であることは空間説への批判のなか で明らかになるであろうが、まずは空間説の立場にのっとって考える)。 当然ながら、消化器系外部説では食物はこれでは身体の一部とはならず、 内部説ではこれで食物が身体の一部となる。体重計の表示との 関わりで言えば、消化器系外部説の立場からは食事前の方が正確な体重が 量れ、内部説の立場からはどちらでも正確な体重が量れるということには かわりがないことになる。ただし、外部説の観点から本当に正確な体重を 量ろうとすれば、体重計に乗る前に下剤をかけて消化器系空間内の重量を できるかぎり減らすことが必要となろう。 いずれにせよ、「食べる量によって体重の変化が違う」 「食前と食後で体重が変化した」等の言明を受け入れるかどうかは、 消化器系内部説か外部説かという形而上学的立場の違いによって変わる のである。
この直観を素直に定式化するならば、「消化器系空間に関する行き先理論」 (以下「行き先理論」と略)ともいうべきものが考えられるだろう。 この理論によれば、消化器系空間内の物質は、それが最終的に排泄されずに 体内に吸収される場合、その場合に限って身体の一部であるとみなされる。 この立場をとった場合、真の体重を量るには 胃や腸の内容物を分析する必要が出てくる。真の体重は体重計で単純に量れる 量ではなくなってしまうだろう。もちろん下剤をかけて消化器系空間をからにして しまえば話は簡単だが、それは(行き先理論の観点からすれば) 量られるべき対象そのものに干渉していることになるのであるから、 正確な体重を量るという観点からは望ましい解決ではない。 実際的な解決策としては、食事をする前に食物の重量の測定と栄養学的分析を 行うことである程度正確な値を見積もることはできるだろう。
行き先理論は体重というものに関するある種の直観をうまく説明してくれるが、 同時にさまざまな形而上学的難題を抱え込むことになる。 まず、行き先理論の考え方からすれば、食べる前の食物も、食べることが はっきり決まっている場合には体重に算入せねばならないことになるのでは ないだろうか? これは、行き先理論を消化器系外部説に対する例外規定として考えた場合 に顕著にあらわれる問題である(しかし行き先理論の考え方を整合的に あてはめようとするなら、内部説でも同じような問題は生じるだろう)。 口の外にあるか中にあるかは、消化器系外部説の観点からはどうでもよい ことであったはずであり、ましてや食物は口を通した瞬間(ないし飲み下した 瞬間)に急に変質するわけでもない。「食べる」という一連の過程の 中で口を通すというのは食物の行き先を決める上での一つのステップに 過ぎず、そこにあまりに重点を置くことは外部説の考えにも行き先理論の 考えにも背くことになるだろう。嚥下することで消化・吸収の不可逆な プロセスが始まる、という点に差を求める反論に対しては、本当に吸収 されるまではいつでもプロセスに介入して吸収を妨げることができる、 と答えることができる。 以上のことを考えると、食べる前か後かというのは些細な差であり、 食前に体重計に乗るなら、食べる予定の食物(の吸収されるであろう分)も 同時に体重計に乗せるのが正しい量り方だということになる。 これは、一見して思われるほどにナンセンスな結論ではない (ダイエットをする上ではこのような量り方にも十分意味があるだろう) が、身体というものについてのわれわれの ナイーブな直観とこの結論との間に摩擦があることは否めないだろう。
行き先理論の考え方を押し進めるならば、排出のプロセスも問題になって こざるをえない。大腸から吸収された水分のあるものは、比較的速やかに 尿として体外に排出されるであろう。あるいは、同じく比較的速やかに 汗として排出されるかもしれない。そのような排出のされかたと、一度も 腸壁を通さずに肛門から排出されるされかたとの間には、形而上学的にいって ほんとうに大きな差があるのだろうか?(両者のプロセスが生物学的に 区別されることに異論を唱えるものはないだろうが、それが「身体」に ついての形而上学的理論の観点からいってどう見えるかがここで問題に なっているのである。)「最終的にどこにいきつくか」 という観点からすれば、結局体外に行き着いているのであり、身体の一部 にはならなかったと判定するのが妥当なのではなかろうか?
ここで、腸壁を通すか通さないかについて、どんな差が考えられるだろうか? 排出に至る時間的な差というのは一つ考えら得る。 直観的な言い方をすれば、そのまま肛門から排出される物質は 「速く流れて」いき、一旦腸壁を通した後腎臓をへて尿として排出される 物質は「少し遅く流れて」いくのである。(汗として排出されるものは 「もっと遅く流れて」いくことになるであろう。)しかし、そうした 速さ・遅さという時間的要素は、ある物質が身体の一部かどうかという 本質的な問題に関して、大きな違いといえるだろうか? あるいは、確率的な違いの要素を加味することもできるかもしれない。 腸から吸収された物質は、比較的簡単に排出されるかもしれないが、 体の器質的な構成要素の一部として使われることになるかもしれない。 一旦吸収されてから排出されるものとそもそも吸収されないものの間では この確率的プロセスを経ているかどうかの差がある。 しかし、この確率的な差が本質的なものかどうかはやはり疑わしい。 というのも、吸収されるかそのまま排出されるかの区別も、部分的には 確率の要素が入るからである(もちろん食べても吸収されえないものも あるが)。すでに胃袋の中に入った時点で、いや、先の議論を参照するなら 食べると決めた時点で、確率的プロセスは始まっているのである。 先に、「食事」を一旦「食物を消化器系空間に移す行為」と定義したが、 ここでの考察を加味するなら、食事とは「あるひとかたまりの食物が 排出されるものとされないものに確率的に振り分けられていく一連の プロセス」だと定義しなおされることになるだろう。
身体に関する基幹物質説が安定的な立場でないことは、すでに上の 定義をもってしても明らかだろう。身体を構成する物質はゆっくりと 新陳代謝しており、その大半について「結局排出されるもの」という 記述があてはまる。ただ、速く排出されるものと非常にゆっくり(何年も かけて)排出されるものの差があるだけのことである。そうしたものを まったく体重に含めないとすれば、確かに体重はとても軽くなるであろうが、 直観的な体重概念との齟齬はもはや無視できないものとなるであろう。 なによりその意味での体重は体重計で量るのが極めて困難である。
このように身体をプロセスとしてとらえた場合、体重とはいったい何なのか、 また、それを体重計でどうやって量ればよいのか? これは難問のように思われるが、身体がプロセスであるならば体重もまた プロセスの属性である。ある一時点における体重を特定しようとするのではなく 通時的なプロセスの値として体重を考えるなら、ある程度の見通しは立つ。 体重は、プロセスの属性として、日周変動や場合によってはもう少し長期的 な変動をあらわす一つのグラフとして表されることになるだろう。 つまり、その一つ一つの時点における値が体重なのではなく、どのような 状態でどのような値を取るかという組み合わせの全体が体重なのである。 体重を静的にとらえることをやめれば、内部か外部かという些細な問題に 煩わされることもない。外部から内部に取り入れられまた外部に出ていく その全体の変化を記述しさえすればよいのである。 「食前と食後ではどちらが正確な体重が量れるのか」などという問いは、 体重の概念そのものの誤解に基づくナンセンスな問いとなる。 この意味での体重を正確に記述するには一日中体重計に乗っておく必要が あるだろうし、食物も排泄物もプロセスの一部ととらえられる限りにおいて 体重の計測値に上乗せする必要があるだろう。しかし、形而上学的に満足の いく体重概念にもとづいた計測を行うということの意味を考えれば、そうした 犠牲は大した問題とは思われなくなるだろう。