現代功利主義は戦争の倫理性について何を言えるか
伊勢田哲治(名古屋大学)
戦争と倫理の関わりについては大きくわけて、戦争をはじめることの正当性をめぐる論争と、戦争の中で行うことが許される行為を巡る論争がある。この報告ではもっぱらR.M.ヘア、リチャード・ブラント、ピーター・シンガーらの議論を援用しつつ、戦争の倫理性の両方の側面について現代功利主義が具体的に何を言えるのかを考えたい。
まず正当化される戦争がありうるかという正戦論対パシフィズムの問題についての功利主義者たちの発言を見る。正戦論はある場合には戦争を行うことが倫理的に正当化されうるという立場であり、パシフィズムは戦争をはじめることはいかなる場合も正当化されないという立場である。功利主義の伝統からは、ベンサムの恒久平和実現のプランのような例外はあるものの、もっぱら正戦論に属する議論が展開されてきた。
現代の功利主義者ではヘアの議論が目立つ。テロリズムに関する70年代の論考では、ヘアはもっぱら普遍的指令主義の観点からパシフィズムに近い主張をしていた。しかし、その後、80年代中期になって、ヘアは愛国心の重要性を説くようになる。家族や国家への忠誠心はそれ自体では普遍化可能ではないが、そうしたメンタリティを一人一人が持ち、自衛のための戦争を支持することは功利主義的にも正当化される、とこの時期のヘアは言う。ヘアが具体的に念頭に置くのはフォークランド紛争である。
次に、戦争が一旦はじまったあとで許される行為、つまり戦争の規則の問題について功利主義がなにを言えるのかをみていこう。これについてはトマス・ネーゲルの議論に対するブラントとヘアの応答という形で功利主義側の態度表明がなされている。ネーゲルはある種の戦争の規則はなにがあっても守られなくてはならないという「絶対主義」を標榜し、帰結次第で規則違反を認める功利主義的立場を批判した。ただしネーゲルは功利主義的な配慮(と彼が考えるもの)がわれわれの道徳的直観に深く根ざしていることもみとめており、絶対主義的原則に従うことの帰結が悲惨である場合には満足な解決のないジレンマに陥ることがありうる、という観察をしている。
このネーゲルの論文に対し、ブラントから規則功利主義的な反論が、ヘアから行為功利主義的な反論がなされている。両者は、ネーゲルが考えるような「絶対的」規則が功利主義から導きだせると考える点で一致しており、その方策もまたいわゆる二レベルの思考法を採用する、という点で同じである。ただし、両者の立場の差を反映して、ブラントが例外をみとめず当てはめられるような戦争の規則が功利主義から導けると論じるのに対し、ヘアは深刻なジレンマが生じている場合には乗り越えられるような規則として戦争の規則をとらえる。
ブラントは規則功利主義が選ぶはずの基準として、おおむね、ある作戦行動によってその国が得る戦争上の利益が、その作戦が交戦中の両国に与える損害よりも大きければその作戦を実行することが認められる、という基準を挙げている。現実への適用としては、ピーター・シンガーがイラク戦争開始直後に発表したエッセイでアメリカの政策を批判するためにブラントと似た基準を使っている。
以上のような既存の議論をふまえると、功利主義から戦争について何が言えるのだろうか。まず、正戦論の文脈と戦争の規則の文脈を厳格に区別する功利主義的な理由は存在するだろうか。また、功利主義の立場からは、戦争の開始が正当化されることはいかなる場合にもないと主張することは難しいと思われるが、では具体的にはどこに線が引かれるのか。ヘアとシンガーではかなり態度に差があるように思われるが、両者の差は理論的な差なのか、それとも単なる事実認識の差なのだろうか。本報告では以上のような問題について考察していきたい。