松本三和夫『知の失敗と社会 科学技術はなぜ社会にとって問題か』岩波書店
評者 伊勢田哲治(名古屋大学)
本書は豊富な事例に基づき、科学・技術・社会の境界で起きる問題の処理の仕方について具体的な提案を行う、非常に示唆に富む本である。ただ、議論の細部にはいろいろな問題があるように思われる。以下、本書の全体の要約をまず行い、そのあといくつかの点について批判していく。
まず、本書の主な議論を章を追って紹介していこう。第一章では、著者の主な関心対象である「知の失敗」の概念が「構造災」の概念と共に導入される。科学、技術、社会の境界で起きる問題の中には、天災とも人災とも言えないタイプの問題が存在する。それは、問題をきちんと把握して対処するための社会的構造がないために起きる災害で、これが著者の言う「構造災」である(p.25)。構造災の例として挙げられるのは19世紀イギリスのボイラ爆発事故で、当時はそれを「不慮の死」として扱うことしかできなかったために問題の存在そのものが見えなくなっていた。このような構造災による継続的な不利益や、それが臨界に達することで生じる取り返しのつかない結果などのことを、著者は「知の失敗」と呼ぶ(p.26)。知の失敗を避けるための一つの手法として著者は「逆伝達の原則」(p.26)を挙げる。これは、ある問題が生じて影響を受ける人の実態を問題規定者にフィードバックすることであり、構造災の場合には、ステロタイプな見方を反証するような事実を明るみに出すことを意味する。著者は以上のような概念を、日本の宇宙開発事業における失敗を例にとり、具体的に説明している。著者はまた、リスク分析を例にとり、科学では答えの出ない不確実な部分について社会に問題を開放して解決策をさぐる、「開放型の指針」(p.50)を提案する。
第二章では、科学、技術、社会の境界で起きる出来事について共通理解を作っていくためにどうしたらよいかという問題がとりあげられている。著者がまず提起するのは、ある問題について、軍・官・産・学・民の五つのセクターの理解の仕方を比較し、そこから合意形成過程を経て共通理解が成立するというモデルである(pp.69-72)。そして、実際のところどういう相違が存在するかを調べるため、著者は、官・産・学・民それぞれの立場での科学技術に対する言及をインターネット上から収集し、「STSマトリックス」という図式にあてはめて言説分析を行う。著者はこの調査からいろいろな結論を引き出しているが、その中心となるのは、これらのセクターを横断して、科学技術決定論的な考え方と社会決定論的な考え方がほぼ同じ比率で現れているという観察である(pp.79-80)。そうした一様な判断構造では著者が考えるような合意形成過程は成立しない、という危惧を抱いた著者は、多様な判断構造を可能にするためのSTS相互作用という概念を導入する。これは、科学、先端技術、商用技術、社会、環境がそれぞれに相互作用するモデルである(pp.99-100)。
第三章は、STS相互作用の概念をOTEC(海洋温度差発電)開発の歴史にあてはめた分析である。簡単に説明すると、当初サンシャイン計画で推進されたOTECはフロンを媒体としたクローズドサイクルだったが、これは実用に至らなかった。その後一時OTECは忘れられたようになっていたが、現在、海洋水を用いたオープンサイクルのOTECが注目を集め始めている。この事例から著者が引き出す観察の一つは、光(成功・注目)が影(失敗・無視)に転じる場合と、影が光に転じる場合で関わってくる不確かさの性質が違うという点である。
第四章は、知の失敗の克服のための学際研究はどうあるべきかという問題を論じている。学際研究はうまくいけばお互いの力を相乗して相互豊穣化につながるが、お互いの短所を相乗して相互不毛化が起きる可能性もある。それを避けるために著者が提案するのが負の自己言及、すなわち「めざす知のあり方と現実のクロスオーバーとの隔たりにあえて自己言及する営み」(p.160)である。こうした観点から、著者は、ブルア、ラトゥール、フラー、ジャザノフといった代表的なSTSの論客の発言を分析し、どの程度の負の自己言及があるかを吟味している。著者によれば、「エリート路線」をすすむブルアやラトゥールからはそもそも負の自己言及を見いだすことができず、「大衆路線」のフラーやジャザノフは、STSの現状に負の自己言及をすることでエリート路線からは差別化に成功しているものの、自分自身の「社会認識論」や「規制科学」の営みについての負の自己言及は欠いている。彼らに共通して欠けているのは、著者によれば、専門家と非専門家の関係が現状でうまくいっていないという問題意識である。著者は専門家を「特定の事柄について見かけと中味の区別を可能にするような知恵」を身につけた人と定義する(p.208)。この意味での専門家を見分けるために負の自己言及が重要になってくる。著者はここでふたたび、専門知を駆使しても残る不確実な部分について専門家は非専門家と共同で問題解決にあたるべきだという「開放型の指針」の重要性を強調する。また、非専門家の側も専門家の知の品質劣化に苦情を言えるようにならなくてはならない(よき非専門家の条件)。
最後の第五章では、以上の議論をふまえ、知の失敗を回避するための提言、著者の言うところの「自己言及・自己組織型の提言」が提示される。この提言は、文人・知識人など「批判者」タイプの人々の重要性を強調する点でテクノクラシーから距離をとる。また、著者はまた、既存のコンセンサス会議が専門家というものの多様性に無自覚であるために単なる利益誘導に陥る危険性を指摘し、そうしたテクノ・マスデモクラシーとも距離を取る。著者が提案するのは、(1)負の自己言及を予算配分のシステムに組み込むこと、(2)既存の学会と別に既存分野突破型研究者集団に学会と同様の認知と権益を与えること、(3)コンセンサス会議を専門家・非専門家双方の面でもっと開かれた場にし、さまざまな立場からの検討が可能になるようにすること、(4)著者が「じわり型」と呼ぶ、大災害に直接つながらない問題について、機微にかかわる資料を公開する機微資料公文書館を設置することなどである。
さて、以上のように、著者の主張は多岐にわたるが、その核心となる理念は、自己検討を怠らない知的誠実さと、さまざまな形の情報公開に基づく広範囲な合意形成の二点だと思われる。こうした理念自体の重要性については誰もが同意するであろう。しかしながら、著者の議論は細部で多くの概念的混乱や問題を抱えているように見受けられ、各論で著者に同意するにはまずそうした問題の解決が望まれる。以下、大きく三点についてコメントする。
1.リスク論批判をめぐって
まず、著者のリスク論批判についていくつかコメントしよう。著者は、社会がかかわってくる問題について、科学だけで処理しきれない不確実性を非専門家を交えた意思決定で処理しようと提案するが、これにはわたしも賛成である。ただし、科学で処理しきれない不確実性にもいろいろなものがあり、ものによっては専門家にまかせた方がよいということは指摘しておくべきだろう。たとえば、予測値に大きなばらつきがあり、安全策をとるかもっとも信頼できる数値を選ぶかで悩むような場合には、その決定で影響をうける人々の視点を取り入れるのは重要である(し、これはリスク論を擁護する人々も認めるところである)。しかし、ある仮説がどの程度確からしいか(証拠がどの程度その理論を支持しているか)という意味での不確実性については、むしろ専門家の判断が重視されるべきだろう。
また、リスク論批判の一つの大きなポイントとして、著者は科学・技術・社会が関わる問題に確率計算を当てはめること自体も批判しており、これについては少し反論させてもらいたい。著者は「要素事象の集まりによって全事象が尽くせる」ということが「確率論の前提」だと言う(p.47)。しかし、この前提は、「既に知られている要素事象」といった限定をつけない限り、単なるトートロジーである。それ以上に、全事象における特定の種類の要素事象の比率、というのは確率論の解釈の一つであって、確率論そのものは単なる数学的公理系である。実際、確率概念のもう一つの重要な解釈としてベイズ主義の「主観的確率」の概念があり、この場合知識の不確かさも確率に換算して計算に組み込まれる。仮に主観的確率を認めないとしても、既に知られている要素事象とまだ知られていない要素事象の比率を見積もることができれば、著者が考える意味での確率計算も可能である。もちろん著者が指摘するように見積もりの不確かさに伴う問題はあるが、その問題と、そもそも確率計算が適用できないというのとでは全然違う問題であろう。
さらに後の方で著者は複数の選択肢の間の背反性・独立性が確率計算の前提となる、と言う(p.134)が、そもそも背反性や独立性は確率論の内部で定義される概念であり、その前提となる公理ではない。もちろん背反性や独立性を満たさない選択肢間の確率計算は複雑になるが、確率計算で扱えないというのとはこれもまた全然別の話である。
2.STSマトリックスとSTS相互作用をめぐって
次に、著者が第二章で行う調査についてコメントする。著者がここで使うSTSマトリックスなる分析図式には非常に疑問がある。マトリックスの第一の項目は科学技術を善と見るか悪と見るかの対比だが、この対比を重視するのは第一章での著者の議論とうまくかみあっていないのではないか。第一章で、著者は、「科学技術善用論--悪用論」が科学技術と社会の関係をめぐる言説において広く見られることを指摘する。この立場は、「科学技術とはいかなる目標に対しても中立であり、それが人間と社会に利益をもたらすか不利益をもたらすかは・・・その使い方に依存するという考え方」(p.11)と定義される。もし第一章での著者の分析が正しければ、科学技術がある文脈で善用されていると見るか悪用されているかの差は科学技術観の差として重要ではないはずである。むしろ重要なのは、「科学技術は中立だが善用・悪用されている」という立場と、「科学技術は本質的に善・悪である」という立場の間の対比ということになろう。この対比は著者のSTSマトリックスではおよそ捉えることができない。つまり、著者は、せっかく自分が第一章で示した洞察を自分自身でないがしろにしていることになる。
実のところ、「善用論--悪用論」をめぐる概念的混乱は第一章の中にもみられる。著者はこの立場の例としてバナールの「科学の発展がほぼそのまま人類の福祉の向上につながる」(p.14、強調は評者による)という(善用論側の)立場を挙げている。しかし、バナールが著者のまとめのとおり「使い方」にかかわらず科学を人類の福祉の向上と結びつけているのなら、これは技術善用論--悪用論の上述の定義とはむしろ対立する考え方のはずである。
STSマトリックスにおける次の対比項目は科学技術決定論と社会決定論だが、これにまつわる議論も奇妙な点が多い。著者は、科学技術が原因・手段となり社会が結果・目的となる言説を科学技術決定論、社会が原因や手段となり、科学技術が結果や目的となる言説を社会決定論と定義している(p.77)。額面通りみるならば、これは社会と科学技術の関係についての事実言明を指していると見るべきであろうし、著者の挙げる例の多くもそうなっている。しかし、具体的な分析の内容を読んでいくと、著者は科学の発展を規制「しなければならない」という規範的な言説も社会決定論に含めてしまっている(p.92)。本書の後の方で著者はジャザノフの規制科学の概念が記述的概念か規範的概念かはっきりしない、と批判しているが(p.196)、同じ批判がここで著者自身に当てはまってしまうだろう。そんないい加減な概念を使って「判断構造の一様性」を導き出しても何の説得力もない。もう一点、言説分析の文脈では、「科学技術の振興」は社会決定論を示唆するとされる(p.77)が、科学技術政策において科学技術決定論と社会決定論が循環論の構造を持つという文脈(p.91)では科学技術の振興というのはむしろ科学技術決定論の立場とされ、社会決定論は特定の社会的インフラストラクチャーの構築が必要だという立場だとされてしまう。これも分析の枠組み自体にかかわる問題で、もっと整理する必要がある。
この「循環論」なるものについての議論も、奇妙である。著者が挙げる例(pp.94-96)は、確かに一種の悪循環(豊かでないと基礎研究に資金を投入できず、基礎研究が発展しないと豊かにならない)を指摘したものと読むこともできるが、そうした悪循環の存在を指摘することは「議論が循環している」(p.96)のとはまったく違う。著者がいったいこの「循環論」の何を問題視しているのかよくわからない。
調査の結果の解釈にも問題がある。すでに述べたように、著者は科学技術決定論と社会決定論がある一定の比率で共存するというパターンが官・学・産・民の四つのセクターに共通してみられ、そのために、各セクターの異なる理解から共通理解を作る71ページのモデルがうまくはたらいていない、という議論をする(p.86)。しかし、もしも本当にこれらのセクターで科学技術の理解の仕方が一様なのであれば修正されるべきなのは著者が頭の中で考えたモデルの方であるが、著者はこれをむしろ社会の側の問題ととらえている。著者はこう判断する理由として多面的理解の必要性という論点を出しているが、そもそも71ページのモデルは合意形成が難しいことに対処するために出されたモデルだったはずで、ここで論点のすり替えが行われている。
著者のSTS相互作用についての提案も奇妙である。まず、科学技術決定論と社会決定論が(著者が定義するように)それぞれ科学技術と社会の相互の因果関係についての(互いに逆向きの)判断であるならば、ふたつを組み合わせれば、科学技術と社会が相互に原因となりあっている、つまり科学技術と社会の間に相互作用がある、というモデルができるはずである。だとすると、著者がこの二つの組み合わせに対する対案として提示するSTS相互作用は、実は対案でもなんでもないことになりはしないだろうか。さらに、著者は、STS相互作用という考え方を一様な判断構造を崩すための枠組みとして導入する(pp. 96-97)わけだが、もしすべてのセクターでSTS相互作用という考え方が受け入れられるなら、それこそ判断構造が一様化してしまうのではないか。もちろん著者は相互作用の中味がいろいろなセクターの立場からみると多様なのだ、と言いたいのであろうが、だとしたら同じ議論が科学技術決定論と社会決定論という判断構造にもあてはまるはずである。実際この調査結果をもとに判断構造が一様だと結論するのは無理があるだろう。
3.負の自己言及をめぐって
最後に、負の自己言及を巡る議論について問題と思われる点をいくつか指摘する。まず、著者は科学戦争(Science Wars)と呼ばれるできごとの中でブルアとラトゥールが交わすやりとりの中に負の自己言及をさがし、まったく見つからない、と報告する。しかし、負の自己言及を、他人から攻撃されているその場において探そうというのは無茶ではないのか。STSに対する攻撃に答えたり、あるいはSTS内部での対立する学派を批判したりという文脈では、自分の立場への負の言及は相手方が十二分にやってくれるわけであるから、もっぱら自己擁護を行うのは論争の作法としても理にかなっている。逆に、負の自己言及が現れやすい文脈としては、レビュー論文など、内部向けの総説的な発言が考えられるだろう。著者はまた、フラーが科学哲学に対して鋭く批判をすることを高く評価しているが、これはこれで妙である。フラーはすでに科学哲学の本流からかなり距離をおいており、科学哲学本流への批判は、フラーにとって「自己言及」とは言えない。要するに、負の自己言及に関する著者の実態調査は的はずれな調べかたをしているように思われる。
さらに言えば、これは、調査の仕方が的はずれであるという以上に、著者が学術研究という営みの重要な性質をとらえそこなっていることを意味しているかもしれない。デビッド・ハルは、科学が小さな研究グループ間の相互抗争という形で営まれ、それぞれのグループが相手のグループの結果を反証しようとすることで全体として科学が前進する、というイメージを提示した。もしハルの分析が正しく、しかも科学論や哲学にも拡張できるものであるなら、学術研究における質保証は著者の考える負の自己言及とはまったく違う回路で行われていることになる。そして、ブルア、ラトゥール、フラーらの言説は、この観点から見ればまさに分野の質保証に寄与するような言説だということになる。著者は科学の質保証のあり方についてあまりに一元的すぎるのではないか。
また、自己反省・自己評価の重要性を認めるとしても、それが著者の考えるスタイル、すなわち何か固定的な「目指す知のあり方」を設定してそれと比較するというスタイルを取る必要は必ずしもないのではないか。この種の自己評価は、目標を立てて達成度を測るようなタイプの仕事には適しているかもしれないが、進む方向は分かっていても目的地のはっきりしないタイプの仕事には不向きであろう。そして学術的な研究には多かれ少なかれそういう側面がある。もちろん、著者は、研究内容自体についての負の自己言及をもとめているのではなく、クロスオーバーのあり方についての負の自己言及を求めているのだ、と言うであろう。しかし、社会認識論などは、まさにどういうクロスオーバーのあり方がよいのか、ということを研究内容の一つにしている分野である。そういう分野において目指すクロスオーバーのあり方が最初から設定されていたのでは、研究自体が八百長だと思われてもしかたないであろう。
実のところ、著者自身も負の自己言及ができているようには見えない。著者はフラーが母分野である科学哲学を批判していることを評価するかたわら、フラー自身の社会認識論について負の自己言及ができていないことを欠点として指摘し、社会認識論の登場を「長大な受難の果てに救済された世界が立ち現れるといった聖書の語りを彷彿とさせる」(p. 183)と言っている。しかし著者は、自分自身の提言がまったく同じ構造を持っていることに気づいているだろうか?すなわち、著者は、既存のSTSやコンセンサス会議の取り組みなどを批判した果てに、自己言及・自己組織型の提言を提示しているが、この著者自身の立場についての負の自己言及は欠落している。
以上、評者の目に付いた問題点のいくつかを指摘した。他にもコメントしたい項目はあるが、スペースの関係でとりあげることができなかった。繰り返しになるが、本書は興味深い事例を使って具体的な提言に踏み込んだという点で評価できる本である。だからこそ、ここで指摘したような問題を精算して、より明晰な形で著者の議論が提示されることを切に望む。