感傷性の倫理学的位置づけ

(『社会哲学研究資料集III』、[「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究」研究成果報告書、2004年] 所収)

伊勢田哲治(名古屋大学)


倫理学的議論が現実の問題に適用されるとき、「感情的議論」によって反論されることがよくある。代表的なのは中絶反対論者が使う胎児の写真であろう。外見上幼児とほとんど変わらない胎児の写真はわれわれに強い感情的反応を引き起こし、そうした写真を前に中絶賛成を主張するには心理的抵抗が生じる。もう一つ感情的議論が問題になるのは動物愛護運動であろう。動物実験に反対する運動の中で、愛玩動物を実験に使うのは「かわいそう」だという主張が頻繁につかわれ、外見的にそうした感情を引き起こすような写真(電極を繋がれたイヌやサル)が利用される。もちろんどちらの場合においても哲学的な原理に基づいた議論も援用されるが、現実の論争で、人々が中絶反対や動物実験反対という結論に達する上で、哲学的議論と感情的議論のどちらのウェイトが大きいかといえば、感情的議論の方が威力を持っているのではないだろうか。

そうした状況は倫理学的にみてどう分析されるべきだろうか。倫理的な論争からはそうした感情は追放されるべきなのだろうか。それとも感情的議論は倫理的論争において一定の正当な位置を持つのだろうか。英米系哲学においてこの問題を正面からあつかった文献は非常に少ない。この問題について論じる数少ない論文の大半は、感情的議論を「感傷的」(センチメンタル)だとして却下するものである。しかし、中には感傷的であることは別に問題ではないと論じる論者もいる。本稿は、以上のような「感傷性」(センチメンタリティ)についてあつかった諸論文のサーベイを主な目的とする。


1 感傷性への美学的批判

最初に紹介するのは、現代英米哲学における感傷性の議論の出発点としてしばしば引用される、マイケル・タナーの「感傷性」という論文である(Tanner 1977)。ただし、この論文自体は、どちらかといえば美学のコンテクストにおいて感傷性を論じており、しかもその議論の多くは先行する二つの論考に依拠するため、それら先行文献の方からまず見ていこう。

タナーが感傷性の分析の「古典」としてまず引用するのは、オスカー・ワイルドのアルフレッド・ダグラス卿にあてた1897年の書簡である(Wilde 1962) 。この書簡のなかでワイルドは感傷主義者(センチメンタリスト)についていくつかの短いコメントを行っている。まず、感傷主義者とは、「ある感情をもつことを願いながらそれに対して支払いを行わない」(who desire to have the luxury of an emotion without paying for it)者のことである(501)。文脈を簡単に説明すると、ダグラス卿はワイルドに対して金の無心をするのだが、母親に出してもらえというワイルドに対し、「母には母に見合った余裕のある暮らしをしてほしい」という理由をあげ、ワイルドはこれに対して彼が感傷主義者だと批判しているのである。ワイルドが「ある感情に対して支払いを行わない」というフレーズで言おうとしている具体的内容は、もし母親に楽をしてほしいという感情が本当なら、ほかの人間(ワイルド)に無心をするのではなく自活する道を探るべきだ、ということである。ワイルドはまた、同じ書簡の中で、「感傷主義者は本心ではシニカルであり、感傷主義は実はシニシズムの銀行休業日にすぎない」とも述べている(ibid.)。ただ、感傷主義とシニシズムがなぜ密接な関係を持つと考えるのかについてワイルドは何も述べていない。

もう一つ、タナーが古典として言及するのはある種の詩を感傷的だとして非難する際にリチャーズが使う分析である(Richards 1929)。リチャーズは「感傷的」という言葉が非難の言葉として使われる際には少なくとも三つの別の意味があるという。第一に、あるもの度をすぎた(excessive)感情を持つことは「感傷的」と呼ばれる。小説を読んで泣くのが感傷的だというのはこの意味である。次に、感情が粗野である(crude)ことも「感傷的」と呼ばれる。もう少し詳しくいえば、感情のパターンが乏しく、あるものの表層の特徴だけで感情のパターンが決まってしまうタイプの人がこの意味で感傷的な人として避難される。逆に、事物の複雑さに対応して、複雑な感情を持つことのできる人は感傷的ではない。第三に、現実の状況と対応していない不適切な(inappropriate)感情を持つことも「感傷的」として非難される。継続的な感情は、継続的であるがゆえに、対象が変化したのに感情は変わらなかったり、対象はもとのままなのに感情が変化したりして、その対象に関して不適切なものとなりうる。前者の例としてリチャーズが挙げるのは、小学校の校長先生に対する畏敬が、大人になって相手が大した人物でないことが分かっても継続するという場合である。後者の例としては、ある戦争を嫌っていた人が戦後何年もたってその戦争に肯定的になったり、実際には辛いことが多かった学生時代が、あとから非常によい時期だったと思い返されたりする例である。こうした感情も、「不適切」という言葉が示唆するように、非難の対象となる。ある詩が感傷的だといって非難されるのは、以上のような感情を表現している、ないし引き起こす場合である。

以上のような分析をベースに、タナーは感傷性とは何かについての自らの分析を展開していく。タナーによる感傷性の特徴付けは以下の四つの項目にまとめられる(Tanner 1977, 140)。(1)刺激に対して非常に容易に反応する(2)苦痛のように見えても実はそれを楽しんでいる(3)様々な異なった刺激に対して同様に即座に反応し、ある感情から次の感情へとすぐに移っていく(4)その反応の後で適切な行為をとらない、ないし適切に行為したとしてもそれは偶然的である。

以下、この四つについて簡単に補足説明をする。(1)はリチャーズの第一の意味での感傷性に由来する。簡単にひき起こせるということは、「安っぽい」感情だということでもある。(2)はワイルドのいう「支払いを行わない」という特徴づけの分析から出てきたものである。タナーは「支払い」を「行為」と一般的に読み替えることを提案する。すなわち、感傷的な人とは、ある感情が本気のものならば当然取るべき行動をとらない人である(これが(4)の分析の一部となっている)。行為につながらない感情を人々が持ちたがるのは、その感情そのものを楽しむためにほかならない。感傷的な感情の例として「報われない愛」が挙げられるが、人々がこの感情に耽溺するのは、一見苦痛のようにみえて、実はこの感情を楽しんでいるからにほかならない。(3)はワイルドのいう「シニシズム」、リチャーズの言う第二の意味と関わる分析である。感傷的と呼ばれる感情は非常に表層的である。ある刺激によって簡単にその感情がひき起こせるということは、別の刺激が与えられれば簡単に別の感情に移ってしまう(たった今まで泣いていたのに次の瞬間には大笑いしているというような)ということである。これはそのままではシニシズム(タナーの定義によれば、人間を浅薄で、操作可能で、単純に分類できる存在とみなすこと)ではないが、なぜ感傷主義者がより複雑で深い感情を発展させようとしないかといえば、人間を浅薄なものととらえているからであろう。この意味で、感傷主義者はシニカルだというのは的を射ているというのがタナーの考えである。

(4)について言えば、感傷的な人々は感情そのものを目的としているために、それ以上の行動をとらない傾向がある。そういう傾向が促進される一つの原因としては、リチャーズが第三の意味において挙げるようなさまざまな理由によって感情と感情の対象の関係が歪んでしまい、対象と感情が切り離されてしまうことが挙げられる。ここで、感傷性の一つの特徴として、「不誠実」ないし「自己欺瞞」という要素が加わってくる。ただし、感傷的な感情は必ずしも対象を持つとは限らない。ある種の音楽はある特定の種類の甘い感情を引き起こし、そうした感情はなんら特定の対象を持たないように思われる。そうした事例を解釈する上での一つの可能性としては、対象をもち感傷的だと判断される感情とそうした感情が内容的に類似しているために拡大解釈されるのだという見方もできる。

(4)の分析に反して、確かに「感傷主義者」と呼ばれる人の中には、自分の感情にもとづいて行動する人たちもいる。彼らに関しては、最初の三つの条件だけで感傷主義者というラベルが貼られていることになる。しかし、タナーは、両者の違いはその感情に耽溺するために能動的な役割と受動的な役割のどちらが便利かという差にすぎず、感情に流され、感情に耽溺しているという意味ではどちらも大して変わらない、と分析する。

さて、以上のような意味での感傷性はなぜいけないのだろうか。実はタナーはこの点についてほとんど触れない。感傷主義者は行動をしないという批判は少なくとも一部の感傷主義者にはあてはまらないことをタナーも認めている。おそらくポイントとなるのは感情の複雑さに内在的な価値が存在するという考え方であろう。実際、タナーは、感傷的な感情と対比して複雑な感情について語る際、「持つに値する感情」(feelings which are worth having) (143) といった表現をしている。このあたりがタナーの価値判断の根拠となっているのであろう。タナーは、また、感傷性に対する処方についても簡単に触れている。彼によれば、感情を持たなくなることが理想なのではなく、感情に関する教育やしつけを通して、感情を恐れずにすむようになることが理想的な解決である(135)。


2 象徴重視としての感傷性批判

ジョエル・ファインバーグの「感情と感傷性」はタナーが始めた感傷性に関する議論を倫理学の文脈に移す試みとして理解できる (Feinberg 1982)。ファインバーグの問題意識は本稿の冒頭にあげた問題意識と非常に近い。すなわち、中絶、死刑、臓器移植、動物実験などのさまざまな問題を通じてわれわれのセンチメントに訴える「議論」がよく見られるが、はたしてそうしたセンチメントは道徳的適切性(moral relevance)を持つのだろうか、というのがファインバーグのたてる問いである。ここで例として挙げられるのは道徳判断の材料としての人々の持つ感情(死刑問題における被害者感情、臓器移植における遺族の遺体に対する感情など)であるが、そうした感情が行為の善悪の判断にどう関わってくるのか、というのがファインバーグの問題である。

倫理学でまず問題になるのは嫌悪感などの否定的な感情である。たとえば「死体観賞会のお知らせ」という掲示が出され、誰かが死体の観賞会をしていると知ることで人々は嫌悪をもよおすだろうが、その嫌悪感は死体の観賞会が道徳的に悪いと考える根拠になるだろうか(この悪趣味な事例の元ねたはカート・バイアーだとのことであるFeinberg 1982, 23)。これは、法哲学ではoffence principleをめぐって論じられてきた問題である。

こういう場面で、感情と道徳判断の関係には三つのパターンが考えられる(23-25)。まず、他人の感情に与える影響が、ある行為が道徳的に悪いと判断するための基準(criterion)になるという考え方がある。つまり、死体観賞会はまさに人々に嫌悪感を引き起こすからこそ悪いのだ、という考え方である。しかし、そうした嫌悪感が道徳的な悪さの根拠となるのは、むしろ、その嫌悪感自体がある種の道徳判断に基づいているからだろう。第二の考え方としては、嫌悪感は、ある行為が道徳的に悪いかどうかを判断するためのテスト(test)として利用できるかもしれない。つまり、死体観賞会が悪いと判断する基準は別にあるが、この行為がその基準を満たしているかどうか簡単に判断するための材料として人々の嫌悪感が利用される、という考え方である。しかし、そうした感情がリトマス試験紙としてどの程度信頼がおけるかには疑問がある。第三に、そうした感情は、ある人がある道徳判断を下す上で原因(cause)となっている、という見方もできる。つまり、ある人の死体観賞会に対する嫌悪感が、その人の死体観賞会への否定的な道徳判断の原因になっている、というわけである。この種の関係も良い場合もあれば悪い場合もある。爆撃機のパイロットが爆撃の結果生じた惨状についてよく知ることで自分の行為を悔いる、というような場合にはうまくいっていると考えられるし、デマゴーグが民衆の感情に付け込んで扇動するというような場合は悪い例だと考えられる。

以上の三つのどの路線をとるにしても、結局どういう種類の感情がかかわっているのか、ということが重要になってくる。そして、悪いタイプの感情の典型例が「感傷性」だ、とファインバーグは考える。

感情が非難されるのには二つのパターンがありうる(26)。一つはその感情の起源によって非難される場合であり、もう一つはその感情の内容によって非難されるばあいである。後者は音楽が感傷的だといって非難されるような場合を想定しているが、タナーと違い、ファインバーグはその種の非難がどうしたら可能なのか素人にはよく分からない、といって判断を保留する。起源による非難にもいくつかのパターンがあり、その感情が人為的だ(contrived)とか、不誠実だ(dishonest)とか安っぽい(cheap)とかといった批判があびせられる。感傷主義者への非難はこれらのすべてを含んでいる。

感傷主義者とは、ファインバーグの定義によれば、「自らの感情を意図的に増幅させる人」(persons who deliberately cultivate their sentiments)である(26)。ここでファインバーグはタナーが(2)の特徴に関して行った議論(特に「報われない愛」に関する議論)を援用する。もちろん、感傷に耽ったからといって即座に非難されるわけではない(「墓参り」も故人への気持ちを増幅させるという意味でこの定義を満たすがふつうは非難の対象にはならない)が、感傷主義者は度を過ぎて感傷に耽る人々である(つまり、リチャーズの第一の意味やタナーの(1)にあたる基準もファインバーグは採用している)。

感傷主義者の感情は上に挙げたような基準で批判できる(27-28)。感情を意図的に増幅することは人為的である。そして、本当は悲しくもないのに意図的に感情を増幅させるのは不誠実である。そうした感情に耽ることで自分自身本当に悲しんでいるように感じるなら、それは自己欺瞞でもある。また、そのようにして増幅される感情はステロタイプなものにしかならず、安っぽい。そうした安っぽい感情をモデルとして人間を理解するとすれば、それはワイルドが言うようにシニシズムに陥ることになる。そうした安っぽい感傷とシニシズムの結合は、たとえば事故死した人の近親者が悲しんでいるように見えながら死者の臓器を売ろうとするような行為の中にあらわれる。われわれがこうした感情に対して批判的になるのは、「誠実なセンチメントを偽善的まがい物の流通から保護することが我々にとって大事だと感じているから」(we sense that we have a stake in preserving the integrity of honest sentiments from the circulation of hypocritical counterfeits)ではないか、とファインバーグは推測する(28)。

ファインバーグはまた、タナーの(4)にあたる分析もより洗練した形にあらためる(28-30)。感傷性とその感情の対象の間の不一致はしばしば批判される。これは双方向的である。まず、対象についての歪曲された信念から引き起こされる不適切な感情は感傷的だとして批判される。死者が土のなかで寒さや虫に食べられることで苦しんでいるだろうと想像して同情するのはこのタイプの感傷性である。逆に、感傷的な感情が対象についての信念を歪曲する場合もある。ノスタルジーから戦争を美化して悲惨な部分を忘れてしまったり、子供達に対する感情から子供は完璧な天使だと考えたりするのはこの種の感傷の例である。

最後に、もう一つ別の類型として、感情そのものとしては特に歪曲を伴わない感情でも、その感情に基づいて不適切な行為をしてしまうことが感傷的だといって非難されることもある。この例としてファインバーグが挙げるのは永年着続けたTシャツに愛着を持つあまり公式の場にまでそのTシャツを着ていって失笑を買うといった例である。これは、もう少し一般化すると、「単に象徴でしかないものに過剰に反応することで自分や他人の本来の利益を損なってしまうこと」(excessive responses to mere symbols at great cost to genuine interests, one's own or others') だと見ることができる(30)。

ファインバーグの考えでは、感傷性のこの最後の類型こそが、倫理的な文脈で問題を起こす感傷性である。たとえば胎児は人間性の象徴であり、死体はその体を持っていた人の象徴として働く。ファインバーグはそうした象徴へのセンチメントを優先して現実の人間の利害を犠牲にするのは本末転倒だと考える。ファインバーグは功利主義には全体としては反対だが、この点では功利主義者を支持する(31-32)。

もう少し具体的に、ファインバーグが感傷主義者として非難するのは、死体へのセンチメントを根拠に臓器移植に反対する議論である。たとえば、ウィリアム・メイはそうした議論の中で以下のような原則をかかげる(May 1972) 。「自然で誠実な人間のセンチメントを弱めたり失わせたりすることにつながるものはなんであれ悪いものである」。そして、日常的に臓器移植を行うことは死体への自然なセンチメントを失わせるので問題がある、というのがメイの議論である。ファインバーグは自然なセンチメントを持つ能力の重要性、特に安っぽいまがいものの感傷に陥ってしまわないことの重要性についてはメイに同意する(38)。しかし、場合によっては自然なセンチメントを制御する能力を身につけることも大事だし、可能なのではないか、とファインバーグは反論する。臓器移植のような重大な利害がからむ問題で要求されるのは、この「制御」の能力である。

ファインバーグはまた、メイの原則の規則功利主義的バージョンも考察の対象とする(ただし、メイ自身はこのバージョンでの議論はしていない。Feinberg 1982, 40-41)。「社会的に有益な人間のセンチメントを弱めたり失わせたりすることにつながるものはなんであれ悪いものである」。死体の扱いに関して言えば、死体に対する尊敬の念が薄れることで人間の行動が残忍化(brutalize)したりといったネガティブな効果が生じる、という議論になる。ファインバーグはこの原則そのものには反論しないが、中絶や臓器移植といった行為が本当に人間を残忍にさせ社会的に困った効果を引き起こすかどうかには懐疑的である。

まとめると、ファインバーグは感傷性を少なくとも三つのタイプに分けている。一つは「まがいものの感情」を持つタイプ、二つめは歪んだ現実認識と結びつくタイプ、そして三つめは象徴的なものへの感情を現実的な利害よりも優先させるタイプである。ファインバーグは第三のものに対しては功利主義的な立場から批判をおこない、第一のものに対しては「本物の感情」を保護することが大事なのではないか、という示唆を行っている。ただし、後者についてはなぜ本物の感情が大事なのかについて特にそれ以上の正当化を行ってはいない。


3 現実への対処からの批判

次に、ミッジレーとジェファーソンが帰結主義的な観点から行う批判を見てみよう。両者の議論は感傷性が現実にうまく対処できなくさせるという点で一致するが、対処できないことの中身において若干差がある。

マリー・ミッジレーは「残忍さと感傷性」の中で、感傷性の問題を動物権運動の文脈でとらえなおす(Midgley 1979)。冒頭で見たように、動物愛護運動に対しては感傷的だという批判がしばしばなされる。特にミッジレーが反発するのは、動物に感情があると考えて同情するのは擬人化に過ぎないというタイプの批判である。

ミッジレーは感傷性を「ある感情に耽溺するために現実を歪曲すること」(to misrepresent the world in order to indulge our feelings)と定義する。この意味での感傷性が問題だということについてミッジレーは反対しない。歪曲された世界観は現実に対処する能力を失わせる可能性がある。たとえば、ディケンズの小説で描かれるような少女のイメージを受け入れると、現実の少女に対処できなくなってしまう。

しかし、ミッジレーはここで興味深い指摘を行う。感傷として批判される感情は甘い感情(softer feelings)であることがほとんどだが、ある感情に耽溺するために現実を歪曲するという意味ではがさつな感情(harsher feelings)もその対象となりうる(385)。そのよい例がスリラーによって引き起こされる残忍な感情である。ふつうこうした感情は感傷的だとは言われないが、現実を歪曲し適切に対処できなくしているという意味では同様に非難されるべきである。

さて、感傷性に対する批判がこのようなものであるとすると、動物愛護運動が感傷的だという非難は以下の二つの前提に依拠することになる(386)。(1)動物が感情を持つという想定は偽である(2)動物愛護運動家はある種の感情に耽溺するためにそうした想定を行っている。しかし、動物が感情を持つという証拠は、少なくともほかの人間が感情を持つと思う証拠と同じくらいには存在するので、(1)には根拠があるとはおもえない。また、(1)抜きには(2)だけでは特に問題があるとは思えない。しかも、(1)の想定は現実の動物に対処する障害になっているようには見えない。獣医や動物園の職員や、場合によっては猟師ですら、動物に感情があると想定することで動物にうまく対処している。

ここでミッジレーの攻撃の鉾先は動物に感情を認めない側に向けられる。彼らは動物に対する残忍な風習を守りたいばかりに動物が感情を持つという現実から目をそむけているだけではないのだろうか?われわれの感情にそぐう仮説は感情に反する仮説にくらべて根拠なしに受け入れられやすい(ミッジレーはこれを「懐疑主義者の逆信用の法則」と呼ぶ)。動物が感情を持たないという仮説はそういう理由で受け入れられている仮説なのではないだろうか。

結局、ミッジレーはなぜ感傷性が悪いとされるのかの理由に遡って考えることで、その種の誤りをおかしているのは動物愛護の側ではなく、それに反対する側である(感傷的という形容は使われないにせよ)と論じている。

マーク・ジェファーソンは「感傷性の何が問題か」という論文において、ミッジレーの議論をベースに拡張を行っている(Jefferson 1983)。ジェファーソンはミッジレーの「ある感情に耽溺するために現実を歪曲すること」という定義は部分的には正しいと考える。特に、ジェファーソンは、ミッジレーが感情の認知的理論(認知によって感情が引き起こされるという理論)を取っている点、その結果感情に関して一定の選択ないし自発性がありうることを認めている点を評価する。しかし他方、ミッジレーの定義は感傷性の何がまずいのか理解する上では広すぎる概念だと考える(521)。

ミッジレーの主張に反し、どのような感情的耽溺も同様に問題があるというのは正しくない、とジェファーソンは言う。耽溺によって得られる喜びにはさまざまな種類がある。スリルを求める者が求める喜びは爽快感である。危険は実際にどこにでも存在するので、このタイプの人間は世界を歪曲する必要はあまりない。メロドラマ好きの者が求める喜びは強い感情的充足で、そのために現実を実際以上にドラマチックなものととらえる。軽蔑的人間は他人を軽蔑するために他人の高貴な部分を無視する。独善的な人間は他人に憤って自分の道徳的自尊心を満足させることに喜びを見い出すが、そのために自分自身の道徳的失敗を認めることができなくなる。感傷主義者が耽るのは共感的な感情であり、共感の対象の不都合な面は見なくなってしまう。

感傷主義者が陥るタイプの歪曲に関して特に問題なのは、単に現実を歪曲しているのではなく、相手を無垢なものとみなす形で歪曲を行うという点である。これはその人のその対象に対する道徳的見解に影響を与えるという意味で有害である。そして、そうした歪曲が共感的な感情に耽るために自発的に行われる以上は、感傷主義者自身に責任がある。ジェファーソンが例として挙げるのは、植民地時代のインドでイギリス人女性がインド人の医師に襲われそうになったと主張した事件である(527-528)。ジェファーソンの表現によれば、この事件で女性の方は「イギリス女性の純潔さ、勇敢さ、傷つきやすさ」の象徴となり、医師の方は怪物として歪曲され、インドのイギリス人社会に復讐熱が高まることとなってしまった。つまり、このイギリス女性に対する感傷的な捉え方が、相手側への残忍さへとつながったわけである。ミッジレーとは違う意味で、感傷性は残忍さと結びつくのである。

結局、ジェファーソンによれば、現実にうまく対処できないだけではなく、ある種の人々を道徳的な意味で不当に取り扱う傾向と結びつくからこそ感傷性は問題なのである。実のところ、ジェファーソンの挙げるさまざまなタイプの耽溺の大半はこの性質も持つように見える(特に軽蔑的な人間や独善的な人間は道徳に関わる歪曲を行うことが考えられる)。その点ではジェファーソンの議論はミッジレーへの批判としてはあまりうまくいっているようには思えないが、ミッジレーの路線での分析の補足としては興味深い。


4 感傷性擁護論

以上に紹介した議論はいずれも感傷性はなんらかの意味で問題だと認めるものだった。次に紹介する二つは以上のような批判をふまえて感傷性を擁護することを試みる。

まず、最初の擁護の試みとして、ロバート・ソロモンの「感傷性の擁護」がある(Solomon 1990)。まず、ソロモンは感傷性に対して浴びせられてきた批判をまとめる。感傷性は偽善的であり、安っぽく、操作されており、シニカルであり、感傷主義者はなすべきことをせずに感情にふけり、世界についてのイメージを歪曲し、ファシズムや人種差別につながり、残忍さにつながる。感傷性の何が悪いかについてこれだけ多様な意見があるのに感傷性が悪いということについては誰も反対しない、というのは、感傷性への反対が偏見にすぎないということを示唆している。この偏見は、ソロモンによれば、カント以来の合理主義の伝統によって感情が道徳的判断に関わること自体を否定してきた結果である。

ソロモンは感傷性をさまざまなレベルで定義する(310)。まず、最低限の定義(minimal definition)として、「「優しい」感情」("tender" emotion)という定義が考えられる。次に価値負荷的な定義(loaded definition)として「感情的弱さないし「行き過ぎた」感情」(emotional weakness or "excessive" emotion)という定義を挙げる。第三の定義は「感情的耽溺」(emotional self-indulgence)というもので、これをソロモンは診断的定義(diagnostic definition) と呼ぶ。最後に、認識論的定義(epistemological definition)として「「偽の」ないし「でっちあげの」感情」("false" or "fake" emotion)という定義をあげる。

ソロモンはまず感傷性は基本的には最低限の定義(優しい感情)によって定義されると考え、この意味での感傷性に反対する倫理学理論は合理主義的な偏見にとらわれていると主張する(310、320-321)。ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」がアメリカ史において果たした役割や、寄付をつのる際に感情に訴えるやり方が効果的であることを考えるなら、優しい感情の倫理学的役割を簡単には却下できないはずである。

ソロモンはまた、第二から第四の定義でいうところの感傷性について、場合によって行き過ぎたり歪曲されたりした感情というものがあり得ることは認めるし、そうした感情が望ましくないことも認める(305)。いかなる徳に関しても行き過ぎは望ましくなく、それは感傷性についても同じである。しかし、そうした意味での感傷性の典型例とされるものに関しては、それらの定義そのものに含まれる否定的な価値判断(「行き過ぎ」とか「偽の」とかいった判断)には根拠がなく、そうした事例も実は第一の意味で感傷的であるにすぎないことを示す。

第二の定義についてはソロモンはほとんど触れない(311-312)。行き過ぎた感情というのが実際にあるならばそれはよくないと認めた上で、理性に感情が干渉するだけで行き過ぎだと判断するのは合理主義的な偏見だと述べるだけである。第三の定義については、まず、たとえばファシズムへの感傷に耽溺するといった事例では感傷性が悪い結果につながっていることを認めた上で、それは感傷性そのものが悪いのではない、と述べる(313)。感情に耽溺しているとはどういうことかの説明としてソロモンはクンデラを引用し、耽溺というのは、「感動することのできる自分に感動する」といった感情の自己目的化だ、と分析する。しかしソロモンによれば、自分の涙に感動する人は「内省」(reflection)というふつうの作業をしているのであって、その作業の途中になんらかの感情が生じたとしても問題はない(314)。内省という作業に感情がからむこと自体を問題視するのは、これもまた合理主義的偏見である。

第四の「偽の」感情という定義についてはさまざまな角度からの批判があるので、ソロモンはそれを一つずつとりあげていく(314-320)。まず、タナーの、感傷性が行為につながらないという批判については、「アンクルトムの小屋」を例にあげ、感傷性がある種の望ましい行為を引き起こすための信頼できる刺激となると論じる。次に、感情が「でっちあげ」だという批判に対しては、まず、感傷性に関して言われる「でっちあげ」という概念はあいまいで、「代償的」感情("vicarious" emotion)と「置換された」感情(displaced emotion)のどちらとも解釈できることを指摘する。代償的感情とは虚構の人物や出来事に向けられる感情のことだが、対象が虚構であっても感情そのものが虚構であることにはならないので問題はないはずである。置換された感情とは、本来その感情が向けられるはずの対象と違う対象に向けられた感情のことである。しかし感情が置換されるのは感傷性には限らない(上司への怒りから子供達にあたりちらす父親など)し、置換された感情もやはり本物の感情である(子供達にあたりちらす父親が本当は子供に対して怒っていないというのであれば「偽の」感情と呼べるかもしれないが、原因はどうあれ、子供に対しても怒っているのは確かであり、その怒りは偽物ではない)。

次にソロモンは、ミッジレーやジェファーソンの、感傷性は歪曲的だから「偽の」感情なのだ、という議論を考察する。これらの批判において歪曲の例としてくり返し挙げられるのはディケンズの描く少女のような、一面的で純化された少女のイメージである。しかし、これは歪曲というよりは「焦点」(focus)ないし「関心」(consern)と呼ばれるべき性質のものである。対象のすべての側面に注意を払うことなどできない以上、ある程度の一面化はしかたがない。もちろん、戦争の美化など、一面化が危険な場合もありうることはソロモンも認めるが、その場合も悪いのは感傷性それ自体ではなく捉え方(categorization)の方である。ジェファーソンのインドの事件の例にしても、問題なのはイギリス女性を理想化し賛美したことではなく、紛争を二元化するやり方の方である。

ソロモンは最後に、虚構の対象や誤った対象に対して共感が使われることで本来共感されるべき対象が共感されなくなってしまう、という批判も考察する(322)。ソロモンはそうした「共感の経済」の発想には懐疑的である。かりにそうした共感の経済のようなものがあったとしても、むしろ感傷性は、共感すべき対象を一面化することで、個々の対象に割かれるエネルギーを省力化する助けにすらなっているかもしれない。もしそうだとすれば、感傷性は徳とみなされるべきである。

アイラ・ニューマンの「感傷性の不健康さとされるものについて」という論文はソロモンとは別の角度から感傷性を擁護しようと試みる(Newman 1995)。ニューマンは感傷性を擁護しようというソロモンの立場に共感しつつも、ソロモンは手放しで感傷性を賞賛しすぎではないか、と危惧する(329 n.8)。ニューマンが試みるのは、感傷性をより中立な概念として定義しなおすことである。

ニューマンの定義によれば、感傷性とは、感傷的な主題のある側面によって優しい感情をかき立てることであり、その感情はその主題の誇張(exaggaration)や歪曲(misrepresentation)の結果として生じる心地よい理想化(pleasing idealization)への反応である(320)。ここで注意しておかなくてはならないのは、感傷性はここでは感情の持つ性質としてではなく、感情をかき立てる側、特に芸術作品の性質として定義されているという点である。これはニューマンがもっぱら美学の文脈で感傷性を論じていることからの当然の帰結ともいえるが、そのために、感傷性の批判者たち(特にミッジレーやジェファーソン)とは議論が噛み合わなくなっている部分も以下に生じている。それはともかく、ニューマンはこの定義自体はなんら価値判断を含まない記述的なものとして理解できると指摘する。感傷性が否定的な価値判断の言葉として使われる際には、実は感情的浅薄さや道徳的にぶさなど、付加的な要素に対して否定的な判断が下されているのではないかと考える。

こうした立場に対しては、当然、感傷性が誇張や歪曲を含むことはそれ自体で感傷性を否定する根拠になるという反論が出るだろう。そこでニューマンはその種の反論に答えていく(321-324)。まず、そうしたでっち上げ(falsification)がそれ自体で悪いという立場に対しては、そうしたでっち上げは感傷性に特有ではないし、他の文脈では決して一概に否定されていないことが指摘できる。ニューマンがあげるのはホメロスの「イリアス」の例で、この作品は戦争をある意味で美化しながらも人間心理や道徳のある面を忠実に描き、評価されている。次に、そうしたでっち上げが悪い結果(現実に対処できなくなる等)につながるという帰結主義的批判については、まず、同じようなでっち上げを含む「イリアス」がそんな風に批判されることはないということをニューマンは指摘する。「イリアス」にせよディケンズにせよ、芸術作品に人々の行動の責任を負わせるのはやりすぎである。

ニューマンが次に取り上げるのは、感傷性は自己欺瞞だというタイプの批判である。リチャーズは感傷性がいやな思い出を避けるための方法になっていると批判し、ワイルドは感傷性は偽善にすぎないと批判した。これに対し、ニューマンは、彼らが批判しているのは病的なタイプの感傷性であり、感傷性一般にはこの批判はあてはまらないと答える。興味深いことに、ニューマンは、感傷性による一面化は、痛みを忘れるためのものではなく、むしろ痛みを覚えておくためのものではないかと示唆する。思い出すにたえない辛い部分を切り捨てることで、悲しかった出来事そのものはより容易に思い出すことができるようになる。そして、そうした感情もまた感情的エネルギーを使う以上、ワイルドが言うような「支払いを行わない」という批判はあたっていない。この観点から、ニューマンは、ディケンズの描く少年の死のようなタイプの感傷性には自己欺瞞だという批判はあたらない、と結論する。


5 悪徳としての感傷性批判

ジョセフ・カプファーの「感傷的な自己」は、ニューマンの擁護論をふまえた上で、あらためて感傷性の問題点を指摘した論文である(Kupfer 1996)。カプファーはソロモンと同じく徳倫理学的な観点から感傷性を分析するが、ソロモンとは逆に、感傷性は深刻な悪徳であるという結論に達する。

カプファーもまた、感傷性が対象を陳腐なステロタイプで捉える点、その結果取捨選択され歪曲された現実認識と結びつく点を指摘する。彼はまたリチャーズやジェファーソンにならい、感傷性に結びつく歪曲は、対象を無垢なものとみなす方向に働き、同時に自分自身を情感の豊かな人間だとみなす方向に働く点も指摘する。そうした歪曲は注意力や思考力を弱め、自己陶酔(infatuation)の結果自己吟味がおろそかになる(553-555)。このように、世界と自分の吟味を怠らせるという点で、感傷的な歪曲は他の感情と結びついた歪曲と異なっている。

また、感傷性と慈悲は想像力という点で逆向きに働く(549)。慈悲を働かせるための前提条件は、相手の状況についてできるだけ正確に想像力を働かせることである。しかし、感傷性は状況を類型化することでそうした想像力が働く余地を奪う。このように、感傷性はものの見方に悪影響をあたえ、しかも自分ではそれに気付かないという点で、深刻な悪徳なのである(559-560)。

カプファーはまた、ニューマンの議論をとりあげて反論する(550-552)。まず、ニューマンが言うように、感傷性の機能が悲しい出来事を覚えておくために一番辛い部分を忘れることだとしても、だからといって感傷性が全体として望ましいことにはならない。感傷性の他の側面が望ましくない帰結を産むなら、それによっていい面は打ち消されてしまう。また、もしもニューマンが言うようにディケンズ流の記述がある出来事の快い側面と悲しい側面の両方を覚えておく機能を果たすのなら、それは非常に複雑な感情の働きであり、感傷性という言葉で呼ぶにはふさわしくない。

最後にカプファーは感傷性を他の悪徳と比較する(558-559)。感傷性は残忍さや無感動にくらべればまだしも徳の方に近い悪徳である。感傷性に近いのは騙されやすさ、短気、堪え性のなさ、といった悪徳である。というのも、感傷性は、辛抱強く複雑な状況を理解しようとせず近道しようとする性格と結びついているからである。


6まとめ

以上、感傷性に関して、賛否双方のさまざまな視点からの分析を見てきた。感傷性と呼ばれるものが非常に多岐にわたるため、なかなか議論が噛み合っていない点も多く、また、関わってくる価値判断も、美学的判断から帰結主義、徳倫理学と多様である。しかし、おおむね何が争点となっているかは見えてきたのではないだろうか。一つの争点は感情への耽溺やそれに伴う歪曲された事実認識という形で感傷性を定義することの是非であり、もう一つは耽溺や歪曲が望ましくないのかどうか、という点である。冒頭であげた感情的議論との関わりでは、ファインバーグやソロモンの議論が参考になるだろう。ファインバーグは感情的議論が現実の利害を見失わせる点を批判し、ソロモンは感情的議論が人々を善行に向かわせる点を評価する。どちらの見方が感情的議論の本質をよりよくとらえているか、その他の論点は感情的議論の問題にどうかかわってくるかなど、分析すべき問題は多いが、それについてはまた稿をあらためて考察することとする。


文献

Feinberg, J. (1982) "Sentiment and sentimentality in practical ethics" in Proceedings and Addresses of the American Philosophical Association 56, 19-46.
Jefferson, M. (1983) "What is wrong with sentimentality?" in Mind 92, 519-529.
Kupfer, J. (1996) "The sentimental self" in Canadian Journal of Philosophy 26, 543-560.
May, W. (1972) "Attitudes toward the newly dead" in The Hastings Center Studies 1, 3-13.
Midgley, M. (1979) "Brutality and sentimentality" in Philosophy 54, 385-389.
Newman, I. (1995) "The alledged unwholesomeness of sentimentality" in A. Neill and A. Ridley (eds.) Arguing About Art: Contemporary Philosophical Debates. New York: Routledge. reprinted in the second edition of the same volume, 2002. pages refer to the second edition.
Richards, I.A. (1963 [originally published in 1929]) Practical Criticism: A Study of Literary Judgment. New York: Harcourt, Brace and World.
Solomon, R.C. (1990) "In defense of sentimentality" in Philosophy and Literature 14, 304-323.
Tanner, M. (1976-77) "Sentimentality" Proceedings of the Aristotelian Society 77. 127-147.
Wilde, O. (1962) "Letter to Lord Alfred Douglas, 1897", in R. Hart-Davis (ed.) The Letters of Oscar Wilde. London: Hart-Davis. 501.