アルヴィン・ゴールドマンは信頼性主義(reliabilism)の主唱者として知られる が、彼の立場は決して一定ではなく、何度も大きな変更を経過している。信頼性主 義とは、一言でいえば、ある信念形成のプロセスが正当化されるかどうかは、その プロセスが正しい信念を生む比率の高さによって決まる、という考え方である。こ の正当化は、プロセスを使う人々自身がその信頼性の高さを理解しているかどうか に関わらない、という意味で、信頼性主義はいわゆる外在主義認識論の一種である 。
しかし、ここで問題となるのが、比率の高さの計算方法をいかに定義するかとい う点、および、信頼性主義から生じるさまざまな直観に反する帰結をどのように処 理するかという点である。ゴールドマンの試行錯誤もこれらの点を巡ってなされて いる。ゴールドマンの信頼性主義の変遷を辿ると、現在までに大きくわけて三つの バージョンがあることがわかる。ひとつは論文「正当化された信念とはなにか?」 に代表される初期の比較的分かりやすい信頼性主義の立場、第二は彼の主著『認識 論と認知』における「通常世界(normal worlds)」の概念に基づく信頼性主義、第 三はその後の「強い正当化と弱い正当化」における、二種類の正当化の分離に基づ いた信頼性主義である。本発表では、ゴールドマンの信頼性主義をめぐる試行錯誤 の過程をたどり、一見単純で分かりやすいかに思える信頼性主義の考え方が非常に 大きな問題を孕むものであることを明らかにした上で、信頼性主義をより内在主義 に近い方向へ修正することを提案する。
まず、ゴールドマンが以下の信頼性主義的な「正当化」概念の分析において目指す ゴールを明確にしておく必要があるだろう。彼がこれについて明確に述べているの は「正当化された信念とは何か」の冒頭であるが、同様の発言は随所に見られ、ゴ ールドマンの信頼性主義の一貫したゴールとみなしてそれほど問題はないと思われ る。まずゴールドマンが目指すのは正当化に関する規範的な理論の確立ではない。 むしろ彼が目指すのは自然言語の中にあらわれる「正当化」概念の分析である。ま た、これと関連して、ゴールドマンは明確な正当化の基準をあたえることを目的と していない。というのも、自然言語そのものの曖昧さに起因する概念の曖昧さは、 もし彼の分析が本当に自然言語の分析として正しければ、当然解消されずに残るで あろうからである。したがって、彼の分析は常に曖昧な部分を残すことになる。
これとは別に、ゴールドマンは彼の分析の内容にもう一つの制約を課す。「正当化 」という概念の分析には他の認識論的な用語、たとえば「合理的」などが現われて はならない、というのがそれである。言い替えれば、ゴールドマンは認識論的な概 念を非認識論的な概念に還元する還元主義的な分析を試みているということである 。
まず、1979年の「正当化された信念とは何か」におけるゴールドマンの立場を みていこう。この論文一本のなかでもゴールドマンはさまざまなバージョンを提案 するが、ここで取り上げるのは、そのなかでも中心的な二つの定式化である。正当 化をめぐる判断のいくつかの具体例の検討を通して、ゴールドマンはそうした判断 が信念の形成に至るプロセスについての判断であること、そしてその判断の基準と なるのはプロセスの信頼性であること、を見い出す。その結果導き出されるのが次 の定式化である(以下、ナンバリングは発表者によるもので、ゴールドマン自身の ものではない)
R1もしSが時点tにおいてpを信じることが信頼のおける認知的な信念形成プロセス (あるいはプロセスの集合)の結果であるならば、Sがtにおいてpを信じることは 正当化される。(Goldman 1992, 116)
では、「信頼がおける」とはどういう意味だろうか。ゴールドマンの分析によれば 、「信頼性とは、あるプロセスが、偽なる信念よりも真なる信念をうみだすという 傾向性のことである」(Goldman 1992, 113)。では真なる信念の比率がどれくら いなら信頼がおけるといえるのか?また、その比率はどうやって計算するのか(現 実の世界における比率なのか、可能世界まで考慮にいれるのか)?ゴールドマンは 、かれの基準がこうした点であいまいなのを認めるが、このあいまいさは問題では ないと主張する。というのも、これについては日常的な「正当化」の概念そのもの があいまいなのであり、曖昧なものを分析した結果があいまいになるのはゴールド マンの責任ではないからである。 しかし、そうした曖昧さの問題とは別に、R1は「正当化」に関する直観に反する 結論につながるという問題がある。ゴールドマンが特に問題視するのが次の事例で ある。ジョーンズは信頼のできる記憶を持っているが、彼の両親は彼をだまして、 ジョーンズは小さいときに記憶喪失にかかったのでそれより前の記憶はすべて嘘だ という。ジョーンズには両親のいうことを信用する十分な理由があるが、かれはそ れを無視して自分の記憶を信じることにしたとする。ジョーンズがそのようにして 形成した信念は正当化できないように思われるが、R1によればこれは正当化され ることになる。この反例に答えるために、ゴールドマンは信頼性主義に次のような 修正を加える。
R2もし
(1)Sが時点tにおいてpを信じることが信頼のおける認知的な信念形成プロセスの結
果であり、
(2)かつまた、Sにとって利用可能な他の信頼のおけるプロセスのうち、仮にSがそ
れを使っていたならばSはtにおいてpを信じなかったであろうような、そういうプ
ロセスが存在しないなら、
Sがtにおいてpを信じることは正当化される。(Goldman 1992, 123)
この付け加えは些末なことのようであるが、信頼性主義に対するもっとも良く知ら れた批判の一つであるボンジュアの使う例はこの付け足しで対処することができる てきている(BonJour 1985, 34-57)。ボンジュアは千里眼が実は信頼のおけるプ ロセスであるが、それに反する証拠があるような世界を考える。ある例では千里眼 の結果得られた信念に反する証拠が在り、別の例では自分が千里眼を持つという能 力についての信念に反する証拠が在り、また別の例では千里眼という能力一般につ いての反対の証拠が在る。ボンジュアはこれらの事例において千里眼を使って得た 信念が正当化されると考えるのは直観に反するが、R1のタイプの信頼性主義はそ のような千里眼の使用も正当化されるので問題があると論じる。これに対し、R2 ならば、これらの事例は、いずれも「証拠に基づく推論」というプロセスを経るこ とで千里眼への信頼が掘り崩されるから、千里眼の使用が正当化されないという直 観に沿った結論がでることになる。
さて、R2のさまざまな要素は、ゴールドマンによってこの三つのレベルに分配 されることになる。まず、R1からR2への移行において付け加えられた、ほかの信 頼のおけるプロセスを使ったときに否定的な結果がでない、という要請は、枠組み 原理の一部として「ほりくずし(undermining)」条項として生き延びることになる 。
R3ー1Sが時点tにおいてpを信じるのが正当化されるのは以下の場合であり、その
場合に限る
(1)Sがtにおいてpを信じるのはJルールの正しい体系によって許可されており、
(2)かつ、この許可はtにおけるSの認知的な状態によってほりくずされて(under
mine)いない。
これに対し、信頼性主義の本体となる真理比率の話はJルールの体系をえらぶ次の「 正しさの規準」のなかにあらわれる。
R3ー2あるJルールの体系が正しいのは次の場合であり、次の場合に限る
(1)その体系はある種の基本的な心理学的プロセスを許可し、
(2)かつそれらのプロセスが実際におこった場合、その結果として生じる信念の
真理比率はある特定された高い敷居値(.50以上)を満たす。
ここで正しさの規準とべつにJルールの体系のレベルがもうけられているのは、ゴー ルドマン自身認めるとおり、功利主義者が規則功利主義的な考慮を導入するのと同 じ理由による。つまり、実際の人々の正当化に関する判断をみるならば、彼らが真 理比率を直接の判断規準としているようにはみえない。しかし、たとえば証拠に基 づく推論がなぜ正当化されるのか、と考えるなら、メタレベルの基準として信頼性 主義を持ち出すことができる。これによって、現に通常の判断でわれわれが真理比 率を意識しないという方面からの反論は封じることができる。
レベルの区分とともに、『認識論と認知』では、もう一つ大きな変更が加えられる 。それが「通常世界群(normal worlds)」の概念の導入である。R1やR2では、 先にも述べたように、どうやって真理比率を計算するのかが特定されないままだっ た。もし真理比率を現実世界で正しい信念を生んだ比率とすると、たとえば現実世 界で一回しか使われずしかもたまたまうまくいったプロセスは最大限に信頼がおけ ることになってしまう。かといって可能世界に話をひろげるとどこまでの可能世界 を考慮にいれるのかが問題となる。「通常世界群」とは、このスコープを限定する 一つの方法として導入された概念である。ゴールドマンの定義によれば、「現実世 界に関するわれわれの一般的な信念と整合的な世界」の集合が通常世界群である(G oldman 1986, 107 強調原文)。通常世界の概念を上記のR3に明示的に組み込む ならば以下の様な基準が得られる。
R3ー2’あるJルールの体系が正しいのは(いかなる世界Wにおいても)次の場合
であり、次の場合に限る
(1)その体系はある種の基本的な心理学的プロセスを許可し、
(2)かつそれらのプロセスが実際におこった場合、その結果として生じる信念の
真理比率はわれわれの通常世界群においてある特定された高い敷居値(.50以上)を
満たす。
ここで注意すべきなのは、通常世界群の概念が各可能世界に相対的ではなく、した がってこの世界におけるわれわれが通常世界とみなすものがあらゆる世界において プロセスの信頼性を判断する基準となるということである。ゴールドマンが通常世 界群にうったえる理由のひとつは、レーラー、コーエンらのデカルト的デーモンを 使った反論に答えるためである(Lehrer and Cohen 1983, Cohen 1984)。仮に我 々がデカルト的デーモンにだまされて、世界についてまったく誤ったイメージをも ち、それに基づいて信頼性の判断をするとしよう。その誤ったイメージに基づいて われわれが最も信頼できると判断するプロセスは、実は常に誤った信念につながる 、つまり真理比率のゼロなプロセスであるかもしれない。もしそうならば、現実世 界での真理比率に基づく信頼性主義ではそのプロセスによって形成された信念は正 当化されないことになってしまうが、これは非常に我々の直観に反する結論である 。通常世界群の概念を用いればこの問題は回避できる。現実世界での真理比率は信 頼性の判断には関係なく、通常世界群において高い真理比率を持てばよいのだから 、デカルト的デーモンの世界は考慮に入れる必要はない。
もちろん通常世界群という概念はこのままではあまりに明確さを欠く。たとえば、 あるプロセスが信頼できると判断されるにはすべての通常世界で高い真理比率をも たなくてはならないのか、それとも平均して高ければよいのか、あるいはその中の 一つで高ければよいのか。ここでゴールドマンはふたたび日常的な正当化概念の曖 昧さに訴え、そこまでの明確化は必要でないとする。
ゴールドマンは「通常世界群」による信頼性主義にも満足せず、1988年の論文 「強い正当化と弱い正当化」ではさらに別のバージョンを提案している。ここでは 彼は正当化をめぐる二つの対立する直観があることを認める。たとえば占星術で戦 闘の結果を占う人の形成する信念は、信頼のおけない方法を使っているという意味 では正当化されないかもしれないが、もしそれがその文化で広く認められている方 法であるならば「非難に当たらない」という意味では正当化できると言って良いか もしれない。この二つの直観を区別するために、ゴールドマンは「強い正当化」と 「弱い正当化」の区別を導入する。 まず「強い正当化」からみていこう。
R4ー1 あるルールの体系がある世界Wにおいて正しいのは、その体系が、Wに非 常に近い世界の集合において高い真理比率を持つ場合、その場合に限る。そのよう なルールの体系によって正当化される信念は強い意味で正当化されている。
ここで注意しなくてはならないのは、「通常世界群」の概念が放棄され、W(とW に類似した世界)において現に高い真理比率を持つことが要求されている点である 。ゴールドマンは、通常世界群の概念を放棄する理由をいくつかあげている。まず 、だれの通常世界の概念をとるのか、という大きな問題がある。世界の在り方につ いては様々な両立不能な見解があり、文化によってもまた違う。さらに、これ以上 にゴールドマンが問題だと考えるのは、「通常世界群」に基づく信頼性主義は直観 に反する結論につながるということである。たとえばボンジュアの千里眼の事例の うちの一つは、千里眼の存在に有利な証拠も不利な証拠もない場合に千里眼の使用 に基づく信念は正当化されるか、という問題である。ボンジュア自身(および『認 識論と認知』におけるゴールドマン)はこの信念は正当化されないと考えるが、そ こで挙げられる理由は非難に値するかどうかという後述の弱い正当化に属するもの である。これをとりあえずかっこにくくってしまえば、信頼のおける千里眼に由来 する信念は正当化されると言って良いように思われる。しかし、千里眼が可能だと いうのはわれわれの通常世界群の性格付けの中には入ってこないであろうから、通 常世界群による判断ではこの直観に反する結論しか出てこない。そこでゴールドマ ンは通常世界群のかわりに判断の対象となるプロセスが使われる世界およびそれに 非常に似た可能世界の集合を使うことを提案するのである。
では、通常世界群の概念を導入するきっかけとなったデカルト的デーモンの事例は どうなるのだろうか?ゴールドマンはデカルト的デーモンの世界にすむ人々の信念 はこの強い意味では正当化されない、とする。われわれの直観がこれに反するよう に見えるのは、弱いほうの正当化の概念が同時に働いているからである。そこでこ の「弱い正当化」を次に見て見よう。
R4ー2ある信念が弱い意味で正当化されるのは以下の場合である
(a)その信念を生み出すに至った認知的プロセスは信頼できない
(b)しかしSはそのプロセスが信頼できないとは信じていない
(c)Sは、そのプロセスが信頼できないと見分けるための信頼できるやり方を所有し
ておらず、またその様なやり方はSにとって利用可能ではない
(d)かつ、Sが信頼できると信じ、またSがもしそれを使えばこのプロセスが信頼で
きないと信じるに至ったであろうようなほかのプロセスや方法は存在しない。
簡単に解説すると、(a)は単に強い正当化と弱い正当化が重ならないように導入され た条件である。(c)と(d)は弱い正当化の本体となる部分だが、R2やR3ー1にあっ た「掘り崩し」条項が二通りにまとめ直されたものである。cとdの違いは、客観的 に(強い正当化の意味において)信頼できるプロセス・方法(ここでは「やり方(w ay)」という言葉で一括されている)と、主観的に(Sの眼から見て)信頼できるプ ロセス・方法の違いである。「所有」や「利用可能」といった概念もさらに説明が 必要でありそうな気がするが、例によってゴールドマンは普通の用法の曖昧さに訴 えてこの責任を逃れる(Goldman 1992, 133)
さて、長い試行錯誤の末ゴールドマンは二種類の正当化の区分という立場にたど り着いたわけだが(もちろん今後さらに改変されることはありえようが)、この立 場は満足のいくものだろうか?実のところ、まだしも以前の立場のほうがましであ ったように思われるところも少なくない。
まず強い正当化だが、これはなんの役にもたたない無用の長物となってしまって いるように見える。つまり、このままではあるプロセスが強い意味で正当化される かどうかは原理的に決定できなくなってしまう。我々から見て信頼のおけるプロセ スと現に信頼のおけるプロセスとのあいだに何らかの相関があると言えればこの問 題はある程度解消するが、デカルト的デーモンの可能性を真剣に受け止めるのなら ば(そしてゴールドマンは真剣に受け止めているように見えるが)、この相関すら 確立できまい。この点をはっきりさせるために普通のデカルト的デーモンより悪意 に満ちたデーモンを仮定しよう(類似の例はRiggs 1997によっても示唆されてい る)。このデーモンはわれわれの世界とほとんど同じ様な世界で働くが、だれかが 千里眼を使おうとした場合には、われわれをだましてあたかも千里眼が正しい信念 につながったかのように信じさせるとする。われわれは千里眼が非常に信頼のおけ るプロセスであると思うであろう。ここでポイントなのは、デーモンの可能性を真 剣に受け取る限り、その様なデーモンが存在する確率はきわめて低いということす ら言えないということである。この問題をクリアしない限り、ゴールドマンの強い 正当化は信念の正当化の判断を下す際に原理的になんの役にもたたないことになる であろう。
自然化された認識論の支持者の多くは、このような問題を、デカルト的な懐疑主 義を真剣にうけとるのをやめる、という形で解消しようとする(たとえばQuine 19 69など)。しかし、ボンジュアも指摘するとおり(BonJour 1985, ch. 1)、懐疑 主義をあまりに安易に否定し去るのもまた認識論の本来の目的を見失っているとい えよう。むしろ、知識の本質を探求する上で必要なのは、どの程度の懐疑主義をと ればわれわれの信念のどの程度までが正当化されるか、という対応関係をきめ細か く追いかけることであろう。しかしこの任務は本発表の手に余るのでまたの機会に ゆずり、ここではゴールドマンのいう強い正当化が、この種の考察の助けを借りず には原理的に役にたたない基準であることを指摘して先に進もう。
さて、弱い正当化(R4ー2)のほうはどうだろうか。これが「非難に値する」 ことの基準として提示されていることを念頭におくと、まず問題となるのは条件(c) である。ここで出てくる信頼できるやり方とは、強い正当化の意味で信頼できるや り方であり、したがって前述の理由によりS自身が信頼できると判断するやり方と は直接の相関はない。しかし、Sが非難できるかできないかという文脈で考えたと き、Sからみて信頼できると思えないやり方をSが使わなかったからといってSを非 難するのは、仮にそのやり方が実際は信頼できるものであったとしても、奇妙に感 じられる。
ではいっそ条件cをとりのぞいてみたらどうであろうか(これらの条件は弱い正当化 の十分条件であることに注意)。また、条件aも、もともと強い正当化とかさならな いようにするために導入されただけのものだから、とってしまってよいであろう。 すると以下の様な定式化がえられる。
R4ー2’ある信念が弱い意味で正当化されるのは以下の場合である
(b)Sはそのプロセスが信頼できないとは信じていない
(d)かつ、Sが信頼できると信じ、またSがもしそれを使えばこのプロセスが信頼で
きないと信じるに至ったであろうようなほかのプロセスや方法は存在しない。
これは実の所R2の主観的なバージョンである。しかし、このバージョンは今度は あまりに主観的すぎるように見える。というのも、もしSが占星術が唯一の信頼の おけるやり方であると信じていたら、占星術に関する圧倒的に不利な証拠を前にし ても、Sは占星術をとおして信念を形成することについて弱い意味であれ正当化さ れていることになるからである。どうやら、R4ー2には、もうすこし抜本的な修 正が必要なようである。
実のところ、ゴールドマンの「掘り崩し」条項は、どのバージョンにおいてもわ たしからみて非常に奇妙なものに思われる。たとえばR2においてゴールドマンは 信頼のおけるプロセス一般をこの考慮の範囲としているが、これはジョーンズの記 憶の例や最初のほうの千里眼の例の重要なポイントを見落としているせいだと思わ れる。すなわち、これらの事例では、認知者が当然使用することを期待されるプロ セスを使わなかったからこそ正当化が掘り崩されるのであって、そうした期待がと もなわない場合は信頼できるプロセスであっても掘り崩しの効果を持たないだろう 。ボンジュアのあげるもう一つの例はこの点を見るのにちょうどよい。この例では 、ある歴史家が証拠をあつめて過去の出来事についてある結論に達するが、もしも 彼女が水晶球を覗いて答えを出していたらその結論は否定されていたであろうとす る。さらに、彼女は知らないがこの水晶球は非常に信頼のおける手段であったとす る。この場合掘り崩しは直観的にいって起きないし、その理由は(ボンジュアは明 確に指摘しないが)この歴史家が水晶球を使うことをわれわれが期待していないと いうことに尽きるであろう。
ゴールドマンが通常世界群に基づく正当化を否定した理由をもう一度考えて見よ う。千里眼が信頼のおけるプロセスとなりえないとゴールドマンが判断したのは、 我々の世界では千里眼に反する証拠があり、そのために我々から見た通常世界群に 千里眼の可能性が入りえないからである。しかしもし考慮の対象となっている世界 で千里眼に反する証拠がないのであれば、千里眼の可能性は彼等の考える通常世界 群とは不整合にならないだろうから、もし本当に千里眼が信頼のおけるプロセスな らその使用が正当化されると考えることに問題はなさそうである。ゴールドマンが これを見落としたのは、かれのR3ー2’の定式化が世界に相対的な形になってい ないため、いかなる世界でもわれわれの考える通常世界群を判断基準に使うように なっているせいである。これを修正して、その世界の人々から見た通常世界群を基 準に使うことにすれば、この反例は回避される。次に、その世界のなかでだれの通 常世界群を使うかであるが、どの通常世界群が優れているかを比較する方法があれ ば解消される。一つの方法は、それぞれの通常世界群によって推奨されるプロセス を使い比べて見て、どれが実際に正しい観測予測を生む比率が高いかを見ることで ある。もっともラディカルなバージョンの共役不可能性を受け入れるのでない限り 、そのような比較が可能であることは認められるであろうし、比較が可能なら原理 的にはどの通常世界群を使うかについての決定も可能であろう。このようにして選 び出された通常世界群を「もっとも成功を収めた通常世界群(the most successfu l normal worlds)」と呼ぶことにしよう。これを使って強い正当化を再定式化す るならば次のようになる。
R5ー1 あるルールの体系がある世界Wにおいて正しいのは、その体系が、Wの住 人から見てもっとも成功を収めた通常世界群において高い真理比率を持つ場合、そ の場合に限る。そのようなルールの体系によって正当化される信念は強い意味で正 当化されている。
弱い正当化のほうにも同じ修正が施せそうな気がするが、しかし、「非難に値する 」かどうかの判断には、「もっとも成功を収めた通常世界群」はまだ強すぎるであ ろう。そのような通常世界群同士の比較はその世界ではまだなされていないかもし れないし、なされていてもそれに気付いていることを認知者に期待することがいか なる意味でも適当でないことは多かろう。また、そうでなくても、前述のように、 掘り崩しの効果があるかどうかは、その認知者があるプロセスを使うことを期待さ れているかどうかに強く依存する。以上の考慮に基づき、とりあえずの提案として 、弱い正当化について以下のような修正を提案したい。
R5ー2ある信念が弱い意味で正当化されるのは以下の場合である
(b)Sはその信念の形成にいたったプロセスが信頼できないとは信じていない
(c)Sのまわりの社会で受け入れられている通常世界群から判断して信頼できるとみ
なされるプロセス・方法のうち、Sの使ったプロセスが信頼できないと見分けるた
めに使え、またSがそのように使うことを期待されるものはない
(d)かつ、Sが信頼できると信じ、またSがもしそれを使えばこのプロセスが信頼で
きないと信じるに至ったであろうようなほかのプロセスや方法は存在しない。
以上のような修正案は、真理そのものではなく我々に分かる範囲での経験的成功 を通常世界群の選択の基準に持ってきているという点で、信頼性主義と相容れない 内在主義的な主張であるとおもわれるかもしれない。しかし、強い正当化に関して 言えば、個々の認知者がどの通常世界群がもっとも成功を収めているか知っている ことは期待されておらず、認知者個人の自己弁護能力とは独立に正当化が決まると いう点で、外在主義の重要な要素は放棄されていないといってよいだろう。また、 私の提案は通常世界群の選択に経験的な成功を導入しているだけであって、いった ん通常世界群が選ばれたならば、プロセスの正当化はその中での真理比率によって 定まるという点も指摘して置いてよいだろう。以上の点から、私の提案は信頼性主 義者にとっても受け入れうる案だと考える。