科学的実在論とは、科学において措定される観察不可能な事物が存在するという考え方であり、しばしば「成熟した科学で受け入れられている科学理論は近似的に真(approximately true)である」という形で定式化される。この考え方は科学哲学においてさまざまな方向から攻撃され、それにともなって実在論の側もいろいろな回答をしてきた。本稿では、80年代に出された科学的実在論側の二つの妥協案、実体実在論 (entity realism)と構造的実在論 (structural realism) を比較検討する。これらの立場はいずれも反実在論側の「悲観的帰納法」を真摯に受け止めた実在論側の回答として提案されたものである。実体実在論と構造的実在論はまた、なんらかの形の「奇跡論法」、つまり実在論を仮定しなければ科学の成功が奇跡になってしまう、という論法に依拠している点も共通する。しかし、「奇跡論法」と「悲観的帰納法」という共通の前提から出発しながら、二つの実在論はほとんど正反対の解決策を提示する。本稿ではまず、二つの提案の差が何に由来するのかを、「奇跡論法」と「悲観的帰納法」とのそれぞれの理解に即して明らかにする。この二つの論法の理解という点では構造的実在論の側に軍配があがりそうであるが、構造的実在論と反実在論の差は紙一重である。科学的実在論が科学哲学上の立場として生きのびていくためには、実体実在論と構造的実在論の両方を乗り越えていく必要があるだろう。
科学的実在論をめぐるさまざまな立場は、以下に紹介する二つの論法についてどういう立場をとるかということをめぐって整理されてきた。そこでまずその二つの論法、奇跡論法と悲観的帰納法を順次紹介していく。
2-1 奇跡論法 (miracle argument)
奇跡論法は、一言で言えば、もし科学的実在論が偽であるならば科学の成功は奇跡となってしまう、と論じることで科学的実在論を擁護しようとする議論である。これはある意味ではいわゆる「最善の説明への推論」の一種であるが、最善の説明以外の説明が「奇跡」だの「宇宙的偶然」だのといった、およそ説明となりえないような選択肢であると主張することで、その説明の実際的な唯一性を主張するという点で単なる「最善の説明」とは一線を画す。(もちろんこの一線が単にレトリカルなものなのか実質的な違いを反映しているのかは反実在論との間で論争のあるところである。)奇跡論法にもさまざまなバージョンがある(Hacking 1983, 52-57)が、通常のパターンはその理論を使った技術の成功に訴える。たとえば、テレビジョンの技術は光電効果に基礎をおいている。したがってテレビの原理を説明しようとすればどうしても光子の振る舞いに触れざるをえない。では、もし光子というものがないなら、なぜテレビは映るのか。もう一つは、さまざまな独立のやりかたで得た結果の一致である。アボガドロ数の計算の仕方はいろいろあるが、どのやり方でもほぼ同じ数になる。これは分子というものが実際にあると考えなくては説明できないのではないか。
この論法に対して(そして最善の説明への推論一般に対して)は、実在論的説明と対抗できる反実在論的な説明が対案として常に存在する、という批判が繰り返しなされてきた(van Fraassen 1980; Hacking 1983)。これは過小決定(underdetermination of theory by data) の一つの応用と見ることができる。しかし、対案となる反実在論的説明のもっともらしさについても疑問が呈されてきたため、この批判は奇跡論法に対する決定打とはなってこなかった。しかし、現実の科学の歴史に基づいて奇跡論法を批判する悲観的帰納法の登場によって、過小決定の議論は具体的な肉付けをあたえられ、奇跡論法は深刻な挑戦をうけることになる。
悲観的帰納法の基本的な構造は、以下のようにまとめることができる。科学は蓄積的な進歩を遂げているように見えるが、実は蓄積しているのは現象的な規則のレベルの話であって、観察不能な実体についての理論のレベルでは前の理論を根本的に否定するような変化が繰り返し生じている。つまり、これまでの科学の歴史で現象的なレベルで非常に成功を収めた科学理論はいずれも文字通りには誤りであることが後になって判明してきている。そうであるならば現在非常に成功している理論もまた遠くない将来誤りであることが判明するであろう。
悲観的帰納の代表的な例として、ラリー・ラウダン(Laudan 1981)の、科学史からの豊富な実例を使った議論がある。近似的に真な理論であるから成功するとはいえないということは、たとえばウェゲナーの大陸移動説などの例がある。成功した理論だから近似的に真だろうという推論が成り立たないことについては、過去に成功を収めたが現在では否定されているさまざまな理論的概念の長いリストを作ることができる。ラウダンが名前をあげるのは、19世紀のさまざまなタイプのエーテル理論、天文学における天球概念、熱に関するカロリック説、「天変地異」地質学、フロギストン説、自然発生説などである。つまり、「経験的成功」と「近似的真」の間にはたいした相関関係は見いだせないのである。
上で名前を挙げられた理論の多くについて、実在論者はまだ科学が成熟していない時期の理論だからという理由で勘定に入れることを否定するかもしれないが、ラウダンは、その「成熟」の概念自体が論点先取のおそれがあるとしてそうした批判を却下する(233)。実在論者が奇跡論法で確立しなくてはいけないのは、「経験的成功」と「近似的真」との相関なのだから、その分野が成熟していたかどうかはどうでもよく、その理論が経験的成功をおさめていたかどうかだけが関係するはずである。(注1)
ラウダンの議論に対しては、「経験的成功」という概念が非常に曖昧であることなどがよく批判として挙げられる。また、キッチャーのように、同じ状況も見方を変えれば楽観的に見ることができる(あとの理論の立場からみると、どの時点の理論も少なくともその先駆者よりは真理に近いとみなされるのできっと現在の理論もあとからみればそう見えるだろう、というような)という「楽観的帰納法」を対置する者もある (Kitcher 1993, 137-138)。しかし、ラウダンの議論の中心的な力は、現在の科学の理論的実体がフロギストンやエーテルと同じ運命をたどるかもしれない、という具体的な心配に基づいており、小手先の批判ではその説得力を奪うことはできない。
奇跡論法と悲観的帰納法はどちらも直観的には強い説得力を持つ。しかし、両者の言っていることはそのままでは矛盾しており、単純に両方を受け入れるわけにはいかない。科学理論のどこが奇跡的で、どの部分についてわれわれは悲観的にならねばならないのかを見極める必要があろう。そうした問題設定に基づいて提案されているのが、ハッキングとカートライトの実体実在論であり、ウォラルの構造実在論である。しかし、二つの立場の提案する解決はどこに奇跡を見いだし、どの辺に悲観的になるのか、という点でずれており、その結果まったく逆の方に進むことになる。
ハッキングやカートライトの実体実在論の基本的主張は「もしそれを射出することができるなら、それは実在する」(if you can spray them, they are real)というスローガンに象徴される(Hacking 1983,22)。この立場によれば、科学理論の中心となる普遍的法則そのものは近似的にも真ではないかもしれないが、具体的な実験装置を律するローカルな規則性は(他の要因が無視できるという条件下で)信用できるし、そうした実験装置によって操作される「実体」も存在するといえると考える (Hacking 1983; Cartwright 1983)。(注2)電子を自分の思ったとおりに射出して思ったとおりの効果を生み出せるのなら、電子は実在するといえる、というわけである。
3-1 実体実在論と奇跡論法
ハッキングは通常の奇跡論法に対して非常にネガティブな態度をとる(Hacking 1983, 52-57)。上で挙げた光子を使った説明の例では、光子がどのように振る舞うかの記述は説明において本質的だが、そこに「光子が存在する」と付け加えることはなんら情報を増やさないと述べる。アボガドロ数のような結果の一致の例でも、それだけではアボガドロ数に関する理論が非常に経験的に十全であるという以上の意味は持たないと考える。ではハッキング自身は奇跡論法を使わないかといえば、まったくその逆で、彼の実体実在論は奇跡論法をより洗練したものだといえる。
顕微鏡における格子の例は奇跡論法のいい例であろう (Hacking 1983, 202-205)。顕微鏡で見る対象の場所や大きさの目安とするための格子は、紙に手で書いたものを何度も縮小をかけ、そのパターンを金属に写し取って作る。このようにして作ると、自分で書いた文字がそのまま顕微鏡的サイズ(つまりファン=フラーセンの言う意味では「観察不可能な」サイズ)になって観察できることになる。たまたま自分の書いた文字と同じ模様のパターンが何か独立の原因によって生じたと強弁するのは「宇宙的偶然」に訴える以外のなにものでもなく、誰も信じはしないだろう。それはやはりそこに存在すると言わざるをえない。
3-2 実体実在論と悲観的帰納法
この、操作・介入という考え方を使うと、悲観的帰納法にも新しい光が当てられることになる。ラウダンのリストを見ると、「結局存在しなかった」実体は、いずれも直接操作できないもの(天球・フロギストン・エーテル)であった。直接操作できるようになったものについては、その本性についての思い違いはあっても(例えば光は操作できるようになってもその本性が理解されるまでには粒子説と波動説が乗り越えられなくてはならなかったが)、存在自体は否定されていない。そこで、悲観的帰納法から言えるのは、操作・介入できないものの存在そのものや本性についての理論や操作介入できるものの本性についての理論はおそらく長期的には否定されるだろうということが一応結論できる。つまり、操作と介入がここで重要な要因となる。
しかし、ある実体の本性に関する理論が近似的にも真ではないとすると、どうしてその実体を使った実験がうまくいくのか。どうして電子を射出したり、格子を思った通りに縮小したりできるのか。この点についてハッキングは全面的にカートライトに依拠するので、カートライトの議論の方を見ていこう(Cartwright 1983)。
カートライトの考えによれば、実験がうまくいく(つまり実験で意図したとおりの結果が出せる)場合、われわれはそこで操作される実体だけでなく、その実験状況についてのローカルな因果モデルについても正しい理解をしていると思われる。ローカルな因果モデルは、非常に具体的な実験状況を設定したときに、その実験の結果がどのようなプロセスで起きるかを記述するものである。これは現象的規則と密接に関係するが、同じものではない。現象的規則は実験の条件と結果の組み合わせからえられ、「かくかくの実験状況を設定すればかくかくの結果が生じる」という形になる。現象的規則だけにコミットするならばそれは反実在論ということになるが、「因果モデル」という場合、その現象の背後にある観察不能な実体と、その実体がその実験の文脈でどういう振る舞いをするかという記述を含むため、完全に観察可能なレベルに制限されるわけではない。ローカルな因果モデルそのものは、しかしながら、実在的に解釈することはできない(Cartwright 1983, 151-162)。たしかに因果モデルのある側面は実際に何が起きているかをよくとらえており、だからこそ実験状況で意図したとおりの結果が出せるわけであるが、モデルの他の側面はその場の都合にあわせて適当に設定される、いわばフィクションのようなものである。その結果、同じ出来事についての二つのモデルが互いに両立不能なのにどちらもうまくいくということがありうる。
しかし、ローカルな因果モデルのある側面が現実をとらえているのなら、そこから一般化した普遍法則もまた現実をとらえている、つまり真だといってよいのではないか?しかしカートライトはそうした一般化を否定する (Cartwright 1983, Essay 2とEssay 3を参照)。ローカルな因果モデルによってとらえられる現象的規則は常にceteris paribus節、つまり「ほかのすべてのことを考えにいれなければ」という条件によって制限されている。実際には常に他の要素も影響しているので、現象的規則はceteris paribus節をとってしまえば端的に偽である。現象的規則から普遍的法則へと一般化する場合はceteris paribus 節を取り除いてしまうので、普遍法則もまた偽である。もしceteris paribus 節を完全に明示化できれば普遍化も成り立つが、この内容を完全に書き出すことはできない。
これは、カートライト自身認める通り、現象的規則から普遍法則が導出できることを否定するデュエムの議論(同じ現象的規則から両立不能ないくつもの普遍的法則を導くことができる)をアレンジし直したものである。しかし、デュエムの議論をそのまま使うなら、原因となる実体についての言明もまた同じようにして疑問に付されることになるはずである。なぜそうならないのか、というところでカートライトは結局操作と介入についてのハッキングの議論に依拠することになる(Cartwright 1983, Essay 5)。
3-3 実体実在論への批判
以上のような議論の展開から出てくる実在論は、非常に制限されたものとならざるをえない。旧来の科学的実在論者がみとめてきた科学理論のかなりの部分は切り捨てられてしまう。特に実体実在論の問題点としてよく指摘されるのは、観察的科学を軽視しているという点である。実際、ハッキングは重力レンズなど天文学や天体力学で措定される実体が直接操作可能でないことを理由にそれらの実在に懐疑的な意見を述べている(Hacking 1989)。(注3)さらに、実体実在論には、もっと実在論論争の本質に関わる批判もあるが、それはあとにまわそう。
ウォラルの構造的実在論によれば、何が実体として存在するかについての我々の形而上学的信念は近似的にも真でないかもしれないが、普遍的な科学理論によって取り出される数学的構造は安定的に受け継がれていき、近似的に真である (Worrall 1989)。ウォラルは科学理論の存在論的コミットメントを数学的構造と実体についての主張に区分して、数学的構造の方だけが擁護に値すると見る。
4-1 構造実在論と奇跡論法
ウォラルは、奇跡論法の核心は、その理論がある意味で新奇な予言(novel prediction)を行い、しかもそれに成功することにあると主張する(Worrall 1989, 101-102)。ここでウォラルが使う新奇性の概念は「使用新奇性use-novelty」と呼ばれるものである。ある理論がある現象を説明するまさにそのために作られたものであるならば、理論と現象が一致することに何の不思議もなく、奇跡とは呼べない。しかし、何か他のことを説明するために作られた理論が、まったく予期しない別のことを非常にうまく説明するならば(その別のことが事前に知識として知られていたかどうかに関わらず)これは不思議なことである。このように、「理論の構築に使われていない」という意味で「使用新奇性」という言葉が使われるわけである。ウォラルの考えでは、使用新奇性をもつ予言をある理論が成功させるとしたら、やはりその理論はなんらかの意味で正しいと考えないわけにはいかない。成功させた予言が意外なものであればあるほど、理論の正しさを否定するのは「奇跡」に訴えることに近くなっていく。
では、数学的構造と使用新奇性の関係はどうなっているのだろうか?実はウォラルはこの点についてはあまりきちんと説明してくれていないが、この部分の議論がどうなるか考えて補うのは容易である。新奇な予言が行われるということは、普遍的な法則から新しい現象についての現象的規則が導き出されるということである。したがって、ある理論から新奇な予言がなされる場合、中心的な役割を果たすのは理論の核となる普遍的な法則である。もう少し低いレベルの一般化からも新奇な予言は行えるだろうが、予言がそれまで知られている事例から離れれば離れるほど(そして予言の成功がその理論抜きには奇跡としかいいようがない度合いが高くなればなるほど)、より高いレベルの一般化、つまりは普遍法則のレベルのものが必要になってくるのである。逆に、その法則がどういう理論的実体についてのものかという実体的な解釈は、観察可能な新奇な予言を行う上ではどうでもよい部分である。したがって、理論を構造と実体的解釈にわけて前者のみに実在性をみとめるのは使用新奇性の概念をつかった奇跡論法とも整合的だということになる。
4-2 構造実在論と悲観的帰納法
この使用新奇性の考え方は、悲観的帰納法を巡る論争の中における「成熟した科学」の概念を定義するのにも用いられる。上に見たように、悲観的帰納法を、「成熟した科学」の概念に訴えて却下する論法は、ラウダンによって、論点先取でしかなく、また「成功」と「近似的真」の関係が問題となっている文脈ではirrelevantであると批判された。ウォラルの着眼は、使用新奇性を「成熟性」と「成功」の両方の定義に使うことでラウダンの批判をかわすことにある。ウォラルによれば新奇な予言を産み出す理論を持たない分野はまだ成熟した科学とはいえず、かつ本当の意味で成功しているともいえない。このやり方で、ウォラルはたとえばフロギストン説を成功した科学理論のリストからはずし、これで実在論者の仕事はだいぶ楽になる。
しかし、フレネルの光の波動説(blight spotの予測を成功させた)など、ウォラルの成熟性の基準を満たしながら否定された理論はどうなるのか?ウォラルはこの事例を「限定的な場合」として生き延びた例として説明する。ただし、これまでの実在論者のように実体についてのコミットメントまで含めて考えていては、どう考えてもエーテルについての言明を相対論の中に生き延びさせるのは無理である。ここでまた科学理論を数学的構造と事物の本性についての主張とに区分したことが役に立つ。ウォラルは理論交代において「古い理論の数学的等式が新しい理論の数学的等式の限定的な場合として再登場しなくてはならない」という要請を考え、これを「対応原理」と呼ぶ(Worrall 1989, 120)。上の奇跡論法の議論からも分かるとおり、これは恣意的な区別を導入しているわけではない。理論が全体として使用新奇性の要請を満たしているばあいでも、丁寧に見ればその理論の中で使用新奇性に関わる部分と関わらない部分があって、使用新奇性に関わる部分、つまり数学的構造だけが対応原理によって次の理論に限定的な場合として継承されていくのである。
このように、使用新奇性と関わらない部分と関わる部分を注意深くよりわけることで、悲観的帰納法の主張を全体としては受け入れつつ、科学的実在論や奇跡論法を維持できるわけである。
4-3 構造実在論への批判
ウォラルの考える使用新奇性の問題点についてはさまざまな論者が指摘している(Mayo 1996, 258-278 ; Leplin 1997 54-58)。歴史的な事例や通常の科学方法論に照らすと、使用新奇性が科学的理論選択の必要条件とも十分条件ともなっていないことがわかる。最大の問題は科学者が理論を選ぶ際に、その場で提示されたいくつかの選択肢の内から一つを選ぶ(つまりつねに科学理論の受容は他の競合理論との相対的な関係の中で決まる)ということを軽視している点にある。関連する証拠に関して使用新奇性が保証されていなくても他を圧して最善の理論なら選択されるし、使用新奇性だけは満たされていてもとうてい理論を支持し得ない証拠もある。構造実在論についてのもう一つ重要な批判点については後で見ることにする。
科学的実在論をめぐる状況を非常に図式的にまとめれば以下のようになるだろう。科学的理論を、実体についての主張、普遍的法則についての主張、ローカルな現象的規則についての主張の三つの部分に分けるとする。本来の科学的実在論はこのすべてが近似的に真であるという主張で、道具主義や構成的経験主義などの反実在論はローカルな現象的規則のみが真であるとする。実体実在論は、実体については操作介入できるものに、普遍法則についてはローカルな因果モデルにコミットメントを限定することで反実在論の反論をかわそうとする。構造実在論は、実体についての主張を全面的に放棄し、普遍法則についての数学的構造を全面的に認めることで実在論を救おうとする。両者はある種の実体についての主張(天球、フロギストン等)が悲観的帰納法を引き起こす根元だという点では同意しているわけだが、なぜ悲観的帰納法が起きるのかの理由について食い違うため、科学実在論の主張のどの部分を切り捨てるかの判断も分かれてくるわけである。ここで問題となるのは、それではどちらが(科学的実在論論争上の立場として)より優れた解決と言えるのだろうか、という点である。
まず実体実在論の方だが、科学的実在論の立場としては、いくつか大きな問題があるように思われる。実体実在論は操作可能な実体の存在をもって奇跡論法を支持するわけだが、実験の成功は本当に実体の存在を受け入れないと理解できないほど奇跡的なものだろうか?もっと別の説明もあるのではないだろうか?実はこの点についてはハッキング自身が後の論文で理論的実体の役割を大幅に縮小するような議論をしている (Hacking 1988; Hacking 1992)。彼は、実験室における実験に関連する15のファクターを列挙し、実験が安定的な結果を産み出すのはこれらのファクターをうまく調節して安定的な結果が出るようにしたからだ、という、「自己確証 self-vindication」という考え方を提示する。ハッキング自身はこの観察が実体実在論と両立すると考えているし (Hacking 1988, 513)、確かに15のファクターの一つである「ターゲット」は理論的実体のことであるから、実験の安定に理論的実体が寄与しているという考え方と自己確証の考え方は両立する。しかしハッキングの議論を一種の奇跡論法として見た場合、実験室における実験が自己確証的であるならば、「奇跡」的であるとはとうてい言い難い。実体についての想定が間違っていても、たまたま他の要素をうまくいじったために安定した結果が出るようになったのかもしれない。これは結局反実在論を強化する結果になっているといえるだろう。悲観的帰納法に関しても、実体実在論は反実在論の側にあまりに多くのものを譲りすぎているきらいがある(と実在論の側からは見えるだろう)。ウォラルのようなやり方で悲観的帰納法そのものを否定せずに「限定的な場合」の概念を維持できるのなら、実在論者にとっては歓迎すべきことだろうが、ハッキングやカートライトはそうした考え方自体を放棄してしまうのである。
この点、ウォラルの方が奇跡論法や悲観的帰納法の核心をとらえているようにみえる。奇跡論法の強みは、なんらかの意味で思いもしなかった、つまり新奇な出来事の予測にある、という洞察については、一応もっともだと思われる。ローカルな因果モデルに注目することでハッキングやカートライトが見落としているのは、ある実験をする際に、その実験の状況を設定してやればある結果が出ることがすでに分かっていて実験する場合と、その実体についての理論以外にはその結果が出ることを示唆する材料がなにもない(すなわち、いくらいじっても安定化による自己確証が成立しないと思われる)場合との落差であろう。もちろん上述のようにウォラルの使用新奇性の概念そのものは多くの問題を抱えているが、同じ路線の考え方をさらに洗練させていくことでなんとかなるかもしれない。
しかし、ウォラルの構造実在論もほかの問題をかかえている。そもそも理論の構造とその内容とを本当に区別することはできるのかどうかという点は疑問である(Psillos 1995)。本当に理論の数学的構造だけを切り離してしまえたとして、本当にそれが実在論になるかどうかも微妙なところである。たとえばウォラルは「われれが自然の基本的構成要素の本質を「理解」できるなどと考えることが誤り」といい、また、ニュートンの物理学の中に構造実在論者が発見するのは「かれの理論の中の数学的等式に表現された現象自体の関係であり、そのなかで理論的用語(theoretical terms)はまったくのプリミティブとして理解されねばならない」とする(Worrall 1989, 122)。このような発言は、読み方によってはファン=フラーセンの構成的経験主義とも両立しかねない。もちろんウォラル自身はそうした理論的用語を含む数学的等式が「事物同士の関係」であり「宇宙の構造」を反映しているとする点で道具主義と一線を画すと考える(118, 123)が、「内容を伴わない構造」という考え方をもっときちんと説明できないかぎり、構成的経験主義との差別化に苦労することになるだろう。(この点については、実体実在論は、その主張がうまくいきさえすれば明確に反実在論と一線を画すことができるという利点を持つ。)
このように考えると、実体実在論は反実在論との対比の明確さという点ではよいけれども、自分の立場を維持するための基礎(奇跡論法)を自ら掘り崩しているきらいがあり、構造実在論は、目指した結論のために既存の奇跡論法や悲観的帰納法を使う点では優れていても、肝心の到達点がある種の反実在論と紙一重の差しかないように見えるという問題点がある。科学的実在論が論争の一つの立場として支持されていくためには、どちらも何らかの形で乗り越えられて行かなくてはならないだろう。しかし、どのようにして乗り越えて行けばいいのだろうか?
悲観的帰納法を巡るラウダンの指摘を真剣に受け止めるなら、これまでさまざまな科学理論が主張してきたことを全部まとめて近似的に真だといってすますことはできないのは確かであろう。この点については、キッチャー、レプリン、シロスらの最近の実在論擁護の中でもおおむね認められている。たとえばキッチャーやレプリンはフレネルの理論を例にとってエーテルについての存在論的解釈の部分を切り捨てる必要性を認めているし、シロスは同じ光学エーテルの例を使い、そうした存在論的主張はヘッシーの言う類推的モデルと理解するべきで、そもそも科学者達自身もエーテルの実在性にコミットしていなかったという(Kitcher 1993, 140-149; Leplin 1997, 146-148; Psillos 1999, 130-145)。ただ、彼らのいずれも、ハッキングの「介入」やウォラルの「使用新奇性」のようにシンプルでかつ説得力のある実在性の基準を打ち出すには至っていない。むしろ、さまざまな事例について、ケースバイケースで理論の実在的な部分と非実在的な部分とを区別していくという各個撃破的な方針がとられているようである。(レプリンはこの中でもウォラルと別の「新奇性」の分析を使って実在論を擁護しようとしている点でがんばっている方であるが、彼の場合は新奇性概念の分析が悲観的帰納法に対する処方と有機的に結びついてはいない。)
しかし、もしかしたらそのような各個撃破体制は、むしろ実在論の側の成長を示すものなのかもしれない。つまり、実体実在論も構造実在論も、おおざっぱに科学理論一般についてまとめて議論しようとしたところに問題があったのかもしれない。もしそうだとすれば、今後、科学的実在論論争は科学の各分野における実在論論争としてより洗練された形で生き延びていくことになるだろう。しかし、そうやって科学哲学が個別科学と密着していくことについては若干の不安がないわけでもない。ウォラルやハッキングの提示するような一般的な基準を失った実在論論争は、結局それぞれの分野の科学者達自身が、何を実在とみなし何を虚構とみなしているか、その判断をどうつけているか、というローカルで実際的なルールにもっと注意を払わざるをえなくなるだろう。そうした実際的なルールを科学哲学の対象としてとりあげることはもちろん歓迎すべきだが、科学哲学自身がそうした科学者達の使うルールに支配されるようになってしまっては元も子もない。
科学的実在論論争とは、そもそも、科学者達自身が自分たちの最高の基準にもとづいて真だとみなす科学理論について、さらにその本性を問う営みだったはずである。科学者達自身が「電子は負の電荷をもつ」というような言明を受け入れた時に、それは本当に実在するものについての言明なのか、それとも違うのか、ということが問題だったはずである。このような営みにおいては、個別の領域で科学者の使う実際的なルールは吟味の対象であって、それに依拠して科学哲学が成立するようなものではない。そうした吟味のためには、やはり一般的な科学的実在論論争の枠組みは必要だろう。科学的実在論争が各個撃破型の細分化されたものになっていくことは、必ずしもこうした大きな問題が見失われることを意味しないが、そうした危険性を常に心にとめておく必要はあるのではなかろうか。(注4)
注2 この説明からもわかるとおり、ここで実体と訳されているentityは、日本語で「もの」とでも訳すべき直観的・日常的な意味のことばである。実在論の文脈で「実体」というとsubstanceと混同されがちであるが、まったく違うものなので注意されたい。
注3 ただし、よく誤解される点であるが、ハッキングは観察とは何かについての詳細な分析も行っており、観察だけによる科学がそもそも科学ではないとまで言っているわけではない。Hacking 1983, 183-185やHacking 1989, 552など参照。
注4 本稿は2001年の科学哲学会大会において発表された原稿に加筆したものである。当日出席された方には有益な意見を多くいただいた。
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