科学哲学における疑似科学の重要性
科学哲学コロキアム発表
June 29, 2003
伊勢田哲治(名古屋大学情報科学研究科)
要旨
現在の科学哲学において、境界設定問題はあたかも過去の実証主義的科哲学の時代の遺物であるかのように扱われている。特に、現実の科学のあり方に即した科学哲学をめざす自然主義的潮流においてはその傾向がつよい。本発表においては、近著『疑似科学と科学の哲学』でとりあげた事例の考察を通して、疑似科学と科学の関わりを考えることが現在の科学哲学においても(自然主義的な科学哲学を進める上ですら)重要であるということを論じる。

1 境界設定問題をめぐる認識の変化

(1)1930年代〜1970年代

境界設定が科学哲学の重要問題であるという点で一致

論理実証主義----意味の検証理論
ポパー----反証主義(方法論的反証主義)
クーン----通常科学としての営みを基準とする境界設定
ラカトシュ----リサーチプログラム論

これらの境界設定基準のそれぞれに対してファイヤアーベントらから科学史に基づく批判があびせられる

(2)1980年代 境界設定問題をめぐる論争
社会的背景
ユリ=ゲラー騒動を起点とした超心理学への関心----SCICOPの結成
アーカンソー州法をはじめとした創造科学を巡る論争

マイケル・ルース
・境界設定の五基準を提示、法廷で証言(Ruse 1996に収録)
(a)自然法則の探求(b)自然法則による経験的世界の説明(c)経験的な証拠と比較されテストされること(d)反証不能ではない(e)理論は一時的なものであり変更可能であること
マリオ・ブンゲ「疑似科学とは何か」(1984)
12項目に及ぶチェックリストをあげ、それを全て満たしているものだけが科学であるとする。(その中には「知識についての実在論をとること」とか、「明確さ、正確さ、深さ、整合性、真理を重視する価値体系を持つこと」といった条件も含まれる)

ラリー・ラウダン「境界設定問題の逝去」(1983)→ルースを批判
・科学と疑似科学を分けるような必要十分条件は存在しない
・「よい科学」と「悪い科学」の区別は可能だが「科学」と「疑似科学」は区別できない
スティーブン・トゥールマン「新しい科学哲学と「超自然」」(1984)
・自然(normal )と超自然(paranormal)の境界は一定していないので、現在の境界設定に対しては謙虚さが必要

(3)1980年代後半以降

80年代初頭の論争を最後に、境界設定問題をめぐる科学哲学者による論文はほとんど見られなくなり、科学哲学の問題としてはほとんど省みられなくなった観がある。

2 境界設定問題はなぜ衰退したか

a. 単一の基準で線を引く試みの失敗の繰り返し
b. 科学知識社会学の流行----科学も社会的営みに過ぎないことの強調
c. 科学哲学における細分化----「物理学」や「生物学」の枠内で仕事をするため科学全体を問題とすることがない
d. 英米哲学全体の自然主義的傾向----トップダウンの規範的主張を避け、実際の営みを起点としてもっぱら記述的主張を行う。

しかし、こうした傾向には問題があるのではないか。
aについて
単一の線で区別できないからといって科学と疑似科学の間に違いがないことにはならない。(あいまい述語全般に共通する問題)
bについて
・科学知識社会学の観点からいっても科学と疑似科学の違いを知ることは重要であるはず。
→ストロングプログラムより「もっと強いプログラム」
ストロングプログラムの「対称性の信条」(tenet of symmetry)は合理的信念と不合理な信念を同じタイプの原因(特に社会的原因)で説明することを求めるが、社会学的探求の次のステップとして両者の信念の違いを原因の差(社会的原因の内部での差)で説明する方向に進むべきではないのか。
cについて
ある分野の特徴を知るためには他の分野との比較は欠かせないはず。極度な細分化は科学哲学にとって利益にはならない。
dについて
疑似科学をめぐる論争は政策や教育にかかわる広範な規範的問題を含んでいる。そうした場で科学哲学の立場から言えることについて発言するのは科学哲学者としての社会的責任では。
あくまで規範的主張をさけるとしても、「もっと強いプログラム」は自然主義的科学哲学にも当てはまるはず。

3科学哲学上の問題を考える上で疑似科学の果たす役割(各論)

疑似科学について考えることは科学哲学上の立場の試金石としても重要
基本原則:科学と疑似科学を含めたさまざまな分野についてダブルスタンダードとならないような一貫した分析を行うこと

3-1 方法論の問題
科学と疑似科学を区別するような方法論的違いを特定できるか。
メンデルを評価し超心理学をけなすならその方法論的根拠はなにか。
反証主義のような単純な基準ではうまく処理できないのは確か

→疑似科学を特徴づけるのはむしろ利用可能性バイアスや代表性バイアスなどの「信じやすさの心理学」
→ある方法論が妥当かどうか区別する際のメタ規則としてベイズ主義を用いる

3-2 科学的変化の問題
科学の変化についてのさまざまな立場は疑似科学のからむ事例もうまくあつかえるか?
パラダイム論、リサーチプログラム論、リサーチトラディション論

事例:ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』とウェゲナーの大陸移動説
ウェゲナーを新しいパラダイム(リサーチプログラムetc)の出発点として高く評価するなら
両者についての科学者の評価は大きく違うが、その違いをうまく説明できるか?

ウェゲナーの説も当初は通常科学としてあまり機能していない
→クーンの境界設定基準で両者を区別するのは難しい
ヴェリコフスキーの立場が注目されたのは新奇な予言を成功させたから
→前進的リサーチプログラム?ただし「集団的記憶喪失」の考え方は後退的プログラムの特徴
既成の物理学と整合しないという点ではどっちもどっち。

両者に対する直観の差は定性的なところより定量的な差に求めるべきでは。(線引きを放棄するのとは違う)

3-3 実在論の問題
実在論論争上の立場は疑似科学についても納得のいく回答をだせるか?
超心理学(超能力研究)や「火星効果」の例
すくなくとも一部の研究は制度的・方法論的に非常に洗練されている。
科学的実在論の側----「成熟科学」の基準をどうとるか次第では超能力の実在にコミットせざるをえない可能性
反実在論の側----超能力と電子を同列にあつかわざるをえない危険性
NOA----これだけ論争のある状態を単にありのままにうけとめるのは哲学者として無責任では

介入実在論の立場からはこの論争について比較的説得力のある結論が出せる

3-4 機械論的世界観の問題
科学哲学において科学の特徴づけとして機械論的世界観が論じられることは少ないが、疑似科学の側からはしばしば攻撃の対象とされている。科学哲学の視点から機械論的世界観はどう評価すべきか、もっと論じられてもよいはず。

機械論的世界観-----機械的な力による説明、要素還元主義
機械的な力----歴史的には近接作用のみを指していたが、現在では「比較的単純な数学で記述できる力」あたりが妥当な定義か。
要素還元主義----部分の働きの組み合わせで全体の働きが発生。「位置関係」のような多項関係が各項に還元できないという考え方(「穏健な全体論」)とは必ずしも対立しない。

形而上学としての機械論はテスト可能な命題ではないが、発見法や正当化基準としての機械論はその実績から評価できる→よほど失敗しないかぎり機械論にこだわる十分な理由がある。