2002年11月6日から9日にかけてアメリカ、ミルウォーキーで行われた科学史学会(HSS)、科学哲学会(PSA)科学社会学会(4S)の合同年次総会(PSAは隔年総会)について報告する。広い意味で科学技術論を考えた場合、科学史、科学哲学、科学社会学は科学技術論を構成する主な三分野であるが、科学史と科学哲学は各大学の教育組織においてもHPSプログラムという形で統合されていることが多いのに対し、科学社会学はこれら二分野とは若干距離をおいてきた。その背景としては、科学や技術というものの基本的なイメージについて、合理主義的な立場をとるかとらないかという点での対立があったと思われる。今回はこの三つの学会が初めて合同で総会を行うことで、両者が歩み寄り、科学技術論という分野が今後より実り多い成果を上げていく一つのきっかけになるのではないかと思われる。なお、科学哲学関係でPSAと4Sの両方のセッションに名前を連ねているのはスティーブ・フラーやミリアム・ソロモンといった社会認識論の研究者で、社会認識論が二つの文化の橋渡しに寄与していることが推測される。三学会合同ということで同時に非常に多くのセッションが並行して行われたため、私が参加できたのは全体から見ると非常に限られた数のセッションにすぎないが、その中でも興味を引かれた発表についてその内容を報告する。なお、以下のまとめはすべてその場で聞き取った内容に基づくものなので、不正確な面があるだろう。正確な点については、各学会の予稿集や各学会誌の学会報告特集号などを参照されたい。
初日前半は科学社会学会のセッションのいくつかに参加した。
「誰が科学者・技術者になるのか」と題されたセッションでは、まず、バルマンにより、アジア系アメリカ人を巡る問題が論じられた。アジア系はアメリカの全人口の4%を占めるが、科学技術者に限ると10%を占める。このあたりからアジア系アメリカ人は「モデル・マイノリティ」であるという認識が生まれてきたが、これは統計の見方によっては単なる神話にすぎない。まず、アジア系として十把一絡げにすると、中国・韓国・日本・インドなどの出身者とフィリピン・ベトナムなどの出身者との差が見えにくくなってしまう。また、1965年まではアジアからの移民がみとめられず今でも量的に制限されているため、現在のところアジア系移民のかなりの割合を第一世代が占めており、彼らは非常に高い確率でPh.D.を保持している。この層と第二世代以降の層との差も無視できず、黒人など他のマイノリティと比べるには第二世代以降を比較対象にする方がむしろ適当かもしれない。また、大学でも管理的な立場になるとアジア系アメリカ人の比率が極端に低くなるという統計もある。
同じセッションで、ルセナは非工学系の大学を出た者が技術者として働く例を紹介し、注意をうながす発表を行った。特に発表の中で使われたのは、アパッチヘリコプターの開発にたずさわる二人のプログラミング関係の技術者である。彼らはどちらも生物学系の学士号しかもたなかったが、プログラミング関係の仕事をまかされ、コミュニティカレッジでコンピュータ言語を勉強したあと技術者としてのキャリアを積み、今ではかなりシステムの中枢部に関わる部分を担当している。こうした非工学系教育をうけた技術者の割合は、現在のアメリカでは40パーセントを越えるという統計がNSFによって出されている。発表者は、これをもとに、工学教育の「パイプラインモデル」、すなわち技術者を作るためには一貫教育をする必要があるという考え方を考え直す必要があるのではないか、という示唆を行った。また、これら、非工学系教育をうけた技術者が成功している理由として、技術者としてのアイデンティティを持たないために企業が組織変化をしなくてはならないときに柔軟に対応できることをあげた。そうしたアイデンティティを強化する方向で進む工学教育に対して疑問を投げかけた。
「証拠」についてのマイケル・リンチがチェアをしたセッションでは、ゴランがレントゲン写真の法廷における証拠能力を巡る歴史的過程について論じた。写真の証拠能力については法律家と素人(陪審)の間で大きな理解の差が存在しつづけてきた。アメリカの法律システム上は写真はあくまで説明用の道具でしかないが、陪審は写真自体を証拠として認める傾向があり、両者の間の調停として、証拠写真の提示には必ず目撃証言を伴うという形式が取られてきた。19世紀末にレントゲン写真の技術が開発された際、医学プロフェッションはそれを実用化することに消極的だったが法律家たちはこれを法廷に取り入れようとした。しかし、もちろんレントゲン写真は通常の写真よりさらに解釈がむずかしいため、法廷証拠として使うにはどうしても専門家が証人として出てくる必要があり、専門家は誰かということが論議となった。当初消極的だった医学プロフェッションも法律家の側からの要請に答える形でレントゲンの専門家を養成していくことになる。その結果、医学プロフェッションがレントゲン写真の製造と解釈に関する独占権を持つことになった。法廷証拠としてのレントゲンが確立するにあたっては、発表の結論としては、法律家と医学プロフェッションという二つの専門家グループの間のダイナミックな関係が大きく関わっている。
「デジタルデバイド」に関するセッションでは、なぜジェンダー間・人種間でデジタルデバイドが存在するかということについて、バルマンがニューメキシコ大学での女子学生やマイノリティ学生(特にヒスパニック)への聞き取り調査をもとにした発表を行った。コンピュータ関係の学部に来た女子・マイノリティ学生でも、社会化の過程ではコンピュータを扱う人間になるという自己イメージを持つことはなく、特に女子の場合には数学ができないという自己イメージからくる自信欠如が観察された(実際の数学の成績における男女差は縮まっており、正確な認識というよりたんなるステロタイプとしての側面が強い)。彼らはコンピュータ関係の仕事につくことを経済的地位の向上のためとみなす強い傾向があることも判明した。コンピュータ科学やコンピュータ業界における女性・マイノリティの役割モデルとなる人物欠如も明らかになった。カーネギーメロン大では同種の調査に基づく改善の結果コンピュータ関係の学部における男女差が縮まっており、調査に基づく改善は重要である。同じセッションで、フルサングはデンマークでの社会実験の実践例の報告を通じて、デジタルデバイドの解消といった技術の変化のためにそうした実験がはたす役割について論じた。デンマークでは老人が自立生活できるようなシステムを整える政策がとられ、また、公共機関の情報化も精力的に進められている。その中で、実験的に、老人を対象とした小グループでの情報教育の試みが進められている。報告された事例においては、キーボードを触ったこともなく英語を使ったこともない老人(主に農家の婦人)たちが集められ、かなりスムーズな学習がすすめられた。しかし、講習期間が終わったあとでは(格安でコンピュータを提供したにもかかわらず)またメールを使わない生活に戻ってしまった参加者が多かった。メールの使い方が分かっても結局メールを送る相手がいないこと、地元のスーパーなどがネットを通した買い物などにあまり積極的でないことなどが要因として挙げられる。この発表をうけて、デジタルデバイドの解消には、社会的な基盤の整備、そして情報技術そのものへの見方の変更などが必要なのではないか、というような意見が会場から出された。
「科学の組織的・制度的文脈」セッションでは、ロナルディとジャクソンは技術的決定論的言説が与える影響について発表した。彼らが使うのは電話会社(US West)とインターネットベンチャー(Qwesst)の合併の例である。US Westは120年の歴史と14州にわたる顧客を持つ堅実な企業であり、Qwestは5年の歴史しかなく顧客もないに等しい。経済学的見地から両者を比較すれば、どう考えても電話会社の方がインターネットベンチャーを併合する形になるはずであるにもかかわらず、実際に起きたのはその逆で、むしろベンチャー企業が主導で電話会社を併合する形になった。そうした逆転現象を生んだ要因として、両者を取りまく言説空間(特にベンチャー側が利用した言説)が分析される。そこでは「インターネットの未来」ということで、インターネットの利用の拡大について技術決定論的な見方が振りまかれている。ここでは技術決定論が一定の未来の不可避性を説得するためのイデオロギー的なフィクションとして統制の道具に使われているのである。この発表に対しては、言説空間と実際の企業間の意志決定を安易に結びつけることに対する批判が会場から出された。
初日の最後は科学哲学会の「実在論」セッションに参加した。このセッションでは、近年の科学的実在論論争で特に論争の中心となっている構造的実在論を巡る問題、および、悲観的帰納法と呼ばれる論法をめぐる問題が論じられた。チャクラバティは構造的実在論の中でもフレンチなどが支持する存在論的構造的実在論(OSR)について批判を行った。OSRは観察不能な対象というものの存在を否定して、観察不能なものについては、構造以外分からないというだけでなく、知るべきものがそもそもなにもないという過激な存在論的な主張をする。そうした考え方の根拠となるのが現代物理学である。発表者はこの考え方に対し、存在論的変化を要請するための条件を何一つ満たしていない、として厳しく批判する。ある構造が存在するためには、その構造である何かが存在していなくてはならないはずで、構造を使って観察可能な現象を説明するにも、やはり対象の存在が必要となってくる。では、OSRが妥当と思われるような事例にはどう対処するべきなのか。この点については発表者は、内的実在論を観察不可能なもののみに対して局所的に取り入れることでこの問題は解決するのではないかという見通しを示した。この発表に対して、会場のエラン・マクマリンから、OSRが説得力をもつのはそもそも量子力学の世界だけで、この話は科学の95%とは何の関係もないのではないか、というコメントが寄せられた。
同じセッションで、ヴォツィスは、構造的実在論のもう一つのパターンである認識論的構造的実在論(ESR)について、古典的なニューマンの反論の不備を指摘する発表を行った。これはラッセルの1928年の議論にニューマンが答えたもので、ラッセルは見えるものの関係から見えないものの関係について信頼の置ける推論ができると論じたのに対し、1929年に単なる関係の集合についての知識は些末であるか偽であるかどちらかである、とニューマンが反論した。この反論は1985年に再発見され、現代の構造的実在論への決定的な反論として利用される。ヴォツィスはこれに対し、「存在論的相対性」におけるクワインを一種の構造的実在論者と読む解釈を援用して、ある命題をアプリオリに証明できるからといって経験的内容がないことにはならない、という趣旨の反論を行った。(会場からも批判がでたが、わたしはヴォツィスの議論は誤ったアナロジーに基づいているという感触をもった。)
同じセッションで、チャンは構造実在論やその批判者であるシロスの立場を「保存的実在論」(preservative realism)という呼び名で一括し、保存的実在論は実際の歴史に照らしてもあまりうまくいかないことを示した。保存的実在論とは、「誤っていたが成功した理論」の例について、誤った理論のうちある部分は保存され、その部分によってその理論の成功が説明できるので、そうした事例は科学的実在論への反例にはならない、という立場をとる。最近ではシロスがカロリックの概念を例にとって、カロリックという概念自体はカロリック理論の成功にはあまり関与していなかった、という議論を組み立てている。しかし、チャンによれば、シロスのカロリックの概念の歴史の扱い方は非常に歪んでいて問題がある。シロスが無視するいろいろな事例において、カロリックの概念やその分類が、潜熱の説明、熱放射の説明、気体の法則の説明などに中心的な役割をはたしたことがわかる。カロリックは、ザハルの言う意味での新奇な予言をする上ですら役にたっている。この発表に対しては会場のアーサー・ファインから、保存主義はそもそも非常に奇妙な帰結を含意するので考慮に値しない旨のコメントがあった(が、おそらくファインのコメントはちょっと的を外している)。
最後に、スタンフォードは、キッチャーの実在論擁護の議論を批判している。キッチャーは、カロリックやエーテルは、科学者たちによって実在すると考えられたというよりは、なくてもすませられる道具として導入された措定物でしかない、と論じ、そういう仮定的な措定物は科学の成功の説明から除外しようと提案する。もしこれがうまくいくならば、悲観的帰納法の問題をある程度避けることができるが、実際の歴史上のテキストはキッチャーの解釈を全面的に否定している。マックスウェルもラボアジェもブラックも、エーテルやカロリックを単なる仮定的なものではなく、現象の説明に絶対必要なものとみなしていたことがわかる。仮定的な措定物と説明に絶対必要な措定物の区別を後知恵で今の我々がつけることはできても、当事者である科学者たちはそうした能力を発揮していない。ここからは、そうした区別をする能力についての悲観的帰納法が導き出せて、悲観的帰納法をかえって強化することにすらなる。この発表に対しては、マクマリンから批判がなされ、シロスやキッチャーの悲観的帰納法への答えは彼らの実在論擁護の核心ではないので、実在論への反論としてはこの部分を攻撃するのは的はずれではないかという意見がのべられた。(しかし、最近の文献を見る限りは、まさに悲観的帰納法をどう処理するかということが実在論と反実在論の分かれ目となっており、マクマリンの批判はアンフェアと言わざるをえない。)
二日目最初は「科学的表象のプラグマティックス」と題するセッションに参加した。ロナルド・ギアリーの発表はモデルの考え方の基本の説明であった。「表象する」というのは二項関係ではなく、誰かが何かの目的をもって表象するという要素も無視できない。自然主義的な科学理解にとっても、人間の目的を持ち込むのは大事。目的を持ち込むのは自然主義に反するように思われがちだが、進化によってえられた目的を持ち込むのは自然主義の観点からも当然である。
同じセッションで、マリー・モーガンは経済学におけるモデル構築における想像力や視覚化の役割を強調した。彼女の使う例は契約曲線を表現するためのボックスダイアグラムである。契約曲線という考えは1881年にエッジワースによって導入されたが、そのときはまだ「箱」型ではなかった。その後パレートやバウリーによって二人の契約者を対角線上に置いた箱型ダイアグラムの形が作り上げられていき、この箱型ダイアグラムは単に図示するための道具ではなく、問題を解いたり定理を証明したりするために使われた。この歴史を丁寧に見ていくと「箱」という形での視覚化が重要だったということがわかる。
スアレスは科学において使われる表象についてデフレーショナルな立場を取ることを提案する。通常、AがBの表象であるという場合、AとBの間に類似性や同型性があることが要求されるが、この考え方はうまくいかない。表象が成立するために、類似性や同型性は必要でも十分でもなく、例えば「誤った表象」misrepresentationという現象を説明できない。むしろ表象的関係が成り立つために大事なのはAの表象的力がBを向いていること、Aを使って十分な情報を持った有能な探求者ならBについて特定の推論を行うことができるということである。
「遺伝・発達・進化」と題する、生物学の基礎的な概念をめぐるセッションでは、ニーヴン・セザルディックが「遺伝性」heritabilityという概念をめぐる哲学側からの評価に対する反論を行った。ジェンクス、ブロックを始めとする生物学哲学者は遺伝性の見積もりには内在的な問題があると論じてきた。それは、たとえば、赤い髪が差別されるために赤い髪の人の学業成績や収入が低くなってしまうとしたら、今のやり方では学業成績や収入の低さは遺伝性であることになる、という。しかし、これでは環境的要因を遺伝性の中に組み込んでしまっていることになるので、もちろん、直観的にそれは遺伝性の定義としてはおかしい。セザルディックはこれに対して、まず、受動的相関と反応的相関と能動的相関を区別することを提案する。問題となっているのは反応的相関、すなわち赤い髪という形質が周りの反応を引き起こすために生じる相関である。反応的相関と能動的相関の区別は実際的なものである。そもそも、本当に「遺伝性」という概念を行動遺伝学でこのように使うというテキスト上の証拠はない。逆にGE相関は遺伝と環境の双方の要因が区別し難く向寄与するということは行動遺伝学上も認められている。遺伝性の概念は、「環境を変えれば解消する」ものを排除するための実際的な概念として導入されているものでGE相関の見積もり方の方法論の問題ではない。
「生物学的種類と人間の種類」と題するセッションにおいては、自然種(natural kinds)という概念を人間に当てはめた場合どうなるかということについての発表がなされた。ジョン・デュプレは人間の種類と生物学的種類の関係について論じた。ここでいう人間の種類とは、ジェンダーや人種、民族などから音楽の傾向などまでさまざまなものにおよぶ。人間の種類においては、生物学の種にあたるような特権的な分類カテゴリはない。これは生物学的なプロセスの特殊性に帰せされる。一つの共通点としては、歴史性の重要性が挙げられる。社会生物学においては人間の行動への性向は遺伝的要因が大きいと考えられているが、文化主義の方が人間の行動や自由意志と呼ばれるものをもっとうまく説明できる。
同じセッションで、ポール・グリフィスは感情は自然種かどうかということについて論じた。彼は既にこの問題について本を書いているので詳しくはそちらにゆずる。しかし、「怒り」と呼ばれるもの全体に共通する特徴というようなものは見つからない。感情のカテゴリは自然種というより、ラインバーガーのいう認知的対象というものに近い。認識的プロジェクトのための定義は分類するためのものではなく、帰納的調査をよりよく進めるためのもの。科学的に使われる作業定義と社会的に使われる規範的分類は相互にフィードバックの関係を持つ、ということが論じられた。「児童虐待」や「先住民」の概念などが例として挙げられた。
「ベイズ主義と統計的推論」というセッションでは、ヴラナスがヘンペルのパラドックスに対するベイズ主義の回答はP(Ba|H)=P(Ba)という仮定に基づいており、この仮定はおそらく偽であるという趣旨の発表を行った。この発表については、「ほとんど同じ」と「厳密に同じ」の間の差が重要であるのにこの発表ではそこを気軽に飛び越している点が会場から指摘され、刺激的なディスカッションがかわされた。マグナスは理論の同一性の判定の基準についてあまりよいものがないということを指摘する発表を行った(彼の博士論文の一部だとのことである)。二つの対立理論が、実は同じ理論の別の定式化に過ぎないのか、それとも経験的に同値ではあるが本当に別の理論であるか、というのは過小決定の問題を考える際に一つのネックとなる。というのも経験的に同値だが別の理論というのが原理的にありえないなら過小決定の問題(のあるバージョン)は消滅するからである。彼はクワインの基準の不備を指摘したあと、「科学者の判断にまかせる」という自然主義的な戦略をとりあげ、これはうまくいかないと論じる。その際に例として使われるのが、1926年の段階における波動力学と行列力学の関係である。この時点では波動力学と行列力学は厳密には同値でなかったにもかかわらず、科学者たちは誤って両者を同一視した。両者はその後の改良によって実際に同値になったのでこの問題は見過ごされてきたが、科学者に理論の同一性を判断させるという考え方にとっては大きな問題となる。
三日目午前中は、まず、「Book of Evidenceの検討」と題する、ピーター・アチンシュタインの新著Book of Evidenceをベースに証拠の概念について論じるセッションに参加し、ギンベルとキッチャーの発表をきいた。(アチンシュタインは、ベイズ主義者らの主観的確率で証拠を分析する考え方に反対し、「客観的な証拠」の概念をずっと追い続けてきており、すでに証拠の概念についていくつかの著書がある。)ギンベルの発表はアチンシュタインの敷居値の概念への修正を提案するものであった。今回の著書で新しく付け加えられた考え方は証拠の「敷居値」の概念である。通常、われわれは、ある仮説に対する弱い証拠から強い証拠までさまざまなレベルが線形に存在すると考えるが、アチンシュタインの新著によれば、その仮説を「信じる十分な理由」(good reason to believe) になっているかどうかがある証拠が客観的かどうかの敷居となり、それを越えているかどうかで証拠であるかないかが決まる。具体的には、P(h/e)P(expl[h,e])>1/2という関係(ただし第二項はhとeに説明的連関が存在する確率)があることを「客観的証拠」であることの必要十分条件としてアチンシュタインは要請する。しかしギンベルは、アチンシュタインの昔の著書から例をひきつつ、これだけが唯一の敷居だというアチンシュタインの議論に反論する。具体的には「合理的な探求の対象となりうる」かどうか、「その探求で知識が得られると期待するのが合理的」かどうか、「信じる十分な理由が得られそう」かどうかといったさまざまなレベルでの「客観的証拠」が存在しうるはずである。
同じセッションで、フィリップ・キッチャーは、アチンシュタインが著書の冒頭でふれた、「証拠について哲学的分析をする目的は何か」という問題を起点に、アチンシュタインと違う証拠の理論を提示する。哲学的分析の一つの役割としては、それを科学者たち自身が利用する、という実用的な考え方があり、もう一つの役割としては、科学者の実際の営みについて反省した結果理解を深める、という考え方がある。しかしアチンシュタインの分析はどちらの観点からいってもあまりよい分析とはいえない。キッチャー自身の考え方によれば、科学者が実際にやっているのは、矛盾するように見える証拠をいろいろ修正したりしながら一つ一つ対抗仮説を消去していく作業である(キッチャーはこれを消去主義と呼ぶ)。
次に、「実践における方法論:科学哲学にあたらしい規範性は存在するか」と題するセッションに参加した。シュレーダー=フレチェットは放射能の規制に関する最近の動きを例にとり、科学哲学の最も初歩の知見が実際の科学の使用にどう役に立つかを論じた。イオン化放射(ionizing radiation) の被爆量と反応(発ガンなど)の関係は、被爆量の大きなレベルでは線形で敷居値がないということが分かっているが、少量の被爆についてはそうした線形性を認めない立場もある。この後者の立場にたって、ICRPは2000年に二つの提案を行った。そのうち一つの提案の骨子は、放射性物質の規制に関して、自然放射能よりも低いレベルの放射能は計算上まったく無視してかまわないとするものだった。しかし、もし少量においても被爆--反応関係が線形的なら、全世界規模でこの考え方を採用することで大量のガンが発生することになる。シュレーダー=フレチェットは、ICRPが「単純性」や「経験的」といった基本的な科学哲学的考え方を誤用することでこの結論に達していると論じる。(シュレーダー=フレチェット自身もICRPの意志決定にかかわっていて、自分の反対がそちらで押し切られたので科学哲学会にきてアジテーションをしているという感じであった。)
同じセッションで、アリソン・ワイリーは考古学における哲学的方法論の利用を論じた。考古学においては方法論的・メタ方法論的論争が盛んである。「新考古学」と呼ばれる動きが1960〜70年代に広まり、そこでは仮説演繹法を使って科学的考古学を行うことが主張された。それにたいしては過小決定や理論負荷性の問題をもちだす議論がなされ、また1980年代には一時期社会構成主義が流行したりといった反対の動きもあった。新考古学の流れと反対派の流れは今では収束に向かっている。哲学者は単に時代遅れの方法論の採用をネガティブに評価するのでなく、仮説演繹法がなぜ考古学で好まれたか真剣に受け止める必要がある。もう少し建設的な科学哲学の利用法として、方法論的な問題の分析がある。C14法は導入当初は考古学的年代同定の問題を解決する革命的な方法だと思われていたが、さまざまな問題があることが分かってきた。当初のC14の半減期の概算は100年以上ずれていたことがあとでわかり、修正する必要ができた。また、最近では産業化や爆弾の影響で大気中のC14の比率が上がっているため、場合によってはそれも計算に入れる必要があるなど、C14法はさまざまな微妙な要因に影響される。そして、皮肉にもC14法のカリブレーションのために考古学的な年代推定が使われる。こうした状況で、独立だが相互依存的な方法論をどう扱うか、についての哲学的議論の蓄積が使えるはずである。また、ワイリーは、どのようにして慣習的な手法が確立されてきたかについては考古学の歴史的な成り立ちについても考える必要がある、として、社会認識論的な側面も強調した。
三日目の午後は科学史学会の科学教育の歴史に関するセッションと科学社会学会のセッションいくつかに参加した。「科学教育と科学的方法」と題するセッションでは、まず、アッカーバーグ=ヘイスティングスが、アメリカにおける幾何学教育導入の経緯を紹介した。基本的には19世紀を通じて幾何学教育は心の鍛錬(mental discipline)のためということで大学教育レベルで導入され、それが高校へも広まっていった。当初はそうした鍛錬を行うことが「啓蒙された人間であるために必要である」とか「社会に出てそうした鍛錬が役に立つ」とかいう実用的側面が強調されたが、19世紀末には心の鍛錬そのものが自己目的化した。
同じセッションで、次のルドルフは、19世紀末から20世紀半ばまでのアメリカ科学教育における「科学的方法」の概念についての研究を発表した。1886年に出された実験の手続きに関するハンドブックはハーバード大学の入学試験で必須とされたために全米に広がり、このハンドブックの影響で、19世紀末の高校教育における科学的方法とは実験室でのさまざまな実験手続きを指す言葉になっていた。しかし、20世紀初頭に公立学校の数が増加、高校への入学者が増えていくにつれ、高校は大学への予備校ではなくなっていき、「科学的方法」などよりももっと実用的なことを教えるべきではないかという批判が強まっていく。これに対し、デューイは、そもそも科学の方法とは実験手続きではなく、本当の科学的方法はきちんと教えられるべきだ、と逆の側から批判し、彼の書いた「われわれはいかに考えるか」はベストセラーとなる。しかし、今度はその本の中でデューイの記述した「五つのステップ」がひとり歩きして、科学的方法=五つのステップという単純化したイメージが高校教育の中で教えられていくようになる。1945年にCommittee of the Object of General Education in Free Societyの報告で「科学的方法」についてのそうしたイメージが問題であることが指摘されたが、その後も「五つのステップ」は高校の科学教育の中で影響力を持ち続けている。
さらに同じセッションで、次のスポンセルは、ケンブリッジ大学における「自然科学トライポス」というエリート研究者養成を意図したhonors degreeプログラムの歴史について発表した。このプログラムに入った学生は物理、科学、動物学、植物学などから三つ〜四つの科目を専攻し、そのうち一つについては深い知識を持つことが求められる。このプログラムの意図としては基礎レベルで幅広い知識をもち、境界的領域で活躍できる研究者を養成することが挙げられ、実際に一流の科学者を輩出している。しかし、ケンブリッジの教員たちの間でもこのプログラムの正確なイメージについては食い違いがあり、いろいろなせめぎ合いがおこなわれてきた。一つの争点は必要科目を減らすかどうかという点である。例えば集団遺伝学者のユールは学生の成績を分析して、4科目とっている学生の方が3科目の学生より成績がよいことを明らかにし、必要科目数を減らす動きに反論した。もう一つの争点は新しい科目をプログラムに加えるかどうか、ということで、たとえばR.A.フィッシャーは1945年にトライポスに遺伝学を加えることを提案したが、物理学者のカニンガムらによって反対され、実現しなかった。対照的に生化学は1921年にすんなりと新しい科目として付け加えられたりしている。こうした流れをみていくことで、ケンブリッジの科学者たちの科学観・科学教育観が明らかになる、という趣旨の発表であった。
三日目の最後は、科学社会学会のセッションいくつかに参加した。「経済的実践と過程」と題するセッションでは、カリン・ノール=セティナが情報の認識学の必要性を訴える発表を行った。ノール=セティナが主に念頭に置くのは電子化された国際為替市場であり、こうした場における「情報」はこれまで哲学や社会学が分析してきた「知識」とはいくつかの点で大きく異なっている。ひとつには、こうした場面では情報そのものが世界を構築する、世界構築的役割を果たしていることが指摘される(セティナがここで言う「世界」は「国際為替市場の世界」であって、現実世界でないことに注意)。さらに情報は、世界を構築するだけではなく、その未来を探査し、空間を切り開くための道具としても使われる。また、ここでいう情報については、真truthであることよりもニュースnewsであること(何か予期しないものであること)の方に重点が置かれる。このため、いわゆる「正しい情報」も「噂」も、与えるインパクトや価値においてはほとんど代わりがないことがしばしばある(ふたたび、ここでセティナは国際為替市場を念頭においた分析をしていることに注意)。この性質と関連して、情報は劣化していく(decayability)。単に古くなることでも、広く同じ情報が共有されることによっても劣化はおこる。これも古典的な「知識」が共有財と見なされたことと好対照をなす。情報は消費され、その消費には時間がかかわってくる。この発表に対しては、ここでノール=セティナの言う知識の分析はあまりに古典的すぎて、ほかならぬ彼女自身が展開してきた科学知識社会学の知見をきちんと反映していないのではないか、という批判などが寄せられていた。
もう一つ参加した「モデル化」というセッションでは、シスモンドがQuest というシミュレーションプログラムを例にとってシミュレーションモデルと現実との関係について考察を行った。抽象的モデルと違い、現実のプロセスをモデル化したシミュレーションは、かえって「非現実的だ」という批判を受けやすい。「現実的」にすることで、シミュレーションは保守的な政治の道具と化す。シミュレーションのそうした性質を意識的にとりいれたのがQuestである。Questは今後40年間の未来予測をするプログラムだが、予測に必要なさまざまなパラメーターをユーザー自身がいじれるようになっている。つまり、ある仮定を非現実的だとユーザーが思えば、そこを好きに改変してもらってかまわないように作ってあるわけである(ただし、そのパラメーターをいじった結果どういう影響が出るかの計算のところはいじれないようになっている)。シスモンドはQuestのプログラムを、シミュレーションにおける科学の要素と政治の要素を区別しながら融合させたものとして評価する。
(スポンサー向けまとめ)
以上、三学会に参加して科学技術論の現状に触れたわけだが、本調査の目的である「科学技術倫理教育システム」という観点からポイントをまとめたい。まず、これらの学会の性格上、直接科学技術倫理教育を扱う発表こそなかったものの、科学技術倫理教育や科学技術教育はどうあるべきかという点、またそこでの教育内容についてはいろいろな示唆が得られたものと思う。科学技術倫理を考える上で、科学技術と社会がどういう関係にあるかの理解は不可欠である。たとえばデジタルデバイドは現在情報技術が生んでいる社会問題の中でもなかなか見えにくいものの一つであり、その根は深く、対応は難しい。工学系の学生にデジタルデバイド(や他の技術における同様の問題)について理解してもらい、将来設計などをする上で情報弱者に配慮した設計を心がけてもらうことは、問題の解決にはならなくとも軽減に寄与するであろう。また、男女間のデジタルデバイドについては教育のプロセスが重要になってくるのは明らかであり、アメリカでの取り組みの長所・短所を分析していく必要があろう。
また、非技術系教育を受けた技術者がアメリカで多く存在しているという指摘は技術倫理教育のイメージの転換を迫るものである。現在のところ工学部が中心となってすすめている技術倫理教育の在り方は大きく見直す必要があるかもしれない。(ただし、上記の紹介のところでも触れたとおり、これが情報技術以外の分野にどの程度あてはまるかは慎重に見る必要がある。)
また、科学技術における社会的要素の存在をどう教えるかというのもきちんと考える必要がある。技術決定論的言説の影響力についての発表はその点について考えさせられるものであった。日本でもとくにIT技術に関して技術決定論的な言説は多くみられるが、それを真に受けすぎると危険なのは確かである。技術決定論に対して批判的な視点を持つことは、IT技術を担う技術者はもとより、すべての人に求められることであろう。
ただし、逆に、科学技術と社会の関係を強調しすぎるあまり、科学的真理とは社会的に作られるものだ、というような考え方を教え込んでしまうのは考え物である。科学の合理的側面を分析する科学哲学の知見とうまくバランスをとりつつ教育していく必要があるだろう。放射性物質に関する政策の科学哲学的分析などにみられるように、科学哲学の側からも現実の問題に即応していこうという動きは存在している。科学技術と社会の関係を本当によく理解し、科学技術者としての正しい行動指針を身につけてもらうには、科学哲学のそうした側面をうまく科学技術教育のなかに取り込んでいくことが必要であろう。科学史学会の科学教育に関するセッションで紹介されたようなさまざまな歴史的試みは、そういう観点からも批判的に吸収していく必要があろう。
(科学哲学関係者むけまとめ)
以上の報告は、私自身の参加したセッション、発表に基づいているので、いかなる意味でも科学哲学会や科学社会学会のバランスのとれた概観になっていない。その埋め合わせとして、すこし今回の科学哲学会について概観的な観察を行っておく。プログラムを見る限り物理学の哲学と生物学の哲学のセッションが二つの柱として目立つ。一昔前の科学哲学の三本柱は「説明、検証、実在論」だったが、この三本柱はすっかり影が薄くなり、個別科学寄りの研究が中心となってきていることが伺える。(以下の報告では実在論のセッションをずいぶん丁寧に紹介しているが、それは報告者の関心によるものである。)また、今回のプログラムでは因果性を表題に掲げるセッションが多い点、モデルについてのセッションが(私の参加した「表象のプラグマティックス」のセッションも含めて)三つにものぼった点が注意を引く。
私が見た範囲での全体としての感想めいたことも述べておこう。まず、あまりとりあげなかったが、ベイズ主義関係の発表の質が低いのが若干気になった。逆に、実在論のセッションは一つしかなかったが、焦点の絞れた発表が多く、参考になった。これは、いみじくもこのセッションの最初のスピーカーが言っていたように、現在この論争で主に発言しているのがウォラルらイギリス系の哲学者ばかりで、議論が深まりやすいという点が挙げられるだろう。
科学哲学会と科学社会学会の比較だが、スタイルの点で気になったのは、科学社会学会ではhandoutもtransparencyもなしに原稿を読み上げる人の比率が多かった点であろうか(なんとなく科学社会学会の方がハイテクなイメージがあったのでこれは意外であった)。この点、科学哲学会はほぼ全員がtransparencyを用意していた。パワーポイントは科学哲学会でもまだかなり少数派であった。
「証拠」や「モデル」に関するセッションは科学哲学会、科学社会学会の双方で開かれ、当然のようにそれぞれのアプローチでの発表が行われていた。私自身は両方を梯子していろいろ示唆を得るところが大きかった。しかし、両者がもっと対話することでお互いに得るものはあるだろうし、テーマが重なるものについては合同セッションを持つということもおもしろいかもしれない。
科学哲学会では今回日本人の発表者はだれもいなかった(前回と前々回は私が発表したが)。科学社会学会で日本のSTS研究者が一勢力として確固たる場所を持っているのとくらべ、寂しい限りである。日本の科学哲学者ももっとこういう場所に出てきてみるべきではないだろうか。
(本報告は平成14年度科学技術政策提言「科学技術倫理教育システムの調査研究」の一環としてなされ、同提言のための振興調整費によって行われたものである。)