技術者のプロフェッショナリズムの倫理における役割

伊勢田哲治(名古屋大学情報文化学部)

アメリカでは確立した動きとなっているかに見える技術者の社会的な責任の問題であるが、日本ではこの問題に対する技術者たちの反応は今のところあまりよいとはいえない。本発表では、プロフェッションとしての技術業、特にその心理的な影響に的をしぼって、日本とアメリカの間の差、およびその差を(縮めるとすれば)どう縮めればよいのか、という問題について考えたい。

1 技術業はプロフェッションか
日本とアメリカの技術者の間の大きな差として、「プロフェッション」としての意識の差、特に日本の技術系の学協会が専門職の職能団体としての性格を持ってこなかったことを指摘する議論がある。確かにアメリカの技術者倫理の文脈ではプロフェッションとしての自覚が重要な役割を果たしているようにみえる。例えばNSPE (National Society of Professional Engineers)は団体名に 「プロフェッショナルエンジニア」という言葉を入れていることからも分かるように、技術者のプロフェッションとしての自覚を強調している。NSPEの倫理綱領は技術業における倫理綱領の代表的なものだが、この綱領の前文や基本的規範の項を見ると、技術業がプロフェッションであることと技術者への倫理的要請とが密接に結びつけられている。たとえば前文では「技術者はプロフェッションの成員として正直さおよび高潔さの最高の基準を示すことを期待されている」とし、そこからさらに進んで公平さや公衆の安全、福利などへの配慮も要請される。同じような論法は代表的な工学倫理の教科書(例えばC. E. Haris et al. Engineering Ethics: Concepts and Cases second edition, 2000) でも踏襲されている。
しかし他方、社会学的な観点からは、技術業がプロフェッションとしての性格に欠ける部分があるという議論も根強くある。その極端な例として、Encyclopedia of Applied Ethics (1998)のProfessional Ethicsの項で、Timo Airaksinenが、「疑似プロフェッションとしての技術業」という項目を立てて論じている。プロフェッショッンという言葉は日常語では単に職業を持つものという意味で用いられるが、professional ethics という場合のプロフェッショナルとは、「ある価値に基づいたサービスの理念(value -based service ideal)と自分たち自身の分野の抽象的知識を保持する諸個人だけのグループの成員であること」だとAiraksinenは(厳密な定義ではないと断りながら)定義する。この意味でプロフェッションと呼べるのは医者、弁護士、教師、会計士などである。これらのプロフェッションはいずれもその職業に内在的な価値基準・目標(医者ならば健康、弁護士ならば正義、教育者なら人間的成長、会計士なら公平さなど)をそなえている。これに対し、技術業は職業に内在的な目的・価値基準をもたない。「橋を造りたい」というような欲求を外から与えられてはじめて仕事が成立する。確かに技術者の団体も安全とか公共の福利とかをうたうけれども、それはそれ自体が目標なのではなく、技術業にとっては横からの制約 (side-constraint) でしかない(とAiraksinenは言う)。
Airaksinenほど極端でなくても、技術業はプロフェッションかもしれないがプロフェッションとしての意識を持ちにくい、という議論はいろいろある。Robert Perrucci は社会学の観点から、なぜ技術業がプロフェッションとしての意識を持ちにくいかを分析している(R. Perrucci, "Engineering: professional servant of power", in E. Freidson ed. The Profession and Their Prospects, 1971)。Perrucciによると、技術業というのは雇われて働くために意志決定における自律性が低く、階層間の流動性が高いために(平たく言えば医者にくらべて下層から成り上がってきた人が多い)プロフェッションとしての価値よりビジネスとしての価値の方を重んじやすく(ただしこれは技術業というプロフェッションの成立期に着目した議論なので、今ではこの要素は小さいだろう)、また教育のシステムが非常に細分化されているため全体としてのまとまりがとりにくい、というような点がプロフェッションとしての自覚をさまたげているとされる。あるいは、そもそも技術業のプロフェッションとしての意識の成立自体が「企業の中での地位の高さ」という企業依存的な文脈から発しているという歴史的な研究もある(M.S. Larson, The Rise of Professionalism, 1977)。技術者の意志決定における自律性の低さについては、例えば前出のハリスらの教科書でも認めていて、そのため彼らは技術業はプロフェッションとして「ボーダーライン」だと結論している。この自律性についての論点は、先の内的価値基準の論点と別個のものではない。というのも、Airaksinen の議論において「外から与えられる欲求」と呼ばれているものは、多くの技術者にとっては、とりもなおさず雇用者から与えられる欲求だからである。つまり、被雇用という形態で働くことが、内在的価値基準の問題を通じて、結局技術業を疑似プロフェッションにしているという言い方ができるであろう。
以上のような言説から何が見えてくるだろうか?プロフェッションという言葉の使い方は確かに人それぞれだが、以下の二点については大まかな一致が見られるように思う。
(1)プロフェッションは社会的ステータスのある同業専門家の自律的集団である
(2)プロフェッションは仕事の内容に内在する価値基準を持つ
この二つの要素---集団としての自律性と内在的価値基準---はおそらく密接な関係にある。技術業は内在的価値基準を持たないために雇われて働くという就業形態をとりやすく、その結果専門家集団としての自律性が育ちにくい。それが技術業に内在的価値基準が育ちにくい原因となり、悪循環が成立する。もしこうした見方が正しいのなら、社会学的に見れば技術業はプロフェッションとしての条件を満たしていない、ないし非常に満たしにくいにも関わらず、アメリカの技術業の特殊事情として、NSPEのような組織の活動によってプロフェッション意識が醸成されている、と言えるだろう。日本での技術者倫理を考える上で、彼らの成功の秘密を学ぶことは重要であろう。

2 プロフェッショナルとしての意識は何故要請されのか
技術業がAiraksinenの言う意味で本来のプロフェッションではなく疑似プロフェッションに過ぎないとしたら、それは技術者の倫理を考える上でどういう意味を持ちうるだろうか?少し遠回りになるが、道徳心理学的観点から考察してみたい。
工学倫理でよくとりあげられるシチュエーションは、企業内で進行している出来事について、それに関与している技術者が周囲の意向に反してある種の行動(例えば内部告発)に出ないと公衆に対する危害が予想されるような事態である。こういう事例ばかりを取り上げることや技術者に英雄的行動を求めることの問題点はよく指摘される。しかしそれにしても工学教育の中で技術者個人の倫理を問題にする一つの眼目は、やはり、技術者個人の行動以外に惨事を食い止められない場面が確かに存在する、という点にあるだろう。
われわれが道徳的に行動する上ではさまざまなサンクション(報酬や刑罰)の存在が大きい。倫理学では一般に、外的サンクションと内的サンクションを区別する。外的サンクションとは法的刑罰や社会的な非難など外からくるサンクションであり、内的サンクションとは罪の意識など心理的に働くサンクションである。プロフェッショナリズムとの関わりを考える上では、内的サンクションの中でも二つの形式を区別するのが便利である。一つは誇りに基づくサンクション(pride-based sanction、以下PBSと略)であり、もう一つは良心に基づくサンクション(consciousness-based sanction、以下CBSと略)である。ある望ましくない行為をしたときにプライドが傷つけられるのは前者で、罪の意識を感じるのは後者であろう。プロフェッショナルとしての自覚に基づく倫理は、内的サンクションのレベルではPBSとして働くであろう。
先に挙げたような企業内での技術者の倫理行動については、外的サンクションはなかなか働きにくい。むしろ、内部告発を行うことで会社にいられなくなるなど、逆方向の外的サンクションが働きがちである。さらに、ある集団の中にいて、自分自身の考え方を持ち続けることは難しい。これに関する社会心理学的な実験は数多く存在する。たとえばAshの実験では、サクラ7人と被験者1人のグループに線分の長さについて判断させるのだが、サクラたちが一致しておかしな判断を下し続けると、被験者もそのおかしな判断に引きずられるという結果が出ている。これは、PBSであれCBSであれ、かなり強い内的サンクションが働かなければ、集団内で周囲に反して正しいと思うことをやり続けることはむずかしいということを意味するだろう。Milgramの有名な服従実験はより示唆的である。電気ショックを与えるようにと実験者から指示された被験者は、被害者(実際には電気ショックをうけていない)が苦痛の様子を表すにも関わらず、多くの場合指示に抵抗せずに電気ショックを与え続けてしまう。ミルグラムの記述によると、多くの被験者は責任が実験者にある(何が起きても自分に責任はない)ことを確認してから命令に従ったし、責任の所在がはっきりしない実験状況では電気ショックを送ることを拒否した。こうした事実は、命令を受ける立場のものは責任を命令者に転嫁してしまうため罪の意識を感じないのではないか、という解釈をさそう。もしミルグラムの実験に対するこの解釈が正しければ、命令系統のはっきりした組織(企業もそうであろう)はCBSが働くには非常に不利な環境だということになる。ここでPBS、つまり誇りによる内的サンクションの果たす役割がクローズアップされるわけである。もし十分に強いPBSが働くならば、CBSの働きにくい状況でも倫理的な行動が期待できるであろう。
もちろん、PBSにしても、基礎となるのがどういうプライドなのか次第では、サンクションの内容や、サンクションが働くかどうかに大きな差が出て来るであろう。(極端な話、ソンミ村の事件などでは、兵隊としての誇りが虐殺に荷担する側に働いた可能性もある。)実はここでわれわれの元々の話題に戻ることになる。前にも述べたように、技術業というプロフェッションへの帰属意識が内的サンクションとして働くとすれば、それはPBSとして(つまり「技術者としての誇り」)であろう。しかし、もし技術業がAiraksinenの言う意味での疑似プロフェッションに過ぎないのなら、その誇りは言われたことをもっとも効率よく実現するという方向でしか働かないだろう。逆にもし、技術業が本来のプロフェッションであり、たとえば公衆の安全が技術業に内在的な価値基準であるなら、「上がなんと言おうと、技術者の誇りにかけてこんな危険な製品は世に出せない」といった形で技術者の誇りが公衆の安全を守る方向で発動する可能性が期待できるだろう。

3 プロフェッショナルとしての意識を醸成していくために何ができるか
さて、以上見てきたことは、技術業が本来のプロフェッションであること(もしそうでないなら本来のプロフェッションとなること)が技術者の倫理行動を考える上でも重要である、ということだった。そして、技術業が本来のプロフェッションとなりにくいさまざまな構造的な要因がある、ということも上に述べた。特に、日本の状況はプロフェッションという概念そのものすらまだ広く受け入れられていない状況である。プロフェッション意識の輸入が全体として望ましいかどうかは議論の必要なところだが、少なくとも利点があることは事実だろう。では、技術業を(特に日本の技術業を)本来のプロフェッションにしていくとすれば、どういうことをすべきだろうか?
まず、公衆の安全などの価値基準が横からの制約にすぎないという点についてはどうだろう?日本の工学教育ではそういう捉え方が一般的なのではないかという感触を私は抱いているが、これは実際に工学教育に携わる人たちの意見を聞いてみたいところである。もしこれが事実なら、技術業が本来のプロフェッションとなるには、公衆の安全などを技術業の内在的な目標とするような形で、プロフェッショナルとしてのトレーニングそのものが再組織化される必要があるかもしれない。しかし、上の分析では、これは単に教育の問題というより、基本的に雇用されて働くという技術業のあり方自体に端を発する問題だということであった。就業形態については技術者たち自身が高い意識を持ったからといって変わるようなものでもないし、なにより、被雇用ではプロフェッショナル意識が持てないというのであれば、組織内でも働く内的サンクションとしての効用はいずれにせよ望めないことになる。どうすればよいのだろうか?
一つの解決法としては、NSPEのようにプロフェッションの団体の組織力を強めて技術者の企業からの独立性を高めることだが、もし問題の本質が他人から目的を与えられるという点にあるのであれば、職業的結びつきを強めるだけでは十分な解決とはいえない。もうすこし概念的なレベルの解決を試みるとすれば、「他人から目的を与えられること」と「自分で目的をたてること」を両立させることができればよいのではないか。そうすればAiraksinenが技術業を疑似プロフェッションと断じる大元の根拠を切ることになり、技術業は本来のプロフェッションに脱皮するであろう。アメリカの技術者たちの中でのプロフェッション意識の背景には、このように自分で目的をたてることを技術業の営み自体の中に取り込むことに成功したことがあるのではないだろうか。たとえばMcGinnの聞き取り調査の中には、興味深い例が登場している(Robert E. McGinn, "Optimization, Option Disclosure, and Problem Redefinition", in Professional Ethics 1997 Spring/Summer issue)。それによると、ブラウン氏(仮名)は、自分で会社を持ち、他の企業から発注をうけて設計などをおこなっている。あるとき彼の会社は自転車のフレームを新素材を使って軽くする設計を委託された。ブラウン氏は、新素材に移るまえに現行のフレームが本当に最適化されているかどうか計算することを提案したが、発注企業の担当者から断られた(現行のフレームはその担当者が設計したものだった)。にもかかわらずブラウン氏は自前で計算を行い、新素材を使わなくても軽量化が可能だという結果を得た。ブラウン氏は発注企業の上層部にこれを報告し、その結果彼の会社に対する契約は打ち切られた。この例は自分の会社を持つ技術者なので被雇用技術者に簡単に拡張はできないにせよ、「他人から目的を与えられること」と「自分で目的をたてること」の両立について一つの考え方を与えるのは確かであろう。これもまた、ある意味では、工学教育の中で、技術者の問題解決の態度として教育されるべきことがらであろう。