応用倫理の方法論--功利主義ははりこの虎か?--

1995.3.19

京都大学博士課程 伊勢田哲治

倫理学者の実践問題への発言は、生命倫理の領域を中心に、環境倫 理、ビジネスエシックスなど、広い範囲にわたりはじめている。しかし、そうした発言を 行う論文を見るとき、いかなる方法論に基づいて思索を進めているのか必ずしも明らかに されていないことが多く、ともすれば直観のおしつけにしか見えないことがある。本発表 ではこれまでに提起されてきた様々な方法論を比較検討しつつ、よりよい方法論への模索 を行っていきたい。具体的には、功利主義をはじめとする演繹主義、決疑論、原則主義の 3つの方法論を検討し、最終的には発表者は一種の演繹主義を支持する。

なお、ここでは、「応用倫理学」という言葉は倫理学の知見を生かし た実践問題への取組み全般を指す広い意味で使う。必ずしも「応用」という言葉を額面通 りに受け取る必要はない。

もっとも素朴な方法論

「応用」という言葉を額面通りに受け取るならば、倫理学理論を特定 の課題に「応用」することによって行為の指針を得るというモデルがうかぶ。これを演繹 主義(deductivism)と呼ぶことにしよう。

たとえば、最初にすべての規範的判断の基礎となるべき第一原理を定 め、そのほかのあらゆる規範的判断はこの第一原理と事実命題から演繹される、とする立 場は演繹主義である。いうまでもなく功利主義はこのタイプの演繹主義である。

ただし、倫理学理論の応用という場合、必ずしも最初におかれるのは 単一の第一原理である必要はない。ロールズの正義の二原理のように序列のはっきりした 複数の原理が最初にあってもよいし、葛藤が起きたときの調停原理だけが定まっているよ うな理論も考えられる。

また、逆向きに考えれば、演繹主義を正当化の理論として定式化する こともできる。つまり、個別の判断はそれを律する規則によって正当化され、規則はより 一般的な原則によって正当化され、究極的には整合的な単一の倫理学理論がすべての規範 的判断の正当化の根拠となるのである。

演繹主義の難点

演繹主義は生命倫理学の中であまり支持されていない(特に日本ではそ の傾向が強い)。大きな理由は現場で判断を迫られる医者やエシシストにとってあまり役 に立たなかったということにあるようである。具体的には次のような問題点が指摘されて いる。

1. 理論だけでは具体的な行為の指針を導き出すことができない。

倫理学理論やそこから直接導かれる原理は抽象的すぎて、そこからす ぐに行為の指針を導き出すことができない。

2.功利主義と人格主義のように二つの道徳理論が対立している場合、 それを利用する側からはどちらを選ぶかという問題が生じる。

3. 演繹主義の求めるような仕方で規範の正当化を行おうとすると無限 後退におちいる。

演繹主義者は規範的判断の究極的な根拠付けを求めて単一の理論体系 を構築しようとするが、いかなる理論を持ってこようとも「では、なぜわれわれはその理 論の命令に従わなくてはならないのか」という問題が生じる。

4. 実のところ、理論を持ち出さなくとも多くの問題については関係者 の間での一致を見いだすことができる。

これはトゥールミンが挙げている例だが、彼の参加した委員会におい て、抽象的な話をやめて具体的な問題に議論を絞ったところ、非常によく一致がとれた。 これは、演繹主義的な体系が無用の長物であるということに他ならない。

5. 演繹主義によっては、理論と個別の判断の実際の関係が捉えきれな い。

たとえば、ビーチャムとチルドレスの表現を借りれば、理論と個別の 判断は双方向的(bilateral)な関係にある。理論によって個別の判断が修正されるべき か、個別の判断によって理論が修正されるべきかは文脈依存的である。

さらに、功利主義については、その結論が受け入れ難いことがしばし ばあるという批判もある。

こうした反論を見る限り、功利主義を代表とする演繹主義の理論は、 理論体系ばかり物々しい癖に実際の役には立たないはりこの虎のようなものだということ になるであろう。

演繹主義に対する対案

決疑論(casuistry)

個別の事例に対する判断を基礎として難しい事例にまで判断を及ぼそ うというやり方。トゥールミンやジョンセンがこの立場をとる。

ジョンセンによれば、決疑論者の思考は形態学、分類学、動力学の3段 階に分かれる(Jonsen1991)。まず、それぞれの事例についてその事例を取り巻く状況を しらべ、どのような格言(maxim)が当てはまるか(通常は複数の格言が当てはまる)を調べ る(形態学)。次に、明白に判断の下せるいくつかのパラダイムケースを選び出し、様々な 事例をパラダイムケースとの類似性の度合によって序列化する(分類学)。最後にその事例 においてどの要素が重視されるべきかをパラダイムケースとの距離から判断する(動力 学)。この最後の部分でprudentialな判断が要求される。

決疑論の問題点

1. 決疑論は 単なる保守主義におちいりはしないか。

2. prudentialな判断は方法論として役に立つか。

3.パラダイムケースがまだない新しい領域はどうするか。

原則主義(principlism)

複数の原則をとりだし、それらの使用によって生命倫理の実践的な問 題を解決しようとする立場。ビーチャムとチルドレスが『生命医療倫理の諸原則』で展開 した立場がよく知られている(Beauchamp and Childress 1994)。

彼らは生命倫理の問題解決によく使われる4つの中間的な原則(悪をな さない、自律の尊重、善行、正義)を議論の出発点とする。これらの原則は抽象的である ためその適用のためには細部の特定化が必要である。そこで、個別の判断・原則・背景理 論の間で広い反省的均衡(wide reflective equilibrium)を使用して特定化を行う。当 然ながら、原則同士が葛藤する場合の解決方法も反省的均衡によって得られる。

原則主義のポイントは、もっとも一致のとりやすいレヴェルから話を はじめるという所である。倫理学理論のレヴェルで対立していても、そこから導出される 原則は似たりよったりであることがたしかに多い。それならば、どの理論がよいか議論し て無駄な時間を費やすよりは一致のとれたところから議論をはじめた方がよいのではなか ろうか。

原則主義の問題点

1. 反省的均衡という方法論自体に問題点--どの均衡点を採用するか、 その理由はなぜかといった問題点--がある。

2. 新しい領域においていかにして原則を発見すればよいのか。

決疑論も原則主義も、細部を調停する方法論に問題があるといってよ いだろう。たしかに彼らはprudentialな判断や反省的均衡についてかなり具体的な説明 を与えている。しかし、方法論が具体的で複雑にになればなるほど、なぜその方法を選ん だのか、その選択を基礎付けるもっと単純な原理が背後にあるのではないか、という問い が避け難くなってくるように思われる。逆に、そうした裏付けがないのなら、彼らのいっ ていることは単なる直観のおしつけにすぎず、その直観を共有しない人にとってはまった く説得力を持たないことになる。

もう一つ決疑論と原則主義に共通するのは、まったく新しい領域に対 する応用力が乏しいことである。したがって、これらの方法論は生命倫理では有効かも知 れないが応用倫理一般の方法論とするにはかなり問題があるといえるであろう。

しかし、こうした問題点にもかかわらずこれらの立場は人びとをひき つけている。大きな理由はこれらの方法論がわれわれの日常的な道徳思考の特徴をうまく とらえていることであろう。その結果、これらの方法によって得られる答えはわれわれの 直観にあまり反しないものとなる。また、倫理学理論などという物々しいものを持ち出さ なくてもよいので、ある種の問題に関しては簡単に答えを得ることができるのも魅力であ ろう。

ヘアの選好功利主義

以上のような批判や対案にある程度答えうる演繹主義の体系としてヘ アの議論を考察する。ヘアの議論の骨格は比較的よく知られていると思うので、ここでは 今の議論に関係のある部分を取り出してまとめる。

ヘアによれば、倫理学者が実践問題に口をはさむ利点の第一は、合理 的な判断を下すための手助けをできるという点である。合理的であるとはこの場合、事実 と論理にしたがって判断することをいう。道徳的判断の場合には、道徳用語がどのような 論理的構造を持つかという事実をしらなくてはならない。そこで導入されるのが道徳用語 の普遍化可能性と指令性である。また、すべての事実を知り、考慮に入れることが実際上 不可能であることから、彼の二層理論が生ずる。まず、 比較的余裕のあるときに最善の 判断に対する近似値が得られるような一応の直観的な原則を決める(批判的レヴェル)。実 際に行動するときにはこれらの直観的原則にしたがう(直観的レヴェル)。一回ごとに一か ら考察をはじめるよりもこの手続きにしたがった方が全体としてはうまくいくことになる だろう。

事実と論理を知るだけではまだ解決できない問題が多い。そこで、選 好という概念を導入する。普遍化可能性により、道徳的判断を下す場合には自分が関係者 のどの立場にあっても受け入れることができるような判断を下さねばならない。すると、 われわれは関係者全員の選好を平等に配慮するような判断を下すことになるであろう。実 質的には一種の功利主義のような決定になるはずである。これがヘアの選好功利主義であ る。

では、ヘアの立場は決疑論や原則主義を説得するだけの力を持ってい るだろうか。先の1から5と対応する形で見ていこう。

まず、1について考えてみよう。功利の原理が抽象的にすぎて実際の行 為の指針とならないという点に関しては、直観的レヴェルにおける原則を日常の判断に使 うことによってかなり問題が解消していると思われる。しかし、二層理論には(逆説的だ が)強力すぎるがゆえの問題点がある。というのも、直観的レヴェルを使えばたいていの 直観的原則の妥当性が証明できるような非常にゆるいものとなっているのである。(これ は選好概念が道徳的理想まで含めることができるような広い概念であることとも関係して いる。)しかも、いつ批判的思考を行い、いつ直観的思考を行うかについてはある程度本 人任せである。ということはヘア主義は道徳問題で悩むものに正解を教えてはくれないと いうことである。ただし、元々ヘアの意図は正解を教えることにあるのではなく、自ら道 徳的思考を行う際の指針、方法論をあたえるのが目的なのである。

次に2の点について考えてみよう。他の理論との競合関係については、 依拠する前提を少なくし、とりわけ道徳的直観に直接訴える部分をなくすことで、ほかの 功利主義理論と比べてもかなり強い立場になっていることが分かる。ただし、ヘアの議論 はほかの理論を完全に排除してしまうほど強力ではないので、競合関係は依然として残っ ている。

3については、たしかにヘアの議論も無限後退の危険性をはらんでいる といえるだろう。というのも彼の議論は「普遍化可能で指令的な判断を下そうとするなら ば」という仮言的な要素を常に含んでいるからである。しかし、これらの前提は、道徳的 に考えるときの最低限の論理であり、これを否定することは道徳的思考自体を否定するこ とにつながる(とヘアは考える)。このようなぎりぎりのレヴェルで判断停止をするのと原 則主義のように具体的な道徳的直観のレヴェルで判断停止をするのではまったく話が違 う、とヘアならば言うであろう。

4については、ヘアはたまたま得られた一致の正当性について疑問を投 げかける。そして、正当化を行うためには何らかの理論に頼らざるをえないだろう。

5についてだが、ヘアは実のところ具体的な道徳判断の理論に対する寄 与を積極的に認めている。すなわち、彼の議論の出発点となる道徳用語の論理は実際の道 徳判断に多く接することによって得られたものなので、具体的な判断の側に変化があれ ば、ヘアの理論の方も変わることになるのである。ヘアの言い方を借りれば、道徳理論は viableなものでなくてはならないのである。ただし、ここで注意しなくてはならないの は、ヘアが理論形成の出発点とするのはある人がある判断を下したという事実であって、 判断の内容そのものではない。この点が決疑論と大きく異なる部分である。

ヘアの議論に限らず、演繹主義的と言われる倫理学理論一般について 考えてみても、5の論点はあてはまらないように思われる。もしある道徳理論が実際の道 徳判断を無視して作られたならば、そのような理論はわれわれと何の関係もないと言って 拒絶されるだけだろう。すると、一般的に道徳理論の発見ないし形成にあたっては個別の 判断から理論へという推論の流れがあり、いったん道徳理論が形成されたあとについては おなじみの演繹的な推論がおこなわれる、ということになるのではなかろうか。もしこれ が正しければ、演繹主義と決疑論の差は、個別の判断からの抽象が単なる規則の段階で終 るか、理論形成までたどり着くかの違いであるということになるであろう。

以上の点をまとめれば、ヘアの立場は、二層理論によって原則主義の よいところを取り入れているし、また、理論形成の段階まで考慮に入れれば決疑論的な思 考によって個別の事例からの抽象も行っていることになる。上に見たように、直観的レ ヴェルの使用に関してはかなり大きな問題があるものの、原則主義や決疑論に比べればか なり有効な方法論として考慮に値するのではないかと思われる。

文献

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1963 Freedom and Reason, Oxford.

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1995 『現代倫理学の冒険--社会理論のネットワーキン グへ--』、創文社。