「道徳性」という言葉はさまざまな意味で使われるので注意を要する。道徳起 源・維持についての理論においては、通常、「人間が他人に対して配慮する」こ とや「人々の間に広範囲な協力的行動がみられる」というようなことが被説明項 となっている。一言で言えば、利他的な行動や心情が「道徳性」の核(少なくと ももっとも説明を要する部分)だと考えられているわけである。しかし、もう一 歩つっこんで、道徳的な利他性とはそもそも何なのか、ということになると、実 はなかなかすべての論者が認める定義は難しい。実際には、説明のモデルに応じ て、被説明項の内容が若干ずつぶれているというのが現状であろう。多くの人 が、道徳的利他性は「利他的な心情」に基づいたものでなくてはならないと感じ ているようであり、また、単純に個体の利益や狭い血縁群の利益に還元できるよ うなものであるならばそれは道徳的利他性とは言い得ない、というのも、多くの 論者に共通する論点である(もっとも、この点をあまり強力に主張すると生物学 的説明に対して論点先取を犯しかねないので注意が必要である)。本稿であつか うさまざまなモデルでもそれぞれに利他性の理解は違うので、各論者の定義をき ちんと押さえておき、どういう種類の利他性が説明できたとされているのか、そ れで本当に道徳的利他性の説明として十分なのか、常に気を配る必要がある。
文化的淘汰の問題については用語上の混乱が起こりやすいので、本稿での用語法 について少し詳しく注意をしておく。本稿では「遺伝的genetic」と「文化的 cultural」を対比的に使う。「遺伝」という日本語は生物学的な遺伝のみを指 すものとし、文化的な(比喩的な意味での)遺伝については「伝達 transmission」という語を使う。ただし、ボイドとリチャーソンの使う inheritanceという語は「遺伝」と訳すことも可能だが、混乱を避けるために 「相続」と訳し、遺伝的文化的双方の意味に使うこととする。「進化」や「淘 汰」は文化的、遺伝的両用にもちい、必要に応じて「遺伝的(生物学的)進化」 「文化的進化」「自然淘汰」「文化的淘汰」などのように形容詞をつけて区別す る(「自然淘汰」は遺伝的な淘汰のみに用い、それと類比的な文化的プロセスは 「文化的淘汰」と呼ぶ)。
人間以外の動物の「利他的」行動については、ハミルトンの提案した血縁淘汰モ デルやトリヴァースの提案した互恵的「利他」行動モデルなどがある。いくら注 意してもしすぎることはないが、ここでいう(かぎかっこ付きの)「利他的」行 動というのは、個体の生存・繁殖の成功をその個体にとっての生物学的利益と見 なした場合、ある個体が自分の生物学的利益を犠牲にして他の個体の生物学的利 益を高めるような行動のことである(したがって自分の直接の子孫の面倒をみる ことは「利己的」行動に分類されるし、相手のためを思っての行動でも相手の生 物学的利益に結びつかないなら「利他的」行動ではない)。
血縁淘汰モデルにおいては、ある個体が近い血縁の個体(兄弟姉妹や甥・姪)の 生存・繁殖を助けることで自分の持つ遺伝子が次の世代に受け継がれる全体とし ての確率(包括的適応度)を上げる。互恵的「利他」行動モデルにおいては、見 返りの期待できる相手に対して恩恵を施すことで、結果として自分の適応度も上 げる。以上のようなモデルについてはすでにいろいろなところで紹介されている ことでもあり(例えば内井1996などを見よ)、ここではこれ以上深入りしな い。
おそらく、人間の利他行動の進化においても、これらの要因が働いているのは確 かであろう。しかしながら、これらのモデルから得られる「利他」行動は、「利 他」行動の対象となりうる相手に関して非常にシビアな限定が存在する。他方、 人間の利他行動(かぎかっこの付かない)は見返りを与えてくれるかどうかも はっきりしない(ないしは見返りをあたえてくれそうにない)見知らぬ相手に対 しても行われるという点で、血縁淘汰や互恵的利他行動の枠をはみだしている。 人間社会における高度な分業も、他の構成員が自分をサポートしてくれるはずだ という信頼感なしには成立しないという意味で、利他行動ぬきに説明するのはむ ずかしい(キャンベルはこれを「超社会性ultrasociality」と呼ぶ。社会性の 昆虫にも高度の分業がみられるが、こちらは血縁淘汰で説明できる。 Campbell1983参照)。もちろん社会生物学者の多くは、そうした利他行動(の ようにみえるもの)もきちんと解釈すれば遺伝プラス環境因にもとづいて説明で きるとする(Alexander 1979など)が、まだ、多くの人を納得させる説明を産 み出すにはいたっていない。こうした点を真剣に受け止めるなら、人間の利他行 動に関して、遺伝的要因だけでない、なにかプラスアルファの説明があるかもし れないと探索するのは十分意味があるといえるだろう。
この方針についての私の批判はすでに公開しているのでそちらを参照してほし いが、そのポイントは、生物学的要因と限定合理性の組み合わせでは、見返りが 期待できないことがはっきりしている相手までもふくめた利他性は説明できると は思えないという点である(伊勢田2000b)。私の批判に対して、内井氏は 道徳的な非難や周囲の目が重要な役割を果たすと返答している(内井 1999)。周 囲からの圧力の重要性を認める点ではわたしも内井氏に同意するが、周囲からの 圧力、圧力をかけたいと感じる心性そのものはどうやって発生し、維持されてい るのだろうか?圧力をかけること自体にコストが伴うため、合理性や生物学的利 益でこの圧力を説明するのはむずかしい(Boyd and Richarson, 1985, 229な ど参照)。大型類人猿においてすでに道徳的非難に類する行動が観察されている としても、それは問いを一つ先に押しやるだけにすぎない。大型類人猿において それらの行動がどのように生じているのか(どこまで遺伝的なのか、かなりの部 分文化的なのか)が問題になってくるのである。周囲からの圧力の役割を強調す るならば、後述するように、なにかしらミーム的視点が必要になってくると思わ れるのだがどうだろうか。
自然淘汰に類するプロセスが遺伝子によらずとも生じる可能性については60年 代以降Campbellの一連の論考があるが(Campbell 1965,1975, 1983な ど)、最近ではハル(Hull1988) などが淘汰プロセスの働く一般的な条件につい ての考察を行っている。淘汰プロセスを想定した理論を総称して「淘汰型理論 (selection-type theories)」と呼ぶことにする(Darden and Cain1989)。淘 汰型理論が成立するための最低限の条件については論者によって若干の異動があ るが、(1)複製子(replicators、自らの構造を後の世代に残すことのできる もの)の集合と相互作用子(interactors、環境やお互いと相互作用するもの) の集合が存在し(2)競合するさまざまな複製子があり(3)相互作用子の相互 作用の仕方は関連する複製子の種類によって変わり(4)相互作用子の相互作用 の仕方がそれぞれの種類の複製子の増殖の仕方に影響する、などの点が挙げられ る(ここでのまとめはHull1988, 409の分析にCain and Darden 1988、 Wagner 1988、 Rosenberg 1992らの批判を加味したもの)。こうした特徴 を文化的伝達にあてはめてみると、文化的に伝達される行動のパターンを複製 子、お互いの行動パターンに干渉・影響しあう個体群を相互作用子と考えると、 これらの特徴があてはまることがわかる(後述するが、ミーム的分析では行動の レシピが複製子、そのレシピに基づいた行動が相互作用子となる)。ただし、こ の分析は淘汰の成立する必要条件かもしれないが十分条件を与えるものではな い。(注1)従ってこれはあくまで文化的伝達については淘汰型理論の成立しそ うだと期待できる、という以上のことは意味しない。
他方、文化の場合は、遺伝においてはメカニズム上不可能なさまざまな形態の伝 達が可能である。たとえば、血縁関係にない者同士の間での伝達、同世代間での 水平的伝達、さまざまな系統からの影響の統合、学習による獲得形質の伝達な ど、いずれも文化的伝達ならば可能である。これらの要因は決して淘汰型理論の 構成要件と矛盾はしない。(注2)こうした文化的伝達の特徴を利用して利他行 動を説明しようという議論にはいくつかのパターンがある。本稿でとりあげるの はボイドとリチャーソンの文化的群淘汰モデルとアリソンやブラックモアのミー ム的モデルである。
一つ気をつけてほしいのは、文化的淘汰論者は一般に文化的淘汰の遺伝的基盤に 非常に敏感であり、決して遺伝的要因の重要性を否定しようとしているわけでは ないということである。例えば、以下に紹介するボイドとリチャーソンは、自分 たちの立場を「二重相続理論 dual inheritance theory」と呼ぶ(Boyd and Richarson 1985, 2)。ある世代から次の世代への行動パターンの受け渡しは、 遺伝的相続と文化的相続の両方を使って行われるが、両者は独立ではなく、文化 的相続のパターンは様々な遺伝的要因(とりわけ学習能力やさまざまな心理的バ イアス)によって規定されている。ただし、ボイドとリチャーソンのイメージで は、両者の結びつきはそれほど密接なわけでもなく、この点で彼らはアレクサン ダーら多くの社会生物学者と袂を分かつことになる。仮に遺伝要因と環境要因が 完全に決定できたとしても、そこから文化的相続の内容は一意には決まらない (これは言語の相続を考えれば明らかである)。この結びつきのゆるさが、文化 的相続において、適応的価値のない変異やわずかに適応度を下げるような変異す らが進化しうるための基盤となる。ここに広範囲な協力行動の進化する余地が生 じるのである。アリソンやブラックモアも、二重相続という言葉こそ使わない が、遺伝的基盤への言及やそれがどのようにして自然淘汰を生き延びてきたかに ついての考察は随所にあらわれる。したがって、文化的淘汰の議論は、社会生物 学や進化心理学と対立するものではなく、むしろ進化心理学の考え方を積極的に 利用しながらそれを補完する形で行われているのである。
かれらの関心は、ある集団内の各個体の文化的な行動パターンがどのように周囲 との関係で決まるのか、という点にある。単純化のため、かれらのモデルにおい ては、各個体について、前の「世代 」における三つの個体が「モデル個体」と して抽出される。そして、それぞれのモデル個体の持つ文化的変異(cultural variant)と順位(必ずしも社会的な順位ではなく、それぞれの抽出において三 つのモデル個体に順位がつけられる)の関数として、当該個体の文化的変異が決 まる。イメージしやすくするため具体的な例をあげると、たとえば、両親と学校 の先生一人が影響を与えるものとして、父親がカトリック、母親がプロテスタン ト、先生が仏教徒だとする。その子にあたえる影響力の強さは父親が一番強いも のとすると、おそらくその子が自分の信仰としてカトリックを選ぶ確率は高いだ ろうけれども、プロテスタントや仏教徒になる可能性もなくはないだろう。ボイ ドとリチャーソンはこういう状況をモデル化しているわけである。
次に彼らはこのモデルに関係するさまざまな条件を操作することで、さまざまな 状況について考察をすすめる。まず、ランダムな抽出とランダムでない抽出の両 方のモデルが考察される。ランダムでない抽出としては、「同種の変異はまと まってあらわれやすい」などの条件が考察される。モデル個体の変異から当該個 体の変異を割り出す関数は一般には確率的な関数として処理される。つまり、決 まるのは変異そのものではなくその変異を持つ確率なわけである。決定論的な関 数(たとえば一位と二位のモデル個体が変異Aを持てば当該個体も必ず変異Aを 持つ、といったような)はその極端な場合として処理される。また、「突然変異 率」、つまり新しい文化的変異が生じる確率も変数となる。
おなじモデルを使って解釈を変えることで、いわゆる「水平的文化伝達」も扱う ことができる。時点tにおける個体群の文化的変異の分布にもとづいて、同じ個 体群の時点t+1における文化的変異の分布が決まる、と考える。この場合、モデ ル個体の抽出はランダムではなく、時点tにおける当該個体が一位のモデル個体 として必ず選択される、つまり直前の時点の自分自身の影響を一番強くうけると するのが自然である。
量的な変異に関してはモデル個体間の加重平均をとるバージョンと、特定のモデ ル個体を採用してそれに他のモデル個体の影響による微修正を加えるバージョン の両方が考察される。前者のバージョンは群内のばらつきが世代ごとに減少して いくことになる(十分に高い突然変異率で補うことはできるが)ため、ボイドと リチャーソンは後者のバージョンの方を好んでいるようである。
文化内の個々の個体がより適応的な文化的変異を学習によって作りだし、それを あとの世代に伝達していくことを誘導された変動(guided variation)と呼ぶ (81-131)。ラマルクは誘導された変動が遺伝的レベルで起こりうると考えた が、のちの遺伝学の発展で否定されることになる。誘導された変動に関して重要 なことは、この結果生じる変異は基本的に生物学的に適応的であり、従って進化 の速度という点を除けば旧来の社会生物学の枠組みの中でも原理的に説明できる はずだという点である。逆に言えば、適応的な変動をおこしえないような学習能 力は自然淘汰されていくはずである。
次に彼らが考察するのがバイアスのかかった伝達(biased transmission)の影 響である(132-171)。これは、ある個体が前の世代の個体のどれから影響をう けるかについて働くさまざまなバイアスであり、ボイドとリチャーソンは大きく 三つにわける(135)。そのうち直接バイアス(direct bias)は、すべての文化的 変異を自分で試してみて一番よいものを選ぶ、というバイアスである。これは、 選択肢がすでに与えられているという点を除けば誘導された変動と非常に近くな る。(注3)間接バイアス(indirect bias)はまわりの個体のどれがもっとも成 功しているかを見てその個体の変異を受け継ぐ、というバイアスである。この 「成功」の指標が生物学的利益であるなら間接バイアスも誘導された変動と同じ ような効果をもたらす。ここでもまた、「成功」の指標と生物学的利益に十分大 きな正の相関がないような間接バイアスは自然淘汰されているはずである。しか し「成功」の指標となる形質はそれ自体文化的に伝達されるものかもしれず、こ こで非適応的な文化的変異が進化する余地が生まれる(241-279)。もう一つの 頻度依存的バイアスについては次節で詳しく述べる。いずれのバイアスもそれ自 体としては遺伝的バイアスであると仮定されている。直接バイアスやある種の間 接バイアスは非適応的な行動は進化させないため、社会生物学でも説明できる変 異しか生み出さない、というのは誘導された変動と同じである。
順応主義的バイアスは、ボイドとリチャーソンの二重相続モデルにおいては遺伝 的な側に分類される。つまり、まわりに(過剰に)あわせて自分の行動パターン を決める傾向そのものは遺伝的なものだと想定されるわけである。ではなぜこの ようなバイアスが遺伝的に進化しうると彼らは考えるのだろうか?
彼らは順応主義的バイアスがいかなる場合も進化すると考えるわけではない (213-221)。極端な話、ある個体が処理しなくてはならない環境変数が一定な ら周囲への順応で行動を決めるより最適解を遺伝的に組み込んでしまった方が速 いし、環境変数が多様でもその環境に対する対処法を直接学習すればすむのなら 周りの行動を気にする必要はない。しかし、隣接する共同体ごとの環境変数のば らつきが非常に大きく(したがって環境に適応的な戦略について遺伝的に前もっ て決めておくことが得策でなく)、異なった環境間(異なった環境下にある共同 体間)の移動が比較的頻繁に起き、そして移動した際に個体レベルで一から学習 するのにかかるコストが大きい、といった条件がそろうならば、自分の周りの個 体が何をやっているかによって自分の行動を調整することがもっとも適応的な行 動ということになる。こうした場合には頻度依存的バイアスを持つ個体の方が持 たない個体より有利になる(ことがある)ということをボイドとリチャーソンは 数学的モデルを使って示す。さて、こうして遺伝的な順応主義的バイアスが少な くとも可能であることはわかったわけだが、ここから何が言えるだろうか?
文化的群淘汰とは、このおなじモデルを遺伝的伝達ではなく文化的伝達にあては めたものである。遺伝的伝達と違い、文化的伝達には頻度依存的バイアス、とり わけ順応主義的バイアスがかかりうる。一般に順応主義的バイアスの下では、あ る群に二つの対立する文化的変異がある場合、一定の時間たてばどちらか一方の みが多数派をしめる状態で平衡に達する。文化的突然変異や移入などの影響があ るため完全に一方が根絶されてしまうわけではないが、この場合、群における文 化的少数派が多数派になるのは遺伝的少数派の場合よりもはるかに難しくなるた め、そうした侵入が群全体におよぼす影響は小さい。
さて、ここで、いくつもの文化的下位群(subgroup)からなる群があるとしよ う。各個体は「協力的行動」か「非協力的行動」のいずれかの文化的変異を持 ち、従って各下位群も「協力型」か「非協力型」のどちらかの平衡状態に達して いるものとする(ここでいう「協力的行動」は、見返りが不確かな場合や期待で きない場合も協力するという意味で利他的な行動である)。下位群ごとの競争に より、下位群のあるものは消滅する。「協力型」下位群はそうした競争において 「非協力型」下位群よりも有利であると考えられるため、長い目でみれば協力型 下位群のみが残ることになるだろう。(注5)
このモデルでの文化的群淘汰が働くには、各個体がそれぞれただ一つの下位群に 属し、しかも下位群間の移動の頻度はあまり大きくないということが求められ る。現代社会内部の機能的下位群(家族、学校、企業、政治団体等)はこの条件 をみたさないため、この種の文化的群淘汰が現代社会内部でおきているとは考え にくい。ボイドとリチャーソンが念頭に置くのは、むしろ、地域共同体や民族共 同体などむかしからある群組織である。彼らは実際にニューギニアの村落共同体 がどのように消長するかについての研究と彼らのモデルの比較を「経験的テス ト」として試み、データが彼らの理論と矛盾しないという結論を得ている (Soltis, Boyd and Richarson 1995)。
二重相続モデルに基づく文化的群淘汰の考え方は、管見の限りでは、比較的好意 的にうけとめられているようである。バーコウはボイドとリチャーソンの議論を さまざまな角度から批判するが、文化的群淘汰が働きうるということ自体は否定 していない(Barkow 1989, 253-275, 特に264-265参照)。ソーバーとウィ ルソンは実質的にボイドとリチャーソンのモデルをそのまま採用している (Sober and Wilson 1998)。
ミーム的な視点を導入することの利点は、個体にとっての利益ではなく、ミーム にとっての利益、つまりそのミームが次の世代にどれだけ同じミームを残すこと ができるか(「生物学的利益」と類比的に「ミーム学的利益」と呼ぶことにす る)という観点から分析ができるようになるということである。ある個体が子孫 を残せず死亡しても、その個体の行動をまねる個体を周囲に多く残していくな ら、その行動のミームはミーム学的利益を十分に得たことになる。また、ミーム と遺伝子の比較を考えると、厳密に言えば遺伝型に対応するのは行動のレシピ (ルール)であり、行動そのものは表現型に対応すると考えられる(Blackmore 1999, ch. 2)。この区別によって、たとえば歌の伝承において、途中少々音痴 の人がいても歌が正しく伝わる、というような現象が説明できる。
もちろん、ミームと遺伝子の違いを無視してしまうとか、文化的伝達メカニズム の不明な点をごまかしてしまうとか、ミームの単位をどうやって特定したらよい か分からないとか、ミームをこのように実体化して考えることにともなう危険は 各種ある(ブラックモアはこうした疑問に極力答えようとしてはいる。 Blackmore 1999, ch. 5)。しかし、そうした問題は念頭におきつつ、とりあ えずこうした観点から利他性の問題がどのように見えるかをアリソンとブラック モアの議論からまとめてみよう。
社会学においてルールの内面化が論じられる際にはルールの内容はどうでもよい と考えられることが多いが、アリソンはルールの内容とそのルールの支持者の数 の変動に相関関係があると主張する(ここが、本稿でアリソンの議論をミーム的 分析に分類する理由である)。アリソンが特に興味を持つのは「恩恵的ルー ル」、つまり平均的にみて相手の境遇を改善する(improves the welfare of the recipient)ような行動を要請するルールである(283)「境遇」は、社会学者 流に富、地位、権力など価値ある資源によって定義されるが、健康・寿命・表現 の自由なども含みうる、とする。こうしたルールの多くは行為者の側にとっての 見返り等について何も言及しない。しかしルールの内容次第では、それでもそう したルールに正の淘汰圧がかかりうる。
アリソンは、正の淘汰圧がかかるルールの一般型として、「このルールを持つ確 率が平均より高い者に親切にせよ」という自己言及的ルールを考察する(283)。 一般に規範の伝達は模倣ないし教育を通して行われると考えられるが、ある人の 境遇が改善することで、その人が自分の持つ規範を模倣させるないし教育する機 会も増えると考えられる。ここでアリソンが訴えるのが、ボイドとリチャーソン の「間接バイアス」に非常に類似した考え方である(284)。もう一度説明する と、間接バイアスとは、周囲の個体の中でより成功している個体の持つ文化的変 異を真似する傾向を言う(アリソンは「成功している個体から教育をうけたがる 傾向」もここに含める)。境遇の改善は周囲から「成功している」とみなされる 確率をあげ、したがってその個体の持つルールを模倣する確率も(間接バイアス により)上がる。従って、恩恵を与える側にとってのコストが恩恵を受ける側の 利益に比べて大したことがなければ、このルールが模倣される確率は全体として 上がることになり、他のルールと比べて正の淘汰圧がかかることになる。
さて、このような自己言及的ルールにとって重要な問題は「このルールを持つ確 率が平均より高い者」をどのようにして見分けるか、という点である。当然なが ら行為者は通常このルールの存在を意識していないから、一般型のままの形で使 われることはまずない。この点に関してアリソンはいくつかのパターンを考察す る。生物学的血縁淘汰からの直接的類推で考えられるのは、「自分自身の文化的 子孫に親切にせよ」「自分自身の文化的先祖に親切にせよ」「自分自身の文化的 親類に親切にせよ」等である(286-292)。相手との文化的近縁度が高ければ、 ほかの様々なルールに混じって相手もその同じルールを持っている可能性が高 い。先祖に親切にするのは生物学的血縁淘汰の場合にはあまり有効な戦略ではな いが、文化的先祖の場合には、相手の影響力が歳をとっても衰えない場合も多 く、有効な戦略となりうる(289)。
恩恵的ルールのもう一つの重要なサブクラスは、「Xをなせ、そしてXをなすも のに親切にせよ」、という形のものである。遺伝子の場合にはこの戦略はあまり うまくいかない。というのも、マーカーの部分だけを受け継いでただ乗りする個 体を防ぐのが難しいという問題が存在するからである(Dawkins 1976, 89。 ドーキンスは「緑髭効果 green beard effect」としてこの問題をとりあげてい る)。文化的伝達においても同じ問題は存在するが、それに対する対抗策もあみ だされている。要はこのルールの前半と後半が切り離されにくくし、部外者が前 半だけ真似するのを難しくすればよい。たとえば厳密に内容の定まった聖典など の形にしてこのルールを伝達し、その内容に複雑な宗教儀式を含むことにすれ ば、この二つの要請を同時に満たすことができる(もちろん信者たち自身がなぜ 厳密さ・複雑さが必要なのかの本当の理由を理解している必要はない)。
アリソン自身認めるように、以上のような恩恵的ルールは博愛的行為(相手を特 定しないで恩恵を与える行為)を説明できないが、そうした博愛的行為がわれわ れの社会の中で観察されるのも事実である(297-298)。したがって、われわれ の道徳性の説明にはこれではまだまだ不十分である。しかし、血縁淘汰・互恵的 「利他」行動・限定合理性などではカバーしきれない種類の恩恵的行動を説明す る道具を提供したという点は評価に値しよう。
以上見るように、この利他主義ミームは、ブラックモアの議論が正しければ、模 倣能力、親切にしてくれた人を好く傾向、好きな人から影響を受ける傾向などに 支えられている。ブラックモアはこれらの傾向の遺伝的価値について特に議論は しないが、これらの能力・傾向には遺伝的要因が大きく働くと考えられる。しか し、このミームを持つことで本人の生物学的利益は大きなダメージを受ける。短 期的に見ると、そうしたダメージはミームにとっては無視できる。ミームはウィ ルスや寄生虫のようなものであるから、宿主を破壊しても十分な数の新しい宿主 を確保できるならミームにとっての帳尻はあう。しかし、これもまたウィルスな どと同じように、宿主に対してあまりに破壊的なミームは、長期的にはそのミー ムを受け継ぐ能力・傾向を持つ人を自然淘汰させてしまうことになり、ミームそ のものも死滅することになる。
ブラックモアはこうした反論を意識して、利他主義ミームが遺伝子の適応に貢献 しうるシナリオを考える(Blackmore 1999,159-160)。ブラックモアのシナ リオは性選択におけるランナウェイプロセスとのアナロジーに基づいている。利 他主義ミームが現れたところで、「利他主義者を結婚相手に選ぶ」というミーム が現れたとしよう。このミームの持ち主は、他人に親切にする人の周囲に常にい ることでやはり多くの人と接することになり、その結果「利他主義者を持つ人を 結婚相手に選ぶ」ミームも他人に模倣される機会が増えることになる。もともと の利他主義ミームの所有者もこの第二のミームを獲得する確率は高いから、もと の所有者を通じても他の人々に第二のミームがばらまかれることになる。性選択 ではもっぱら雌が雄をえらぶわけだが、ミームの場合は事情が違い、この戦略が うまくいけば両方のミームをその群の構成員全員が持つことになるだろう。こう して両者のミームが群の中に一旦広まったならば、利他主義ミームと関わる能 力・傾向を欠いた(遺伝的)突然変異体は結婚相手を捜す上で非常に不利な立場 に立たされ、逆にそうした能力・傾向をより多く持つ個体が有利になるであろ う。というわけで、これらのミームは自分たちの遺伝的基盤のメンテナンスまで やってしまうことになるわけである。ただ、ここまで来ると非常に仮説的な議論 になり、具体的な証拠のないところであまり議論してもしかたがない。さらに言 えば、性選択におけるランナウェイプロセス自体も本当に機能するのかどうか疑 問がもたれているところでもあり(長谷川1992, 121-124)、ブラックモアの シナリオもきちんとモデル化してシミュレーションを走らせる必要があるだろ う。
ブラックモアは、倫理学者の道徳性の議論を意識してかどうか、利他主義ミーム に、単に相手を選ばないで親切にするという以上の「普遍性」が生じるメカニズ ムについても考察する(166-168)。といってもたいしたトリックを使うわけで はなく、心理学者が「一貫性原理the consistency principle」と呼ぶものを 持ち込むだけである(Cialdini 1993, 59)。一貫性原理とはフェスティンガーの 認知的不協和理論(Festinger 1957)に由来する考え方で、簡単に言えばわれわ れは自分の言動の中の不調和(もちろん必ずしも論理的矛盾ではない)を嫌う非 常につよい傾向を持つという仮説である。例えば、軽い約束でも約束をした場合 としなかった場合でわれわれのコミットメントは劇的に変化する。また、実際そ うした傾向が場合によって一定の適応的価値を持つことも想像に難くない (Cialdini 1993, 60)。この一貫性原理が働いた場合、一旦不特定の相手に親 切にふるまってしまったら、そのあとも不特定の相手に親切にせざるをえない立 場に追い込まれる。当初は親切にしようなどと思いもしなかった相手、たとえば 野生動物や環境にまで親切の範囲が広がってしまうことになる(Blackmore 1998, 166-167)。ブラックモア自身はこうした現象を、ミーム学の観点か ら、同じようなミームがセットになって保持される傾向、として記述し、道徳的 普遍性との連関には特に言及していない。しかし、一貫性原理は理論的に洗練す ればそのままヘアの普遍化可能性原理となるであろうし、これがより実質的な利 他主義の行動と結びつくとすれば、倫理学者のイメージする「道徳性」にかなり 近いものが実現することになる。
以上、ブラックモアの利他主義ミームに関する議論を簡単に紹介してきた。彼女 の議論はボイドとリチャーソンやアリソンほど確固たるモデルに基づいてはいな いが、興味深い示唆を多くあたえる。特に、彼女の議論においてはじめて相手を 特定しない利他行動の可能性や「普遍性」が導入される可能性が示されたことは 注意してよい。他方、彼女が利他主義ミームに与える基盤は非常に弱いという印 象を受けるのも事実である。(注6)利他主義ミームと一貫性原理を結びつける 着想も興味深いが、そのままではあまりに安易な議論であり、まだまだ批判的な 検討が必要である。特に、一貫性原理の適用については、その背景となる認知的 不協和理論の理論的な妥当性なども含めてもっと慎重に扱う必要があるだろう。 (注7)
本稿の冒頭でも少し述べたが、多くの人にとって、ある行動が利他的であるため の必要条件は、その行動が利他的心情から発していることである。こうした観点 から以上のさまざまなモデルを振り返ったとき、これらのモデルは一見利他的な 行動の伝達の説明にはなりえても、利他的心情の伝達の説明にまではなってない のではないかという疑問が生じる。
おそらくソーバーとウィルソンは文化的伝達のモデルにこうした問題があること に既に気づいている。彼らの立場は、利他行動の進化を説明する上ではボイドと リチャーソンの文化的群淘汰の議論を受け入れながら、利他的心情の進化の説明 においては遺伝的な説明を与る、という二段がまえの構造になっている(Sober and Wilson 1998)。もしこれでうまくいくならばそれでもよいのだが、ソー バーとウィルソンが利他的心情と対比するのは非常にナイーブな利己的心情であ り、この比較で利他的心情の方が適応的だと示せてもあまり強力な議論にはなら ない。いずれにせよ、もし利他的心情が遺伝的に説明できるものなら、その上に 文化的淘汰のモデルで利他的行動の説明を加えるのは屋上屋を架すというもので ある。
文化的淘汰のモデルがこの難点を逃れる道は、利他的心情そのものが文化的に伝 達されると論じることだろう。これがどの程度可能かというのは難しい問題であ る。たとえば嘘をつくときに「あかくなる」という反応はどう考えても学習や模 倣で獲得されたものではない。しかしこういう反応が道徳共同体において信頼関 係を維持するために重要な役割を果たしているのも確かである(Frank 1988, 43-70)。おそらく、文化的伝達に可能なのは、すでに存在する反応のパターン を助長したり組み直したりするということなのであろう。この問題に、実地の実 験・観察にもとづいてきちんとした解答を出さない限り、文化的淘汰による道徳 性の説明は成功したことにはならないだろう。
議論を始める前に、こうした考察の有効性について一つだけコメントしておく。 道徳の生物学的進化における起源を知ることの規範倫理学への含意について私が 懐疑的であるということはすでに別の稿で述べた(伊勢田2000b)。文化的進 化についても同じような懐疑論が成立するのではないかと疑問をもたれる読者も あるであろうから簡単に説明しておく。道徳の生物学的基盤に関してわれわれが 介入できることはそれほど多くない(それがすでに現在の人類にあまねく行き 渡っている遺伝子であるならば特にそうである)。それでなくても遺伝子レベル の介入にはさまざまな難しい倫理問題がついてまわる。とりあえずそれは所与と して扱うしかないわけである。しかし道徳性の主要な部分が文化的伝達によって 維持されているのであれば、社会組織のちょっとした変化によってわれわれの道 徳をめぐる行動も大きく変わりうる。その意味で、特に倫理教育の文脈では、そ うした伝達のメカニズムについて知っておくことは重要でありうるのである。
問題になるのはインターネット上で協力的にふるまうかどうかは日常生活で協力 的に振る舞うかどうかとは別問題だと人々が考えた場合である。このように人々 が考えうる要因はいろいろ考えられるだろう(インターネットのいわゆる「匿名 性」等々)。もし人々がそう考えた場合、インターネット上の協力行動はこれか ら独立に進化させられなくてはならない。この場合、もし協力行動が文化的群淘 汰モデルにそって発達してきたのだとするといろいろと困ったことがある。ま ず、インターネットではお互いの行動が見えにくいため、順応主義的バイアスが 働きにくい。Web掲示板やチャットルームのような場所ではお互いが何をしてい るかについての情報があるわけだが、たとえば違法なソフトをダウンロードする か、などというようなことについて他の人の行動はみえず、順応すべき相手がい ないということになる。
仮に順応主義的バイアスが働く状況があっても、群淘汰が作用するには別の要因 が必要になってくる。具体的には、競合する下位群が存在し、人々がそれぞれど れか一つの下位群に所属し、群が協力型かどうかで群の生存が左右される、とい うような状況である。インターネットが一見したほど開放的な空間ではなく、利 用者たちが比較的小さな集団で群れる傾向があるのは事実だろう。しかし、それ にしても日常生活に比べて全く未知の相手とやりとりする機会がインターネット 上では飛躍的に増大するのは事実だろう。すると、インターネットはボイドとリ チャーソンが考えるような群淘汰が働くには非常に不利な場所だということにな る。
さて、仮に人々がこういういきさつでインターネット上であまり協力的に振る舞 わなくなったとしよう。そういう場合、インターネットの外で情報倫理教育をい くら熱心にやってもあまり期待する効果は得られないだろう。むしろ文化的群淘 汰が働きやすい環境をインターネットの構造の中に導入して協力行動が進化する のを待つべきだろう。そのためには(1)お互いの行動パターンを観察しやすい 構造(2)比較的固定的な集団ができやすい構造(3)そうした集団間の競合が 生じる構造などが導入されるべきだということになる。
ブラックモアの指摘を待つまでもなく、言語的なミームにとってインターネット が理想的な増殖環境であるのは確かだろう(それをミームと呼ぶかどうかは別と して)。しかし、このようなイメージは、利他主義の問題で登場するような行動 パターンに関するミームにはあてはまらないだろう。恩恵的ルールや利他主義 ミームは相手との密接な関係の中で伝えられることが多い(と想定されている) わけであるが、インターネットでそうした密接な関係を持つことは難しく、した がってインターネットを通して文化的子孫を作ることは(まして相手が自分の文 化的子孫であると認識することは)難しい。とすれば、われわれの生活がイン ターネット中心になるにつれてこれらのミームの影響力が弱まり、もっと言語的 手段で伝わりやすい(つまり言葉で説明して納得させやすい)行動パターンがひ ろまることになるだろう。例えば互恵的利他行動の考え方(ただし生物学的利益 についてではなくわれわれが日常考える意味での利益について)などは比較的説 明・説得が容易であり、インターネットの上ではむしろこうした行動パターンの 方が拡散のチャンスを持つだろう。
こうした状況が問題だと考えたとき(そしてアリソンやブラックモアの分析が一 面の真実をついていると考えたとき)、われわれに何ができるだろうか?一つ考 えられるのは、もちろん、インターネット上での(非言語的)接触の度合いを増 やすことである。そうした接触の必要性はいろいろな立場からすでに提言されて いると思うが、ここにもう一つミーム学的見地からの理由が付け加わったわけで ある。あるいは、恩恵的ルールなり利他主義ミームなりそのものに手をくわえ て、利他主義が言語的手段でも広まりやすくするという方法もあるかもしれな い。たとえば、why be moralの問題に分かりやすく簡単な答えを与えそれを広 めるというのは一つの手であろう(why be moralとはどういう問いかというこ とについては伊勢田2000aなど参照)。
(注1)この点に関連して興味深いのは、ハルをはじめとしたこの種の分析が、 ダーウィンがあれほど強調した資源の相対的希少性という条件に言及しない点で ある。資源が豊富に存在するなら再生産の率に差があっても平和共存できてしま い淘汰はおきない。ただし、もちろん、文化的伝達の場合も資源の希少性は成立 する。両立しないいくつかの行動パターンのうちどれが人々に広まるかというよ うな状況を考えてみるとよい。
(注2)ただし系統の統合は行き過ぎると新しい変異を希釈してしまうため進化 をさまたげるというのは、ジェンキンのダーウィンに対する反論などにもすでに 見られる論点である。ジェンキンの批判についてはBowler 1989, 210-212 参照。
(注3)ただし、誘導された変動は突然変異の段階でかかるバイアスであり直接 バイアスは再生産の段階でかかるバイアスである点は押さえて置く必要がある。 また、どちらの場合においても、個体の意識的な利益と生物学的な利益の間の ギャップは存在しうるし、直接バイアスの場合そのギャップが淘汰の結果に大き く影響しうる。
(注4)しかし、大集団の中で一時的に形成される小集団の間の淘汰など、特殊 な場合には遺伝的群淘汰は可能である。Sober and Wilson 1998, chs 1 and 2 参照。
(注5)消滅のパターンとしては、人数が漸減することによる自然消滅だけでな く、殺戮されたり追い払われて散らばったりという状況も考えられる。群の構成 員が死滅しなくても、ある群が追い散らされて他の群に吸収される場合には、順 応主義的バイアスによって新しい群の行動パターンを身につけることになるであ ろう。ある群が他の群を征服する場合には話はもうすこしやっかいになり、征服 者の側の文化的変異に有利な間接バイアスなどを想定する必要が出てくる。
(注6)もちろん「だからこそわれわれはほどほどにしか利他的に行為しないの だ」という答えも可能であるが、それにしても、彼女のあげる要因は、他の要因 (例えば社会的地位の影響)に比べると簡単にキャンセルされてしまうほど弱い ように思われる。そもそも、われわれが自分に親切にしてくれた相手を好きにな る傾向を持つというのはそんなにもっともらしい仮説だろうか?むしろ、相手に 邪険にされたために相手に対する思慕の情が高まるというようなこともよくある のではないか?
(注7)認知的不協和理論とそれをめぐる論争について日本語で読める文献とし ては、アロンソン1994の第五章などがある。ただし、この文献では、行動を一 貫させようとする傾向についてよりも、不整合を指摘されたときの自己正当化の 心理をめぐる議論の方に重点が置かれている。