森永さんからの修正・リプライは森永さんのウェブサイトの
「S.ハーディング著『科学と社会的不平等』修正箇所などのお知らせ」
にて公開されています(2012年6月4日追記:森永さんのウェブサイト移転にともなってリンクを修正しました)。
]
森永康子様
はじめまして、京都大学の伊勢田と申します。科学哲学を専門としています。
実は、あるところで『科学と社会的不平等』の書評を依頼され、現在読んでいるところなのですが、読んでいるうちに訳文についていろいろ疑問点が生じてきました。原文と対照しながら確認したところ、やはり誤訳ないし不適切訳ではないかと思われるところが多くでてきました。森永様は心理学をご専門とされているとのことですが、疑問点は主に科学哲学の予備知識が必要になる箇所にかかわっています(それ以外の個所もありますが)。
ハーディングの本がようやく邦訳されたというのは大変喜ばしいことなのですが、それがハーディングに対する誤解を広めるような結果になったり、あるいはハーディングの議論の核心が誤訳のために伝わらないというようなことになったりしては大変残念だと思います。幸い、あとがきで、訂正についてはホームページで公開される旨述べておられるので、こうしてご連絡差し上げることとしました。ご参照いただき、わたしのコメントに同意いただける点については正誤表のような形で修正を公開いただければ幸いです。(わたしのコメントはわたしのホームページでも公開しますが、森永さんのページでも公開いただいて結構です。)
なお、私は細かく原文と訳文を突き合わせたわけではなく、邦訳を読んでいて疑問に思った箇所のみについて原文を参照したものです。それだけでも以下にあげるような疑問点が出てきたわけですから、細かく見ればさらに多くの疑問点が出るのではないかと思います。ぜひ、科学哲学のトレーニングをうけた方に訳文全体の再検討を依頼されることをお勧めします。
以下、おおむね、各項目について、邦訳のページ数、訳文、対応する原文、伊勢田の対案、その対案を出す理由、という順番で書いていきます。
p.16
「科学という用語についてすでにどういう意味なのかがわからなくなっている読者もいるだろう」
Some readers will already feel disoriented by the way I have been using the term science.
→「わたしがどういう意味で科学という言葉を使っているかすでに分からなくなっている読者もいるだろう」
[この訳文だと、それこそどういう意味で「どういう意味なのかがわからない」のかがわからなくなってしまい、不必要にあいまいになってしまっていると思います。]
p.16
「私も、我々自身や我々をとりまく世界についての体系的な経験的研究をさすものとして使っている」
any systematic empirical study
→こまかいですが、「体系的な経験的研究すべてを」ないし、もっと正確にするなら「体系的な経験的研究ならなんであれ」とすべき
p.24
「バイオ医学」
biomedicine
→本書でしばしば出てきますが、biomedicineは「生物医学」という定訳があります(biomedicalという形容詞形で使われるのが普通ですが)。最近のバイオテクノロジーに基づく医学という意味ではなく、生物学(biology)と医学(medicine)の融合領域という意味です。
p.28
「また、これらの批判を根拠に、近代科学そのものを人種差別的だと法的に訴えることはできない」
modern science cannot be legitimately charged with racism...
→人種差別だと非難することは正当化できない
[「法的」ならlegally ]
p.29
「そして、多くの科学者は非白人に対する誤った信念や「悪しき態度」をもっていないという意味で、表面的には偏見をもってはいないのであるが、人種を差別するような結果をもたらすと批判された3つの科学的プロジェクトに関わり続けている。」
Moreover, many scientists who are not overtly prejudiced in the sense that they do not hold false beliefs or have "bad attitudes" toward nonwhites continue to engage in all three kinds of scientific projects that have racially discriminatory consequences.
→「さらに、人種差別的な帰結を持ってきた三種類の科学的プロジェクトのどれをとっても、それに従事している多くの科学者は、非白人に対する誤った信念や「悪しき態度」をもっていないという意味で、あからさまな偏見を持っていない」
[ポイントはいくつもあるのですが、まず、もとの訳文では科学者の大半が三種類の差別的プロジェクトにかかわっている、という意味にとれてしまいます(原文にはそういうニュアンスはありません)。直訳すると、「多くの科学者が三種類のプロジェクトすべてに関わっている」という構造になりますが、この日本語では一人で三種類すべてにかかわっている人がたくさんいる、という意味になってしまいます。文脈からいってそういう意味ではないだろうということで、原文と意味が近くなるような形に訳文の構造を変えています。あと、「三つのプロジェクト」では、具体的なプロジェクト3つの話をしているように見えます。]
p.39
「科学教育を受け、職業に就くためには」
gaining access to scientific training and jobs
→「科学教育をうけ、科学的な仕事に就くためには」
[scientific はjobsにもかかっていると読めますが、訳文では大学を出て一般就職をする人の話をしているようにも見えます。]
p.39
科学研究所
scientific institutions
→ 研究機関
[定訳だと思います]
p.39
「科学が他にも人種差別的、ヨーロッパ中心主義的理論や実践を行っているとしたら、科学領域がマイノリティの地域社会に奉仕できるものとして高くランクされることはない」
Given the sciences' other racist and Eurocentric theories and practices, these fields have not ranked high as enabling service to minority communities
→「科学が他の人種差別的・ヨーロッパ中心主義的理論や実践を行っているために、科学の諸領域はマイノリティの地域社会に力となるような奉仕を行うものとして高く位置づけられてはこなかった」
[givenは条件の部分が単なる仮定ではなく実際にそうだというニュアンスを持ちます。have not ranked なのですでにおきたことです。]
p.40
「レトリックとしての「文明」の進歩と結びついている」
routinely rhetorically associated with progress for "civilization",...
→「「文明」の進歩といつもレトリックの上で結びつけられている」
[「文明」自体がレトリックだと言っているわけではありません]
p.49
「科学は「うまく機能する(work)」つまり普遍的に有効であると言われている。なぜなら、科学は文化を超越するものだからである。」
The sciences "work", they are universally valid, it is said, because they transcend culture.
→「科学は、文化を超越するものだから「うまくいく(work) 」 、ないし普遍的に有効なのだ、と言われている」
[細かいですがここは明確な誤訳だと思います。because以下をわけて別文にすると意味がかわってしまいます。]
p.52
「近代西洋科学は非西洋を起源にもつのだろうか」(節タイトル)
Does modern science have non-western origins?
→「近代科学は非西洋的な起源を持つのだろうか」
[著者の意図を尊重して素直に訳すべきだと思います]
p.54
「結局のところ「文献を常にチェックせよ」は言うまでもなく、専門的な学会や国際交流プログラムの重要な点は、誰でも他人の業績を借用してもよいというところにある」
After all, a major point of professional conferences and international exchange programs, not to mention "keeping up with the literature," is to permit everyone to borrow everyone else's achievements.
→「結局のところ、専門的な学会や国際交流プログラムの重要な点は、そして言うまでもなく「研究動向を常にチェックする」ことの重要な点は、誰でも他人の業績を借用できるようにするところにある」
[「文献」では意味がよくわからないということと、keeping up がprofessional conferences and international exchange programsと並列になっているというのが訳文ではわかりにくくなっているということがポイントです]
p.55
「他の文化に固有な科学で「うまく機能している」ものがあり得るのだろうか、あるいはそのような科学が現在すでに存在するのだろうか」
Could there be, or are there already, other culturally distinctive sciences that also "work"?
→このworkは「うまくいく」くらいに訳した方がいいのではないかと思います。「機能する」だと、原文にないニュアンスを勝手によみ込まれる可能性があります。
other culturally distinctive sciencesは「文化的特徴をもった他の科学」といった感じで訳した方が原文のニュアンスに近いのではないかと思います。otherはculturally ではなくsciencesに直接かかっています。
p.57
「それらが正確なものであっても、そうした天文学による発見を本当の科学として認めるためには、その探求に浸透していた占星術や儒教的な宗教的信念の要素にも、本当の科学という地位を与えねばならなくなる」
whatever their accuracy, such astronomical discoveries could not be admitted as real science without permitting the possibility of assigning such a status also to the elements of astrology or Confucian religious beliefs that permeated such inquiries.
→どんなに正確なものであれ、そうした天文学による発見を本当の科学として認めてしまうと、その探求に浸透していた占星術や儒教的な宗教的信念の要素にも、本当の科学という地位を与える可能性を開くことになる。
[possibilityという要素が訳文から抜け落ちているという点と、もとの訳文だとそういう天文学を本当の科学と認めたいというニュアンスが感じられるのに対して原文にはそういうニュアンスが特にないという点で訳し直してみました]
p.57
「しかしこれは矛盾している」
this has the paradoxical consequence that ...
→しかしこれには以下のような逆説的な結果がついてくる。
[逆説は別に矛盾ではありません。哲学書で「矛盾」という言葉は非常に重い意味を持つので、使うときは慎重に]
p.58
「ヨーロッパ科学はそれが遭遇した知識伝統から借用したものがないという考えを検討するということは、実際のところ、借用したものを検討することになるのだ」
Indeed, it is as revealing to examine the ideas that European sciences did not borrow from the knowledge traditions they encountered as it is to examine what they did borrow.
→実際のところ、ヨーロッパ科学がそれが遭遇した知識伝統から借用しなかったアイデアを吟味するという作業は、借用したアイデアを吟味するのと同じくらい示唆的である。
[「借用したものがないという考え」は誤訳だと思います。あとのwhat they did borowとの対比になっていることから考えて、ideas の後のthatは関係詞です。]
p.58
「このように、他の知識伝統は「うまく機能し」、西洋科学がはるか後に成し遂げることができたプロジェクトが、そこで行われていたのである。」
Thus, other knowledge traditions "worked" at projects Western sciences could accomplish only much later.
→「このように、他の知識伝統は、西洋科学がはるか後になってしか成し遂げられなかったプロジェクトを「うまくやる」ことができたのである。」
[worked at projectを訳文で完全に切りはなしてしまっているので妙な文章になっています]
p.58
「天国から受け渡された十戒に続く11番目の戒律に何が科学で何が科学でないかが説かれていたとしても、その戒律を発見した人はいない」
Nobody has discovered an Eleventh Commandment handed down from the heavens specifying what may and may not be counted as science.
→「何が科学と認められ、何が科学と認められないかということを、天国から受け渡された十戒に続く11番目の戒律として発見した人がいるわけではない。」
[これは誤訳というよりはニュアンスのレベルの問題ですが、原文は十一番目の戒律という仮定を積極的に立てているわけではありません。]
p.59
「著名な北側の分析家(著名と言えなければ進歩的と言ってもよいが)」
distinguished and otherwise progressive Northern analysts
→著名で、他の点では進歩的な北側の分析家
[otherwiseというのはヨーロッパ中心主義以外の点では、という意味だと思います]
pp.68-69
「そして理論的には、ヨーロッパ拡張の地図とルートは、ヨーロッパ科学の拡大の中でも跡をたどることができるだろう」
expansion of the content of European sciences
→「ヨーロッパ科学の内容の拡大」
[科学の拡大、では内容が増えたのか、科学者が増えたのか、科学をやっている国が増えたのか、よくわかりません]
p.69
「理想化された近代人(modern man)にとって、自然を支配する力を得ることは、道徳原理や宗教原理を犯すことを意味するものではなかった。」
To gain power over nature would, for modern man, violate no moral or religious principles
→「近代人(modern man)にとって、自然を支配する力を得ても道徳原理や宗教原理への違反にはならなかった。」
[理想化された、という補足はなぜついたのでしょうか?後半の訳は趣味のレベルの差です。]
p.70
「自然は独立したものであり」
self-governed
→自然は自らを支配しており
[独立、ではindependentの訳ともとれ、governのニュアンスが伝わりません]
p.70
「解読するという確証がなかった」
confidence
→「解読することができるという確信がなかった」
p.93
「南側の文化は北側と同様、自然の側面について誤った信念や体系的無知を発達させてきたため、自然は必要以上に脆弱になってしまっている。」
Southern cultures, no less than Northern ones, have developed patterns of erroneous belief and systematic ignorance about aspects of nature that have left them unnecessarily vulnerable to life's vicissitudes.
→「南側の文化は北側と同様、自然の諸側面について誤った信念や体系的無知を発達させてきたため、それらの文化も人生の有為転変に対して必要以上に脆弱になってしまっている。」
[themの指示対象は文脈からいってaspectsではなくcultures でしょう。]
p.100
「きわめて近代的な北側の科学を構築する進歩的なプロジェクト」
a progressive project for constructing fully modern Northern sciences
→「本当の意味で近代的な北側の科学を構築する進歩的なプロジェクト」
[このfully には、近代科学を批判する側の方が実は近代の理想に忠実なのだ、というニュアンスが含まれています(それはこのあとの箇所で具体的に述べられています)。「きわめて」と訳してしまうとそのニュアンスが失われます。もう少し直訳に近くするには「徹底的に」「全面的に」などの訳語もありえますが、それではちょっと伝わりにくいかもしれません。]
p110
「実際には「上司」であるウィルキンスに献身的に仕え、彼を助けていたのに、彼女が自分のアイディアに固執していたという描写をしており、」
...who, rather than help her dedicated male "superior" Wilkins, as she was meant to do, insists on imposing her own ideas...
→「彼女が、自分の献身的な男性の「上司」のウィルキンスを助けることになっていたのに、そうせずに自分のアイディアに固執していた、という描写をしており」
[ワトソンのフランクリンについての記述がアンフェアだった、という箇所ですが、そもそもフランクリンはウィルキンスと対等な立場だったのにワトソンは彼女が女性だというだけで助手あつかいした、というのがアンフェアだと言われている所以です。]
p.120
「自分のデータを説明するために、アニミスティックな「法則」つまりアニミズムと女性を結びつけるような法則ではなく、機械的な法則へと向かうことになった」
...led him to choose a mechanistic instead of an animistic "law," where animism was associated with women, to account for his data,...
→「自分のデータを説明するために、物活論的な「法則」----ここでは物活論と女性が結びつけられていた----のかわりに機械論的な法則を選ぶことになった」
[ボイルの女性嫌悪がボイルを機械論へと誘ったという話の一部ですが、物活論的法則の中身の説明としてwhere が挿入されているのではなく、なぜ女性嫌悪の話からいきなり物活論の話になったかの説明として挿入されているのだと思います。]
p.132
「「支配に関する研究(study up)」」
study up
→「支配者を対象とする研究」「上むきの研究」
[支配という出来事自体ではなく、支配という構造の上の方にいる人を研究対象にしているというのがポイントだと思いますが、この訳語ではそのニュアンスが伝わりにくいと思います。]
p.150
「ごく最近のものについては、ここで触れておく価値があるだろう」
One more very recent criticism ... deserves at least mention here.
→「ごく最近のもので、一つここで触れておく価値のあるものがある。」
[最近のものだから触れているのではなく、むしろ最近の動きだけれども重要なので言及することにした、という感じですね]
p.150
「彼女は、デヴィッドソンがフェミニスト科学哲学に対抗して、概念図式(conceptual schemes)と経験的な主張という二元論について行った批判に関して、自分の論を展開している。」
She deploys Davidson's criticisms of the dualism of conceptual schemes and empirical claims against feminist philosophers of science.
→「彼女は、デヴィッドソンが概念図式(conceptual schemes)と経験的な主張という二元論について行った批判をフェミニスト科学哲学に対置している。」
[デヴィッドソンの概念図式という考え方に対する批判は別にフェミニズムに向けられたものではありません。]
p.151
「まず第一に、前述したように、科学実践そのものが政治的・文化的な価値や利害関心を不用意に正当化し、さらにそれを広めているということを認識できず、そしてそのことと戦おうとしないので、科学とその哲学はたいてい支配的な社会集団の政治方針に加担するようになっている。」
First, as indicated earlier, science and their philosophies that cannot recognize and do not engage with how scientific practices themselves inadvertently legitimate and further disseminate political and cultural values and interests usually end up complicitous with the agendas of dominant social groups.
→「まず第一に、前述したように、科学実践そのものが政治的・文化的な価値や利害関心を不用意に正当化し、さらにそれを広めているということを認識できず、そしてそのことと戦おうとしないような科学とその哲学は、ふつうは結局支配的な社会集団の政治方針に加担することになる」
[訳文はあまり変わらないようですが、ハーディングは科学とその哲学全般を批判しているのではなく、that 以下の性質を持つような「科学とその哲学」に限定して批判をしています。]
p.151
「こうした科学とその哲学はたいてい、最も政治的・経済的に不利な人々を公然と差別しているようなものだ。」
These sciences and their philosophies usually discriminate against the most politically and economically disadvantaged groups no less than more overt forms of discrimination.
→「こうした科学とその哲学は、ふつう、最も政治的・経済的に不利な人々を差別するという点でより公然とした差別とかわらない」
[公然とした差別だ、と言っているわけではないので。ハーディングが不用意に乱暴なことを言っているような印象を与えてしまいます。]
p.151
「それらは認識論的に未発達であるといえよう。たとえ本章で「Eのつく単語」、つまり認識論(Epistemologies)の信用が失われなかったとしても(しかしながら、後述部分を参照のこと)。」
I would say they are epistemologically underdeveloped had the "E word" not fallen into disrepute in this chapter (but see below).
→「もし、この章の議論で「Eのつく単語」、つまり認識論(epistemologies)の信用が失われなければ、そうした科学やその哲学は認識論的に未発達だ、と言いたいところである(しかしながら後述部分を参照のこと)。」
[仮定法なので仮定法として訳してください。ほかの個所ではこうした限定なしに「未発達だ」と断定しているので食い違いが気になるところですが、少なくともこの個所の英文は訳文のようには読めません。]
p.156
「比較民族科学の流れ」(節タイトル)
The comparative ethnoscience movement
→「比較民族科学の取り組み」
[「運動」という機械的な訳をさけたのは日本語の「運動」ということばにつきまとうニュアンスを嫌ったのだと思いますが、「流れ」ではmovement という言葉にある能動的なニュアンスが消えてしまいます。以下、movementという言葉がこの章で何度も出てきますがすべて同じです。]
p.160
「貴重なものとして移し替えられたりした」
importantly transformed
→「重要な点で変形された」
p.161
知識の主体、つまり、実際に知識を持つ知者(knowers)や隠れた知者、あるいは知識主張を実際に語る話し手や隠れた話し手を再定義するのに役立っている。
helped to redefine subjects of knowledge, the actual and implied knowers or speakers of knowledge claims,...
→「知識の主体、つまり実際に知識を持つ者や知識を持つとみなされる者や知識主張を実際に行うものや行っているとみなされる者を再定義するのに役立っている。」
[ここは正確に何を言っているか判断が難しいところですが、いずれにせよ「実際」と「隠れた」では対比としてアンバランスです(隠れていても実際に知識をもっているでしょうから)。]
p.180
「もちろん、近代科学は社会の中で行われており、人材や物質資源はさらに大きな社会からまかなわねばならない。」
Of course, modern sciences are conducted within social worlds in that their human and material resources must be provided by the larger social order,...
→「もちろん、人材や物的資源がより大きな社会秩序からまかなわれなければならないという意味で、近代科学は社会の中で行われている。」
[もとの訳文では、最初の「社会」と後の「さらに大きな社会」が別物のように見えます。しかし原文では、in thatでつながれているので、societyとthe larger social orderは同じものです。]
p.194
「第二に、統合の理想は、強固なものになる可能性のある主張ではなく、それほど支持が得られていない主張を正統なものとして受け入れている。」
Second, the universality ideal legitimates accepting less well-supported claims over potentially stronger ones in many cases.
→「第二に、普遍性の理想は、多くの場合に、それほど根拠がない主張を潜在的にはもっと強力な主張よりも優先して受け入れることを正当化してしまう。」
p.194
「機能不全の相対主義」
disabling relativism
→科学を無力化するような相対主義
[機能不全の、では相対主義自体が機能不全を起こしているようで、なんでそれが脅威だと思われるのかよくわからなくなります]
p.196
「絶望的な患者」
desperate patients
→必死の患者
[患者が絶望的だというと容体のことみたいですが、ここではもっとメンタルにおいつめられているという意味合いだと思います]
p.198
「反対意見つまり自然の秩序をいかに見て、いかに概念化するかというその方法が異なる場合、... その反対意見には耳をかさない」
In this scheme there is no room for permanently dissenting voices, for other ways of seeing and conceptualizing nature's order, unless...
→この図式の中には、 〜というのでない限り、恒久的な反対意見の存在する余地はないし、自然の秩序に対する他の見方や他の概念化の方法が存在する余地もない。
[耳をかさないのではなく、唯一の科学という図式が正しければそもそもそんなものは存在しないということです。「近代科学側の独白」の中ですので。]
p.206
「特徴がもう一つある。」
There are additional .... features of ...
→「特徴がほかにもある」
[細かいところですが、次の文が「たとえば」For exampleと始まっているので「もう一つ」ではおさまりがよくありません]
p.209
「真理の主張は、倫理的、政治的な帰結をもたらすことがあり得るのだろうか、つまり、哲学者が主張しているように、いかなる事実にも規範あるいは「そうあるべきだ(oughts)」というような意味が含まれていないのだろうか。」
Can they have ethical and political consequences, or do no facts imply norms or "oughts," as philosophers have maintained?
→「真理の主張は、倫理的、政治的な帰結をもたらすことがあり得るのだろうか、それとも、哲学者が主張しているように、いかなる事実からも規範あるいは「べし(oughts)」は導けないのだろうか。」
[前半と後半は逆の立場なので、このorは言い換えではなく対比です。あと、implyは論理学の用語で、「AならばB」という構文の「ならば」を指します。]
pp.210-211
「彼が指摘したように、科学的仮説は、経験によってその一つひとつが審判を受けるのではなく、おおよそ暗黙のうちにある日常の仮定や、実験道具の信頼性に関する科学的ネットワークの一部、特定の観察者の視覚や聴覚の一部、光学原理の一部、環境条件(水や大気の純度など)の評価の一部、神の介入の可能性に関する予測の一部、そのほか多くの事柄----論理学の法則さえも含む---の一部にすぎないのである。」
Scientific hypotheses cannot meet the tribunal of experience, as he put the point, one by one, but only as parts of networks of largely unarticulated everyday and scientific assumptions about the reliability of experimental instruments, of particular observers' sight and hearing, of principles of optics, of assessments of prevailing environmental conditions (such as purity of the water or air), of expectations about possibilities of divine intervention, and about many other matters ---- including even the laws of logic.
→「彼が指摘したように、科学的仮説は、経験によってその一つひとつが審判を受けるのではなく、実験道具の信頼性、特定の観察者の視覚や聴覚の信頼性、光学原理の信頼性、環境条件(水や大気の純度など)の評価の信頼性、神の介入の可能性に関する予測の信頼性について、そしてそのほか多くの事柄----論理学の法則さえも含む---についての、あまり明確化されていない日常的仮定と科学的な仮定がなすネットワークの一部としてのみ審判をうけるのである。」
[訳文では意味がよくわかりません。ofの連鎖がつながっている先はpartsではなくreliabilityです。ここでは一応直訳的に訳しましたが、もう少し分割して訳した方がいいかと思います。]
p.211
「どのような仮説も最終的に確証され得ない、つまり真であると証明され得ないと論じている」
no hypothesis could be conclusively confirmed or proved true.
→「どのような仮説も最終的に確証され得ないし、真であるという証明もされ得ないと論じている」
[最終的な確証があることと真と証明されることが同一かというのは結構哲学的に微妙な問題なので、安易に「つまり」でつなぐのはまずいと思います。]
p.212
「科学者が常に信じていると主張する教条的な信念と対照的に、科学的信念は将来の反証可能性のリスクに対して開かれたものである。」
Scientific beliefs contrasted with such dogmatically held beliefs in that scientists always insisted on holding beliefs open to the risks of possible future falsification.
→「信念というものは将来の反証のリスクに対して開かれていなくてはならないということに科学者たちが常にこだわるという点で、科学的信念は教条的な信念と対照的である。」
[ここはポパーの立場を説明しているところなので、科学者が教条的だなとど言うはずはないところです。]
p.212
「第二次世界大戦後における科学の社会史」
social histories of science produced in the postwar period
→「第二次世界大戦後に生み出された科学の社会史研究」
[もとの訳文だと第二次世界大戦後に科学がたどった道のりのことを言っているように見えますが、原文が言及しているのはその時期に行われた社会史的な研究の方です。対象としては17世紀とか20世紀前半とかをあつかった研究が多かったはずです]
p.213
「クーンの研究は、今日では古典的なものと思われることが多い。」
old-fashioned
→「クーンの研究は、今日では時代遅れと思われることが多い。」
[古典的、では肯定的な意味になってしまいます。クーンが合理主義者だったという次の文とのつながりからいっても、old-fashionedはネガティブなニュアンスです。]
p.214
「(著名な科学史学者の主張も含める)」
(including those of influential historians of philosophy)
→(著名な哲学史家の主張も含める)
[ここは訳の方が意味が通るので、著者に確認して訂正された箇所かもしれませんが、念のため指摘しておきます。]
p.218
「科学者が働いている「交易圏(trading zones)」では、科学者を分離する多様な文化や自然状況にもかかわらず、お互いがやりとりするためにさまざまな創意工夫がなされており」
in all those inventive strategies that occur in the "trading zones" within which scientists work to communicate across the diverse cultural and natural conditions that separate them.
→「「交易圏(trading zones)」では、科学者を分離する多様な文化や自然状況にもかかわらず、科学者たちはお互いがやりとりするためにさまざまな創意工夫をこらしており」
[「科学者が働いている」というのが意味が分からなかったので原文をチェックしたのですが、work to communicateで、「働く」という意味合いはとくにないですね。]
p.222
「しかも、この表象は重要な点で互換性がないのだ」
incompatible
→「しかも、これらの表象は重要な点で互いに両立しないのだ」
[incompatibleというのは矛盾するというのと同じような意味合いです。哲学の文章を訳す際にはこういう言葉に細心の注意をはらってください。]
p.231
「ある関係者は」
correspondent
→「私に答えてくれた人の一人は」
[関係者、といきなり言われても、何の関係者かさっぱりわかりません。]
p.245
「相対主義は、たとえ進歩的もしくは懐古的な科学や政治プロジェクトのために頻繁に用いられていても、絶対主義者にとっては常につくり事であり、悪夢である。」
Relativism was always the invention, the nightmare, of the absolutist, even if often appropriated by others for either progressive or regressive scientific or political projects.
→「相対主義は、確かに進歩的、ないし反動的な科学や政治プロジェクトのために頻繁に用いられてきたとはいえ、絶対主義者の作り上げた悪夢でしかなかった。」
[絶対主義者が相対主義が正しいという現実を直視しない、というような意味にとっているようですが、ハーディングの主張は逆に絶対主義者が言うような意味での相対主義などだれも主張していない、というものです。英語の読解としても、訳文のとおりならinvention of ではなくinvention forとなるはずです]
p.245
「本書で論じてきたのは、歴史的にローカルな我々の言説を超えた「そこに」世界は存在するかもしれないが、信じるべき知識主張はどれかという選択を我々のために行ってくれるような権威を持つものは存在しないということだ。」
Here I have been outlining how we can still have a world "out there" beyond our historically local discourses, but we cannot have one that authoritatively chooses for us which knowledge claims to believe.
→「本書で論じてきたのは、歴史的にローカルな我々の言説を超えた「外側に(out there)」世界が
あるとどうして認めることができるかということ、そしてそれにもかかわらず、信じるべき知識主張はどれかという選択を我々のために行ってくれるような権威を持つものは存在しないということだ。」
[合理主義者が想像するような危険な相対主義は近年の科学批判の中では否定されているのだ、というのが本書の目玉の主張のひとつですので、そこはきちんと訳してあげてください。]
p.246
「科学哲学もまた多元的である」
Philosophies of sciences, too, must be multiple.
→「科学哲学もまた多元的でなくてはならない」
[哲学の文章なので、事実について述べているのか価値判断について述べているのかというのはおろそかにせずにきちんと訳してください。]