本発表は、外在主義のメタ倫理学、とりわけリチャード・ボイドやピーター・ レイルトンの道徳的実在論の問題点を、非認知主義との比較において分析するこ とを目的とする。
まず、メタ倫理学における外在主義(exernalism)と内在主義(internalism)の区別を 簡単に説明しておく。「よい」「ただしい」「べし」などのことばやそれを含ん だ表現(さらにいえばそうした表現を使って行われる道徳をめぐる活動)が二つ の側面を持つ(あるいは少なくとも持つようにみえる)ことは、現在大多数のメ タ倫理学者のあいだで認められている。この二つの側面を、R.M.Hareの用語を借 りて「記述的側面」と「指令的側面」と呼ぶことにしよう。記述的側面とは、「 よい」などの語を含む表現が、よいとされる対象の性質についてのなんらかの記 述を含むという側面であり、たとえば「よい包丁」という表現には、その包丁が よく切れるという性質についての記述が含まれていると考えられる。指令的側面 とは、そうした判断が、何らかの形でわれわれの動機づけや行為にむすびついて いるという側面である。たとえばあるひとがある包丁について、ほかの包丁より よいと判断しながら、その包丁を買わずに別の包丁を買ったとすれば、われわれ はその行為について不審に思うであろう。これは、「よい包丁」という判断と、 その包丁を選ぶという行為のあいだになんらかの連関をわれわれがみとめること の証拠である。(当然ながらこれら二つの側面の存在そのものを否定するメタ倫 理学上の立場もありうる。古典的な情動主義は記述的側面の存在を否定するであ ろうし、古典的記述主義は指令的側面の存在を否定するであろう。本発表ではこ れらの立場は扱わない。)
この二つの側面、すなわち記述的および指令的側面と道徳語との関係は幾通り にも解釈できる。近年のメタ倫理学では様々な立場を指令的側面の取扱に注目し て内在主義と外在主義に分類する。内在主義とは、指令的側面が、なんらかの形 で道徳語の意味や道徳判断の内容に本質的にふくまれている、という考え方であ る。内在主義の典型はいわゆる非認知主義であり、これによれば道徳判断はそも そもある種の推薦、命令あるいは感情の表現である。これに対し、外在主義は、 指令的側面をおおかれすくなかれ偶然的に道徳語・道徳判断に付随するものとみ なす。この典型となるのがこれから見る道徳実在論であり、この立場によれば道 徳判断とは本来ある種の自然的な性質の記述であり、行為への動機づけは心理学 的な事実としてそうした判断に付随するにすぎないことになる。
ボイドやレイルトンの道徳的実在論はメタ倫理学における自然主義と緊密に結び ついている。ここで、レイルトンにならって自然主義の二つの種類を区別してお こう。一つは方法論的自然主義であり、もう一つは実質的自然主義である。方法 論的自然主義とは、哲学においては、アプリオリに、いかなる経験的なテストも 必要とせずに実質的な真理を生み出すような方法というものは存在しない、とい う立場である。メタ倫理学においては、これは、アプリオリな概念分析を否定し て、現実に行われている道徳的実践をうまく記述し説明できるような理論の構築 をめざすという立場を意味する。上述の道徳語の二側面も、道徳語の意味から導 かれるアプリオリな事実ではなく、道徳的な実践がそのように行われているとい う観察に基づく制約である。実質的自然主義とは、そのような理論の内容として 、道徳概念は現実の実践の中においてなんらかの自然的性質と同定されている、 とする立場である。レイルトンは、彼自身の立場について、この両方の意味で自 然主義的である、とする (Railton 1989, 156) 。ボイドが実質的自然主義者なのは 間違いないが、方法論的自然主義者でもあるかどうかは議論の余地がある。これ は彼がいう反省的均衡がどのような性質のものであるかに関わってくる(後述) 。
ボイドとレイルトンは、そのようにして道徳概念と同定される自然的性質こそが 「道徳的事実(moral facts)」であり、道徳命題の真偽はこの事実にてらして決める ことができるとする。これがかれらのいうところの道徳的実在論である。しかし 、では、どのような自然的性質が道徳的事実なのだろうか。ボイドとレイルトン の議論の構成は本質的な点では非常に似通っているので、以下、レイルトンの「 道徳的実在論」と題する代表的な論文によりながら、彼らがどのようにして道徳 的事実にたどり着くか見ていこう。
レイルトン(1986, 172)は道徳的事実は我々の道徳にまつわる経験を説明する上 で一定の役割をはたすことができるような自然的性質でなくてはならないと考え 、さらに、そうした役割を果たすための要件として、独立性とフィードバックの 存在をあげる。すなわち、道徳的事実はわれわれが存在すると思うか思わないか にかかわらず存在するものでなくてはならず、また、われわれと何らかの形で相 互作用することのできるものでなくてはならない。
レイルトンはまず予備的な考察として、非道徳的な意味での「ある人にとって の善」に対応するそのような性質を探し、その人の客観的な利害が前述の条件を 満たすと考える(Railiton 1986, 172-184)。(断わっておくが、レイルトンは客観 的利害のみがこの条件を満たすという唯一性を示す努力はまったく行っていない 。これはあくまで客観的利害が一つの有力な候補であるという議論である。おな じことはボイドの議論にもあてはまる)客観的利害とは、簡単に言えば、完全で いきいきとした知識と、欠陥のない推論能力を仮定したときにその人が望むであ ろうもの、つまりその人にとって道具的に合理的なものである。そうした欲求の 対象となるであろうという性質がわれわれの信念にかかわらず存在しうること、 そしてそうした対象とわれわれのあいだに相互作用が成り立つことは認めてもよ いであろう。さらに、客観的利害はある種の説明において有用である。たとえば 、ある人が暑いからといって冷たいものを食べすぎてお腹をこわして苦しんでい るとしよう。なぜその人が苦しんでいるかを説明するとき、われわれは「彼は自 分にとって何がよいかよく知らなかった(考えなかった)からだ」と言うことが できるが、ここでいう「何がよいか」は、「何が客観的利害であるか」と言い替 えても同様の説明が成立する。かくして、レイルトンは客観的利害を、非道徳的 な意味での善と同定されるべき自然的性質の候補として提案する。
道徳的な善の分析にも同じ様な考え方が用いられる。道徳的な善についてひと びとが語る時には何人かの利害が関与し、しかももっとも有力な関係者の利害が 必ずしも優先されるわけではない。このような条件を満たす道徳的事実の候補と して、レイルトンは「社会的な観点から合理的なもの」を挙げる。ここでの合理 性もまた上述の客観的利害という意味での道具的合理性である。ここでレイルト ンのいう「社会的な観点」とは、すべての関係者の利害を等しく配慮する観点で あるとされるが、その等しく配慮する仕方についてはレイルトンは特定しない。 レイルトンが行なおうとしているのは、道徳的善の概念の分析であって、功利主 義対カント主義のような実質的な問題について答えを出すことではないからであ る(この点で、レイルトンの実在論は、「非功利主義的帰結主義」を候補として あげるボイドの実在論とは一線を画す)。レイルトン自身は明確に述べないが、 社会的観点からの合理性は、個人の場合における客観的利害と同じ様なしかたで 説明に用いることができる。ある社会がこの意味で合理的に運営されていないな らば、さまざまなかたちで矛盾が噴出することが予期できるし、そうした矛盾は 「この社会が正しく運営されていないからそういう矛盾が噴出するのだ」と説明 できるであろう。そして、ここでいう「正しい運営」とは、とりもなおさず「社 会的な観点から合理的な運営」であると考えることができる。レイルトンはまた 、道徳的な規範の進化をそのような合理性への要求から説明できる可能性を示唆 している(Railton 1986, 196)。
さて、道徳性を社会的観点からの合理性と同一視した場合、道徳語の指令的側 面はどうなるのだろうか。個人の場合には、あるものを望むのが合理的であるな らば、そのことはその人にとって、少なくともそれを望む一つの理由にはなる( もちろん本人がそれが合理的であることに気付いていればだが)。しかし、社会 的観点からの合理性の場合には話はそう簡単ではない。社会的不合理から生じる 問題は、多くの人をそうした不合理を避けるように動機づけるであろうし、これ が一見したところ道徳判断が指令性をもつ理由である。しかし、そのように動機 づけられない人も社会の中には存在するであろう。彼等はある行為が道徳的に悪 いことを認めながら、まったくその行為に反対する動機づけをもたないでいるこ とができる。そうした人々は非道徳主義者(amoralist)と呼ばれる。この意味での 非道徳主義者の存在を認めることは外在主義全般の特徴であり、本発表の後半の 議論もこれにかかわってくる。
ここで一つ注意すべきなのはボイドやレイルトンは道徳語の定義を与えようと しているわけではないということであり、したがってムーアのいう自然主義的誤 謬は犯していないという点である(ムーアの言う自然主義と区別するために、実 質的自然主義を「形而上学的自然主義」と「定義的自然主義」に分け、ボイドや レイルトンは前者である、と断わっておくのも一つの手であろう)。彼らが求め ているのは形而上学的同一性であり、いわば「水」という語の指示対象がH2Oで あることを発見するのと同じ仕方で「よい」というの指示対象を見いだそうとし ているということである。
このような外在主義の主張には魅力的な点が多いのは否めない。自然主義は今 、倫理学に限らず英米の哲学全般において支持者を増やしており、自然主義を明 確に打ち出す道徳的実在論がそうした流行と合致しているのはいうまでもない。 また、道徳判断の指令的性格に一定の説明を与えつつ、同時に他の事実判断と基 本的に同じ種類のものとして扱える単純性には評価すべきものがある。しかしな がら、伝統的な内在主義、とりわけ非認知主義の観点から言えば、外在主義に基 づく道徳的実在論は、道徳をめぐる我々の実践の非常に重要な側面を積み残して しまっていると言わざるをえない。そうした問題のうち、以下では二つの問題、 すなわち異文化間の道徳的不同意の問題と、動機付けそのものの望ましさをめぐ る問題をとりあげる。
まず、道徳的実在論を含む外在主義一般の問題点として、異文化間の道徳的な 不同意が成立しなくなることがよくあげられる(Smith 1994など)。というのも、 もし道徳語の指示対象が他の「水」などの語と同じように決まるのならば、まっ たく別のものを「よい」とみなす別の文化は単に別のものについて話しているこ とになるからである。たとえば、沸騰しているお湯をみて、日本語の話者がそれ は「水」ではないといい、英語の話者がそれは「water」であると言っても、両 者の間には真の意味での不同意は存在せず、単に「水」と「water」の指示する 範囲が違うということが分かるにすぎない。同様にして、奴隷制を「よい」もの に含める文化と奴隷制を「わるい」ものに含める文化では、単に違うものを指し 示していると考えることができる。これは道徳判断の客観的妥当性への大きな脅 威となり、道徳的相対主義につながりかねない。非認知主義ならば、この点は態 度における不一致としてすっきりと説明される。たとえば、ヘアの普遍的指令主 義でいうならば、その様な場合には二つの文化の成員は別のものを普遍的に指令 しているのであり、指令される行為の内容が食い違うことから実質的な不一致が 生じる。しかし、外在主義はその様な態度の問題を道徳外の心理学的レベルに追 いやってしまうので、外在主義者は態度の不一致を道徳的不一致とみなすことが できない。
ボイドやレイルトンは、この問題を科学的実在論との比較で回避しようとする 。これまで様々な文化が「水」についてさまざまな理論をたててきたが、このこ とは、水の本性について正しい理論があり、これまでにたてられてきた理論の多 くが誤りであるという見解と矛盾しない。同じことが道徳的実在論でもいえるの ではないか。つまり、奴隷制がよいか悪いかについての不一致は、「よい」とい う語の指示対象について片方が正しく他方があやまった理論をもっていることか ら生じる不一致ではないか。(ボイドはまた、「よさ」という語の指示対象はho meostatic cluster であり、二値性をもたない場合がある、という議論にも訴えるが 、ここではこの議論は考慮しない)。
この論法は、方法論的自然主義をまじめにうけとるかぎり、残念ながらうまく いかないように思われる。方法論的自然主義のポイントは、実際の道徳的実践に よってメタ倫理学理論を経験的にテストし、そのような実践を説明できる理論を 作ることにあったはずである。それならば、さまざまな文化における実際の道徳 的実践の多くが間違っているという結論がでてくる理論は、理論そのものに問題 があると言わねばならない。例えて言えば、これは、落体の研究をするのに、地 球上でのものの落ち方と月面上でのものの落ち方が違っているからといって、月 面上でのものの落ち方は間違っているというようなものである。
ここでわたしなりに道徳実在論を擁護するならば、方法論的自然主義をとりさ げて、道徳的実在論の目的は道徳的談話のexplication(よい日本語訳が思い浮か ばないが、「哲学的明確化」ぐらいか)であると考えればこの問題は一応回避さ れる。explicationとは、日常言語のあいまいな概念を分析する際に、もとの用法 に忠実であることよりも、哲学的に有用であることに重点をおいて概念の明確化 を行うことである。explicationは、したがって、経験的な仮説の提示というより は一種の哲学的提案に近い。実の所、レイルトンの「社会的観点からの合理性」 という分析は、経験的仮説というよりはexplicationとしての性格が強いようにお もわれる。多くの人は完全な知識や欠陥のない推論能力が道徳的善の概念と何か 関係があるということを否定するだろう。もしレイルトンの立場をこのように理 解することが許されるなら、これは道徳的善を社会的観点からの合理性と同定す べきだという哲学的提案となり、それにそぐわない道徳的実践がある意味で間違 っていると主張することには十分意味があることになるだろう。
しかし、そのようにして道徳判断の文化に相対的でない客観性を救ったとして も、それだけで外在主義が相対主義から逃れられるわけではない。というのも、 我々があらかじめ適切な仕方で動機付けされていない限り、外在主義の立場から 言えば、そのような客観性はわれわれの行為に対してなんらの含意も持たないか らである。
この点を、道徳的な論争の取扱をめぐる内在主義と外在主義の違いに焦点をし ぼってもう少し展開して見よう。二つの直観的な義務が葛藤したとき、あるいは 脳死の問題などあたらしい技術の発展でこれまでになかったような事例について 何をすべきか決める必要が出てきたときなど、関係者の間で、あるいは個人の内 部でその問題についての論争が生じることがよくある。内在主義の観点から言え ば、そのような論争に決着がつき、一致がえられるということは、どういう行為 を指令、推薦するか、どういう行為を行うようにわれわれが動機づけられるのが 望ましいかという問題に決着がつくということである。一言で言えば、道徳問題 をめぐる論争は、行為の指針をえるための論争なのである。
他方、外在主義によれば、ある行為が義務であるという答えを得たとしても、 その種の義務を行うようにわれわれが動機付けられていないかぎりその答えは行 為の指針をあたえない。実際、たとえばボイド=レイルトン流の道徳的実在論の 場合、その様な論争は「義務」という語の適切な指示対象をめぐる論争なのであ るから、行為の指針をあたえなくても何の不思議もない。しかし、道徳問題をわ れわれが論じるのは、普通はまさに行為の指針を得るためであろう。その場合、 われわれはその義務へ動機付けられるのが望ましいかというもう一つ別の問いを 問わねばならい。それならばしかし、初めから何をするように動機づけられるの が望ましいか(「義務」ということばの指示対象としてふさわしいかどうかは別 として)を論じればいいわけで、これではそもそも何のために義務に関する問い を論じるのかが分からなくなる。
この点について、レイルトンは興味深いコメントをしている(Railton 1993, 295- 296)。彼によれば、義務を行うように人々を動機づける役割を果たすのは、「社 会的制度や、周囲の期待やサンクション」などである。これらの機構をつかって 、われわれは「ある行為が義務であること」と、「その行為へ動機づけられてい ること」のあいだのギャップを狭めることができる。(もちろんこのような方策 の網の目をくぐって動機づけを逃れる「あたまと運のいい」個人が存在しうるこ とはレイルトンも認めるし、多くの人の認めるところであろう。)では、どのよ うな行為がそのように制度化され、あるいは期待やサンクションによって補強さ れるべきなのだろうか。レイルトンはこの問いを「道徳的な義務の適切な領域(th e appropriate domain of moral obligation)」についての問いであり、「それ自体では 道徳的な義務についての問いではない」とする(それではどういう性質の問題な のかということについてはレイルトンは述べていない)。
ともあれ、このような機構を背景にすれば、道徳的実在論の考えるような意味 で義務について議論して一致に達することは、多くの人にとっての行為の指針を あたえるであろう。この意味で、レイルトンは、上記の問題に一応の解決を与え ているといってよい。しかしそれは、適切な動機づけの問題という、外在主義に よればそれ自体では道徳外の問題を考慮にいれることによってはじめて可能とな った解決であった。しかし、道徳的論争において行為の指針をあたえることが道 徳判断の重要な役割であることを考えるなら、そのように重要な部分を道徳外の 領域に追いやってしまうのは、道徳的実践の範囲を切り縮めすぎていることにな らないだろうか。
ここで、外在主義者から以下のような反論が予想される。「人が道徳的な議論 に行為の指針をもとめるのは、すでにその人が道徳的に行為するように動機づけ られているからにほかならない。したがって行為の指針をあたえるのが道徳判断 の役割だというのも、そのような動機づけに相対的にのみいえることである。む しろ、そのような心理学的条件に付随的な特徴を道徳判断一般の特徴と考える内 在主義の方が不当な一般化という過ちを犯しているのである」と。ここで問題と なるのは、はたしてわれわれは「道徳的に行為するように」などという抽象的な レベルで動機づけられているのだろうか、という問題である。むしろわれわれの 心理学的な動機づけは、「うそをつかないように」「ものを盗まないように」と いった具体的な項目に対して行われているのではないだろうか。これは、新しい 状況に直面したときを考えて見ればわかる。たとえば、古典的な生と死のあいだ にあらたに脳死というカテゴリーができたときに、脳死者に対して何をしてよく 何をしてはいけないのかについて、われわれは前もっての動機づけはもっていな かったであろうし、また仮に合理的な議論の結果、脳死者からは臓器を摘出する ことが道徳的に許される、という結論に達したとしても、それがそのままわれわ れの動機づけのレベルに反映されるわけではないだろう。(この点で、内在主義 でも、道徳判断を単なる感情の表現とみなす単純な情動主義は問題があるといえ る。)現在の応用倫理の多くの問題は、まさにそのような文脈で発生している。 そのような場面でもわれわれが道徳的な問いを問うのは、べつに「よい」という 語の正しい指示対象が知りたいからではない。むしろ、われわれが前もって道徳 的な動機づけをもっていないような事態についても道徳的な行為の指針が必要と なることがあるからであり、その議論を通じてわれわれの動機づけの体系を改訂 する必要があるからであろう。動機づけの問題を道徳問題固有の領域から切り離 して心理学的問題としてしまう外在主義は道徳問題のこの側面をうまく捕え切れ ないのではないだろうか。
このように、道徳判断と行為のつながりのとりあつかいについて、道徳実在論の 様な外在主義では十分に処理できない問題があると思われるが、このことはかな らずしも道徳的実在論が失敗であることを意味しない。道徳実在論にはたしかに 魅力的な部分もあるので、内在主義的な要素、とりわけ適切な動機づけの問題を 積極的にとりいれることで道徳実在論を改良する方向で考えたほうがよいかもし れない。この問題についてはまた別の機会にゆずることとする。