長谷川氏や内井氏の発表にも明らかなように、近年の動物行動学の発展は、 人間の社会について、進化論生物学の知見がこれまで考えられていた以上に 適用可能である可能性を示唆しはじめている。本発表では、今後社会科学、 とりわけ社会学の理論や方法がこの動きによってどう変わって行きうるかを 考えてみたい。ただし、このような「可能性」を問題とする場合気をつけなく てはいけないのは、社会科学者たち自身の問題関心を無視して、「社会科学は こうあるべきだ」と勝手なプログラムをおしつけてしまわないようにすることである。
近年社会学の理論は非常な多様化を示しており、相互に両立不能な理論を同じ 社会学者が場面によって使いわけることもあるようである。この多様化を社会学 が科学として成熟できない理由として挙げる社会学者もいれば、社会学者の関心 の多様化の反映として歓迎する社会学者もいる。もし、関心の多様性のよい面を うち消さずに社会学理論を成熟・統合させていくことができれば、それにこした ことはないであろう。進化的な視点の導入はそうした緩やかな統合を産み出すた めのひとつの鍵となるのではないかと思われる。
本発表では、現代の代表的な社会学理論の一つである葛藤理論(conflict theory) の社会の階層化(stratification)の分析を例にとり、動物社会における階層構造に ついての最近の知見の導入がどのようにこの理論を拡充・強化しうるか、そして それが理論の今後の発展や検証にどのように影響をもたらすか、ということを論 じる。ここでの強調点の一つは、恣意的に見えた階層化のプロセスに実は生物学 的な境界条件があることが進化的視点からみえてくる、という点である。同様の 拡充を他の社会学理論についても行っていくならば、進化論生物学が、多様な社会 学理論の間の一種の共通言語として機能できるようになるだろう。
ただ、現時点であまり楽観的な展望ばかりを語るのも問題であろう。たとえば、 ある社会的現象が他の動物の社会にも見いだせるからといって、遺伝的基礎を持つ とは限らない(サルの芋洗い行動のように文化的伝達によって発展してきたものか もしれない)。社会学に進化的視点を導入するにあたっても、こうした問題に十分 留意しながら進まないと、かつての社会生物学への拒否反応の繰り返しに終わって しまいかねない。