社会学理論の進化的視点からの拡充をめぐって

伊勢田哲治(名古屋大学)

提題要旨

 長谷川氏や内井氏の発表にも明らかなように、近年の動物行動学の発展は、 人間の社会について、進化論生物学の知見がこれまで考えられていた以上に 適用可能である可能性を示唆しはじめている。本発表では、今後社会科学、 とりわけ社会学の理論や方法がこの動きによってどう変わって行きうるかを 考えてみたい。ただし、このような「可能性」を問題とする場合気をつけなく てはいけないのは、社会科学者たち自身の問題関心を無視して、「社会科学は こうあるべきだ」と勝手なプログラムをおしつけてしまわないようにすることで ある。  

近年社会学の理論は非常な多様化を示しており、相互に両立不能な理論を同じ 社会学者が場面によって使いわけることもあるようである。この多様化を社会学 が科学として成熟できない理由として挙げる社会学者もいれば、社会学者の関心 の多様化の反映として歓迎する社会学者もいる。もし、関心の多様性のよい面を うち消さずに社会学理論を成熟・統合させていくことができれば、それにこした ことはないであろう。進化的な視点の導入はそうした緩やかな統合を産み出すた めのひとつの鍵となるのではないかと思われる。  

 本発表では、現代の代表的な社会学理論の一つである葛藤理論(conflict theory) の社会の階層化(stratification)の分析を例にとり、動物社会における階層構造 に ついての最近の知見の導入がどのようにこの理論を拡充・強化しうるか、そして それが理論の今後の発展や検証にどのように影響をもたらすか、ということを論 じる。ここでの強調点の一つは、恣意的に見えた階層化のプロセスに実は生物学 的な境界条件があることが進化的視点からみえてくる、という点である。同様の 拡充を他の社会学理論についても行っていくならば、進化論生物学が、多様な社 会学理論の間の一種の共通言語として機能できるようになるだろう。  

 ただ、現時点であまり楽観的な展望ばかりを語るのも問題であろう。たとえば、 ある社会的現象が他の動物の社会にも見いだせるからといって、遺伝的基礎を持つ とは限らない(サルの芋洗い行動のように文化的伝達によって発展してきたものか もしれない)。社会学に進化的視点を導入するにあたっても、こうした問題に十分 留意しながら進まないと、かつての社会生物学への拒否反応の繰り返しに終わって しまいかねない。


1進化心理学とその批判者

 近年の動物行動学の発展は、人間の社会について、進化論生物学の知見がこれ まで考えられていた以上に適用可能である可能性を示唆しはじめている。社会科 学への進化論的視点の導入について目立つのが、進化心理学(evolutionary psychology)のプログラムである。その主唱者であるトゥービーとコスミデス (Tooby and Cosmides 1992)によると、社会科学は標準社会学モデル (SSSM)、すなわち人間の行動に関して遺伝的要因を一切認めず、文化というも のを実体化して文化次第で個々人の行動はいくらでも変わりうるというモデルに 基づいて進められてきた。これに対し、トゥービーとコスミデスが提示するのが 統合的因果モデル(ICM)である。簡単にいうと、社会生活の基礎となる普遍的な人間本 性について、進化的な観点からアプローチしようというモデルである。彼らは、 遺伝的決定論か後天主義かという不毛な対立はやめて、両者の要因を統合的に考 察しようと提案する。非常に可塑的にみえる文化の分析においても、その可塑性 を実現する生物学的基盤に目をむける必要がある。

  こうした提案は一見もっともであるにもかかわらず、社会科学者たちの間で 多くの支持を集めているようには見えない。むしろ、デイリーとウィルソン (Daly and Wilson 1988)がbiophobia と形容したような、社会科学者が生物 学的原因に言及することをためらう風潮が根強く残っている。これは何故だろう か?これを考える上で、ヒラリー・ローズとスティーブン・ローズの最近の編著 Alas, Poor Darwin (Rose and Rose 2000)は示唆的である。本書は進化心理 学に対するさまざまな分野からの批判を集めたものであり、寄稿者の中にはグー ルドら、進化心理学に批判的な生物学者も含まれている。彼らの批判は非常に多 岐にわたるが、いくつか、本発表の趣旨と関連して目立つ論点をあげてみよう。

  まず、進化心理学において設定される「標準社会科学モデル」は、社会科学 の中でもほとんど支持者のいない、非常に戯画化されたモデルであるという点が 批判される(H. Rose 2000, 142-148; Benton 2000 , 265-268)。社会科学 者たち自身が生物学的要因を研究しようとしないということと、生物学的要因が 存在しないと信じるということは同じではない。実際、アメリカの社会学理論家 を対象とした最近のアンケートのなかで、自分が使う理論として社会生物学の名 前をあげる社会学理論家は1.9%でほとんどいないが、同じグループの51.7%が 社会生物学は社会学に貢献できると判断している(Load and Sanderson 1999)。もちろんここから社会科学者一般に普遍化するのは無理であるが、少な くとも生物学への無関心と標準社会科学モデルの受容とは分けて考えた方がよさ そうである。

  第二に、進化心理学は社会科学の非還元主義的なプログラムを標榜するにも 関わらず、その実際の主張においてはむしろ還元主義的・生物学的決定論的主張 が目立つと批判される(Benton 2000, 262-265)。この、生物学的決定論への おそれは、トゥービーとコスミデスも指摘するように、人種差別などに手をかし てしまいはしないかという政治的・道徳的な配慮と強く結びついているようであ る。トゥービーとコスミデスは、進化心理学は「普遍的な人間本性」をさぐるも のであるから人種差別などに利用されようがないと言うが(Tooby and Cosmides 1992, 36-38)、この回答はbiophobiaの社会学者を説得するには 不十分だろう。普遍的人間本性を探している内に人種間の遺伝的な差を見つけて しまう可能性はあるだろうし(そんなものはありえないというのはあまりに非科 学的な答えである)、さらに言えば政治利用は人種差別だけではない。たとえば レイプという行動が遺伝的な基礎を持つという主張(Barash 1979)は、その研 究の正確な細部にかかわらずレイプに対する処罰を軽くするために政治利用され る可能性がある。

  こうした批判は、進化心理学のプログラム自体への批判としては、ある意味 で言いがかりだというのは確かである。SSSMの支持者がいようがいまいが、あ るいはICMのプログラムにきちんとそった仕事ができない科学者がいようが、 ICMそのものの妥当性がおびやかされるわけではない。しかし、このような反応 が返ってくるということは、トゥービーとコスミデスが、進化的モデルの社会科 学者たち自身にとっての有用性をうまく伝えることができていないということの 徴候であろう。以下、この発表では、社会学に焦点をしぼって、社会学者たち自 身にとっての進化的モデルの有用性を考察していく。  

2社会学の現状と科学化

 てはじめに、社会学の理論の現状がどうなっているかということをちょっとみ ておきたい。Sanderson and Ellis (1992)がアメリカ社会学会(ASA)の会員を 対象として行ったサーベイは、社会学において(少なくともアメリカでは)理論 の多様化が進んでいる現状を示している(複数回答式なので足しても100%に ならないので注意)。  

 葛藤理論 28.4 %
 折衷主義 25.9 %
 シンボル相互作用主義 25.3%
 機能主義・新機能主義 18.5%
 構造主義(レヴィ=ストロース流の)17.3%
 マルクス主義 12.3%
 ウェーバー主義 11.1%
 現象学・エスノメソドロジー 9.3%
 交換理論・合理的選択理論 6.8%
 社会生物学 2.5%
 社会進化論 1.2%
 その他 11.7%

 これらの理論は、存在論的にも(社会というものの基本的な構成要素は社会全 体か、階級か、個人間の相互作用か)方法論的にも(サーベイか、参与観察か、 コントロールされた実験か等)ばらばらであり、中には両立不能とみなされてい るものもあるが、Sanderson and Ellisはそうした両立不能な組み合わせを選ん だ社会学者たちも多かったことを報告している。

 アメリカ社会学におけるこのような多様化の進行については社会学者たちの間 でも賛否両論がある。一方では、社会学は自然科学の諸分野のような蓄積的な進 歩をとげていないということについての危機感を抱く社会学者たちがおり、そう した蓄積的進歩をはばむ元凶として、社会学全体の核心となる単一の理論の不在 が挙げられる。例えばリッツアーはこれらの理論間の哲学的な論争や政治的な対 立が、クーンのいう「通常科学」の営みを妨げていると分析する(Ritzer 1975)。またジョナサン・ターナーやランドル・コリンズら実証主義的社会学 者たちは、社会学の理論も公理的な体系として整備し、公理から経験的な命題を 導いて検証するやりかたで社会学を科学化しようと提案する(Turner 1990; Collins 1981a; Collins 1981b)。他方、こうした多様化を、社会学者が多様 な問題に関心を持つようになったことの結果と考え、歓迎する向きもある( Wiley 1990; Nash and Wardell 1993)。社会学という学問分野が(認識論的 観点からいって)どのように組織されるべきか、というのは社会認識論上の興味 深い問題であるが、本発表の本筋からかなりそれてしまうのでここでは立ち入っ た議論はしない。ただ、一般論としていえるのは、関心の多様化と抵触しないか たちで社会学理論の対立の調停が行えるのならそれにこしたことはないであろ う。しかし、存在論的・方法論的に対立する諸理論を統合するのは容易ではな い。

 私自身の提案は、対立する諸理論が共通して利用できる基準点のようなものを 持つことで、諸理論の独立性をそこなうことなくゆるやかな統合をかたちづくる ことができるのではないか、というものである。そうした基準点として、トゥー ビーやコスミデスが強調する「進化論生物学との両立可能性」が利用できるので はないだろうか。実は、生物学的知見が社会学の科学化に役立つのではないかと いう考えかたは、たとえばGove and Malcom 1997などにすでに見られる。彼 らもまた社会学の現在の問題は社会学という分野が全体としてみたときに不整合 であるという点だと分析する。そこで彼らが提案するのが、生物学理論を統一的 な理論的基礎として使うということである。ここで彼らがどういうものを理論的 基礎という言葉でイメージしているのか必ずしも明らかではないが、例えば、ポ ストモダン主義はそうした立場から否定されるが、ポストモダン主義が社会的構 成について行った研究の成果は生物学的観点からも利用できるとする。おそら く、生物学的知見との整合性を理論の取捨選択に使うことで整合性を回復しよう という意味での「基礎」なのであろう。わたし自身のイメージは、もう少し積極 的に各理論に生物学的知見を取り入れることで、諸理論の間の共通部分となるよ うな核をつくれないか、というものである。ただ、そうした統合が外からの押し つけでなく自発的な統合となるためには、社会学者たち自身の現在の研究関心に そった形で生物学的知見が取り入れられるということを示す必要があろう。以 下、上記のサーベイで一番人気とされている葛藤理論が進化的視点の導入によっ てどのように拡充できるかを例に取り、この点についてもうすこし具体的に展開 する。  

 

3葛藤理論と階層化

 葛藤理論(conflict theory)は、1950年代末から、マルクス主義の影響をう けながら発展してきた理論である(Dahrendorf 1958, Collins 1975など)。 1950年代のアメリカ社会学理論は構造機能主義(社会の構造を、各部分の社会 全体にとっての機能という観点から分析する立場)がほぼ独占している状態で あったが、50年代から60年代にかけてさまざまな批判に合い、現在では先のア ンケートにも見られるように弱小勢力となっている。その批判の主な論点となっ たのが、「構造機能主義では社会の変化などダイナミックな過程が扱えない」と いうものと、「社会内の諸制度は社会のためになんらかの役にたっているはずだ という構造機能主義の前提は社会の変革を阻害する」というものであった (Ritzer 1996, 115-119)。葛藤理論は、社会全体の構造を研究するというマ クロな関心はそのままに、社会の変化のメカニズムに重点を置く。社会現象は社 会的グループ同士の葛藤、利害の対立によって説明され、グループ間の力関係の 変化で社会は動的に変化していくものと考えられる。ある制度が長続きするのは (社会全体にとって何かの機能を果たすからではなく)権力をもったグループに とってその制度が支配の道具として役に立ち続けているということに過ぎないか もしれないし、対立するグループ同士のちょうどよい妥協点だからかもしれな い。従って社会のなかのほんの一部でしかない少数グループを利するだけの制度 であるならば変えていけない理由はない、ということになる。個々人の社会との 関わり方や社会の認識の仕方も、そうした対立抗争の中で形作られる。社会の階 層化や人種問題などは葛藤理論の格好の分析対象となっている。一応注意してお くと、葛藤理論はすべてがグループ間の葛藤によって説明できるとする立場では ない。ある種の制度は実際に社会全体の役にたつ機能を果たしている可能性を認 めた上で、一種の作業仮説として葛藤という観点から社会を分析しようというの である。ここでは特に葛藤理論の階層化の分析をとりあげる。

 階層化(stratification)とは、社会が上下関係のはっきりしたいくつかのグ ループに分かれることをいう。マルクスの資本家階級と労働者階級の区別は階層 化の分析の古典的なものであるが、性別や人種などに基づく層構造もまた階層化 の例である。階層構造は社会学者の主要な関心の的となってきた。日本でもSSM 調査(social stratification and mobility)という大規模な調査が1955年 から10年ごとに行われてきており、それにもとづいて、現代の日本に階層構造 があるかどうかということが論議されている。

 なぜ階層構造が社会の中に生じるかということについては古典的には機能主義 からの説明(Davis and Moore 1945)があり、これによると、階層構造による社 会的不平等は社会が生き延びていくために必要である、つまり社会が必要とする 地位に十分な能力のある人材を確保するためのメカニズムとして階層構造がある のだということになる。葛藤理論はこのような分析は社会的不平等を正当化する と批判する。葛藤理論の観点からは、階層化、とくに階層間の不平等は、さまざ まな利益グループが主導権争いを行った結果、グループ間の優劣関係が固定化す る事によって生じる。さらに、支配的となったグループにとって有利な価値観を 他のグループも共有することで、そうした不平等構造が規範として内面化され る。

 結局葛藤理論からの社会の階層化の分析が、どういう関心から何を分析しよう としているか、というのをまとめてみると、かれらは階層社会の変化を分析でき る理論を求めており、実際に社会変革につながらないまでも、少なくとも機能主 義のような保守的な前提は否定している。階層が存在することを明らかにし、階 層間の不平等が維持されるメカニズムを明らかにすることで、社会変革に寄与し ようという意図もあるであろう。問題は、このような関心、意図を持つ社会学者 に、進化的視点はなにを提供できるだろうか、というところにある。  

 

4階層構造の分析と進化的視点

 機能主義・葛藤理論いずれの説明も、階層構造を非常に可塑的・恣意的なイ メージでとらえており、これらの説明が正しければ遺伝的な要因の入る余地はな いように思われるかもしれない。しかし、このような不平等な構造は人類だけに みられるわけではなく、他のさまざまな動物の社会に存在する。いわゆる順位性 (dominance hierarchy) については、ウィルソンの『社会生物学』の中でも一 章をさいて扱っており、有名なニワトリの「つつきの順位」をはじめとして、さ まざまな社会性動物の順位性を紹介している。多くの場合、動物社会にみられる 順位制は個体間の順位であるが、種によってはグループ間の順位制を持つものも あるとのことである。興味深い指摘として、ウィルソンは階層性と縄張り制の関 係を指摘している。縄張り性をとる動物でも、人工的に狭い空間におしこめると 原初的な順位性に移行することがあるとのことである。

また、喧嘩の仲裁をする役割はコントロールと呼ばれ、サルの社会では順位制で 上位のものがコントロールの役割を果たすことが多い。しかし順位制をもたない 集団においてもコントロールというロールは見られるので、必ずしも常に両者が 一致するわけではないとのことである。

 人間社会における地位の高さと他の動物社会における優劣関係は、概念的には どちらも希少な資源への統制力として定義され、この点では差がない(Ellis 1993, 1-14)。操作的には、人間の言語能力のために、人間と他の動物でかな り違った指標で測られることになるが、それでも子供の社会における優劣関係な どは操作的にも動物社会の順位性と同じ方法で定義される(Ellis 1993, 15- 35)。

 さて、以上のような、階層性と順位性の類似は、階層性が単なる恣意的なシス テム以上のものであること、もっと具体的にいえば、階層性がなんらかの生物学 的基礎をもつことを示唆するであろう。実際、そのような階層にかかわる感情が 進化的な基礎を持つということは十分にありうる。先に引いたウィルソンも、順 位制を維持することの適応上の価値について考察している。階層構造の上の方に いるものにとって階層構造を維持するのが子孫を残す上で有利なのは確かであろ う。しかし下位の個体にとっても、とりあえず順位制に従っておくことは生殖上 の利益をもたらす。というのもおとなしくしていれば、将来上位の個体が死んだ ときに自分の地位が繰り上がっていく可能性があるからである。(ちなみに、最 近はDNA鑑定を用いてニホンザルの集団における父子関係が研究されている。そ れによると、ニホンザルの社会における順位と繁殖成功度は実はあまり強い相関 がないとのことである(立花1991, 619-644)。DNA鑑定による今後の研究次 第ではウィルソンの仮説を放棄せざるをえない可能性はある。)しかし、問題 は、そうした視点をどう生かせるか、ここでの問題に限って言えば、葛藤理論の 拡充にどう生かせるか、という点である。

 まず、うまくいきそうにない例として、Ellis(1993, 159-174)の階層化に 関する「生物社会的(biosocial)」理論なるものがある。それによると、社会に おけるあるサブグループの階層は、子供の養育への投資に関する性向および利他 行動に関する性向(どちらもある程度の遺伝的基礎をもつものと想定される)の 二つと相関関係があるとされる。こうした観点からEllis はアメリカにおける人 種グループの社会的地位の差などを説明しようとする。しかし、このような提案 は、仮に正しかったとしても葛藤理論を使う社会学者たちにとっておよそ魅力的 なものとはならないだろう。このように遺伝的基礎をもとめることは、社会階層 が時としてラディカルな変化を起こすことの説明には寄与しそうにないし、さら にいえば現在の不平等構造を正当化するために誤用されかねない。ちょうど機能 主義の階層化の分析が批判されたのと同じ理由で拒否反応が返ってくるだけなの は目にみえている。

 それでは、葛藤理論家に生物学的知見の有用性を納得させるにはどうアプロー チしたらよいのか。実は、これについては葛藤理論の内部ですでに示唆がなされ ている。現代の代表的な社会学理論家の一人であるランドル・コリンズは、 1975年の『葛藤社会学』の中で、葛藤理論の観点から階層化の分析をすると 共に、生物学的知見の利用の可能性を示唆している。以下少し詳しく見てみよ う。葛藤社会学の基本的な約定postulateとして、コリンズは以下のものをあげ る。  

 約定1各個人は自分の主観的実在を構成する
 約定2個人の認知は社会的コミュニケーションから構成される
 約定4各個人は、自分や周囲の人間の資源が許す範囲で自分の主観的地位を最 大化するよう努力する
 約定5各個人は自分がもっとも得意なものにもっとも価値をおき、可能な限り それを実行し、またそれについて伝達しようとする
 約定7個人間で資源が異なる場合、社会的接触においては主観的実在を定義す る力に不平等が存在する

これら(および類似の他の仮定)を用いて、コリンズはたとえば「ある人が命令 を発することが多ければ多いほどそのひとは自尊心がたかく、自身を持つように なる」などの中間的でテスト可能な命題を導出し、不平等な人間関係がいかにし て(資源を多く持つものに有利な形で)形成されていくか、そして(とくに上の 方の人間において)階層意識がなぜ発達するかなどを説明する。

 コリンズは、上のような約定の背後にさらに生物学的背景を想定する。たとえ ば、周囲の個体のジェスチャーに対応する感情を喚起されるという反応は人間以 外の動物のコミュニケーションにも見られる生得的なものだと考えられる。宗教 的儀式はそうした感情と直結するジェスチャーで満ちており、約定2でいう社会 的コミュニケーションはそうした儀式的ジェスチャーを介して行われる(「お辞 儀」はそうしたジェスチャーの典型例)。コリンズ自身はあまり生物学に詳しく なかったらしく、この問題をこれ以上生物学的に追求することはせずデュルケー ムの原初宗教の分析の検討でお茶を濁している。しかし、もしコリンズの基本的 な考えが正しければ、われわれは階層がどのように作られるかについて、生物学 的な基礎をもつメカニズムを手に入れたことになる。実際、上にのべたウィルソ ンの考察などが正しければ、階層秩序の生成・維持にかかわる感情喚起システム が進化することは十分ありうるといえるだろう。

 さて、このようなメカニズムについての考察、研究は、葛藤理論の基本的な関 心とどう関わるだろうか?まず、もちろん階層構造の変化がどのように起こるか を理解する上で、メカニズムを知ることは重要である。また、Ellisの理論と違 い、ジェスチャーと感情喚起の対応関係は普遍的なものと考えられるので、とり あえず特定の階層構造の正当化にこの理論が利用(誤用)できる可能性は少な い。さらにいえば、こうした生物学的観点からのアプローチは、われわれの社会 を改革するという政治的モチベーションにとっても重要である。もし階層構造を 産む傾向がわれわれの心理の深いところに刻み込まれているならば、マルクス主 義が理想とする無階級社会はわれわれの人間本性にとって一種の不可能事である 可能性は十分考慮されねばならない。この意味で、階層構造発生のメカニズムの 進化的理論は、もし十分に裏打ちされたなら、可能な社会構造の範囲を指定す る、一種の境界条件としてはたらくことができる。しかし、現行の階層社会より もより問題の少ない階層社会への移行の可能性はけっして除外されてはいないだ ろう。そうした改革を行う上で何に気をつけるべきかということを考えるうえで も、階層発生のメカニズムを正確に理解することは重要であろう。以上のような 点で、進化的視点は、葛藤理論の基本的な関心・視点を否定することなく、むし ろ生物学的な裏付けを与えることで葛藤理論を強化・拡充することができるので ある。

 ここで葛藤理論を例にとって行ったような分析は、おそらく他の多くの社会学 理論に対しても可能であろう。同様の拡充を他の社会学理論についても行ってい けるならば、進化論生物学は、多様な社会学理論の間のひとつの共有部分とな り、お互いの立場を相互に翻訳する上での一種の共通言語として機能できるよう になるだろう。もちろん、そうした共通言語として、社会学の内部に候補を求め ることもできないわけではないだろうが、現在の理論的対立状況ではそれはあま り望めない。それに引き替え、さきに引いたように、社会生物学そのものの妥当 性は多くの社会学理論家も受け入れているわけで、もしbiophobiaさえうまく克 服できるなら、むしろ社会学内部の理論よりもよりよい候補となるだろう。進化 論生物学ここでも、私のイメージは生物学への還元主義ではなく、共通の境界条 件を持つことによる緩い連帯である。もしもそうした共通言語が成立したなら、 異なる理論間の対話も(お互いの関心の差はそのままに)容易になるであろう。  

 

5進化心理学的分析の問題点

 ただ、現時点であまり楽観的な展望ばかりを語るのも問題であろう。進化心理 学的アプローチで普遍的人間本性を明らかにしようというプログラムは、実際に 検証していく上でいろいろ問題が生じる。ある特徴(文化、行動など)が広く人 間社会全般にみられるとして、その特徴が遺伝的な基礎を持つのか、それともも たないのか、持つとしてどの程度遺伝的な要因で決まるのか、といったことを調 べるにはどうしたらよいのだろう?いくつか具体的な手続きは考えられるが、ど れも問題がないわけではない。

 まず、その行動とかかわる遺伝子を特定するというのは、今のところ見込みが ない。第二に、 双生児研究などを通して、遺伝的近縁度と行動の類似性の相関 を調べるという手法もあるが、これはその行動に関して一定の個人差がみられる ことを前提にしており、普遍的な人間本性を調べるというICMのプログラムと矛 盾する。第三に、他の社会性動物(とくに大型類人猿)の行動と比較するという 方法(本発表でもこの方法をとったわけだが)があるが、大型類人猿の行動と類 似性が見られたとしても、偶然である可能性もあれば、双方において遺伝的基礎 をもたない可能性もある。人間以外の動物においてもある行動が直接の遺伝的基 礎を持たなくても伝播しうるというのは、サルの芋洗い行動の伝播などを見れば 明らかであろう。

 もうすこし哲学的な立論としては、進化的視点からこれまで予測されていな かった規則性を予言し、検証するというプロセスによって仮説の信憑性が増す、 という考え方もある。しかし「新奇な予言(novel prediction)」が科学理論の 正当化においてはたす(はたすべき)役割については科学哲学者の間でも諸説あ り、かならずしも新奇な予言をしたからといってそれがその仮説にとって有利だ ということにはならない(Iseda 1999に簡単なレビューあり)。あるいは、進 化的モデルは「最良の説明 best explanation」をあたえるという点で優劣を判 断するという考え方もあろう。しかし「最良の説明」であることがどの程度その 仮説にとって有利かということについても哲学的に論争があるところである(た とえばvan Fraasen 1980やHacking 1983など)。さらに、なぜある文化・行 動が存在するかの説明は遺伝的なものとは限らない。ドーキンスの「ミーム」 や、ボイドとリチャーソンの文化的選択プロセスもきちんと細部を煮詰めていけ ば説明的理論となりうる。

 こうした状況から考えると、今のところは、進化心理学上の主張について、社 会学者(とくにbiophobiaの社会学者)を「動かぬデータ」にもとづいて説得す るというわけにはいかないだろう。ましてや、トゥービーとコスミデスのように 「社会科学者も生物学的モデルを受け入れなくてはならない」と居丈高に迫るの は、単に無理解と反発をまねくだけである。この点からも、「生物学的要因(の 可能性)を考慮に入れた方が、社会学者たち自身の研究関心からしても社会学が 科学として今後発展していく上でも有利ですよ」と持ちかけるのが結局最良の策 ということになろう。社会学に進化的視点を導入するにあたっても、こうした問 題に十分留意しながら進まないと、かつての社会生物学への拒否反応の繰り返し に終わってしまいかねない。

文献