伊勢田哲治(名古屋大学)
本発表の目的は、科学者の共同体における多様性、とりわけ同じ主題に対して多様 なアプローチをとることの認識論的な意味について考えたいと思う。しかしながら 、この領域の現状は、どのようにしてこの領域の研究をするかという方法論的なレ ヴェルでの考察がまだまだ必要な段階であるのでその点もあわせて検討する。具体 的には科学の多様性の問題について比較的まとまった論考をおこなっているキッチ ャー (Philip Kitcher) とハル (David Hull) の議論を検討する。
1-1 なぜ多様性か
科学のある領域で多様なアプローチが共存する状態が存在することは(例えばプト
レマイオス天文学とコペルニクス天文学の共存など)科学哲学でも長らく認められ
てきた。しかし、そうした多様性が科学哲学で問題となる場合、多様なアプローチ
間の相違がいかにして生じ、また解消されるか、といったメカニズムの分析や、ど
のような形で多様性を解消する(合意に達する)のが望ましいか、という合意形成
方法の望ましさの分析が主であった。しかし、近年の社会認識論においては多様性
そのものの望ましさを分析する流れが出てきている。
フィリップ・キッチャー の問題設定(Kitcher 1990)
もしすべての科学者が知識を共有し、同じ合理性の基準でもっとも正しいと思われ
る理論を選んで追求するならば、多様性は生じないであろう。
他方
科学者共同体における労力を適切に分配するという観点からは、あまり見込みがな
さそうな理論でもまったく無視するよりはだれかが追求しているほうが望ましいこ
とが考えうる。
ではいかなる場合にそうした望ましい状態が達成されるだろうか?
本発表でもキッチャーの問題意識をある程度共有して議論をすすめる。もちろん「 望ましい」と言ってもいろいろな種類の望ましさが考えられるが、ここでは(キッ チャーとともに)「認識論的な望ましさ」を問題にする。もう少し限定するならば 、「科学的な知識を生み出すという観点から見た望ましさ」を扱う。 註1
1-2 なぜ社会認識論か
個人を単位とした認識論でも多様性の問題はあつかえなくはない(method of mul
tiple hypothesis の分析など)。しかし、問題は個々人が多様な仮説を追求する
のと集団として多様性を保証するのはどちらがよいか、といった対比は個々人を単
位としている限り見えてこないということである。
さらに、上のキッチャーのような問題設定をうけいれるならば、個人のレベルでは
ある意味で不合理な理論選択をしていても、共同体全体では合理的に運営されてい
るとみなしうる、という合理性判断の二層構造が生じる。個人を単位とした認識論
ではこの問題はうまく扱えないのではないだろうか。
社会認識論を扱う哲学者の多くはなんらかの形で自然化された認識論の系譜に属す るが、彼等の間でも研究方法の差は大きい。
上からの(top-down)アプローチ・・・現実の科学の営みとはある程度独立になん らかの認識論的望ましさの基準を提示し、それに基づいて現実の科学の望ましさを 分析
下からの(bottom-up)アプローチ・・・現実の科学の営みからの一般化としてなん らかの規則性を見い出し、それと整合するような認識論的望ましさの基準を考える
もちろん実際にはたいていの場合両者の要素が混在するわけだが、以下に見るキッ チャーとハルの対照的なアプローチは、どちらに強調点を置くかで研究のすすめか たが大きくかわるよい例であるといってよいだろう。
3-1 全体的なアプローチ
科学の合理性に関する三つのモデル(Kitcher 1993, 196-201)註2
合理モデル---個々の科学者は認識的な目標のみで行動し、共同体の合意形成もも
っぱら対立する理論の認識論的メリットに基づいて行われるので、最終的な決定も
合理的
不合理モデル---個々の科学者は非認識的な動機ももって行動し、共同体の合意形
成も力関係など非認識的な要素に基づいて行われるので、最終的な決定も非合理的<
br>
妥協モデル---個々の科学者は非認識的な動機で行動し、共同体の合意形成も力関
係など非認識的な要素に基づいて行われるが(あるいは場合によってはそのために
)最終的な決定は合理的
キッチャーの目的は不合理モデルを支持する科学社会学者に対抗して、妥協モデル
が成立可能であることをしめすこと。
→かれの決定理論的な分析は、科学者を理想的に合理的な決定者であるとみなすな
ど、非常に多くの理想化に基づいてすすめられるが、そうした理想化の導入はこの
目的にてらして正当化される。
3-2 多様性の生まれるメカニズム---認知的分業(division of cognitive labor)
キッチャーがどのような議論を行っているか感じをつかむためには、やはりある程
度彼の決定理論的議論の詳細に触れる必要がある。
ある問題を解決するための方法の多様性
ここでキッチャーが念頭に置くのは、DNAの構造を解明するための競争などである
。DNAの場合にはロザリンド・フランクリンらのチームはX線解析を積み重ねるこ
とで構造を解明しようとし、ワトソンとクリックのチームは、X線解析の結果も参照
しながら、もっぱら模型を様々に操作して構造の解明を目指した。註
3
この例において顕著なように、科学者達は、しばしば、単に真理を発見するだけで なく、第一の発見者となってプライオリティを確立することに関心がある。 ここでは議論のために、二種類の理想化された行為者、すなわち「認識論的に純粋 な行為者(epistemically pure agent)」と「下心のある行為者(sullied agent)」 を区別する。前者は問題を(自分で)解決することにのみ関心があり、後者はプラ イオリティを認められることにも関心がある。
また、キッチャーは、問題解決方法の種類によっては、投入する人的資源の量と問 題が解決できる確率の関係(キッチャーはこれをreturn functionと呼ぶ)が違う であろうという想定をたてる。方法の種類によっては少人数でやっても大人数でや ってもあまり問題解決の確率がかわらないであろうし、方法によってはまとまった 人的資源の投入が臨界量として不可欠であるかもしれない。また、仮にすべての方 法に十分な人的資源を投入したとしても、最終的な問題解決確率の高い方法もあれ ば低い方法もあるだろう。
以上のような想定に計算を簡略化するための仮定(return functionの形について の完全な知識など)を加え、キッチャーはいくつかの状況に関して計算を行う。 それらの状況においては、共同体が全体として問題を解決する確率は、通常は一極 集中ではなく多様なアプローチの共存する状態で最大化する。そして、キッチャー が分析した範囲内では、純粋な科学者の集団よりも下心のある科学者の集団の方が 最適な分布に近い分布におちつく。註4
一つ大きな例外は、解決に辿り着くためにある程度の数の研究者の集中が臨界量が 必要であるような方法論の場合、自分一人だけそれをやっても解決に辿り着く見込 みがないため、それが解決にいたる正しい方法であるにも関わらず結果としてだれ もやらないという事態が起こりうることである。これは純粋な科学者でも下心のあ る科学者でも同じ。この問題は、多くの大学院生を強制労働させることのできる教 授がいればとりあえず解決する。
キッチャーは同様の分析を対立する理論間の選択に対しても行う。分析の手法は基 本的には同じであるが、いくつか新しいパラメーターが加わる。たとえば過った理 論が完全に反駁される以前でも、正しい理論を信じることはそれ自体で認識論的に 価値があるとされる。また、最終的に勝ち残る理論を早い時期から支持していた場 合、さかのぼってクレジットが与えられる。このような場合でも、共同体の観点か らすれば見込みの無さそうな理論にもある程度の支持者がいることが望ましいが、 キッチャーは以上の条件下では下心のある科学者でも一極集中型の分布になりがち であると論じる。註5
3-3 望ましさの判断の基準
しかし、合意形成の方法が合理的であるかどうかの基準、またどういう場合に問題
が解決されたと言ってよいか(解決されたと思い込まれたのではなく)の基準はキ
ッチャーの場合どうなるのだろうか。
キッチャーは「外的基準(external standard)」と称する合理性基準をたてる(189 )。
ES ある個別の実践から別の実践への移行が合理的なのは次の場合でありその場合
に限る:
その移行がなされたプロセスが、(過去、現在、未来において)人間によって使わ
れたいかなるほかのプロセスとも、少なくとも同じくらい高い成功率を持つ。この
成功率は、(人間にとって)可能なすべての初期実践と(今あるような世界と人間
知覚者の性格を仮定した場合の)すべての可能な刺激の、すべての可能な組み合わ
せを含む認知的文脈の集合に対して判断される。
ここで言う成功率の「成功」はキッチャーの場合さまざまな種類の進歩によっては かられるが、その中でもっとも重要なのが概念と説明図式の進歩とされる(95)。詳 細には立ち入らないが、いずれにせよ、正しく問題を立てることで、重要な問題に 対する正しい答え(キッチャーはこれをsignificant truthと呼ぶ)を出せるようにな ることが進歩である(104-120)。
このESを多様なアプローチの問題に適用するならば、科学者の配分のある特定の比 率が他の比率よりも問題解決にいたる(=significant truthにたどりつく)確率 が高いならばその分配は合理的であるということになるであろう。
これは認識論的外在主義の一種であるし、また、ある種の真理にたどりつく確率で プロセスが評価されるという意味で、これは信頼性主義(reliabilism)の一変種で あると言ってもよかろう。いずれにせよ、ESが(「すべての可能な組み合わせ」な どへの言及を見るまでもなく)哲学的な考察に基づいて天下り的に提案されている のは確かであろう。
3-4 問題点
1 妥協モデルの社会構成主義への回答としての有効性
キッチャーが「不合理モデル」と称するモデルが、科学社会学のなかでどれだけ支
持されているかは疑問である。非常に相対主義的な主張をしているようにみえる科
学社会学者でも、真意を質されると「科学が合理的な営みであることは否定しない
」と答えることがしばしばである (Iseda forthcoming)。また、実際に科学の非合
理性を主張する者たちにとってはキッチャーが考える程度の非認識的要素は十分に
外在的とはいえないと言われるだろう。
2 現実の科学との関連性
はたしてキッチャーが計算上利用した理想化が近似的にでも現実の科学にあてはま
るものであるかどうかは疑問。たとえば、return functionのパターンを科学者達
自身が考慮に入れて研究方針を決めるというのがキッチャーの計算の大前提になっ
ているが、この前提は近似的にですら成り立つかどうか疑わしい。
4-1 全体的なアプローチ
デヴィッド・ハルは科学がおおむね科学的知識と呼んでよいものを生み出すことに
成功しているという前提から議論を出発させる
→その意味での根源的な懐疑主義ははじめから相手にしない
ハルの分析の最終的な目標がどこにあるかは、ハル自身一定しない。ここでの主な 分析の対象である『過程としての科学』(1988)では科学的知識が如何にして生み出 されるかを記述的に分析するのが目的であるとする。しかしその後の論文(1990)で は、そうした分析の結果には科学研究はどうすすめるべきかについての規範的な含 意もあるとする。
具体的な事例に即した分析---ハルの使う事例研究は生物学における分類を巡る学 派上の対立、とりわけいわゆるnumerical pheneticistsとcladistsの対立。Syst ematic Zoologyという雑誌の運営を巡る対立など。ハル自身Systematic Zoolog yの編集にかかわったこともあり、これは彼の参与観察に基づく研究だといってよい 。
4-2 多様性の生じるメカニズム
4-2-1 科学のデーム的構造(demic structure of science)
科学者は個人を単位としてではなく、研究グループを単位として研究をする。ただ
し、同じような研究関心やアイデアを持つ研究者があつまってグループを作ると言
うよりは、グループの中で緊密に意見を交換しあうことで同じような関心やアイデ
アを持つようになる。
ハルはこれを生物学で言うところのデームになぞらえ、「科学のデーム的構造」と 呼ぶ(Hull 1988, 366;註6 デームとは、地域的に限定され、 構成員どうしの交配が全体で比較的均等に行われる同種の個体の集団のこと)。生 物の場合には、デーム内では遺伝子が均等にプールされるが、それと類比的に、研 究グループ内ではアイデアが均等にプールされる。
このようなグループの存在はすでにinvisible collegeとしてかなり前から知られ ているが、ハルの分析はそういう構造の生成を「概念的包括適応度」の概念を用い て説明したところが新しい。
4-2-2 概念的包括適応度(conceptual inclusive fitness)
概念的包括適応度は自分の考えの引用の数や次の世代で自分の研究を引き継ぐ研究
者の数で決まり、自分と同じアイデアを持つ他の研究者の論文の引用やそうした研
究者の弟子でもかまわないという意味で「包括的」(283, 310)。研究グループを形
成することは、そうした直接・間接の引用者、継承者を確保するという意味がある
。
科学者が概念的包括適応度をたかめるように行動する、というのは、ハルによれば
「仲間に認められたい」という人間の原初的欲求のあらわれではないか、というこ
とである。もしそうならこれはある程度意識的な過程であり、まったく意識の介在
を必要としない生物学における包括適応度とはあくまでアナロジーの関係にあるこ
とは確認しておいたほうがよい。
また、ハルは進化論生物学で行われるような包括適応度の定量的な分析は行わない
。これは概念的包括適応度があくまでアナロジカルな概念であることを考えれば不
思議はない。この点でも、大胆な理想化を重ねてとりあえず計算結果を出すことに
重きを置くキッチャーとは方向性がかなり違う。
科学における多様性は競合する研究グループがある分野内で共存することによって
生じる。
理論や世界観ではほとんど同じでも(したがってクーンやラカトシュの基準では同
一のパラダイムないしプログラムと判断されるべきものが)系統が違うために別の
リサーチグループとして競合し対立することも十分あり得る。
4-3 多様性の果たす役割
1競合する研究グループの間の感情的な対立が研究に必要なエネルギーの供給源と
なる(160)。
2競合するグループはお互いの研究結果を反駁しようとする→反証主義のもとめる 「あたえられた理論を反証しようと試みる」プロセスの社会的な基盤となる(343- 348)。ただし、ポッパーの反証主義と違い、これは「科学はこうすすめられるべき だ」という規範的な主張ではなく、「科学は現にこうすすめられており、その結果 成功している」という、第一義的には事実的な主張であることに注意。また、ポッ パーのように反証を特別視しているわけではなく、レトリカルな攻撃などと並び、 他グループを攻撃するための手段のひとつとして考えられていることにも注意。
3進化論生物学からのアナロジーを多用するところからも予想できるように、ハル は科学を自然選択に類した一種の選択のプロセスだと考える(432-476)。科学者同 士の相互の働きかけによって、次の世代にどのアイデアがどういう比率で生き延び るかが決まる。多様なアイデアが競合することは、そうした選択の基礎を与えるこ とになる。
4もし誤った結果を発表すれば、それを利用することによって迷わされ打撃を被る のはもっぱら同じグループ内の他のメンバー(320-321)→間違った結果の公表がグ ループの競争力の低下につながり、同時に本人の概念的包括適応度の低下となる。 (ハルはこのアイデアをきちんと展開しないが、もしこれが経験的な裏付けを得れ ば、クオリティコントロールの甘い研究グループは早晩競争力を失うという、研究 グループ単位での選択が働く根拠となり、なぜ科学の方法論がだんだん洗練されて いくかを説明するために使えるであろう。)
5ただし、ある研究グループ内での多様性はむしろグループの生き残りにとって不 利になることがある。例えば、ハルのcladistsとneumerical pheneticistsの対 立の例では、結果としてcladistsの方が優勢となるが、その理由としてハルは、nu merical pheneticismの手法は生物の分類以外にもさまざまな分野に応用がきく ため運動が拡散してしまったことを挙げる(519)。この場合は、あるグループの中 の多様性の拡大がそのグループの競争力を弱める結果になったといえる。通常、適 用範囲がひろいことは認識論的にはプラスの属性だと考えられるため、この分析は 興味深い。
4-4 望ましさの基準?
上記の全体的なアプローチから予想できるように、ハルはキッチャーのような明確
な合理性の基準を打ち出さない。
しかし他方で、ハルはキッチャーと同様、科学がglobally progressiveであること を認める。さらに、生物の進化との違いとして、科学の(少なくとも一部の)対象 として不変の規則性が存在することをあげる。そうした不変性は選択の行われる環 境を一定に保ち、その結果蓄積的な選択が可能となる(467)。
4-5 問題点
進化論生物学とのアナロジーをあまり真剣に受け取り過ぎるのは危険。最大の問題
は、遺伝子-生物個体の関係と科学的アイデア-科学者の関係が根本的に違うという
こと。遺伝子は生物個体の形質や行動に決定的な影響をおよぼすが、科学的アイデ
アはふつう科学者の行動に対してそのような影響力をもたない。たとえばある科学
者が研究グループを組織するのが上手かどうかは、その科学者の概念的包括適応度
の大小にとって重要なファクターではあるが、どういうアイデアをもっているかに
よってこの上手下手が左右されるわけではない。
天下り的な規範的基準を明示しないことによって、かえって、どういう場合に科学 がうまくいっていると言えるかについての暗黙の判断基準にたよっている部分があ るのではないか。たとえば、生物分類学が科学としてうまくいっているという暗黙 の判断がなければ、分類学をつかって科学の仕組みを分析するという企てそのもの が成立しないのではないか。
キッチャーとハルのアプローチは相互補完的であるといってよいかもしれない。
キッチャーはあまりに理想化された状況から思考を出発させるため、ハルが見い出
したような、多様性を実現するための様々なメカニズムを見のがす結果となってい
る。また、キッチャーの妥協モデルのようなモデルが可能かどうか、という非常に
弱い問題設定はあまり魅力的とはいえない。結局、現実の科学のプロセスがどれだ
け合理的な結果をうんでいるか、またそれはどうやってか、を個々の事例に即して
考えていかざるをえないだろう。
他方、ハルのアプローチは、例えば生物分類学にみられるような多様なアプローチ の存在が、はたして本当に分類学にとってよいことなのかどうか、と問うための概 念装置を欠いている。(もちろんハルは科学が全般として科学知識を生み出すこと に成功しているということを受け入れるところからはじめるわけであるが、この一 般的な判断と、分類学という特定の分野が科学的な知識を生むことに失敗している という判断は矛盾しない。)キッチャーの外的基準は、そのままではあまりに理念 的すぎて使い物にならないにせよ、このような問題について考える上での指針とし て、ある程度の役には立つだろう。また、キッチャーの決定理論的議論におけるモ デルのようなものを念頭に置くことは、参与観察をする上で、何を観察すべきかを 考える上で一つの目安となるだろう。
註1これについて、フラー(Fuller 1988, 1992, 1994)ならば、
認識論的な考慮を他の考慮から切り離すことはできないと批判するであろう。確か
に科学政策を考える上では認識論的な考慮のみから政策決定はできない。しかし、
そうした場面でも、決定にいたる一つのファクターとして、科学のある分野が知識
と呼ぶに値するものを生み出しているかどうかを考えることは十分に可能であるし
、意味があると思われる。フラーはそのレベルでの認識論的判断すら不可能である
と考えている節があるが、これについての説得力のある議論をまだ見たことがない
。 註2 以下、本節でのキッチャーからの引用はすべてKitcher 1
993より。 註3 ただし、この件に関するワトソン自身の回顧である『二重
らせん』(Watson 1968)は事実の記述としてはあまり信用がおけないことが判明し
ている。Olby 1974参照。 註4 なぜそうなるかの直観的な説明を一応しておこう。すでに
多くの人が行ってる研究方法に新たに参入しても第一発見者になる見込みは低いの
で、下心のある研究者にとってはあまり魅力的ではない。むしろ、あまりうまくい
きそうになくて誰も手をつけていない研究方法を選択した方が第一発見者となる見
込みが高くなる場合があり、その場合は下心のある研究者はそちらを選択するので
ある。
文献
Fuller, S. (1988) Social Epistemology. Bloomington: Indiana University Press.
--. (1992) "Epistemology radically naturalized: recovering the experimental, the normative, and the social", in R. Giere (ed.) Cognitive Models of
Science, Minnesota Studies in the Philosophy of Science, vol 15. Minneapolis: University of Minnesota Press.
--. (1994) "The sphere of critical thinking in a post-epistemic world", in
Informal Logic 16, 39-53.
Hull, D. L. (1988) Science as a process: an evolutionary account of the social
and conceptual development of science. Chicago: University of Chicago Press.
--. (1990) "Conceptual selection" in Philosophical Studies 60, 77-87.
Iseda. T (forthcoming) "Scientific Rationality and the 'Even Stronger Program'" in AI and Society 14 no. 3&4.
Kitcher, P. (1989) "Explanatory unification and the causal structure of the world"
in P. Kitcher and W. Salmon (eds.) Scientific Explanation. Minnesota Studies in the Philosophy of Science v. 13. Minneapolis: University
of Minnesota Press, 410-505.
--. (1990) "The division of cognitive labor" in Journal of Philosophy 87,
5-22.
--. (1993) The Advancement of Science: science without legend, objectivity without illusions.
New York: Oxford University Press.
Olby, R.C. (1974) The Path to the Double Helix. London : Macmillan.
Watson, J.D.(1968) The Double Helix; A Personal Account of the Discovery
of the Structure of DNA. New York, Atheneum.