伊勢田哲治(名古屋大学情報文化学部)
いわゆる線引き問題(the demarcation problem)、すなわち科学と非科学・疑似 科学の間の線をどこに引くかという問題は科学哲学の中心的な関心の一つとなり続 けてきた。本発表では、この線引き問題を現代の文脈でどのように再定式化すべき かという問題を論じる。
「線引き問題」を科学哲学の中心問題として位置づけた代表的哲学者はポパーであ る。よく知られているように、ポパーはある理論が科学的かどうかはその理論が反 証可能かどうかで決まると考え、この観点から、フロイト流精神分析やマルクス主 義は科学的でないと主張した。この反証可能性の考え方にはいくつか問題が指摘さ れている。まず、ポパー自身気づいていた通り、反証と見える事例があっても、そ れを補助仮説を補ったり実験手続きの不備などを仮定することでうまくごまかすこ とは可能である。これはいわゆるデュエムのテーゼと言われる問題である。これに 対しては、ポパーは、まさにそうした抜け道を利用しない、ということが科学的方 法にとって重要なのだ、と主張するが、そうすると、成功しているように見える科 学分野においてもこうした抜け道がよく利用されている事実に直面したときに困っ たことになる。このほかの問題もあり、60年代から70年代にかけてポパーの反 証主義は批判の嵐にさらされた。ポパー以外の哲学者が提案した線引きの基準も軒 並み批判され、それと同時に線引き問題という問題設定そのものが時代遅れなもの とみなされるようになっていった。
このように、科学哲学の内部で線引き問題があまり論じられなくなる一方で、線引 き問題の重要性が再確認される出来事がアメリカで起きた。これが創造科学裁判で ある。 創造科学(creation science)とは、進化論を否定して、生物種は完成された形で突 然に創造されたと主張するなど、聖書の記述を文字通りにうけとる立場である。た だし、創造科学は、その名が示すとおり、このような主張を宗教的信念としてでは なく、科学の装いのもとに提示している。創造科学はアメリカ南部の原理主義者を 中心に支持を受け、1981年には、アーカンソー州でいわゆる「創造科学と進化 科学のバランスのとれた取り扱いについての法令」が成立した。これは公立学校で は創造科学と進化科学を(授業時間や教材等の点で)同程度に教えなくてはならな いという主旨の法律であった。
この法令の成立後すぐ、法令の合憲性を争う裁判が提訴されたが、興味深いことに この裁判においてはカナダの科学哲学者マイケル・ルースが証言台にたち、創造科 学は近代科学の条件を満たしていないと証言した。最終的な判決に付せられた意見 においてもルースの証言が引用され、創造科学は宗教であるとする結論を支持する ために使われた。これは、線引き問題をめぐる哲学上の議論が実社会で影響をもっ た珍しい例だといえる。
ルースのあげる科学の特徴は5項目にまとめられる。(a)自然法則の探求、(b)自然 法則による経験的な世界の説明、(c)経験的な証拠と比較されテストされること、 (d)反証不能ではない、そして(e)理論は一時的なものであり、理論に反する証拠が あがってきた場合には、理論をかえる余地があること。超自然的な「無からの創 造」を理論の中心に据え変更不能と考える創造科学はこのすべてに反している、と ルースは論じる。
こうしたルースの陳述に対して、裁判後強い批判を展開したのがラリー・ラウダン である。彼によればこれらの項目は科学であるための必要条件でもなければ十分条 件でもない。ルースの挙げた一つ一つの項目について、科学史のなかからいくらで も反対の事例を探してくることができる。ラウダンは、個々の理論や信念が信頼が 置けるかどうかが問題であって、これは個別に証拠と照らし合わせて考えていけば よいことであり、その理論・信念が科学的かどうかなどはつまらない問題だと結論 づける。
私は従来の線引き問題が問題の設定を誤っているという点ではラウダンに同意する が、線引き問題がつまらない問題であるとするラウダンの立場には組みしない。わ れわれはいかにして、どの程度世界について知ることができるか、ということを考 える上で、科学はどのように進められているかをみるのは重要であり、ラウダンも これを否定はすまいが、彼は個々の理論の信頼性を確かめていけばそれでよいと考 えているようである。しかし、どのようにして信頼性を確かめるのがよいか考える には、科学的手法とは何か、という問いをさけることはできない。
しかし同時に、ポパー流の線引き問題の設定は、いくつかの点で問題がある。ま ず、「線引き(demarcation)」という言葉が示すように、線引き問題は科学と非科 学ないし疑似科学との間の明確な境界を設定することを目的としてきた。これはと りもなおさず科学であることの明確な必要十分条件を与えるということであろう。 しかしながら、ラウダンも言うとおり、そうした方向で線引き問題が解決できる見 込みは絶望的である。むしろ、科学と非科学の間に大きなグレイゾーンを残しつ つ、明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性を探る、つま り、線を引かずに線引き問題に対する解答をあたえる方向で考えるべきではない か。
ポパー流の問題設定のもう一つの問題点は、判定の対象がもっぱらある理論の構造 であって、科学者や科学者共同体ではないという点である。反証主義やそのほかの 線引きの基準がかかえてきた問題の多くは、理論そのものをみるだけで科学かそう でないか判定しようとする態度から生じてきたように思われる。創造科学の歴史は これに関してもよい事例となる。現在の創造科学とほぼ同じ内容の立場は、19世 紀初頭には定説として科学者共同体の中で受け入れられており、それには十分な理 由があった。この差を説明するには、理論の内容や論理構造だけではなく、その理 論の支持者の態度や彼らの構成する共同体の意志決定の仕組みなどを考慮に入れる 必要がある。このように科学理論の認識論的ステータスを科学者共同体の機構のレ ベルで分析する領域を社会認識論というが、線引き問題を有意義な問題として追求 するには、社会認識論的な視点が欠かせないのではないだろうか。ポパーがデュエ ムのテーゼに対して用意した回答はこの方向を予見するものであるといえるが、彼 にせよルースにせよ、まだ反証可能性という科学理論の論理的性質にこだわってい る面がある。
以上をまとめるならば、線引き問題はたしかに重要でおもしろい問題ではあるけれ ども、旧来の問いの設定にはさまざまな難点がある。線引き問題は、より科学的な 分野とより非科学的・疑似科学的な分野の間の差を示す指標を、理論そのものより もその分野の研究者の態度や機構にもとめるような形で再定式化される必要がある のではないか、というのが私の提案である。