Virtual Reality(以下VRと略)技術の近年の進歩は哲学者の関心を引きつけ、その結果VRをあ つかった哲学的論考もいくつかすでにあらわれている(ハイム1995, 松王2000など)。しか し、哲学におけるVR的思考実験と現実のVRの違いという点を十分に意識して書かれたものはあ まり見かけない。本稿では、特に、価値論の観点から、哲学的思考実験とVRの関わりについて 考察する。
本稿はかならずしもVR論ではなく、VRを通して哲学における思考実験について考える、という 趣旨の論文である。とはいえ、本稿の議論をきっかけにしてVRについて考察を深めることは可 能であろうし、そのあたりの読み方は読者にまかせることとする。
Virtual realityという言葉の指示対象に何を含めるか、またそれをどのようなものとしてとらえ るかについては、VRの歴史の中でも様々な立場が存在する(野村・澤田1997, 1-12)。本稿で は、東大の舘教授らの研究グループによって最近刊行された「バーチャルリアリティの基礎」と 題するシリーズ(舘2000 , 舘ほか2000)での記述を参考とし、以下、それに基づいてVRについ ての概観を行う。
VRは一般に「仮想現実」と訳されるが、舘は「人工現実感」という訳語を採用する。というの も、舘も指摘するように、virtualという語は必ずしも「仮想」という意味ではなく、むしろ「効 果としては現実」である、というニュアンスが存在するからである(舘2000, i)。また、後で見る ように、VRの最近の応用には「仮想」と呼ぶのが不適当な領域も多い。ただし、「人工現実 感」と訳してはartificial realityという言葉と区別がつかなくなるという問題点は存在する。本稿 では訳さずにVRで押し通すので、二つの訳の差にはこだわらない。
舘はVRの定義として「現前しないが現前するのと効果としては同等の表象を生じさせたり想像 表象を具現化し、行動空間を構成して、そこでの行動を可能とすること」とする(同、1)。こ こで、想像表象というのは頭の中のイメージをコンピュータの助けを借りて視覚化した表象のこ とである。
これだけではまだ分かりにくいので、上の定義でいうところの「効果」についてもう少し説明す る。舘によれば、VRで特に問題となる効果は臨場感(sensation of presence)、現実感(sense of reality)、存在感(sensation of existence)である(舘2000, ix)。ここで、臨場感とは「人間が現 前する環境以外の環境に臨んでいるように感ずること」、現実感とは「外界と自分を現実のもの であると感ずること」、存在感とは「人間や物体、あるいは環境が存在していると感ずること」 と一応定義される。もう少し具体的なレベルでは、VRの特徴としては
VRを実現する具体的な技術としては、視覚情報については頭部搭載型ディスプレイ(HMD)や 全天周スクリーン方式(CAVEなど)が存在し、触覚情報については能動型環境ディスプレイ (AED)や形状近似デバイス(SAD)などが研究されている(同、9-22)。逆に、人間の行動の データをVR空間内にインプットするためのセンサーとしてはデータグローブなどがよく知られ ている。また、VRの応用として、現実空間にコンピュータで生成されたイメージを投影して重 ねあわせるaugmented realityや、遠隔の現実空間にいるという感覚を与えるtelexistenceといっ た技術も研究されている。augmented realityの医療への応用では、患部についての情報を患者 の体の上に投影することで手術の手順を助けたりといった試みがなされており、telexistenceの 場合には遠隔操作での治療なども行われはじめている(舘、伊福部2000、16-29)。このような 技術も広い意味でのVRに含められるが、ここでvirtualを「仮想」と訳すのはミスリーディング であり、「人工現実感」と訳す理由の一つはここにある。なお、いわゆる「サイバースペー ス」、つまりインターネット上に擬似的に想定される空間は、ここでのVRの定義には含まれて いない(人によってはそこまで含めてVRという言葉を使うようであるが)。これは、(狭義 の)VRとサイバースペースの性格がかなり違うことを考えれば妥当であろう。
しかし、「現前するのと効果としては同等」という条件を安易にゆるめてしまうことには問題が ある。これは、VRの登場以前から存在する他のメディアとの区別をどう考えるか、という点に からんでくる。人工の現実感ということで言うならば、古典的には小説や絵画、近代においては テレビ、映画、CDなど、臨場感、現実感を産む道具はさまざまに存在してきた。これは、「VR 空間内での行動を可能にする」という上記の定義にははずれるわけだが、そもそも人工現実感と いう概念そのものの定義として行動可能性を含めることが妥当かどうかというのは問題になりう るだろう。たとえばジェットコースターに乗っている感覚を十分に(視覚・聴覚刺激だけでなく 空気抵抗などの触覚情報まで含めて)再現できる装置があった場合、自分の体が固定して動けな くなっていたとしても(したがって行動が可能でなくても)VR装置と呼んで差し支えないので はないだろうか。
もうすこしやっかいなのは、家庭用ゲーム機のゲームや、一頃はやったゲームブックなど、一定 の相互作用の可能なメディアとの区別をどうするか、という点であろう。初期のファミコンの RPGも熱中してプレーしている際には一種の現実感をもたらすだろうが、これをVRに含めるの は、「バーチャルリアリティ」という言葉の現実の用法からはずれすぎている。しかし他方、そ うした初期のゲームから最近のVR技術を応用したゲームへの発展は連続的であり、簡単に切っ て捨ててしまうわけにもいかないだろう。
思うに、VRの定義として適当なのは、「現前しないものが現前するかのような、ある程度以上 のレベルの現実感をあたえる」といった特徴付けであろう。舘の定義に含まれている行動可能性 や三次元の空間性等々はそこから派生する(必要条件ではないけれども特徴的な条件として与え られる)ものとして考えた方が概念的にはすっきりする。ただし、ここで現実感のレベルに関し て哲学的概念分析の海に乗り出すのはあまり実りある問題設定とは思えない。むしろ現実に何が VRと呼ばれているかということにもとづいて、プラクティカルな定義を与える方が生産的だろ う。もしかしたらそこでVRに要求される現実感のレベルについてなんらかの一般的なパターン が浮かびあがってくるかもしれないが、それは概念分析の問題というよりは心理学的な知見にも とづく線引きということになるだろう。現実感の生まれる心理学的メカニズムについては舘らの グループによってもさまざまな角度からの研究がなされている(舘2000, 第3章、第4章)。一 例を挙げると、視覚刺激と触覚刺激がずれていた場合、どの程度までずれが大きくなれば違和感 が生じるか、といった研究が(それ自体VR装置を使って)行われている。あるいは視野角と没 入感の関わりについても研究があり、自分がその世界の中にいると感じるためには80度から 100度程度の視野角が必要だとのことである(舘・伊福部2000、107) 。こうした研究から例 えば現実感のレベルに関する心理学的指標が開発されるならば、VRの心理学的定義の助けにな るであろう。
例えば、デカルトのデーモン型の問題設定を現実のVRに流用するならば、「今自分が見ている のはVRか現実かどうしたら分かるのか」という認識論的問いや「VR空間上に存在するものは本 当に存在するのか」という存在論的問いがたてられることになるだろう。だが、このような問い は現実のVRに関してはあまりおもしろい問いにはならない。デカルトのデーモン型の思考実験 は、VR空間の完全性(つまり、本当の現実空間なのか、現実に似せたVR空間なのか区別する手 だてがないこと)に依拠している。しかし現在存在するVRが、はたして本当に哲学的に深刻な レベルで現実と仮想との境目・区別を曖昧にするかといえばこれははなはだ疑問である。舘が VRの定義の中で使う「現前するのと効果としては同等」という表現の意味については上でも少 し触れたが、「目の前にあるこれは現実かVRか」という疑問が頭に浮かんだときに、どんな手 段をもってしてもその疑問が検証できないようなVRというものは今のところ考えられないし、 今のままVRが進化していったとしても当分その事情は変わらないだろう。検証の手段として は、大きく分けてVR空間に内在的な検証手段と外在的な検証手段が考えられる。内的な検証手 段とは、VR空間が現実空間と同じだけの豊かさをもたないということを利用して、現実との差 を明らかにすることである。たとえば、目の前にある壁に穴をあけてみる、など、その空間の設 計者が想定しない行動をとったとき、VR空間と現実空間の差は明白になるだろう(この点につ いては江口聡氏の教示に負う)。外的検証手段とは、VR空間を離脱することで行う検証で、た とえば頭部搭載型ディスプレイをはずせば、それまで見ていた光景がVR空間であったことは明 らかであり、逆の混同(HMDをつけたときに見える空間の方が現実空間であるといった思いこ み)は普通はありえない。以上は非常に当たり前のことではあるのだが、理想化されたVRに依 拠する哲学的議論を安易に流用するときに見逃されがちなことだと思われたのであえて展開し た。なお、これはVRに関して認識論的・存在論的問いをたてることの可能性そのものを否定す るものではもちろんない。あるいは、もう少しプラクティカルなレベルで、VRと現実の区別 や、VR空間上の存在物が現実に存在するか(現実からのインプットによって作られたものか単 なる仮構物か)について問いを考察するのは十分意味があるだろう。しかしこれはあまり哲学者 が答えるような問題ではなさそうである。
では、哲学におけるVR的思考実験はまったく現実のVRに拡張できないのだろうか?わたしはそ うも考えない。哲学においてVR的思考実験がよく用いられるもうひとつの領域は価値論の分野 であるが、こちらは実は完全性の仮定にそれほど依拠していないため現実のVRにも拡張可能な さまざまな含意をもつように思われる。もちろんすべてが拡張可能なわけではなく、仮想のVR と現実のVRとの差を十分に考慮に入れた上で、そうした議論のどこが現実のVRに拡張できてど こができないかをはっきりさせながら議論をすすめる必要はある。以下の節ではこの問題につい ての考察をすすめる。
以下の議論に進む前に、思考実験が「拡張できる」ということで何を意味しているかについて若 干説明しておこう。哲学的な思考実験の役割はいろいろあろうが、主な役割としては、極端な事 例を想定することで、通常は混同されがちな概念上の違いを明らかにしたり、通常は気づかれに くい問題の存在を明らかにしたりすることであろう。例えばデカルトのデーモン型の思考実験で は、われわれの知覚が本当に世界の存在についての信頼できる情報源であるかどうかという、通 常は見えにくい問題を明確にするためにVR的設定が導入されているわけである。では、こうし た思考実験が現実に拡張されるということは、どういうことだろうか。概念分析の場合には、思 考実験において成立した直観が、現実の事例においても成立するかどうか、という直観のテスト が行われることになるだろう。見えにくい問題の明確化の場合は、その問題が現実においても (見えにくい形で)存在しているのか、それとも思考実験の極端さゆえに成立していたにすぎな いのか、といったことが現実との比較で試されることになるだろう。以下の価値論での思考実験 の利用法は前者に近いが、ただしここで試されるのは概念についての言語的直観ではなく、価値 に関する価値論的直観ということになる。
なぜ快楽なら快楽という心的状態がそれ自体善であるといえるのだろうか?これについて古典的 功利主義者たちの行う議論は概して消去法的である。つまり、それ自体望ましいとされる他のも のをひとつひとつ検討していき、それらが実は快楽への道具としてのみ望ましいということを示 すことで消去していくのである。ここではシジウィックのバージョンを簡単に紹介する (Sidgwick 1907, 105-115および391-407。シジウィックの議論については奥野1999, 163- 184で丁寧にまとめられているので詳しくはそちらを参照)。シジウィックの議論は、究極善は 「望ましい意識desirable consciousness」であるということをわれわれの道徳的反省と直観に訴 えながら示そうというものである。彼はまず、客観的な事物が善いといわれるのは、それがなん らかの形で人間と関わる場合のみである、という観察を行う。たとえば、誰かが鑑賞する可能性 が全くないのに美を作り出そうとするのは不合理である。さらに、人間に関していっても、意識 以外のものは結局意識とかかわる限りで善いか悪いかが決まる(性格の善さ、行為の意図の善さ などは結果として引き起こされる意識の状態の望ましさで判断される)。生きていることそのも のも苦痛に満ちているならば善いとは判断されないだろう。望ましい意識の中でも、シジウィッ クは特に望ましい感情が善の究極的な源泉だと論じる。なお、シジウィックは「望ましい」とい う言葉を規範的な意味で使っているわけではなく、十分な情報と想像力が備わっていた場合に望 むであろうもの、というような記述的意味で使っている。
快楽説をはじめとする心的状態説はさまざまな方向から批判されてきた。ここでは二点とりあげ る。まず、心的状態説の一つの帰結は、二つの選択肢が内省によって知りうる違いをもたらさな いならば、両者は同等ということである(これをグリフィンは「経験要件experience requirement」と呼ぶ。Griffin 1986, 13)が、この点に対する反対論の一つとして、ノジックの 「経験機械」を使った議論がある(Nozick 1974, 42-45)。この経験機械というのは、いわば 「完全なVRマシン」で、それにつながれると、非常にリアルに望み通りの経験をすることがで きる。したがって、快苦に関して言えば、現実に暮らすよりも多くの快がみこめる。しかし、わ れわれは経験機械につながれてこれからの一生を過ごすことを望まないであろう。もう少し日常 的な問題としては、周囲の人があたかも本当の友人であるかのように振る舞う場合、本人の主観 的経験としては本当に友人がいるのと同じだが、それでいいのだろうか、というような状況も考 えられる。もう一つ問題になるのは、そもそも「快楽」と呼びうるような単一の望ましい心的状 態があるだろうか、という問題である。この問題を回避しつつ心的状態説をいじするような立場 として、パーフィットは「選好快楽説preference-hedonism」と称するバージョンを提案する (Parfit 1984, 493; ただしパーフィット自身がこれを支持するわけではない)。
心的状態説に対する選好充足説の利点はどこにあるのだろうか?まず、選好充足説は望ましい心 的状態を特定するという作業から解放されている。心的状態そのものが選好の対象であることも もちろんあるが、その心的状態が望ましいかどうかはあらかじめ決まっているわけではなく、ま さに選好されるかどうかによって決まるのである。つぎに経験機械型の問題についてだが、現に 経験機械につながれているかどうか、現に本当の友人がいるかどうか、というのは選好充足説の 観点から言えば客観的世界の側で充足されるべき条件である。したがって、経験機械につながれ て一生すごすのはいやだという選好の充足も十分道徳的配慮の対象になりうるわけである。さら に言えば、自分の死後のことについての選好を考慮に入れるのは心的状態説ではむずかしいが選 好充足説では問題はおきない。
しかし選好充足説はよい所ばかりではない。まず、本人に直接関係ないことへの選好の問題があ る。たとえばある人がまったくの通りすがりの相手と話をして、その人が成功してほしいという 強い選好を抱き、そしてそのままそのことを忘れてしまったとしよう。この選好が道徳的な考慮 に値すると考えるのは直観に反するようにみえる(Parfit 1984, 494)。この問題を回避するた め、パーフィットが成功説(success theory)と呼ぶバージョンでは、考慮されるべき選好は自分 自身の生活に関わるものだけとされる。ただし、自分にかかわるからといってそれが心的状態に 反映される必要はない、という点で成功説は心的状態説と一線を画する。というわけで、自分の まわりの人々が本当に自分の友人であることを望む選好は自分の生活に関わることだから成功説 でも考慮に入れられるが、まったくの通りすがりの人についての選好は考慮に入らなくなる。< p> さらに問題となるのは、考慮されるべき選好を現実の選好に限定するかどうかという点である。 現実の人々は、情報の不足や想像力の欠如のために、本当は自分のためにならないものを望んで いるかもしれない。さらには、手に入らないものへの選好がだんだん薄れていってしまうという 適応的選好形成(adaptive preference formation)の問題もある(Elster 1982)。その人にとって本 当に価値のあるものを知るには、現実の選好ではなく、情報不足や適応的選好形成の影響を取り 除く必要があるのではないか?そこで出てくるのが、「十分な情報にもとづく欲求」説 (informed-desire theory)である。この立場によれば、道徳的考慮の対象となるのは、現実の 欲求ではなく、その人が十分な情報と想像力を持ったときに欲求するであろうもの、ということ になる(これに「経験要件」を付け加えれば先のシジウィックの立場と基本的には同じものにな る)。
ここまでくると、その人が現に持つ欲求・選好と考慮されるべき欲求・選好とのギャップが大き くなり、そうした欲求・選好の充足にどういう価値があるのかが問題になってくる。このあたり が心的状態説の支持者から選好充足説が批判される理由の一つになっている。(Hajdin 1990; 奥 野1999, 233-252も参照)。
このような客観的リスト説への移行は、特に応用倫理学の領域で顕著であるように思われる。た とえば、医療倫理において生命の質(quality of life)を論じる文脈では、患者の何に配慮しなくて はならないかを考える上で、ある程度具体的な項目に基づく指標が求められる(Brock 1993)。 「患者が望むであろうもの」というだけでは指標づくりには役に立たない。センの「機能するこ とfunctionings」や「能力capabilities」を強調するアプローチは、客観的リスト説の代表といえ るだろう(Sen 1993など)。
環境倫理においては、「それ自体で価値を持つもの」の範囲が拡張されるべきだという主張がな される。たとえばエリオットは、「自然さ」(人工物でないこと)や「部分の多様性」などがそ れ自体で価値を持つ可能性を示唆する(Elliot 1991)。彼が使う思考実験は、例えば「自然さ」 に関しては、鉱山の採掘のために切り倒された林を(人間や他の動物が経験する範囲でもとの林 とまったく同じ機能を果たす)人工の林で置き換える、という事例である。もしここでわれわれ の直観が「道徳的に価値ある何かが失われている」と告げるならば、われわれの経験とは独立の 何かに価値があると認めることになるわけである。この議論について注意すべきなのは、これ は、実際の選好についての判断(もとの林が維持された状態をわれわれが選好するか)を求めて いるのではなく、価値そのものについての判断(われわれはそういうものを選好すべきかどう か)を求めているということである。また、エリオットは欲求充足の価値を否定するわけでもな い。ただ、欲求充足とは独立に我々が価値を見いだすものもあるだろう、と言っているのであ る。このような環境倫理の議論は、うまくいくならば客観的リスト説を支持することになるだろ う。
ここに至って、議論はまた最初にもどることになる。たとえば美が客観的に価値あるものだとし て、それをなんらかの形でわれわれが経験しないなら、そんなものの存在にどんな意味があるだ ろうか?
さて、この思考実験と現実のVRを比べることで何が得られるだろうか?まず、この思考実験の 成立に関して何が本質的で何が本質的でないかということについて、現実のVRへのわれわれの 態度を考えることから見えてくるものがあるだろう。ノジックの経験機械は、われわれの経験全 体をシミュレートすることになっているが、もちろん現実のVRにはそんなことはできない。前 にも述べたように、視覚に関してはある程度研究が進んでいるものの、触覚に関してはまだ研究 は始まったばかりであり、使用者からVR空間への入力手段も限られている。しかし、高い現実 感を伴った快い経験を産み出す装置という観点から言えば、VRを応用したゲームなどはすでに そうした要素をそなえているといえるだろう。また、デカルトのデーモン型の思考実験と違い、 仮想の体験が仮想であること自体は認識されているとする点でも、ノジックの経験機械と現実の VRは共通する。ノジックの思考実験は、一見デカルトのデーモン型思考実験と似てはいるが、 根本的に性質が違うものであることがここから分かる。
この共通点に基づいて、現実のVRへの我々の現実の反応によって、ノジックの思考実験の「追 試」を試みることもできるだろう。実は、経験機械の思考実験に関して提起されてきている疑問 の一つは、はたしてわれわれは本当に経験機械より現実の方を選好するだろうか、という点で あった。(グラバー1996第7章、第8章など。ただし、グラバーは経験機械の欠点を補うため に、経験機械よりさらに進んだ「ドリームワールド」を考察し、それへの反論の難しさを示す、 という形の議論を行う。)ノジックはずいぶん自信たっぷりだが、本当にわれわれがその選択に 直面したときにどう感じるか、彼には分かっているのだろうか?言い換えれば、ノジック(およ び彼に同意する読者)のこの件に関する選好は十分な情報と想像力に基づいてはいないのではな いか?
ノジックがこの思考実験を提案した1974年には、VRに類するものはまったく実用化に至ってい なかった。現在、だんだんと進歩していくVRによって、われわれは、経験機械がどのようなも のでありうるかについての想像力を獲得しつつある。そして、現状で、VRの進歩へのわれわれ の反応はそれほどネガティブなものではない。実際、VRの技術はアミューズメントの分野にど んどん応用を広げつつある。こうしたVRのアミューズメントへの応用の広がりは、われわれが VRを通して疑似体験で快楽を得ること自体にはそれほど抵抗を持っていないことの何よりの証 拠になるだろう。そして、この、「疑似体験で快楽を得る」という一点に関しては、VRと経験 機械は基本的に同じである。したがって、たとえわれわれが経験機械を最終的には否定するにし ても、その理由は、その経験が「本物」でないからだ、というものではなさそうだ、ということ はこうした観察から言えそうである。
もちろん、このことだけから直ちに心的状態説が有利になるということはない。どんな理由であ れ、最終的にわれわれがやはり経験機械につながれた生を価値あるものとみなさないなら、心的 状態説には何か問題があるということになろう。しかし、ここで行ったような考察は、心的状態 説のどこに問題があるのか、を分析する段階においては重要な役割をはたしうるだろう。また逆 に、このような問題を念頭においてVRと接することで、VRから得られる快楽についてわれわれ はよりよく反省することができるであろうし、そうした反省は、十分な情報と想像力にもとづく 欲求(経験要件を認めるにせよ認めないにせよ)に近づく重要な足がかりとなるであろう。
これについてはグラバーが興味深い問題提起をおこなっている(グラバー1996, 165-166)。グ ラバーはノジック流の経験機械をさらに拡張して、家族全員が経験機械内の世界に永久的に移住 できるような装置を想定し、これをドリームワールドと呼ぶ。ドリームワールドの思考実験は、 経験機械に対する典型的な反対のいくつか、特に他人との関わりを失ってしまうことに由来する 反対を封じ込める効果があり、ドリームワールドがなぜ望ましくないかを論じるにはより洗練さ れた議論が必要になってくる。それはともかく、ドリームワールド内では、実際には機械を介し てやりとりを行っているとはいえ、やりとりする相手は外の世界でやりとりしていた相手と同一 であり、当然その選好は考慮される。しかし、ここでグラバーは興味深い想定を付け加える。も し仮に、このドリームワールド内であたらしい子供ができたとしたら、その子供の選好はほかの 子供たちと同様に配慮されるべきだろうか?グラバー自身は、こうした事態に直面したときにわ れわれは困惑するであろうということだけ述べて、この点についてそれ以上考察を深めてはいな い。
もちろん、こうした問題提起に対する典型的な反論は、virtualな個体は仮想的な存在であって選 好など持ち得ない、というものであろう。しかし、それでは選好を持つと言えるための必要条件 はなんなのだろうか?ここは思考実験の話であるから、実現可能性は無視して、ドリームワール ド内で生まれた子供は現実の人間と区別の付かない反応をし(つまりチューリングテストに完全 に合格し)、しかもその子供のドリームワールド内での解剖学的特徴(脳内の構造等々)は現実 世界における人間の解剖学的特徴と正確に一致するとしよう。必要なら、さらに、その子供の反 応パターンと脳内の構造のパターンの間には適切なプログラム上の因果関係も設定されていると いう仮定を付け足してもいいだろう。心の哲学では、そうした状況でなおクオリアを持つかどう かといった論争が行われているが、ここでの関心はクオリアにはない。道徳的な価値の源泉とし ての欲求ないし選好を持つための条件として何が必要か、ということを考えるための思考実験な のである。私見を言えば、ここまで条件が整った上で、なお、ドリームワールドで生まれた子供 が選好を持たないと主張するのは非常にむずかしいのではないかと思う。選好を持つものと持た ないものの間の線引きは、VR空間の住人か現実空間の住人かという違いのみに基づいては引け ないのではないだろうか。
さて、これと並行的な問題設定が現実のVRに関して可能だろうか?現在のところ、VR空間はグ ラバーの思考実験とは比べようがないほど貧弱である。普通に考えても、VR空間内の他人が現 実の他人と同じ価値を持つわけではないということは簡単に言えそうである(さもなければVR ゲーム内で殺人を犯した者も通常の殺人者と同様に処罰されることになってしまうだろう)。し たがって、この場合は、思考実験と現実のVRの関係は、経験機械の例よりはデカルトのデーモ ンの例の方に近い。しかし、どこでその重要な差が生じるのか、という理由についてははっきり しない。われわれがVR空間内で人を殺すことにさほどの抵抗を感じないのはもしかしたらまだ VR技術が人間の存在感・現実感に関して初歩的な段階にあるからではないのかという疑問は生 じる。ある程度の対話や交流が可能になった時点でVR空間内の人間についてのわれわれの判断 が大きく変わるということは可能性としてはありうる。もしそうなっていくならば、VRと思考 実験とのギャップはそれほど大きくなかったということになるだろう。
実際には、これに類する問題は、狭い意味でのVRよりも、いわゆる「バーチャルペット」、つ まり実際のペットを模したロボットに関連して先に起き始めていると考えることもできる。はた してアイボの示す選好は考慮に入れられる価値があるだろうか?もしないとすれば、それは何故 なのか?今のところは、もちろん、現実のイヌに比べてもバーチャルペットのイヌの反応はまだ まだ単純なものであり、両者が本質的に違うということにそれほど問題は感じられない。しか し、今の延長線上でバーチャルペットがこのまま進歩していったらどうなるだろうか?どこまで いってもロボットはロボットで選好は持ち得ないのだろうか?実のところ、この問いに対する答 えはあまりはっきりしない。
問題の根は、なぜ選好なり欲求なりに価値があると考えられるのか、ということについて、われ われは自分自身の選好・欲求を大事に思う、という以上の根拠はあまり提示されていないという 点にある(Hare 1981, ch 5など参照)。選好・欲求のどういう側面がわれわれにとって大事な のか、という点にもっと踏み込んで考察をしないことには、ある対象が選好を持つとみなされる べきかどうかということについて判断は下せないだろう。こうした問題について考察を深めるた めには、VR空間内の人間の表現やバーチャルペットの今後の進歩にしたがってわれわれの反応 がどう変わっていくか(変わっていかないか)を注意深く見守る必要があるだろう。
まず、エリオットが環境倫理の文脈で行った思考実験について考えてみよう。エリオットの思考 実験は、グラバー流のドリームワールドに拡張した方が本質が明らかになるだろう。今度はド リームワールドに人間だけでなく他の有感動物(快苦・欲求などの能力をそなえた動物)もつな ぐことにしよう。仮にドリームワールド内である地域の生態系が(人間や他の有感動物の経験す る範囲内で)そっくり再現されたとしたら、それでその生態系の価値は維持されたといえるだろ うか。今は思考実験をしているのだから、「部分の複雑さ」ないし「多様性」については、ド リームワールド内でいくらでも再現可能だと仮定しよう。はたしてわれわれはそうした生態系を 現実の生態系と同じくらい価値があるものとみなすだろうか、それともまったく価値のないもの と考えるだろうか。
おそらく、生態系の固有の価値を擁護する論者は、生態系のドリームワールド内での再現という 発想を鼻で笑い、そんなものの価値を否定することであろう。しかし、もしそういう反応が返っ てくるならば、これは生態系の価値について一つの重要な洞察を与えてくれることになる。「複 雑さ」や「多様性」は、それだけ取り出しても価値を持たないのであれば、実は生態系の価値は 「人工でないこと」「自然さ」の中にあるということになりはしないだろうか?あるいは、「自 然でありかつ多様であること」のような連言の形にならないと価値の源泉とならない、というこ とも考えられる。
もちろん、現実のVRは自然の豊かな多様性を再現できるようなレベルにはまったく達していな い。しかもこれはVRが進歩すればどうにかなるという問題ではなさそうである。先にデカルト のデーモン型の思考実験のところで、VRかどうかを確かめるための内的検証法に触れたが、内 的検証が可能であるということは、とりもなおさず現実空間の豊かさ・多様性のどこかがVR空 間の中では切り捨てられているということである。これはおそらくVRという技術に内在的な (つまりこのまま進歩していっても克服不可能な)限界であろう。
以上のような考察と非常に対照的なのが、客観的価値の例としてあげられることの多い「美」と VR の関わりである。美は、もちろん芸術作品についても問題になるが、環境倫理の文脈では 「自然の美」といった形で、自然の内在的価値を主張するための一つの要素としても使われる。 さて、その「美」についてであるが、VR空間内における芸術作品については、「複雑さ」の場 合とは逆に、実際に現前するものとほぼ同等の価値をみとめてもよい場合が多いようにも思われ る。もちろん、現実空間で描かれた絵をVR空間内に取り込んだ場合、模造であるという点でも との絵よりも一段低く見られるということはあるだろうが、VR空間内のレプリカが美しくない ということにはならないだろう。さらに、模造という条件を取り除くために、「VR空間内で油 絵を描く」という作業のできるVR装置が作られたとして(これは経験機械やドリームワールド に比べればずいぶん現実的な想定である)、ある画家がVR空間内で油絵を描いたと仮定しよ う。この絵と現実空間で描いた油絵が美しさという点では遜色ないということは十分ありそうで ある。
このように考えると、客観的価値とみなされるものにもさまざまなものがあるということが見え てくる。シジウィックは人間の意識と関わらないものに価値を見いだすことがむずかしいことの 例として美の制作をあげたわけだが、こうしたふるまいの差をみてみると、その議論を客観的事 物の内在的価値一般に拡張したのは早計だったかもしれない。
本稿は、安彦一恵「「バーチャル/リアル」という問題 ─現代世界の問題として─ 」(第8回 FINE京都フォーラム、京都大学文学部にて、2000年9月16日)および戸田山和久「仮想と現実 の哲学にむけて」( 「仮想空間と現実空間の接合」シンポジウム、名古屋大学人間情報学研究科 にて、2001年3月22日)の両発表に刺激をうけて執筆された(両氏の主な論点には反対する 結論になっているかもしれないが)。両氏、および両氏の発表において活発な討論を展開された 聴衆のみなさんに謝意を表したい。