2006年11月1日から5日にかけてカナダ、ブリティッシュコロンビア州バンクーバーで科学史学会(HSS) 科学哲学会(PSA) 科学社会学会(4S)の2006年の合同年次大会(科学哲学会については隔年大会)が行われた。報告者は今回11月2日の夕方のセッションと、3日および4日のセッションに参加した。以下に報告者の参加したセッションの概要をまとめる。セッション名のあとにどの学会のセッションかを表示している。
このセッションは途中から参加し、三人の発表をきいた。Margaret Morrison (University of Toronto)は「統一と普遍的原理」というタイトルで発表した。科学の統一は科学哲学の伝統的なテーマであるが、Morrisonは統一の新しいイメージとしてモデルの同一性による統一という考え方を提案する。すでに出版された著書Unifying Scientific Theories: Physical Concepts and Mathematical Structures (2000)においてMorrisonは統計力学と量子力学の両方でrenormalization group (繰り込み群)が使われていることに着目した研究をおこなった。この両者の場合、単に同じ数学的モデルを使っているということにとどまらず、物理的なプロセスそのものが同質であり、繰り込み群の利用が理論の統一になっているとMorrisonは言う。会場からはもっと単純な数式の場合と何が違うのか、どこで線が引けるのかという質問があったが、それは今後の研究課題だという答えであった。
次にWayne C. Myrvold (University of Western Ontario)が「ベイズ主義と統一」というタイトルの発表を行った。Myrvoldのアイデアは、ベイズ的な相互情報 log (Pr(p &q) / Pr(p)Pro(q)) を使って命題群の統一度を測るというもので、相互情報量が多いほど統一度が高い。
最後にStephan Hartmann (London School of Economics)が「統一と調和」と題する発表を行った。HartmannはMyrvoldと同様に命題群の統一性を尺度化することを考え、著書Bayesian Epistemology(1994)でひとつの尺度を提案している。Hartmannは認識論における調和性の尺度が参考になると考え、Shogenjiの尺度を検討するが、論理的に同値な命題同士の統一性が低くなるなどの問題点があると指摘する。Myrvoldの相互情報もまたHartmannの批判対象となっていた。
この時間帯はカール・ミッチャム「学際的・人道主義的工学」についてのセッションに参加する予定であったが、セッションそのものがキャンセルされてしまい、こちらのセッションに参加することになった。
まず、Matthew Francisco (Rensselaer Polytechnic Institute)が「科学者のイメージを作るもの:テクノサイエンスにおける操作の潜在的レベル」と題する発表を行った。タイトル(Scientists' image maker)はベアトリス・メディシンの「インディアンのイメージを作るものとしての人類学者」からとられている。メディシンはネイティブアメリカンであると同時にネイティブアメリカンを対象とした人類学者でもあり、二つのアイデンティティの間の対立(書くべきか書かざるべきかといった問題)に意識的だった。Franciscoはコンピュータサイエンス出身のSTS研究者として、同様の二つのアイデンティティの間の対立を意識することがあり、それはコンピュータサイエンス系の研究会に参加したときに大きくなるという。Franciscoは二つのアイデンティティをどうやったら統一できるか、という方向で問題提起をしたが、会場からはむしろ別のアイデンティティとして両方を持ち続ける方がいいのではないかといった提案があった。
次にRyan Miller (Mathematica Policy Research, Inc)の「真価がためされるとき:STS介入としてのデータシステム妥当性評価」という発表があった。Mathematica Policy Researchは政府のために政策評価のためのデータをあつめる会社である。この会社は政策目標の達成度を評価するが、影響評価はしない(それは他の企業がやっている)。この評価データが間違っていたら影響が大きいので非常に強い説明責任を持つ。Millerは失業データの分析を例にとり、Mathematicaがどのようにデータシステムの妥当性評価をしているか解説した。Miller はこうした仕事にはエスノグラフィーの側面、つまり政府機関が何を目標としているのかを調べるという側面があるという。さらに、こうした仕事にはアクティビズムの側面、つまり政策的な含意を持つデータを出すという面もある。
次にTeun Zuiderent-Jerak (University Medical Center Rotterdam)が「忠実さ、裏切り、専門性の倫理」と題する発表を行った。ポイントとしては介入主義的転回(interventionist turn)がSTSにとってどのように重要かということを論じたということであるが、正直なところポイントはよくわからなかった。例として挙げられていたのは、医療機関におけるSTS研究者の立場である。たとえば自宅療養において医師の支持に患者が従うかどうかという問題において、医師の側は当然患者に従ってほしいという観点からこの問題に関心を持つが、調査を行うSTS研究者の側は患者を黙らせることについての規律の問題として捉えることになる。また、リンチの言う過剰モデル(surfeit model)、つまり社会科学的研究があふれすぎているという視点についても言及していた。専門性の倫理(ethics of specificity)とは専門分野の研究者としての倫理、特に単なる観察者の枠を超えて介入することが求められる際の倫理のようであったが、それについて何をすべきかという積極的な提案はなかった。
ミリアム・ソロモンの著書『社会経験論』の合評会に参加した。Helen Longino,(Stanford University)は「社会経験論における科学の規範と目標」と題するコメントを行った。大枠としてソロモンの問題意識に賛同するとしながらも、いくつかの点で疑念があると述べた。まず、「社会的」といいながら、共同体にとって重要であるはずの批判的な相互行為(critical interaction)についてほとんど問題にしていないように見える点に疑問がある。また、合理性の概念について曖昧である。個人が不合理であっても集団は合理性でありうるというのが社会経験論の主要な主張だが、ここで合理性という言葉が多義的に使われている可能性がある。合評会の対象になっている本ではあまり合理性という概念が重要な役割を果たしていないが、以前の論文に対してロンジーノは同様の留保をつけた評をしたことがある。ロンジーノはまた、ソロモンがある合意ないし不一致が許容可能なのは経験的な決定ベクトル(empirical decision vector)が平等に割り当てられている場合である、と論じていることについて、それでは異議をとなえることにおける非認識的決定ベクトル(non-empirical decision vectors) の役割とは何か、と問いかけた。
次にAlan Richardson (University of British Columbia)が「ソロモンの合意なき科学:理想的一致ぬきに探求は可能か」というコメントを行った。リチャードソンは合意にあたる言葉としてconscienceを使うが、ここで想定しているのはホッブズの用法である。ソロモンの立場の革命的なところは、科学の目的として合意を想定しないところだとリチャードソンは言う。究極目的として合意を持つ認識論を認識論的アリストテレス主義と呼ぶなら、そうした目的地を持たないソロモンの認識論は認識論的ニュートン主義だといえるだろう。異議を唱えることを重視するという点ではソロモンはミル、ポパー、ロンジーノと似ているが、彼らにとっては異議を唱えることはよりよい合意へのもっとも信頼できるルートだった。しかしソロモンは合意しないままでも全くかまわないではないかと言う。19世紀の社会認識論者としてのパースも信念の固定(fixation of belief )を重視したが、まさにここでソロモンと対立している。一方でたしかに、目的論的な理想を掲げることが自然主義と両立するかどうかという問題はある。しかし、合意と非合意が等価値なら経験的成功を重視する意味は一体なんなのか。よりよい合意を得るためでないのなら経験的な決定ベクトルを特権化する理由はないのではないか。
次はNaomi Oreskes (University of California at San Diego)が「神髄は(歴史的)細部に宿る:規範的に適切な合意の事例としての大陸移動」と題するコメントを行った。オレスキーズの批判は、まず、ソロモンの言う社会経験論がクーン以降の科学史家、科学社会学者がすでにやってきたことであるにもかかわらずさも新しいことのように言っている点を批判する。たとえばGreat Devonian Controversyは社会的プロセスから合理的な合意が出てきたことの分析であり、まさにソロモンと同じような分析を科学史の観点で行っていた。次にオレスキーズはソロモンが大陸移動の話をする際のソースとして使う自著The Rejection of Continental Driftの紹介のしかたがおかしいと批判する。オレスキーズの立場は認知的立場(epistemic position )は文化的・社会的要因(cultural and social factors )ぬきには理解できない、というものであり、その意味で社会的要因は「外的」ではないが、ソロモンはオレスキーズが社会的要因を外的要因だと考えているかのような紹介をしている。
また、プレートテクトニクス革命がソロモンが考えるような意味で規範的に適切な合意であったかどうかについても異論がある。プレートテクトニクスはすべての点で成功していたというソロモンの見解は間違いである。1960年代のマクドナルドの地震データの分析では、地球はやはり大陸移動には固すぎるという結論が出ていた。つまり、すべての経験的データがプレートテクトニクスを支持していたわけではない。また、ハワイはプレートテクトニクス理論にとってのアノマリであったが、モーガンのhot spot理論はアドホックな修正に過ぎなかった。オレスキーズはこのような、説明ではなく説明し去る(explain away)態度は非常によく見られることを指摘する。最後にオレスキーズは異議を唱えることの政治的側面に言及する。マイノリティの立場にも研究資金が与えられるべきだとソロモンは言うが、タバコ産業や化学産業などにおいては、商業的利益のために、単に不一致を生み出すために行われる研究もある。たとえばタバコ産業の場合はレイノルズコーポレーションが法廷で「reasonable doubt 」を生み出すためだけに研究をしていた。こうした研究を排除していく必要はあるのではないか、というのがオレスキーズの批判であった。
最後に、Sharyn Clough (Oregon State University, Corvallis)が「ソロモンの経験的/非経験的の区別と科学における価値の適切な位置」と題するコメントを行った。ソロモンによれば、非経験的決定ベクトルはすべての理論におなじように分布していなくてはいけないことになっているが、クロウはこれが本当に妥当な基準かどうかを疑問視する。非経験的決定ベクトルとは心理的ファクターや認知バイアスなどのことである。たとえば、マクリントックの例(遺伝学でセントラルドグマに反する研究が長らく正統に評価されず、それはマクリントックが女性だったことに由来するのではないかという議論がある)ではセントラルドグマに対するジェンダーバイアスが平等に分布していなかったため適切な決定ではなかったとされる。しかしセクシズムや反ユダヤ主義もフェミニズムも経験的な評価を受けることができずに平等な配慮をうけるのはおかしい、とクロウは言う。偏見に基づく価値判断には経験的仮説という側面がある。クロウは例としてアンダーソンの2004年の論文("Uses of Value Judgments in Science: A General Argument, with Lessons from a Case Study of Feminist Research on Divorce"、 Hypatia誌)で価値判断も経験的仮説とみなす考え方が提案されていることを挙げる。アンダーソンが考察するのは「女性は夫や子供との関係では十分に定義できない」という命題で、これは価値判断であるとともに経験的仮説でもある。クロウはこうした分析をふまえ、決定ベクトルを経験的と非経験的に分類することに異をとなえ、新しい区別としてrelevantとirrelevantの区別、すなわち「その判断がrelevantで証拠と整合的かどうか」による区別を持ち込むことを提案する。
以上のコメントに、最後にソロモンが答えた。ロンジーノに対しては、ソロモンと彼女では「共同体の知識」の捉え方が違うと答えた。ソロモンは単なる個人の知識の集合体ととらえるのに、ロンジーノは共同体の「コーパス」にある信念が付け加えられるというイメージを持っている。リチャードソンへの答えとして、ソロモンは、パースと反対であることを認め、探求が規範的企図として崩壊するとしても気にしないと答えた。オレスキーズに対しては、まず、科学史や科学社会学を無視するつもりはなく、そうした研究の伝統の上に自分の研究もあることを積極的に認めた。プレートテクトニクス説については、経験的な成功の条件として全てを説明することを要求しているわけではないことを断った。ただ、他の理論がよりよく説明するというわけでなければ不利なデータは経験的成功にマイナスとはならないはずであり、その意味でプレートテクトニクス説は不利な証拠にもかかわらず最善の理論であったと言える。また、タバコ産業のような例については、科学的に生産的な異議(scientifically productive dissent)と科学的に生産的でない異議を社会経験主義で区別できると答えた。クロウについては、relevant/irrelevantの区別は非常におもしろいので反対しないという答えであった。
次に構造実在論を巡るセッションに参加した。
まず、Harold Kincaid (University of Alabama at Birmingham)が「構造実在論と社会科学」と題する発表を行った。ここで考える構造実在論はウォラルの認識論的構造実在論(構造についての知識だけが正当化されるという立場)ではなく存在論的構造実在論、つまり構造のみに言及する完全な理論というものがありうるという立場である(ロスやレイディーマンがとっている)。量子力学や一般相対性理論はまさにそうした理論だとされる。存在論的構造実在論はあまりに非自然主義的な感じがする(クワインはある理論が何についてのものかは事前の存在論に依存すると主張していた)が、実は社会科学ではそうした構造のみに言及する理論は多い、というのがキンケイドのこの発表での主張である。たとえば、マルクスが分析するのは地位とその地位に結びついた役割の間の関係であり、構造的に同型であれば、その役割を占めるのが誰であっても同じ理論が成立する。もう少し言えば、個人の特性が役割と両立する度合いというものがあり、両立の度合いが高いほど個人の役割は小さい。もうひとつの例は均衡による説明(サットンの企業のマーケットシェアについてのゲーム理論的分析やベッカーの需要曲線の下降傾向についての分析)である。こうした等式にはreduced form とflexible form があるが、reduced form の等式は多重実現するし、flexible form の等式はパラメーターによっていろいろな等式になりうるので、どちらの等式もいろいろな個物についての等式でありうる。しかも個物について不定であっても、構造的には安定している。
社会科学理論のこうした性格は、科学の統一にも影響する。還元による統一においては個物が橋渡しされることが求められるが、個物が問題にならないということは還元もできないということである。
次にDon Ross (University of Alabama at Birmingham and University of Cape Town)が「存在論的構造実在論と経済学」と題する発表を行った(全文がhttp://philsci-archive.pitt.edu/archive/00003045/に掲載されている)。物理学者はクォーク他のものをentity と見なすのをやめたが、他の分野ではどうだろうか。キンケイドの本 (Individualism and the Unity of Science: Essays on Reduction, Explanation, and the Special Sciences, 1997) では個物主義が一般に失敗していると論じているが、経済学ではどうかを考えるのがロスのこの発表の目的である。経済学は現在では非常に統一された領域となっており、批判しているのは反経済学やノスタルジックな経済学者である。今の経済学のイメージはドブリュー的な経済学であり、これはもはや個人を対象としない数学的構造についてのゲーム理論的分析である。たとえば1959年の論文ではドブリューは行為者を一貫した選好の場(consistent preference field)でしかないと論じている。これに対し、センや行動主義経済学者は人間はconsistent preference fieldではないと批判する。経済学史におけるクーン主義という立場があり、それは心理的効用が経済学理論から失われたことが一種のクーン損失となっているという考え方である。この立場からは行動経済学は心理学を持ち込むことでそれを回復しようとしていると見なすことができる。しかし、現在の経済学理論は、教育目的を除いては、実際の個人の効用について語っていると考える理由はなく、新古典派的原子論にもコミットしていない。もちろん、社会現象としての経済との関わりは経済学にとって重要だが、おそらく経済科学と経済工学を区別する必要がある。
次に、James Ladyman (University of Bristol)は「構造実在論と、個別科学ー物理学間の関わり」と題する発表を行った。この発表の関心は特殊科学における存在論と基礎的物理学における存在論の関係や特殊科学における因果関係と基礎的物理学における因果関係の関係にある。物理主義は存在論的構造実在論のイメージする科学的実在論とも自然主義とも緊張関係にあるが、自然主義と両立するかぎりで物理主義を受け入れようというのが近刊のLadyman and Ross( Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalised)のスタンスである。存在論的構造実在論と物理主義が経済学などの分野でどのように物理主義と緊張関係にあるかということについてはすでにKincaidの発表で述べられている。
この発表のおもな標的となったのはKimの還元主義である。Kimは、もしMがPにスーパーヴィーンし、Pが因果的に閉じているなら、MからM'への因果関係はirrelevantになってしまう、といった考察に基づいて還元不可能性を否定することを提案する。これに対してはJackson and Pettit のプログラム的説明やHorganのcross classificationなどさまざまな答えがなされてきたが、彼らが共通して前提としているのは、もしKimが正しければあらゆるマクロ科学の因果的説明が因果的に不活性(causally inert)になってしまうということである。これに対し、Kimはミクロに基礎をおくマクロ性質がありうるという答え方をし、還元主義の下でもマクロな「野球のボール」がマクロな「窓が割れる」という現象の原因でありうるという。しかしこれは因果的閉包(causal closure)の考え方に反する。
以上のような三者の発表に対して、会場からいくつかの質問があった。まず、ジョン・ウォラル(構造実在論の提唱者で、レイディーマンらの存在論的構造実在論に対して認識論的構造実在論を支持している)から質問があった。質問の趣旨は、物理学が存在論的構造実在論を確立したというのはどういう意味か、というものと、社会科学ではそもそも理論が経験的に成功していないので、実在論をとる理由がないのではないか、というものであった。(これに対する答えはメモしそこなってしまったが、基本的には発表中の説明の繰り返しであった。)
別の参加者から経済学的モデルが実在すると考える理由は何かと問われ、個人を単位としてもタイムスライスを単位としてもまったく同じ数学が成り立つとKincaidから返答があった。また、社会科学におけるモデルは現実の構造をとらえたものではそもそもないのではないか、という質問もあった。これに対してRoss は、自分たちの立場は非常にミニマルな実在論なので、getting something rightというだけで十分と答えた。そして、これは本当に実在論なのかLadymanとの共著書でも著者ふたりで考えていると述べていた。
次に、ビッチェリの『社会の文法』合評会に参加した。最初の合評者はPeter Danielson (University of British Columbia、Alex MesoudiおよびRoger Stanevと共著)で、「NERDと規範:枠組みと実験(NERD& norms: framework and experiments)」と題する報告であった(全文をhttp://gels.ethics.ubc.ca:8213/Members/pad/danielson_mesoudi_stanev.pdf/viewで読むことができる)。合評という位置づけであるが、この発表の主な部分はDanielsonらの研究プロジェクトであるNERDについての紹介であった。NERDとはNorms Evolving in Response to Dilemmasの略であり、倫理的規範に対する経験的サーベイの手法である。規範というものに対して経験的にアプローチするという点でNERDのアプローチとビッチェリのアプローチは共通しており、それがこの合評会でNERDを取り上げる理由だとDanielsonは言う。これはH. Gintis の最近の論文"Unifying the Behavioral Sciences" (Behavioral and Brain Sciences) でいうところの統一的行動科学の理念とも共通する部分を持つ。Gintisの統一のイメージはBPC (信念・選好・選択)行為者モデルと進化論的説明を組み合わせたものであるが、Gintisには社会的伝達という要素が欠けている。社会的伝達に関心を持つという点はビッチェリとNERDの共通点である。また、動機についての多元主義(いろいろなタイプの人がゲームに参加しているという想定)を採用するところもビッチェリと共通である。しかし、経験的アプローチの内容として、ビッチェリがもっぱら実験室の実験を想定するのに対し、Danielsonらはウェブベースのサーベイを情報源とする。サーベイを行っているのはwww.yourviews.ubc.caというサイトである。ウェブベースのサーベイは実験ではない。なんのコントロールもされていないサンプル(convenience sample)しか得られない。しかし驚くべき結果がでることはある。Danielsonらがおこなったサーベイ(カナダ人を主な対象とする)では、ゲノム学への非常に強い肯定的態度とシャケ漁に対する強い否定的態度がサーベイ結果として現れ、また、ゲノム研究が結婚の自由に干渉することに対する強い否定的態度(つまり、ゲノム研究が結婚の自由を妨げてはならないという意見)も現れた。また、ウェブサーベイはフィードバックを与えるか与えないかといったことをコントロールすることにより、実験的側面を入れることができる。また、ウェブサーベイの利点として、インタラクティブ性をとりこめる点もある。たとえば、質問の並び方で誘導されているかもしれないといったコメントを回答者が行ったことをうけて、質問の順番を変えてみた(有意差はなかった)。ビッチェリの本では調査のためのカテゴリは事前に与えられているが、Danielsonらの実験ではカテゴリについてもオープンにしている。たとえばシャケ漁の政策をめぐるコメントで「シャケ漁そのものは否定するが個人事業を振興する立場から肯定的回答をしているのだ」といったものがあり、それを反映する形で調査カテゴリそのものを変更した。合評の趣旨としては、結局、ビッチェリのように実験室実験にこだわらずにいろいろなデータのとりかたを試みることで、規範についての人々の態度についてよりよく知ることができる、ということであった。
第二の合評者はRussell Hardin (New York University)で、「規範とゲーム」というタイトルだった。ゲーム理論の観点から規範について考えるというビッチェリの路線について、ゲーム理論的分析の限界について考えるといった趣旨であった。まず、合理的選択理論では規範をよいものだと考える傾向があるが、必ずしもそうとはいえない(KKKの規範など)。また、ゲーム理論的な規範の説明は複雑な現象を単純化してしまうが、その複雑さにこそ面白いところがあるのかもしれない。たとえば繰り返しゲームはゲームの外側の文脈を形成する。規範に従わなければグループから追い出されるという側面を持つような規範(norms of exclusion)もある。グループに属すること自体が喜びであるような場合、規範の採用に選択の余地はない。Hardinが挙げるのは非常に頭がいいが大学進学に対して否定的な態度をとる黒人の高校生の例である。彼は大学で話される言語と彼が属したいグループが話す言語が違うという理由で、大学に行くよりも自分のコミュニティに留まることを選ぶ。ビッチェリは規範を内的なものととらえるためにこういうタイプの考慮を見落としている。
合評の最後はDaniel Hausman (University of Wisconsin)の「フェアであることと社会規範」というタイトルの報告であった。彼はまずビッチェリの主要な貢献として、社会的規範の理論と、incorporation theoryを挙げる。社会的規範の理論において、ビッチェリは規範を状況と集団に相対化し、すべての人が従う必要はないものとしてイメージした。また、なぜ他者の期待が動機づけになるのかについても光をあてた。他者の期待の正統性の認知が規範の形成において重要な役割を果たすというのがビッチェリの立場である。incorporation theory とは、規範はわれわれの選好を形作るという考え方であり、これもビッチェリのオリジナルな考えである。Hausman は次に、規範が破られるとはどういうことかについてのビッチェリの形式化について検討する。ビッチェリによると、戦略の組が規範を破るのは、その戦略のうち誰かがNをやぶり、かつ、その状況に対してNが当てはまるときである。これをもとにビッチェリは規範を破ることに対する個人的な損失を計算する。Hausmanは規範が破られたときの効用の割り当てに関する仮定が疑問だという。ビッチェリは規範の違反へのsensitivityで違反の結果の重要性が決まる(つまり違反の内容はあまり損失の量に影響しない)と考えるが、これは直観に反する。Hausmanは事例として、10ドルをどう分けるかについての提案を一人が行い、もう一人がそれを受け入れるかどうか決めるという状況を考える。規範は半分より若干少ない量を自分の取り分として提案するというものである。しかし、ビッチェリの計算法では、このタイプの問題のいくつかのバリエーションに対する人々の反応をうまく説明できない。
最後にビッチェリがこれらのコメントに答えた。まず、Danielson に対しては、ウェブベースのサーベイでは実際より「いい人」に見せようとする動機を止めるものがないため信頼できる結果がえられないと言う。次にHardin に対しては、いろいろなパラメーターを持ち込むと扱えなくなってしまうために経済学者はさまざまな動機について語るのを好まない、という点と、経済学では繰り返しゲームはあまり発生しない(毎回少しずつ状況が違う)という点を指摘した。Hausman に対するビッチェリの答えのポイントはよく分からなかった。
次に参加したのはミラウスキの本に対する合評会である。
まずMartha Lampland (University of California, San Diego)がコメントを行った。この本は非常に多様な話題をあつかう17の論文からなっており、その全体を扱うことはできないことを最初に断った上で、まず、経済学の歴史を社会的実践の歴史ととらえる点や、科学の経済学についてもっと注意がはらわれるべきだという点では彼女はミラウスキに同意する。しかし、それにしては本書で取り上げられるのがアメリカにおける科学のfundingの問題ばかりだというのはあまりにspecificityの問題に注意をはらっていないのではないかとlamplandは言う。知識のグローバル化といった問題についてのミラウスキの発言はそういう意味でかたよったものになってしまっている。
次はMartina Merz(University of Lausanne) のコメントであった。Merzはミラウスキが科学の経済について冷戦体制(cold war regime)からグローバル化された私有化体制(globalized privatization regime)へと変遷したというイメージを呈示していることについて、単純化しすぎではないかという指摘を行う。これでは、経済というものの特定性を無視しているという新古典派経済学へのミラウスキの批判がミラウスキ自身にもあてはまってしまう。また、Merzは新古典派経済学が科学へ与えた影響についてももっと論じて欲しいという要望もしていた。
第三の合評者はDaniel Breslau (Virginia Tech)だった。Breslauは新古典派や新古典派を使った科学哲学への批判においてはミラウスキに賛同する。しかし、ミラウスキはクレジットという概念を通貨的にとらえることを批判し、マートン、キッチャー、ラトゥール、ウールガーなどを批判するが、彼らの分析には社会的構造の要素がないだけで基本的には正しいはずだとBreslauは言う。スティーヴ・フラーに対して科学の基本を社会科学をイメージとしているところをミラウスキは批判しているが、Breslauはむしろ問題は社会科学を冷戦テクノクラート合理性のイメージでしかとらえていないところであって社会科学をモデルとすること自体ではないのではないかと言う。社会科学には他の可能性もあるはずだというわけである。
以上のような批評に対し、ミラウスキからの返答もあったが、返答というよりは本に対する補足という趣旨のものであった。まず、この本はまとまった本というよりは発展の記録であるということを彼は弁解し、この本におさめることができなかった最近の研究や動向の紹介をおこなった。彼が今関心を持っているのはグローバル化の時代における科学経済学がSTSにおいてどういう位置づけを持つかということや、冷戦のイデオローグとしての科学哲学についてである。経済学とSTSの間には緊張関係があり、それがサイエンティフィックアメリカンにおける経済学者における批評記事などにあらわれたのだが、STSの側はあまりそれを意識していないように思われる。また最近の興味深い傾向としてR&Dのアウトソーシングが行われるようになったこと、科学においてゴーストオーサーが登場するようになってきたことなどをミラウスキは指摘する。
ミラウスキの返答で満足しなかったLamplandからは、たとえば軍事国家では「私有化」はすすんでいないはずだ、私有化が全世界的に進んでいるというのはやはり間違いではないのか、とあらためて質問した。それに対するミラウスキの答えは、国が金を出すといっても出し方が新古典派的冷戦経済のころとは違い、冷戦のころはある特定の自由な討論の構造をおしつける形で出資していたのに、今は市場を組み込む形で出資しているのだ、というものであった。
この合評会ではAlan Richardson ,Thomas Uebel, David Stumpの三人が合評者として発表したようであるが先の合評会と時間的に重なっていたためその部分は聞くことができず、ライシュの返答と質疑に参加した。
ライシュはまず、この本はカルナップらが共産主義者として調査されていたということが分かり、基本的イメージができたところで書いたので、デューイやライヘンバッハなどの人物については十分に調べることができなかったということを弁解した。また、この本で論じられているのは科学哲学の変容ではなく論理実証主義の変容であるという批判については、論理実証主義以前にアメリカには科学哲学と呼べるほどのものはなく、論理実証主義は科学哲学の大きなサブディシプリンだから論理実証主義の変容が科学哲学の変容だと考えてもいいはずだ、と答えていた。
第三に、政治的参加というのがよくわからないという批判については、ライシュは政治参加にはいくつかのパターンがあることを指摘する。タイプ1の政治的参加はdoctrine or talking points model で、ある政治的目的のために科学哲学の専門知識expertiseを使うというものである。タイプ2の政治参加はノイラート=フランクモデルで、これは集団的、意識的に、タイプ1の政治参加ができるように知的制度(特に言葉遣い)を発達させたり、市民の批判力を養ったりするという形での政治参加である。ネーゲルやカルナップが哲学者としてどう政治参加していたのか、という質問については、タイプ2の政治参加だと答えることができる。科学の統一運動はまさにタイプ2の政治参加である。なお、カルナップは非共産党系の政治運動(社会主義)に参加していたがそれは特に彼の専門知識を使うものではなかったのでタイプ1の政治参加とは言いがたい。フランク(1951) においてはアクティブな実証主義と謙虚な実証主義が区別されている。アクティブな実証主義は科学者が答えを持っていなければ誰も答えを持っていない、と考える立場。謙虚な実証主義は科学が答えられない問題については教育者や政策決定者が決めると考える。
このフランクの謙虚な実証主義のような非政治化の立場は実は別の形の政治参加である。これをライシュは第三のタイプの政治参加と考え、タイプ0の政治参加と呼ぶ。これは政治参加を避けようとする態度であるが、科学哲学のそうしたイメージも政治的に作られたものであり、その態度も政治的といわざるをえない。ポピュラーカルチャーの中にも科学哲学的言説は満ちており、それとかかわろうとしないのはひとつの政治的態度になる。
こうしたライシュの発言に対して、Rechardsonから、タイプ2政治参加はウェーバー的にきこえる、タイプ2の政治参加がどういう意味で政治参加なのかよく分からない、というコメントがあった。
会場にいたFineから、カルナップがボーアの言葉遣いがあまりにナチス的だからしゃべり方を教えなければならないというような発言をしていたことが紹介され、これはどこにあたるのか、という質問があった。これはしかし特に科学哲学的な政治参加とはいえないというような答えであった。それをうけて、そもそも科学哲学の専門知識とは一体何か、何をしたら専門知識を政治目的のために使ったことになるのかというような質問があった。(これに対する答えはよくわからなかった。
別の参加者からの質問で、ミラウスキは科学哲学が新自由主義を推進していると批判しているがそれはタイプ2になるのか、という質問があり、それはむしろタイプ1の政治参加になるはずだ、とライシュは答えていた(ミラウスキの分析が妥当だと思うかどうかということについては特にコメントはなかった)。
また別の参加者から情動主義に代表される倫理的主観主義が今でも科学哲学の主流であり、政治参加にはもっとよい倫理学理論を科学哲学自身が持つ必要があるのではないか、というコメントがあったが、これに対しては別の参加者が、それはすでに倫理学の中でさんざんやられていることだ、と答えていた。
次に質問されていたのはフランクは科学哲学界で周縁化されていたのかどうか、ということである。これについてはライシュは単純には答えられないという。フランクは大学に職は持たなかったがロックフェラーの資金をえて統一科学運動を続けていたという意味では中心的だった。ただし、50年代に資金の打ち切りと共産主義者として調査されたことにより、フランクは求心力を失い、Philosophy of Science誌上で新トマス主義者というレッテルで批判されるようになる。これについては、フランクが科学と政治や宗教の関係を強調し続けていたという問題もある。
これはPhilosophy of Scienceの編集長が、主にこれから同誌に投稿する大学院生などを対象として、投稿の仕組みや投稿の際に気をつけるべきことについてアドバイスするセッションであり、毎回開催されている。編集長のマイケル・ディクソンがさまざまな質問に答えていた。提供されていた情報の内容を簡単にまとめる。
まず、統計として、450 あまりのサブミッションに対してアクセプトされるのは5%程度である。そのままの形で出版されるものはまずなく、アクセプトされたもののほぼすべてが改訂の上掲載という判断になる。450のうち100あまりはジャーナルの傾向に反するという理由で除外される(その旨のリアクションが返される)。
これだけアクセプトの率が低いと、最良の論文を出版するという要請と多様な論文を出版するという要請の間で葛藤が生じる。ある種の分野については論文をトップ5%のレベルまで高めるような誘導をして掲載にいたるということもある。
科学哲学の歴史に関する論文は長くなりがちなので9500語という規定を満たさないことが多い。しかしUniversity of Chicago Pressはかなり厳しい制約を設けているのでページ数を増やすことはできなず、頭がいたいところである。
投稿の順序であるが、Philosophy of ScienceよりもBJPSの方が先になることが多いらしい(もちろん本人が申告するわけではないが、レフリーにまわすと「すでに読んだ」と言われることが多い)。これはBJPSはすぐに返事があるという評判があるせいである。
どういう論文が掲載されやすいかについて質問があったが、短い論文だから乗りやすいということはない。著者が推測されることで載りやすさに影響するのではないか、という質問について、ディクソンは、レフリーが著者を推測して結論を出すこともあるが、実はそういう推測は間違いのことが多い、と答えていた。
このセッションの最初はJill North (New York University)の「対称性と確率」という発表だった。
(この発表の全文はhttp://philsci-archive.pitt.edu/archive/00002978/で読むことができる)信念の度合いを割り振る際には物理的対称性が等確率性の根拠になっており、もしそうでない決定をしたら不合理に見える。しかしアプリオリな等確率原理が成り立つとは考えられない。たとえばいろいろなサイズの立方体を作る工場の例をファン=フラーセンが考案しているが、この例では等確率の基準を体積で取るか表面積で取るか一辺の長さで取るかでまったく分布が違ってくる。North は特に統計力学について、等確率原理が成り立つのはアプリオリにではなく経験的にである、ということを示す。統計力学では実際にえられた分布にそって修正しなくてはならない。力学が要請する最低限の構造が対称性の基礎を与える。コイントスやさいころの場合も、対称性を保証するのは統計力学的な構造である。
これに対して、Strevensはミクロレベルで完全な対称性を保つことはできないと言っているがどうか、という質問があったが、それは批判というわけではないという答えであった。
次の発表者はSamuel Ruhmkorff (Simon's Rock College of Bard)で、「正確さと曖昧な選択肢」というものであった。曖昧な選択肢とは P(X) =[a,b] つまりaからbまでの幅のある割り当てを行う(どちらでも気にしない)というものである。Bayesian angels も曖昧な選択肢を持つはずであるという意味で、こうした選択肢は大事だとRuhmkorffは考える。この発表の課題はそうした曖昧な選択肢の正確さをどうやって評価するかということである。これまで、見積もりの正確さの尺度として、真理値1または0と信念の度合いとの差で正確さを測る(つまりXがおきるという事象に0.7の信念の度合いをわりふる場合、それが実現すれば1-0.7=0.3、はずれれば0.7-0=0.7という評価が与えられ、この値が小さい方が正確なみつもりとなる)というものや、実際の頻度と信念の度合いが一致していたらcalibratedと考える(頻度70%の出来事に0.6という信念の度合いを割り当てた場合、0.7-0.6=0.1という評価がされる)というものが提案されてきたが、どちらも不適切である。典型的なのは天気予報士の戦略と呼ばれる事例で、ここにおいては実際の信念の度合いを報告しない方が成績がよくなる場合がありうる(これまでのずれを是正する方向でバイアスをかけた方が成績がよくなる)ということが知られている。Brier score はそういう戦略が有利になることがないという点で適切である。
ファン=フラーセン(1995) は曖昧な意見についても実際の頻度と信念の度合いの一致によるカリブレーションを提案しているがこれは不適切である。また、Brier scoreを拡張した尺度は曖昧さそのものを罰するので、実際の信念の度合いではなくシャープな中点を選ぶことを強制する。そこで、RuhmkorffはBrier score そのものを曖昧なスコアにすること、つまり、正確さの評価値自体に幅をもたせることを提案する。
これに対して、会場にいたテディ・サイデンフェルトから批判があった。それはBrier scoreの集合が与えられたときそれに対する報奨はどうやって決まるのかという問題である。もしそこでなんらかのしかたで期待値を決めるのだとしたら、結局拡張されたBrier scoreと同じ理由で不適切になるはずである。
次はDamien Fennell (London School of Economics)の「なぜ関数型は大事なのか:計量経済学における構造モデルの構造を明らかにする」という発表であった。これは計量経済学で関数型(functionalforms)の選択がなぜ重要なのか、ということについて分析した発表だったようであるが、あまりなじみのない領域だったために論点がよくわからなかった。たとえば需要と供給のモデル化をするとき、需要をq=a1p+ u1 とし供給をq=a2p+u2 とした場合、p(価格)とq(量)は観察可能、aとuは観察不可能であり、このままでは決定不能である。しかし需要側がq=a1p+ a3i+u1という形で別の観察可能な変数を持っていたら決定可能になる。ここで大事なのは、関数の形は数学的な意味を変えずに変えることができるという点だとFennellは言う。
このセッションの最後のスピーカーはAris Spanos (Virginia Tech)で、「カーブフィッティング問題、赤池型モデル選択、および錯誤統計的アプローチ」という発表であった。カーブフィッティングの問題とは、データポイントの数よりひとつ少ない次数の曲線をもってくることでいくらでも曲線を「正確」にできるということである。よく知られているように赤池基準(AIC)は単純さと正確さのトレードオフを行うことでこのこの問題を回避しようとする。しかし最小二乗法ではとらえきれない要素がある。ホワイトノイズとシステマティックな誤差を区別できないという問題もある。同じ問題を錯誤統計学(error statistics)の観点から見ると、今度は逆にむしろ十分な統計的モデルを作る方が大変だということになる。(normality, linearity, monoskedasticity, independence, t-invarianceなどさまざまな条件から評価される)。Spanosはこの論点を示す例としてティコ・ブラーエのデータに対してケプラー・モデルとプトレマイオス・モデルをあてはめる。どちらもデータと予測値のずれがあるのだが、ケプラーモデルでは剰余はホワイトノイズの性質を持つのに対し、プトレマイオスモデルではホワイトノイズの性質をまったく持たない。そこで二つのモデルの優劣を区別できるというわけである。
この発表への会場からの反応として、赤池基準は間違っているというより不十分なだけではないか。もちろん赤池基準はすべてができるわけではないが、そんなことはもともと主張していない、というようなコメントがあった。
PSAの日程の最後には、会長のSkyrmsによる「シグナル:進化、学習および規約」という会長講演があった。以下その内容を要約する。(この論文はhttp://www.lps.uci.edu/home/fac-staff/faculty/skyrms/からダウンロードすることができる)。
アダムスミスは言語は自然発生すると考えていた。言語は生得的か否か、生得的でないならどうやって身につけることができるのかという問題を彼は考えていた。しかしこれは非常にまずい問題設定である。ダーウィン以降は生得的なものも説明を要するようになった。進化による説明と学習による説明は別のものではなくおなじものである。ゲーム理論、情報理論、進化力学、統計的学習理論などがこれらの説明に使われる。
シグナルについての哲学理論としてはデヴィッド・ルイスの「規約」(1969)がある。このモデルは状態(states)、シグナル(signals)、行為(acts)の三つの要素からなり、送り手は状態をシグナルに変換し、受け手はシグナルを行為に変換するとされる。伝達が成功するためには送り手と受け手に共通の利害が必要であるが、逆に共通の利害があればsignaling system equilibria が成り立つ。シグナルにおける情報とはもしそれがシグナルであるなら確率が変化する量であるとされる(これは結局Kullback -Leibler distanceとなる)。ルイスの議論はシャノンの情報理論より先に提出されている。また、内容は関係ないので信号は置き換え可能である(つまりシグナルは純粋に規約的なものである)。
次に、どうやってある特定の信号システムが進化するかを進化的に安定な戦略(ESS)の概念を使って考える。2 populationモデルで信号2つと状態2つの間の対応が成立するかどうかを考える。シミュレーションの結果はシグナルと状態が完全に対応する状態以外は不安定であることがわかる。どちらかに偏りが生じた時点で完全な対応への進化がすすむ。単純な学習モデル(状態に対して正しい行動をすることで送り手と受け手の両方が報酬を受け取る)で十分。こうして自生的な信号が説明できる。学習についてはHerrnstein's Matching Law(ある行為を選択する確率はその行為への報酬の蓄積と比例する)がある。この法則にそった学習モデルでも、シグナルと行為の対応は確率1に収束することがわかる。
3つ以上の状態と信号が対応する場合はどうなるだろうか。これについてはシグナルが状態より多い、状態がシグナルより多い、行為のパターンが多い/少ないなどいろいろなパターンがある。これらについても、シミュレーションで調べられたかぎりにおいては効果的な状態とシグナルの対応が成立することが分かっている。送り手が多い、受け手が多いといった場合、送り手が連鎖する場合なども考えることができる。
以上のことから、信号の成立には偶然の要素が強いというデモクリトスの立場が基本的に正しいということになる。もちろん、目立つシグナルは利用されやすいといった関係はある。以上がSkyrmsの講演の要旨である。
次に、この講演に対して会場からいくつかの質問があった。まず、この学習が成り立つためには当事者たちがどういうゲームをしているか理解する必要があるのではないかという質問があったが、答えは、必要ない、行動に対するたんなる強化で十分、というものだった。また、シグナルだけでは言語はできない。文法には生得的要素が必要だというのはチョムスキーの貢献だ、というコメントもあったが、それに対するSkyrmsの答えは論理結合子も同じやりかたで進化する、たとえば選言にあたるシグナルに対して選言的行動で答える、といったやり方で進化する、というもので、合成性も同じようにして進化させられるかもしれない、とのことであった。
今年のHSSの記念講演は、Patterns of Behaviorなどの著書がある科学史家Burkhardtであり、「庭園のヒョウ:自然史博物館の閉鎖的区画での生活」というタイトルでキュビエらの時代におけるフランスの自然史博物館について講演を行った(その後のHSSの各賞の授賞式で、BurkhardtはPatterns of BehaviorでPfizer賞を受賞した)。以下その主な内容を要約する。
ラマルク、キュビエ、ジョフロワといった当時の世界的な生物学者が自然史博物館の教授を同時につとめていた。こうした施設についてフーコー的に分析するなら規律の場としての博物館を見ることになるであろうし、ニュートン的に分析するなら重力の中心としての博物館を考えることになるだろう。ここでは別のアプローチとして、標本をコントロールする場としての博物館を考える。
フランス革命以前の自然史博物館では標本として生きた動物を閉じ込めていた。これは公営動物園のはじめでもある。しかし興味深いことに生きた動物は研究の対象とならず、死んだところで解剖された。生きた動物が研究対象と考えられていなかったことを示す一つの例として、動物園を監督するポストが作られたのは飼育係の監督のためだったというエピソードがある。動物園はフランス革命後、社会に役に立つことを示すことで生き残りをはかり、動物園も一般に公開された。
閉鎖的な自然史博物館の中で生活していたのは動物だけではなかった。標本だけでなく、科学者たちも博物館で寝起きした。
ラマルクは無脊椎動物についてしっているわずかな一人だったので雇われた。ラマルクはキュビエを動物学の教授に推挙したが、ラマルクのリストはキュビエだけではなかった。政治的コネクションを持つ候補もいたが政変のためにコネをなくし、結果としてキュビエが選ばれる事になった。キュビエは就職したあと比較解剖学を引き継がせるよう前任者を説得し、前任者のアパートまで手に入れた。ジョフロアは採用されたときにナチュラリストとしての能力を疑われ、それを払拭するためにエジプトへの遠征に参加した。これに対し、キュビエは遠征が自分のキャリアにたしにならないと考えて参加しなかった。キュビエの弟のフレデリック・キュビエはジョフロアの下で働いていた。動物の行動の研究を行った。兄の死後にようやく教授になれたが、授業をする前に死去した。
1815年にはいろいろなことがおきた。まずナポレオン政権が崩壊した。そしてラマルクの無脊椎動物の分類の五巻本が出版されはじめた。この第一巻はラマルクの進化論の説明であった。また、コイサン族の女性「ホッテントット」が解剖された。注目という点では、ラマルクの進化論の出版よりも解剖の方が注目をあつめた。
この講演では以上のようなエピソードが紹介されたが、特にまとめといったものはなかった。
以上が今回報告者が参加したセッションである。ある程度研究をしたことのある分野でも耳新しい話題が多く、研究動向についてはやはりきちんとフォローしていくことが重要であることを痛感した。
(本報告書は、平成 17年度科学研究費補助金(基盤C)「誇りをベースとした技術者倫理教育手法の基礎研究および開発」の助成をうけた研究の一環として執筆されたものである。)