倫理学理論は環境科学に貢献できるか?

Can ethical theory contribute to environmental science?


伊勢田哲治(名古屋大学情報文化学部)
Tetsuji Iseda (School of Informatics and Sciences, Nagoya University)


Abstract

This paper aims to investigate the relationship between ethical theory and environmental science. Environmental science (e.g., risk assessment, estimation of environmental load, and conservation biology) have to deal with issues that involve value judgments, often in the form of 'quantitative' moral dilemmas. Ethical theory can be used to think about such issues, but to be used in a justificatory (rather than heuristic) manner, ethical theory itself need to be refined. My proposal is to have a truce among different theoretical orientations by introducing 'unsettled domain utilitarianism'. If this proposal succeeds, we can apply ethical theory more confidently to justify a decision made in environmental science.

リスクアセスメントを代表とする環境科学のさまざまな分野において、倫理的な価値判断の要素が不可避的に入ってくることについては、誰よりも環境科学を行う研究者たち自身が自覚しはじめており、どのようにしてそうした価値判断をより合理的に行っていくかということも盛んに議論されているようである。(その例については以下で見ていくことになる。)こうした状況において、まさに倫理的な価値判断をもっぱら研究の対象としてきた(はずの)倫理学者はどのように議論に参加していけるだろうか?もちろん倫理学者の環境科学への関わり方は一様である必要はない。倫理学者という肩書きをもつ一市民として発言することもできるであろうし、環境科学という枠組みそのものを批判するという行き方もあるであろう。しかし、本発表で考察したいのは、倫理学者として、つまり倫理学理論に関する知識と経験を使って、環境科学に対して建設的な形でかかわっていくとすればどうしたらいいだろうか、つまり倫理学者はどう環境科学に貢献できるだろうかということである。倫理学理論としてここで念頭に置いているのは、主に功利主義、義務論、徳理論などといった規範的な倫理学理論であるが、そうした規範理論の本質や相互の関係についてのメタレベルの理論・議論も参照することになるであろう。

1環境科学と価値判断

環境科学が具体的な提言をしていくためにはさまざまな局面でかなり難しい価値判断をせまられる。まず、そうしたさまざまな局面の例を見ていくことからはじめよう。

1-1 リスクアセスメント(risk assessment)

これについては後でも詳しくふれることになるが、ここでは簡単にリスクアセスメントという考え方そのものを紹介する。リスクアセスメントはさまざまな場面で用いられるが、とくに環境科学では有害化学物質(ハザードと呼ぶ)の特定からその物質の危険度の見積もりと規制に関する判断という一連の流れを指すことが多い。この場合、リスクは、ある望ましくない状態(例えばガンの発症、平均余命の低下)がおきる確率として表現される。あるハザードがどの程度有害かということを評価する上では、たいていの場合動物に対して大量投与する形で実験が行われ、その結果から比較的少量の暴露の人間への影響が推測される。多くの場合、リスクが許容可能かどうかの評価は代替案との比較やそのリスクを甘受することで得られる利益との比較で行われる。具体的には、リスクの値を何らかの一元的な数値(通常は金銭的な数値が与えられる)にまとめ、それをそのリスクを削減することによって生じるコストや失われる利益などと比較して最善の選択肢を選ぶ、という手法が典型的にとられる。こうした手法に対してさまざまな呼び方があるが、以下ではRCBA (risk cost-benefit analysis)と呼ぶ。なお、ここで言うコストは金銭コストに限らず「失われる価値」一般をさす言葉として使われる(金銭的なものに限る時は金銭コスト、環境的なものに限るときは環境コストなどと使い分ける)。

リスクアセスメントについてまず認識すべきことは、あるリスクをむやみに減らそうとすることで別のリスクが生じるといういわゆる「リスク・トレードオフ」の現象が広範囲に見られるということである(グラハム・ウィーナー1998)。ある物質を厳しく規制しすぎることで代替物質が使われ別種のリスクが発生したり、規制にあわせるための浄化プロセスで大量の資源が消費されたり、といった現象がリスクトレードオフの典型である。あらゆる面で人命に関するリスクをゼロにする、というのはレトリックとしては有効であってもそもそも実行不可能であり、仮にできたとしても環境破壊などの多大な損害と引き替えにならざるをえない。

このようなリスクアセスメントにさまざまなレベルで価値判断が入ってくるということは、リスクアセスメントに賛成する側・反対する側双方からしばしば指摘されてきている(Cothern 1996など参照)。アセスメントに使われるモデルの選択からして一種の価値判断(必ずしも倫理的な価値判断ではないが)を含む(Shrader-Frechette 1996)。また、未来世代への影響もカウントされなくてはならないということは多くの人が認めるにせよ、それをどうリスクアセスメントに組み込むかにはさまざまな考え方がある(Catron et. al. 1996)しかしそれ以上にリスクアセスメントを難しくするのは、単純に人命損失や病気の確率に還元できないようなリスクを考えた場合である。例えば中西は生態系へのリスクもリスクアセスメントに組み込まなくてはならないと主張する(中西1994、中西1995)。また、中西は、人々のリスク認識が、単なる期待値計算ではなく、結果の破滅性というファクターや分からないことが多いという未知性のファクターにウェィトをおいていることを指摘し、こうした考慮もリスク計算に含める必要があると主張する(中西1995、106-115)。もしこうした提案を具体的なリスク計算に本気で組み込もうと思うなら、やっかいな原理的な問題をいろいろ解決しなくてはならず、その多くはまさに倫理的な問題である。

1-2 環境負荷の算定

環境負荷(environmental load)とは、あるもの(工業製品や土木事業等)が環境に与えるマイナスの影響である。その製品・事業による資源の消費、汚染物質の排出、生態系の破壊等が負荷として計上されることになる。(「リスク」と「環境負荷」の概念的な関係が正確にいってどうなるかというのは難しい問題で、ここではそういう哲学的な問題にはあまり深入りしない。「リスク」と言った場合には不確かさの側面や人間に返ってくる側面が強調される、というくらいのことは指摘できるだろう。)

ある製品の環境負荷を計算する上ではライフサイクルアセスメント(LCA)という手法がよく用いられる。これはその製品の環境負荷を見積もる際に、生産から廃棄までの全体(ライフサイクル)をみて分析するという考え方である。つまり、その製品が実際に使用されている時の汚染(例えば自動車の排気ガス)だけ見ていてはだめで、その製品を作るために消費される資源とエネルギー、運搬等にかかるエネルギー、その製品を廃棄物として処理する際にかかるさまざまな負荷などをすべて足しあわせてはじめてその製品の環境へのダメージの全貌がわかる、というわけである。

LCAにおいて倫理的価値判断が大きな役割を果たすこともすでに指摘されている。もっともはっきり価値判断の影響があらわれるのは処分の方法による負荷の違いの見積もりにおいてであろう。その製品をどのように処分するかによって環境負荷の形はまったく違ったものとなり、LCAをきちんと行うためにはそれぞれの処分方法について考える必要がある。

たとえばペットボトルという製品の環境負荷を考えるためには、まず製造・使用にかかる環境コスト(原料、輸送コスト等)を考えなくてはならないが、それと同時にペットボトルが最終的にどう処分されるかも考慮に入れられる。この場合、焼却、埋め立て、リサイクルなどの選択肢が考えられる。焼却した場合エネルギーが取り出せるという利点があるが二酸化炭素や有毒ガスが発生し温暖化に寄与することになる。埋め立ての場合は埋め立て地の環境破壊が大きなコストとなる。リサイクルの場合も、リサイクルにかかるエネルギーやリサイクルされたものが最終的にどう処分されるかが問題となり、

ポイントは、有害物質の排出・埋め立て地の環境破壊・資源の消費といった比較しようのないものをなんとか比較しなくてはLCAはできないという点である。安井も指摘するように、どのような環境倫理上の立場をとるのかによってこれらのファクターの重み付けは全然変わってくる(安井1998, pp. 101-105)。

1-3 保全生物学

もう一つさまざまな価値判断が重要な役割を果たす環境科学の領域として、保全生物学が存在する。保全生物学とは、生物の多様性 (biodiversity)とその保全の方策について、さまざまな観点から研究する分野である。そこで扱われる多様性も遺伝子レベルの多様性から種の多様性、種の組み合わせで作られる生態系の多様性などさまざまであり、そのため分子生物学・進化生物学・生態学など生物学のさまざまな分野が関わり、また多様性の保全という実践的な目的とかかわって環境社会学や環境経済学も関連領域として位置づけられる。(より詳しくは鷲谷・矢原1996、プリマック・小堀1997などを参照。)

保全生物学の研究者たちは自らの研究領域が倫理的な価値判断と密接に結びつくことに非常に自覚的である。例えば、プリマックは、保全生物学を成立させる基本的な前提として次の五つをあげる(プリマック・小堀1997、31-33。Primack 1993, 19-20も参照)。(1)生物の多様性は「善」である(2)人間活動による個体群と種の急激な絶滅は「悪」である(3)生態学的複雑さは「善」である(4)生物の進化は「善」である。(5)生物の多様性は固有の価値を持つ。プリマックは、これらの前提はイデオロギーのようなもので、すべてを受け入れなくても保全生物学はできると言う(Primack 1993, 19)。

当然ながら、環境政策への提言として考えた場合には、これらの価値観は単なる信条告白であってはあまり意味がなく、この社会における他の価値(市民的自由など)と相対的に見て生物の多様性がどの程度重要か、ということが言えなくてはならない。さらに、多様性に特に価値を認める立場は、必ずしも環境保護の主流の考え方ではない。生態系の維持を同じように主張しても、外から手が加わっていないことに価値の基準を置く立場とプリマックのような立場とでは場合によってラディカルに違う判断を下すことになる(たとえば二次林など人間が長期にわたって手を加えることで成立してきた自然や移入種の評価、あるいは崩壊しかかっている生態系に積極的に介入して維持を図ることの是非等)。あとで言及する仮想評価法などはこうした場合の相対的重要度の尺度を与えようという試みだが、それにも概念的な問題がついてまわる。

1-4 環境科学と量的道徳ジレンマ

以上の問題はある意味では古典的な道徳的ジレンマと同じ構造を持つ。すなわち、そのままでは同じ物差しで測れないような倫理的考慮(別種のリスク、別種の環境負荷、多様性とその他の価値の対立)があり、その中でわれわれは、こちらを立てればあちらが立たないという厳しい選択を迫られる。環境問題の多くは早急に判断する必要のある問題であるためこのジレンマはいっそうシビアになる。しかしまた、ここで見たような問題には、昔から倫理学で考察されてきた道徳的ジレンマの例と違い、量的な判断がからんでいる。例えば発ガンリスクやその他のリスクは「一生その物質にさらされ続けた場合に100万人に一人の割合で発症」などといった量的な形で表され、多くの場合、量の多少が結論に重要な影響を与えるように見える。結論自体もまた是か非かという単純な形ではなく、しばしば量的である(たとえば、「この製品は30%は直接焼却し、あとの70%はリサイクルに回すのがもっとも環境負荷が低くなる」等)。こう考えると、結局、環境科学の抱える倫理問題(の多く)は、さまざまな価値・配慮がからむ量的道徳ジレンマにどう対処するのか、という一般的問題の一部だ、といえるだろう。

もちろん道徳的ジレンマは倫理学者が長年論じてきた問題であり、それならば環境科学の直面する倫理問題にも倫理学者がなにがしかの発言ができて当然だ、と思われるであろう。しかしそれがなかなかそう簡単にはいきそうにないのである。

次の話に移る前に一言だけ注意を付け加えておく。ここまでで挙げたのはいずれも環境科学の内容そのものというよりは、環境科学の知見を政策決定などに生かす上で必要な評価法にかかわるように見えるかもしれない。しかし、当然ながらどのような評価法をとるか、というのは環境科学の研究プログラムをどう進めていくかに大きく関係してくる。たとえば二次林は維持する価値はないという立場をとるならば、二次林の維持に必要な条件を研究する作業にもあまり価値はなくなることになろう(もちろんわれわれの知識を増やすという純粋に知的な価値は持つだろうけれども)。リスクアナリシスや環境負荷の算定では、まだ知られていないリスクや環境負荷を明るみに出すことや、リスクや環境負荷の少ない技術・製品を考案することが求められるわけだが、何が重大で何がそれほど重大でないかということについての見取り図が頭の中になければ研究の方針を決めることはできないだろう。この意味で、上記のような量的道徳ジレンマにどういう解決をあたえるか、ということはその前の段階のより自然科学的な部分にも間接的に影響をあたえると考えられる。

2 倫理学理論の観点

2-1 倫理学理論の現状

対処されるべき問題の方のおおまかな見通しを得たところで、こんどはその処方となるべき倫理学理論の側の現状について、簡単に私の見方をまとめておく。

倫理学理論を実際の問題にどうあてはめていくか考える上でいつも障害となるのは、現在競合する倫理学理論がいくつかあり、その間の調停はおそらく不可能だという点である。功利主義を代表とする帰結主義は行為の結果によって行為の善悪を判断し、義務論は行為やその意図がある特定の形式を満たしているかどうかで判断を行い、徳理論はさらにその背後にある性格や感情などで行為を評価する。それぞれに道徳というものについてのわれわれの直観に訴える部分があり、またそれぞれに欠点がある(ように見える)。このような状況では、判断の難しい問題について原理的にも単一の答は存在しない。この問題は生命倫理学の領域でもすでに意識され、議論されてきてている。そこでは、こうした問題を抱える抽象的な倫理学理論の有効性を疑問視して、決疑論や中間原則主義などより具体的なレベルから出発する立場が提案されている。しかし、そのような立場に対しては、具体的レベルでの判断をどう正当化するか、曖昧な領域をどうやって埋めていくかというような点で結局もっと根本的な原理に頼らざるをえないという反批判がなされる。本稿ではこのような応用倫理の方法論の全体像にまつわる議論をするつもりはないが、以下で展開するわたしの提案も、最終的には他の立場との比較検討の上でメリットを評価されるべき性質のものである。

2-2 発見的用法と正当化的用法

まず、倫理学理論を実践的問題に当てはめる際の用法として、発見的用法と正当化的用法を区別する。発見的用法においては、倫理学理論は、ある問題の見えにくい側面を明るみに出すために使われる。例えば、功利主義の理論を肉食の問題に当てはめると、動物の快苦は人間の快苦と同列に扱われなくてはならないかもしれないという側面が明るみに出され、徳理論を企業責任の問題にあてはめると、感情や性格をもたない企業というものは本当には責任の主体たりえないのかもしれないという側面が照らし出される。この場合、関係者が事前にその理論を受け入れている必要はなく、また、そうやって明るみに出た側面が重要だと結論する必要もない。「問題についての理解を深める」ことに主眼が置かれるわけである。このようにして倫理学理論を使うのならば理論同士の対立はとりあえず問題ではない。

これに対し、正当化的用法においては、ある結論を関係者の間で正当化するために倫理学理論が持ち出される。道徳的ジレンマに直面して、自分の決断を他人に対して正当化することが要求された場合に(例えば)功利主義に訴える、というのはこの典型であろう。この用法がうまく機能するには納得させるべき相手もその理論の妥当性を認めていなくてはならないが、現状のように根本的に考え方の違う倫理学理論が対立する場合にはそれはあまり期待できない。倫理学理論同士の対立が現実の問題として立ち現れるのはこの場面においてである。理想的には、発見的用法でさまざまな倫理学理論を使い、お互いにいろいろな観点について知るうちにおおまかな合意が形成されていく、というプロセスがとれればよいのだが、そのようなやりかたで意見の収束が起きるかどうかは明らかではないし、いずれにせよ環境問題のような短い期間での決断を要するような問題に関してはそのような収束を待ってはいられない。

2-3 不確定領域功利主義

このように考えると、現状では、倫理学理論は上述したような環境科学の直面する緊要な課題に対してあまり積極的な貢献はできないということになりそうである。しかしわたしはそうした悲観的な結論にたどり着く前に倫理学理論の側でももう少しがんばってみることができるのではないかと考える。若干天下り的になるが、わたしの提案は、正当化的用法においては選好功利主義をベースとした一種の折衷案をつくり、それをみながとりあえず受け入れるというものである。功利主義をベースとする理由はいくつかあるが、どのようなジレンマのケースにおいても(原理的には)一つの答えが存在すること、幸福の量を扱うため量的な判断に適していること(従って上でみたような量的道徳ジレンマに対処するのに理想的な性質を備えていることが挙げられるだろう。これに対し、すでに確立した義務や徳のないところに新しい義務や徳を設けることに関して義務論や徳理論はあまり有効ではない(これらの立場はすでに義務や徳目が存在することを前提として議論を組み立てるので)。

このような利点にもかかわらず功利主義の評判が悪いのは、われわれがすでに受け入れているルールとの齟齬がいたるところに指摘されるからである。功利主義に対するスタンダードな批判の多くは「功利主義をそのままあてはめると、これこれこういう場合に誰がみても望ましくない結論がでることになる」という形をとる(例えば「無実の人が処刑されることが幸福を最大化してしまうような場合があるのではないか」など)。功利主義の側のスタンダードな回答は、さまざまなことを考慮すれば「無実の人は処刑されない」などのルールを絶対的なものであるかのように扱うことが結局みんなの幸福につながるのだ、というものであるが、本当にそうなるのかどうかを確かめるための計算を(概算であれ)功利主義者たち自身が実際にやってみせたという話は寡聞にして聞かない。実際、よほど幸運な予定調和でもない限り、功利の原理から正当化されるルールと現にわれわれの社会で確立している(そしてわれわれが放棄しようとは思わない)ルールとがすべて一致するということは考えにくい。

それならばいっそ、すでにルールが確定している問題(義務論や徳理論でもはっきりした答えが出せる問題)からは功利主義は手を引くという形での停戦が可能なのではないか?つまり、今のところどう考えてよいか分からない問題の処理にのみ功利主義を使うという方向で折衷案を作れば、功利主義へのスタンダードな批判はかわせるのではないだろうか。この考え方を不確定領域功利主義(unsettled-domain utilitarianism)と一応名付けておく。R.M.ヘアの二層理論をご存じの方には、ヘアが批判的思考の仕事として考えている二つの役割のうち、直観的規則を選択するという役割を放棄して、直観的規則でカバーしきれない問題を処理するという役割だけを残したものと理解してもらえれば話が早い。これは不確定領域について功利主義以外の観点からの考慮を無視するということではない。功利主義以外の観点からの考慮は自然保護への強い選好や公平さへの強い選好という形で功利計算自体の中に組み込まれることになる(仮想評価法の環境評価の手法はこうした考え方を不十分な形ではあれ実際に計算に取り入れた試みといえるだろう)。さらに、このような選好はいわゆる高次の(選好についての)選好として低次の(より直接的な)選好をキャンセルする場合があるので、実際の強度以上に功利計算に影響を与えうる。(ここでの議論とは直接関係ない話であるが若干補足すると、功利主義で高次の選好が問題となるのは、たとえば洗脳されることで多大の幸福感を得られることが分かっていても洗脳されないことを選好する、といった場合である。この場合、洗脳後の幸福がどんなに強力なものであろうとも、洗脳されたくないという選好によって単純にキャンセルされ、功利計算には算入されない、というのが選好功利主義の一つの典型的立場である。)

このような折衷案は、改革の理論としての功利主義を信奉する立場からは、現状肯定的な妥協と受け取られるかもしれない。確かに、功利主義のラディカルな結論のあるもの(動物解放や未来世代の幸福の重み付けに関するものなど)は、不確定領域功利主義の立場からは切り捨てられてしまうだろう。私は功利主義のそうした改革主義的側面を否定するものではない。ただ、それは功利主義の発見的用法に属すると考える方が自然であろう。動物や未来世代の利害がもっと考慮されるべきだということを功利主義者が訴えることで、まさにそうした考慮の必要性を「発見」する人たちは出て来るであろうし、そうした人たちが多くなればそれは新しいルールとして確定領域の側に組み込まれることになるだろう。

不確定領域功利主義の説明としてはこれではまだまだ不十分であるが、本発表の主眼はこの考え方と環境科学との関わりを検討することの方にあるのでとりあえずこの程度のスケッチでとどめておく。

3リスクアセスメントと倫理学理論

最後に、不確定領域功利主義の適用の一例として、最初に述べたリスクアセスメントをめぐる問題を考えたい。

3-1 リスクアセスメントと倫理学理論の発見的用法

リスクアセスメントにさまざまな倫理問題がからんでくることは上述の通りだが、そもそもRCBA (risk cost-benefit analysis)を行うこと自体への批判もいろいろ提出されている(Brown 1996, Norton 1996)。まず、よく出されるのは、RCBAは分配的正義の観点が抜け落ちている、という批判である。コストとベネフィットを単純に総和するだけでは、コストを誰が負担するのか、ベネフィットが誰に行くのかという配慮が抜け落ち、弱者に負担が集中するというような構造を正当化してしまいがちだというのである。もう一つよく挙げられるのが、自然生態系の価値など貨幣に換算しにくい価値がRCBAでは計算に入ってこないという論点である。前者の批判はロールズの立場を、後者は生態系中心主義のような環境倫理学上の立場を援用してなされ、その意味で倫理学理論の発見的用法の一つの典型である。

しかし、それならばどうしたらよいのか、という具体的な提言につなげるためには、発見的用法に終始していてははじまるまい。また、リスクをめぐる微妙な量的な判断に関して、当面のところRCBAに代わる手段はないことを考えれば、RCBAをやめてしまうという短絡的な結論が実際にRCBAをやっている側の人から支持される見込みはうすい。とすれば、RCBAを実践する人々にとっても受け入れ可能な前提を用いながら、RCBAの方法を改良する形で上のような批判を生かしていくというのが現実的な路線ではないだろうか?

RCBAが功利主義的な発想に基づくというのはどちらかといえばRCBAを批判する側からよく口にされることであるが(たとえばNash 1996)、たしかにRCBAともっともよく適合する倫理学理論は功利主義であろう。しかし単純なRCBAの適用(貨幣価値に簡単に換算できるコストとベネフィットだけを取り出してそれを最大化するような)は洗練された功利主義の観点からは(上に述べたような批判の視点を生かす形で)不備を指摘することができる。そうすると、正当化的用法でRCBAに対して具体的提言をするにはなんらかの功利主義的立場が有効だということになる。

3-2 リスクアセスメントと不確定領域功利主義

そこで不確定領域功利主義の考え方をRCBAに当てはめてみよう。ある種の公害問題など、被害者が限定されて深刻な場合にはRCBAのような手続きは不適当であるということはリスクアセスメントを支持する側でも認めることである(中西1994, 142-143; 中西1995, 135。もっとも、水俣病のような場合にRCBAをやっても水銀を垂れ流すことのベネフィットがコストを上回るということは考えにくいが)。これは一種の確定領域とみなしていいだろう。他方、ある特定の地域の生態系の破壊が人間に直接の危害を及ぼさないような場合など、生態系そのものの価値が問われるような場面でのリスクトレードオフをどう考えるかということについてはあまり一致があるようには思えず、こちらは不確定領域扱いをせざるをえないだろう(生態系をまもることによるコストがほとんどない場合には生態系を守るべきだということに反対する人は少ないと思うが、そうした場合にはRCBAはそもそも使われないだろう)。確定領域の外でRCBAを使うか使わないか、これは功利主義の観点から判断することになる。しかし、現実問題として、リスクトレードオフが存在するような状況で何らかの根拠のある判断を下そうとすれば、RCBAに類する手法がいずれにせよ必要となるだろう。

他方、RCBAの具体的な細部となると、本稿の最初の方で挙げたようなさまざまな価値判断がからんできて確定領域とはとても言い難く、正確にどのバージョンのRCBAを使うかというのも選好功利主義の見地からもう一度見直されることになる。この際、功利主義の観点から言えば、われわれにとっての(つまり選好の対象としての)公平さの価値や生態系そのものの価値などもコストやベネフィットとして算入されるべきだという一般的な提言はすぐにできる。これは、ある意味でRCBAをより首尾一貫した形で使おうという提案であるから、RCBAの支持者にとっては拒否しにくい(少なくともまったく独立の基準を持ってこられるよりは)であろう。

3-3 仮想評価法の検討

実のところ、環境の価値に関しては、仮想評価法(contingent valuation method、以下CVM)と呼ばれる方法を用いて前節で言ったような線での貨幣価値を計算しようという試みがすでに存在する。以下CVMについて不確定領域功利主義の観点からの考察を加えてみる。CVMとは、あるものに人々が付与する価値を「この干潟の維持のためにどれだけ支払うつもりがありますか」「どれだけの額を受け取ればこの干潟の埋め立てに同意しますか」といった質問によって金銭的な価値に置き換える方法である(前者をwillingness to payを略してWTP、後者をwillingness to acceptを略してWTAと呼ぶ)。この方法によれば、「直接使用価値」だけでなくいわゆる「受動使用価値(passive use value)」例えばあるもの(たとえば干潟)が存在すること自体にわれわれが見いだす価値(存在価値)なども繰り込むことができるという利点が存在する。このようにして得られた価格の平均値を考慮に含められる人々(アンケートの対象を抽出した母集団の人口)の数で掛ければ、その人々にとってのWTPないしWTAが求まることになる。

CVMにさまざまな問題が存在し、使うとしても非常に注意しなくてはならないということはCVMの支持者の側でも強調している(鷲田 1999, 127-129、栗山1998, 80-88) 。特に、ある生態系の全体に対するCVMの結果とその一部の地域に対するCVMの結果が大して変わらない、というスコープ問題や、CVMで出てくる値はその生態系自体に与える価値ではなくそういうものにお金を払う自分への満足を反映しているのではないか、という倫理的満足の問題などがCVMという手法そのものの信頼性への脅威として指摘されている。しかし、これらの問題はさまざまなCVM調査結果の間の整合性を確かめるという形である程度技術的に乗り越え可能である(栗山1998、第5章、第6章)。

また、(CVMに限った問題ではないが)貨幣価値に換算することは独特の心理的効果があり気をつけなくてはいけない。Sagoffはあるものの価値を貨幣に換算すること自体がそのものの価値をおとしめる行為だという指摘をし、willingness to pay ではなくunwillingness to payこそが重要な尺度なのだという(Sagoff1988, 68)。これは貨幣以外の別の単位系を使うことで一応は解決する問題かもしれないが、その場合質問の仕方、解答の処理の仕方とも非常な工夫が必要になる。選好功利主義の観点から言うと、貨幣価値がある人の選好尺度の全体をカバーしているのでないかぎり「いくらお金をつまれてもゆずれない」選好は十分存在しうるし、別にそのような選好を持ち出されたからといって判断停止に陥る必要はない。貨幣価値での比較から選好強度そのものでの比較に移行すればよいだけのことである(もちろん実際にそれを計算するのは大変な作業になるのだが)。貨幣価値は選好体系の非常に不十分な写しであることは常に意識されねばならないだろう。

しかし以上のような問題よりも功利主義の観点から重大なのは、CVMが一般に現在の人間にとっての価値だけを計算する形で行われることである。「もし100年後の人々が今この干潟を守るためにお金を払うとしたらどれくらい支払うつもりがあるだろうか」というたぐいの設問は概算がきわめて難しいのは当たり前であるが、だから無視してよいというものでもない(と功利主義者なら言うであろう)。これはある意味で功利主義の発見的用法ということになるが、もしそれが同時にRCBAの自然な拡張であることが理解されるならば、未来世代のWTP・WTAを算入する方向への修正を正当化する正当化的用法へと転換できるであろう。未来世代であるという理由でのWTP・WTAのディスカウントを行うか(不確かであるという理由でのディスカウントが行われるのは当然だが)、どのくらい未来までを考えるか、でも結果は変わってくるであろうが、現在行われている方法でCVMをやるよりは遙かに巨大な額になることは十分予測される。

以上のような考察から、不確定領域功利主義は、リスクアセスメント、特にRCBAを巡るさまざまな問題について、一応の提言(しかも、相手も受け入れることの期待できる前提に基づく建設的な提言)ができるということは示せたのではないかと思う。もちろんここで行ったのは議論のスケッチにすぎないし、実のところ功利主義のような理論をある程度以上具体的な場面で利用するのはなかなか困難である。しかし、一般的なレベルであっても、倫理学理論が建設的な形で環境科学に関わっていき、ジレンマの解決にある程度貢献できるのなら、とりあえずはよしとするべきなのかもしれない。


文献

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