実践・専門職倫理学会2007年年次大会報告

2007年2月22日から25日にかけてアメリカオハイオ州シンシナティで実践・専門職倫理学会(Association for Practical and Professional Ethics, APPE)の年次大会が行われた。報告者は今回2月23日と24日のセッションに参加した。以下に報告者の参加したセッションの概要をまとめるが、当然ながら報告者の関心により偏ったものとなっている。そこでわたしが参加したセッション以外について最初に簡単にまとめておく。

今回基調講演で尋問の倫理が取り上げられていたが、それに限らず今回の年次大会では戦争や安全保障の倫理にからむセッションが目立った。やはり現在戦争を遂行中の国家であることを印象づけられた。毎回APPEの初日にはエシックスセンターのコロキアムが行われる。今回のテーマはbuy-inということで、大学当局や教員の参加をどうやって確保するかという話題だったようである。また、これも恒例の企画として、最終日にはテーマを限ったミニコンファレンスが行われているが、今回のテーマは研究倫理で、オーサーシップと社会的責任についてそれぞれセッションがもたれていたようである。その他、カンサス大学の社会福祉学部がスポンサーするソーシャルワークの倫理のセッションも3つほど企画されていた。詳しくは以下のURLを参照のこと。

http://www.indiana.edu/~appe/annualmeeting.html

それとは別に今回目立ったのは日本からの参加である。金沢工大と北大からそれぞれ参加者があり、学会の規模に比してかなり日本人の存在が目立っていた。専門職倫理の研究においても日本の研究者がそれなりの存在感をもちはじめているのではないかと思われる。

1 基調講演 「専門職の倫理、虐待的尋問、国家安全保障」

Keynote Address:“Ethics of Professionals, Abusive Interrogations and National Security”

David Luban, University Professor of Law and Philosophy at Georgetown University Law Center

ルーバンは戦争の倫理学や国際法の研究で知られる研究者である。以下、まずルーバンの講演の要旨をまとめる。ケンブリッジUPからTorture Debate in America" という本が最近出版された。しかし拷問が非倫理的であることは議論の余地がないはずであり、拷問論争がおきるということ自体が9.11以降のアメリカの特殊な状況を表している。拷問論争には二つがある。一つは時限爆弾の場所を知る為にテロリストを拷問すべきかという虚構の問題についての論争である。拷問の倫理を論じる多くの人がこの問題について論じているが、この論争の状況設定は非現実的すぎて、この論争が解決しても何も得られない。しかしテレビや映画などではしばしばこの虚構の論争が使われ、拷問についての人々の意識もこの枠組みに基づくことが多い。

もう一つは尋問のポリシー、プロトコル、実践はどうあるべきかという現実の問題についての論争である。この話をするために、まず、国際条約で禁止される拷問とCIDを区別する必要がある。CID(cruel, inhuman, and degrading treatment) は拷問ではなく、その意味では犯罪ではないが、違法であり、ジュネーブ条約にも違反している。アメリカは1955 にジェノバ条約に加盟しているが、ブッシュ政権はアルカイダとタリバーンにはジュネーブ条約はあてはまらないと主張した。しかしこの主張は最高裁でくつがえされた。アメリカでは拘禁者を尋問する方法として、裸で寒い部屋に閉じ込める、長時間立たせる、性的な屈辱を与える(異性の前で裸にしたり女装させたり)といった方法が使われている。これらはいずれもCIDに分類され、ジュネーブ条約違反である。

ここで考えたいのはそうした尋問と専門職のかかわりである。尋問にはさまざまな専門職が関わっている。ここでは法律家、心理学者、人類学者を例として考える。法律家については身体的危害や心理的危害をある程度まで合憲とするようなメモを政府の法律家が書いたことが分かっている。たとえば最高裁は違憲な扱いの基準として"shocks the conscience" であることを挙げるが、ゴンザレスという法律家は国家の利益のためならCIDも合憲となる(つまり良心にとってショックとならない)といった内容のメモを政府関係者に送っているとのことである。これではほとんどあらゆるCIDを認めることになってしまいかねない。

心理学者は尋問において拘禁者を協力的にするためのさまざまな方法をアドバイスするとともに、アメリカ兵が洗脳されないようにするためのプログラムにも関わっている。たとえば、心理学者は意図的にストックホルム症候群を起こすための方法を開発している。この方法を使うとほどなくして拘禁者は犬のように尋問者に従うようになるが、これが人道的扱いと呼べるかどうかは疑問がある。アメリカ精神療法協会やアメリカ医師会は会員が尋問やCIDに直接・間接に関わってはならないと決定した。アメリカ心理学会も2006年に同様の宣言を採択したが、会員の意見は分かれている。実際にはそうした活動に参加している心理学者もいるし、倫理綱領においても軍で心理学者が働くことを認めている。

人類学的知識も尋問で使われる。ジェスチャーの解釈といった無害な用法もあるが、性的な屈辱やホモセクシュアル扱いされることがアラブ人にとって有効な尋問手法となるというノウハウは人類学的な研究に基づいている。なお、アメリカ人類学会は多元文化主義的な人権の宣言を採択しており、人権侵害には反対の立場を明確にしている。

専門職の拷問や虐待的尋問への関与を批判するために、専門職の本質としてはそうした関与は禁止されている、と専門職の本質を持ち出すのはあまりうまくいかない。アップルバウムは専門職の本質主義に反論して、医師、法律家、といった専門職の倫理綱領である種の行動がみとめられないなら、そういう行動を認める倫理綱領を採用する別の専門職(擬医師、擬法律家、擬心理学者などなど)を作ればいいだけだ、と論じる。こうした方策に反撃するには、なぜそういう倫理綱領を持つべきかを考える必要がある。それは社会の期待する役割に還元することはできない。最近の世論調査によれば、多くのアメリカ人は拷問は場合によって正当化されると考えている。これは9.11以降の傾向であるが、第二次大戦のころにも日本人を皆殺しにするべきだと考えているアメリカ人がたくさんいるというギャラップの調査があった。ルーバンの結論は、専門職の倫理に頼るのではなく、純粋に拷問は倫理的に不正であるというところから議論をはじめなくてはならない、というものであった。

会場からの質問として、まず、映画やテレビといったフィクションで時限爆弾的例を使うことを批判していたがそれは検閲というものではないか、というものがあった。これに対してルーバンは、実際に重要な問題からめをそらさせるという困った帰結を生んでいる以上、番組制作者に別種のフィクションを作るように言うのはいいのではないか、と答えた。また、なぜ拷問という身体的暴力とより心理的な尋問手法を区別して、拷問を特に問題視するのか、という質問があった。これについては、拷問の元になっているモデルは自由主義の理念に反し、絶対主義国家のイメージに近い、というのが基本線だという答えだった。場合によって拷問が正当化されるという功利主義的議論は正気でない結論につながってしまうし、現実的な場面では時限爆弾的例ほど拷問で得られる利益がはっきりすることはない。

基調講演は以上だったが、今回の新しい試みとして、基調講演に続く1時間のタイムスロットを使って、基調講演について全参加者がいくつかのグループに分かれて討論を行うという時間が設けられた。報告者の参加したグループでは、まず、政府による拷問は今に始まったことではなく、今新しく起きているのは、拷問を法的に正統化しようという動きなのだということが確認された。また、ルーバンの示唆する方向で考えるなら専門職倫理という考え方自体を否定することになるのかというディスカッションが行われ、専門職倫理に拷問の禁止の基礎を求めるのはあまりいい考えではないという点についてはおおむね合意がなされた。特に、アメリカでは医師が黒人に対して人体実験を行ってきた過去があり、医師の専門職倫理が事実として拷問の禁止を含むということについての疑念が表明された。また、拷問で得られる情報が倫理的正当化になることはほとんどないということを考えると拷問をする合理的理由は権力や支配の維持であるという見解が複数の参加者から表明された。実際にこのグループディスカッションに参加したのは一部だったようだが、なかなか面白い試みであったといえると思う。

以下は報告者の感想であるが、ルーバンの議論は実際にイラク戦争で尋問に関与した関係者とのインタビューをベースにしており、その意味での迫力は十分であった。ただ、空想的な思考実験を否定してしまっては、倫理学的な議論の長所が生かせなくなるだろう。時限爆弾とテロリストの事例そのものは空想的であっても、そうした事例について考える中で明らかになる暗黙の優先順位そのものは現実のものである。ただ、ディスカッションの場でも残念ながら発言することはできなかった。

2 ドキュメンタリー映画製作の倫理

“The Ethics of Documentary Filmmaking”

Ellen M. Maccarone, Philosophy, Gonzaga University

マカローンはドキュメンタリー映画の倫理について発表を行った。以下その要旨をまとめる。ドキュメンタリーに倫理が必要だということは広く認められているが、実際に倫理的な議論がなされることは珍しい。ここではより広いプロジェクトの一環として、映される対象を傷つけないこと、というルールについて考える。発表者の定義によれば、「視聴者の観点からみたドキュメンタリー映画」は(しばしば特定の観点から)真実の物語を語ることを試みる映画だと定義される。映像や音声の操作にあまり依存せずに、しかも芸術性を持つ、ということも要求される。この定義から考えてドキュメンタリー映画製作はマッキンタイアの言う意味での「実践」である。マッキンタイア流の実践においては内的善が外的善と同様に重要である。ではドキュメンタリー映画における内的善は芸術としてのクオリティで評価されるが、ドキュメンタリーには人間の繁栄に貢献するという外的善もある。アリストテレス的観点からいってもドキュメンタリーが人間の繁栄に貢献すべきだということは言えるし、功利主義でも定言命法の第二式でもドキュメンタリー映画が危害を避けるべきだということは導き出せる。この観点からいろいろなドキュメンタリー映画について考える。

最初の事例として取り上げるのはモリスのThe Thin Blue Lineという映画である。もともとは自分が無罪だと言う幻想を持っている死刑囚についてのドキュメンタリーを作るつもりだったが、死刑囚へのインタビューの過程で監督はこの事件が実際に冤罪であるという確信を持ち、映画の目的を変更した。インタビューをする過程で検察側にもこの映画のプロジェクトは伝わり、対象となっている事件そのものにモリス自身がまきこまれることになった。(映画の中で関係者の偽証の証拠や真犯人の自供を引き出したことにより最終的に死刑判決が覆った)。第二の事例として、コンテとルノーらのDopesick Love というHBOのドキュメンタリーでは、ヘロイン中毒患者が被写体となっていた。監督たちは「シネマヴェリテ」映画(カメラを持って街に出、ありのままを映す映画という考え方)の幻想に縛られて、被写体がヘロインを過剰摂取していたにもかかわらずそれを止めようとしなかった。これは非常に問題があると発表者は考える。第三の事例として発表者が取り上げるのはブリスキのBorn in to Brothels で、この映画では児童売春がテーマとなっていたが、不幸になりかけている子供たちに対して記録する以外の手段を持たなかったことが描かれている。この映画で子供たちが不幸になることをくいとめることができたかどうかははっきりしない。

ドキュメンタリー映画はジャーナリズムと似ているが、ジャーナリストがあまり取材対象と関与をもたず選択の余地も多くないのに対し、ドキュメンタリー映画では被写体との深い関与が必要となり、しかもどの場面を使うかについて大きな自由がある。それだけ倫理が大きな問題になる。

会場からの質問として、社会正義のために被写体個人に対する危害に介入せずに撮影するということはありうるのではないか、といった示唆があった。これに対して発表者は、まずドキュメンタリー映画の中で実際に社会正義に貢献するのは非常に少ないということを指摘し、そうでなくてもやはり社会正義のために危害を見過ごすという発想には居心地の悪さを覚える、と述べた。

この発表についての報告者の感想であるが、報告者が記憶するかぎり、ジャーナリズムに関する発表はいくつかあったが、映画製作者の倫理に関する発表はここ数年で初めてであり、APPEの裾野がさらに広がっていることを示すものと思われる。ただ、発表の内容について、はたして本当にドキュメンタリー映画製作者の倫理と呼ぶべき内容なのか、報道の倫理一般に簡単に還元される性質の話題ではないのか、といった疑問は残った。

3 合評会 デボラ・ローディ『知識の探求において:学者、地位、学術文化』

Author Meets the Critics: In Pursuit of Knowledge: Scholars, Status, and Academic Culture

Deborah L. Rhode, Director, Stanford Center on Ethics, Stanford Law School

Respondents:

Judith Lichtenberg, Institute for Philosophy and Public Policy, University of Maryland

A. David Kline, Director, Blue Cross and Blue Shield of Florida

Center for Ethics, Public Policy & the Professions, University of North Florida

Julia A. Pedroni, Philosophy, Williams College

Karen Hanson , Philosophy, Indiana University

このセッションの冒頭で、司会のリチャード・ミラー(インディアナ大)が ローディ(ミラーはこのように発音していた)の本の概要をまとめた。この本は大学の学者文化や学者の価値観について非常に徹底した調査に基づいて、しかも一般の読者にとってもアクセスできるようなクリアな形で論じた本である。ミラーは自分自身学者として、また大学に入る年齢の子供を持つ親としてこの本を読んだが、どちらの観点からも楽しむことができる本である。この本の基本となるのは学者たちが評判や資金を得るための一種の軍拡競争に巻き込まれているという観察である。

リヒテンバーグはこの本の最終章に集中したコメントを行った。この章ではテニュアトラックにのらない(したがってテニュアもとれない)大学教員(contingent faculty)(補助adjunct教員や非常勤part-time

教員が含まれる)について論じている。非常勤は実数としてはかなりの数がおり、非常に安い賃金でいくつかの大学を掛け持ちしている。こうした二極構造は不公正で不正義であると考えざるをえない。テニュア制度の正当化としては学問の自由の保障ということがよく言われるが、本当にテニュアシステムは学問の自由を守っているか疑問である(ただしローディはここでこの問題に深入りをさけている)。テニュアを廃止したとしてもそれがcontingent facultyの地位の向上につながるとは必ずしもいえない。

リヒテンバーグの所属しているところではテニュアがなくても何十年も教員をしている人がおり、かならずしもテニュアが地位にとって重要だとはいえない。

クラインは大学は本来なすべきことをやっていないというローディの主張について考察する。ランキングが重要になってしまったために高等教育は高い地位を求めて、学術的に実質的なことへの貢献よりも、有名な教員や優秀な学生を獲得するといったことの方に力を入れるようになってしまった。これは囚人のジレンマと分析できる、というのがローディの立場である。クラインはフロリダ州の例をあげ、州の利益(州民のための学部教育の強化を求める)と州立大学の利益(州外から優秀な医師や学生を集めようとする)が対立している状況を指摘する。これは囚人のジレンマというより、協調の問題であり、必要なのは強力な政府である。

ペドロニはローディがpublic intellectualという概念を分析していることを評価する。しかし、ペドロニはこれを個々の教員が一般市民向けに知識を広める責務としてとらえることに反対する。むしろそうした責任を持つのは集団としてのfacultyであり、corporate public intellectual ではないのかとベドロニは言う。ペドロニはまた、ローディが求める組織の根本的変革の方法として、彼女の同僚の哲学者たちが行った公開討論に言及した。この討論では、教師は教育的目的のために、自分が正しいと思わない理論を信じるように学生をミスリードすることが許されるかということについて賛成と反対の立場から議論がなされ、大学全体で反響があった。これは教育について考え直すよい機会になったと考えられ、ローディの考えるような変革の手段として使えるだろう、というのがペドロニの示唆であった。

ハンソン はローディを支持するような経験について話した。哲学科のランキングであるLeiter Report(いわゆる「哲学グルメ」)はもともと学生にどこの大学院に行くかの情報を与えること目的としていた。そしてたしかにその目的も果たしていた。しかしこのレポートのランキングはいろいろな哲学科の人事に影響を与えるようになっており、学科長がLeiterに直接コンタクトをとってランキングに影響を与えたり、ランキングを上げるためにビッグネームをやとったりといったことをするようになってきた(彼女自身のインディアナ大学でそういうことがあったようである)。また、現在大学は入学する学生の平均SATスコアを上げるための努力をいろいろしているが、たとえば親の収入はSATのよいプレディクターであり、親の年収でスクリーニングをするということにもなりかねない。学者としてやりたいことと実際にやっていることの距離はローディが言うように広がっている。

ローディはこの本を書いた動機について話した。もともとサバティカルの間に専門と関係のないことをしようと学者をネタにした小説を読んでいて、アカデミックな関心を持ってしまったのが始まりであった。リサーチエシックスを専門としている。

集団的public intellectualが必要だと考えるかについてはまさに必要だと考えるし、リサーチエシックスセンターでそうした活動もしてきた。

リヒテンバーグの示唆にもローディは肯定的に答えた。テニュアは提供できないにしても、もっとましな

自分自身大学の理事(trustee)をつとめた経験からいって、現在の大学運営システムは問題がある。理事になる人は大学の運営についてよくしらない。

ランキングについてはローディ自身アメリカロースクール協会(Association for American Law Schools)の会長をつとめたときに論争となっていた。US News and World Reportのランキングはロースクールの努力をゆがめる方向に働いているということで皆が一致した。ランキングをなくすことはできないとしても、もっとよいランキングの基準を考えることはできるはずだという。

会場からいくつかの質問があった。歪曲されたランキングに対してはトップスクールが参加を拒否するべきではないのか、彼らが拒否しないために他の大学も参加せざるをえなくなっているではないか、という指摘があった。これにはローディやリヒテンバーグもおそらく拒否する義務がすべての大学にあるだろうということで一致した。

また、別の参加者から、仮にUS News and World Report に対抗してよい教育をしている大学のランキングが作られたとしても、受験生やその両親は地位や評判のランキングであるUS Newsの方を使うのではないか、という意見がでた。結局、教育の充実より、誰が同級生になるかの方がよほど将来にとって重要だとみんな考えるだろうからである。これについては、実際そうした指標も作れるが、実はトップの大学はそうした指標ではあまり上位にこないといった補足情報も出されていた。

その他、研究の評価や教育の評価についてまともな指標がないこと、研究者としての評価と教育者としての評価に相関がないのに教育者としての評価があまり利用されずもっぱら研究者としての評価だけで評価されること、大学院生に対して教育法のトレーニングがなされないまま実際の授業をすることになること、逆に教育学部では教育法ばかりおそわって教えるべき内容についての教育があまりないことなど、大学の文化と実践についてのさまざまな問題が質疑の中で言及されていた。

このセッションに参加しての感想であるが、日本の現状と引き比べてやはり参考になるところが多い。非常勤の問題については日本でも最近非常勤講師組合が結成されるなどしてだんだん顕在化してきているが、同じ問題がアメリカでも認識されるようになってきたようである。競争激化のあり方については逆に日本とのコントラストが印象的である。日本では有名教授のひきぬきよりもFDやカリキュラムの充実という方向で大学の競争が進んでいる。その意味ではローディらが希望するような方向に進んでいるわけだが、結果として事務作業が多くなりすぎ研究時間が足りなくなるといった形でひずみが生じているように思われる。アメリカの中にいるが故にアメリカのシステムのよいところが見えなくなっている面もあるのではないかという印象を持った。

4 倫理教育とCIA

Ethics Education and the CIA

“Ethics and Espionage”

Gene Coyle, Indiana University ,Central Intelligence Agency, Retired

Respondents:

Matthew W. Keefer, Behavioral Studies, University of Missouri - St. Louis

Michael Davis, Philosophy, Illinois Institute of Technology

コイルはCIAに所属していた経歴からCIAの職員(CIAの場合、アメリカの職員はofficerと呼び、海外で情報提供者となる者をagent と呼んで区別しているとのことである)の倫理について話した。多くの人はスパイは非倫理的だということでこのテーマをばかばかしいと考える。他の極端にはあらゆることが倫理的だという人もいる。コイル自身はこの両極端の中間があるはずだと考える。CIAの倫理で考えるべきことはいろいろある。たとえばスパイをリクルートすることは倫理的か。あるいは、個人としてやれば非倫理的だが国家のエージェントとしてやれば倫理的だというようなことはあるだろうか。

この発表でコイルが特に考えたいテーマは、スパイを倫理的に行動させるための教育はどうあるべきか、ということである。CIAでは現在、さまざまなガイドラインを作って規制するという方向でこの問題に対処しているが、それがいいとはコイルは思わない。必要なのはトレーニングである。アリストテレスが言うように、人はまねすることで倫理的に行動することを学ぶ。もっともそうしたトレーニングの有効性についてはあまり証拠はない。

コイルはもっと具体的に事例ベースの倫理教育を考える。CIAの職員が直面する倫理問題にはいろいろなパターンがある。たとえば、客観的な報告をしたら高官によんでもらえなくような状況で、本当のことを言うか、あいてが聞きたがっていることをいうか、といった選択があり、真実ではなく相手の期待する報告をする誘惑は、特に情報が錯綜している場合には強くなる。あるいは、CIA職員として得た情報を使って投資を行うことは非倫理的だろうか、といった事例、情報を得るために他国の役人に賄賂をすることは倫理的かといった事例なども倫理教育に使えるであろう。

最初のコメンテーターとしてデイヴィスが以下のようなコメントをした。ここでは倫理(ethics)はデイヴィスの定義するいくつかの意味の中では、「集団に相対的な特別な基準」を指していると考えられる。では、この意味でCIAの倫理は存在するだろうか。コイルが上げる例はどれも政府職員の一般的倫理に還元できる。では、CIAには倫理綱領はあるだろうか。実は行動綱領は採択されたことがあるが、その存在は忘れられており、コイルの発表でも最近のCIAの倫理問題に関する文書でも触れられていない。可能性としては倫理綱領はないか、あるいは文書化されない倫理綱領があるか、ということになるが、文書化されない倫理綱領というものについてはデイヴィスは懐疑的であり、結局倫理綱領という方面からは今のところCIAの倫理というものは存在しないといえる。では、これからCIAの倫理を作るとしたらどういうものになるだろうか。人々がCIAに求めるものと一般的道徳がCIAに要求するものが同じとは限らないが、人々の意見は道徳性の指標としてはあまり役に立たない。結局、一般的倫理や政府職員としての倫理に反しないというのがCIAの倫理の中心的内容になるのではないか、というのがデイヴィスの結論であった。

もう一人のコメンテーターのキーファーは心理学の立場からケースベースの倫理教育は実際にうまくいくという経験的知見を紹介した。

会場からの質問で、戦争倫理学における正戦論のようなものがスパイに対しても当てはめられるのではないかという質問があり、確かにそういう議論もあるという答えがあった。また、CIAがエージェントをどうやってリクルートしているかも議論になった。コイルはエージェントをリクルートする立場だが、その際には、まず、CIAはエージェントの安全を最優先し、本人が犯したくないリスクは犯させないということを伝える。そしてこれは実際にもそうしている。エージェントになる理由は人それぞれで、個人的問題をかかえていてそれをコイルが解決するという関係だと見ることもできる。ある人はモスクワからカリフォルニアに移住できれば人生が変わるかもしれないと思って協力するし、別の人は上司に対する復讐のために協力する。したがって、操作はしているが強制しているわけではない(つまり情報を得るために必ずしも非倫理的な手段に訴える必要はない)。ただ、そこで少し心が痛むのは、多くの場合、コイルが相手に対して与えているのは夢であって、実際にはカリフォルニアに移っても人生がよくなるわけではないと分かっていても相手にはそうは告げない。また、コイルは情報収集を仕事としていたが、分析を仕事とする部署もあって、両者の間には倫理についての考え方が微妙に違うという。分析の人々は情報収集の人々を汚れ仕事をするいやな連中だと思っているが、収集の側から見るとそうやって得た情報も分析に使っている連中がそういう態度を取るのは納得がいかない、というような軋轢があるとのことである。

以上のまとめからも伺えるように、日本ではまず倫理学の文脈で実際になされることの少ない興味深い議論が交わされていたのであるが、これはこの日の最後のセッションで、報告者の注意力が散漫になっていたため、発表や質疑の細かい内容を追うことはできなかった。それにしても、元CIAの職員がこうした場に出てきて体験にもとづく話をすることができるというのは、アメリカらしいオープンさであるという印象をうけた。

5 合評会 エリオット・コーエン著『新しい合理的療法:平穏、成功、深い幸福』

IV. B. Author Meets the Critics: The New Rational Therapy: Thinking Your Way to Serenity, Success, and Profound Happiness

Elliot D. Cohen, Philosophy Department, Indian River Community College

Respondents:

Christopher Meyers, Director, Kegley Institute of Ethics, California State University, Bakersfield

Michael W. Martin , Philosophy, Chapman University

まず、本の内容について合評会の中で説明された限りでまとめる。この本は哲学コンサルティングに関して一般の読者を対象に書かれたもので、哲学コンサルティングに有用な古今東西のさまざまな哲学者からの知恵をあつめたものとなっている。(哲学コンサルティングとは精神分析療法の一種として哲学的議論を利用するというアプローチで、専門の学会が組織され専門誌も発刊されるなど、おおきな広がりをみせている)。コーエンはその中でもLBT (logic based therapy)を提唱している。本書の中でコーエンは心理的問題と結びつきがちな11の誤謬を列挙し、それらを乗り越えるための11の超越的美徳(transcendent virtue)を挙げる。誤謬として挙げられているのはdemanding perfection, awflizing, damnation (of self, others, and the universe) , jumping on the bandwagon, Can'tstipation,Thou shalt upset yourself, manipulation, the world revolves around me, oversimplifying reality distorting probabilities, blind conjectures。たとえばdemanding perfectionという誤謬はmetaphysical security (security about reality)という超越的美徳を身につけることで避けることができる、という。あとの10個の美徳はcourage, respect, authenticity temperance, moral creativity, empowerment, empathy, good judgment, foresightedness, scientificityである。

この本に対して、まず、マイヤーズがコメントした。この本の主要なテーゼは「考えることで心理的問題から抜け出すことができる」というものだと思われるが、これは不正確だとマイヤーズは考える。推論は解決の一部となるかもしれないが、それだけで十分とは思えない。たとえばパラノイアが考えるだけで解決すると思うのか。あるいは、心理的問題の原因が患者をとりまく力関係にある場合、考えて問題が解決するとは思えない。また、誤謬の一つとしてdamnation、つまり自分や他人をののしることが挙げられているが、場合によっては他人をののしるのが正当だということもあるのではないか。また、この本の中でコーエンは自分がハリケーンで苦境に陥ったときにどうやって乗り越えたかということを述べているが、コーエンはやはりまだ恵まれていたのではないか。本当にもっと深刻な立場にある人にも当てはめられるのか。マイヤーズの質問はおおむね以上のようなものであった。

次にマーティンのコメントがあった。マーティンはこの本をかなり高く評価しており、実際に人々の助けになるのではないかと考える。哲学カウンセリングの本は他にもいくつか出ているが、この本に特徴的なのは哲学と心理学を対立させるのではなく、組み合わせることで治療しようとするスタンスである。最近出てベストセラーになった別の哲学カウンセリング本はPlato, not Prozacというタイトルで、正に心理学(薬物療法)と哲学を対立させるという過ちを犯していた。マーティンはこのように評価したあとで、いくつか疑問や批判を述べる。まず、第一の疑問として、幸福を主観的に定義するのか客観的に定義するのかという点がある。この本ではアリストテレス、ストア、カント、功利主義など、幸福について非常にことなったイメージを持つ哲学を並列的に利用している。そのなかで幸福についてどの立場をとるのか。次の疑問は、これらの美徳はどこからきたのかということである。この美徳のリストは哲学的一貫性がなくごちゃまぜであるように思われる。カウンセリングの実践の中から出てきたリストではないかと思われるが実際のところはどうか。マーティンがコーエンのアプローチについて危惧するのは、真理よりも問題を解決するうえでの便宜を優先してしまうのではないか。確かにコーエンは11番目の徳として科学的真理の探求を重視するが、っこれについては逆に、現在のわれわれは真理や倫理についてもっと多元主義的なのではないかという疑問がある。また、これと関連して、この本での誤謬の定義もまた哲学的な定義とちょっとちがう。普通は真理をゆがめる傾向を持つものを誤謬と呼ぶが、ここでは真理との関係ではなく幸福との関わりで定義されているようである。たとえばポジティブシンキングがメンタルヘルスに大事だという主張があるが、これは真理をゆがめるという意味では誤謬だが、幸福には寄与している。これについてはどう思うか。

コーエンは以上の中からいくつかを選んで返答した。まず、幸福の定義だが、11の美徳を持つこと自体が幸福の構成要素だとコーエンは考える(アリストテレス的な幸福観に近い)。しかしカントや功利主義者も少なくともこれらの美徳が幸福の道具的な要素だと認めるはずだとコーエンは言う。また、マイヤーズの批判については、ここで提案されているLBTが認知行動療法 (cognitive behavior therapy, CBT)に対する補足だということを強調する(その点ではマーティンの分析に同意したことになる)。CBTは認知的不協和理論などの認知科学の知見を利用して行動を変化させようとするが、そのプロセスの中で哲学コンサルティングも使われるのである。考えるだけで問題が解決するという立場ではない。また、マイヤーズの批判点の一つは心理的問題の感情的側面を無視しているというものだと思われるが、感情的側面を無視しているわけではなく、認知を通して感情に働きかけているのである。実際、CBTについては、場合によって薬物療法と同じくらい効果があることがわかっている。

マーティンの批判については、まず、真理が複数あることを認めるが、すべてが同じ立場だとは考えない、とコーエンは言う。また、幸福につながるかどうかで誤謬を定義しているわけではないということもコーエンは補足した。収容所におけるフランクルの信念は愛による救済があるはずだという非現実的だったが、おかげで生き延びることができた。これは誤謬と呼ぶことはできる。そういう場合もあるので、幸福につながるかどうかで誤謬を定義するわけではない。ただし、誤謬が本当に常に真理の歪曲かどうかは論議の余地がある。また、誤謬かどうかの(定義ではなく)尺度としてはそれが全般的に不幸につながるかどうか、ということを使うことはできるはずだとコーエンは言う。次にdamnationについてだが、ののしるに値する人が多いということについてはコーエンも反対するわけではないと言う。アリストテレスも悪人というものがいることを認めている。しかし、悪人というものは全人格的に悪人なのではなく、身につけた習慣が悪いのである。そういう人に対しては、ののしるにしても相手の人格そのものを否定するようなののしり方(damnation)よりも相手の特定の行動や習慣について非難する言い方の方が、問題の焦点がしぼられ、生産的になるはずだ、というのがコーエンの答えだった。

この応酬にたいして、会場からもいろいろな意見がでた。飛行機に対する恐怖症がこのやりかたで治るとは思えない、といった意見に対しては、あらゆる問題を哲学カウンセリングで解決しようとしているわけではない旨の答えがあった。また、治療効果は確かめられているのか、という質問があったが、これにはマーティンがまだ精神分析の他の分野とくらべて若すぎるから効果を確かめる段階にはきていない、と答えていた。コーエンからは、哲学カウンセリング学会でどうやって効果をたしかめるかという話題になったこともある、といった話が出ていた。また、完璧主義を誤謬の一つとして挙げているが、たとえば医師が完璧主義を求める場合など、場合によっては完璧主義は美徳なのでは、という質問があった。これに対するコーエンの答えは、「完璧を求めること」と「完璧でないときに自分や他人を非難すること」は別であり、ここで誤謬として挙げているのは後者の方だとのことだった。

報告者自身の疑問は、ある意味でドグマ的にある種の美徳を美徳として教えるのはあまり哲学的ではないのではないか、哲学のよいところは懐疑主義なのではないか、というあたりだったので、コーエンにそのことを聞いてみた。本人の答えは、こうした美徳について懐疑的に議論することでよい方に向うこともあり、懐疑そのものは哲学カウンセリングに取り入れている、ということだった。

6 さまざまな文化における工学倫理

Engineering Ethics Across Cultures

1. “Engineering Ethics in Puerto Rico: Narratives, Issues, and Identities”

William J. Frey, Humanities, University of Puerto Rico at Mayaguez

Efra_n O'Neill-Carrillo, College of Engineering, University of Puerto Rico at Mayaguez

2. “How Should We Foster Professional Integrity of Engineers in Japan?:A Pride-Based Approach”

Tetsuji Iseda, Graduate School of Information Science, Nagoya University

このセッションでは、まず、フレイとネイル=カリヨによる発表が行われた。まずネイル=カリヨがプエルトリコの全般的状況について紹介した。プエルトリコでは技術者協会(CIAPR)が非常に強い力を持っている。組織そのものが法的根拠を持ち、技術者として働くには認証された機関を卒業するだけでなく協会に所属することが要求される。協会は技術者としてふさわしくない振る舞いがあった技術者から免許を取り上げることもできる。プエルトリコで大きな問題となっているのは汚職の問題である。また、本来自分の専門ではない領域で計画を認可したりしたばあい(たとえば化学技術者なのに土木事業の計画を認可したりなど)、免許は分野別になっていないので法的な問題はないが、協会としては問題とし、免許を剥奪することもある。

フレイはこうした状況を背景として、技術者としてのアイデンティティを養成するような事例ベースの倫理教育について論じた。たとえば汚職に関連する事例教育をすることで、倫理的高潔さを保つ存在としての技術者像を考えることができる。また、フレイは自分が使う事例の一つについて詳しく説明した。空想的な事例として、ラップトップコンピュータを学生全員に持たせた結果、数年後に大量の不要なコンピュータが発生し、それが中国に送られたあと最終的に捨てられる、といったシナリオについて考えさせる。このシナリオについて二つのフレーミングが考えられる。一つは社会的・環境的不正義の問題としての捉え方であり、そのようにとらえてどうするべきか学生に考えさせるなら技術者をある種の社会改革者としてとらえさせることになる。もう一つはコンピュータのデザインをよりリサイクルしやすいものにすることで環境へのダメージを減らす、という問題の考え方であり、こうした問題について考えることを通じて学生に制作者としての技術者像を持たせることになる。このように、事例研究はアイデンティティ教育として利用できる。また、オンラインエシックスセンターのように模範的な技術者についてモラルリーダーとして紹介することも有効である。

この発表に対して、大学での工学教育と協会のメンバーであることの関係について質問があった。アメリカではAAUPがそうした要請に反対している。発表者からの答えは、工学教育は技術者としての実践に含まれないので、協会のメンバーではなくても教育はできるとのことだった。

次に報告者自身による発表が行われた。以下に発表の内容を要約する。近年の専門職倫理では専門職としてのインテグリティが重視されるようになっている。しかしインテグリティはどうやって教えたらよいのだろうか。アメリカなどでは、社会契約説や団体メンバーとしての要請といった考え方で教えることができるかもしれない。しかし日本においてはまだ専門職団体そのものが十分に発達しておらず、社会契約があるというには日本の技術者の地位は低すぎる。つまり、アメリカで一般の道徳を超えた倫理としての専門職倫理を基礎づけるために使われる論理は日本では使えないのである。ではどうすればいいかということで発表者は誇りをベースとしたアプローチを考える。誇りの概念の基本形としてはヒュームによる定義を利用する。専門職としての誇りは社会契約が成り立っていないところでも機能しうるし、しかも社会に対していい影響をおよぼす。インテグリティの基礎としても有用である。ある種の誇りが倫理的行動と相関するということについても不十分ながら消防士を対象とした調査が存在する。

この発表に対しては、まず、工学部を出ていなくても技術者として働けるのか、という質問があり、報告者はテクニカルには人文系の学位でも技術者として働くことができるという答えをした。また、技術者のミスコンダクトがあった場合にどういう反応がありうるのか、という質問があった。報告者は日本では倫理綱領違反に対しては対処のしようがないという趣旨の回答を行ったが、会場にいた北大の石原氏から、学協会が倫理綱領違反に対する対処法を練っているところだという補足があった。次に質問があったのは、なぜヒュームなのかということであった。ヒュームにおいては誇りはあくまで謙虚さと対になった徳だったはずであり、また状況に応じて美徳にも悪徳にもなりうるという話だったはずだが、そうした性質についてはどうなのか、というのが質問の趣旨であった。これに対しては、まず、現在の徳倫理学で誇りについて論じられる場合の典拠として言及されるのがヒュームだから、必然的にヒュームの話になるのだ、ということを答えるとともに、誇りが悪徳となる場面がありうること、美徳としての誇りを教えるよう心がける必要があるということを答えた。それと関連して、日本にも誇りの概念はあるのになぜヒュームなのか、という問いもあった。これについては日本の伝統的な誇り概念は学生に古くさいと受け取られる恐れがあること、軍国主義との結びつきがあることなどを日本流の誇りの概念を使わない理由としてあげた。

このセッションは結果として技術者の専門職化が極限まで進んでいる地域とまだほとんど進んでいない国という大きなコントラストをなす結果となった。それだけ対称的な両地域で共に技術者倫理教育において技術者観(アイデンティティ、誇り)を教えるという視点が提案されているのは興味深いといってよいだろう。こういう場で発表することでより広い文脈で「誇りモデル」を考え直すことができたのは収穫であった。

7 医療倫理

Medical Ethics

1. “Autonomy, Best Interests, and the Role of Adolescents in Health Care Decision-Making: Liberation or Protection?”

Andrew Piker, Philosophy, Texas A&M University-Corpus Christi

2. “Reproductive Technologies, the Parental Love Objection, and Moral Psychology”

William P. Kabasenche, Center for Biomedical Ethics, University of Virginia

パイカーは医療(health care)において若者(adolescent) に対して自律と保護のどちらを重視すべきかといった問題について論じた。医療における若者の扱いについては、基本的に両親など周囲の大人が判断するべきだという保護主義者(protectionist)と、本人の意志を最大限尊重すべきだという自由主義者(liberationist)が対立している。法的には今のところ未成年にはインフォームドコンセントを与える能力はないとされており、保護主義がベースとなっているが、実践上は自由主義への移行が進んでいる。その背景には、年長の未成年者の判断能力は成人と比べてそれほど劣っていないというサーベイ結果が存在する。

たとえばコンセントを与える能力がないとしても、APAガイドラインのように両親の許可に加えて本人のアセントを得ることが求められるといったモデルがある。アセントのモデルは両親には必ず本人のことが知られることになるが、性感染症(STD)など、本人が両親に知られることを望まないような情報について守秘義務の観点からは別のモデルが必要となる。そこで出てくるのがmature minor doctrineというもので、若者については成熟していると判断されるなら本人の同意だけで十分だとするものである。

こうした自由主義への変化は発達心理学的研究に依拠しているわけだが、さらに発達心理学の文献をよく見るなら、かならずしも自由主義がよいとは思えなくなる。確かにcognitive factor について見ると成人と若者で差がないが、心理ー社会的要因(psycho-social factors) を見ると差があるという研究が過去10年ほどに出ている。最近の研究をまとめるなら、若者には周囲の大人の影響をうけやすい、リスクを軽視しがちである、長期的影響を考慮に入れないといった特徴があり、本人の意志が単なる影響の結果だとしたらそれを大人の意志と同じようには扱えないだろう。

パイカーはこうした観察からいくつかの結論を導き出す。まず、極端な自由主義は正当化できないとパイカーは言う。次に、心理社会的側面においても十分に成熟していれば同意を与える権利を与えるべきである。第三に、成熟していなくてもアセント他のやり方で参加を強化するべきであり、単に参加するだけでなく、本人の意志が決定に対するインパクトがあるように仕組みを考えるべきである。

この発表に対して、まず、もし若者を成熟度で区別するのなら、大人も成熟度で区別するべきではないか(つまり未成熟な大人に対しては完全な同意能力を認めないという方向を考えるべきではないのか)という質問がなされた(報告者自身が行った)。これについては、そういう考え方は筋は通っているが、倫理上の問題というより実際上の問題としては大人は特に反対の証拠がない限りは成熟しているものと扱わざるをえないだろう、という答えだった。次に、若者でも部分的に十分な成熟を示すこともあるのではないか、という質問があった。これについてはパイカーも同意していた。その次の質問として、ヘルスケアでこうした移行をすすめることは、両親の法的な責任や未成年の犯罪者の死刑を禁止するルールなどについての法制度にもインパクトがあるのではないか、というコメントがあった。つまり、完全な同意力があると一方で認めるのなら、親に法的な保護責任があると考える根拠が失われてしまうのではないだろうか、という心配があるというわけである。次にだれが成熟について判断するのか、という質問があったが、パイカーのイメージは誰ということではなく心理学的尺度で測る、ということだった。最後に、パイカー自身が、成熟していない場合に誰が同意を与えるのかということが残された大きな問題だ、という補足のコメントを行った。同意を与えるのは通常は両親だということになるが、本人が病気について両親に知られたくないと思っている場合など、両親が同意するのが不適切な場合もありうる、というのがパイカーの立場である。

このセッションの二つ目の発表はカバセンチによる生殖技術の道徳心理学的影響についてのものであった。ジョン・ロバートソンやブッシュ大統領の任命した大統領生命倫理諮問委員会は、性選択をはじめとする選択を可能とするような生殖技術(以下選択的生殖技術と呼ぶ)に反対する際に、それが子供への無条件の愛と矛盾する、という議論を行っている。カバセンチは政治的にブッシュ大統領に賛同するものではないが、この諮問委員会の意見そのものは道徳心理学の観点から擁護できるのではないかと考える。まず、人の繁栄(human flourishing)の基本的な捉え方として、親の持つべき基本的徳は子を愛することである。これについてはカバセンチはエリザベス・アンダーソンの議論を引く。さらに親が子供にたいして持つ愛が無条件であることが望ましい理由として、偶然性の問題がある。子供がどのように育つかについては、多くの偶然的要因が作用するから、どんな子供に成長しようが受け入れるような寛容さを親が備えていないと子供は愛してもらえない結果になってしまう。

では、選択的生殖技術を認めると無条件の愛は損なわれるだろうか。ここではカバセンチはロバート・ロバーツの『感情』(Emotion)という本における道徳心理学の議論を援用する。ロバーツによれば感情とは「感情に基礎をおく解釈」(concern-based construals)である。感情は対象をどのように見るか、どこを突出させる(salientにする)かということと深く関わっている。選択的生殖技術の場合には、選択というプロセスを経て、子供にどういう属性をもってほしいかという従属的関心(subsidiary concern)が突出することになる。そうすると愛情という基本的な関心(fundamental concern)よりもそうした関心の方に注意が向くことになってしまうと推測される(ただし実際に無条件の愛が損なわれるかどうかは経験的に調査すべき問題であり、ここでは道徳心理学における理論的な推測を述べているにすぎない)。もちろん配偶者を選ぶといった別種の選択もあるが、遺伝的な選択はあまりにピンポイントに望んだものを得ることができてしまうという点で他の段階における選択とは性格が違うとカバセンチは言う。

このように言ったからといって、選択的生殖技術の使用を完全に禁止しようと主張しているわけではない。たとえばテイザックス病やハンチントン病のような病気については例外として選択を認めることはありうる。

また、選択的生殖技術の使用を禁じることで結局母親に負わせることになるのではないかという批判に対しては、実際上そうなってしまうことはあるかもしれないと認めつつ、それは社会的サポートで解決すべき問題だと言う。

以上のようなカバセンチの発表に対して、まず、選択と無条件の愛は矛盾しないのではないかという疑問が出された。たとえば配偶者は選択されるが、選択した相手にその後何があっても愛し続けるという無条件の愛は十分ありうるように思われる。逆に、生殖技術がなくとも人々は子供に対する従属的関心を表明してきたという指摘もあった。これにたいしてはカバセンチはそうした判断を下すことと、その判断に従って行動できることの間には大きな差があり、そうした行動によって、人々は後々の偶然的な要因の作用(子供が思ったように育たないこと)に対して準備ができなくなってしまうのだ、と言う。そうした答えに対しては、さらに、思ったように育たなくても親は最終的にはあきらめて子供を愛するようになるものだ、カバセンチは無条件の愛というものをちょっとロマンチックに捉え過ぎなのではないか、という反論があった。これに対してはカバセンチはたしかにそうかもしれないが、選択的生殖技術がそうした愛の助けにはならないのは確かだからやはりできれば使わない方がいいのではないか、と答えた。

このセッションについての報告者の感想であるが、実はAPPEには生命倫理に関するセッションはあまり多くない。数少ないこうしたセッションも閑散としている。内容的にも、 APPEのセッションの中では比較的理論的に洗練されているとはいえ、生命倫理学の先端の議論として見たときには少し物足りない。APPEは応用倫理全般を扱っているとはいえ、やはり専門職倫理教育を主な目的とした学会であることをあらためて感じるセッションであった。

8専門職倫理

Professional Ethics

“Ideals in Professional Practice: Philosophical Explorations into the Aspirational Dimension of Professional Morality”

Jos Kole, Department of Theory and Research in Education, Vrije Universiteit Amsterdam

コールは専門職倫理の理想追求的次元(aspirational dimension)についての発表を行った。コールの目標は、この次元において徳、価値観、理想はお互いにどう関係しているか、を考えることである。コールはまず専門職倫理で典型的に用いられるプロフェッションの定義を述べ、知識、卓越性の基準、特権、共同体、自律、などすべての側面がプロフェッションにとって重要であるということを指摘する。しかし、これまでの専門職倫理では義務ばかりを強調してきており、これはいい考えとは思えない。最高の質、卓越性(excellence)を求めるということも重要な要素であったはずである。

コールはこのような観点から、義務的次元と理想追求的次元のさまざまな性質を対比する。義務的次元は義務論的理論に基づき最小限のことを要求するのに対し、理想追求的次元は目的論的理論に基づき最大限のことを求める。義務論的考え方は自由を制限して「閉じる」方向の影響('closing' effect)を持つのに対し、理想追求的考え方は可能性を増やして「開く」方向の影響('opening' effect)を持つ。動機付けについても、義務的次元では動機が外的であるのに対し、理想追求的次元では内的である。

こうした理想追求的次元を理論化するために、コールはマッキンタイアの言う意味での実践(practice)として技術業を考えることを提案する。ここでいう実践とは、その実践に対する内的な善というものがありうるような複雑な協同的活動であり、内的善について卓越性の基準があるようなものであり、その実践をすることによって卓越性を実現する能力自体が拡張されるとともに、目的や善についての人間の考え方自体も拡張される。

このように考えるならば、プロフェッションにとっての徳、価値観、理想の位置も明らかになる。まず、徳は内的善を実現するために必要な卓越性だと解釈できる。プロフェッションにとっての価値とは実践に内的な善として解釈しなおすことができる。多くの価値観は実現可能な価値であるが、よい専門職は現状に完全に満足することはない。ここで理想が登場する。これは価値観の一種だが、実現不可能な完全性に関する価値観である。理想がなければプロフェッションはどちらに向ってよいか分からなくなるので、理想というものはプロフェッションにとって導きの星としてなくてはならないものである。

この発表に対して、まず、殺し屋や広告屋はここで言う意味でのプロフェッションになるのか、という質問があった。殺し屋はコールの言っているプロフェッションの基準を総て満たしているようにみえるし、逆に広告屋は理想を欠いているという意味でプロフェッションとは言えないようにも思える。コールの答えは、殺し屋については道徳性という観点からプロフェッションとして認めないことが可能だというものであった(広告屋の理想についてはどう答えたのかよく分からなかった)。次に出た質問は、価値観というものの主観性をどう扱うのか、授業でプロフェッションの価値観や理想について話し、学生が反対したときにどうすればいいのか、という趣旨のものだった。これについて、コールは、まず、ここでいう価値観は個人の価値ではなくプロフェッションで共有されている価値観であるから、完全に主観的とはいえない、と答えた。あるいは、もっと強く、価値や理想は客観的なものであると同時に主体と結びつくものとして捉えることができると考えることもできるだろう、とも示唆した。ただ、そのあとでコールは理想についてプラトン主義を採用するのかという質問には、べつに理想を存在論的に実在するものとしてとらえているわけではないと答えていた。次に出たのは、倫理綱領についての通常の理解と、ここでの徳倫理学的理解で何が違うのか、徳倫理学を採用することでどんなメリットがあるのかわからない、という(マイケル・デイヴィスによる)質問であった。デイヴィスは、既存の倫理綱領においても前文で理想が表明されるのが普通であること、そうした理想がただの飾りでない証拠に、綱領の条文を解釈するという作業では綱領全体の理想や価値観が参照されるのが常であること(そしてこれは法解釈全般について言える特徴だということ)を指摘する。そうすると、コールがこの発表で新しい要素として提唱したものはすべて今の倫理綱領に含まれていることになるではないか、というわけである。コールは最終的にはデイヴィスに同意したようであった。

このセッションは、報告者自身の発表したセッションとともに、専門職倫理のイメージの転換に関するものであったので興味をもって聞きにいったのであるが、デイヴィスの批判にもあったように、あまり新味の感じられる発表とはなっていなかった。専門職倫理のイメージチェンジというテーマは、とりあえず基本的な

枠組みが見えてきており、今後の発表や論文ではますますひねりが必要になってくることであろう。

報告者が参加したセッションは以上である。今回は意識的に専門職倫理のセッションを避けていろいろな領域のセッションに参加した。ドキュメンタリー映画の倫理や哲学コンサルティングなど、おそらくこれまでこの学会であまりカバーされていなかった領域からの発表がなされ、APPEの裾野が広がっていることを感じさせられた。リスク論に直接関係するセッションはなかったが、こうした実践的倫理学のフォーラムが確保されていることは、リスク論の倫理学を進めていく上でも心強いことであると思う。

(本報告は、平成18年度文部科学省科学研究費補助金基盤(B)「科学技術リスク論の倫理学的研究」による研究の一環として作成されたものである。)