実践・専門職倫理学会2006年年次大会報告



2006年3月2日から5日にかけてアメリカフロリダ州ジャクソンビルで実践・専門職倫理学会(Association for Practical and Professional Ethics, APPE)の年次大会が行われた。報告者は今回3月3日と4日のセッションに参加した。以下に報告者の参加したセッションの概要をまとめるが、当然ながら報告者の関心により偏ったものとなっている(今回は特に研究課題との関係上徳倫理学的アプローチや倫理の動機づけに関するセッションを中心に聴講している)。そこでわたしが参加したセッション以外について最初に簡単にまとめておく。
一日目(2日)には例年通り倫理競技会とエシックスセンターコロキアムが行われていた。三日目(4日)の夜から四日目(5日)の朝にかけてはソーシャルワークに関するミニコンファレンスが開催されていた。時事問題関係では、テリ・シャイボ事件((2005年フロリダで植物状態の女性が尊厳死させられた事件)とカタリーナ台風に関するパネルディスカッションが行われていた。また、今回目立ったのは、最後のミニコンファレンスだけでなく、その他のソーシャルワーカー関係のセッションが複数存在したことであった。大学の行政の倫理についてのセッションも複数行われていた。くわしくはAPPEのウェブサイト(http://www.indiana.edu/~appe/)を参照されたい。また、工学倫理教育DVD「モラレスの事故」のインターナショナルエディションが作られたということで、上映会が行われていた。日本語もふくめ各国語の字幕が作られたとのことである。アメリカ以外の国の工学部長にはただで贈呈するという宣伝であった。
ところでこれまで4年にわたってこの大会に参加していながらAPPEを何と発音するのか分からなかったのだが、今回、中心メンバーの数人が「アッピー」と発音していたので、おそらくこれが一般に通用する発音であると思われる。

1 ビジネスエシックスにおけるシステム思考
“Mental Models, Moral Imagination and Systems Thinking in the Age of Globalization”
Patricia H. Werhane DePaul University
3日の冒頭にWerhaneが基調講演を行った。Werhaneはビジネスエシックスを主な専門としているが、他のさまざまな応用倫理学の領域での研究のほか、アダム・スミスやウィトゲンシュタインの研究も行っている。
われわれの倫理的思考は対象に対する「メンタルモデル」によって左右される。メンタルモデルは社会的に構成された知覚である。同じものに対して対立するいくつものメンタルモデルが成立する事もある、(映画の『羅生門』のように)。たとえばウォルマート(Wal-mart)については、良質なビジネスとしてのメンタルモデルと、従業員や発展途上国の下請け工場(sweatshop)の労働者の搾取者としてのメンタルモデルという対立する二つのメンタルモデルが並列して存在しており、どうやって解消されるかよくわからない(Werhane自身、ウォルマートに批判的な一方、クリスマスの買い物にはウォルマートに行ったし、そこで1時間で必要なものはすべてそろったと告白していた)。
このようなさまざまな側面を統一的に見るためにビジネスエシックスでしばしば使われる一つのメンタルモデルとして、ある会社を中心とし、いろいろなステークホルダーがその会社を取り巻いて描かれる「ステークホルダーマップ」がある。しかしこのモデルは図を書いたあとどうやって進んでいいかの指針をあまり与えてくれないのであまりよいモデルとはいえない。
別のアプローチとして具体的な個人を念頭において考えるというモデルがある。具体的には、ステークホルダーマップの中心に会社ではなく具体的な個人(たとえばsweatshopの労働者の写真)を持ってきて、会社や他のステークホルダーをその周囲に配置するだけでもだいぶ印象がかわる。このモデルはわれわれの想像力には訴えるが大事なものを残してしまう。
そこでWerhaneが提案するのは、ステークホルダーたちを複雑なシステムの一部として考えるシステムアプローチ(systems approach)である。このアプローチが採用するメンタルモデルでは、ステークホルダーマップとちがい、中心は空白とされ、そのまわりに配置されたそれぞれのパーツが多方向的な複雑な相互関係を持つ。
このイメージは、具体的な問題解決を考える上でも役に立つ。具体的にはWerhaneは同盟モデル(alliance model) と称するモデルを提案する。これは 問題解決のための同盟関係をさまざまなステークホルダーの間に作り、機能するシステムを作るためのメンタルモデルで、システムモデルで空白となっている中心に「同盟」という言葉をおき、同盟にたいしてそれぞれのステークホルダーがどういう責任を持つかと考える。
Werhaneは具体的にナイキ、ヘルスケア、そしてグラミーン銀行(Grameen bank)の三つの例について同盟モデルを記述している。 ナイキもウォルマートと同じく何も作らないメーカーですべてアウトソーシングであるが、現在ナイキはsweatshop労働者の労働環境改善の努力をしている。これは、ナイキが中心になっているというよりは、さまざまな力がうまく組み合わさって働いているおかげである。アメリカのヘルスケアの問題点はそもそもシステムがうまく構築されていないところにあるが、患者にとって必要なケアを行うためのシステムを作る試みはなされており、同盟モデルがメンタルイメージとして役に立つ。バングラディッシュのグラミーン銀行は、伝統的に200パーセントの利率で資金を借りなくてはいけなかった労働者に12パーセントの利率で資金を貸したり、職業的な物乞いに対して鉛筆を配って売らせたりといったやり方で、膨大な数の人々を貧困から救い出してきた。つまり、普通の利率でお金を貸したり普通の資本主義を導入することが構造的な貧困への強力な対策となったわけである。ここでもグラミーン銀行が中心なのではなく、この銀行が資金や資材を提供することで作り出した同盟に対してすべての関係者(特に貧困な労働者や物乞い)が関わり、全体としてうまくいくシステムを作り上げたわけである(Werhaneはチャーチルをもじって言う「自由経済は最悪の経済システムである、ただしこれまで試みられたほかのすべての経済システムをのぞけばであるが」)。
この講演に対する会場からの質問として、「ウォルマートのやり方を変えさせるにはどうしたらいいのか」「公的な保険システムのある国とでは違うのではないか」「システムアプローチではシステムの境界という概念が重要であるが、ここでとりあげたような事例に関しては、システムの境界として「共同体」を使ってはどうか」「なぜ最下層の人の名前や顔を中心にすえるのか。ウォルマートのCEOの顔ではだめなのか」といったものがあった。ウォルマートについては、まずはCEOに直にsweatshopに行ってもらうのがいいのではないか、直接なにがおきているかを見て気にかけないでいるのは難しい、というのがWerhaneの答えだった。
Werhaneの提案するメンタルモデルは、おそらく教育の現場ではかなり有効に働くと思われる。ただ、同盟モデルのイメージが非常に漠然としているため、どの程度有用かというと若干疑問がある。また、Werhaneはメンタルモデルが構成されたものだということをパトナムの内的実在論などをひきあいに出して論じていたが、モデルを構成する各部分はかなり客観的に決まる(雇用関係、出資関係等)ので、あまり社会構成主義だということを強調しすぎない方がよいのではないかという印象を持った。

2工学倫理とSTSと徳倫理学
"Science and Technology Studies, Philosophy of Technology, and Engineering Ethics"
Charles Ed Harris, Jr., Texas A&M University
Ed HarrisはSTSと技術の哲学が工学倫理に対してどういう含意を持つかについて、特にSTS的視点の導入が工学倫理に徳倫理学的要素を持ち込むのではないかという観点から考察を行った(ハリスは言うまでもなく代表的な工学倫理の教科書の著者の一人である)。
STSや技術哲学の中で工学倫理にかかわりそうなテーマとして、Harrisは三つのテーマを挙げる。第一のテーマは決定不全と暗黙の知識に関するものである。決定不全についての研究の例としてGuiceのAIコミュニティに関する研究(コネクショニストモデルを使うかどうかはバックグラウンドに影響されている)、暗黙の知識の研究の例としてCollinsのTEA-laserの事例研究(実際にレーザーを組み立てた人に教えてもらわないとレーザーを組み立てられるようにならないというenculturationのモデル)が挙げられていた。チャレンジャー事件も同じようにして分析できると考えられる。ボイジョリー(Boijoley、「ボジョレー」が正しい発音のようだがここでは慣用にならう)はOリングが低温下では働かないのではないかと考えたが、これは明確に述べることのできる証拠に基づいていたというよりは暗黙の知識に基づいていた。チャレンジャーの事故は部分的には暗黙の知識に対する無理解から生じたとも言える。
第二のテーマは技術の社会的文脈という考え方である。Latourのアクターネットワーク理論はこの代表である。事例研究としては、Latour自身のDieselのネットワークの研究(Dieselは自分の作ったエンジンがある種の燃料でしか動かないことがわかるとその産業を自分のネットワークにとりこんだ)や、他の研究者によるロンドンの新聞のコンピュータ化の研究がある。
第三のテーマは人間の経験と定量化、標準化という問題である。かつては時間は人によって、場合によって違う流れ方をするのが当然だったが、時計の導入によって定量化・標準化がなされた。空間も同様である。こうした定量化・標準化は経験のあり方そのものを大幅に変える。
技術というもののこうした性質について技術者が知っておくことは工学倫理の観点からも重要だと思われるが、単に「技術の社会的文脈に意識的であれ」という規則を導入するだけでは漠然としすぎていて意味がない。むしろ、専門職の持つべき性格特性(character)についての責任だと考えた方がよい。徳倫理学的アプローチの利点は、内的な次元(innner dimension)を強調できること、適用に本人の判断が必要だということが認められているということである。もちろん専門職の徳という考え方は特に医療倫理の分野には昔から存在する。
技術者に特有の専門職的徳がいくつか考えられる。たとえば、暗黙の知識の重要性や、定量化が人間の経験を見えにくくしてしまうという影響を考えるなら、技術者は正確さや定量化の利点と欠点を比較考量できるべきでありそれは技術者に特有の徳の一つである。また、技術と社会の関係について道徳的評価を行えるというのもそうした徳の一つである。
徳を涵養する上では、通常の工学倫理の授業で使われる簡潔な事例ではなく、たとえばチャレンジャー事件についてのヴォーンの研究のように分厚い記述(thick description)が重要である。
この発表に対して、会場からはさまざまなコメントが寄せられた。Mitchamは徳という考え方は技術者だけでなく人工物にも当てはめられるので徳倫理学はその意味でも工学倫理に有用だとコメントした。Herkertは規則中心的な倫理も重要だと論じ、たとえば技術の公衆理解(public understanding of technology)を促進すべしという規則が多くの技術者倫理綱領に存在するが、これなどはむしろ規則中心倫理の方がうまくいく例だと論じた。Harrisはこれに同意して、実際この発表で技術の公衆理解の話をしようと思っていたが規則中心倫理の方がうまくいきそうなので取り上げるのをやめたのだ、と答えた。この応酬をうけて、Vesilindは、規則中心倫理と徳倫理の間には葛藤はなく、むしろ相補的な関係なのだとコメントした。たとえば「正直であれ」という徳倫理学的指令は「正直であるには何をすべきか」という規則と組み合わされることで意味をなす。
別の参加者から、医療倫理における基本的な徳(basic virtue)は患者のことを気にかけることだが、それと類比的なものが技術者倫理にあるだろうかという質問があった。Harrisは、技術者がクライアントと直接接しないということがそうした基本的徳の設定を難しくしている、と答えていた。強いて言えば、よいデザインをするということがそれにあたるだろう。別の参加者から、暗黙の知識を大事にするというのはどちらにもころぶのではないか、というコメントがあった。ボイジョリーは暗黙の知識に基づいてO-リングが危ないと判断したわけであるが、逆に、なぜうまくいくか説明できないがうまくいくはずだ、という確信の裏付けとして暗黙の知識という考え方が使われることも多い。これに対して、Herkert から、重要なのは「技術的判断」だというコメントがあった。チャレンジャーの事例では、O-リングについて一番よく知っていたのはボイジョリーだったのだから、彼の技術的判断が最優先されるべきだったはずである。
報告者自身、工学倫理の授業においてSTSを論じ、徳倫理学的要素を工学倫理に取り込むことを検討しているところであるので、この発表は今回のAPPEの中でもとりわけ興味深かった。ただ、Harrisの関心は技術の社会への影響に主にあるようだったが、STSから工学倫理が学ぶべき重要なポイントとして、技術そのものがさまざまな影響の下に成立するという社会構成主義的な側面もあるはずである。その認識が弱いのが気になった。また、ルール化しにくいものについては徳倫理学で、というのは徳倫理学の観点からは若干本末転倒気味である。

3主流医療と補完代替医療の統合と徳倫理学
"Virtue as a Bridge between the Foundations of Mainstream Medicine and Complementary or Alternative Medicine"
Julia A. Pedroni, Philosophy, Williams College
James Giordano, Georgetown University School of Medicine

Giordano とPedroniは共同で主流の医学(mainstream medicine)と補完代替医療(CAM)を統合するような医療の哲学に関する発表を行った。主流医療は技術に焦点をおき、急性の病気については有用である。ただ、慢性病に対しては対処できず、寿命はのびたが慢性病を多く抱える、という状態をうみだしている。これは、主流医学が「治療的」(curative)領域では効力を持つが、「治癒的」(healing)領域を不得手とすることに由来する。現在この部分を補う存在としてCAMが注目されている。患者、特にテクノフォビアの患者は認識論的・人類学的・倫理学的にCAMに引きつけられている。
そこで提案されるのが主流医療とCAMを統合した統合的医療(integrative medicine)であり、これは "a proposed model of healthcare that provides diversified medical "systems" to best meet curative and healing domain"と定義される。この定義で大事なのは、目標とするのが単独のシステムではなく、多様な諸システムだということである。
統合的医療を実現するために問題となるのが、主流医学とCAMでは医療の哲学が根本的に異なっているためにそもそも統合できないのではないか、ということである。そこでGiordanoとPedroniは、両者の最大公約数となる本質的な医療の哲学(essential philosophy of medicine)を確立することを試みる。
医療の哲学には大きく分けて三つの伝統がある。それは、認識論的(科学哲学的)、人類学的、倫理学的の三つである。強いて分類するならEngelhardt は認識論的な医療の哲学、 Tauber は人類学的な医療の哲学、pellegrinoとThomasma は倫理学的医療の哲学を行っている(もちろんそれぞれ別の要素もある)。
これらの伝統から抽出できる医療の哲学の基本要素は以下のようなものである。まず、医療は目的中心的(telic)な営みであり、そこで目的となるのは患者を治癒させることである。治療者のもつべき性質については徳倫理学的アプローチがさまざまな文化で共通してとられてきた。治療者は知識の管理人(steward of knowledge )である。ただし、そこで大事なのは命題的知識ではなくやりかたについての知識であり、この意味で医療とは遂行的(performative)な営みである。以上は医療というものに共通の要素なので、これをベースとして主流医療とCAMのどちらをどこで使うかというような判断が可能となる。
本質的な医療の哲学からは治療者が身につけるべき具体的な徳目も導きだすことができる。まず博愛benevolenceの徳があり、これは、目前の患者を気にかけるというだけでなく、他の患者、未来の患者も気にかけることを意味する。また 患者を見捨てない義務や、主流医学でできることが何もなくなりCAMを必要とする患者にCAM紹介する義務も派生するだろう。信用(trustworthiness)も治療者が身につけるべき徳の一つであり、これは適切なケアへのコミットメントを必要とする。知的誠実さ( intellectual honesty)という徳目には、患者の尊厳を尊重することやドグマ主義を主流医学とCAMの両方から排することなどが含まれる。勇気(courage)という徳もあり、これはビーチャムチルドレスの五つの徳のうち良心とインテグリティにあたる。畏敬( reverence)ないし生命の尊重も徳である。これらすべての徳をささえる支点の徳(fulcral virtue)としてフロネーシス(phronesis)を挙げることができる。
以上の発表に対して、まず、「このモデルでは行為者としての患者が見えなくなっているのではないか?」という質問があり、答えはもちろん治療者と患者の両方の行為者性が大事とのことであった。また、「同じモデルがナーシングにもあてはまるのか」という質問に対して、ここではmedicineという言葉が広い意味で使われていてナース、ソーシャルワーカー、心理学的ケアも含まれる、という回答がなされた。歯医者はどうかという質問には、歯医者には実はCAMのモデルがよくあてはまると答えられていた(この答えはよく分からない)。また、研究は正統医学の文脈でなされるべきではという質問に対して、CAMの文脈でも研究はできるし、臨床の実際を良く知っていることが大事なのだ、という回答があった。
この発表はCAMを非常に肯定的に捉えた発表であったが、報告者の感想としては、やはりある種のCAMは、いくら患者が心理的にそれを必要としていても、治療者の「知的誠実さ」の徳と真っ向から対立してしまうのではないかという疑いがある。いずれにせよ、徳というのは非常に便利な言葉で、そういう疑問にも「ケースバイケース」だと言って逃げてしまうことができる。それはしかし理論としてはかえって弱みだといえるだろう。

4 動物実験の倫理
Lunch with AuthorというセッションではDonna Yarri のThe Ethics of Animal Experimentation: A Critical Analysis and Constructive Christian Proposalという著書とのランチテーブルに参加した。この本はYarri の博士論文をほぼそのまま本にまとめたものである。このランチテーブルには実際に動物を実験に使う科学者二人が参加し、活発な議論となった。科学者の側からのコメントとして、まず「動物実験を実際に見たことがない人が書いたものが実験科学者にまじめに受け取られる可能性はない」という発言があった。科学者の一人は「信用できる人物だということが分かれば実験科学者だって動物実験の現場を見せてくれるはずだ」と言っていたが、「じゃああなたのラボに行ってもいい?」という著者の質問に対し、「わたしはポスドクだから、上の方の人たちに話を通してもらわないと」と言葉をにごしていた。またこういう本を出すにしても、自分の分野で地位を確立している科学者との共同作業が必要ではないかという提案もあった。以上のような提案に対して、著者は、これはどちらかというとキリスト教神学者たちにむけて書かれた本であり、キリスト教が実は動物倫理を取り込むことができるということを示したかったと執筆意図を説明した。
また、科学者側からの不満として、実験動物の大半がマウスとラットであるにもかかわらず、動物権運動ではイヌやネコといった伴侶動物ばかりがとりあげられ、マウスが非常に賢い感情の細やかな生き物だと言っても関心を持ってもらえない、というコメントがなされていた。同様の問題として、同じイヌでも飼い犬か野良犬かでまったく扱いが変わってしまう。こうした一貫性の欠如には我慢できないという意見があった。著者の側の反応は、動物権の運動の中心を担っている人たちはそのあたりはちゃんと一貫しているということであった。この関連で興味深かったのは、もうひとりの科学者の指導教員だった人(?)が実験用のビーグル犬の系統を確立して決してそれ以外のイヌを使わなかったという話で、実験用の系統を確立することは科学者としてよい実践である反面、ビーグルを実験用の系統とすることはラットやマウスよりも問題が大きいのではないかという議論がひとしきりなされた。
また、動物実験の規制については学会がもっと主導権を握るべきであるのに、大きなジャーナルになるほど、実験の倫理に関する規定があまくなるという嘆かわしい傾向があることも話題となった。たとえば動物実験については「学内の実験倫理委員会で承認されていること」という規定しか設けていないジャーナルも多く、そのやり方では、日本のように法律で倫理委員会の構成等についてなんらの規制も存在しない国についてほとんどチェックが働かないことになる。メジャーなジャーナルでは論文自体に記載される方法論の記述は非常に短く、方法論を補遺としてオンラインで公開するジャーナルもあるが、あるジャーナルに掲載された論文における調査によるとメジャーなジャーナルの5年前の補遺はほとんどリンクが切れていたという。そうして、メジャーなジャーナルがお墨付きを与えることによって、問題のある動物実験が繰り返し行われるようになってしまう。
著書のタイトルには「キリスト教からの建設的な提案」とあり、そのあたりを聞くつもりで行ったのであるが、それについて著者にきくと、実は建設的な提案はほとんど書いておらず、本当はそのサブタイトルは削りたいぐらいだったということであった。神学の博士論文として書かれたという成立事情のためにそういうタイトルになっているのだということであった。


5 拷問の正当化
Panel: The Justification of Torture: Part II: The Case Against Torture
1. “The Moral Status of Interrogational Torture,” Stephen Kershnar, Philosophy, SUNY-Fredonia
2. “Torturing Detainees” Larry May, Philosophy, Washington University in St. Louis
3. “Is Torture Ever Morally Justified?” Seumas Miller, Centre for Applied Philosophy and Public Ethics, The Australian National University

今回のAPPEでは、二つの連続するセッションを使って、拷問の正当化についての議論がなされた。報告者はその後半に参加した。まず、Kershnar は情報を得るための拷問(interrogational torture)は場合によって正当化されると論じた。ある種の拷問は攻撃者を不当に扱う(wrong)ことにはならない。具体的には自分や他人の防衛のための拷問(時限爆弾を仕掛けた犯人に爆弾の場所を白状させるための拷問など)においてこれが成り立つ。その場合攻撃者の道徳的権利はどうなるか。防衛のさいには自然権を犯しているようには思えない。乗り越えられる(overridden)という考え方や自然権の範囲が限られるという考え方はうまく事態をとらえていない。たとえば、正当防衛の場合には補償する必要すらないということはそもそも権利がないと考えるしかない。攻撃者は攻撃することによって権利喪失(forfait)すると考える方が自然である。また、契約などによって発生する非自然的権利も存在するとは思えない。これに対して自然権を喪失するなんてことはありえないという反論もありうるがうまくいかないとKershnarは考える。また、そうした拷問が特定の人にむけられたわけでない「宙に浮いた不正」free-floating wrongではないかという疑いもあるが、よく吟味すると拷問はそうした不正のどのケースにも当てはまらない。具体的に宙に浮いた不正の例として搾取的、無作法、帰結主義的義務への違反などがあるが、防衛の為の情報を得るための拷問はそのいずれにもあたらない。
二人目の発表者May は欠席でMichael Davisが代読した。人道性の要求は囚人にたいしての拷問を禁止するとMayは考える。戦争の規則の中で拷問の禁止は中心的な役割をはたす。人道的扱い(humane treatment)をする、余分な苦痛(superfluous suffering)を避けるという規則は功利主義的にも、非功利主義的に(一定の線以上の苦痛は禁止される、というようなタイプの考え方で)も擁護できる。May が主に想定するのはイスラエルの1999年の事例である。イスラエルのGSS (General Security Service) が占領地において、時限爆弾を発見するために拷問を行った(睡眠不足にする、激しく揺さぶる等)。イスラエルの最高裁はこの場合の拷問を正当化できないとみなした。主な理由はそうした拷問が人間の尊厳の尊重に反するということである。もちろんGSSはこれで多くの人の命を救ったが、もっと暴力的ではない方法もあったはずだと最高裁は判断した。戦争の規則の一部である比例性の原理は必要性の原理ぬきには理解できない。絶対に必要でないかぎりそもそも比例性の判断すらするべきではない。
三人目のMillerは、正当防衛的拷問の道徳的な正当化の可能性について論じる。しばしば拷問は殺人より悪いと考えられがちだが、拷問は殺人よりも必ずしも悪いわけではないと論じる。殺人は生命と自律を侵害するが、拷問は少なくとも生命は侵害しない。もちろん「死んだ方がまし」と思わせるような拷問もあることは認めるがそういう拷問ばかりではない。絶対主義的な倫理においても正当防衛は認められ、自分を殺そうとしている相手を殺すことすら認められる。そして時限爆弾の事例では、攻撃者は殺人のプロセスにあると考えることができ、拷問は一種の正当防衛になる。少なくとも拷問することは相手を殺すことにくらべればまだましで、情報さえ得られれば相手を殺す必要はない。正当防衛で人を殺す事が認められるなら、正当防衛でそれよりも小さい悪を行うことが認められないはずがない。しかし極端な場合に拷問が道徳的に認められるとしても、拷問を合法化したり制度化したりしてよいということにはならない。ダーショヴィッツ(Dershowitz、イスラエル支持の法学者として有名)は拷問の合法化を擁護するが、彼の議論はプライバシー権の制限とのアナロジーの上に成り立っている。しかし多くの点で電話を盗聴するのと拷問で情報を得ることの間にはアナロジーが成り立たない。したがって、道徳的には許容可能な場合があることはみとめつつ、拷問そのものは非合法なままにとどめておくべきである。
以上のパネルの発表に対して以下のような質問があった。Ray Spier (Sci &Eng Ethics のエディター)の質問は、suicide bomber は単に爆弾の場所のみでなく大量の情報を持っているが、そういう情報についての拷問はどうか、という質問だった。Mayを代弁するDavisの答えは、そういう情報は信頼できる情報とは言えないということであった(質問の意図を聞き違えている可能性あり)。
Mitcham の質問は、拷問がうまくいって爆弾が止められた場合と失敗して爆弾が爆発した場合では評価が違うかどうか、というものだった。Mayを代弁するDavisの答えはそうしたギャンブルに参加すること自体がまずいというもので、Davis自身の答えは、多くの法体系で危険運転は人を殺しても殺さなくても同様に悪いとされるなど、実際の結果(想定される結果ではなく)と行為の道徳的評価は連動しないのが普通だ、というものであった。
次にフロアからあったのはダーショビッツはいろいろな拷問を区別してその一種を合法化することを提案しているのではないか、という質問であった。Miller はダーショビッツの全体としての議論を受け入れる理由がないのに内部の区別を受け入れる理由もないと答えた。一つの類型の拷問の合法化をみとめたら、明確な線が無い以上滑りやすい坂道を転げ落ちる事になる。これが道徳的に許容可能な拷問についても合法化しない強い理由となる。さらにMillerに対しては、道徳的に許容可能な行為が非合法だということになって問題ではないか、という質問があった。Miller の答えは、それは市民的不服従と同じカテゴリーに属するということであり、特に問題とは思わないということであった。
Kershnarに対して、権利の喪失という考え方では防衛の方法は選ばなくてもよいことになるのではないかという質問もあった。拷問を必要最小限にとどめるためには「喪失」という概念はまずいのではないか、という趣旨である。これに対する答えは聞き逃した。また、同じくKershnarに対して、多くの拷問は正当防衛にあたらないので、あまりに小さい部分集合についてのみ論じるのは問題ではないかというコメントもあった。
このセッションで印象深かったのは、セッションのこのパートが「拷問反対論」と題されていたのに、本当に反対論を展開したのはMayだけで、あとの二人は正当防衛型の拷問を道徳的に容認する(ただしMillerは法的には容認しない)という立場だったということである。これは、現在でも国際法上は拷問が非人道的な扱いとして厳しく禁止されていることを思うと非常に奇異な印象がある。おそらく911テロの前と後でこの問題に対するアメリカの哲学者の態度も大きく変化したのであろう。

6さまざまな段階における医療倫理教育
Teaching Ethics
Panel: "Clarifying Constituencies: How to talk so your students will listen (and listen so your students will talk)”
Jenny Heyl, St. John's Mercy Health Care, St. Louis
Annette Mendola, Philosophy, University of Tennessee
Toby L. Schonfeld, University of Nebraska Medical Center

3日の最後は倫理教育のセッションに参加した。Mendola は学部レベルの学生に対する生命倫理の授業の紹介を行った。基本的には事例ベースで肝臓を誰に移植するかという決定をやらせてみたり一方の立場を擁護させたあと反対の立場を擁護させたりといった演習をさせている。学生は幹細胞やクローンといった問題の方に興味をしめすが、もっと退屈な日常的事例にも、自分にも同じ事がおきるかもしれないということを理解すれば興味をしめしてくれるようになる。学生の評価については、倫理の授業の役割は種をまくことであり、結果を見ることを期待してはいけない、と言う。
Schonfeldは大学院レベルの医学生の教育の実践の紹介を行った。メディカルスクールでは非常に競争がきびしく、倫理に関心を持たせるのは難しい。倫理の授業は学期全体にちらばって11 日間しかない。学生たちは具体的な情報を求める。一つの戦略として、その学部の教員をよんで彼らが実際に経験した事例を紹介してもらうというやり方を行っている。メディカルスクールの学生にはいろいろなコースがあり、バックグラウンドもさまざまである。Schonfeldは学生の多様性に答えるためにオンラインコースを行っている。しかしオンラインコースは教員の側にも学生の側にもより大きなコミットメントを求める。かなりの人的支援が期待できるのでないかぎり、オンラインコースをやると後悔することになる、とSchonfeldは警告する。
Heylはもともとリベラルアーツカレッジで学部生に哲学を教えていたが今はカトリック系の病院でスタッフに対する倫理教育を行っている。「学生」の倫理に対する態度は学部生のころとヘルスケアの職を得てからであまりに違い、スタッフはほとんど倫理に関心を持たない。授業の頻度も二ヶ月に一回で、6000人のスタッフの倫理教育をしなくてはならない。ただし、二ヶ月に一回の倫理の授業への参加は医師たちに義務づけられており、そこに手がかりがある。まず、倫理がリソースとして役に立つということを印象づけることが大事である。医者とナースの立場の違いなど、構成員たちの関係を知ることもアクセスを得る上で大事である。Terri Schiavo事件などの大きな事件があると話すのも楽になる。経験上、倫理理論をあまり説明するのは効果的ではない。また、情熱的であることはあまり役に立たない。ゲストスピーカーとして医者を呼ぶのは非常に有効であった。
このセッションについては質疑の途中で退席した。学生のレベルに応じて教育手法を変えるという考え方はたしかにもっともであるが、あまり新鮮さは感じられない。提案も非常に常識的な線におさまっているように感じた。

7 ホランダーの顕彰
夜のバンケットの席上で、顕彰式がおこなわれた。一つは倫理競技会(Ethics Bowl)で、アメリカ哲学会より「独創的な哲学教育」として顕彰されたという報告であった。次にラッシェル・ホランダー(Rachelle Hollander) のrecognition(顕彰)が行われた。こちらは特に賞や賞状が与えられるわけではなく、何人かの中心メンバーがホランダーの事績について話し、ホランダーに対する感謝の手紙の束が本人に渡されるという、あまり見た事の無い顕彰のしかたであった。スピーカーとなったのはカール・ミッチャム、デボラ・ジョンソン、ヴィヴィアン・ヴェイルといった人々であった。顕彰の中身をまとめると、ホランダーはもともと哲学を専攻としていたが、70年代末以来NSFの職員としてグラントの審査に関わってきている。「科学技術論」(Social studies of engineering, science and technology)「倫理、価値と科学技術」(ethics and values in engineering, science and technology)といった分野がグラントの対象分野として創設され、拡大してきたのは彼女の力によるところが大きい。実際、こうしたグラントなしには、これらの分野はそもそも存在しなかったかもしれない。ホランダーはまた、NSFでの仕事のかたわら、情報の共有(ジョンソンとの共著)、リスク、集団的行為などに関する哲学的な論文も発表してきており、科学技術論と科学技術倫理の広範囲の問題について内容や方法論もよく分かった上で審査を行っている。
「顕彰」という行為の性質上、以上のような発言の内容は割り引いて聞く必要があるだろうけれども、こういう顕彰が行われること自体、ホランダーがかなり重要な役割をはたしてきたことはまちがいないだろう。グラントを認可する側の中心人物とアカデミックコミュニティが公の場でこうして顔の見える関係を維持しているというのは日本の現状とひきくらべて興味深い。

8 自由意志論、ケア倫理
Topics in Health Care
1. "The Case of Ernie Crowfeather: Alcoholism, Free Will, and the Rule of Rescue in Bioethics," Gregory E. Pence, Humanities, University of Alabama at Birmingham
2. "Love's Labor in the Health Care System: Working Towards Gender Equity," Rosemarie Tong, Center for Professional and Applied Ethics, University of North Carolina at Charlotte

4日の午前最初は医療政策に関するセッションに参加した。Pence はアルコール依存症であるという理由でシアトルの「神の委員会」(God Committee)から自宅透析装置を拒否されたネイティブアメリカンのアーニー・クロウフェザーの例(1962)を考察する発表を行った。この種の事例を哲学的な自由意志の問題と結びつけた議論はあまりない。カントの立場からはわれわれは自律性を持っているはずであり、アーニーは自分でアルコール依存症になることを選んだことになる。遺伝学者はすべてを遺伝的に説明しようとし、この立場はアルコール依存の遺伝的な原因を探すことになる。社会科学者の立場からはすべてが階級、民族、社会的ファクターによって説明される(同じ事象であるにもかかわらず)。もしアルコール依存が非自発的であるならこの事例は救済の規則(rule of rescue、目の前にいる相手を救えという規則)に対する違反だと理解されうる。
この発表にたいして、「最初の一杯は自律だがその後は遺伝的というような両立のしかたはあるのでは。」という質問があった。Pence は生涯でそもそも一杯も試さないような人間はいないだろうと答えていた。また、同じような事例がオーストラリアのアボリジニの「不服従」についても報告されているというコメントもあった。また、アルコール依存症の解決としては、コミュニティモデル、すなわちコミュニティによる支援というやりかたもあるというコメントがあった。それに答えてPence は、確かに周囲の働きかけで飲酒が高くつくようにすることでドラマティックな効果があるという研究を紹介した。それによれば、一杯飲むごとに値段が倍増するような状況を設定してやれば、酒量が大きく減るという(これは遺伝的モデルに対する反証ではないかという感想ももらしていた)。ただし、質問者の考えるコミュニティの支援はもっと多面的なものだったようであった。それから、ここでは救済の規則をどういう意味で使っているのかという質問もあり、そもそも神の委員会はいわゆる救済の規則を否定するところから出発しているのではないかというコメントもあった。これに対してPenceは、ここでは救済の規則という言葉を partialist ethicsの全体をカバーするような広い意味で使っていると答えていた。
Tongはキテイ(Kittey)の『愛の労働:女性、平等、依存に関する諸論考』(Love's Labor: Essays on Women, Equality and Dependency)の依存理論をヘルスケアシステムに適用する。キテイの議論は子供の母親への依存をモデルとして平等や労働といった問題について考えるというケアの倫理の新しいバージョンである。本質主義という批判を避けるため、キテイは自分の議論を母性にではなく、依存関係という人間関係に依拠させる。キテイの言うところの「依存労働者」(dependency worker)とは介護労働者などを指すが、依存労働者であること自体が責任を産む。しかしあらゆる人は母親の子供だという意味ではすべて依存者の立場に立ち、それがこの社会の平等性の根拠となる。キテイはさらにロールズの正義の二原理にケアの原理を付け足す。正義の第三の原理は、人はケアの必要に応じてケアを受け取り、ケアする能力に応じてケアを与える、というものである。
ヘルスケアの文脈にキテイの議論を当てはめると、メディケイド(低所得者への公的扶助)に依存する大量の家族が存在する。他方、メディケイドをうけている家族はなかなか医者に見てもらえない。現在の社会では女性が主に依存労働を行っているが、介護は時間のかかる作業であり、両親の介護のために職をはなれ、結果としてメディケイドを受ける立場に陥る女性も多い。これはケアの需要と供給について不正義が存在するということである。
これに対する質問としては、まず、「ロールズ流の生命倫理としてはノーマンダニエルスの試みがあるがうまくいかなかったが、ケアの倫理はどうか」というものがあった。Tong はフィオナ・ロビンソン(Fiona Robinson)の最近の著作でケアの倫理からの動機づけが論じられていると答えた。動機づけという点では感情を重視するケアの倫理は有利である。また、ケアの倫理はグローバルな正義の問題についてどういう立場をとるかという質問があり、Tong の答えは、ケアの倫理において人を動かすのは人々のなまの必要であり、国際的な援助も抽象的な原理に従うことではなく、そうした必要に直面することから始まると答えていた。
このセッションの感想であるが、Penceの発表は遺伝的決定論のような考え方を生命倫理にどこまで持ち込めるかという野心的な問題を掲げたわりには分析として非常に中途半端な印象であった。話題としてはアルコール依存よりもむしろ普通当然自律的だとされているような行為について分析した方が面白かったのではないか。Tongの発表はケア倫理の可能性の追求として興味深いものだったが、ここまで普遍化してしまうと、たとえばヨナスの責任の倫理とほとんど違わなくなってしまうのではないかという印象をうけた。むしろPenceの言うpartialist ethicsとしてのケア倫理の特性を生かすべきなのではないだろうか。

9 倫理の基礎をめぐる諸問題
1"Natural Law and Professional Ethics," Mark H. Dixon, Philosophy & Religion, Ohio Northern University
2"Neuro-ethics, Moral Intelligence, and Professional Practice," Vincent di Norcia, Emeritus Professor of Philosophy, The University of Sudbury
3“The Practical Implications of the Refutation of the Naturalistic Fallacy,” Raymond E. Spier, Emeritus Professor of Science and Engineering Ethics, University of Surrey

Dixonは自然法と専門職倫理について論じた。義務論や功利主義はよく使われるが、自然法はあまり議論されない。しかし自然法を基礎とするなら、意図と帰結の両方が大事である事を自然に説明できる。この発表では自然法理論そのものを擁護はしない。ロックのバージョンは社会契約と自然権の要素を取り込んでいるために専門職倫理に応用が容易である。ロックの理論からは、専門職倫理の社会契約モデルが導きだせる。社会契約はそれぞれの人が権利の一部を差し出すことを要求する。専門職の場合、自律性などの特別な権利を与えられるかわりに一定の義務をおう。一般的義務としては専門職も普通の人々と同じ義務を持つ。特定的な義務としてはいくつかが存在するが、クライアントに対して忠実である義務、公衆に対して危害を与えない義務、環境を破壊しない義務などが専門職に特有な義務として発生する。ロック的な自然権そのものが帰結主義的な要素と義務論的要素を持つので、この路線をとれば専門職倫理にこの両方の要素があることも容易に説明できる。
質問として、社会契約モデルの基礎となる相互関係は本当に存在するのか、専門職の側は社会契約によって自律性を与えてもらえなくても政治力や市場経済で十分それにかわるものを得られるのではないか、という質問があった。それに対して、確かに専門職の政治力が大事なのはまちがいないが、政治力があるからこうした社会契約が成立したのだという答えがあった。また、社会は専門職の活動を法的に制限するという選択肢もあるわけで、その意味でもこの社会契約は現実のものだという答えもあった。また、クライアントのいない、あるいはクライアントとの関係が普通の専門職とまったく違う専門職(たとえば看守や軍人)もあるのではないか、それも同じ義務を持つのか、という質問があった。これに対しては、看守のクライアントは囚人で、確かにちょっと普通のクライアントとは違うがまったくあてはまらないというほどではない、という答え、それから軍人は自分の守る市民をクライアントとしているという答えがなされていた。
di Norcia はニューロエシックスという名の下に、倫理的能力の遺伝的決定論について論じた。di Norcia は道徳的知性について、抽象的形而上学的見解、神経生物学的見解、社会行動的見解の三つを区分する。形而上学的見解はテスト可能ではないという点で問題がある。これに対し、神経生物学的見解はテスト可能である。この立場によると、生物学的脳に倫理性の根拠が存在する。本能的な判断や身体感覚はこれで説明できる。倫理において重要な役割を果たすのはミラーニューロンというニューロンで、これは他の個体の行動をまねるというニューロンである。これが社会化や文化を可能にする。相互性の倫理はこれで説明できる。ミラーニューロンを通して、社会行動的な側面も最終的にニューロンの働きに還元できる。こうした考え方の帰結は、道徳的セラピーや道徳的エンハンスメント(倫理性を高めて「聖人」をつくる)が原理的には可能ということである。
これに対する質問として、まず、ノーマルをどう判断するのか、価値判断を外から持ち込まなくてはいけないのではないか、という質問があり、di Norciaの答えは統計的な意味でのノーマルでしかないということだった(だとすれば「聖人」もノーマルではないからセラビーの対象になってしまいそうだが残念ながら質問する時間がなかった)。また、道徳的聖人をセラビーで作れるというのはそもそも聖人の概念を理解していないのではないか、そうやって外から行動を規制しても単に聖人のように振る舞っているだけにすぎないのではないか、という質問もあった。それについては聖人と聖人のように行動することを区別する意味はないと思うが、あえて区別するなら確かにエンハンスメントで作れるのは聖人のような行動だけだ、ということだった。また、メタ倫理学的自然主義(コーネル実在論)のモデルは経験的にテスト可能だがどう思うか、という質問もあった。これについては、ここで取り上げたものですべてが尽くされるというつもりはないので、別に排除しているわけではないとの答えだった。最後に、脳の機能は非常に複雑だからそんな簡単にセラピーやエンハンスメントができるわけがないというコメントがあり、de Nordiもこれはあくまで原理的な話だと答えていた。
Spier は自然主義的誤謬が誤謬でないと判明し、進化論的倫理が受け入れられたらどうなるか、という発表を行った。そうした社会では倫理は生存への貢献として定義され、倫理的論争はすべて経験的論争に還元できる。社会全体も大きく改変されることになり、宗教も根本的に変わる。では自然主義的誤謬はどうやって処理するのか。Spierによれば哲学は言葉に関するものであり、言葉は道具にすぎない。倫理学も言葉を使うものである。道具である以上、有益な使い方も有害な使い方もある。どうせ言葉を使うなら有益に、すなわち生存に役立つように使おう、というのがSpierの提案である。
この発表に対しては、まず、そもそもどのレベルの生存を考えているのか、個体レベルか遺伝子レベルかグループレベルか、という質問があった。Spierは基本的には個体レベルだと答えていたが、それが遺伝子レベルでの生存という考え方と対立するという認識はないようであった。また、クジャクの尻尾など、生存には役立たない(むしろ有害である)が性選択で選ばれたような形質についてはどう思うか、という質問があり、Spierの答えはそうしたさまざまな選択メカニズムの下で生き延びるという意味での生存なのだということであった。また、ムーアの立場は「べし」を「である」の世界から切り離すことをめざしておらず、最終的には直観によってべしとであるは同一視されるからそもそも問題設定がおかしい、というコメントもあった。これに対する答えは、ムーアはやはり「べし」の理念的世界を想定しているはずだ、というものであった。
このセッションの後半二つの発表は正直なところあまりにナイーブでいたたまれないものがあった。特にSpierはScience and Engineering Ethics の編集責任者の一人だが、こういう人に編集をさせていて大丈夫なのだろうか。最初の発表についてはセッション終了後にDixon と議論をした。医者のような専門職団体は事実上医療の知識を独占しており、彼らが専門職としての特別の責任を引き受けなかったとしても社会は誰か他の人に頼るということもできない。そうした一方的依存関係においては彼らに特別な義務を負わせるような社会契約は成立しないのではないか。これに対してDixonは、社会の望むように専門職がふるまわないなら、彼らが仕事をすることを禁止するという選択肢だってある、と答えたのであるが、実際のところ医者の専門職集団が仕事をするのを禁止して困るのは社会の方である。社会と専門職集団がどうしても仲違いすればそういう選択肢もありうるし、そこに社会契約の成立する余地がある、というところで一応納得して議論を終えた。

10 工学倫理
4日のLunch with authorセッションはMichael Davis のEngineering Ethicsのランチテーブルに参加した。これは工学倫理における基本文献をあつめたものである。工学倫理は非常に多様な人々が参加しており、それぞれが自分の分野の論文を引用するために分野としての基礎文献の集積がなかった。そこでDavisは主要な工学倫理学者にメールを送り、基礎文献を推薦してもらった。その際に同時に出版許可も求めたため、比較的早く出版することができたとのことであった。今後この本が工学倫理研究の基礎教養の役割を果たすことを望むとのことであった。
ランチテーブルではまず、フォードピントの事例が話題になり、技術者がコストベネフィット計算をすることの是非やその範囲が話題となった。ピントの事例についてはそんな計算はしていなかったのではないかとDavisに聞いてみたのだが、いやたしか裁判資料があったはずだ、という答えだった。Davisをはじめランチテーブルの参加者すべてが、技術者は常にコストベネフィット計算をしているし、それは必要なことなのだ、という見解で一致していた。ただ、Davis自身が自分のキャリア選択でコストベネフィット計算をしてみたときに、どういう利益やコストがあるかはっきりわからず、「intangible factor」を計上せざるをえなかったという体験を話した。そうした、「よくわからないけど危なそう」という感覚は当然技術者がコストベネフィット計算をする際にもあるはずである。
そこから技術者の持つ暗黙の知識の話に話題が移行した。Harrisがボイジョリーと話したときにヴォーンの本をどう思うかという話になり、ボイジョリーは「ヴォーンは技術者の仕事がどういうものかまるで分かっていない」と言っていたという。Harrisの印象では、ボイジョリーが言いたかったのは、技術者が明確なデータに基づいて仕事をするのが当たり前だとヴォーンが考え、NASAの行動をその観点から合理的なものと見なしてしまっているというところではないかということであった。実際にはよき技術者の文化にはデータでとらえられない暗黙の知識を尊重するという側面があるはずで、NASAのデータ第一主義はむしろ例外的で逸脱したものなのではないか、というのがHarris の観察であり、DavisやHerkertもこれに同意していた。
その他、ランチテーブルの参加者の一人がカリフォルニア大学リバーデールで工学倫理教育をしているが学生の質が低くてなかなか大変だという話をしていた。しかしそういう大学でも工学部の学生の地位は高く、それが専門職倫理を教える上でのてこになっている。それに対して、日本では工学系よりも文系の方が生涯賃金が高いという統計があるのだ、という話をしたところ、日本とアメリカで技術者の仕事にそんなに差はないのに、それは非常に妙だという反応であった。

11 日本での工学倫理教育
Teaching Engineering Ethics in Japan
1. "Teaching Engineering Ethics in Japan: The Challenge of Kanazawa Institute of Technology," Hidekazu Kanemitsu, Humanities and Social Sciences Program, Kanazawa Institute of Technology
2. "How To Assess Students' Development of Their Ethical Sense: A Japanese Case," Kojiro Honda, Applied Ethics Center for Engineering and Science, Kanazawa Institute of Technology
3. "Introducing E-Learning Method into University-Wide Engineering Ethics Education: A Case of Kanazawa Institute of Technology, Japan," Fumihiko Tochinai, Humanities and Social Sciences Program, Kanazawa Institute of Technology

4日の午後最初の枠は、金沢工業大学(KIT)のチームによる工学倫理教育の取り組みの紹介のセッションに参加した。まず栃内により発表者のバックグラウンド、センターの紹介などがなされ、日本における工学倫理教育の現状についての簡単な紹介が行われた。エシックスクロスロード、アジア的価値を考慮にいれたグローバルな倫理綱領の提案などの紹介もあった。
金光は日本の大学で工学倫理を教える上で問題となることについて論じた。JABEEの認証をうけた機関の中で76.1%が工学倫理の授業を開設している。(逆にいえば、工学倫理の授業を開いていないのに認証を受けている機関も20%あるということになる。)KITはこの中で最前線であるが、5人のスタッフで1700人の学生をどうやって教育するかという問題をかかえている。特に金光が論じたのは、日本にない「専門職」や「持続可能性」の概念をどうやって教えるかという問題である。これはアジア的な価値を科学技術倫理教育に取り込むことで解決が見えてくる。たとえば専門職という概念は日本にはなく、JABEEの基準でも専門職という概念は使われていない。しかし「武士道」はもしかしたら専門職倫理にかわるものとして使えるかもしれない。「持続可能性」のかわりに「もったいない」の精神を教えることも可能性として考えられる(これは単にものを捨てないというだけでなく、ものの背景にある歴史を尊重するということもふくむ)。また、インサイダーとアウトサイダーの区別を中心としたグループ思考のメンタリティもアジア的価値を特徴づける。倫理観について調査をしたところ何が善で何が悪かは完全に状況に依存するという考え方は日本や韓国で強く、アメリカや中国では少ない。しかし、類似性をベースとしてグローバルな倫理綱領を作る事は可能かもしれない。
本田は学生の倫理感覚(ethical sense)をどうやって測るかという問題について論じた。基本的な発想はPDCAサイクルである。最初の目標として、八項目にわたる教育目標を立てた(影響、関係、倫理、責任、ジレンマ、解決、倫理綱領等)。教育のイメージとしては、知識と疑似経験の組み合わせというモデルを採用した。知識として必要なのは実践的三段論法の大前提となる原理についての知識と、小前提となる具体的な状況についての知識である。方法論としてはDavis のseven-step guideを使う。評価も教育される三つの知識に対応する。原理については倫理原則の知識、状況についてはマクロな状況はメソレベルの状況についての知識をテストする。方法論についての知識は事例分析レポートを提出させる。レポートの評価の道具としてはShuman のPittsburgh-Maine engineering ethics assessment Rubric を使う。これは五つの側面での能力をいくつかの段階で評価する。
栃内は全学的な工学倫理教育におけるe-learningの導入について論じた。5人で1700人を教えるうえで、どのように評価するかが大きな問題となる。単に全員の評価をすることがむずかしいというだけでなく、客観的に評価するにはどうすればいいかという問題がある。これがe-learningシステムAGORAを導入する理由である。AGORAはオランダの三つの大学で開発された工学倫理教育ツールである。オランダでは法律で工学倫理教育が義務づけられており、今のKITと同じく少数の教師で大量の学生を教育するという問題を抱えている。AGORAにはいくつかの利点があるが、なかでもセブンステップガイドににたステップバイステップのアプローチをとるところがKITの倫理教育の方針とよく一致する。KITではAGORAを日本語に直し、インターフェースを改良した改良版を開発している。事例も日本のものでしかもそれぞれの学科にあったものを今後充実させていく予定である。ただ、どうやって不正をふせぐかという問題もあり、今のところ成績評価には使えないという判断だということであった。
会場からの質問であるが、まず、AGORAはフリーなのかライセンス料を払うのかという質問があり、ライセンス料は払うがまだ値段は交渉中だとのことであった。また、AGORAを成績評価に使わないならそもそもの1700人の評価という問題の助けにはならないのではないかという質問もあった。これはかなり返答に困っていたようであったが、とりあえずAGORAを使ったということ自体を評価に加えるという答えであった(それでは不正の問題が避けられないとは思うが)。学生の不正については、そもそもアジア的価値観の中には先生の言う事を丸写しするのがよいという考え方があり、盗作という考え方はなじまないのだという意見も出ていた。ただこれについては、丸写しするにしても引用元の表示はできるし、しないなら先生を尊重したことにはならない、という意見や、日本の学生はちゃんとした研究倫理の教育をうけていないから知らないだけなのだ、という意見などもでていた。
また、アジア的価値として集団性を大事にするといいながら、AGORAは非常に個人主義的な作りになっていて、かえって教育目標とそれてしまっているのではないか、という疑問も出ていた(これはコンピュータ倫理的な問題としてなかなか面白い論点だと感じた)。これについては、AGORAにはさまざまなコミュニケーションツールが充実しているので集団性を損なうことにはならないという回答であった。もう一つ、そもそもこういう授業で本当に倫理が身に付くのか、ドストエフスキーでも読ませた方がよほどいいのではないか、という質問もあった。それに対しては、これはあくまでカリキュラム全体の一部にすぎず、たとえば倫理についてもEACで他の授業で具体例にそった教育がなされることになっている、という答えだった(質問の趣旨は、そもそも倫理教育でテクニックを教えるという考え方自体への反発だったと思われるが、そこに対する回答はなかった)。
アジア的価値をめぐっても盛んな討論がなされた。Carl Becker からは、AGORAの中にアジア的価値があまり登場しないがもっとアジア的にすべきではないか、特に西田幾多郎や二宮尊徳などの哲学を取り込むべきではないかという質問があった。これは確かに可能性として考えられるという回答だった。また、個別の価値を取り込むだけでなく、義務論や功利主義と並立するようなレベルで日本的な倫理を組み込めないかという質問もあった。
逆に、アジア的価値を組み込むことでたとえば技術者倫理やグローバルな倫理綱領は具体的にどう変わるのか、という質問がHarrisからあった。これは今研究しているところなので答えようが無い、というのが答えであったが、医療倫理ではすでに患者の持つ価値観や文化的背景に配慮することが倫理綱領などに組み込まれているという話も紹介されていた。また、そもそもアジア的価値を保存することに意味があるのか、たとえばグループ思考はむしろ技術者を無責任にし事故の原因となってきたのではないか、という質問があった。これに対して、Harrisが、集団的責任論においては個人がグループにおいて果たす役割に応じて個人が責任を負うというような議論がなされており、けっして無責任態勢を産むわけではない、と答えていた。また、「もったいない」については日本だけではなくアメリカの技術者倫理でも教えた方がいいのではないかという意見もあった。
英語のたどたどしい部分もあり、また、スライドでfairがfareと書かれているなど、見ていてはらはらするところもあったが、全般に非常によく組織されたセッションで、また刺激的な話題提供をすることにも成功していたように思う。ただ、教育実践の報告でありながら、肝心の全学倫理教育がまだ始まっておらず、しかもその核となるAGORAが自前のソフトではないなど、羊頭狗肉な印象を与える部分もあった。

12 慈善をめぐる倫理問題
Ethical Issues in Philanthropy
1. "Moral Issues and Motivations in Medical Philanthropy by Physicians"
Byron C. Bangert, Poynter Center for the Study of Ethics and American Institutions, Indiana University
2. "Why Don't They Love Us?: Using Ethics and Accountability as a Way to Ensure Public Support," Edward L. Queen, Center for Ethics, Emory University

Bangertは医療専門職および医学生に対するin-depth interviewの結果を報告した。質問は特に慈善的な活動に参加する動機についてだった。調査結果は多岐にわたる。まず、医療の道を志した理由として両親の影響を挙げた回答者が多かった。人を助けたいという欲求も医療に従事する理由としてもっとも多く挙げられた。宗教的な理由も挙げられる。これらの理由は慈善的な医療活動(たとえば海外への医療ボランティア)に参加する理由としても挙げられた。慈善活動については、さらに、能力の感覚と必要の認知も挙げられた。つまり、自分の能力をより意義深いやり方で使いたいという欲求、ルーティーンな仕事では自分の能力が100%生かせていないという感覚などが慈善活動への参加を後押ししている。その意味では実は慈善活動には利己的な動機もかなり強い。慈善活動の影響としては、一旦そうした活動をすると、彼らは多様な患者を相手にしていることに気づき、そうした出会いが人間として自分にとって利益があったと考えるようになる。外国に援助に行く事によって、政府の政策に批判的になったという回答もあった。
これについては、代表性がかけているので一般化には気をつけた方がいいというコメントがあった。また、医者としての勤務の長さによってなにか変化はあったかという質問があったが、それを気にかけたことがなかった、という答えであった。
Queenは慈善的基金に対する批判とそれに対する基金の側の応答について発表した。慈善的基金はあまり必要ではないが無害だとみなされてきた。しかし近年になってさまざまな基金の不祥事が発覚し、基金に対して外部からの認証を行うという圧力がかかるようになってきた。基金の側も倫理綱領を作ることでそれに答えてきた。一つの事例はミネソタグラントメーカーズ(Minnesota Grantmakers)という、基金をメンバーとする団体である。
これについての質疑応答には参加しなかった。

13 概評
報告者が参加したセッションは以上である。このあとソーシャルワークについてのミニコンファレンスが行われたがそれには参加しなかった。
本年度も興味深いセッションが多くあり、有意義な情報を多く得る事ができた。現在のわたしの研究課題と直接かかわる専門職倫理の動機づけや専門職倫理における徳倫理的アプローチに関する発表やセッションが複数あったことは、この研究課題の問題意識が共有されていることを示すとも考えられる。しかし日本の技術者の地位の高さや技術者倫理教育の現状はアメリカの現状と大きくはなれており、アメリカでの議論をそのまま利用することはできないと感じた。たとえばアメリカで技術者倫理の動機づけとして広く利用されている社会的契約モデルは技術者の地位の高さの裏付けがあってはじめて意味をなすということがDixonやDavisとのディスカッションの中で再確認できた。やはり日本の技術者倫理教育における動機づけの研究は重要な課題だと言ってよいだろう。

本報告書は、平成 17年度科学研究費補助金(基盤C)「誇りをベースとした技術者倫理教育手法の基礎研究および開発」の助成をうけた研究の一環として執筆されたものである。)