実践・専門職倫理学会(APPE)年次総会報告
伊勢田哲治(名古屋大学)
2003年2月27日から3月2日にかけて実践・専門職倫理学会(Association for Practical and Professional Ethics)の年次総会がアメリカノースカロライナ州シャーロットで開かれた。会場はノースカロライナ大学シャーロット校に近いヒルトンホテルで、周囲には何もなく、非常に集中した雰囲気での会合が行われた。登録参加者は300人を越し、応用倫理関係の学会では質・量とも最大規模ではないかと思われる。以下、どのようなセッションが行われたかについて報告するが、その前にいくつか断っておく。この学会では非常に多くの並行セッションが行われるため、私が参加できたのはほんの一部にすぎず、また、わたしの関心にそって参加するセッションを選んだため、内容的に偏った部分がある。全体的なプログラムについてはAPPEのホームページ(http://php.ucs.indiana.edu/~appe/home.html)を参照してほしい。また、口頭での発表や質疑をまとめたものであるので、聞き落とした部分、不正確な部分も多いかと思われる。そうした可能性を念頭に置きながら読んでいただければ幸いである。
倫理選手権大会
初日(27日)には、朝から夜遅くまで第9回Intercollegiate Ethics Bowlが開かれた。これは、学部生による大学対抗の倫理選手権大会で、全米から40校が参加して行われた。参加チームは1対1で対戦し、与えられた事例についての回答と相手チームの回答に対する批判に審判がつけた得点を総合して勝敗を判定する。各チームには事前に15の事例が与えられているが、事例に基づく質問自体は対戦の場で司会によって出される。
私が観戦したのは決勝の海軍士官学校とインディアナ大学の対戦で、海軍士官学校チームに対しては水質汚染拡大の原因となるプレーリードッグを駆除するという決定は倫理的かという質問、インディアナ大学チームには中国にわたって囚人の臓器の移植を受けるアメリカ人に関してどういうガイドラインを作るべきかという質問がなされた。特に海軍士官学校チームの回答は功利主義や徳理論の道具立てを用いた堂々たるもので、決勝の勝者も海軍士官学校チームであった。
観戦してみて、あまりに競技性が高いためにこれで本当に倫理教育ができるのだろうかという印象をもった。あとでオーガナイザーのRobert Ladensonと話す機会があったのでその点について質してみたところ、競技の部分はたんなる動機付けであり、教育的に一番重要なのは準備する過程でチームの他のメンバーと話し、いろいろな見方があることを学ぶところにある、参加学生のアンケートもそれを裏付けている、とのことだった。
エシックスセンター
初日の午後はエシックスセンターコロキアムが開かれた。「優れたエシックスセンターの指標(benchmark)」と題する最初のセッションの目標は非常に具体的で、ここでの議論をふまえて最終的にはエシックスセンターの評価ガイドラインを作ることになっているようである。このセッションでは、12組の提題者がそれぞれ10分程度発表した。予定では40分ほどディスカッションの時間を持つことになっていたが、提題が長くなったために質疑の時間はなかった。
最初のセッションの前半はセンターのミッション、プログラム、資金などについて優れたものをつくる方法、評価の視点などが話題となった。Palmer-Fernandezはmission statementは何を(目的)どうやって(手段)なぜ(価値観)やるのかという三つを基本要素としていると分析し、エシックスセンターの持つべきmission statementについて実例を挙げながら考察する。大事なのはできもしないことをmissionとして掲げないことである。Hinmanは自身のサンディエゴ大学でのEthics accross Curriculumの取り組みを例にプログラム構成の評価について論じた。この大学ではキャロル・ギリガンら有名なスピーカーを呼ぶなどしてワークショップに教員を集める努力をしている。彼はまた地域の病院や教会の倫理プロフェッショナルのつながりを作るプログラムやインターネットの利用についても報告した。Marencoはパシフィック大学での取り組みをもとに、資金を得ることのできるよいプログラムはどういうものかということについて論じた。基本的には、かれが強調するのは外部とのつながりを持つこと、継続的な取り組みにより信頼関係を築くこと、である。パシフィック大学は遺伝学と安全保障に強い大学なので、これらをめぐる倫理問題について、市民を対象とした講座を継続的に行い、その取り組みが評価されて資金をうけている。
Greenは資金力のあるセンターをくつるにはどうするか、というテーマについて、フォーダム大学のロースクールでの経験をもとに述べた。彼の結論は、結局はよいミッション、よいプログラムを持つこと、そして人的資源の重要性である。Meyersはほとんど自分一人で運営している非常に小さいエシックスセンターの経営について述べた。そうしたセンターが資金を得るためには、地域の人々と個人的関係を築くこと、地域のビジネスコミュニティにとってためになる活動をすることが大事である。結果として、彼はセンターの主要な目的を地域コミュニティへの奉仕とすることになった。大事なのは、若手ではなく地域との絆をすでに持っている年輩の教員にセンター長を任せること、リスクを恐れないことである。Wilcoxはmission statementはセンターの運営についえ考えなければならない多くの問題について答えた結果を要約したものであり、その意味で氷山の一角のようなものだと言う。
最初のセッションの後半は協力、board、スタッフを優れたものにする手法、評価の視点などが話題となった。DonovanとGreenはダートマスカレッジでのさまざまな教員の協力をえる取り組みについて報告した。彼らはまた、ヒトゲノム計画の倫理問題について研究する全国的な研究グループの活動についても報告した。Kellerはexecutive committeeに仕事を分散することによってセンター長である自分が何もかもやる必要のない体勢を作っていることを報告した。彼のユタ=ヴァレー州立大学はEthics accross Culliculumを実践しているが、教員教育は各学科が自主的に行っている。
Ozarはシカゴのロヨラ大学のエシックスセンターのadvisory boardについて報告した。これは企業や地域との接点となる人々をboardとしたものである。このメンバーはアドバイスを与えたりスピーカーとして話しをしたりするだけでなく、年間3000ドルの資金を見つけてくるという責任を持っている。(慈善団体ではboardがそうした責任を持つのは普通だとのことである。)Munzelはキングズカレッジでの経験に基づき、より一般的なadvisory boardについて論じた。boardの構成・役割はセンターのmissionと密接に結びついていなくてはならない。また、boardはきちんとした手続きに従うのが大事である。
DuBoisはセントルイス大学のヘルスケアエシックスセンターについて報告した。このセンターは途中から大学院を持つようになり、その結果スタッフをほぼ全員入れ替えることになった。mission に見合ったスタッフを雇うことが大事である。また、できないことはできないと断ることで、missionを達成するのに必要な時間を確保することが大事である。グラントを取る際も、missionに見合ったグラントを取る必要がある。Smithはインディアナ大学のエシックス研究センターでの経験に基づいて、よいスタッフについていくつかのコメントをした。最も大事なのはセンター長(director)の人選であるが、かならずしもよい研究者がよいセンター長になるわけではない。次に、エシックスセンターのスタッフは悪く言えば日和見主義的、よくいえば柔軟でなくてはならない。第三に、スタッフとしての大学院生、学部生の貢献は非常に重要である。また、センターに対して長期的なコミットメントを持たないスタッフにリーダーシップをとってもらうこと、定期的にレビューをおこなうことも大事である。
応用倫理大学院プログラム
初日午後二つ目のセッションは「実践・専門職倫理における大学院プログラムの開発」という題で、既に存在するそうしたプログラムのディレクターから、これからそうしたプログラムを作ろうとしている大学へのアドバイスを提供する、という趣旨であった。
Parsiはロヨラ大学の生命倫理・ヘルスポリシー大学院のディレクターとしての経験を報告した。ここでは対面式の授業はあまり行っておらず、オンラインで授業を行っている。学生は看護師、法律家、メディカルスクールの学生などである。ジェスイット会の援助などを受けている。こうしたプログラムで大事なのは教員のコミットメントである。
Campbellによると、オレゴン州立大学では「倫理・科学・環境」プログラムが宗教学科と哲学科の共同で運営されている。こうしたプログラムの運営で大事なのは教員のコミットメントのほか、学科の支援、金銭的・人的資源についてのレビューなどである。
Waltonはネバダ大学の倫理・政策研究プログラムについて報告した。このプログラムの卒業生の研究課題は、ケア、核廃棄物、陪審、インフォームド・コンセントなど多岐にわたり、テーマに応じてコミッティーも非常に学際的である。
Thompsonはテキサスのセントエドワーズ大学の「倫理とリーダーシップ」プログラムについて報告した。このプログラムは修士レベルのプログラムであり、授業の半分は組織論、半分は倫理に関するもので、効果的でかつ倫理的な組織を作るためにはどうしたらいいかを教えることを目的とする。
Elliotはモンタナ大学の実践倫理プログラムの取り組みについて述べた。もともとは社会人を対象として修士レベルで修了する学生を対象に想定していたが、学生の多くはその後哲学、ジャーナリズムなどの博士プログラムに進んでいる。また、教室での授業に限らず、地元企業、ラジオなどと協力した教育も行っている。
Baumはフロリダ大学の応用哲学のプログラムについて報告した。このプログラムは哲学科の一部である。これによって卒業生に通常の教育に対する付加価値として応用哲学のクオリフィケーションを与えることになり、就職にも非常に有利になっている。彼がディレクターをする応用哲学倫理センターは二つの学際的ジャーナルを発行しており、これも大学院生がさまざまな専門職に共通する倫理問題について理解する助けとなっている。
会場からの質問として、これらのプログラムの資金はどうなっているのか、大学が安定した資金をくれるのか外部資金に頼っているのか、という質問がでた。基本的には大学から資金が出るが、場合によって外部資金を得ることもあるし、資金を提供してくれる人もちゃんといる、というのが全般的な回答であった。次に、司会のEliottからの問題提起として、オンラインのプログラムについてのディスカッションがなされた。実際にそうしたプログラムを運営しているParsiが回答にまわったが、それによると、彼のプログラムは、オンラインであるというほかは、学期の構成、授業料など、伝統的な対面式授業と一緒である。また、Baumからのコメントとして、70年代にはテレコンファレンスの導入で生の会議は行われなくなるのではないかという予想があったが、まったくそうならなかった、という観察が提供された。社会人を対象とする際にどういうレベルの哲学教育をするかどうやって決めるのか、という質問が出された。パネルからの回答としては、基本的なレベルではあるが、勉強にくる社会人学生は非常にモチベーションが高いということを軽視してはならない、という答えであった。
監督者の倫理
二日目(28日)にはまず、Dennis Thompsonによる「不信を回復する:監督者の倫理」と題する基調講演が行われた。他人が正しく行為するように監督する立場の者はどのように行為するべきか。エンロンの事件では、エンロンは倫理綱領をもち、よい倫理教育プログラムを持っていたにもかかわらず不祥事を起こしてしまった。倫理綱領と倫理教育はもちろん必要だが、それだけで不祥事をさけることはできない。企業や政府の不祥事が明らかになるたびに「信頼を回復する」ことの重要性が主張されるが、大事なのは監督者が部下を信頼しすぎないことであり、むしろ大事なのは系統的な「不信を回復する」ことである。監督者の仕事は違反者の個人的な悪徳に原因を帰したり儀式的に部下の責任を自分で引き受けると宣言することではなく、機構上の変更を行うことである。その際に気をつけるべきことは、独立性(不要な強制をさけること)知識(十分な情報を得ること)公開性(公開された正当化を行うこと)である。会場からの質問として、監督者のもつ強制力についてどう考えるかという問題が提起された。Thompsonは監督者の権力はもっぱら機構を設計するところでふるわれると考えている、と答えた。
反省的均衡
午前の二つ目は、並行セッションのうち、Charles E. Harrisの「応用倫理における作業理論としての反省的均衡」という発表に出席した。反省的均衡は道徳判断の評価の手法として広く受け入れられているが、ロールズやダニエルスの挙げる要素だけでは、実践倫理の役に立たない。反省的に均衡状態にもたらされるべき要素は、科学的信念、神学的信念、経済・法的背景状況をふくむ。Harrisが挙げる例では、有罪宣告に自白が必要だった証拠法のもとでは拷問が不可欠だったのに対し、証拠法という法的背景状況が変わったために拷問についての道徳的判断も変化した。ある行為が行われる典型的状況(パラダイム)が道徳判断には重要である。ドゥポールやヌスバウムは新しい経験や共感の反省的均衡における役割を強調しており、Harrisもそれに同意する。
イスラムの女性の扱いについてどう思うかという会場からの質問に対し、Harrisは新しい経験の重要性をもう一度強調し、もしイスラム教徒が事実をよく見るならばそれとイスラムの女性の扱いが不調和を起こす可能性が想像できる、と答えた。ただし、Harrisは均衡点が一つに決まるとも考えておらず、その意味では道徳的複数主義を認めている。司会のAlpernからは、反省的均衡の目的は道徳的真理を見つけることなのか調和的な生活を送ることなのか、という質問、および、関連する論点として、幼児体験などに基づく感情と道徳判断がまったく食い違うことはありうるのではないか(つまり調和は必ずしも重要ではないのではないか)という質問がでた。Harrisは、ヘアを引きつつ、自分は真理ではなく合理的な道徳判断を下すことに興味があるのだ、と答えた。
組織倫理
午前の三つ目は、並行セッションのうち、HamiltonとWinesの「箱について考える:法的・倫理的行いを促すための組織再設計」の発表に出席した。彼らはまず、社会の企業に対する期待が変化し、倫理的な行為が求められていることを指摘する。企業人は基本的に善良な人々であるにもかかわらずまちがった行為をしてしまうわけだが、そう仕向けるのは一つには組織の構成である。具体的にはさまざまな目標の間で優先順位がはっきりしないこと、会社の方針とそれを実行するレベルが切り離されていること、軍隊式の指揮系統などが組織上の問題として指摘される。彼らの分析するもう一つの要素は会社で成功するための法則である。上司や同僚の目を気にすること、波風を立てないこと、いやな仕事でもとにかくこなすこと、などが成功の法則として挙げられる(これは日本企業の特徴かと思っていたが、アメリカの企業でもそうした法則が強調されるというのは意外であった)。これらの要因が変わらない限り倫理的行動が広まるのは難しい。また、組織の心理的影響についてはスタンフォードの囚人実験などを引用することができる。HamiltonとWinesは、再設計をどう進めればよいかについてはあまり具体的な提案は行わなかった。
専門職倫理
二日目の午後最初の時間帯はGibsonの「役割道徳と専門職道徳の比較」と題する発表をきいた。被雇用者としての役割道徳が雇用者の意図に従うことであるのと類比的に、専門職道徳は倫理綱領に従う。前者が公共の善と対立しうるのと同様、後者についても、綱領に従っているが不道徳な行為や倫理綱領を破る道徳的な行為がありうる。そういう際に常に綱領に従うべきだというのは、主人には常に従うべきだというのと大して違わず、正当化できない。この点では倫理綱領と普通の役割道徳(下僕が主人に対して持つ責任など)の間の関係は程度の差にすぎない。結論として、道徳はコンパートメント化できるものではなく、倫理綱領も倫理的な行為決定の上で考慮すべきさまざまなことの一つにすぎない、とGibsonは言う。その後の討論では、もう少し具体的に守秘義務は破られてもよい場合があるかどうかが問題となり、さまざまな立場からの発言がなされた。
道徳教育と感情
午後二つ目の時間帯は「倫理教育における感情の役割」と題するセッションに参加した。提題者三人が短い発表をしたあと、全体での討論にかなりの時間を割く形式がとられた。Bracciは倫理的配慮の輪を広げていく際のcompassion(共感)の役割について述べ、「自分が相手の立場になることがありうるかどうか」という可能性の有無が共感の働きにとって重要であると分析した。
Elliottはアリストテレスやギリガンを引用しつつ、合理的な思考と感情を統合することが倫理教育において重要であるということを強調した。
Ramseyはoutrage(憤激)やrevultion(不快感)の倫理教育における役割について論じた。以前は憤激は道徳的感受性と同一視され、ある種のものへの憤激を身につけさせることが倫理教育の目的であるかのような観があったが、そうした感情の曖昧さからいっても暴力性からいってもこれは望ましい教育方針ではない。Ramseyの考えでは、むしろそうした感情が文脈依存的であり絶対的な指針とはならないことをこそ倫理教育で教えるべきである。
全体での討論では、compassion とempathy(相手の立場を理解する認知能力)の関係や、合理的推論と感情のあるべき関係などについてさまざまな意見がだされた。また、道徳的感情を引き起こす手段として映画を見せるという手法が紹介され、それでも何も感じない学生はいるがどうしたものか、といった具体的な問題についても若干の議論がなされた。
工学倫理教育教材
三日目(1日)午前最初は「モラレスの事故」(Incident in Morales)という工学倫理教育用ビデオの上映会に参加した。これはテキサス工科大学に本拠をおくNIEE(National Institute of Engineering Ethics)が開発中のもので、あと一ヶ月ほどで発売の準備が整うとのことであった。ビデオプレゼンテーションの前に、NIEEのSmith、Loui、Weilがビデオの目標と使い方を説明した。これは「ギルベインゴールド」と同じく、学生の討論を誘発するように組み立てられた創作事例である。全体は36分で、12分と24分のところで討論のための時間がとられ、質問が提示される。ストーリーとしては、ペンキをはがす溶剤のプラントを作るよう雇われた技術者が、予算カットや計画の変更などで妥協を繰りかえした結果プラントの事故を起こしてしまう。その過程で前の雇用者に対する守秘義務、会社での上司との関係の問題なども織り込まれている。上映後の討論で、司会のP. A.Vesilindから、このストーリーのどこに非倫理性があるのかはっきりしない、というコメントがなされ、他の参加者から、リーズナブルな判断の積み重ねがある地点でリーズナブルでなくなってしまう点が問題ではないか、等いくつかの示唆がなされた。Weilの答えは、誰かを悪人にして片づけてしまわないのがまさにこのストーリーの意図であり、ちょうどここでなされたような討論が学生の討論で出てくることを期待しているとのことであった。
科学倫理とビジネスエシックス
次の平行セッションでは「科学とビジネスにおける倫理性」に参加した。司会のDavid Resnik によれば、このセッションの目的は、科学共同体は科学のスキャンダルに対して十分に反応してきたか、ビジネス界のスキャンダルへの反応から学ぶべきことはないか、ということを考えることである。
まず、Michael Davisは「違うものは協調の中からあらわれる」というヘラクレイトスの言葉を引きながら、科学がビジネスから学ぶべきものについて論じた。まず、情報の流れを確保することが重要で、そのためにはいろいろなチャンネルを開いておくことが大事である。倫理的な行動はみんなが協調することからよりも緊張関係からこそ産まれる。科学者が研究グループを作る上でも共同体を作るよりも緊張関係を作ることが大事。
Deni Elliott は秘密性が倫理行動に与える影響について述べた。彼女は社会的に責任のあるビジネス(利益を追求するかたわら社会に貢献する)と社会的に卓越したビジネス(利益を社会的目標を達成するための道具とする)を区別した(ちなみに、後者の例として北海道のKSTという住宅会社が挙げられた)。後者は理想だが、理想的ビジネスについて語ることの重要性を強調した。不祥事については公開性には負の側面もある(シニカルな考え方を広めてしまう)利点の方が大きい。
Fred Grinmellは研究倫理の教科書を最近編集した経験から、研究倫理の重点が変わってきていることを指摘した。かつてはmisconductをさけることが研究倫理の中心だったが、今回の教科書の重点はintegrityにある。一つにはこれはnegativeな思考からpositiveな思考への変化である。また、misconductはあまりおきないし、それにエネルギーを割くのは割に合わないという印象を与えやすい。これに対しintegrityは日々の研究に関わってくる。発表するデータを選択する際にはでっちあげと創造的洞察の区別は明確ではない。ミリカンの例は有名である。またフランソワ・ジェイコブやメダワーが指摘するように論文は起きたことを起きた通りに記述するわけではない。つまり、科学の日常の行いのなかに倫理的に曖昧な部分があり、そこでintegrity が必要になってくる。研究者個人のintegrityだけでなく、研究機関にとってintegrity自体が一種のoutcomeであるという考え方を取る必要もあるだろう。外部環境からの圧力として、倫理的impact factorのような考え方を導入することもできるだろう。
Patricia Warhaneは企業の不祥事と自分の研究の帰結を考えない科学者(彼女の使う例は原爆の開発)の間に並行関係を見いだす。企業の場合、なぜ不祥事は起きるのか、企業の倫理教育が悪いせいか、「悪いリンゴ」のせいだろうか?エンロンの事例などを考えるならこれらだけでは説明にはならず、彼女は三つの要因を挙げる。「ビジネスだから」という形で道徳の領域から切り離してしまうこと(分離テーゼ)、企業の従業員としての役割道徳、そして自分の仕事によって影響をうける実際の人々を忘れること、の三つである。科学の場合にも、純粋に科学をやっているだけだから、という形で分離が成立してしまう。企業の場合、問題の解決としては、企業理念と他の部分の統一性、企業内の部署の統一性をたかめることなどが挙げられる。
後の討論ではethics officer の果たすべき役割などが論じられた。DavisからGrinmellへのコメントとして、professionalismやintegrityという言葉はethicsにくらべて曖昧で緊張を産みにくく、まさにその曖昧さのために使われる傾向がある、という点が指摘された。
神経倫理
三日目の午後の最初は「神経倫理」(Neuroethics)のセッションに参加した。これは神経科学の倫理・法律・社会的含意(ELSI)について考えるための分野として最近立ち上げられたもので、2002年の5月に神経倫理の大きな会合を開いたとのことである。Birdは神経倫理の問題の分類について論じた。神経倫理の問題としては大きく分けて実践、応用、含意の三つの領域があり、人間の脳という特殊な研究対象を扱うことにまつわる問題が生じる。実践ではバイアスのかかった研究デザインが問題となり、CAHによってテストステロンの分泌量が多くなった女児を対象とした研究(60年代)などが例としてあげられた。含意としては神経科学の研究が自己認識や他者への認識を変えてしまうほか、責任についての考え方への影響なども指摘された。
IllesはfMRIを使ったイメージングの倫理問題について論じた。fMRIは非侵襲的で秒単位の画像が得られるという点でPETよりも優れている。3000本の論文を対象とした彼女のサーベイによれば、この10年でfMRIを使った論文は増えてきており、その内容も最初は知覚を対象としていたのが、だんだん高次の認知能力や感情を研究対象とするようになってきている。臨床的な利用も増え、レビュー論文のテーマも臨床的なものが多い。IllesはこうしたfMRIの利用の傾向が産む倫理問題について、解釈、翻訳、公表の三つの分けて論じた。解釈の問題とは、たとえばあるグループの中で一人だけ異常な活性化パターンがあったときに、それをどう解釈するか、本人に同伝えるか(特に臨床の場面で)というような問題である。翻訳の問題とは、遺伝研究と同じような形で優生学的な利用法がされるのではないかという心配などである。公表の問題とは、fMRIのデータの法廷における責任ある使用法はいかなるものか、というような問題である。
このセッション最後のスピーカーはLeichtmanで、記憶を巡る研究について報告した。6歳くらいまでの子供の記憶は周囲の示唆などで大きな影響をうけることが知られているが、最近の研究では、単に繰り返し想像するだけでも事実との混同がおきるなど、記憶のmalleability(柔軟性)が予想以上に大きいことがわかってきた。母親との会話のパターンも、子供の記憶に影響を与える。問題はこうしたデータを得るために被験者となる子供の記憶を操作しているという点であり、会場からもそれについて質問が出た。Leichtmanの説明によれば、こうした実験は子供たちの日常生活で日々進行している記憶操作に比べれば非常にマイルドな操作であり、また、できるだけ子供にとって害にならないような形での操作をおこなっているとのことであった。さらに言えば、こうした知見は、法廷での子供への質問の仕方に配慮するといった形で利用できるので、結局は子供たちのためになっているというのがLeichtmanの考えであった。
専門職倫理
午後二つめは「専門職倫理」のセッションに参加した。EganとParsiは医学と法律の専門職倫理教育の違いを比較し、両方のよいところを組み合わせるべきだと論じた。法律では医学に比べ、倫理綱領の強制力が強いため、フォーマルな倫理教育の標準化がすすみ、倫理綱領の習得に重点がおかれる。しかし学生の観点からすると、試験に通るための授業としての認識がつよい。これに対し、医学教育では法律教育にくらべ、教育者自身が臨床医であることがおおいので、そこからのインフォーマルな倫理教育の影響が(良くも悪くも)つよい。彼らは法律教育にもっと柔軟性を導入し、医学倫理教育にもっと強制力を導入することを提言する。会場からの質問として、法律家倫理では倫理綱領は刑法とは違う解釈のされかたをされるはずなのにロースクールでは刑法のように教えられているのではないか、という問題提起がなされ、発表者もそれがもんだいだということに同意した。
Zinaichはアリストテレス流の徳倫理をビジネスエシックスに導入するデジャーデンの努力について考察した。アリストテレスの徳は機能に基づいて定義され、機能はテロスによって定義される。しかしアリストテレスの考えるような普遍的なテロスはないため、テロスの設定は恣意的にならざるをえない。したがって徳倫理をビジネスエシックスに使う努力は不毛である、と彼は結論する。
Monsonは企業の社会責任とリーダーシップについて論じた。ビジネス倫理の授業は倫理教育として不十分だとされているが、ほかの授業に倫理の要素を組み込むのも難しい。ここで大事なのは、倫理教育の成果の評価方法を確立することである。道徳教育について彼女のとるのは新コールバーグ主義の理論で、発達段階のかわりに道徳的スキームとレンズに基づくプロセスモデル(Rest 1986)である。評価手法として、彼女は、MBAの学生のリーダーシップについてのエッセイの内容分析の手法を紹介する。彼女の分析図式は主にどういうインパクトを想定するか(社会的かビジネス上か)、どういうリーダーシップをとるか(社会的・感情的な面を重視するか、ビジネスライクに行くか)に焦点をおく。
研究者の責任
三日目は夜の部として、「科学と工学の研究における責任」というセッションがおこなわれた。まず、Michelle Hollanderはギルバート、ラッド、リチャードソンらの議論を援用しつつ、集団的責任の観点から科学者・工学者の責任を論じた。集団的行為者性についてはギルバートのjoint commitmentの分析が参考になる。それによると、「一緒に何かをやる」というコミットメントは「われわれ」の視点を持つという意味で個人的コミットメントに還元できず、特有の義務を産むが、この義務は倫理的義務ではない(強盗団の一員としての責任など)。集団的責任についてはまず、ラッドの道徳的責任と法的責任の区別が参考となる。ラッドによると、道徳的責任はforward looking で共有される責任であるだが、ギルバートの意味で共有されるわけではない。ラッドの議論に積み上げる形で、リチャードソンは、役割に結びつく役割は「われわれ」の視点を要求するという意味で集団的責任であると考える。ただし、これが道徳的責任になるかどうかは集団がどういうものであるかによる。こうした分析は、科学・工学の研究者としての専門職責任にも当てはめることができる。というのも、集団的実践や集団的信念があるので科学者・工学者は自分を「われわれ」の一人としてみがちだからである。その意味で研究者の責任も集団的責任という意識がされる。具体的には、学会としての責任、大学としての責任などが発生する。
Matthias KaiserはICSUの科学・工学の倫理基準についての調査を報告した。この調査では国際的・国内的(二十数カ国)なものをあわせて115の倫理基準をとりあげて内容を分析した(統計的には代表性を欠くが大まかな傾向を見るには十分だとのべていた)。大半は1995年より後に作られたものだった。基準の多くはcode やguidlineと呼ばれ、oathやpleadgeと呼ばれるものは非常に少なかった。個人的な性質としては専門的クオリティに言及するものが半数ほどと多く、誠実さ、正直さなどを強調するものは少なかった。10個の基準は内部告発に言及していた。対外的な性質としては社会的責任(50以上)や環境的責任(30以上)に言及するものが多い。ジェンダーの問題に触れるもの(2つ)や平和に触れるもの(8つ)はほとんどなかった。動物福祉に触れる基準が20ほどあったが、これが多いか少ないかは判断が難しい。会場からのコメントで、最近は学会の数自体が増えているので、単にそれで綱領の数も増えているだけではないか、というような指摘もあった。
Carl Mitchamは研究のintegrityに関する共同責任(co-responsibility)について論じた。役割責任は近代以前の道徳において重要な役割を果たしていたが、近代になってほとんど論じられなくなった。しかし、70年代からあと、科学における役割道徳が見直されるようになり、。そこで生じてきた問題として、役割の葛藤の問題と、意図せざる帰結が生じた際、どの役割に責任があるのか、いつ責任があるのかという問題がある。必要なのはこうした問題に答える「役割道徳プラス」(これをMitchamは共同責任と呼ぶ)で、これを作るためには狭い専門領域の中で役割責任を考えるのではなく、自然科学から人文科学まで含む学際性および非専門家の一般人まで視野に入れることが必要である。この最後の点に関連して、Mitchamはプルトニウム汚染の除去にかかわるロッキーフラッツ(Rocky Flats)での市民の取り組みについて報告し、市民が自分で専門家を雇い勉強していった結果、除去が速やかに終わった点を強調した。これについてはKaiserからも北欧のコンセンサス会議で同じような経験をしたことが報告された。
研究指導
最終日(2日)の午前は研究倫理にかかわるさまざまな問題を取り上げるミニコンファレンスが行われた。最初の時間帯は「研究指導」(mentoring)に関わる倫理問題、特に倫理的な行動についての指導をどうするか、が論じられた。
Deborah G. Johnsonは研究指導がなぜ倫理的な問題を引き起こすかについて概括的な話をした。研究者は教師、アドバイザー、雇用者などさまざまな役割で院生とかかわり、その結果役割の葛藤、利益の葛藤が生じる。指導する側にとっては自分の研究上の子孫を作るというだけでなく、その分野についての自分の考え方を実現する場として研究指導は重要である。指導される側にとっては単に授業では得られないノウハウを得るため、 socializaion のため、credential を得るため、人間関係を作るためなど、さまざまな利害がある。これらの利害は対立しうる。
次のスピーカーのJulia Frugoliは遺伝学と生化学を専門とする研究者で、彼女は自分のデパートメントの同僚に研究指導についてアンケートをとってみたが、研究指導とは何をするものかということについても、これまでの経験が研究指導するうえで役に立っているかについても、自分の研究と院生の指導が利害対立を起こすかについても、人によって正反対の意見が出た。一つだけ目立ったのは、「自分に指導をしてくれた先生のようにはならない」という回答であった。
Frederick Grinnellは細胞生物学が専門であるが、最近、Institute of Medicine の委員の一人として研究者のintegrityに関する本をまとめた。この本では、オリジナルな研究をすることと指導院生の利益が葛藤する際には学生の教育上の利益を優先すべき、という勧告をしている。研究者としてのintegrityを指導するという点については、教室でならったことよりラボで学んだことの方が遙かに影響がつよいことを指摘する。しかし研究グループ内ではintegrityが教えられることは少なく、逆にintegrityに反することが刷り込まれてしまいがちである。こうした状況に対処するためには、研究機関による自己評価が有効である。具体的には、研究機関が個々の研究者にラボでどういうintegritiy 教育をしているか(ちゃんと言葉にして指導しているかどうか)質問する。質問項目としては、ノートの付け方から著作権、publishされていない発見の扱い、データの取捨選択のしかたなどintegrityに関係するさまざまな項目がリストとして挙げられた。
Judith P. Swazeyは研究指導に関するいくつかの調査結果を報告した。1998にUC Davisで行われた調査では、3000人の大学院生を対象として、アドバイザーや研究指導者の自分への扱いについての満足度が問われ、30%の回答率が得られた。それによると、71%が経済的支援について満足、68%が人間関係について満足と比較的高い数値が出たのに対し、博士論文への指導について満足しているのは56%、キャリアへの支援(推薦状を書く、就職状況についての情報を与えるなど)については40%しか満足と答えていない。なにが職業的価値観の形成に重要だったかを学生にきいた別の調査によれば、36%が家族を、35%がアドバイザーと研究指導者を挙げた。倫理の授業を挙げたのは6%にすぎなかった。アドバイザーと研究指導者を区別することについて、Swazeyは、論文指導をするアドバイザーと研究指導者は別で、研究指導者には役割モデルになるという役割が期待されるということを挙げていた。
会場からの質問で、あまり若い研究者はアドバイザーとしてはいいかもしれないがここでいう意味での研究指導者としてはふさわしくないのではないか、という意見も出た。答えとしては、アドバイザーと別に年長の教員をメンターとして割り当てる機関もあることが報告された。研究指導者との関係がうまくいかない場合どうするかという質問に対しては、Grinnellが、彼の大学では院生自身が論文コミッティーを選ぶことである程度その問題を避けているという回答をした。もう一つ出た意見として、研究より院生の利益を優先せよと言うからにはそれなりのインセンティブが必要ではないか、という意見があった。Grinnellの答えは、まさに自己評価がその役割をはたすというものであり、 Frugoliはテニュアを取れるかどうかの判断にメンターとしての有能さを基準として含めることを検討中だと答えた。
知的所有権
最終日二つ目のテーマは「知的所有権」で、特に科学的な発見の特許を取ることにまつわる倫理問題が論じられた。まず、Vivian Weilが全体的な状況についてまとめた。アメリカでは80年代から基礎的な科学的発見であっても特許がとれるようになり、さらにBayh-Dole法によって国の予算で行った研究でも大学が特許をとれるようになった。その結果、1979年には200件あまりだった大学特許が1997年には2000件と10倍に増えた。この結果、特に遺伝学関係では情報の流れが阻害されるようになった。また、商業目的の発明もさらなる研究の道具としての発明も一緒くたにされるため、後者のタイプの発明の共有がうまくいかなくなっている現状も指摘された。Weilはさらにいくつかの事例を紹介した。そのうちのひとつでは、実質的に働いたのは院生であるにもかかわらず教授が一人で特許をとってしまった。もう一つの事例では、二つの機関がお互いの研究に必要な特許をとりあってしまい、どちらも相手に使用を認めないためにどちらも研究を進めることができなくなってしまっているとのことであった。
Gregory Sieczkieviczは細胞マイクロ生物学で博士をとったが、現在は遺伝関係の特許の仕事をしており、Weil が紹介したような事例の法的な扱いについて論じた。それによると、院生の特許上の権利については2001年7月に画期的な判例が出ている。Chou vs. University of Chicagoという裁判で、連邦控訴裁判所は、上の例のような院生に対して特許を認めるべきだという判決を下した。この院生は雇われる際に教授からそうした権利を放棄するという一筆をとられていて下級裁判所ではそのために院生の訴えが却下されたが、この判決ではそうした書類の無効性が認められた。さらに判決は、院生が特許を取ることについては単なる経済的利害だけでなく評判上の利害(reputational interest)もあると認めた。また、教授と院生の間で信託関係(fiduciary duty)が成立していたのに教授がそれを破ったと判断し、院生が教授または大学を相手にして損害賠償を請求することができると認めた。Sieczkieviczはこの判決から得られる教訓として、大学全体で院生の労働と特許についての方針を立てることが重要であるとまとめた。
Jadran Leeは、オーストラリアのPlant Breeder's Rights Act(PBR法)について紹介した。これは、ある変種を作った人がその変種の配布について権利を持つという法律で、多くの国に類似の法律がある。条件は、明確に区別できること、その変種の株が基本的に同じ形質を持つこと、安定していることである。特許にくらべると新奇さという基準がないのでとりやすい。この法律の特徴は、免除条項として研究上の使用は自由となっている点である。そのためWeilが指摘したような、研究そのものを妨げるような副作用はこの法律からは生じていない。
質疑応答の際、Weil はPBR法の研究免除条項にふれ、この種の条項をつけると行き過ぎてしまう可能性があることが心配されている、とコメントした。また、商業的な応用のない、さらなる研究のための特許は、経済的な利益がそこなわれたと示すことができないため裁判上はほとんど役に立たないのではないか、という意見が会場からあった。Sieczkieviczは、商業利用できなくても特許は法的に守られることを指摘したうえで、確かに裁判で非商業的な特許の侵害を立証するのはむずかしい、ということを認めた。
研究と私生活の両立
最後はRound Table Discussion という形で、「研究環境の問題、職業的な生活と私生活のバランス」というテーマの討論会が行われた。討論は、ある大学院生のトラブル(指導教官に二日後までにスライドを用意するように言われ、遅くまで実験室に残った結果婚約者と喧嘩をすることになる)を巡るシナリオを読み、それについてみんなで論じるという形がとられた。オーガナイザーのBirdは授業内討論の形式で討論をすすめようとしていたが、シナリオそのものの善し悪しを巡るメタ議論も並行的にすすみ、さまざまなレベル、視点からの発言がなされた。ある研究者は自分の分野ではこれは非現実的でまじめに読むことができない、という指摘をし(他の研究者からはこれは非常に現実的だというリアクションがあった)、また、主人公が自分とまったく行動パターンが違うため、「この大学院生だったらどうするか」という質問に答えようがない、という反応もあった。
以上、4日間にわたってAPPEの年次総会に参加したわけだが、全体的な印象をいくつかまとめよう。まず、トンプソンの基調講演をはじめ多くのセッションで組織上の改革が倫理行動の促進に不可欠であるという認識が示されたのは興味深かった。ただ、こうした動きはアメリカでもまだ始まったばかりのようで、すでに同じ問題について意識し議論を始めている日本からも議論への貢献は十分できるのではないかという印象をもった。専門職倫理に関しては、倫理綱領の価値を否定はしないものの、倫理綱領にならない部分をどうするか、など、その先の問題設定が目立ったことは指摘しておいてもよいだろう。また、今回の年次総会では工学倫理のセッションは少なかったものの工学倫理関係者はかなり多く参加しており、アメリカの工学倫理の動向を知る上で長期的にこの学会に注目していくべきではないかと思われる。
(本報告は平成14年度科学技術政策提言「科学技術倫理教育システムの調査研究」の一環として行われたものである。)