「科学技術社会論と融合したクリティカルシンキングの研究および教育手法開発」について


この研究は、科学研究費補助金基盤研究B 「科学技術社会論と融合したクリティカルシンキングの研究および教育手法開発」(平成21年度〜23年度)によって行われています。

研究組織

研究の目的(申請の際の調書に記入したもの)

本研究は、クリティカルシンキングの研究・教育手法開発という、それ自体学際的な研究領域を、科学技術社会論というもう一つの学際領域と創造的な形で結びつけようという試みである。目的とするのは、現在の科学技術社会論であまり重視されているとはいえない思考法の教育という側面を積極的に取り入れることで科学技術社会論を理論的に豊かにする一方、クリティカルシンキングという手法の側も具体的な問題領域と結びつけることで実践的な有用性を高めるということである。最終的な目標は、クリティカルシンキングという要素を統合した科学技術社会論教育のモデルを作ることである。

(1) 研究の学術的背景

本研究の一方の柱であるクリティカルシンキング(批判的思考)の考え方は哲学の伝統の中に古くから存在するが、とりわけアメリカでは論理学入門の授業として広まってきた。その主な内容は議論の構造を分析し、前提や推論を吟味する手法の教育であり、特に推論の吟味には論理学の初等的な知識が利用される。また、議論を組み立てる際や推論を行う際に犯しやすい過ちについては心理学で盛んに研究が行われており、日本においては心理学系の領域でクリティカルシンキング教育が先行して導入されており、哲学・論理学系の教育においてクリティカルシンキングの重要性が日本で注目されるようになってきたのはまだ最近のことである。また、大学をはじめとするさまざまな教育機関が教育目標を明示的に掲げる動きが進むなか、思考力を育てるということが目標の一つとして挙げられることが多くなった。クリティカルシンキング教育についての研究はそうした動きにも合致したものとなっている。しかし、教育科目としてみたとき、純粋に思考のスキルだけを教える科目は既存の日本の大学カリキュラムの枠組みでは成立しにくく、思考力を育てることが強調されるようになった現在でも大学等でクリティカルシンキングを単独で教える授業はあまり開講されていないというのが実情のようである。

本研究の他方の柱である科学技術社会論(science, technology and society、STS)は、現代社会のかかえるさまざまな科学技術のかかわる問題を解決するノウハウの蓄積として、現在ますます重要性をましている。この分野は非常に多様な内容を含むが、ここで想定しているのはリスク論、科学コミュニケーション論、社会技術論など専門家と市民のかかわりについて考える部分である。しかし、市民が持つべき科学技術リテラシーとして科学技術社会論のこれらの部分を捉えたとき、現在の科学技術社会論のありかたには若干の偏りがあるように思われる。それは、科学技術の既成の営みを批判的に見る際の視点が、もっぱら既成の科学技術の社会性や相対性という点に絞られているということである。しかし、十全な科学技術リテラシーのためには、むしろ既成科学の方法論を利用して主張の信頼性を吟味する能力も必要だろう。そこにはクリティカルシンキングのような思考ツールの必要性があるように思われる。 当計画の研究代表者はこれまで、科学哲学や倫理学の知見を生かしたクリティカルシンキングの手法の研究や、応用倫理学などと組み合わせてのクリティカルシンキング教育手法の研究を行ってきた(伊勢田2005; 伊勢田2007)。また、科学技術社会論については、技術者倫理教育の中に科学技術社会論の知見を取り入れる試みを共同研究として行ってきた(黒田ほか2004)。また、研究分担者の調と連携研究者の菊池は科学技術社会を生きる際の個人的問題を包括的に考えるという問題意識の下、疑似科学に対するクリティカルシンキングに一章を割いた科学技術リテラシーの概説書を共同執筆している(調ほか2003)。本研究の着想は、こうした研究を通じて応募者が感じてきた問題意識を突き合わせ、うまく両者を組み合わせることで両者の弱点を同時に補うことができるのではないか、というところから生まれた。

(2) 研究期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか

本研究の最終の目標は教育手法開発、すなわち、科学技術社会論を事例として取り入れたクリティカルシンキングの教育内容や手法について一定の提言を行うことである。しかし、その目標にたどりつくまでに前段階で行わなくてはならない研究は多岐にわたる。

まず調査しなくてはならないのは、現状においてクリティカルシンキングと科学技術社会論の教育が現在どういう形になっており、その背景にある理論はどうなっているか、ということである。特に、すでに説明したように哲学・論理学系のクリティカルシンキングについてはまだ国内でのとりくみがはじまったばかりであり、研究の初期においてはかなりこの面の調査・研究に力を割くことになるであろう。

次に必要となるのは科学技術論の知見とクリティカルシンキングの知見をどう融合させるかということについての研究である。これについてはさまざまな理論的な問題が生じることが予期される。たとえば双方向コミュニケーションモデルとクリティカルシンキングには矛盾する要素があるようにも見え、そこをどう扱うかは慎重にあつかう必要がある。ここでの目標は、理論的なレベルで、双方向的コミュニケーションや社会的合理性といった科学技術社会論の理論的概念とクリティカルシンキングにおけるさまざまな思考手法を両方取り入れたような統一的モデルを提示することである。もちろん、そうしたモデルは複数作れるであろうが、ここでは無理にひとつのモデルに収斂させることを追求はせず、むしろ異分野交流の強みを生かして、それぞれの分野の関心にそったさまざまなモデルを構築していくことを目的とする。

第三に、そうした理論的レベルでの検討を、教育の中でどう取り入れるか、という具体化について検討する。日本における大学教育の実情にあわせた具体化が必要となるだろう。

(3)当該分野における本研究の学術的な特色・独創的な点及び予想される結果と意義

クリティカルシンキングと科学技術社会論はそれぞれ盛んに研究されている分野であるが、両者を有機的に結びつけた先行研究はほとんど存在しない。わずかにGlen Aikenhead (1993)が科学リテラシー教育において論理的思考と科学技術社会論の両方を取り入れる試みについて研究をしている例があるが、Aikenheadの考える論理的思考はクリティカルシンキング科目で教育される具体的なスキルと比べてはるかに一般的な漠然とした意味でのものである。本格的にクリティカルシンキングを取り入れる本研究はAikenhead の先行研究と比べても十分独創的である。

研究の予想される結果としては、まず、クリティカルシンキングと科学技術社会論それぞれの見直しと、理論的な拡充がある。つまり、抽象的な思考技術としてのクリティカルシンキングは具体的な思考領域を与えられることで思考の規則をより具体化できるであろうし、双方向コミュニケーションをどう取り込むかという理論的な問題もかかえこむことになるだろう。科学技術社会論の方もクリティカルシンキングの技法をどう位置づけるかという問題に解決を与える過程であらたな理論的装置を獲得することになるだろう。

もうひとつの予想される結果としては、科学技術社会論的なクリティカルシンキング、という、具体性と抽象性をバランスよく併せ持った教育フォーマットが作られるということである。どちらの領域も現代人に必要なリテラシーであるとよく言われるが、この両者を効果的に身につけることができる教育科目が存在すれば、その潜在的な需要は大きいものと思われる。これは単に教育効率の問題ではない。本研究で予期されるのは一見したところどう結びつけてよいかわからない二つの思考スタイルを統一的なものとして提示する教育フォーマットであり、そこにはどちらの領域にも還元されない独自の要素が付け足されることになるであろう。

伊勢田哲治(2005) 『哲学思考トレーニング』ちくま新書
伊勢田哲治(2007)「哲学系一般教育のモデルとしてのクリティカルシンキング」『中部哲学会年報』39号, 54-65ページ
黒田光太郎ほか(2004) 『誇り高い技術者になろう』名古屋大学出版会
調麻佐志ほか編 (2003) 『ハイテク社会を生きる』,北樹出版
Glen Aikenhead (1991) Logical Reasoning in Science and Technology. Wiley and Sons of Canada.