大学の先生が工学系の学生に良い技術者になってほしいと、優しく語りかける口調で書かれた本で、学生に対する優しい気持ちが溢れている。工学系大学で倫理が講義されるようになってきて、こういう本のニーズがあるのだと思われるが、特別の教科書を持たない先生方には歓迎されるだろう。
イントロはなかなか上手くできていて、若者がこのイントロを読んでくれさえすれば、中身に入ってくるだろう。その上手い部分は各自実際に手にとって読んで頂くこととして、この本の目的に関する部分を引用しておこう。
「技術を社会の中に位置づけて考えることができ、見えにくい人たちに対する見えにくい影響までも考慮に入れることのできるような倫理的想像力を養うこと、そして、それを通じて、科学技術の本来の目標を見失わずに人類の幸せな生存に貢献できる技術者を育てること、これが技術者倫理教育の大きな目標です。」
「こうした目標を果たすために、本書では次の四つのことを目指します。
(1)科学技術・技術者を社会との関係において捉えるために基本知識を身につける(第2章)
(2)技術者がどのような種類の責任をどのような範囲の人々に対して負うことになるのかをミクロなレベルからマクロなレベルへと展開し、倫理的想像力を拡張するためのトレーニングを行う(第3章)
(3)こうして明確となった技術者としての社会的責任をうまく果たすために、技術者としての日々の仕事の中でどのように行動していけばよいのかを明確につかむ(第4章)
(4)技術者が自分の責任を果たそうとする際に障害となりうることがらを分析し、技術者が倫理的に行動できるようサポートする社会の仕組みがどうあるべきか、また技術者はそうした仕組みをどうのように利用できるかを理解する(第5章)」
タイトルで呼びかけている「誇り高い技術者」とは何かについては、「自分の社会的責任を自覚し、それを引き受けて、自分は他の人々には求められない責任を果たしたのだという喜びを自分への報酬とする。これが私たちの考える「誇り高い技術者」です。すぐれた技術者あるいはプロフェッショナルが、他の人には求められないようなハイ・スタンダードな責任をわざわざ自ら引き受けることができるのは、こうした誇りをもっているからです。」と言っている。
目標で、「見えにくい人たちに対する見えにくい影響までも考慮に入れることのできるような倫理的想像力」とまわりくどい表現をしているが、技術開発による潜在的被害者のことを考えよと言っているのだなと「想像」しながら先に読みすすむことにしよう。
* 環境と健康リサーチ
[住所情報省略]
第泄煤@技術者になるとはどういうことか
1. 誇り高い技術者とは ‐ 具体例から学ぶ
2.技術とは何か、技術者とはどういう人なのか
第部 技術者としての社会への責任
3.技術者は何に配慮するべきか ‐ 小さな視点から大きな視点まで
4.技術者はどう行動するべきか ‐ 社会の要求を解決するためのガイドライン
5.技術者の責任ある行動を社会はどうサポートするべきか
1では、INAXで入浴感のあるシャワーを開発した若いグループと、デンソーで車の冷房をノンフロンにする技術開発を社内で発足させた技術者を紹介して、開発チーム内での自立性を考えさせている。
2では、技術および最近の技術の性格を説明し、プロフェションとして社会から一定の優遇、尊敬、保護を受けている理由やそれへの姿勢などを説いている。技術者の特殊性を説明するのに、ときどき「医師や弁護士」との比較を持ち出しているがこれが分かりにくい。技術が複雑になったことに関係して技術者の倫理には特有な問題があるとして、例えば:
「医師や弁護士は、人を助けるときに「だます」ことがありえます。専門的な知識をもっているがゆえに、それができます。その意味で、個人としての行動が社会の人々に対して直接迷惑をかけます。意図的な行為が専門家の責任としては大きいのです。それに対して、技術者は人工物をつくります。しかし、設計について述べてきたように、技術者にとっての倫理問題は、失敗、ミス、手抜きという過失によることが多いのです。過失は意図的行為とは区別されます。技術者はテロリストではないので特に爆発するものをつくろうとは意図したわけではないでしょう。しかしそれでも、何らかの仕方で過失があったりすると、そのために人工物が問題を起こすこともありえます。このために、技術者は自分の意図的でない行為の結果に対して責任を負うことが、非技術者に比べて、より頻繁に求められることになります。このようなタイプの倫理問題が技術者に生じやすいというのが、第三のポイントです。」
分かりにくい説明だが、第一は技術者があらかじめすべての結果を予測できるわけではないから単純に結果責任を要求できないこと、第二のポイントはリスクの評価では「どれだけ安全にすれば十分か」ということが問題であるとして、比較的事故に弱い軽自動車をつくった技術者は、安全でないものを作ったとして責められるべきなのでしょうか、と書いている。この三点を合わせると、技術者に対して非常に手厚い、親切な論調のように見える。このような親切な倫理講義で、学生は納得するのだろうかと思う。逆に、非技術者は何もわからないわからず屋と思いこんで、責任を追及されたときに逆恨みするのではないかと心配である。そうならないためには、「意図」の中身、深さ、展望についてより厳しく考察するように習慣づけた方がいいのではないか。後段に様々な予測手段の技術的説明がつづき、これが楽観的すぎるように思えるのでコメントしておきたい。
第部では、目次のテーマにしたがって、技術(者)と社会のかかわりを優しく説いている。
コンセンサス会議については次のような記述がある:
「先に「情報格差」ということばで述べたように、専門的な知識や情報を持っているのはもちろん技術者であり、技術者のおかげで、一般市民は科学技術の意義やリスクについて知ることができるわけです。しかし、時には、一般市民の意見の中にも納得できる部分があるのではないでしょうか。ひょっとすると、専門家には持ちにくい重要な感覚を市民はもっているかもしれません。また、科学技術の恩恵を受けるのもリスクを負うのも市民なのですから、専門家の間でも意見が対立している場合には、市民の判断を尊重することは理にかなったことであると言えます。」
私には、いかにも科学技術、技術者を高みにおいて、市民を見下しているように受け取れる。一般市民の実力は「ひょっとすると」程度にしか認識されていないのだから。ここで、同じように、新技術の導入(技術革新)に際していかに将来の潜在的被害を小さくするかという視点から、意志決定のプロセスについていくつか提案をしているEUの環境問題レポートNo 22『Late lessons from early warnings: the precautionary principle 1899-2000』(A4、2段組、210頁)と比較して見たいが、こちらにはコンセンサス会議については以下の記述しかない:
「For example, the consensus conference, without safeguards, can easily potentially degenerate into little more than a form of consultation driven by the sponsor’s agenda.」(例えば、コンセンサス会議は、セーフガードがなければ、主催者の方針に導かれたコンサルテーション以上ではないものに簡単に退化してしまう可能性がある。)
私の違和感はどこから来ているのかと自問しながら読み返してみたところ、著者である先生方が学生に向かって、「技術者になる前に、君たちは市民であるか?」と問う、あるいは、「技術者もみな一人の市民であることから出発すべし」という訓辞を出していないことが分かった。これを明示しないで倫理を説いているから、高みに上がってしまうのではなかろうか。工学の師弟という関係でこの本を読めば、暖かい師の言葉に満ちているが、そんな優しいことで期待できる倫理には限界があるのではないか。公害被害者、環境被害者がこの本を読めばかなりの違和感をもつと思う。
はじめに
まず、『誇り高い技術者になろう』(以下「本書」)を通読し、詳細な書評を書いてくださったことについて、編者として松崎氏に感謝したい。また、本書に対して当然出てきてよいはずの批判的な声があまり聞こえてこないので、少々不安になっていたところでもある。そうした「予期した批判」を公にすることで、こうして反論の形で本書の意図を説明する機会を与えてくださった、という意味でも松崎氏に感謝したい。松崎氏の批判の論点はすべてつながっているとは思うが、便宜上、以下、四点にわけて回答を行う。なお、以下の回答には、編集会議などの段階で著者全体で合意されていた内容を敷衍した部分もあるが、編者の一人である伊勢田個人の見解として書いている部分もある。最終的な文責は伊勢田にあるのでその点ご了承されたい。
「なかよしこよし」であることについて
まず、松崎氏は、本書に対して、問題の取り上げ方が生ぬるいという感想を抱かれたようである。それを示すように、氏は、「なかよしこよし」「優しい」「甘い」といった形容を何度も繰り返しておられる。また、末尾において、「公害被害者や環境被害者がこの本を読めばかなりの違和感をもつと思う」と結論づけている。そうした視点からみて本書の論述が生ぬるく見えるというのは確かにその通りであろう。しかし、それが教科書としての本書の欠点となるかどうかはまた別問題である。教科書には仏教でいう待機説法の考え方が求められる。待機説法とは、言うまでもなく、相手の現在の状態や予備知識、性格などを考慮して、相手を一番望ましい方向へ導くような説明・指導の仕方をすることであり、その結果、別の人に対する説明や指導が一見矛盾する場合もある。ある文脈で適切な教え方が別の文脈では不適切だったり、その逆になったりということは日常茶飯事である。ただし、待機説法は「いきあたりばったり」とは違う。最終的にたどりつくべき目標地点がはっきり見えているなら、目の前の手段の選択がさまざまに変わって矛盾するようにみえても、筋は一本通すことができる。ターゲットをしぼった教科書に求められるのは、表面的な汎用性ではなく、この意味での「筋」を通すことではないだろうか。
さて、この教科書の場合、最終的な目標地点は松崎氏がイメージするものとそれほど変わらないと思われる。一言でいえば、技術者が周囲の人や市民の幸福のために自分の知識や技能を使い、周囲もそれをサポートするような社会が一つの目標である。そしてそのためには技術者に今よりはるかに高い倫理性が求められる(ただしもちろん技術者だけに求められるわけではない)というのもその通りであろう。ではストレートにそのメッセージを書いた教科書がよい教科書になるか(特に、本書がターゲットとして冒頭で明確に挙げている工学部の1,2年生にとって)といえば、それはかなり疑問がある。
* 名古屋大学大学院 情報科学研究科
実は本書に先行する工学倫理の教科書においては巨大事故が主な事例として使われることが多く、本書よりもよほど技術者に厳しい倫理性を要求する内容となっている。しかし、そうした教科書を使った授業が学生の倫理性を高めるために本当に役に立っているのだろうか、という疑問から本書は出発している。
一つには、大事件ばかりを題材とした倫理教育は倫理というものが非日常的な存在だという印象を与えてしまっているように思われる。それでは学生は「倫理は大事かもしれないが自分には関係ないこと」だと思うだろう。また、技術者が非難される否定的な事例ばかり扱うと、倫理というものを、「工学に対して外から押しつけられるいやなもの」と学生がとらえる恐れもある。こうした要素は、すでに技術者の倫理的責任について一定の理解とコミットメントを持っている人に対しては「今の自分ではまだまだ不十分だ」といって自らを反省するきっかけになるかもしれない。しかし、そこにたどり着く前の段階では、「自分に関係ない」「いやなもの」と思わせるわけであるから、かえって倫理から気持ちを遠ざける効果しか持たないように思われる。
長くなったが、松崎氏が「なかよしこよし」と感じたメッセージの大半はこうした配慮から意図的に発されたものである。技術者の倫理的責任を日常的でポジティブなものとしてとらえてもらうこと、これが技術者倫理教育の第一段階だと思う。そうして倫理を自分のものとして引き受けたあとで、倫理の「しんどい」面にも少しずつ目を向けていってもらえばよい。
「技術者を高みにおく」論じ方
上記の点と関連して、松崎氏が違和感を感じておられるのは、技術者を高みにおく論じ方のようである。ここには本書の著者たちと松崎氏の間で実質的な意見の相違がある可能性がある。
まず、松崎氏が「一般市民の実力は「ひょっとすると」程度にしか認識されていない」といって引用される箇所であるが、ここはむしろ待機説法の一部として理解してほしい。本書の著者たちが心を砕いたことの一つは、市民との対話という思考の枠組みがそもそも存在してこなかった工学教育の世界にどうやってそうした考え方を持ち込むかということであった。相手の心の準備の度合いを考えないと単に拒絶反応を引き起こすだけである。今コンセンサス会議のような考え方を前面に押し出した教科書を作っても、工学部において倫理の教科書として採用される可能性はまずないだろう。ここでの論述が松崎氏からみてはがゆいほどに迂遠なのもそうした配慮があってのことで、まずはコンセンサス会議といった考え方に敵意を持たずに目を向けるようにしむけることが大事だという考えが背景にある。
しかし、本書のメッセージ全体との関係でいえば、「高み」という言葉の意味次第では、まさに技術者は高みに立つべきである。技術政策に関するさまざまな意志決定のうちには、市民の意見が重視されるべき側面もあれば、専門家である技術者の見解が尊重されるべき側面もある。後者の側面において技術者が専門家としての自信と責任を持つことは悪いことでないばかりか、技術者の倫理行動をささえる重要な要素ではないかとわれわれは考え
る。そうした側面に限って言えば、「一般市民の実力」を「ひょっとすると」程度に認識するのは妥当なことである。もう少し説明すると、ここでいう自信とは、おおまかにいって、自分には他の人にはない知識やスキルがあり、それを役立てることができるのも自分だけだ、というような認識のことである。そうした認識を持つことを「高みにたつ」ととらえるなら、技術者であることに誇りをもてという本書の基本的メッセージも技術者にその意味で高みに立つことをうながすものである。そうした自信は自らの職務をきちんと果たす上での強い動機づけとして働くであろう。ただ、問題なのは、これまでの専門家(技術者に限らず)が社会的意志決定において自分たちの意見が尊重されるべき側面の範囲を不当に広く解釈してきたという点だと思われる。
この意味で「高み」に立つことは、相手を(倫理的・社会的意味で)「見下す」こととは関係がない。知識に不均衡がある場合、一方が他方に教えるという一方通行な関係が生じるのは避けがたいが、それが「教えてやる」というまさに「見下した」態度になるか、「私の持っている情報を共有しましょう」という対等な態度になるか、「恐れながら申し上げます」という「見上げた」(?)態度になるかは両者の関係によって決まる。どの関係であれ、専門家が専門家としての自信や誇りを失う必要はない。
松崎氏の短いコメントからはこの意味での自信や「高みにたつ」ことに否定的なのかどうかははっきりしないが、本書のメッセージともかかわる重要な論点なのであえて詳しく触れた。
技術者の「逆恨み」
松崎氏は、本書の論調として、「技術者に対して非常に手厚い親切な論調」と分析し、これでは「非技術者は何もわからない分からず屋と思いこんで、責任を追及されたときに逆恨みするのではないか」と心配されている。ここもおそらく技術者倫理のあるべきすがたについて氏と執筆者の間で実質的な意見の食い違いの存在する部分である。
本書では確かに、予測できない結果について必ずしも技術者に責任があるわけではないとか、リスクをゼロにするのは不可能なのでそれは求められないとか、製品の目標次第ではリスクと便益のトレードオフがありうるといった主張をしている。それは待機説法でもなんでもなく、額面通りの主張だと思っていただいてよい。倫理学に「「べし」は「できる」を含意する」という基本テーゼがある。実行不可能なことは義務とはなりえない、という考え方である。この考え方は現実の倫理問題に対処する際にも有効だと思う。たとえば、もし、リスクをゼロにするという不可能事をしなかったからといって技術者を責めるなら、その技術者が「逆恨み」するのもまったくもっともなことである。心理的にも、「リスクをゼロにせよ」だとか「あらゆる帰結を予測せよ」だとかいう規範を技術者に課しても、「はなからできるわけないのに」とまじめにうけとってもらえず、規範そのものが空洞化するだけのことであろう。
もちろん、予測可能な深刻な被害を予測しなかったり、減らそうと思えば減らせるリスクを減らさなかったり、消費者や市民にとって受け入れ不可能なリスクトレードオフをメーカーの側が勝手にやったりといったことは
非難されるべきである。しかしこれはもちろん前述のような本書の主張とは矛盾しないし、むしろ本書はこうした点で責任ある技術者になることをこそ求める内容となっているはずである。
「市民」としての技術者
もう一つ、松崎氏は、本書に「技術者である前に市民であれ」というメッセージが明示されていない、という点を挙げておられている。「市民」という言葉で松崎氏が何を想定しているのかは定かではないので、以下、二つの可能性を考える。
まず、「市民」という言葉を技術災害の被害者となりうる一人としての視点という意味で使っておられるのなら、確かに技術者にはその視点が必要である。しかし、工学部の学生と接した感覚でいうと、工学部の学生でも1,2年生はむしろこの意味での「市民」の感覚しか持ってない、つまり自分が将来、非常に「見えにくい」形で加害者となりうるという視点の方が欠けている、という印象がある。だとすると、むしろ必要なのは、技術者に特有の倫理的責任という彼らにとって異質な考え方を飲み込んでもらうことの方であろう。本書の論述が「誇り」を契機として技術者に特有の責任という考え方を強調しているのもそうした配慮が背景にあってのことである。
さらに言えば、技術者に要求されるのは、元から持っていた無反省な市民としての視点ではなく、技術者である自分を見つめる存在としての市民の目を自分の中に内面化させることであろう。さもなければ、自分と必要や立場の違ういろいろな人たちの視点でものを考えることができず、自分が元から持っていた非常に一面的な「市民」の視点にとどまってしまうことになる。本書で「見えにくい人たち」へ視点を拡大していくという論述方法をとったのは、そうした問題意識が背景にあってのことである。
あるいは松崎氏は「社会的な意志決定の積極的な参加者」という意味での「市民」の視点が欠けている、という意味でこれを書いておられるのかもしれない。こうした視点が必要であることもまた否定するつもりはまったくない。しかし、この意味での「市民」としての責任はだれにでも当てはまるが、そうした普遍的な責任以上の責任が技術者にはあるのではないか、という問題意識から技術者倫理教育は始まっている。そうした特別な責任が本当に存在するのか、普通の市民としての倫理の延長で技術者の倫理もすべて処理できるのではないか、という点については工学倫理の中でも論争があるところである。もしこの点が松崎氏の考える問題点であるのなら、この回答で論じることができる範囲を超える。稿を改めて議論をしなおす必要があるだろう。
松崎早苗氏の書評に答えて
伊勢田哲治*
名古屋市千種区不老町
以上、四点にわけて松崎氏の批判点・疑問点に答えてきた。もちろんこれで松崎氏が納得するとは思っていないので、さらなる批判をいただけることを期待したい。そうした議論の中で工学教育がいかにあるべきかということについて理解が深まるきっかけとして本書が働くなら、それは編者としても望外の喜びである。