衣の倫理----われわれはいかに着るべきか

伊勢田哲治

現代社会において、焦眉の急として解決の急がれる倫理問題 は数多いが、その中で、奇妙にもこれまでほとんど注目を あつめてこなかった分野がある。それが、本稿で取り上げる 「衣の倫理」、ないし「衣料の倫理」をめぐる問題群である。 衣料は現代のわれわれの生活の中で、あまりにもあまねく存在 しているため、ほとんど不可視の存在となっている。現代は 「高度情報化社会」だなどということが言われるが、まだまだ コンピュータを自分で所有していない人も多い。それにくらべ、 現代において衣料を自分で(かなりの数)所有していない人を 見つけるのは非常に困難だろう。この意味で、現代はまさに 「高度衣料化社会」であるといえる。

しかしながら、ファッションとしての衣料こそ話題になることは多い けれども、衣料が衣料そのものとして、それ自体として日常生活で 問題になることはまずない。 ましてやこの問題の倫理的側面となれば、「何を馬鹿なことをいって いるのか」といったリアクションがかえってくるのが落ちであろう。 これは、衣の倫理問題が存在しないということではない。むしろ、 あまりに遍在化しているため、衣の倫理の問題が見えにくくなって いるということでしかない。だからこそ、それを改めて 問題化し、前景化することに十分な意義があるのである。 以下、本稿では衣の倫理の問題圏を概観する。

1衣の倫理の根本問題----着るべきか否か

現在、多くの人が無意識のうちに受け入れている規範として、「人前では服を 着なくてはならない」というものがある。これは、旧約聖書の冒頭における イチジクの葉のエピソードに象徴的に示されるように、人類の文明そのものと おなじくらいの古さをもつ規範であろう。しかし、はたして人はほんとうに 着るべきであろうか?それとも着なくてもよいのであろうか?あるいは、むしろ 着てはならないのであろうか?

この問題については、これまで、公然猥褻などといった、public decencyの 問題の一部として論じられてきたようである。しかし、そもそも、「着るか否か」の問い というのは人間存在の根幹にかかわる選択であり、いわば現在の文明そのものを 批判的にラディカルに問い直す作業である。このような重大な問題を 「裸そのものの猥褻性」などといった矮小化された文脈でしかとりあげることが できないのは悲しむべき近眼視であると言わねばなるまい。 (もちろんセクシュアリティの問題がつまらない問題だという意味ではなく、 衣の問題がセクシュアリティの問題圏すらはるかに越える広範囲な問題である ということである。)

ここで、問題をとりあえず二つに分けておく必要があるだろう。まず、 「着ることが規範となっている社会は、そうでない社会にくらべて本当に 倫理的により望ましいだろうか」という、社会体制の選択の問題がある。次に、 「多くの人が着ることを選んでいる社会(現在のわれわれの社会も含まれる)に おいて、われわれは着るべきであるかいなか」という 個人的な選択をめぐる問題がある。ここでは、第一の社会体制の選択の問題を とりあげる。(第二の問題については稿を改めて論じたい。) この社会体制の選択においては、単純に考えて、三つの主な 選択肢がある。「汝着るべし」という規範のある社会、「汝着るなかれ」という 規範のある社会、そしていずれの規範も存在しない社会である。(もちろん、実際 の社会はもう少し複雑である。現代日本においては、たとえば銭湯の中で 「汝着るなかれ」という規範が適用され、そこへ通じる脱衣場などでは着ても 着なくてもよい、というような使い分けがなされている。) はたして、「汝着るべし」という社会が他の二つより望ましいと考える積極的な理由は あるだろうか?

まず指摘しなくてはいけないのは、「着ない」ことが社会的な 慣習として成立すれば、「着ない」ことに現在伴う「はずかしさ」や 「決まりのわるさ」は取り除かれるであろうということである。したがって、 現在われわれが持つこうした感情を理由に「着るべし」という規範を正当化する ことはできまい。(ただしそうした感情を持つことそのものの望ましさの問題は 別に扱う必要がある。)

また、「服を着ないと寒い」「転んだとき怪我をしやすい」「紫外線が防げない」 等の実際的な理由から服を着ることを正当化する考え方もあろう。しかし、まず これらの理由は、「着るなかれ」という規範のある社会への反論にはなっても、 「着るべし」「着るなかれ」いずれの規範もない社会への反論にはならない。また、 「着るなかれ」という社会においてすら、これらのニーズは必ずしも衣料という 形で満たされなくてはならないと決まったものではないだろう。

あるいは、服を着ることが「人間の尊厳」と密接につながっているという議論も 考えられる。人間と動物を分かつ最大の線は「服を着る」ことであり、ここを あいまいにしてしまうことで人間の尊厳が失われ、ひいては互いを物として扱う ようになってしまう、といった議論である。 このような議論には傾聴に値する部分があると思われるが、自らの生き方の 問題として「着ない」ことを選ばずにいられない個人に対しては、むしろ 「着るべし」という規範の押しつけこそがその個人の尊厳への侵害となるとも 考えられよう。

以上の予備的な考察からも、「着るべきか、着ないべきか」というのが、一筋縄 ではいかない根の深い問題であることが理解いただけたと思う。

2いかに着るべきか

仮に、われわれは着るべきであるという結論になったとして、では、何を、如何に 着るべきであろうかという問題は依然として残る。そしてこれは、現代社会そのもの と同じくらい複雑で多岐にわたる問いである。

これについては、衣料とジェンダーの関わり、着るものによって表示される社会的 階層構造の差別性、衣料と環境の関わり、学校の制服と教育などまじめな問題も いろいろある。 その他、遺伝子組み替え衣料の問題であるとか、クローン衣料の問題なども当然 今後話題になってくるところであろう。

3衣類の権利

もう一つ、最後に是非とも考察しておく必要があるのは、果たして衣料は権利をもつか、 ということである。環境保護運動の高まりの中で、森や川といった自然物に権利 があるか、といったことが問題になり、自然物を原告とした訴訟の可能性が真剣に 追求された。仮に自然物の権利という考え方がもっと一般に受け入れられたとして、 次の課題となるのは、人工物の権利であろう。衣の倫理との関わりで言えば、衣類には 権利はあるか、衣類の責任は問うことができるか、といった問題が将来真剣に議論される 可能性は否定できない。たとえば、衣類の「着られる権利」「着られない権利」が 人間の側の「着る権利」「着ない権利」と対立し深刻な道徳的ジレンマを引き起こす 可能性もないとはいえないだろう。しかし、われわれは、そうした人工物の権利や 責任を取り扱うに十分な概念装置を持ち合わせているであろうか?これについては、 残念ながら現状では否というしかない。そうした将来の可能性にそなえて倫理学の 概念装置を充実させるのは、われわれ哲学者が至急とりかからねばならない任務だと いえるであろう。

(いせだてつじ・哲学者)