パットナムの意味論における指標性について

倫理4回生 伊勢田哲治

目次

(入力者より:以下のテキストにおいては、明らかな誤字脱字は改めてある。句読点、改行なども、あまりに不適当と思われるものは改めてある。その他の点(漢字かひらがなかの選択など)はもとのテキストに準じている。入力者による補足、感想などは「九年後の呟き」として挿入されている。)

 パットナム(Hilary Putnam)は、60年代の後半から70年代の前半にかけて、伝統的な意味論に対する、指示についての新しい意味論を展開した。その主な内容は、おおよそ「『意味』の意味」及び「説明と指示」の2つの論文に収められている。(註1)本論文は、主にこの二つの論文に依拠しつつ、パットナムがそれまでの意味論に対し、(とりわけフレーゲの意味論に対しどういう批判を行い、それに代わるものとしてどういう意味論を展開したか、また、そこにおいて「指標性(indexicality)」の概念がどういう役割を担っていたかについて考える。また、ほぼ同時期にクリプキによって提唱された指示の理論との関わりについても考察する。

第一章 伝統的意味論とその批判
a.伝統的意味論

 パットナムは自らの意味理論を組み立てるに際し、まず伝統的意味論の批判から開始した。ここではフレーゲを中心にパットナムの批判の論点を追ってみたい。(註2)

 フレーゲは、a=bという命題が、a=aという命題と比べ、大きな認識的価値を有するということから、記号には、記号によって指示されるもの(記号のイミ)のほかに、記号の意義と名付けうるものが結びついていると考える。(註3)意義とは指示対象の与えられ方であり、与えられ方の違う2つの記号が同一対象についてのものであるという関係をたてることが認識的価値を生むのである。そして、「記号には一つの特定の意義が対応し、そしてこの意義にあらたに一つの特定のイミが対応する」(註4)ものとされる。つまり、意義は、その記号のイミを単一に決定する必要十分条件のようなものとしてとらえられている。これは文についての意義とイミの区別を見るとより明白で、文においては意義とはその真理条件、イミとはその真理値である。(註5)この場合、意義が(外界との対応関係により)イミを決定するものであるのは明らかである(九年後の呟き:横着せずに例を使え、例を。)

 以上の点では、意義とイミの区別は、フレーゲ以前の内包(intension)と外延(extension)の区別と大して違うわけではない。しかし、フレーゲは、意義と表象(Vorstellung)の区別を提唱して、内包を個人の心的なものとするそれまでの意味論に異を唱える。ある対象についての表象は、「一つの内的イメージであり、このイメージは私が以前に持ったことのある内的及び外的行為に関する記憶から生まれ」(註6)るものである。それゆえに同じ表象を何人もの人が共有することはできない。それに対し、意義は多くの人によって等しく共有しうるものである。それでなくては、世代から世代へ伝わる思想のたくわえのようなものは成立しない。つまり、意義は、個人の意識を離れても存在する抽象的なものとして考えられているのである。

 では、その意義の把握については、フレーゲはどう考えているだろうか。「固有名の意義は、その固有名が属する言語あるいは表示法の全体に十分に精通しているあらゆる人によって把握される。」(註7)つまり、抽象的なものである意義は、個人のレベルでは一定の言語能力を有するすべての人によって把握されうるものであり、そうした把握によって意義を知ることができるわけである。ちなみに、ここでいう固有名(Eigenname)とは、個別の対象を表示するあらゆる表示のことであり、いくつかの語や他の記号から構成されるものも含んでいる。つまり、個別の対象を指示しうる記述も固有名のうちに含まれる。フレーゲにとって、名前もそうした記述も単一の意義と結びつく以上、区別の必要を感じなかったのであろう。(九年後の呟き:この把握の話も、なぜ出てくるのかここでは何の説明もなく、不親切。)

 さて、フレーゲは語の意味について以上のように考えるのだが、パットナムは、この議論のどこに疑問を感じ、いかなる批判を行ったのだろうか。

b.パットナムによる批判

 さて、パットナムのそもそもの批判点は、意義をフレーゲ的にとらえる時に、科学的言語においてすらも、さまざまな不都合が生じるという点である。(九年後の呟き:妙な書き出し。日本語の修行の要あり)

例えば、「魚」という自然種に対する科学的定義として、エラ呼吸が条件としてあげられる。これはフレーゲのいう意義の一部であろう。しかし、実際には肺魚などエラ呼吸をせず、かつ科学的見地から魚に分類される生物が存在する。それではエラ呼吸は魚の定義の一部としてふさわしくないのだろうか。しかし、それではエラ呼吸を使った魚の定義で、我々は実際の自然種を指示していなかったことになりはしないだろうか。(9年後の呟き:気持ちは分からなくはないが、議論になってない。たぶん、「そうするとエラ呼吸を定義の一部として使っていたあいだは、「魚」という語は自然種を指示していなかったと考えるべきなのだろうか」とかそういうことが言いたいのだろう。あと、パットナムがどこでこの話をしてるかの典拠が示してないのも減点。)

 別の例を考えよう。ボーアが粒子について考えた際に、その位置と運動量を各時間ごとに確定できるのを当然と考えていた。しかしもしこれがボーアの「粒子」の意義の一部であるとするなら、ボーアは例えば「電子」という語によって何も指示していなかったことになるだろう。となると、いまある電子についての理論はボーアが言及したのと同じ粒子に対するより優れた理論とは言えなくなる。(九年後の呟き:例の挙げ方が非常に漫然としていてねらいが分かりにくい。何を示すための例なのかはっきり述べること。)

 より一般的には、二つの理論のどちらがある対象についてより真であるか、という問いかけがいみをなさないものとなる。なぜなら、ある理論内のある語が指示する対象は、その理論内で与えられた意義によって決定されるからである。この考え方では、理論をこえた真理、あるいは理論にかかわりなく実在する何か、という考えはいみをなさないであろう。それでは、我々は、理論をこえた真理や実在という概念を放棄せねばならないのだろうか。そうでないなら、指示や真理はいかにして可能なのか?

パットナムは、こうした問題のおきる背景として、伝統的意味論のうちには、これまで疑われてこなかった二つの仮定が存在する、とした。

 二つの仮定の第一は、語の意味を知る、というのは心理状態である、というものである。ここでいう心理状態とは、パットナム言うところの方法的独我論にもとづく心理状態である。方法的独我論とは、本来のいみでの心理状態は、その状態が帰属する主体以外のいかなる個体の存在も前提としない、という仮定である。例えば嫉妬は他の個体の存在を前提とするのでこのいみでの心理状態ではない。あるいは、自分の作った幻覚に対しても嫉妬しうるというように解釈しなおす必要がある。一方、記憶の状態や心理的傾向は、このいみでの心理状態に含まれる。そして、伝統的意味論において、語の内包を知る、意義を把握する、ということはまさにこのいみにおいて心理状態と考えられてきたのである。

 フレーゲは、一見、先述した意義と表象の区別にみられるように、意義を個人的なものとしてとらえることに反対しているように見うけられる。実際、フレーゲは、内包をなんらかの心的なものとみなす心理主義に反対して自らの説をたてたのである。しかし、パットナムがここで述べているのはそれとは違う問題である。彼は、個々人がその語を使えるようになるための条件について考えているのである。フレーゲは、先の意義の把握についての引用文でも分かる通り、ある言語に精通している人間なら誰でも意義を把握しうるものと考えている。ここでいう把握とは、意義を真理条件のようなものとしてとらえている以上、それについての知識を得ることと解釈できるであろう(少なくともパットナムはそう解釈する)。それならば、意義の把握も上述の心理状態に含めてよいことになる。(九年後の呟き:議論が甘過ぎ。こんなぬるい分析で学位がもらえると思ったら大間違い。第一、パットナムの解釈についての典拠は?)こうした分析をふまえて、パットナムは次のように断定する。

 「彼ら(フレーゲや、カルナップとその追随者)は概念(したがって「内包」あるいは意味)を心的なものではなく、むしろ抽象的存在物とみなした。しかしながら、この抽象的存在物の「把握」は依然として個々の心理作用であった。これらの哲学者の内、語の理解(その内包を知ること)が、(人の頭にある数がどのように因数に分解されるかを知るということは、ある極めて複雑な心理状態にあるという事柄なのだというのといわば同様に)まさしくある心理状態にあるという事柄なのだということを疑うものは誰もいなかった」(註8)(九年後の呟き:引用者がつけた括弧ともとからある括弧はちゃんと区別してね。)

 この解釈をとると、心理主義とフレーゲ的立場の差は大した問題ではなくなる。意味がなんらかの「プラトン的」存在物であるとしても、その把握は個人の心理状態による。逆にこの心理状態によって、単一の「プラトン的」存在物が決定される。それならば、心理状態を意味とみなしても、異なる人々が同じ心理状態にあることが可能であるという仮定の上で、意味の公的性格は保たれる。心理主義とフレーゲ的立場は観点の相違でしかなくなるのである。(九年後の呟き:この議論も走り過ぎ。心理主義は「プラトン的」存在物が語と指示対象を媒介すること自体を否定するから、「観点の相違」以上の相違はやはり残ってるって。フレーゲが「把握」という言葉で正確に何を意味しているのかもっともっと突っ込んで分析しないと。芸を見せろ芸を!)二つの仮定の第二は、内包は外延を決定する、というものである。もう少し詳しく言うと、伝統的に、二つの語が外延を同じくしながら内包が異なる場合というのはいくらでも考えられてきた(例えば「心臓をもつ生物」と「腎臓をもつ生物」)。しかし、その逆に、内包が同じである二つの語が、外延を異にするのは不可能であると考えられてきた。これによって、内包が決まれば外延もただ一つ 決定するという仮定が導かれる。(九年後の呟き:「仮定が導かれる」は変。議論の進め方がつたないぞ。)この内包と外延を意義とイミに読み替えれば、フレーゲにおいても同じ仮定が存在するのはすでに見たとおりである。

 さて、二つの仮定をまとめると次のようになる:
仮定1 語の意味を知るということは、ある心理状態(方法的独我論でいうところの)にあるということにほかならない。
仮定2 語の意味(内包のいみでの)はその外延を決定する(内包の同一性は外延の同一性を帰結する、といういみで)。(註9)
そして、パットナムの戦略は、この二つの仮定の連言が偽であることを示すことによって、端的に伝統的意味論の誤りを示そうというものである。では、仮定1と仮定2の連言とは具体的にどういうことだろうか。仮定1のところで、ある語の意味を知っているという心理状態は「プラトン的」存在物であるところの意義をただ一つ決定することを述べた。また仮定2では、その意義によってただ一つのイミが決定される。それならば、ある人がある心理状態にあることによって、そこでイミされている指示対象がただ一つ決定するはずである。さらに言うなら、二人の人が同じ心理状態にあって、しかもそこで指示している対象が違っていることは不可能である。そして、パットナムが反証として示すのは、この不可能事が理論的に起こりうるということである。(九年後の呟き:心理主義とフレーゲを無理矢理一緒に扱おうとしているから議論がいびつになっている。心理主義ではこうこう、フレーゲではこうこう、で結果としてどちらにもこの反例はあてはまる、とわけて議論しないと。あと、これはパットナムの方の問題だが、「さらに言うなら」以降はぜんぜんそこまでの話から導けていないが、この導出こそ丁寧にやらなきゃ意味がないのに。ある心理状態のトークンが語の外延を一意に決定するかどうか、とある心理状態のタイプが外延を一意に決定するかどうか、は別問題で、仮定1と仮定2だけではせいぜい前者までしか言えてないが反証されるのは後者。)

 さて、パットナムが示す反例とは以下のようなものである。我々の地球とほとんどの点でそっくりな双生地球が銀河系のどこかにあるものとする。双生地球においては、住人も言語も我々の地球と非常に類似している。地球と双生地球の重要な違いの一つは、双生地球で「水」と呼ばれているのはH2Oでなく、非常に複雑な化合物XYZである。XYZは常温常圧下でまったく水と見分けがつかず、地球においてH2Oが果たしている役割をすべてXYZが果たしているとしよう。ここでまず確認しておく必要があるのは、現在の我々は、双生地球に行ってそこで「水」と呼ばれているものがXYZであることを知ったなら、地球と双生地球では「水」の意味が違う、つまり水という語の外延が違うと判断するであろう、という点である。それでは1750年まで時間をさかのぼらせるとどうなるだろうか。時代が変わってもやはり地球の「水」はH2Oを指すであろうし、双生地球の「水」はXYZを指すであろう。しかし、当時の人はそうした組成について何も知らず、ゆえに両者において「水」の意味を知っている心理状態はまったく同一と考えてよい。こうして、外延が異なっても心理状態として同一でありうることが示された。

 今度は同じ例をアルミニウムとモリブデンについて考えてみる。モリブデンとアルミニウムは素人では見分けがつかないが、冶金学者ならば簡単に見分けることができる。双生地球上ではモリブデンがアルミニウムほど豊富にあり、「アルミニウム」と呼ばれているものとする(逆にアルミニウムは希少で「モリブデン」と呼ばれている)。この例も、1750年までさかのぼると、一般の話者にとっては先の例と同じことが成立する。先の例と違うのは、1750年においても、冶金学者は両者の外延の違いを明白に知ることができる点である。

 さて、これらの例は、実際に伝統的意味論の矛盾を示しているだろうか。仮定1、2を認めつつ上の現象を説明することはできないだろうか。パットナムはあまり立ち入って述べてはいないが、少なくとも二通りの反論が想定される。

 一つには、1750年の話者と現在の我々、あるいは通常の話者と冶金学者とでは、語の外延が違うのである、とする反論が考えられる。つまり、1750年頃の人にとっては「水」の外延はH2OとXYZの両方だった、というのである。しかしこの立場をとると、語の指示は話し手個々によって違うことになり、共通の真理について考えることが非常に困難になる。もう一つ考えられるのは、そもそも1750年における地球上の人々は「水」という語の正しい意義を知らなかった、とする反論である。この立場ならば、真理という概念を保持しつつ仮定1、2も保たれることになる。しかし、そうすると、語の正しい意義を知っている人などいないということにならないだろうか。我々は言葉を使って何かを指示することができないのだろうか。(九年後の呟き:せっかくよいポイントをついているのに、議論をあせりすぎ。特に、二つ目の反論についてはもっと丁寧に分析を展開しないと。)

 かくして、これらの反論の分析を通じて、我々は最初の疑問、いかにして指示や真理の概念が可能か、という問いかけに帰ってきたわけである。しかし、ここまでの話の流れでそれへの解決の方向も見えていると言ってもよかろう。二つの仮定の連言が矛盾を引き起こす以上、そのいずれか一方を否定してしまえばよいのである。先まわりして言ってしまえば、パットナムは仮定1を否定することで問題の解決をはかるのである。(九年後の呟き:ここも急ぎ過ぎで、最初の「魚」や「粒子」の例が、水やアルミニウムの例とどういう関係にあるのか明確にしておかないと、ちゃんと話がつながらない。)

第二章 パットナムの意味論
a.言語的分業(division of linguistic labor)

 アルミニウムとモリブデンの例において、一方は外延を見分けることができ、他方はそれができないような二つの話者のグループが同一の社会のうちに存在することが述べられた。これは他の語に関しても起こっている。例えば金について考えてみると、実際に金を使用する人と、金であるか否かの判定をする人との間には一定の分業が成り立っている。ある物体が金であるか否かを金を使用するすべての人が判定できる必要はなく、分からなければ専門家にききに行けばよいこうした実際上の分業は、言語的な分業ももたらす。なんらかの理由で金が重要であるような人は、「金」という語を獲得しなくてはならない。しかしその判定基準まで獲得する必要などないのである。ある社会に属する個々人は判定基準を知らなかったとしても、専門家に判定を任せることで、外延を決定し、指示を行うことができる。つまり、外延の判定基準は集合体としての社会に帰属するものとして考えられる。(九年後の呟き:「語の獲得」や「判定基準の獲得」という表現でなにを意味しているのか最低限の説明を加えないと何言ってるかよく分からん。)

 こうした考え方を押し進めて、パットナムは「言語的分業の普遍性に関する仮説」をたてる。「どの言語社会も、上で述べたような言語的分業を例証している。すなわち、ある語に結びついた判定基準がその後を獲得している話者の一部分にのみ知られており、他の話者によるその語の使用は彼らと適切な部分集合内の話者との組織的強力にもとづいているような、そういう語を、どの言語社会もいくつか持っている。」(註10)

 さて、こういう言語的分業によって社会的に指示を決定することができると考えるなら、前章で提出された問題に答えることはたやすい。意味を知る、というのは、(方法論的独我論でいうところの)心理状態ではなく、より社会的な行為だったわけである。1750年における水とXYZの区別の問題においては、通時的な分業の存在を考えることもできよう(もっともパットナム自身はより本質的な解決を求めてこの解釈をとらないのだが、それについては指標性の説明のところで触れることになろう)。

b. 入門事象(introducing event)

 言語的分業は、確かに一つの見取り図を与えてくれるが、それだけでは指示の理論として十分でないだろう。社会という語はあいまいであるし、専門家と同じ社会に属するというだけで他の話者が指示を行うことができる、ということを十分に説明していない。それに対し、より個人的なレベルで、語の指示を保証しうる理論として考えられるのが入門事象と因果連鎖を用いた見取り図である。(註11)

 例えば、「電気」という語の獲得について考えてみよう。歴史的に見て、この語の内包として共有されてきた内容はほとんどない。せいぜいある種の流れ、または動きであるということぐらいであろう。では「電気」が何を指示するか、どうやって伝えられてきたのだろうか。そこでパットナムが提案するのが、「電気の記述が与えられる状況」に対して「ある種の因果連鎖」によって結びつけられることによって指示を獲得するのだ、という図式である。(註12)ここでいう「記述が与えられる状況」とは、多くはその指示対象が実際にあらわれるような状況である。電気について言うなら、フランクリンの凧の実験の際に、「この凧糸を伝わっておりてくるのが電気である」とそばにいた人が説明されたなら、その人は電気という語を獲得し、以後使用することができるであろう。より簡単には、直示による定義、「これが電気である」という形による方法も考えられるが、電気のような物理量(九年後の呟き:電気って物理量か?電力や電流が物理量だというのならまだ分かるが)においてはこの方法は困難である。逆に、指示対象があらわれず、近似的に正しい確定記述が与えられた場合には、やはり語の獲得が行われるであろう。

 これらのいずれかを介して語と指示対象を結びつける、つまり語を獲得することを、パットナムは入門事象と呼ぶ。それ以後のその人のその語の使用は、入門事象と因果的に結びついている。さらには、いつその語を獲得したかを忘れたとしても、前に指示したのと同じ対象を指示しようという意志によって因果的結びつきは保たれる。また、別の人にあいまいな記述とともにその語を伝えるならば、相手は自分で指示対象を示すことはできないが、語と指示対象の結びつきは、もとの人の入門事象へ因果的に連鎖していることによって保証される。入門事象における指示の固定は、それ以前の語の使用に依存している。正しく伝達されるならば、入門事象の前と後でごと指示対象の関係は変わらないはずである。

 では、そもそも指示が固定されたのはいつなのだろう。そう考えると、一種の「命名儀式」のようなものの存在が想定されてくる。しかし、固有名ならばともかく、自然種の名前においてそうした儀式を特定できるかどうか疑問である。パットナムは、入門事象というできごとを介して意味を伝達する図式によって、この架空の「命名儀式」に指示の根拠を求めなくてもよいようにしよう、と考えたのであろう。(九年後の呟き:右も左も分からず書いてる四回生としては、この分析はできすぎ。introducing eventの概念はパトナムの意味理論を分析する人の間でもほとんど話題にならないけど、これが重要な洞察を含んでいるという点では九年後の私も同意。でもやっぱり舌足らずだね。)

 さて、この入門事象という概念を、先の言語的分業の図式とかさねあわせてみるとどうなるであるか。自分なりに考えてみたい。まず、一定の因果的連鎖で結ばれる一つの言語社会がある。因果性によって、彼らが同一の対象を指示していることが保証される。この連鎖の一端に専門家も位置を占める。専門家もまた誰かから入門事象を経てこの語を獲得したであろうという点では連鎖の中で特別な位置を占めるものではなかろう。しかし、専門家は、ある対象が、その語の外延に属するか否かの判定方法を知ることができる。そしてその社会の他の構成員が指示するものは、同一の対象であるから、同一の判定基準に従うはずである。つまり、専門家以外の話者は、その連鎖の中にあることで、自ら意図すると否とにかかわらず、そうした判定基準を満たすものとしての外延を指示しているのである。(九年後の呟き:おもしろい考察なんだが、この判定方法というやつがどこから出てくるかちゃんと説明しないと。)

c. 規格型(stereotype)

 さて、入門事象においては、「近似的に正しい確定記述」を介して伝達を行うことができた。この「近似的に正しい確定記述」の本質をここではもう少しきちんと整理しよう。

 例えば、「クワイン」という語を伝える際に「ローマ皇帝の名前である」という記述を付け加えるならば、伝達をうけた者は「クワインはローマ皇帝である」という信念を持つであろうが、にもかかわらず「クワイン」によって現代の論理学者を指示していることはありうるであろう。(九年後の呟き:ほんとに?クリプキ先生にまどわされすぎじゃない?)実際、彼の信念にかかわらず、彼がその言語社会に属する以上、その語の指示は社会的に決定されるのである。しかしこのままではわれわれの日常会話は不可能となってしまうであろう。そこでお互いに、語の指示対象について、おおむね正しい信念を共有していることが保証されることが求められる。これが「規格型」の考え方である。規格型の定義はいろいろになされている。(九年後の呟き:いろいろな人がいろいろな定義をしてるのか、パットナムがいろいろな定義をしているのかこれでは分からん。文脈からどうやら後者らしいということが分かるが。)「意味論は可能か?」(1970)(註13)においては、規格型とは外延の通常の構成員を記述するものとされた。「『意味』の意味」の中では「不正確かも知れない規約的諸概念」(註14)問いう言い方がなされている。例えば「虎」という語に関して、ある人が雪の球をさして「あれは虎ですか」とたずねたとする。彼の「虎」という語は、彼が因果的連鎖の内にいる以上、確かに外延として虎の集合を指すであろう。しかし周囲の我々は彼が「虎」という語を獲得しているとはみなさないであろう。逆に、我々が「虎」という語を伝達する場合、我々がどういう情報をいっしょに伝達しようとするか考えてみる。そうすると、ネコ科であり、黄色に黒の縞があり、ジャングルに住む、等の記述が考えられる。つまり、日常的に虎について会話する場合、最低限この程度のことは知っていることが期待されているわけである。もちろんこの最低限は、文化と話題に強く依存している。我々の文化ではニレとブナが区別できることは要求されないが、別の文化ではそれが要求されるかも知れない。また、同じ文化の中でも、個人の言語能力(註15)や、どこまでを規格型とみなすかという判断によって、規格型に個人差がでてくるであろう。ともあれ、ある言語文化において話し手が知っていることを要求される規約的な記述が規格型なわけである。もちろん、規格型が外延の判定基準と一致する場合もあろうが、そうでない場合の方が多い。そればかりではない。例えば魔女狩りの時代に「魔女」に関してさまざまな規格型が付与されたが、実際に「魔女」という語の指示対象となった人々は、それらの特徴は有していなかった。それでも規約的概念としての「魔女」の規格型は情報伝達のために機能したのである。より身近な例では、「虎」の規格型として「縞がある」ことが挙げられるが、だからといって、白子の虎に対し、規格型を理由に「白子は虎ではない」とはいわない。もっとも、普通はこれらの規格型は指示対象の通常の構成員の特徴を正しくとらえており、だからこそ日常生活が大した不便もなく行えているのだといえる。

 また、もし規格型が誤っていたとしても、それが語の指示対象についてのものであることがはっきりしていれば、やはり規格型として役に立つ。例えば「電気」について、ある条件下である結果をひきおこす原因であると記述した上で(その結果は実際電気によって引き起こされるものとする)さらに別のいくつかの性質を誤って付け加えて伝えるならば、それは電気についての(誤ってはいるが)近似的に正しい描写と考えてよいであろう。この場合、この記述によって「電気」という語の外延はきちんと伝わっているからである。この例で見られるように、規格型は、入門事象において重要な役割を果たす。

 規格型の役割をまとめると、およそ次の二点となろう。一つには、規格型は語と共に伝達され、指示対象についてのおおよその概念を与えることで、社会の中で有意な情報交換を保証する。また、ある種の規格型は、確定記述として(たとえ誤った情報を含んでいても)語の指示を固定し、それを伝達する上で一定の役割を果たす。(入門事象のところで言われた「近似的に正しい確定記述」がこれである。)前者に属する規格型でも、後者の役割を果たし得ないものがあるのは確かである。また、入門事象においてあたえられる確定記述は、規格型と呼ぶには、質的に求められる厳密さが違いすぎるとも考えられよう。しかし、どちらにおいても、最低限規格型によって指示が固定されることが期待されているであろうし、逆に、外延の判定基準たりうることが要求されていない以上、その差は規格型内部での程度の差であると言いうるだろう。(九年後の呟き:この規格型(ってしかし凄い訳語だな。ステロタイプでいいじゃん)についての節全体が非常にまとまりがわるい。手際よくやればこの半分の長さで同じことが言えるだろう。しかも、どこまでがパットナムの議論でどこからが自分の分析なのかはっきりさせていないのは大きな減点対象、ってえか学術論文ならそれだけでreject。規格型の二種類の役割とその関係についての分析はパットナム自身はやってないのだが、そこをはっきり書かないと何のために分析してるのか分からなくなるし。)

d.意味論的マーカー

 前節では規格型によって外延の範囲が決定されないことを述べたが、ある種の規格型は、それにあてはまらないものを外延から排除する性質をもつ。例えば、虎にとって「動物である」というのは規格型の一つだが、では動物でない虎を想像することができるかというと、非常な困難をおぼえる。(註16)これは縞のない虎を想像することとは質的に違う問題と考えられる。同種の規格型として、「生物」や「人工物」という規格型がある。これらは、いわば分類の体系をつくる見出しのようなものであり、これらの見出しのもとに一旦分類された項目は再分類されない。これらの見出しは、統語論において「名詞」「形容詞」という見出しが果たしているのと同じ役割を意味論において果たしているものと解釈できる。パットナムは、統語論における見出しを統語論的マーカー、意味論における見出しを意味論的マーカーと名付け、それぞれ語の意味の一要素であるとする。(註17)(九年後の呟き:「規格型」ということばの使い方がちょっとおかしい。「動物」「生物」「人工物」などはふつうは規格型を構成する要素であって、それ自体では規格型ではない。)

 以上によって、パットナムが意味の要素としたものは出そろった。意味には少なくとも4つの要素がある。その4つとは、(1)統語論的マーカー(2)意味論的マーカー(3)意味論的マーカー以外の規格型(4)外延自体。このうち、(4)は、これまで外延の判定基準として語ってきたものである。外延の判定基準と呼んだ場合、その社会における外延を判定するもっとも厳密な方法を指す。しかしここであえて外延の判定基準ではなく外延それ自体を意味の一部としたのは、それ以上のものを含意させるためである。たとえば、ある社会が水がH2Oであることを知らなくても、水の外延はH2Oでありうる。こうしたことを可能にするのが指標性の概念である。(九年後の呟き:例によって正確なところパットナムが何を言っていてどこからが筆者の解釈なのかよく分からないまとめ。だめだめ。)

第3章 指標性(indexicality)
a. 指標性の概念

 ここまでの理論の背景に存在し、パットナムの基本的な発想を説明するのが、以下に述べる指標性の概念である。(九年後の呟き:何度もやっているが、一文で一段落にするのは不可。)

 「今」「これ」「ここ」あるいは「私」のような語は、指標的な語であると言われる。これらは伝統的な意味論においても一種の例外とみなされてきた。なぜならこれらの語は「内包が外延を決定する」というテーゼを明らかに満たさないからである。これらに共通なのは、それが結び付けられている概念ではなく、文脈によって、外延に結びつく、という点である。そして、この性質が他の語にも認められる、というのがパットナムの考えである。例えば「水」という語の伝達について考えてみよう。一番手っ取り早いのは、「これ(あるいは「この液体」)は水である」と直示定義を行う場合である。この直示定義には二つの性質がある。一方では、それは、この液体が我々が一般に「水」と呼んでいる液体と「同一液体」である、という信念を示している。(つまり、この定義は、その液体が例えばジンであったとき修正されうる)。そして、もう一方で、その液体が確かに水であったならば、他の液体が「水」の外延であるための条件として、その液体とある重要な点で「同一液体」でなくてはならない。(註18)(九年後の呟き:パットナム自身はここで'same L' relationという言い方をしているはず。このLってのはよく読むとliquidの略のようなので「同一液体」で悪くはないのだが、その辺の事情をせめて註で説明しておく必要あり。)

 この「同一液体」の関係は理論的なものである。つまり、その同一性を検証する方法がその社会に知られているか否かは同一性に影響をおよぼさない。それというのも、ここにおいては、何らかの検証手段によってではなく、直示された文脈によって語と外延の関係が直接的に結ばれているからである。これをパットナム自身は「指標性」とよぶ。彼自身のまとめによると、「『水』という語には、気付かれていない指標的成分がある。つまり『水』は、このあたりにある水とある類似性関係を有する物質であるということである。他の時、他の場所、あるいは他の可能世界においても、水は、それが水であるためには、われわれの水と『同一液体』の関係を有していなければならないのである。」(註19)

 こうして指標性の概念を導入すれば、指示の因果的連鎖の図式がいかにして可能かは明白だろう。同一の連鎖のうちにあるということは同一の語であるということであり、語と対象の関係が指標的である以上、同一の語は常に同一の対象を指示するのである。同じ理由で、何故1750年においても「水」がH2Oを指示できたかが説明できる。語と外延のつながりは、いかなる検証、判定基準に媒介されるものでもない。1750年に水とXYZを区別できたか否かは問題でなく、XYZは「水」の外延でないと言いうるであろう。また、時間をずらせば、現在のわれわれが検証しえないとしても、我々が水の外延に含めるある対象が水でないと判明することはありうる。もっと言うなら、将来的にも検証されないであろう事柄に関して、我々が「水」と呼んでいる対象が水でないことがありうる。指標性は、記述の不完全さや誤りに左右されない理論的つながりなのである。前章の最後において「外延それ自体」を意味の一要素としたのは、こうした関係をふまえてのことだったのである。

 以上によって、パットナムの意味の理論における指標性の位置は大体明らかになったといえるだろう。パットナム説の核心は、言語的分業、もしくは因果的連鎖によって、何らの判定基準を介することなく語の指示が保証されるということであり、その際に結び付けられる概念は、規格型、という、基本的に外延の拘束力をもたない記述である、ということである。指標性の概念は何故それでうまくいくかを説明するものと考えていいだろう。つまり、パットナムの意味論は、一番根本のところで指標性にその基礎をおいているのである。

 しかし、一方では、指標性を主張することで修正をせまられる部分がある。言語的分業の図式がそれである。専門家による判定は、現在の知識や判定能力によって規定される。だから、そこで示されるのは、語と直接むすびつく外延それ自体であるはずがない。では、我々は言語的分業の図式を放棄して、専門家による判定も規格型の一種としてしまってよいのだろうか。パットナムは「『意味』の意味」の中でこの点については何も述べていない。ということは逆に、言語的分業の図式を放棄する必要を感じていなかったということだろう。これはどう解釈すべきだろうか。一つ考えれられるのは、パットナムは「規格型」のレベルと「外延それ自体」のレベルの間にもう一つ「保証付き主張可能」のレベルを設定している、という解釈である。専門家によって与えられる規準は保証付き主張可能である。それは外延の判定規準であろうとする志向性によって、単に指示の固定を行う確定記述や通常の構成員についての記述と一線を画すであろう。現在の我々が語の意味を知ろうと思えば、理論的にはともかく、実際上はこうした保証付き主張可能な規準によって外延を決定せざるをえないだろう。さもなければ我々は語の意味を知りえないことになるであろう。パットナムは、彼の意味論が実際上無意味となってしまわないように、こうした保証付き主張可能のレベルの存続を認めたのであろう。(九年後の呟き:おいおい、「保証付き主張可能」っていう術語はどこから取って来たんだ?どういう意味なの?ここであつかってる話自体は重要な問題で、のちにパットナムを内部実在論者に転向させる要因になったところなんだけど、やはりかけだしの四回生にそこまで目配りしろと言うのは無理か。)

b. 指標性への反論

 さて、パットナムが指標性を主張した背景には、二つの互いに関連した理由があるだろう。一つは、自然言語は指標的性質を持つという分析であり、もう一つは真理について語る言語は指標性を有するべきだという主張である。(九年後の呟き:この書き出しは意味不明。)

 まず、前者の分析について考えてみよう。もし自然言語について指標性が成り立たないなら、パットナムの議論はいみをなさないだろう。そうした反論としては、指標性が我々の言語的直観に反する結論を導きだす場合を考えればよい。

 最初に、検証しえない真理の概念などいみがない、という反論が考えられる。1750年にH2OとXYZが検証によって区別できなかった以上、両者を分ける理由などないではないか、というものである。この考え方については冒頭でも批判を加えておいたが、より具体的な反論もパットナムによってなされている。(註20)現在の我々ならば、同じ条件下で水とXYZが違うふるまいをするような実験を構成することができるだろう。もしも1750年代の人々の前でその実験を行ったならば、理論的なことは分からなくとも、両者が何か別のものであることを納得することはできるだろう。こうした思考実験が可能なのは、検証可能か否かに関わらない不変の本質が対象の内にあることを示唆している。検証を介してのみ外延が決定すると考えてはこれは説明できないであろう。

 二つ目の反論として、指標的と思われない語の存在をあげることができる。そもそも、名前の由来である指標詞自体、あらゆる場合に指標的に結びつく対象をもちあわせていない。この場合は、例えば「これ」という語全体をまとまりとしてみるのでなく、使われた一回ごとのトークンが、その指示対象と指標的につながると考えるべきだろう。また、「椅子」のような語を説明するには指標性を使って説明するよりは、一定の記述によって定義した方がよりしっくりくるであろう。もともと、パットナムの理論は、自然種や物理量についての理論として考えられたのだから、「椅子」のような語の場合、外延の集合自体が規約的につくられていて、指標性はしっくりこない。しかし、同一性関係の説明の際に述べた、「ある重要な点において同一」という考え方と比べれば、外延をつくる規約もその「ある重要な点」と考えてよいだろう。そうすれば「椅子」のような語も指標的ととらえることができる。

 だが、この解決はさらに反論を生むことになろう。「重要な点において同一」であることが指標的関係を規定するならば、その「重要な点」についての記述を語の意味とみなしてしまえばよいのではないだろうか。何も指標性を持ち出す必要はないではないか。例えば水においては「H2Oである」ことがその「重要な点」であろうし、ならば「H2Oである」ことを水の意味とみなせば、伝統的意味論で十分ではないだろうか。この反論に対しては、パットナム自身の回答がある。(註21)一つには、そうした条件は、我々の求めている「意味」ではありえない。例えば、虎であることの判定規準には虎の遺伝子についての情報も含まれるだろうが、そうすると高度な専門家しか虎という語を使えないことになろう。それでは、我々の使っている言語の意味論としては不適切だろう。もう一つの回答は、「水はH2Oである」と定義してみたところで、H2Oもまた指標的なら、水素や酸素という語も指標的だという点である。(九年後の呟き:ずっと気になってたんだが、対象としての水と、語としての「水」というようにかぎ括弧をつけることできちんと区別すべきところを区別してないところが多すぎ。ここだって「H2O」「水素」「酸素」ときちんと括弧をつけないと。哲学やりたければまず作法をきちんと学べよ。)これらの指標性を否定するならば、記述の無限の連鎖に落ち入るか、循環定義に落ち入るかのいずれかだろう。いずれにしても、検証という手続き自体が不可能になってしまう。こう考えてみると、結局、指標性は、言語が外界の何かを指示するという機能をもちうるのは指標性によってであると結論することができるのではないだろうか。(九年後の呟き:それはいいけどこの最後の文は日本語になってないのではないだろうか。あと、この節の冒頭で出てきた二つの理由とやらとこの節であつかった反論がどういうつながりになっているのかちゃんと説明しないと。)

c. 指標性と真理

 しかし、ここで最後に述べた「言語は外界の何かを指示する機能をもつ」という仮定は、依然として仮説のまま残っている。この仮説自体の是非を問うことは、確かに重要なことではあるが、ここではそれよりも、この仮説の影響について考えたい。始めの方で、伝統的意味論の二つの仮定について述べ、そのうち仮定1をパットナムは放棄したが、もう一つの仮定2、すなわち意味が外延を決定するという仮定は、パットナムも固執した。(九年後の呟き:日本語がどんどんぐちゃぐちゃになってるのはそろそろ息切れし始めてる兆しか?)その結果パットナムは、意味を構成する要素の一つとして外延それ自体を挙げ、それにより意味が決まれば外延が決まるという図式を保持したのである。しかしここで仮定1を選ぶこともできたはずである。それならば語の意味は心理状態であり、外延の決定に関わらないものである、というような図式ができるだろう。しかし、この選択肢を選ぶと、言語が外界の何ものかを指示する機能を持つ、という仮説は否定されることになる。そして、パットナムの基本的なこだわりは他ならぬこの仮説だったのである。つまり、この仮説はパットナムの意味論全体の方向を決定するものだったわけである。(九年後の呟き:この仮説がパットナムの基本的なこだわりであるということはどこで示したんですか?)

 言語が外界の何かを指示できるということは、言語によって外界についてのなんらかの真理を語ることができる、と言いかえることができよう。もちろんここにおいて外界と称されるものは、実在するものであることが前提されていようから、こうした考えは、実在論と深く結びついている。逆にいうと、真理が言語によって語りえないものならば、実在論は空虚なものとなるであろう。実際、伝統的意味論においては、ここで要求されているような真理を語るものとして言語を描くことができなかった。指標性の概念は、言語が真理を語るものとして描かれるためには欠かすことのできないものであり、実在論への道を開くものであるといえよう。(九年後の呟き:ここもパットナムののちの転向を考える上で大事なところ。しかし、背景をきちんと説明せずにいきなり実在論の話をするのはやはり唐突の感はいなめない。)

第4章 クリプキの意味論との比較

 パットナムに少し先行する形で、彼とほぼ同じ結論に達したのがクリプキ(Saul Kripke)である。パットナム自身、因果的連鎖や指標性の着想はクリプキ説にヒントを得るところが大きかったことを認めている。しかし両者のアプローチは全く違っている。以下、クリプキの議論を簡単に紹介し、パットナム説との相違をまとめてみたい。(註22)

 クリプキもまた、フレーゲやラッセルへの批判からはじめる。フレーゲの理論では、「アリストテレス」という名前は「アレクサンダーの教師だった古代最後の哲学者」のような確定記述と同一視できる。すると、「アリストテレスはアレクサンダーの教師であった」という命題はアプリオリに真であることになろう。しかし、それでは我々はアリストテレスがアレクサンダーの教師でなかった可能世界について語ることができないのだろうか。(註23)クリプキは、様相論理学的観点から、こうした直観に反する結論につながる二つの誤解を分析する。一つは、「アプリオリ」であることと「必然的」であることの区別である。「アプリオリ」とは経験に先立って知られうることであり、いわば認識論的に必然であることである。一方、それに対して形而上学的に必然なものもあり、クリプキはこちらを「必然的」と呼ぶ。「必然的」であるということは、あらゆる可能世界で真であることである。この区別を導入すれば、先の例の困難は解消される。名前と確定記述の関わりはアプリオリであっても必然的ではなかったのである。

 もう一つの誤解とは、可能世界を、例えば強力な望遠鏡で発見されるようなものとみなすことである。そう考えるから、その世界で何が我々の言う「アリストテレス」にあたるか調べるための確定記述が必要だという話になるのである。しかし、可能世界は、発見されるものではなく、約定(stipulate)されるものである。可能世界は、現実の世界との対比でこれこれの点が違っていた世界、として約定されるのだから、記述を介して同定する必要などないのである。

 さて、以上の点をふまえた上で、クリプキは名前が必然的に(つまりあらゆる可能世界において)同じ対象を指示する固定指示子(rigid designator)だと主張する。  クリプキは、固有名について、最初の命名儀式(initial baptism)によって指示が固定されるものとした。この命名儀式は直示によっても、確定記述によってもよい。一旦固定された指示はあらゆる可能世界において、その同じ対象を指示する。また、現実の世界における伝達の連鎖においては、それと結び付けられる記述のいかんに関わらず、同じ対象を指示し続ける。人は、そうした伝達の連鎖の末端にいることによって、指示対象について何も知らなくとも、名前を使って指示を行うことができる。これは、名前が指示対象と必然的な仕方で結びつく固定指示子だからであり、名前のこうした性質を固定性(rigidity)と呼ぶ。これは事実上パットナムの指標性と同じ概念と言ってよかろう。

 クリプキは、同じ図式のもとに自然種の名前も説明する。しかし、もともと固有名の理論として考えられたため、自然種への拡張は不都合を生じる。まず、固有名に於いてはその存在を仮定してよかった命名儀式を、自然種においても安易に仮定して宵かどうかという問題がある。また、この固定性の説明では、自然種の名前(場合によっては固有名も)の指示対象がしだいに変化するという事態を説明できない。これらの点はクリプキ自身気付いているが、解決を提示するに至っていない。(註24)  パットナム説は、基本的な点ではクリプキと同じ結論に達しているが、上の二点に関しては、直接的な解答ではないにせよ、解答となるものを用意している。命名儀式については、入門事象の設定によって、命名儀式に指示の固定を求めなくてよいようにしている。もう一つの、指示の変化については、パットナムは直接は触れていない。しかし、入門事象において与えられた記述が明確に別の対象を指示している場合があるだろうし、それならばそこで指示が変化してもおかしくはない。また、言語的分業は、共時的な範囲内で指示を固定する試みと取ることができるであろうから、この図式においては、指示対象の変化は問題とならない。指示は、その社会の共時的構成員によって社会的に決定されるのである。(九年後の呟き:こんなおいしいポイントをこんなにあっさり流してしまうのはもったいない。もっと丁寧に論じてほしいところだった。具体的には、指示の変化についての入門事象を使った説明と言語的分業を使った説明とがどういう関係にあるのかもっと分析が必要。あと、せっかく「指標性」を中心にパットナムをまとめてるんだから、クリプキとの比較でも指標性がどうきいてくるか説明してくれるとよかった。)

 それとは別に、パットナムがクリプキと大きく見解を異にするところは、名前の伝達の際に、名前自体だけでなく、何らかの規格型もまた伝えることを要求した点である。

 これらの相違点から大ざっぱに言えることは、パットナムが、クリプキに比して、実際の言語の運用についてより大きな関心を持ち、その説明を試みたという点であろう。(九年後の呟き:言葉の問題だが、まがりなりにも論文で「大ざっぱ」に結論を出したりするなよ。)


 さて、以上でパットナムの意味論についておおよそのところはまとめることができたのではないかと思う。フレーゲ的な意味論との比較においては、パットナムが、指標性を自らの理論の根底におき、その背景として、言語とは何かを指示し、真理について語るものである、という言語観を持つことが示された。また、クリプキとの比較においては、規格型の概念を中心として、日常的な言語使用に密着した意味の理論を志向したことが特筆されるべきだろう。ここで述べた意味の体系には、より立ち入った議論を要求する点がいくつかある。例えば、指標性による外延と規格型の関わりはどうなるのか、規格型がここで定義されたようなものならば、それが語の外延についてのものであることがどうして保証できるのか、規格型による世界像によって日常生活を営んでも支障がないのは何故か、等である。これらの点については、パットナム自身によっても模索が続けられているが、(註25)意味論としてより、それに先立つ認識論に関わる問題といえるだろう。いずれにせよ、ここまでの部分だけでも、一つの意味の理論として、独立の体系をなし、選択肢となりうる図式を提示していると言えるのではないだろうか。

注釈

(1)H. Putnam, 'The meaning of "meaning"', in K. Gunderson (ed.) Language, Mind and Knowledge, Minnesota Studies in the Philosophy of Science VII, University of MInnesota, 1975 及び H. Putnam, 'Explanation and reference' in G. Pearce and P. Maynard (eds.) Conceptual Change, Dordrecht Reidel, 1973。いずれもH. Putnam, Mind, Langage and Reality: Philosophical Papers volume 2, Cambridge University Press, 1975 に再録されてり、両論文からの引用は同書のページ数によった。

(2)フレーゲ意味論の中心は文の意味についての分析であるが、パットナムの主要な関心は語の意味であり、以下に述べるフレーゲ意味論も、もっぱら語についての部分だけ取り出してある。

(3)文中「意味」に関するさまざまな語が使われるため、以下の通り用語を統一した。まず、内包-外延のような分析が行われる以前の意味は「意味」と表記する。フレーゲの用語におけるSinnとBedeutungはそれぞれ「意義」と「イミ」と表記する。そのほか、文中で慣用的表現(「〜といういみで」のような)で意味という語を使う際には「いみ」と表記した。(九年後の呟き:飯田先生の本から知恵を借りたことを明記すべきでしょう。)

(4)G .Frege,"Über Sinn und Bedeuting", in Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik, C (1982) S 25-50. からの引用。訳文は『フレーゲ哲学論文集』藤村龍雄訳、岩波書店1988のp.35。以下この論文からの引用は同訳書により、ページ数も同訳書のものを付す。

(5)同書 p.42。

(6)同書 pp 36-37。

(7)同書 p.35。

(8)H. Putnam 前掲書p.218。なお、訳文は『精神と世界に関する方法』藤川吉美訳、紀伊国屋書店1975によったが、引用者の判断で訳文を改めた所もある。

(9)同書 p.219。

(10)同書 p.228。ちなみに、自然種の名前についてはおおよそこのテーゼが成り立つであろうが、人工物(たとえば「椅子」)の名前についてはこうした分業があまり認められないことはパットナムも指摘している。

(11)同書pp.189-200。introducing eventは、素直に訳せば「ある語を導入するという事件」とでもなるのだろうが、適当な訳がうかばなかったので、ここでは仮に邦訳書にならって入門事象と訳した。この入門事象に関する項目は「『意味』の意味」の中にはなく、2年前の「説明と指示」に出てくる内容である。であるから、「『意味』の意味」においてこの仮説を放棄した、と解釈することもできる。あるいは言語的分業の図式だけで十分と考えたのかもしれない。しかし、ここでは同一体系内において、言語的分業のあいまいさを補完しうるものとして入門事象を解釈し、紹介することにした。

(12)同書p.189。

(13)H. Putnam, 'Is semantics possible?', in H. Kiefer and M Munitz (eds.) Language, Belief and Metaphysics, Volume 1 of Contemporary Philosophic Thought: The International Philosophy Year Conference at Brockport, State University of New York, 1970. この論文もパットナム前掲書に収録されている。この論文の段階では、規格型は、通常の構成員にとっては分析的ではないが正しい記述であるという限定があった。

(14)パットナム前掲書p.249。

(15)ここでいう言語能力とは、規格型についての知識の量も含んでいる。パットナムは意味を知ることにおいて、統語論的知識と意味論的知識を一体のものとみなしている。

(16)ただし、ここにおいて二つの場合をはっきり分けておく必要がある。一つは、現に我々が「虎」と呼んでいる対象全部がロボットであったことが判明したような場合である。この場合には「虎は動物である」という規約型は修正可能であろう。しかし、現にわれわれが「虎」と呼んでいる対象が動物であるときに、例外的に虎の特徴をそなえたロボットを「虎」の外延とみなすのは困難である。ここで言っているのはこの後者の場合についてである。

(17)ここで統語論的マーカーを意味の一部とするのは唐突な気がする。が、註の15でもふれた通り、パットナムは語の意味を知ることを、実際にどう使うかの知識も含めて考えており、そのため統語論的マーカーも意味の一要素となるのである。

(18)ここでパットナムが言っていることは、結局、現に我々が使っている用法に根拠を求めようというものである。現にそうして使っている、という観察に基づいた直示定義を基礎にすることで、命名儀式の必要をなくそうというのである。 (九年後の呟き:何言ってるかよくわからないが、これがあとでクリプキとの比較に効いてくるんでしょう?だったら註なんかでなく、本文でもっときちんと議論しないと。)

(19)前掲書p. 234。

(20)同書pp. 237-238。

(21)同書p. 240及びpp.265-266。

(22)以下の要約は、S. Kripke, Naming and Necessity, Basil Blackwell, 1980 によった。

(23)これは名前と対応するのを記述群だとしても問題は解消しない。それら記述群の大半を満たさない者はアリストテレスでないとするなら、それらを満たさないアリストテレスについて語ることができなくなる。(九年後の呟き:これだけでは知らない人には何の話してるかわからないって。せめてサールの名前くらい出しておくべし。)

(24)クリプキ前掲書pp.162-163。ここで指示対象の変化の例として挙げられているのは「サンタクロース」と「マダガスカル」である。「マダガスカル」は、もともとアフリカ大陸内の地名だったのを、西洋人が誤って島の名前ととりちがえたという。

(25)最近の、意味論にふれている著作としては、H. Putnam, Representation and Reality, MIT Press, 1988がある。

参考文献

1. H. Putnam, Mind, Langage and Reality, Cambridge University Press, 1975.
2. H. Putnam, 'Meaning and reference' reprinted in S. Schwartz (ed.) Naming, Necessity and Natural Kinds, Cornell University Press, 1977.
3. H. Putnam, Reason, Truth and History, Cambridge University Press, 1981.
4. H. Putnam, Representation and Reality, MIT Press, 1988.
5. S. Kripke, Naming and Necessity, Basil Blackwell, 1980.

飯田隆『言語哲学大全I 論理と言語」勁草書房 1987年
フレーゲ『フレーゲ哲学論集』藤村龍雄訳 岩波書店 1988年
坂本百大編 『現代哲学基本論文集I』 勁草書房 1986年
パットナム『精神と世界に関する方法』藤川吉美訳、大出晃監修 紀伊国屋書店 1975年
クリプキ『名指しと必然性』八木沢敬、野家啓一訳 産業図書 1985年


(九年後の呟き:総評。まだまだ荒削りで、日本語についても、引用のしかた・議論のまとめかた・紙数の配分のしかたについてもかなり修行が必要だが、将来性は感じさせるかも。これで提出されたらまあしかたないから通すが、事前にみたら全体の書き換えを命じるところでしょう。)