生殖医療と社会的圧力

伊勢田哲治

生殖をめぐる技術の発展は生殖医療に大きな変化をもたらし、さまざまな倫理問題を起こしている。人工授精・体外受精にはじまって、代理母、多胎児の減数手術、出生前診断と選択的妊娠中絶、男女の産み分け、着床前診断、ヒトのクローンなど、この分野で真剣な倫理的考慮を要するトピックは非常に多い。こういう分野において、倫理学者、特に理論的な倫理学者はどういう貢献ができるだろうか。本稿は、込み入った問題を解きほぐすために倫理学に何ができるか考えるため、これらの技術の開発に共通する一つの影の推進力としての「社会的圧力」について考察する。ただし、もちろん生殖医療をめぐる問題がすべて社会的圧力の問題に還元されるというつもりではなく、倫理学理論の応用に関するひとつの事例研究として読んでいただきたい。

1 不妊治療と社会的圧力

不妊治療を巡る倫理問題の概観

不妊カップルが子供を持つための生殖技術の利用、いわゆる不妊治療(「治療」という表現自体にたいする批判も存在するが、ここでは慣用に従う)の手法は多種多様である。人工授精や体外受精のような比較的古典的手法にはじまり、精子、卵子、子宮などを他人のもので代替するさまざまな技術が生み出されている。体細胞クローン技術を使えば、精子や卵子そのものがクローン胚で代替されてしまう。遺伝上の両親と産みの母と社会的な両親とが全然別になることも技術的には可能であり、クローン技術の場合には、そもそも遺伝上の両親が存在しないことすらありえる。これらの技術は補助生殖技術(assisted reproductive technology, ART)と呼ばれはするけれども、実際には単なる「補助」(assistance)ではとうていなく、生殖のありかたそのものを改変しつつあるといえる。

不妊とその治療としての補助生殖技術にまつわる倫理問題についてはさまざまな角度からの論議がある(Frith 1998; McClure 1998)。こうした技術の進展に懸念を表明する側の論拠は、そうした技術が「自然」でないとか家族の絆を破壊するといった保守的な観点の論拠から、そもそも不妊は病気ではないので治療するにはあたらない、という概念的な論拠、そして医療資源の配分に関する心配や養い親を必要とする孤児の行き場所がなくなるのではないかという社会的な心配までさまざまである。これに対して、例えば国連人権宣言にいう「結婚し家族を営む権利」などの拡張として生殖の権利を主張する立場がある。より一般的には、両親の自己決定権を根拠として、他者に危害を加えない限り、こうした生命操作は許されるべきだ、という主張がなされてきた。

フェミニズムからの視点

フェミニズムはながらく中絶の問題について女性の自己決定権を主張してきたのであるから、ここでも両親の自己決定権の側を支持しそうに思われる(し、実際そういう議論をするフェミニストもいるようである)が、実のところフェミニズムの側からの議論として目立つのは、むしろ不妊治療に対する懸念の声の方である。上述の論争においてはとりあえず両親が自己決定の権利を持ち、それを行使できる状態にあるということが前提とされているわけであるが、フェミニズム系の批判者からは、そもそも両親の自己決定権はきちんと行使されているのかどうか、という、社会的な文脈からの批判も出されている。これが本稿で特に注目する論点である。

こうした批判の根拠となっているのは、結婚した夫婦は子供を作らなくてはならないという社会的圧力があるのではないかという疑いである。日本においては「イエ」制度とのかかわりで不妊治療への社会的圧力が論じられることが多いようである。たとえば浅井(1996)は、不妊治療の現場で不妊女性が自分で何かを決定できる場面がほとんどないことを指摘する。浅井はそれでも不妊治療を拒否しない女性たちについて「子産みに対する何か強迫的なものを感ずる」という感想を述べ、「このような生殖技術の臨床現場において、人工授精や体外受精の技術を受け入れていくことが、果たして女性の「自己決定」と言えるのであろうか」(267ページ)と疑問を提示する。そして、その「強迫的なもの」の背景として第一に挙げられるのがわれわれの意識の中に残るとされる「イエ制度」である。アメリカにおいても社会的圧力の観点から不妊治療を批判するフェミニズム系の議論は存在する(アルディッティ1986、クライン1991など)。アメリカには「イエ」という概念はないものの、「母性」についての社会通念のために子を持たない女性は半人前のように扱われ、これが社会的圧力として働く。

このような指摘は、補助生殖技術そのものに対する批判として出されている。不妊治療の技術がこれほど発展したのは、単に両親がどうしても子供を持ちたいというよりは、そのように思わざるをえないところに追い込まれている、といった分析がなされる。そうした分析が正しいなら、倫理的含意として、子供を持ちたいという両親の自己決定や強い要望を不妊治療推進の根拠とするのは留保が必要だということになるだろう。これは、個別の事例における治療推進だけでなく、「治療を望むカップルがたくさんいるから」という理由で補助生殖技術をさらに発展させていくという論法にも釘をさすものとなっている。(1)

以上のようなフェミニズム系の分析に対しては、実はフェミニズム自体の中からも批判が出ている。たとえば、柘植(1996)は、フェミニズムがほかの文脈では女性の自己決定権を強調しながら、この文脈でだけ社会的圧力を強調することは「言い逃れ」にすぎないのではないか、という批判を行っている。もしも自己決定の能力がこうした圧力の存在だけで疑問視されてしまうならば、ほかの文脈でのフェミニズムの主張も危うくなってしまいかねない。また、「母性」についても、柘植は、必ずしも社会的要因だけでなく、生物学的な要因や、本人の選択という要因など、さまざまな要因が分かちがたくからまりあって「子供がほしい」という欲求が形成されていることを指摘する。社会的圧力ばかりを強調することはその意味でも適当ではない。

ここで問題となっている、社会的圧力の存在は自己決定を覆す根拠になるかどうかという問いにどう答えるにせよ、少なくとも自己決定と外的な要因の関係について丁寧なとりあつかいが必要であることはまちがいないだろう。たとえば、もしも、外的な力によって不本意に選ばさせられている状態では自己決定はないとするなら、たとえば「雨が降っている」という「天候的圧力」によって傘をさした人は、自己決定を行っていないことになってしまう。「天候的圧力」と「社会的圧力」の間に差を設けるなら、何を根拠にするのか、それが本当に根拠になるのか、といった問題が解決されなければならないだろう。

2 選択的妊娠中絶と社会的圧力

wrongful lifeの問題

社会的な圧力が生殖技術に関連して働くもう一つの文脈は、出生前診断と選択的妊娠中絶(あるいは着床前診断と胚の取捨選択)における優生主義の問題をめぐってである。ここでは社会的圧力は不妊治療の場合とは逆方向に、つまり障害を持った子供を作ってはならないという方向で働くとされる。これは、子供を作る圧力と同じような形で、直接両親の決定に対してかかってくることもあるだろうが、生殖医療の倫理で問題になっているのは、もっと構造的、ないし間接的な圧力である。

この、構造的・間接的圧力の問題を考えるための出発点として、障害を持って生まれた子供が親や医師を訴えるという、いわゆるwrongful life(誤った生命)の問題を考えてみよう。最近話題となっている事例(Spriggs and Savulescu 2002)では、フランスで17歳の障害者の原告が「生まれてきたこと」自体に関する損害賠償請求を行い、2000年に最高裁がその請求を認めたという事件があった(Perruche判決)。この事件の場合、医者は母親が風疹にかかっていることに気づかず、風疹にかかっていると診断されたなら中絶するつもりだった母親はそのまま子供を産んで、その結果生まれた子供が障害児だったとのことである。この判決は「生まれてこない権利」(right not to be born)を認めたものとして注目された。その後同じような判決がダウン症の子供について2001年にも出されたが、裁判所のそうした態度に対する障害者団体などからの抗議も激しくなった。障害者団体は、そうした判決が、障害を持って生きるより死んだ方がましだという判断を含んでいる点、そして選択的中絶などの優生主義を助長する点を問題とした。結果としてフランス議会は生まれてきたこと自体について損害賠償を求めることを禁止する法律を2002年に可決した(Eaton 2002)。この法律の登場によってwrongful lifeをめぐる論争はさらに白熱しているようで、Journal of Medical Ethics誌上でもこの判決をうけた特集が組まれている。

wrongful life論争について注意すべきことは、この論争ではたとえば胎児性水俣病の責任をチッソに問うというのとはまったく違うことが問題になっているという点である。胎児性水俣病の場合には、ある特定の個人が、本当ならば障害もなく生まれて来ることができたはずなのに重度の障害を負って生まれてきたことが問題となる。これに対し、wrongful lifeの事例では、もしもその特定の個人が生まれてくるならば障害を持たざるを得ないことは不可抗力の背景状況によってすでに決まっていて、障害を持って生まれてくるか、それともそもそも生まれてこないか、という対比が問題となっている。

disabilityに関する二つのモデル

wrongful lifeという概念や「生まれてこない権利」を否定する側の論拠はさまざまで、たとえば生まれてくる前の胎児はそもそも法的人格を持たないから損害のうけようがない、といった議論もある(Shapira 1998による批判など参照)。しかし、本稿の観点から言って重要なのは、社会的な文脈とのかかわりでwrongful lifeという概念を否定する論法である。先にも見たようにwrongful lifeという考え方を障害者団体が問題にするのは、それが障害を持った生を不存在(上では「死んだ」状態という言い方がされているが、安楽死の問題などとの比較をする上でも、死んでいることと存在していないことは一応区別する必要があろう)よりも劣っていると見なすこと、そしてこの考え方が選択的妊娠中絶による優生主義を促進すること、の二点である。後者はともかく、前者の論点は障害を持つ生の価値に関する議論であるから、一見社会的圧力は関係ないように思われるかもしれない。しかし、実はこの論点は、障害をどう定義するかという論点とからんで社会的圧力の問題に深く関わっているのである。

障害者の権利を巡る論争の文脈では、impairmentとdisabilityの区別をするのが一般的である(Silvers 1998)。歴史的にはこれらの概念にはいろいろな定義が与えられてきたが、現在では、impairmentは医学的な意味での機能の欠如、 disabilityはその欠如によって何かができなくなっている状態という区別が定着している。impairmentとdisabilityの区別は、disabilityに関する社会モデル(social model)と呼ばれるものの導入を可能にした。旧来の考え方(医学モデルmedical modelと呼ばれる)によれば、ある人がdisabilityを持っているかどうかは医学的に決定できる問題である。例えば、目の機能におけるimpairmentの結果ものを見ることができなければ(これは医学的に決定できるはずである)それはdisabilityである。しかし、社会モデルによれば、disabilityはむしろ社会的に決まるものである(Newell 1999; Reindal 2000)。このモデルによれば、impairmentは直ちにdisabilityを含意するものではない。まず、「普通」の概念を巡る問題がある。「普通はできることができない」からdisabilityと呼ばれるわけだが、何ができて何ができないのが普通なのか、というのは、社会的な合意として成立するものであって、医学だけで決まるものではない。さらに、impairmentとdisabilityの間にはもっと実質的な意味でも社会が関与する。たとえば、車椅子の人がある公共の建物に入れるかどうかはその建物がバリアフリーになっているかどうかに影響されるわけだが、これはまさに社会的な要因である。こういう場合には、社会がimpairmentをサポートする体勢を持たないことでdisabilityが生じていると考えられる。disabilityについてこの二つの意味での社会性を最大限考慮するなら、disabilityに由来する不利益とは、「普通」についての狭い考え方から生まれたか、それとも社会が十分サポートしないために生まれたか、いずれにせよ医学的ではなく社会的な要因によって作られた不利益ということになる。

社会モデルの視点

さて、この社会モデルの観点からwrongful lifeの主張を見直してみよう。告発する障害者本人は確かに「生まれてこない方がよかった」と感じているかもしれないが、社会モデルによれば、それはある医学的なimpairmentの状況と不可避に結びついているものではなく、概念的に(「できるはずのことができない」という感覚を持たされることによって)また実質的に(サポートさえあれば不便を感じなくてすむはずのことについてサポートがないために)社会的に構成された感覚である。そうであるならば、障害者本人が自分の生をwrongful lifeを感じることについて責められるべきは両親や医師ではなく、むしろimpairmentを持つ子供を適切にサポートしようとしない社会の方だ、という議論が成り立つことになる。

当然ながら、同じ論法は選択的妊娠中絶一般にあてはめられる(King 1999; 玉井1999)。医学モデルの立場からは、選択の余地があるならば、病気や障害を持つことがはっきりしている胚(たとえばダウン症など)をそのまま出産するよりは健康な子供を産んだ方がよいということになる。人によっては中絶という行為自体に問題を感じるかもしれないが、今では、体外受精した胚を子宮に戻す前に遺伝診断し、遺伝的に問題がないと判断された胚を着床させる、という着床前診断という技術が実用化されてきている。これは普通に考える意味での「中絶」ではないので、(2)中絶反対論者の多くも認めることができる選択の形式ということになる。

しかし、社会モデルの観点からは、ダウン症を持つ胚と持たない胚の間の倫理的な差は要するに社会的に作られたものにすぎず、それを根拠にダウン症の胚に対し生を拒否するのは(「中絶」という形であれ着床前の選択という形であれ)優生主義であり差別である、という議論が成り立つ。そうした社会的条件は、「子供のために」といって選択的中絶を行う両親に対して明確な圧力として働くし、また、出生前診断の技術を推進するための圧力としても働いている。ただ、不妊のカップルの場合とちがい、本人に対する直接の圧力として(「お子さんはいらっしゃらないの」と質問されるたびに答えに困る等)かかるというよりは、障害者をめぐる社会の状況をみた両親がそれをくみ取った判断を下しているということになるだろう。ここでは、不妊の場合の直接的な圧力に対して、間接的・構造的な社会的圧力が働いているわけである。

以上のような社会的モデルからの議論に対しては倫理学の中で根強い反発が存在している。たとえばジョン・ハリスは、「何かができない状態であること」自体は社会的な問題ではないため、社会モデルでdisabilityを考えるのは誤りだと論じる(Harris 2000)。ハリスはもちろん障害者が社会的に排除されることを是認するわけではないが、その話と「何が障害か」という定義の話をごっちゃにしてはいけない。彼のモデルは医学モデルを改良した「危害状態」(harmed condition)モデルと呼ばれるものである。それによると、disabilityとは、合理的な人間ならばだれでもなしで済ませたいと思うような身体的・心的状態(これを危害状態とよぶ)のことである。社会的排除もまた、合理的な人ならだれでもなしですませたいとおもうようなもの(ただし身体的・心的状態ではない)なので両者は混同されやすいが、区別は十分可能であり、必要である。両者が区別されないとなると、たとえばHIV陽性の患者について、社会的な排除が完全にとりはらわれたら彼らはもはや治療を必要としない、というばかげたことにもなりかねない。また、ジラムは、胎児のQOLについて第三者が優劣の比較をすることが優生思想というならば、病気を治すこと自体が優生思想ということになってしまう、と論じ、問題は結局それが障害者の気分を害する(offensive)というだけのことにすぎないと結論づけている(Gillam 1999)。ハリスやジラムらの批判がどれだけ正当か考えるには、やはりまず社会的圧力をどう扱うかという原理的な問題に一度立ち戻る必要がありそうである。

3 社会的圧力をどう考えるか

問題の一般化

さて、以上のような「社会の不当な圧力」は倫理的にどう評価されるべきだろうか。不妊治療や選択的妊娠中絶をするかどうかという行為決定を迫られている両親や医師の立場からみると、この問題は、倫理的に疑わしい内容の社会的圧力は、目の前の行為を決定するにあたって、無視するべきなのか、考慮に入れるべきなのか、また、無視するべきかどうかの判断はその圧力の性質(直接的か、間接的ないし構造的か)によって変わるのか、という問題にまとめられるだろう。この形の問題にはどうとりくめばよいのだろうか。現に圧力が存在する以上、そうした圧力の存在は与件として捉えなくてはならない、と考えるべきだろうか、それとも逆に、そうした圧力そのものが間違っているのだから、倫理判断においてそんな圧力はカウントされるべきではない、という考えるべきだろうか。わたしはどちらの立場も倫理判断の複雑な構造を無視して問題を単純化しすぎているように思われる。

実はこれは、「理想的でない世界における倫理的選択の問題」という、より一般的な問題の一類型だと考えることができる。これは特に功利主義批判の文脈でよく使われるタイプの問題である。たとえば、バーナード・ウィリアムズの使う例では、ジムが南米を旅行していてある村で軍隊に捕まったという状況が想定される(Smart and Williams 1971)。軍隊の隊長は彼に対し、村人20人のうち、一人を彼が射殺すればほかの19人は解放するが、従わなければ20人全員を殺すという。隊長は言ったことを実行するという点では信用でき、そして自力で脱走する等の他の選択肢はふさがれている。ウィリアムズは、功利主義者はこういう場合に一人を自分の手で殺すことを命じるだろう、といって功利主義者を非難する。ウィリアムズ自身は「統合性」(integrity)という概念に訴えて、隊長の命令に従わないことを正当化する。(3)これに対し、功利主義の側からは、自分の手を汚して19人を助ける方が結果としてはよいということをウィリアムズも認めざるをえないのではないか、という反批判がなされる。

この事例と社会的圧力の問題の類似性はあきらかだと思われる。補助生殖技術を発展させるとか、出生前診断の技術を発展させるとかという行為には(控えめに言っても)倫理的に疑わしい面があり、何ら不当な社会的圧力のない理想的な社会においてはどちらも邪悪な行為として単純に却下できるかもしれない。しかしわれわれは(軍隊の支配下にあるように)社会的圧力の支配下にある。その支配を与件として受け入れるなら、最善の結果をもたらすために、自分の手を汚して倫理的にうたがわしい側面のある技術を発展させなくてはいけないかもしれない。もちろん、生殖技術を巡る問題は、架空の事例と違って、考慮すべきさまざまな他の要因や他の選択肢がある。しかし、社会的圧力をどう扱うか、という原理的・概念的問題をとらえるには、いったんそれらを無視することがかえって近道となるだろう。

二層理論と社会的圧力

R.M.ヘアは、ウィリアムズの訴えるような直観を功利主義に取り込むべく、二層理論と呼ばれるメタ倫理学上の立場を展開した(Hare 1981)。以下では、二層理論を説明したあと、そのわたしなりの改訂バージョンを使って社会的圧力の問題に対する見通しを与えることを試みる。

ヘアの二層理論とは、倫理的思考を二つのレベル、すなわち批判レベルと直観レベルに分け、それぞれの役割を強調するものである。ヘアの考えでは、倫理的判断は合理的判断の一種であり、この場合、合理的判断とは事実と論理にしたがって判断することをいう(ただし、倫理的判断には「普遍化可能性」「指令性」「優越性」など他の条件がつく)。だから、理想的には倫理的判断はすべての事実を知り、考慮に入れた結果なされるべきなのだが、それは実際上不可能である。そもそも、倫理的判断に迫られた瞬間にそんなことをしている暇はない。そこで、次善の策として、まず、比較的余裕のあるときに最善の判断に対する近似値が得られるような一応の直観的な原則を決める。これが批判的レベルである。そして、実際に行動するときにはこれらの直観的原則にしたがう。これが直観的レベルとなる。また、批判的レベルには、直観的レベルでの原則同士が対立した場合、つまり道徳的なジレンマが発生した場合や、直観的レベルの原則でカバーされていないため何をしていいかわからなくなってしまった場合にそれを処理するという役割も与えられている。

このようにして選ばれる直観的原則の多くは現にわれわれが受け入れている道徳律と一致するだろう。そして、人間の弱さやバイアスのかかりやすさを考えに入れるなら、そうした原則をどんな場合も例外なく受け入れるべきものとみなす(つまり功利主義的考慮によって気軽に原則を破ってしまわない)ことが、結局最善の結果をもたらす、とヘアは考える。「統合性」に関するウィリアムズの直観は、このようにして二層理論に組み込まれる。また、ヘア自身は、批判的レベルで使われる思考として功利の原理を考えているが、その点についての議論は問題が多く(伊勢田1996)、二層理論と功利主義は一応区別して考えるべきである。二層理論は、倫理判断の複雑さを説明するのにも利用できる。たとえば、行為の正しさについての判断の最終的な根拠は批判的レベルに求められるであろうが、行為の非難可能性(blameworthiness)はむしろ直観的レベルに属するものと考えられる。すると、極端な状況においては、「正しい行為であるけれども非難に値する」というような場面が生じることになる。

二層理論についてはいろいろな批判があるが、一つの問題点は、それが功利主義のしっぽを引きずっている点、つまり、たとえば場合によっては無実の人を全体の善のために処刑してよいということになってしまう点などが、やはりウィリアムズらの批判者にとってはネックとなるだろう。これについては以前別の文脈で「不確定領域功利主義」と称する二層理論の改訂版を提案した(伊勢田2002)。この考えを功利主義に関わる部分をとりはらって簡単に紹介すると、これは、批判的レベルの使用を制限して、直観的原則が対立したり関連する直観的原則が存在しない状況(つまり直観的レベルだけではどのみち問題が解決しない状況)のみにおいて批判的レベルの思考を使う(つまり直観的原則そのものの選択や、直観的原則そのものの適用範囲の決定には批判的レベルを使わない)ことにすればウィリアムズらの批判は封じることができるのではないか、という提案である。

さて、この改訂も考慮にいれつつ、二層理論を使って社会的圧力の問題を考えると、どのような取り扱いが可能になるだろうか。実は、これについての答えは上の二層理論の紹介の中でもすでに述べている。二層理論の考えを使うと、極端な場合においては「正しい行為であるけれども非難に値する」ことがありうると述べたが、たとえば選択的妊娠中絶や着床前診断についてはまさにこの状況が成立している可能性が十分にある。すなわち、もしも社会的圧力も含めてすべての事実を考慮にいれるなら全体にとって最善の選択が着床前診断をすることであるにもかかわらず、同時に着床前診断の使用が障害者に対する差別の禁止という直観的原則に反するとして非難されるべきだ、ということが十分ありうると思われるのである。もちろん、他の障害者への影響などすべての事実を考慮にいれた場合には、批判的レベルにおいても誤った行為であると判断される可能性も十分にあり、それならば話はむしろ簡単になる。

しかし、「正しい」という判断と「非難に値する」という判断が両方出てきてしまってはいったいどちらに従ったものか困ってしまうだろう。わたしの改訂版はこのような状況に対処することを想定している。それによれば、直観レベルで「非難に値する」という判断がきちんとくだせるのなら、批判的レベルの使用を停止することになる。しかし、自分の行為が非難に値するかどうかの判断の基準となる直観的原則がまるでない場合、あるいは、ある原則によれば非難に値し、別の原則によれば称賛に値する、というような場合においては、批判的レベルの出番となる。ただし、ここで問題となっている事例(不妊治療や選択的中絶)においては、直観的原則のレベルですでに葛藤や適用範囲のあいまいさの問題が出てきていて、直観レベルだけで話が解決する見込みは薄いのではないか(つまり、批判レベルで、社会的圧力まで含めてすべての情報を考慮に入れてどういう原則を採用するか考えるべきではないか)と思われる。これについて安直に結論を出すことは避ける。本稿の目的は、倫理判断というものの複雑さを意識し、それに見合った思考の枠組みを導入することでやっかいな問題に見通しを与えることであり、これについては一応示すことができたのではないかと考える。(4)

(1)

さらには、社会的圧力からの議論は、もっと積極的に補助生殖技術を批判するのにも用いられる。それは、補助生殖技術の存在そのものが社会的圧力を生んでいるという観点からの批判である。そんな技術がなければ不妊を不妊として周囲も本人も受け入れたはずなのに、技術が存在するばかりに、使えるのになぜ使わないのだ、という形での圧力がかかる。ただし、この議論は本稿が問題としている「社会的圧力」の議論とは若干パターンが違うので以下の議論ではとりあげない。

(2)

この点について、名古屋大学院生の加藤多喜子氏より、着床前診断による胚の廃棄も中絶に含める考え方も存在している旨の指摘をいただいた。

(3)

詳しく触れる余裕はないが、統合性とは自己イメージや人生設計にそった行動をとることを重視する考え方である。

(4)

本稿は中部哲学会シンポジウム「生殖医療と倫理」での発表を改稿したものである。柴田正良氏、戸田山和久氏をはじめ、当日出席された方々から有益なコメントを多くいただいた。

文献

アルディッティ、リタ他編(1986)『試験管の中の女』ヤンソン由美子訳、共同通信社(Arditti, R. et al eds. Test-Tube Women: What Future for Motherhood?, 1984の訳)

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(いせだ てつじ・名古屋大学)