集団的責任論と人格としての企業

伊勢田哲治(名古屋大学)

近年になって企業の社会的責任(corporate social responsibility)についての意識が日本でも高まりつつある。これに関しては、普通は、企業は利潤だけ追求していればよいのか、それとも別の責任があるのか、というようなことが問題となる。しかし英米ではそれと並行して企業はそもそも責任の主体となりうるのかどうかという形而上学的な論争も続けられている。

本稿では、ラリー・メイとステイシー・ホフマンの編集した『集団的責任』に収められた論文を中心として、企業の形而上学的地位や責任についての論争のサーヴェイを試みる。その前段階として、集団的責任一般についてのルイスとファインバーグの議論も紹介する。なお、論者によってaccountable やliableという言葉の定義の仕方に若干のずれがあるが、それについては論者ごとに訳しわけ、原語を示す、という形で対処してある。

1 集団的責任は存在するか

1−1集団的責任は存在しないという立場

まず、集団的責任(collective responsibility)という考え方についての古典的な二つの立場を紹介する。H.D. ルイスの1948年の論文(Lewis 1948)はこの問題について論じたもっとも初期の論文であるとともに、集団的責任に否定的な見解の一つの標準的立場ともなっているので、その紹介からはじめよう。

ルイスは集団的責任が道徳的な意味で存在しうるという考え方に強く反発する。ルイスによれば、本人以外のある人が他人の行為について道徳的責任があるということがありうるというのは、ある人の罪のためにその人の家族を処罰したりした野蛮な時代の考え方である。もし責任が個人にあるという考えに乗りこえがたい難点があるならそうした野蛮な考えに戻らなくてはならないかもしれないが、そうした難点はない、というのがルイスの主張である。

法的な責任(responsibility)の概念は、語源である「応答する責任liability to answer」の意味に近い。つまり、何か応答を必要とする被害があった場合に、だれが応答するべきかきめるというのが法的な責任なのである。こうした法的責任についてはたしかに便宜的にある集団全体に責任を負わせる必要があるような例外的事例もある。たとえば、だれがやったか分からないときに、クラスの生徒全員に責任をとらせるというような場合がある。また、ある国家が不正義な戦争を遂行する場合のように、実際上責任を細かく割り当てることが難しい場合もある。しかしこれは、無実の者までが罪(guilt)を分け合っているということを意味しない。われわれの社会では完全な正義を実行するのが難しいために行われる便宜的な措置にすぎない。

これに対し、ルイスによれば、ある行為者に道徳的な責任があるとは、その行為者が道徳的な行為者であるということ、すなわち道徳的に正しい行為・誤った行為を行うことができるということにほかならない。道徳的価値や正しさの概念は原始概念であり、自然的に定義することはできない。確かに道徳的責任についても法的責任に類する罰をうけなくてはならないという意味はあるが、これは本質ではなく付加的な要素でしかない。

道徳的集団責任が場合によって可能だというのは、以上のような法的責任と道徳的責任の区別を見落としたことに由来する考え方である。両者の差は、次の例などにあらわれる。首相が参謀長の行為について「自分を非難してほしい」と表明して責任をとろうとしたとしよう。これは戦争の遂行や議会の運営のために必要だからそうしているのであって、首相が道徳的な責任があると考えるのはばかげている。むしろ首相は道徳的な人物として評価されることになるだろう。

では、共同で悪事をなした場合の道徳的責任はどうなるのだろうか。ルイスによれば、それぞれの参加者の道徳的責任はその者の果たした役割に比例して分配されることになる。社会的・経済的不正義の場合はもうすこし処理が難しいが、ルイスは社会の「構造」やら「全体としての社会」などといった抽象概念が道徳的責任を持つとは考えられない。貧乏な母親が子供のためにパンを盗んだとしても、まわりの人間は盗みそのものについては道徳的責任はない。彼女をそうした状態で放置して置いた責任はあるかもしれない(ただし、もちろん個人として)。ドイツの戦争についても、ドイツの市民一人一人にできることは少なかったかもしれないが、個人ができたことについては個人に責任がある。多くの人がかかわることについては、その個人に何ができる状態だったかよく理解しないと、道徳的判断をあやまることになる。集団に注目することはそうした複雑さから目を背けることになる。ルイスの議論はおおむね以上のような論旨である。

1−2集団的責任は存在するという立場

これに対して、集団に責任を帰することができるという側の古典的なものとしてジョエル・ファインバーグ(Feinberg 1970)の議論がある。彼は集団的責任を責任についての体系的理論の一部として位置付ける。

ファインバーグは、この論文で、まず個人の責任の標準的要件として次の三つの条件をあげる。

(1)その人の意図的な行為が有害な出来事に因果的に貢献する

(2)その因果的に貢献した行いが何らかの意味で落ち度がある(at fault)

(3)その非難に値する側面と有害な出来事の間に直接の因果関係がある。

この三つをまとめて貢献的落ち度(contributory fault)と呼ぶ。確かにルイスが言う通り、近代までの法律の進歩は、貢献的落ち度を持つ人のみに対して責任を問う方向に進んできた。しかし、20世紀にはいってからはむしろ貢献的落ち度のない責任の概念が発達しはじめた。これは先祖がえりではなくそれぞれに十分な根拠があり、おおきく三つのパターン、すなわち厳格責任、代理責任、集団責任に分けられる。

まず、厳格責任(strict liability)であるが、これは他の二つも含む広い概念であり、契約による責任や公共の福祉への違反などが含まれる。危害が重大であるにもかかわらずやってしまう誘惑が大きい場合や、厳格責任を問われることを事前に知っていれば危害を避けるために何かすることが可能である、といった条件が満たされたときに有効である。次に代理責任(vicarious liability)であるが、これは落ち度のある行為を行った者(代理人agent)と責任を問われる者(本人principal)とが別となるような責任である。代理責任は本人が代理人をオーソライズすることで発生する。代理人にも、単なる代弁者(タイプライター)から自由な代理人(ホッブズの主権者)までさまざまなレベルがある。

その他代理責任が問われる場面としては、軍隊のような階層的指揮系統がある場合、主人ー従者関係がある場合(雇用者が被雇用者の起こした事故の被害者へ補償する場合など)、保証人(suretyship)となった場合などをファインバーグは挙げている。このいずれの場合も代理責任を問う理由は十分理解可能である。たとえば主人ー従者関係の場合、主人の方が補償能力が高い(deeper pocket を持つ)ことと従者の行動への統制力があることが代理責任の生じる根拠とされる。

集団責任(collective liability)には四つのパターンがある。まず、代理責任の一種としての集団責任がある。これは、組織された集団が、その構成メンバーの行為に対して持つ代理責任である。自発的にこうした責任が生まれるのは、その集団の中に現実に連帯感(solidarity) がある場合に限る。連帯感が非常に必要とされているときにこのような集団的責任を持たせることで連帯感を産むこともある。第二に、非貢献的落ち度による責任というものを考えることができる。これは、あるグループの誰もがやっている落ち度ある行為によって、その中の一人が実際に危害を引き起こした場合にグループの全員にある意味で責任がある、という考え方である。誰もが飲酒運転をするなかでその一人が事故を起こした場合、事故を起こすのは誰でもあり得たという意味で全員が同罪であり、全員に責任を問うことには十分意味がある。第三に集団的かつ分配可能な落ち度による責任を考えることができる。これは、ある集団の人々がみなで危害を加えたというような場合であり、個人の落ち度の単なる総和である。第四に、集団的かつ分配不可能な落ち度による責任というものも考えることができる。これは例えば個人としてやると英雄的自己犠牲が必要だが、集団としてやれば一人一人のリスクや損失は少なくて済むというような場合に発生する。例えば、列車強盗があったときに、全員で立ち向かえば一人一人のリスクは少なく取り押さえられるが一人で立ち向かうと大きな自己犠牲を強いられることになる。

さて、ルイスならば、このファインバーグの議論に対して、どう答えるだろうか。まず、彼ならば、厳格責任や代理責任(したがって集団責任の第一のバージョン)は法的責任にすぎないと論じるであろう。集団責任の第二のバージョンについては、おそらく、飲酒運転をするという行為自体が過った行為であるから個人の責任とみなして問題ないとするであろうし、第三のバージョンは個人の責任に還元可能なので集団責任とは呼べない、と答えるであろう。そうなると本当に両者で対立する論点は第四のバージョンということになるだろうが、ファインバーグの挙げる例はあまりにも特殊すぎて、これが論争全体を左右するような事例になるとは考えにくい。しかし、実はファインバーグが論じていないタイプの集団的責任を考えることができ、これは(もしそういう責任が存在するなら)第四のバージョンに分類されるであろう。それが、企業が一つの人格として持つ責任、という考え方である。というわけで、両者の対立は企業の責任を巡る問題に持ち越されることになる。

2企業は道徳的責任の主体となりうるか

2−1企業を道徳的人格とみなす立場

現代における集団責任論の一つの中心は企業がひとつの単位として責任を持つことがありうるかという論点であり、これについての議論の土台を作ったのがピーター・フレンチである(French 1979)。彼によれば、企業は完全な意味で道徳的人格であり、道徳的責任を問える。

「人格」(personhood)には形而上学的、道徳的、法的の三つの概念があり、お互いにからまりあっている。形而上学的人格概念とは行為者性(agency)を持つということであり、道徳的人格を持つとは責任を帰することができる(accountable)ということである。哲学者と経済学者の多くは、形而上学的人格は道徳的人格であるための前提条件をなし、かつ、彼らの法的人格に関する考え方によれば、企業が形而上学的人格とは認められないため、道徳的人格でもないとされる。しかし、これは、企業の法的人格についての数ある解釈のうち、もっとも擁護しにくい立場である。

法的人格とは何かについては主に三つの立場がある。第一は「虚構説 fiction theory」(ローマ法)で、これは法的人格は法律によって創造されるという考え方である。第二は「寄せ集め説aggregate theory」(英米法)で、生物学的な人格に優先性をみとめ、「企業」とは生物学的な人格の集まりについて語る際の便宜にすぎないとする考え方である。第三は「実在説reality theory」(ドイツ法)で、法的な規定以前に、社会的行為によって生み出された事実上の人格として企業が存在する、という考え方である。このうち、第二の立場は、企業と単なる群衆の区別をつけることができないという理由で却下される。第一と第三の立場はいずれも「法的人格=権利の主体」という立場であり、形而上学的人格とは直接かかわらない。(つまり、実在説の場合でも、「事実上の人格」というのは権利の主体としてみとめられるものという意味であって、形而上学的な行為者性を持つという含意はふくんでいない)。

寄せ集め説を却下する際にフレンチが挙げる例は、登記上はイギリスの企業だが、役員はすべて(株主も一人をのぞいてすべて)ドイツ人であるような企業をめぐる裁判の実例である。もし企業が構成員の単なる寄せ集めであるならこれはドイツの企業ということになってしまうが、裁判所はこれをイギリスの企業とみなした。フレンチもこの判断を支持する。

以上は法的人格についての議論なので、これで道徳的人格の問題も決着がついたというわけにはいかないが、少なくとも人格の概念が生物学的存在と切り離せるということ、そして形而上学的人格を経由せずに「権利の主体」という形で定義できるという模範を示してくれたという点をフレンチは評価する。フレンチはこれと対応して、道徳的人格概念を、あるものが責任を帰属させるための消去不可能な主体となるかどうかによって定義することを提案する。ここで言う責任は、単にだれ(何)がそれをやったか、という意味での責任ではなく、「応答する義務」が伴うような説明責任(accoutablity)のことである。ただし、説明責任は前者の意味での責任なしには発生しない。

これに基づいてあるものが道徳的人格であるために満たすべき条件を考えると、(1)そのものの行為がある出来事の原因となる(2)その行為がそのものによって意図されている、ないし意図的行為の結果である(3)説明を求められたときに説明することができる、という三つの条件にまとめることができる。これらの条件を満たす行為者をデイヴィドソン的行為者と呼ぶ。道徳的人格は消去不能なデイヴィドソン的行為者(non-eliminable Davidsonian agent)でなくてはならない。(消去不能という条件は、単なる群衆が道徳的人格と見なされることを防ぐために入れてある。)

では企業は消去不能なデイヴィドソン的行為者だろうか。ここで一番重要になるのが、企業が、消去不能な(つまり生物学的人格の意図の集合に還元不可能な)意味での「意図」を持つかどうかということである。個人の場合、意図的行為は、ある体の動きをある理由に言及しながら記述し直すことができる。そこで挙げられる理由は、たいていは欲求と信念の組み合わせである。そして、企業の場合にも同様な記述のしなおしが可能である。そこで「意図」の役割をはたすのが「企業の内的決定構造 corporation's inner decision structure 」(CID 構造)である。CID構造は、企業の意志決定の手続きと企業の基本ポリシーからなる。ある特定のプロセスをへてなされた決定が同時に企業の基本ポリシーにもかなっているならばその決定内容は企業の意図となり、企業の意図に基づいて行われた行為は企業の行為となる。個々のメンバーの行為を企業の意図なり行為なりとして記述し直すための規則を「認知規則」(recognition rule)とよぶ。

認知規則の例として、フレンチは重役三人が投票する場合を考える。個人のレベルでは「X氏がaした」「Y氏がaした」「Z氏がaした」(aの内容はたとえば「他の企業とのカルテルに賛成の投票をする」)と記述される。しかし「A,B,Cの地位をしめる個人が一致してjに投票し、それがこの企業のポリシーfと調和しており、他のことがすべて同じならば、この企業はfという理由でjをしたと認知される」という認知規則が加われば、「この企業はfのためjする」(たとえば「さらなる利潤を追求するために他企業とカルテルをむすぶ」)という企業の意図的行為についての記述が可能になる。

フレンチはまた、こうした考え方を支持するような傍証もいくつか挙げる。企業のポリシーは個人の意図よりもはるかに時間的変化が少なく、個人が入れ替わっても維持されることが多い。さらに言えば、ポリシーが根本的に変わってしまった場合、それは別の企業とみなされることもある。また、企業の意図や企業の行為を認めたからといって個人の意図や行為が消え去るわけではない。X氏が賄賂をもらってカルテルを結ぶことに投票したのだとしたら、その行為は企業の行為とは独立に責任を問われてしかるべきである。しかし、だからといってその企業がカルテルに加わったこと自体が同じ責任を問われることにはならない。

以上のような議論によって企業を形而上学的人格かつ道徳的人格ととらえるための基礎はあたえられたはずである、とフレンチは結論する。企業の行為を意図的な行為として記述し直すことについてなお神秘的な印象を持つひともいるかもしれないが、個人の行為の場合にも同じような記述のしなおしが行われていることをおもえば、企業の場合もそれほど神秘的には感じなくなるであろう。

フレンチほど明確に企業を道徳的人格とみなす議論は少ないが、もうすこし穏健な立場から企業自体に道徳的責任を認める立場は多い。たとえばパトリシア・ワーヘイン(Herhane 1983)は、企業というものが独特な存在者であるということを強調し、企業を人格と見なす立場も単なる個人の集合と見なす立場もこの独特さをきちんととらえきれていないと論じる。ワーヘインが主な事例として使うのはフォードのピントの例である。フォードのピントは後ろからの衝突に弱く、そのためにフォード社は事故の被害者から訴えられるなどした。しかしこの車が設計・製造され市場に出る過程のどの個人の行為をとっても、その個人の行為だけで非難に値するとは思われない。フォード社の行為は非難に値するわけだから、非難に値しない行為の組み合わせで非難に値する行為が生じたわけである。このような場合、フォード社の行為はどの個人の行為にも還元可能ではない。

ワーヘインはこうした特徴を持つ集団を記述するために「二次的集合体」(secondary collective)という概念を持ち出す。二次的集合体は個人から構成される集合体なので、個人に比べれば実在性は低く(less real)、自律的な道徳的行為者とは呼べない。また、二次的集合体は二次的行為(すなわち、誰か他人を代理に立てて行う行為)を行い、そうした二次的行為のあるものはその集合体を構成するどの個人の一次的行為にも還元不可能である(これを非分配的集合行為と呼ぶ)。こうした行為を行うという点で、企業は(自律的でないにもかかわらず)二次的道徳的行為者であり、その行為に対して責任がある。

フレンチもワーヘインも、おそらくルイスの議論を意識して、自分が(法的人格や法的行為者ではなく)道徳的人格・道徳的行為者の話をしているのだということをかなり強調していることは指摘しておくべきだろう。

2−2 企業を道徳的人格とみなさない立場

これに対して、企業はそもそも道徳的責任を持たないという考え方が一方にあり、たとえばミルトン・フリードマン(Friedman 1962)などがこの立場をとる。フリードマンによれば企業は一つの実体として扱われ、「法人」などと呼ばれることがあるけれども、それはあくまで法律的虚構である。企業は良心も感情も意識もないし、企業自体はいかなる行為も行わない。行為を行うのはあくまで企業内の諸個人である。では企業をあたかも実体のように扱うような虚構を作る目的はなにかといえば、結局は企業に関わる人々の利潤の追求である。したがって責任の追及もそれに応じてなされることになる。

フリードマンがこの議論をしたのはフレンチの議論が登場する前であるが、この線にそってフレンチを批判するのがヴェラスキーズ (Velasquez 1983)である。彼の考えによれば、「企業が道徳的責任を持つ」というのは、単にある個人が責任をもつことの省略表現にすぎない。

ヴェラスキーズは「責任がある」(responsible)という概念に三つの意味を区別する。一つは「信頼がおける」 (trustworthy)などと似た意味で、道徳的性格を表すための用法、二つ目は「公共に奉仕する責任がある」などという時に使う未来志向的な用法、三つ目は「事故の責任は彼にある」などというときに使う過去志向的な用法である。ここでは第三の用法に話をしぼり、これを「道徳的責任」とよぶ。

通常の用法では、ある人がある出来事に道徳的責任があるための必要条件として二つがあげられる。第一はそれがその人の体の動き(bodily movement)の結果であること、すなわちその行為がその人に端を発する(originate)ものであることである。この発端(origination)の概念はカントの道徳的譴責可能性(moral imputability)の説明などにみられる考え方である。第二はそれが意図的なものであること、つまりその行為者はその行為のもととなる体の動きに対して自発的にコントロールでき、その体の動きについて知りながら実行したということである。

また、道徳的責任は非難や罰を受けてしかるべき(liable)であることと概念的に密接に結びついている。こうした非難や罰にはよく知られた倫理学理論に基づく根拠がある。まず、功利主義の観点からは、非難や罰を与えることで当人や他の人が将来的に同じことを繰り返さないようにすることができる、という正当化が与えられる。次に契約説的な義務論の観点からは、お互いに同じことをすれば非難や罰をうけるという前提のもとで、われわれは非難や罰をうけることに同意しているのだ、という議論ができる。また、自然法的な義務論の観点からは自然法によって正義が定義され、人々の関係が正義から逸脱したときに、それを正しい位置に戻すために非難や罰が必要となる。これら三つの根拠のどれによっても、「発端」となった行為者を非難・処罰する必要がある。功利主義の観点からは発端となった行為者以外を罰しても抑止効果は期待できないし、契約説的義務論の観点からは罰を受けることに同意した本人以外が罰せられるのは筋がとおらず、自然法的義務論の観点からは、本人以外を罰しても違反者を正しい位置に戻すことにならない。

以上の観点からみて、「企業にも道徳的責任がある」とするフレンチの議論はどう考えられるか。ヴェラスキーズによれば、フレンチの議論は二つの前提に依拠している。第一の前提は、ある種の行為は企業を主語とした述語としてしか成立しないということであり、第二の前提はその行為に結びつけられた意図も企業以外のものに帰属させることはできないということである。

しかし、第一の前提について、仮に企業が行為するとして、企業は体をもたないので結局その構成員が体を動かすことになる。ここで企業というものについて二通りの捉え方が可能である。まず、企業を虚構の法的実体(fictitious entity)だと考えるなら、企業の行為というのも便利なフィクションにすぎず、単に企業の成員の行為について語る便利なしかたにすぎない。次に、企業を実在的な組織(real organization)と考えても、人間の腕が動くのと企業内の構成員が動くのではわけが違う。というのも、腕と違って構成員は自律的であり、自らの体の動きを自分で制御できるからである。どちらの解釈をとるにせよ企業は行為の発端ではなく、したがって非難・処罰の対象ともならない。たしかに企業を述語としてしか成立しない行為もあるけれども、それは企業にその行為の責任を帰属させる理由にはならない。これは「木が倒れる」というのと同じで、「倒れる」という述語は木を主語とするしかないが、木が倒れたことの道徳的責任が木にあるわけではなく、木を意図的に倒した人に責任があることになる。

第二の前提について、フレンチは企業のポリシーや決定手続きなどをCID構造と呼んでその企業の意志とみなそうとしている。確かにポリシーや決定手続きなどは企業に帰属させるしかないが、その意味での企業の意志は行為の発端とはならない。というのも、第一の前提についての議論で確認したとおり、企業の行為とされているものは実は個人の行為であり、その行為と関わる意志は個人の意志だからである。ヴェラスキーズはここで「意図的行為」という概念の分析に訴えて自らの議論を補強する。意図的行為は行為者によって行われるものであり、行為者には心理的側面(意図を形成できる)と身体的側面(動かすことのできる体を持つ)がある。さらに、行為者においては両者の統合(unity)が必要である。フレンチは企業のCID構造を一種の「集団の心」(group mind)として理解しようとしているが、CID構造は意図を形成できるような心ではないし、直接制御できる体も持たないし、したがって両者の統合もない。

ヴェラスキーズは、フレンチとは別の路線として、企業は誤った行為に対して非難や罰をうけるべきである、という社会通念から、企業は道徳的責任を持ちうるということを導き出そうという議論も考察する。ヴェラスキーズは、こういう文脈で「企業」という言葉が本当は何を意味しているかを分析することで、そうした考え方がなぜ間違っているかみちびきだそうとする。

「企業に責任がある」という際の「企業」が意味するものの候補としては、(a)架空の実体か、(b)現実の人間の関係の構造か、(c)現実の人間の集合かが考えられる。しかし、架空のものに実際の責任があるというのはほとんど意味をなさない。人間関係の構造が非難されるという解釈にも二つの難点がある。まず、関係を「罰する」というのはほとんど意味をなさない。関係が非難されて恥ずかしく思ったり、処罰されて苦しんだりできるであろうか。第二に、組織の構造に責任があるということはその組織の成員には責任が帰属させられないということになるが、実際のところ、組織の構造を非難したり罰したりするには、成員に非難や罰を与えるしかない。たとえば企業に罰金を科した場合、結局それで痛手を被るのは企業の成員である。もし構造自体に責任があるならその責任で成員が苦しむのは不公平だということになるはずだが、われわれは普通そうは考えない。

というわけで、結局(c)、すなわち企業とは企業を構成する現実の人間の集団を意味している、という選択肢だけがのこる。では、人間の集団が責任があるとして、(1)集団全体として非難されるのか、(2)集団の個々のメンバーが等しく非難されるのか、(3)集団内の特定の構成員達が非難されるのか。詳しくは触れないが、ここでも結局意味をなす選択肢は(3)しかない、とヴェラスキーズは結論する。結局、企業を非難するとは、企業内で悪しき行為の発端となった構成員たちを非難するということの省略話法でしかない。

ヴェラスキーズは、さらに、企業に責任を帰属させることの二つの危険性を指摘する。まず、本当に同じ過ちを繰り返させたくないなら、企業というベールの影にいる責任者まで探し出す必要がある。また、企業を巨大な人格とみなすことは、個人を企業という人格の一部にしてしまうということでもあり、新しい種類の全体主義につながりかねない。

ヴェラスキーズと同様の議論を行うために、スキッド(Skidd 1987)は「責任」や「企業」という言葉の用法を歴史的に考察する。すでに繰り返されてきた論点だが、スキッドもまた責任という概念が自律的・意図的行為と不可分なものとして使われてきたことを指摘する。また、企業(corporation)という言葉は、もともとは「結婚」などと同じく人と人との関係を表すために作られた言葉である。これが虚構の法的人格を指すようになったのは、1819年のマーシャル首席判事が「目に見えず、触れることもできず、法的な思考の中にのみ存在する人工的な存在」と企業を定義して以来のことである。この記述は比喩としては適切だったかもしれないが、知識の基礎としてはまったく不適切である。企業という概念はあくまで人と人との関係をあらわす言葉であり、企業の行為について語るのは、「結婚」の行為や「友人関係」の行為について語るのと同じようなものである。

スキッドは、なぜ自分が「責任」や「企業」という言葉のもともとの意味にこだわるのかについてもある程度の議論をしている。どういう言葉を使うかは、われわれの概念的能力の形成において重要である。本質的に違うものを区別しないような言葉を使っていると、両者の区別を理解する能力自体に影響が出てくる(これについてはアメリカ黒人俗語をめぐる研究がある)。「企業」や「責任」を不適切に使うことで、企業を擬人化して思考する習慣が身に付いてしまう危険性がある。

3 考察

結局、フレンチらの立場とヴェラスキーズらの立場はどこで食い違っているのだろうか。ヴェラスキーズらはフレンチのような立場では企業内個人の責任があいまいになってしまうと考えるが、フレンチは企業内個人の責任はまた別に問うという立場を明示しているので、これが本当の対立点になるとは考えにくい。また、全体主義や概念的混乱についての心配もあまり現実味を感じられない。大きな対立点は、もちろん、行為者という概念を拡張するのが適当かどうかということと、狭い意味での行為者性が道徳的責任にとって本質的かどうか、という点である。しかし、これらが言葉の上での問題でしかないならばこの論争はあまりおもしろくない(その点でスキッドの努力は評価できるが、ただし彼が考えるような概念的混乱が深刻な問題となりうるかどうかはまた別問題である)。

わたしの考えでは、両者の違いが現実の文脈で現れるのは、たとえば企業内の個人の(ファインバーグの言うところの)貢献的落ち度をどう処理するか、というような局面ではないかと考える。企業を人格や行為者として実体化しない考え方によれば、個人の落ち度は個人の落ち度であり、それ以上の分析はできない。しかし、企業を人格と見なす考え方からいえば、個人の落ち度についても、集団の中の役割を果たすという側面から生じる落ち度と、独立の個人としての落ち度とを区別し、対処の仕方を変えることができる。これはフレンチの立場の一つの利点であろう。役割に付随する落ち度は結局フレンチの言うところのCID構造の側の落ち度で、人格としての会社が責任を問われることになる(会社のポリシーや決定手続きを変えることになる)。ただし、そのためにフレンチほど強力な立場が必要なのか、ワーヘインあたりの立場でも十分なのかはよく考えてみる必要があるだろう。

もちろん、ある個人の落ち度が役割としての落ち度か個人としての落ち度かというのは区別が難しい。ここで参考となるのが、サンダースの議論(Sanders 1992)である。サンダースは大きな事故が起きたような場合、誰が非難されるべきか決めようとすることはしばしば同じような悲劇を避けようとする努力の障害となる、と指摘し、どんな事故でも誰かが非難されるべきだという前提が事態を複雑化しているという観察をする。これに対し、サンダースの考えでは、非難されるべき人はいることもいないこともある。そうした観点からサンダースが挙げる基準は、「おなじ立場を占め、責任ある行動をする他のいかなる人もおなじように行為しないときにのみ、その人の行為は非難に値する」というものである(サンダースはチャレンジャーの事故をこの基準で分析し、どの関係者の行為も非難に値しないと結論する)。実際、そういう場合に単にその個人だけを処罰し取り除くのは、機構上の問題を残すことになり、別の人が同じ立場を占め、同じことを繰り返すだけにおわる。

サンダースは企業が道徳的人格かどうかという論争には首をつっこまないけれども、彼の議論がフレンチの立場と非常にうまく補いあうのは確かであろう。また、サンダースの基準を明示的にフレンチの立場に組み込めば、ヴェラスキーズの懸念の一部に答えることにもなるであろう。もちろんここで紹介したのはこの論争を巡るさまざまな立場のほんの一部にすぎず、ここでこの論争に結論を出すつもりはない。企業の道徳的責任についてどういう形而上学的問題があり、それがどういう現実的問題と結びついているかが示せれば、本稿の目的は達せられたものと考える。

References

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