企業におけるメールプライバシー問題:徳倫理学的アプローチ

伊勢田哲治(名古屋大学情報文化学部)



情報倫理学の中心課題の一つがプライバシーの問題であることは衆目の一致するところだろう。情報技術の発展にともなうプライバシー問題は多岐にわたるが、本稿でとりあげるのは、電子メール(以下メールと略)をめぐるプライバシー上の問題である。メールといってもプロバイダのタイプによってさまざまな類型があるが、とりあえず以下の議論では、情報倫理学で中心的話題となってきた、企業が従業員に提供するメールアドレスに関するプライバシーに話をしぼる。1 自前のメールサーバを持って、社員にメールサービスを提供する企業は増えてきているが、そうしたメールが会社側によってモニタリングされ、従業員の昇進の判断に使われたり、場合によっては従業員を解雇する理由に使われたりすることがある。いくつかの事例においてはメールのモニタリングに基づく解雇は不当であるとして裁判が起こされてもいる。これについては日本でもまだほとんど紹介されていないのが実状であり、2 本稿の一つの目的は、企業におけるメールプライバシーの問題について主な文献を概観することである。その後、本稿の独自の視点として、徳倫理学の問題解決法を紹介し、それをメールプライバシーの問題にあてはめてみる。


1-1メールモニタリングの実態
まず、アメリカでのモニタリングの実体について、もっとも新しいデータを見てみよう。American Management Associationの2001年のサーベイによれば、質問票に回答した企業1627社のうちの82.2%が従業員を何らかの形でモニタしているとのことである。3ちなみに97年の同種の調査ではモニタしていると答えた企業は35%で、ほんの数年の内に。ここでいうモニタはメールやインターネットの使用に関するものだけではなく、職場の監視カメラや電話の傍受なども含まれる。内訳を見てみると、インターネットの使用をモニタしている企業が62.8%、メールをモニタしている企業が46.5%、コンピュータ上のファイルをモニタしている企業が36.1%となっている。メールをモニタするかどうかについてのポリシーを文書で周知している企業も全体の8割程度だが、モニタを行う企業の場合はそうしたポリシーを文書化している割合が87%にまであがる。この調査はどちらかといえば大企業に偏っていたが、そうした偏りを除いた追調査でもおおむね同じパターンが得られているようである。

1-2 モニタリングを巡る法的状況
このようにモニタリングが広がっている背景には、アメリカの法制度がモニタリングをサポートしているという実態がある。4  アメリカでメールに関するプライバシーなどを扱う連邦法としてはThe Electronic Communications Privacy Act of 1986 (ECPA)がある。この法律はメールのプライバシー一般は認めているが、いくつか大きな例外を設けている(Rodorigez 1998)。まず、(1)サービスの提供者がサービスを行うために必要であるとか、提供者自身の所有物を保護するために必要な場合は、メールをモニタすることができる。また、(2)モニタリングが通常の業務の延長である場合にはモニタができる。さらに、(3)やりとりしている一方の側の同意があればモニタは可能である。会社が従業員のメールをモニタする場合、(1)や(2)によって正当化されうる。特に、(2)によって、業務上のメールをモニタすることや、企業秘密の漏洩などの疑いがあるメールをモニタすることが認められる。また、事前の告知がある場合、(3)によってモニタリングが正当化されるし、また外から来たメールもモニタすることができるようになる。では、モニタする際に事前に従業員に知らせておかなかった場合の私的なメールはどうだろうか。裁判になった事例の判決を見る限りでは、事前の告知がなくとも従業員は暗黙の同意を与えているものと見なされる、という解釈が一般的なようである。これについて詳しくはまた後で見る。
以上のように、企業が従業員のメールを見てよいというのはアメリカでは既成事実となっているわけだが、当然ながらこれに対して、プライバシー保護を強化しようという動きも根強く存在する。連邦レベルで従業員のプライバシー保護を強化する試みとしては、1993年にはSimon上院議員がPrivacy for Consumers and Workers Actを提案し、2000年にはCanady下院議員とSchumer上院議員がNotice of Electronic Monitoring Actを提案した。いずれも雇用者のメール閲覧に制限を課す内容を含んでいたが、いずれも本会議で審議される段階まで行かなかった。州法のレベルでもプライバシー保護の試みがあるが、これもあまりうまくいっていない。唯一の例外がコネチカット州で、この州ではAn Act Requiring Notice to Employees Of Electronic Monitoring by Employerstという州法を1998年に成立させ、モニタリングをする前に、すべての従業員に書面で告知することを雇用者に義務づけ、違反者に罰金を科している。5 カリフォルニアでの同様な立法の試みは州知事の拒否権発動により失敗に終わった。
アメリカの状況について長々と書いてきたが、日本ではどうだろうか?実はこれについて特に定めた法律は日本にはない。しかし藤田康幸によれば、会社が従業員に対して持つ民法上の使用者責任からすれば会社によるモニタリングを完全に禁止することは無理であるし、電気通信事業法などでいう検閲の禁止も会社などはカバーしないものと解釈されるとのことである。6 判例上も、2001年の12月に、上司によるメールの無断閲覧を認める判決が東京地裁で出されるなどして、日本でもアメリカと同じルールが成立しつつある。報道によると、この判決は、直接の上司による監視行為は不適当だとしながらも、電話よりもメールの方がプライバシー保護の範囲は狭いという見解を示したという。

1-3 メールプライバシーに関する人々の認識
以上のような法的な状況と人々の意識の間にはおおきな隔たりがある。企業におけるメールのプライバシーについてはいくつかの意識調査があり、ここではCappelの調査とChosieyの調査を紹介しよう。
Cappelが1993年にサウスウエスト大学の学生(主にビジネスを専攻する学生)を対象に行った調査では、ポリシーがない場合のモニタリングが法的に認められると考えた学生が26%、ポリシーがある場合ですら、モニタリングが法的に認められると考えるのは47%だった(Cappel 1993; 1995)。モニタリングの倫理的な許容可能性についての判断はさらに厳しく、ポリシーがある場合については12%、ない場合については28%だけが倫理的に許容可能だと答えた。また、Cappelは、同じ調査の中で、モニタしているというポリシーが明示されている場合と明示されていない場合では、メールを出す際の「気軽さ」に差がでるかどうかを、差し障りのある(もとの言葉は"controversial")メールと差し障りのないメールのいくつかのタイプについて調べてみている。予期されるとおり、差し障りのないメールについてはポリシーがあろうとなかろうと「気軽さ」にほとんど変わりがないが、差し障りのあるメールについては、モニタリングのポリシーがあると気軽に送れなくなる、という結果が出ている。実は、差し障りのあるメールの一つの例として使われたのは「上司が反対しそうな建設的なアイデアや提案」だったが、これについても、モニタリングをするというポリシーのもとでは「気軽さ」に差がでており、Cappel は「モニタリングのポリシーを持つことはいい面ばかりではない」と分析している。
Chocieyは同様の調査を13の企業の管理職や監督的立場の従業員に対して行った(Chociey 1997。論文の発表は1997年だが、調査自体が何年に行われたかは論文中に明記されていない)。「監督的立場の従業員」というのは、肩書きでいえば「セクレタリリー」「アシスタント」「コーディネーター」などだが、他人を監督する立場に立つ職務内容の者を対象としている。その結果によると、雇用者が法的にモニタする権利をもつと答えたのはたった13%で、68%は持たないと答えた。興味深いことに、モニタリングが倫理的に許容可能かどうかという問いに対して、管理職はポリシーがある場合もない場合も同じく24%が「倫理的」だと答えているが、監督的従業員の場合はポリシーがある場合で51%、ない場合でも39%が「倫理的」と答え、かえってモニタリングに許容的な態度を示している。いずれにせよ、こちらの場合は法的許容可能性と倫理的許容可能性の大小関係がCappelの調査とは逆転している。一応一つの解釈としては、管理・監督する側にとっては、法的に認められようと認められまいと、メールのモニタリングは仕事を行う上で必要なのだから認められるべきだと考えていると理解することができる。また、Cappelの調査と違い、ポリシーがあるかないかは差し障りのあるメールを送るかどうかの判断にあまり影響していない。これは、想像で答えている学生と、現実の問題としてどうしているかを答えている者との差を示しているようで興味深い。
いずれにせよ、立法・司法上の実状と人々の認識との間には職場でのメールのプライバシーの保護される度合いについて大きな開きがある。なぜこのような開きが生じるのかについてはいろいろ理由が考えられる。WeisbandとReinigは、人々がメールのプライバシー保護を過大評価する三つの主な要因を挙げる(Weisband and Reinig 1995)。まず第一に、メールシステムのハードウェアやソフトウェアの技術的な部分、たとえばユーザーインターフェースがプライバシーの感覚を助長する。我々はメールサーバーにアクセスするときパスワードを使うため、他の人は自分のメールボックスにアクセスできないような気分になる。つまり、サーバーの管理者ならパスワードにかかわらず自由にメールボックスの中を見ることができるということを失念してしまいがちになるのである。次に、組織的な文脈、特にその会社のプライバシー関するポリシーが影響する。この論文が書かれた時点ではメールプライバシーについてのはっきりしたポリシーを明示していない会社が多く、その結果従業員はプライバシーが守られていると誤って仮定してしまう。もう一つWeisbandたちが示唆するのは、メールでやりとりされる内容そのものがプライバシーの感覚を助長してしまっているという可能性である。メールでは相手の表情や仕草といった社会的な手がかりが見えなくなるため、率直な物言いになることが多い。他方、日常の生活で人々がそんなに率直になるのは非常に私的な場面に限られる。そこで、人々が(自分も含めて)メールで率直にものを言い合っているのをみると、その場が非常に私的な閉ざされた場であるような錯覚に陥ってしまう(とWeisband らは示唆する)。以上のような考察は、Weisbandら自身も指摘するとおり、メールについての意識のギャップを小さくするために利用できるだろう。

2 メールプライバシーを巡る倫理的な論争点

さて、以上のような現状をふまえ、倫理学的にいってメールプライバシー問題にどういう論争点があるのかを以下で見ていこう。このような観点から考えることにはどういうメリットがあるだろうか。まず、法的に言ってもこの問題はまだまだ決着がついたとはいいにくい。メールのプライバシー保護の法案はなかなか受け入れられていないが、今後もそうした法律を作る努力は続くであろう。また、Cappel やChocieyの調査は、「法的にやってよいこと」と「倫理的にやってよいこと」の間に差があることが一般にも認識されていることを示しているだろう。仮に現状での法的なレベルの結論を認めるとしても、倫理的にモニタリングが認められるかどうかはまた別問題として論じられる必要がある。

2-1 メールのモニタリングを肯定する論拠
まず、企業でのメールプライバシーを否定し、モニタリングを肯定する側の最大の論拠は、企業の利益である。企業は利潤追求をより効率的に行うために企業内のコンピュータネットワークを整備し、メールサーバを運営している。それに使われる設備はすべて企業の持ち物である。したがって、企業の側はそのシステムが最大限利潤追求に使われることを当然期待してよいし、そうなっているかどうかをチェックする権利がある。単に息抜きにメールを使っているというのならまだしもだが、場合によっては企業秘密をリークするためにメールが使われることがある。さらに言えば、従業員の行動に対する使用者責任があるため、従業員が悪いことをしていないかどうか確かめる必要もある。たがって企業の利益を守るためにもメールのモニタリングは必要である。特に、この、企業秘密の保護や使用者責任という論点は強力で、メールに関するプライバシー保護の立法が何度も試みながらあまりうまくいっていないのもこの辺に原因があるだろう。
しかし、「会社の所有物だから」という議論がそれだけでは説得力がないことについては、封書との比較が有効である(Thompson et al 1995, 161-162)。封書に関しては、仮に勤務時間を使い、会社の便箋と会社の封筒で手紙を書いてもプライバシーは保護される。使用者責任を持ち出したところで封書を開けて読むことを正当化はできないだろう。電話についても、メールよりはまだしもプライバシーが保護される。では、封書や電話とメールの差はなんなのだろうか?そこで持ち出されるのが「合理的期待」論である。
「合理的期待」論は、モニタリングの不当性を巡る裁判の中で繰り返しとりあげられ、雇用者に有利な判決を正当化する論拠として使われてきた。Smyth 対 Pillsbury Co.、Bourke 対 Nissan Motor Corp.、McLaren 対 Microsoft Corpなど、雇用者がメールをモニタしたことをプライバシー侵害として訴えた事例のいずれにおいても、従業員が、雇用者に対してメールをモニタしないでいてくれると期待する合理的な理由は何もないとして、訴えは退けられている。まず、基本として確認すべきことは、技術の本性上、メールサーバの管理者はいつでも簡単にユーザーのファイルを読めるし、メンテナンスする上でメールのファイルを開けなくてはならない場合すらあるということである。1996年に判決の出たSmyth 対 Pillsbury Co.の場合7 は、事前に会社はメールの機密は保持されると言っていたにもかかわらず、実際にはメールをモニタして、それに基づいて原告を解雇した。しかし、判決においては、会社側がどう言っているかに関わらず雇用者がメールをモニタしないと期待するのはまちがいだという厳しい判断が下された。1999年に判決の出たMcLaren 対 Microsoft Corpの場合には、会社がモニタしたのは原告が自分のオフィスにあるコンピュータにパスワードをかけた上で保存して置いたものだが、それでも裁判官の判断は、会社が自分の所有物が適切に使われているかどうか知る権利がプライバシーの権利を越えるというものだった。8
これがたとえば電話の場合であれば、会社が従業員の電話を盗み聞きするのは、仕事上の電話にかぎっては認められ、私的な電話については、仕事上の電話かどうか判断するのに必要な分だけは聞いてもよい、というのが判例となっているようである (Rodorigez 1998)。メールの場合はその程度の保護もなく、全く個人的なメールを会社が読んでもかまわない。Rodorigezによれば、これは、メールと電話のモニタリングの状況の差に由来すると考えられる。つまり、電話は話している途中で盗み聞きをして、そのまま聞き続けるかどうかを決定する時間があるわけだが、メールの場合はすでにメッセージ全体がサーバーに保存された状態にある。モニタリングにおいてそのメールをあけて私的なものかどうか判断する際にはメール全体を目の前に開くことになり、そこで「冒頭の数行だけ読んで判断するように」と制限をかけるのは実際的ではない。
以上のように、モニタリングを正当化する論拠は、主に会社が自分の所有物を使って自分の利益を追求する権利に関するものと、メールサーバの技術的な側面に注目した「合理的期待」論を柱とすることになる。

2-2 プライバシーを重視する側の論拠
これに対して、当然ながらプライバシーを重視する側からは、プライバシーがなぜ重要かという論拠がいろいろ出される。私が見た限りでもっともよくまとまったメールプライバシー擁護論はThompsonらがカント主義的観点から行っている議論で、以下ではそれを紹介する (Thompson et al. 1995)。カント主義の観点から言えば、プライバシーを侵害することは相手を単なる手段として扱うことである。というのも、プライバシーを侵害するということは、だれとどのようにコミュニケーションするかということについての本人の自律性を侵害することであり、その人を合理的選択者として尊重していないことになるからである。Thompsonらはこのカント的な考え方を当てはめつつ、もう少し具体的なレベルで六項目にわたってメールのモニタリングの問題点を列挙する。
(1)まず、彼らはモニタリングが明示的なポリシーなく行われるという点を問題視する。彼らは Benn (1984)を引用しつつ、隠れた監視はある人をその人の周りの世界について欺くことだと指摘する。欺くというのは相手を尊重した行動とはいえない。
(2)メールはほかの媒体と同じく、アイデアを表明する場として使われる。アイデアを表現するために使われた道具が会社のものでも、アイデアそのものの所有権まで会社が持つわけではない。そして、コミュニケーションの中のそうした知的な要素は「自己の一部」なのである。相手の一部を勝手に利用することは、もちろん相手を目的自体として尊重しないことにつながる。
(3)彼らは、プライバシーを期待する合理的根拠の問題をとりあげる。実際問題として人々はメールのモニタリングは違法だと思いこんでいることが多いし、また、個人パスワードの発行など、プライバシーの感覚を助長する要因も多い。
(4)メールをモニタすることは、仕事のプロセスに悪影響を与える。メールはアイデアを素早く共有するための道具として非常に有用だが、モニタリングが行われていると従業員が思っている場合、従業員はメールの書き方に慎重になり、アイデアの交換が阻害されることになるだろう。ただし、Thompsonらがこれに関して問題視するのはアイデアの交換の阻害に由来する悪影響ではなく、従業員の創造的なプロセスを阻害することで従業員が自らの個性を表現することを妨害し、ひいては人間の尊厳への妨害になるという点である。
(5)メールのモニタリングは社内の人間関係に影響を与える。同僚との間では、スラングをつかったり完璧でない文章を書いたり、冒涜的なことを言ったり会社や上司の悪口を言ったりすることは、全く問題ないばかりでなく好ましいと考えられることが多い。しかし、モニタリングはそういう発言を阻害してしまうだろう。ここでもThompsonらは、それによって親密な人間関係が作りにくくなるといった悪影響を問題にしているわけではない。問題なのは、従業員がコミュニケーションのスタイルを選ぶことを阻害しているという点である。これも従業員の選択を軽視することにつながる。
(6)モニタリングは社内の雰囲気を非常に悪くすることがありうる。不信感や場合によってはパラノイア的な態度を社員の間に産むだろうし、社員が欠勤したり転職したりする原因となるかもしれない。さらに悪いことには、従業員は監視の裏をかくことに熱中するようになるかもしれない。これもまた従業員の創造性や個性の表現に負の作用を持つだろう。
ただしThompsonらはモニタリングを全面否定する立場ではなく雇用者が従業員を単なる手段としてではなく目的自体として扱うかぎりにおいては、従業員のメールのモニタリングも正当化されうると考える。その結果、彼らが提案するのは、非常に制限されたモニタリングポリシーである。まず、会社はモニタリングをする動機や代替方法について真剣に考えなくてはならない。モニタリングをしたいという欲求は会社が統制がとれていないとかあるいは逆に抑圧的であるとかいった、もっと深刻な問題の徴候かもしれない。どうしてもモニタリングが必要となったら、ポリシーを書面で周知する(深刻でない問題ならポリシーを周知するだけでも効果があるだろう)。モニタリングは疑わしい人物に限るべきであるし、その人物を疑う独立の証拠がある場合に限るべきである。また、疑いの性質によってはメールの送信情報(送信者、受信者、サブジェクト等)だけモニタすれば十分かもしれない可能性も考慮すべきである。モニタに基づいた処分の前には弁明の機会が与えられる必要があるだろう。モニタリングの後ではモニタリングを行ったことを当の従業員に知らせ、モニタリングの目的とかんけいのない情報は処分するべきである。また、ポリシーを周知する前のメールはモニタリングの対象となるべきではないだろう。
Thompsonらの議論はカント主義の観点からのものだったが、ほとんど同じ材料を使ってもっと功利主義的な議論をすることも十分可能だろう。9 まったく同じ事態でも、人々がそれを予期しているかいないかで、その事態の効用は大きく変わるだろう。メールはモニタされないのが当たり前だと思っているところで実はモニタされていたというのは、モニタされるかもしれないと思っているところで実際にもモニタされていた場合にくらべ、大きな負の効用を産むことになるだろう。Thompsonが創造性や個性の発揮に結びつけて論じている論点を効用に翻訳するのもたやすい。従業員がのびのび仕事できる環境は生産性を高め、結局会社にとっても利益になるだろう。ただし、アイデアの交換などについてモニタリングが本当に悪影響があるかどうかは、Chocieyの調査などを見るかぎり保留とせざるをえない。

2-3 この論争はどちらの方向へ向かえばよいのか
Thompson らの議論は多くの倫理学者の共感を得るものだと思われるが、立法や司法に携わる者たちの認識とのへだたりは大きい。このへだたりはどうやって縮めていけばよいのだろう?
まず、ポリシーを明示するかどうかについての論争は、実際問題としてここ数年にアメリカの多くの企業がモニタリングに関するポリシーを明示するようになってきたため、解消に向かっているといえそうである。日本でも同じような流れが近い将来に生まれるかどうかは不明であるが、他の多くの問題と同様にアメリカの動きに追随することは十分考えられる。ただし、ここでの「解消」は、プライバシーが守られる方に解消するというよりは、より合法的にモニタリングが行われる方への解消であり、プライバシー擁護派にとってはかえって不本意な状況であるかもしれない。
次に、合理的期待をめぐる議論は、同じ技術が、どちら側からどのようにかかわるかによって全く違う姿を現すことの典型例だと思える。ユーザーの側から見るとメールは封書と同じような使用感を持ち、サーバを維持する側からみると、個々のやりとりの内容がすべて見えるわけだから、掲示板や廊下での立ち話と同じような使用感を持つだろう。たとえて言うなら、円柱を上から見ている人と横から見ている人が「丸い」「いや四角い」とやりあっている様が連想される。こうした状況を解決する唯一の方法は、お互いが相手の側からどう見えるかを理解する努力をすることである。これは単に知識として知っているだけではだめで、実感が伴わないと意味がない。Weisbandらの指摘をふまえて考えるなら、サーバ管理者がメールをいつでも読むことができることを示唆するようなインターフェース、たとえばユーザーがメールボックスにアクセスするたびにサーバ管理者の顔が表示されるとか、にするだけでもずいぶん認識はかわるだろう。本当はユーザー一人一人に実際にサーバ管理を体験してもらうのがよいのだが、それはプライバシーの問題はじめさまざまな実際上の問題があって実現は難しそうである。サーバ管理者の側がユーザーの視点を意識するようにするのはなかなか難しい。もちろんサーバ管理者自身もひとりのユーザーとしてメールを使いはするだろうが、いわば管理者としての知識がじゃまになって、ほんとうにただのユーザーとしての視点を持つのは難しくなるのではないだろうか。10 ただし、そうはいっても、知識の欠如が目立つのはユーザーの側であるのも間違いない。両者が共に全体としての視野を持ったとしても、管理者でなくユーザーの側の期待が優先するという結論は考えにくい。
もうひとつ、「合理的期待」論がプライバシーの問題にどの程度関わりを持つのかというのももっと煮詰められるべき問題だろう。Primeaux (1998, 55)が言うように、簡単に見ることができるから見ていいというものでないというのは、家に鍵をかけておかなかったからと言って空き巣が正当化されるわけではないのと同じようなものである。11 「合理的期待」論に基づいてメールのモニタリングを正当化する者は、前者と後者の違いは何なのかという問いに答える必要がある。この問題は、「簡単にできることを禁止しても意味がない」という主張の是非という一般的な問題に吸収されるだろう。倫理学では「できないことを義務づけても意味がない」という問題については「「べし」は「できる」を含意する」という命題との関わりで頻繁に論じられてきたが、「「べからず」は「簡単にはできない」を含意する」という命題はあまり(というよりまったく)取り上げられてきていない。つまり、この点をどう決着させるかについては倫理学はまだ白紙状態だといえる。
さて、以上のような考察の範囲で考えるかぎり、法的にだけでなく倫理的にいっても、会社でのメールモニタリングを禁止するのはむずかしそうである。しかし、倫理的な判断はそこでは終わってしまわない。許容される行為の中でも、倫理的な善し悪しを問うことは十分にできる。本稿では、この部分の判断に、徳倫理学の観点を導入することを提唱する。(なぜ徳倫理学なのか、という点についてはおいおい説明していくことになるだろう。)

3徳倫理学の観点から見たメールプライバシー問題
3-1 徳倫理学の実践的利用
徳倫理学は近年理論的に非常に洗練されつつあるが、あまりその動きの紹介は日本ではなされていない。12 徳倫理学は功利主義やカント主義に対する批判として、どんなに(功利主義や義務論の観点から見て)正しい行いをしている人でも、それに暖かい感情が伴っていなければ、やはりその人には何か道徳的にみて欠けているところがあるのではないか、という問題が挙げられる。むしろ、困っている人を見たらつい同情して助けずにいられないような性格を養成することにこそ道徳的な価値というのがあるのではないか。この論点を非常に説得力を持って提示するものとして、Stockerの有名な例がある(Stocker 1976)。ここに仮に非常に原則的なカント主義者がいて、義務への尊敬の念のみによって行動するとしよう。さて、このカント主義者の友人が病気で入院して非常にふさぎ込んだ日々をおくっている。カント主義者は、毎日、街の反対側にある病院まではるばる友人を見舞いに行く。友人がお礼を言うと、このカント主義者は「友達として当然の義務を果たしているまでだ」と答える。友人は当初カント主義者が謙遜してそう言っているのだと思っていたのだが、日がたつにつれ、このカント主義者は自分のことを心配してくれているのでも自分のことを好きなわけでもなく、本当に単に義務への尊敬から見舞いにきていることがわかってくる。さて、Stockerがここで問うのは、はたしてわれわれはこのカント主義者を道徳的に望ましい人物だと考えるだろうか、ということである。むしろ、やることが少々間違っていても、友人のことを本当に心配するような人物の方を道徳的に高く評価するのではないだろうか?もしこの直観が共有されるなら、同じ議論は、最大多数の最大幸福についての計算のみによって行動する原則的な功利主義者にもあてはまるだろう。徳倫理学が捉えようとするのは、こうした判断において問題となる倫理の問題である。
このようにして、徳倫理学は、行為の善し悪しを、行為者がどれだけ美徳を身につけているか、という観点から判断する。ただし、それ以上の点については徳倫理学者の間でもさまざまな意見の違いがある。たとえばMichael Slote(1995)は徳倫理学を大きく行為者中心的倫理(agent-focused ethics)と行為者基底的倫理 (agent-based ethics)に区分する。徳倫理学的な立場の多くは、行為者の特質を倫理判断の基本とすることは認めつつも、どういう特質をよしとするかについては、人類の繁栄といったより基本的な基準を持つことが多い。極端なことを言えば、行為者中心的倫理は功利主義とすら矛盾しない。しかし、これは同時に、なぜ行為者の特質を倫理的思考の中心に据えるのか、他のレベルではないのか、という根拠があまりはっきりしないことも意味する。行為者基底的倫理は行為者の特質が道徳判断のもっとも基礎となる根拠であると考える。Sloteによれば、倫理学の歴史で明確に行為者基底的倫理を唱えたのは19世紀イギリスのJames Martineauだけである。行為者基底的倫理を採用するなら、場合によって行為者の特質が倫理判断の中心にならなくなる可能性は除外できるが、その他の問題がいろいろと生じる。
Sloteの場合、行為の善し悪しは動機によって判断される。悪い動機を反映した行為は悪く、よい動機を反映した行為はよい。これでは行為の指針として役に立たないではないか、という批判もあるかもしれないが、自分の中によい動機がなくとも、少なくとも悪い動機を反映した行為を差し控えることはできる。また、動機さえよければ何をしてもよいのか、という疑問に対しても答を用意する。Sloteが重視するのは博愛やケアなどの動機であるが、これらの動機を本当に持つ人は自分の能力の及ぶ限りに置いて関連する情報を集め最善の決定を下そうとするだろう。そのため、普通に思考力のある人ならば、行為の結果もそれほど「何でもあり」にはならず、帰結主義者もおおむね満足させるようなものに限られてくるだろう。この論法は、なぜ帰結主義がある程度の直観的説得力を持つかを行為者基底的な倫理の観点から説明するためにも役に立つ。
Sloteは行為者基底的倫理の類型として、行為者の内的な強さを基礎とするもの、博愛を基礎としたもの、ケアを基礎としたものの三つを挙げる。内的な強さ(inner strength)とは、ここでは自信(self-reliance)や自足(self-sufficiency)の感覚を指す。これらの感覚は一見他者への倫理的行為の基礎となりにくいように思われるが、自らが満ち足りているという感覚は、他人に余分なものを与えるという行為として現れうるし、まったくそうした行為を行わない者は本当に自信を持っているのかどうか疑わしいとすらいえる。ただ、内的な強さだけで近代倫理学が強調するさまざまな美徳を説明できるとは考えられない。博愛とケアはどちらも他人への愛情や共感による動機付けだが、博愛がすべての人を等しく愛する態度であるのに対し、ケアは自分の身の回りの人々に対する特別な愛情である。どちらが欠けても、家族を顧みない人間や、逆に家族さえよければその他の人への迷惑を気にかけない人間といった、直観的にみて道徳的に問題のある人間になる。われわれはこれら三つの性格特性の望ましさについて十分強い道徳直観を持っているため、わざわざそれ以上の根拠にさかのぼって考える必要はない(とSloteは考える)。
徳倫理学を行為との関わりで分析した論者として、Rosalind Hurstouse(1991)の議論も注目に値する。Hursthouseは「どのように行為することが有徳virtuous か、どのように行為することが悪徳 viciousか」と自分に問うことで問題解決の糸口が得られると考える。Hursthouseの徳倫理はSloteの分類で言えば行為者基底的ではなく、むしろ行為者中心的な倫理である。彼女の場合は何が有徳かを決める最終的な基準としては人間の繁栄(human flourishing)を置きつつ、実際の行為の指針としては美徳や悪徳の概念を利用する。
Hursthouse は中絶についての判断を例にとって、これまでの中絶論争があまりにも母親の権利や胎児の形而上学的身分に偏りすぎてきたことを批判する。彼女によれば、中絶をするという行為もしないという行為も有徳でも悪徳でもありうる。中絶という決定のプロセスでその人がどういう状況に置かれ、どういうことを考慮にいれ、どういう動機で決定したか、という細部が重要である。その中で、「思慮が浅い」とか「自己中心的」とか「無責任」とか「成長を拒否している」とかいう悪徳と結びついた記述があてはまるのか、それとも「意志が固い」とか「自立している」とか「真剣に考えている」とかいった美徳と結びついた記述があてはあまるのか、ということが吟味されていくことになる。これは自分の行動について考える時にも同じ思考法が使える。今から自分がやろうとしていることは「自己中心的」ではないだろうか、「無責任」ではないだろうか、と考えていく中で自分のなすべきことが見えてくる。
もちろん、何の手がかりもなしに中絶だけを取り出して判断を下すことはできない。Hursthouseによれば、有徳かどうかの判断で重要なのは、中絶についての態度が、他の関連する事柄についての態度、たとえば流産についての望ましい態度と整合的であることが求められる。(望ましい行為でもなく望ましい結果でもなく、望ましい態度を思考の中心に据える点で、Hursthouse の議論は行為者中心的である。)中絶を散髪と同程度の自己決定の問題だと考える人は、流産するのとひどい髪型に散髪されてしまうのを同じようなものだと考えることになるだろう。しかし、そのような態度は、胎児が厳密な意味で人格であるかどうかといった問題に関わらず、生命というものについてあやまった考え方をしていると多くの人がみとめるだろう。
Hursthouseはこの議論の不十分性についてはよく意識しているが、批判に対してはある程度の答を用意している。まず、美徳の概念の曖昧さについては、これは美徳だけの問題ではなく、合理性や幸福といった概念も曖昧であることを指摘する。ひとによって判断が変わってくるという点については、それはその人の賢明さの度合いによって答が変わってくるのは当然だと答える。Hursthouse の目標は、そうした問題を解決することではなく、美徳や悪徳についての考慮をどうやって実際の倫理判断に使うかの方法を示すことである。
以上のように動機を倫理的思考の中心に据えた場合、動機は外からは分かりにくい部分が多いので、最終的には本人が判断しないことにはどうしようもない。徳倫理学は他人の行為をその人の性格で判断する三人称的な倫理だと考えられがちだが、SloteやHursthouseのイメージする徳倫理学は、自分の動機について自分自身に問いただす、非常に一人称的な倫理である。以下の応用ではそうした一人称的な面に注目して利用する。Sloteは行為者基底的倫理にこだわるが、以下の応用ではあまりそこにはこだわらない。他の視点から基礎づけできるかもしれない可能性をオープンにしておくことは、徳倫理学を強化しこそすれ弱めはしないだろう。私自身は帰結主義に共感的だが、SloteやHursthouseの提案する徳倫理学的思考法を利用することは帰結主義の観点からも十分支持できるという印象を持っている。

3-2 メールプライバシー問題への応用
Hursthouseの中絶に関する議論は、メールのプライバシーの問題にもある程度並行的にあてはめることができる。中絶について母親と胎児の権利が問題となったように、メールのプライバシーを巡る議論は雇用者の所有権と従業員のプライバシーの権利の対立の問題として論じられてきた。中絶において胎児の人格という形而上学的問題が論じられてきたのと同様に、「合理的期待」論はメールはどのくらい封書や電話に近いかという「形而上学的」な問題に関わるものだった。しかし、Hursthouseの論法を類比的に持ってくるならば、従業員のメールをモニタすることが倫理的に正しいかどうかの判断には権利や形而上学についての考察だけでは不十分である。メールをモニタする権利があってもその行為は悪徳かもしれないし、モニタする権利がなくても有徳かもしれない。ただ、Hursthouseは考え方の手順についてはある程度のべてくれているがどういう美徳を中心に考えるかについてあまり一般的なことを言っていない。この点ではSloteの三つの美徳の方が参考になるので、とりあえずそちらを使ってみよう。
まず、徳倫理学の観点からモニタリングをやってよいかどうか判断する上では、社内ネットワークが会社の所有物であるということはあまり重要な要素になってこないだろう。自分のものを使うのは悪徳ではもちろんないけれども、美徳とも呼べないだろう。いってみれば徳に関しては社内ネットワークの所有権は中立的である。
社内でのプライバシーの権利をめぐる問題は、相手に対するケアや博愛の問題に翻訳されるだろう。比較的小規模な会社では一応雇用者やシステム管理者と従業員の間には一対一の人間関係がなりたっていると想定することができるが、ある程度以上規模の大きい会社では、そうした直接的関係は成り立ちにくい。一対一の関係が成り立つ限りにおいてはケアが、そうでない場合には博愛が行為を判断するうえでの視点となるだろう。美徳の判断一般についても言えることだが、ケアの判断は特に個別の人間関係の細部に強く依存する。当事者がお互いに対して期待することも微妙な要因で大きく変わってくる。社員の期待の問題をメールシステムの技術的な問題に還元できるという考え方は、期待というもののこうした性格を無視していると言わざるをえないだろう。法的判断の場合ならそうした杓子定規さというのは利点となりうるが、道徳判断の微妙さをとらえることはできない。
一般論として言えば、従業員をケアに基づいて扱う雇用者なら、ポリシーを明示せずにモニタリングをすることはなさそうに思える。少なくとも、従業員がメールのプライバシーについて現にどいう期待を持っているか、その期待が雇用者とのどういうやりとりの中で形成されてきたかということは当然考慮することになるだろう。ただし、ケアという概念の構造からいって、プライバシーの権利を常に守られるものとして杓子定規に適用することはできない。例えばある社員の様子が最近おかしいので心配してついその社員のメールをモニタしてしまうというのはケアの観点からは正当化される可能性が十分にある(そのほかの条件も必要だが)。
これだけで話が終わるのなら、Thompsonらの提示したカント的倫理学とあまりかわらない主張を徳倫理学の用語に置き直しただけということになるだろう。しかし、プライバシーの問題(特にメールのプライバシーの問題)を考える上ではもう少し別の要素も必要なのではないかと思われる。というのも、われわれがメールモニタリングに感じる抵抗は、プライバシーの権利という高尚な問題だけではなく、実はもっと卑近な「覗き趣味」に対する嫌悪感という側面が強いのではないかと想像されるからである。そのほか、モニタリングの動機には支配欲や猜疑心などが考えられ、これらもモニタリングに反発する理由となっているだろう。こうした性格特性に注目した判断は非常に徳倫理学的な判断といえる。
行為者基底的倫理の観点からはこれらの性格特性は悪徳と位置づけることができるだろう。例えば、Sloteの挙げる美徳の三つのパターンから言えば、覗き趣味等々は、内的な強さの欠如の一形態だと考えられる。自信のある者は「覗く」のではなく「堂々と見せてもらう」であろう。「覗く」理由が「相手がなにをやっているか気にかかる」からだ、という場合も考えられて、それはケアの現れとも解釈できる(したがって肯定的に評価される)だろう。しかしどうみても相手のことをケアしているから相手のやっていることが気にかかるわけではない場面は存在するし、「覗き趣味」という記述はそういう場面に当てはめられることになるだろう。相手を支配せずにいられない気持ちは、自信のなさの裏返しだと見ることもできる。
確かに帰結主義や義務論からも覗き趣味・支配欲・猜疑心などに対する嫌悪を根拠づけることはできるだろう。カント主義ならば、相手についての情報を自分の欲求のために手段として使っている点が当然問題にされるだろう。しかし、それだけだと、覗き趣味に対する道徳判断に含まれる「軽蔑」の要素はうまく説明できない。功利主義の場合だと、「覗かれたくない」という、われわれが一般に持つ選好の結果、覗き趣味は選好充足を最大化しない、というような説明がなされるだろう。こうした解釈に対しては、功利主義に対する通常の批判に加え、本人の知らないところで起きた出来事についての選好(いわゆる外的選好)をどう扱うかという問題も抱え込むことになる。支配欲や猜疑心についてもにたような議論は可能だろう。前にも述べたように、徳倫理学の主流である行為者中心的倫理の考え方はこうした基礎づけの可能性は否定しない。
ケアについての判断と同じく、モニタリングが「覗き趣味」等の記述にあてはまるかどうかも、その会社のポリシーなど形式的な側面だけみたのでは判断できない。モニタリングをするに至った事情の細部や、実際に何をモニタしたかなどが問題となってくるだろう。企業秘密の漏洩が続いて困っているという状況で疑わしい社員のメールを見るのは、プライバシーの侵害かどうかは別として、「覗き趣味」ではなかろう。逆に、実際にモニタしているメールの種類をみたとき、無味乾燥な事務連絡のたぐいはほとんどモニタせずに私信的要素の強いものばかりモニタしているとしたら、これはかなり「覗き趣味」である可能性が高くなる。Thompsonらの提案する非常に制限されたモニタリングポリシーは、もし文字通りに運用されるならこうした問題を避けることができそうだが、同じポリシーの下でも実際の運用の仕方は千差万別に多様でありうる。
わたしが徳倫理学的思考に着目するもう一つの理由は、道徳的に行為する理由に関わるものである。誰にも見られずに行動できるときにわれわれはなぜ道徳的に行為すべきかというのは倫理学の主要問題の一つである。以前に論じたように(伊勢田2000)、インターネットは匿名性や不可視性という点で「なぜ道徳的であるべきか」がより深刻な問題となりうる要素を持っている。特に、サーバの管理者が自分のサーバ上の他人のメールを読むという行為は、誰にも知られずあとが残らないという意味では非常に「理想的」な環境であるといえる。まして法的にもモニタリングが認められているとなれば、他人のプライバシーを侵すことへの心理的歯止めは非常にかかりにくい。良心や共感などがうまく倫理的に行動する方へ働いてくれれば言うことはないが、それらの力は必ずしも強くはない。そうした場面でも心理的歯止めとなりうる一つの要素が、本人の自尊心である。雇用者やサーバの管理者がもしもモニタリングが「覗き趣味」や「猜疑心」として記述されると認識したら(本人の自尊心次第で)これはモニタリングを差し控える一つの理由となるだろう。美徳の中でも、この種の「内的な強さ」に関わるような徳目はあまり倫理的行動との関係が認識されてこなかったが、両者の間を橋渡しすることは、概念的にも心理的にも十分可能であろう。

4まとめ
以上、メールのモニタリングをめぐる現状を紹介し、それについての倫理学的観点からの分析を見てきた。とりわけ、モニタリングについての法的な問題が片づいてもなお片づかずに残る倫理的な問題があること、そうした問題について考える上で徳倫理学的思考法が一助になることを論じてきた。今後、日本でアメリカ同様の問題が表面化してくることが予想されるし、そうした文脈で以上のような考察はなにがしかの役に立つことと思われる。



References(インターネット上のものを除く)

Benn, S.I. (1984) "Privacy, freedom and respect for persons" in Philosophical Dimensions of Privacy: An Anthology. New York: Cambridge University Press, 223-244.
Cappel, J.J. (1993) "Closing the e-mail privacy gap" in The Journal of Systems Management 44 no.12, 6-11.
--. (1995) "A study of individuals' ethical beliefs and perceptions of electronic mail privacy" in Journal of Business Ethics 14, 819-827.
Chociey, P.A. (1997) "'Who's reading my e-mail?': a study of professionals' e-mail usage and privacy perceptions in the workplace" in IEEE Transactions of Professional Communication 40, 34-40.
Glassberg, B.C., Kettinger, W.J. and Logan J.E. (1996) "Electronic communication: an ounce of policy is worth a pound of cure" in Business Horizons 39 no. 4, 74-80.
Hursthouse, R. (1991) "Virtue theory and abortion", Philosophy and Public Affairs 20, 223-246.
伊勢田哲治(2000)「Why Be Moral on Internet?---道徳の根拠付けとインターネットの発展」、『情報倫理学研究資料集 II』59-74.
Iseda, T. (forthcoming) "Information ethics and its methodology: wide reflective equilibrium as a form of modest foundationalism" in Masahiko Mizutani (ed.) Information Ethics in the Age of the Internet (仮題) 京都大学学術出版会
オークリー、ジャスティン(2000)「徳倫理の諸相と情報社会におけるその意義」(児玉、岸田、徳田共訳)『情報倫理学研究資料集II』、13-36。
Primeaux, D. (1998) "Using an alternative ethical paradigm for analysis; an example regarding e-mail privacy issue" in Computers and Society vol. 28 no.2, 52-55.
Rodriguez, A.I. (1998) "All bark, no byte: employee e-mail privacy rights in the private sector workplace" in Emory Law Journal 47, 1439-1473.
Sipior, J. C. and Ward, B.T. (1995) "The ethical and legal quandary of email privacy" in Communications of the ACM vol. 38 no.12, 48-54.
Slote, M. (1995) "Agent-based virtue ethics, Midwest Studies in Philosophy 20, 83-101.
Stocker, M. (1976) "The schizophrenia of modern ethical theories", Journal of Philosophy 73, 453-466.
Thompson, J.A., DeTienne, K.B. and Smart K.L. (1995) "Privacy, e-mail, and information policy: where ethics meets reality" in IEEE Transactions of Professional Communication 38, 158-164.
Weisband, S.P. and Reinig B.A. (1995) "Managing user perceptions of email privacy" in Communications of the ACM vol. 38 no. 12, 40-47.
吉永敦征(2001)「アメリカの大学における計算機上の情報に対するプライバシーの保護」、『情報倫理学研究資料集III』93-121.

1 大学におけるメールプライバシーについては吉永2001などが参考になる。

2 簡単な紹介としては1999年のFINEワークショップで発表されたIseda forthcomingなどがあるが、これも英語による紹介で、日本語によるまとまった紹介とはいえない。

3 このサーベイと追調査の結果は以下のウェブページで読むことができる。
http://www.amanet.org/research/pdfs/emsfu_short.pdf

4 Sipior and Ward 1995など参照。EPIC (Electronic Privacy Information Center)のウェブサイトはこうした問題についての情報源として充実しており、以下の記述もそれによるところが多い。以下のページ参照。
http://www.epic.org/privacy/workplace/default.html

5 http://www.cga.state.ct.us/ps98/act/pa/pa-0142.htm

6 藤田康幸「職場における電子メールとプライバシー」
http://www.ne.jp/asahi/law/y.fujita/comp/int_work_email_priv.html

7 この判決は次のサイトで読むことができる。
http://www.Loundy.com/CASES/Smyth_v_Pillsbury.html
この判決は次のように明瞭に述べている。"...we do not find a reasonable expectation of privacy in e-mail communications voluntarily made by an employee to his supervisor over the company e-mail system notwithstanding any assurances that such communications would not be intercepted by management."

8 おもしろいのは2001年にアメリカの連邦裁判所でおきた事件で、これは連邦裁判所が裁判官のインターネット使用をモニタしていたのに対し、モニタを止めるように裁判官達が求めたというものである。この件に関しては裁判官の側の主張が通る形となった。この点での扱いの違いが、公務員と私企業の従業員の差ということになる。以下の記事など参照
http://www.privacyfoundation.org/workplace/law/law_show.asp?id=75&action=0

9 功利主義の観点から企業でのメールプライバシーを論じた文献はあまりない。Glassberg et al. 1996は帰結主義の観点も提示しているが、全体としては折衷主義的である。

10 これは私自身がメールサーバの管理を行い日常的に他人のメールボックスの修復などをやっていたころの実感でもある。当時は自分のメールがどこに保存され、誰がそれを読めるかということを常に意識しながらメールを使っていた。不思議なもので、そうした業務から解放された現在では、知識としては変わらないにも関わらず、ひとりのユーザーとしての視点を「取り戻して」いるように感じる。

11 Primeauxはこの結論を導き出すために、ハーバーマスの公的領域の概念を持ち込んで、メールの勝手な閲覧は私的領域にある情報を勝手に公的領域に持ち出すことだ、というような議論を組み立てているが、あまりそうした観点の導入が実質的な役に立っているようには見えない。

12 オークリー2000などは数少ない例外である。なお、本稿での徳倫理学のイメージは主にSloteに依拠するので、オークリーのイメージとはずれる点がいくつかある。