KKテーゼと懐疑主義----知識の人間的可能性からの分析----

The KK Thesis and Skepticism: An Analysis in terms of Human Possibility of Knowledge

伊勢田哲治(Tetsuji ISEDA)

情報文化学部 (School of Informatics and Sciences)

Abstract

Frederick Suppe argues that skeptical arguments from Descartes to Feyerabend are based upon the KK thesis, i.e. the thesis that if A knows that P, then A knows that A knows that P, and as a result they are not worth worrying about. Even though I agree with him that the KK thesis is dismissible in the analysis of scientific knowledge, it seems to me that his argument against skepticism is unwarranted. The purpose of this paper is to reconstruct skeptical arguments without the KK thesis, to show where Suppe went wrong. Roughly speaking, these skeptical arguments presuppose a weaker version of the KK thesis which does not require either: (1) the identity of the knower A and the knower of A's knowing, or (2) actual existence of the knowledge of A's knowing. If we refuse this weaker thesis (which I call the PEHKK thesis), that will lead to a very pessimistic image of epistemological analysis of scientific knowledge. If we do not want the pessimism, we may want to attack other aspects of skeptical argument than the PEHKK thesis.

キーワード

認識論 (epistemology) 懐疑主義 (skepticism) 知識 (knowledge) KKテーゼ (KK thesis)

1イントロダクション

KKテーゼとは、ある認知者が知識を持っていると認められるための条件の一つとして、自分がその知識を持っていることを知っている(つまり自分の知識についての二階の知識を持つ)ことが必要だ、というテーゼである。(「認知者」というのは日本語としてこなれない表現だが、知識や信念の主体となりうる存在者の総称と理解してほしい。)これは1960年代から70年代にかけての認識論でしばらく議論されたあと、あまりとりあげられなくなってしまっていた。しかしながら、この論争に関しては興味深い問題がまだ残っていると考える。本稿では、デカルト流懐疑主義とKKテーゼの関係に関するフレデリック・サッピの最近の仕事を批判的に検討することによって、そうした問題を明るみにだしていく。

サッピはある種の懐疑主義とKKテーゼの間に本質的なつながりがあると考え、懐疑主義が大きな問題となってきたのは、実はKKテーゼを受け入れてきたからに過ぎないと主張する。科学的知識の分析においてはKKテーゼのような厳しい要請はふさわしくないと考える理由はあるので、もし彼が正しいなら、単純にKKテーゼを否定することで、近代の哲学の最大の問題の一つとなってきた懐疑主義の問題を科学的知識の分析から追放できることになる。結論をさきまわりして述べておくと、サッピの分析は懐疑主義の興味深い側面を明らかにしてはいるが、私はサッピの結論そのものは誤っていると考える。懐疑主義の根拠としてはKKテーゼを弱めた別のテーゼで十分であるが、この弱いテーゼを否定することには認識論の本質にもかかわる問題が伴うため、あまり得策ではない。

2KKテーゼとその問題点

まず、そもそもKKテーゼとはなんで、それがどうして問題と考えられてきたかを簡単にまとめよう。KKテーゼはジャッコ・ヒンティッカ(Hintikka 1962)をはじめとする認識論者によって支持されている。ヒンティッカの定式化は

(1) K(a, p) -> K (a, K(a, p))

すなわち、「もし認知者aが命題pを知っているならば、aは「aが命題pを知っている」ことも知っている」という形をとる。本稿でも以下、この定式化にそって話をすすめる。(注1)ヒンティッカは認識論理の公理からKKテーゼを導出しているが(Hintikka 1962, 104-105)、チザムも指摘するとおり、公理そのものの中にKKテーゼが暗黙のうちに前提されているため、この証明は循環している(Chisholm 1963, 784-787)。もちろん証明が循環しているということはKKテーゼ自体に対する反論とはならない。

KKテーゼにはいろいろな反論が出されている。KKテーゼと自己知識の関係がまず問題となる(Carrier 1974)。KKテーゼは認知者が記述される仕方にはセンシティブではないため、もしケベック州で最も鈍い男がpを知っているならば、その男はKKテーゼによれば「ケベック州で最も鈍い男がpを知っている」ことも知っていることになる。これはたいていの場合偽であろう。この問題を回避する一つの方法は、認知者はつねに自分についての知識を持っている(つまり認知者aは自分がどのように記述されるか知っている)という条件をつけることである(ibid.)。しかしそうすると子供や犬など、自己知識を持たないと思われる存在は知識をまったく持たないことになってしまい、それもまた直観に反する。

ヒルピネンの提案する問題点(Hilpinen 1970)も興味深い。知識についての通常の分析に従い、「aはpを知っている」という命題は「aは正当化された真なる信念pを持つ」ということを含意するとしよう、つまり、

(2) K(a, p) -> B(a, p) & J(a, p) & p

であるとしよう(ただし、B(a, p) は「aはpを信じている」、 J(a, p)は「aはpを信じることを正当化されている」をそれぞれ意味する)。また、知識について分配則が成り立つものとしよう。すなわち、

(3) K(a, p&q) -> K(a, p) & K(a, q)

であるとしよう。(2)も(3)も認識論において広く認められている。(1) (2) (3)をあわせると、次のような展開が可能である。(注2)

(4) K(a, p) -> K (a, K(a, p))
-> K(a, B(a, p) & J(a, p) & p)
-> K(a, B(a, p) ) & K(a, J(a, p) ) & K(a, p)
->B(a, B(a, p))&J(a, B(a, p))&B(a, p)&B(a, J(a, p))& J(a, J(a, p))&J(a, p)&B(a, p) & J(a, p) & p

この式の右端にはいろいろ疑わしい項が含まれているが、一番あやしいのはB(a, J(a, p))という項、すなわち「aは自分がpを信じることを正当化されていると信じている」という項である。本当にこれは「aがpを知っている」ことに含意されるだろうか?(もし(4)が正しいならそういうことになってしまう。)ヒルピネンは、aが自分の置かれた状況を認識しそこない、本当はpを知っているにもかかわらず、自分がpを信じることを正当化されていることに気づいていないということは十分想像できる、と論じる。これはKKテーゼにとっては不都合な帰結である。

ヒンティッカはこうした批判に対し、自分が念頭においているのは強い意味での「知る」ことであると答えている(Hintikka 1970)。この観点からいえば、上記の難点は、単にヒンティッカが考える意味での「知る」と日常言語でいう「知る」の間の差でしかないということになる。たとえば、最初の自己知識についての難点は、子供や犬はこの強い意味での知識は持たない、と認めれば解消されるし、第二の難点は強い意味での知識を成立させるための正当化はまさにB(a, J(a, p))やJ(a, J(a, p))を満たすような正当化なのだと考えることで解消される。(注3) たとえば、「pを信じる明白で訂正不可能な(incorrigible)証拠がある」ことを正当化の条件とすれば、そうした証拠を持つものは自分がpを信じる明白で訂正の余地のない証拠を持っているという信念も持つ(そしてその信念も正当化されている)というのはそれほどおかしなことではない。ただ、ここで一応注意すべきだが、知識正当化の訂正不可能性テーゼとKKテーゼは、親和性は高いけれども、論理的には独立である。訂正不可能な証拠があるということを本人が理解する必要はない、というタイプの訂正不可能性テーゼも考えられるし、訂正不可能性よりももっとゆるい基準を知識の正当化の基準とするタイプのKKテーゼも考えられる(もちろんその場合にはヒンティッカと違うやりかたでヒルピネンに答えなくてはならないが、それは別に原理的に不可能なわけではないだろう)。

サッピはヒンティッカのこのような方針を科学哲学の視点から批判する(Suppe 1977, 723-726)。ヒンティッカのような強い意味での「知識」は、知識というものの重要なカテゴリーである科学的知識の理解には役に立たない。サッピは科学的知識についてKK テーゼとうまく適合しない四つの側面を挙げる。まず第一に、サッピはKKテーゼと真理の対応説の関係を問題視する。KKテーゼと知識の分析の組み合わせから「aがpを知っているならば、aはpが真であると知っている」という命題が導けるとサッピは考える。(注4) もしも真理について対応説的な考え方をするならば、この命題の後半部分はaがpと世界との対応関係そのものについて知っているという意味になってしまうが、そうした直接的知識の可能性についてはほとんどの哲学者は否定的である。となると、知識というものはそもそもないと考えるか、真理についての対応説を放棄するかの選択に迫られることになるが、前者は懐疑主義に陥ってしまうし、かといって真理の対応説は科学的知識にとって必要なので後者もとれない。次に、KKテーゼと合理性に関する相対主義の関係も問題となる。ヒルピネンのところでも問題になったが、KKテーゼと知識の分析からK(a, p)->K(a, J(a, p) )という命題が導出できる。これは、我々が知識を持つとき、その知識がどのように正当化されているかも我々が知っているということを意味する。しかし、科学における合理性の基準は常に変化しており、われわれがある知識を受け入れるためにつかう基準もそれとともに変化する。この変化する基準が上の式でいうJ(a, p)で意味されている正当化だとすれば、何が知識であるかはそのときどきの方法論によって変わる、という相対主義が帰結してしまうし、逆にJ(a, p)でいう正当化は別物だとしたらやはり我々は知識など持たないということになってしまう。第三に、科学において知識に関する主張を評定する手続きは可謬性を持つので、訂正不可能性は科学にはあてはまらない。第四に、KKテーゼは洗練された観察による知識を不可能にする、というのも、洗練された観察は背景知識に依拠して行われるが、そうした背景知識も訂正不可能ではないからである。

サッピの議論の細部の妥当性はともかくとして、(注5) KKテーゼは厳格すぎる基準であるため、科学的知識そのものの性格を理解していくうえではあまり助けにならないという点ではサッピに同意できるだろう。ヒンティッカも強い意味での知識だけが知識だというわけではなく、弱い意味での知識はKKテーゼを満たす必要はないと言っているわけだから、こう認めたからといって科学的知識が知識であること(したがって認識論の対象となること)を否定することにはならない。そういうわけで、科学哲学をやる上ではKKテーゼを否定するというのは十分筋の通った選択である。

さて、ここで、仮に懐疑主義的な議論がKKテーゼを前提としなければ成り立たないとしよう。もしそうならば、科学的知識の分析においてはKKテーゼそのものを否定するのだから、科学的知識を論じる上では(つまり科学哲学では)懐疑主義的な議論を相手にしなくてよいということになる。サッピがKKテーゼ批判をするのは、実はこの推論の筋道をたどって、科学哲学から懐疑主義を追放しようという目論見があるからである。次にその議論を見てみよう。

3懐疑主義に対するサッピの批判

サッピは1989年の本の第10章で、バークレー、ヒューム、クーン、ファイヤアーベントその他の懐疑主義的な議論は「KKテーゼに本質的に依拠している」と主張している(Suppe 1989, 332)。この章の最初の節で、サッピは論理実証主義者に至る経験主義者たちの懐疑的議論の歴史の概観を行うが、その部分ではKKテーゼには触れていない。(注6) その次の節でサッピはファイヤアーベントの1958年の相対主義的議論(Feyerabend 1958) を要約し、ここで彼はファイヤアーベントをKKテーゼと接続しようと試みる。

この1958年の論文において、ファイヤアーベントは、現象は文の解釈を決定できないと主張する。ファイヤアーベントの議論はだいたい次のように進む。まず、仮にある観察者Oがある現象Pを観察し、文Sが現象Pに「適合する」(S fits P)ということを認知(recognize)して文S発話したとしよう。すると、この、PとSの間の現象的十全性の関係はそれ自体別の現象P'である。しかし、OがP'を認知できるのはそれをS'と関係づけることによってであり、この適合関係はP"とS"の適合関係を認知することで・・・などと無限の後退に陥ってしまう。したがって現象Pは文Sの解釈を決定することはできず、なんらかの恣意的な解釈の割り当てを行わなくてはいけない(Feyerabend 1958, 155; Suppe 1989, 312も参照のこと)。サッピはまた、ファイヤアーベントは「経験は、理論的な確言であれ観察的な確言であれ、その真理を確かめる上でなんら重要な役割を果たし得ない」という立場を取っているという(Suppe 1989, 312)。7 この立場は上記の無限後退の議論から導出されたものと思われるが、そうした導出が可能なのは、「KKテーゼを受け入れた場合だけである」(Suppe 1989, 313)とサッピは言う。なぜそうなるのだろうか?ここのところの彼の議論は長々と引用するに値する。(非常に混乱を招きやすいのだが、ファイヤアーベントは「現象」を指すのにPという記号を使っていたのに対し、サッピは命題を指すのにPという記号を使っている。結果として、下の引用でいうPはファイヤアーベントの言うSに、下の引用でいう「物理的世界」はファイヤアーベントの言うPに対応している。)

というのも、もしこのテーゼが受け入れられたなら、経験はそのような対応関係が成立するということを示すことができないという事実と、そのような対応関係は経験の中において示されない限り知られることができないというもっともらしいと言えなくもない仮定(この議論においては暗黙の仮定となっているが)の二つから、Pが真であると知ることはできないということが導き出せる。したがって、自分がPを知っているとだれも知ることができない。従って、KKテーゼにより、だれもPを知ることができない。しかしながら、われわれは現に経験的知識を持っているのだから、物理的世界との「適合」が知識において何らかの役割を果たすという考えを否定する必要がある。しかしこの議論は(そして彼の言うことと両立し、しかも彼の目的のために役に立つ議論は他に何も考えつくことはできないのだが (and I can think of no other one compatible with what he says that will serve his purposes))、本質的にKKテーゼに依存している。というのも、もしこのテーゼを否定すれば、対応による真理の要請はファイヤアーベントの他の主張と完全に両立可能だからである。Pが物理的世界と「適合する」ないし対応することが知識の条件であるときに、ある人がPを経験的に知ることはできる、しかしその人はPを自分が知っているということを知ることはできない。(Suppe 1989, 313、強調原文)

これは、KKテーゼと懐疑主義(ないし相対主義)を結びつけようとするサッピの議論の中では(わたしがかれの刊行された本や論文の中に発見できた限りでは)もっとも丁寧なものであることを断っておこう。この議論は何を示しているだろうか?まず、サッピは、ファイヤアーベントの議論をKKテーゼを使って再構成してみせている。その議論をもう少しフォーマルな形に書き直すと、次のような帰謬法になるだろう。

F1 ある命題Pと物理的世界の間の対応関係は知識において本質的な役割を果たしている。(仮定)
F2 経験によっては、Pと物理的世界の対応関係が成立していると示すことはできない。(上記の無限後退の議論による)(注8 )
F3 そのような対応関係は経験の中において示されない限り知られることができない。(もっともらしいと言えなくもない仮定)
F4 もしある認知者aがPを知っているならば、aは自分がPを知っていると知っている。(KKテーゼ)
F5 もしaがPは真だと知っているならば、aはPと物理的世界との間の対応関係について知っている。(引用文中では明示されていないが、中間ステップとして必要。F1から導出されるものと思われる)
F6 aはPと物理世界との間の対応関係について知らない。(F2とF3から導出)
F7 aはPが真であると知らない(F5とF6から導出)
F8 もしaがPを知っているならば、aはPが真であると知っている。(F4から導出)(注9 )
F9 aはPを知らない。(F7とF8から導出。ここで止まれば懐疑主義だが、サッピの解釈によればファイヤアーベントはこの論文では懐疑主義をとっていない)
F10 しかし我々は現に知識を持っている(つまりあるaとあるPに関しては現にaがPを知っているという関係が成り立っている)から、仮定F1は偽である、すなわち、ある命題Pと物理的世界の間の対応関係は知識において本質的な役割を果たさない。(これがファイヤアーベントの相対主義的結論とされる)

つまり、サッピが示したのは、この路線での議論においてはKKテーゼが本質的だということである。当然、他の再構成のしかたはないのかという疑問が出るところだが、サッピは、上にも引用したように、「そして彼の言うことと両立し、しかも彼の目的のために役に立つ議論は他に何も考えつくことはできないのだが (and I can think of no other one compatible with what he says that will serve his purposes)」という一言でその可能性を却下している。これが、KKテーゼが懐疑主義にとって本質的である(必要条件である)ことを示していることになっている議論なのである!サッピはデカルト流懐疑論やヒュームの帰納についての懐疑論についても同じような再構成を試みて、やはりKKテーゼが本質的だと主張しているが、こちらは引用すらない上に、やはり他の再構成の仕方はないのかどうかという疑問にはまったく答えていない(Suppe 1977, 718-719)。興味深いことに、KKテーゼと懐疑主義の間に本質的な関係があると考える他の哲学者も、同じようにKKテーゼを使った再構成をしてみせることで本質的関係を示せたと考えているようである(Carrier 1974; Hall 1976)。ほかの(KKテーゼを使わない)再構成がありえないという論証が彼らの立場にとって本質的だということはまったく彼らの頭に思い浮かばなかったかのようである。

さて、このように明白に推論上のギャップがあるにもかかわらず、サッピは「経験主義が懐疑論者に完全に降伏するにいたる道において、KKテーゼはほとんどすべての重要な通過点で姿を現している」と述べる(Suppe1989, 332)。このことから、彼は、本稿の冒頭でも示唆した結論を導き出す。「科学においては経験が知識にとって本質的な役割を果たすため、科学に関する有効な認識論は、まずKKテーゼを否定するところから始めねばならず、したがってデカルト流懐疑主義の挑戦を論点先取なものとするところから始めることになる」(ibid.)。

前節でも示唆したように、私はKKテーゼのような厳しすぎる条件を科学的知識の分析から追放することには賛同する。賛同できないのは、KKテーゼを追放しただけで同時に懐疑主義まで追放できたと錯覚することである。科学的知識に関してもさまざまな懐疑主義的議論は十分成立しうるし、科学的知識を扱う認識論はそうした懐疑主義と向き合う必要がある。サッピに対してこのように反論するために私がなすべきことは、KKテーゼを使わずにファイヤアーベントをはじめとした懐疑主義者、相対主義者の議論を再構築してみせることである。この反論において、私はサッピの解釈より自分の解釈の方がもっともらしいということを示す必要すらない。なぜなら、懐疑主義的な疑いを論点先取として却下しないためには、懐疑主義について十分にもっともらしく、しかも論点先取の過ちを犯さない解釈が存在すると示すだけで十分だからである。以下でわたしが試みるのはまさにそうした解釈の提示である。

4懐疑的議論のもう一つの解釈

わたしの解釈の基本的な発想は、KKテーゼのかわりにもっと弱いテーゼを使うことで懐疑主義的議論を組み立てなおすことである。まずは、若干天下り的にそのその弱いテーゼについて説明しよう。それは、「もしaがpを知っているならば、だれか人間的な認知力の持ち主がaがpを知っていることを知っているということがありうる」というテーゼである。KKテーゼ同様にフォーマルな表記をするならば、

(5) K(a, p) -> ◇Ex (H(x)&K(x, K(a, p)))

となるであろう。ただし◇は論理的可能性を示す様相オペレータであり、Exは存在量化、H(x)は「xは人間的な認知力の持ち主である」ことを意味する。このテーゼを、PEHKKテーゼと呼ぶことにしよう。(注10 ) PEHKKテーゼは、見てのとおり、KKテーゼに比べてかなり弱められている。まず、二階の知識を持つのは本人でなくてもかまわない。「aがpを知っている」と知っているだれか他の人(もちろん本人であってもかまわないが)が存在するだけでよい、という弱い要請である。ただし、この他の人が神のような全知全能性を備えていてはPEHKKテーゼは非常に空虚な仕方で満たされてしまうので、「人間的認知力」という条件が付け加わっている。ここで言う「人間的」とはホモ・サピエンスという種を指すわけではない。伝統的な懐疑論者たちも、自分たちの議論をホモ・サピエンスに限るつもりはなかったであろう。ここで意図しているのは、神や天使といった無限な知性を持ったり世界のあり方についての直接的な知覚を持ったりする存在を排除するということである。さらに、PEHKKテーゼは、そうした「誰か」が現実に存在する必要性を否定して、単にそういう誰かが存在することが論理的に可能であるというだけでよいとする。いわば、「人間的可能性」による分析である。

このテーゼが本当に役に立つかどうかは、実際に使ってみれば明らかになる。まず、上記のF1~F10の議論をPEHKKテーゼを使って再構成してみよう。

F'1~F'2 F1~F2と同じ
F'3 人間的な認知力の持ち主にとっては、そのような対応関係は経験の中において示されない限り知られることができない。(サッピのオリジナルよりはよっぽどもっともらしい仮定)
F'4 もしaがpを知っているならば、だれか人間的な認知力の持ち主がaがpを知っていることを知っているということがありうる。(PEHKKテーゼ)
F'5 もしだれかがaはpを知っていると知っているならば、その人は「aがpを知っている」という命題と物理的世界の間の対応関係について知っている。(F'1より)
F'6 人間的な認知力の持ち主はだれも「aがpを知っている」という命題と物理的世界の間の対応関係について知ることができない。(F'2とF'3より)
F'7 人間的な認知力の持ち主はだれもaがpを知っているということを知ることができない。(F'5 とF'6より)
F'8 aはpを知らない。(F'4とF'7より)
F'9 F10と同じ

もちろん、ここでも、F'8で止めれば懐疑主義の議論となり、F'9まで進めば相対主義の議論となる。ポイントは、F'6が非常に強力な主張であるため、サッピの仮定したF4よりもはるかに弱いテーゼでも十分議論を成立させられるという点にある。見れば分かるとおり、この議論においてはKKテーゼも、KKテーゼから導出されるとされるF8も必要ない。ファイヤアーベントの1958年の論文を見る限り、F4やF8を支持するテキストも、F'4を支持するテキストも見られない。(注11) もし、サッピの解釈と私の解釈のどちらがよりもっともらしいか、ということが争点であるならば、ファイヤアーベントの他の論文も参照して二つの解釈の優劣をつける必要があるだろう。しかし、前にも述べたように、サッピに反論するには、懐疑主義がKKテーゼなしで十分成立するということを示しさえすればよい。上記のF'1~F'9の再構成はその目的は十二分に果たしているだろう。

5伝統的懐疑主義とKKテーゼ---ヒュームの懐疑主義を例にとる

もしもPEHKKテーゼを使った再構成がファイヤアーベントにしかあてはまらないのなら、サッピの議論に対する反論としては、あまり強力な反論にならない。もし伝統的な懐疑主義においてはKKテーゼが本質的であったのなら、その系列の最後で若干の逸脱があったとしてもサッピの主張にとってそれほどの痛手にはならないだろうからである。そこで、デカルト以来の伝統的懐疑主義にとってどのくらいKKテーゼが重要だったのかを次に吟味しよう。

サッピも述べるように、デカルト以来、認識論の主要課題は知識の正当化の問題であり、そこにおける主要な問題は懐疑主義をどう扱うかということだった。デカルト以来の伝統的な認識論では知識の正当化の条件は、明晰判明性や訂正不可能性などの条件を満たす「基礎となる知識」の概念を使って与えられていた。こうした条件を満たす知識は、まさにヒンティッカの言う強い意味での知識であり、KKテーゼがあてはまってもおかしくはない。しかし、彼らがそうした知識観を持っていたからと行って、彼らの懐疑主義の議論が本当にその前提に依拠しているかどうかはまた別問題であるし、ましてや彼らが明示的に述べることのめったにないKKテーゼを推論の過程で使っているかどうかはいくらでも疑えるところである。ただ、そのような批判は具体的なテキストに基づき、具体的な対抗解釈を示すという形でやらなければあまりインパクトはない。以下では、ヒュームの懐疑主義を例に取り、KKテーゼによる解釈とPEHKKテーゼによる解釈を対比してみる。本来ならばサッピが名前を挙げている認識論者(デカルト、ロック、バークレー、カント、マッハ、論理実証主義、クーンなど)すべてについて検証すべきであろうが、それは本稿には荷が勝ちすぎるし、これらの多くについて、サッピの議論は以下に見るヒュームについての簡単な記述よりさらに簡単な記述しか与えていない。

サッピはヒュームの懐疑主義の議論を次のようにまとめる。「ヒュームの懐疑主義的な攻撃は(ところどころバークレーの援助もうけつつ)次のようなことを示すのに成功した。すなわち、もし基礎となる知識(base knowledge)が感覚の訂正不可能な知識とアプリオリな知識に限られるなら、物理的物体に関する知識も帰納的に獲得される一般的知識も不可能である、なぜなら利用可能な基礎となる知識は、決して(1c)の流布している解釈において知識に求められるような確実さも不可疑性もそれら[物理的知識や帰納的知識]には与えないからである」(Suppe 1977, 718)。ここでいう(1c) とは、知識を正当化された真なる信念と分析する際の「正当化」に関わる部分、つまり、「aがpを知っているならば、aはpを信じるための十分な証拠を持っている」という命題を指す。サッピは、ヒュームのこの結論は実はKKテーゼに依拠していると考える。「ヒュームの攻撃の核心は、pという二次的な知識をすでに知っていることから導出するために必要な帰納の仮説は知り得ないと示すこと、したがってだれも自分の持つ証拠が十分であると知り得ないと示すことにあった。しかし、これがヒュームの懐疑的な結論につながるのは、KKテーゼに頼った場合にのみである。」(ibid.)

これで、ヒュームとKKテーゼの関係についてのサッピの分析をほとんど全文引用したのだが、これだけからは、どういうテキスト上の根拠にもとづいて、どのようにヒュームの議論を再構成したのか、よく分からない。そこで、私の仕事としては、まずサッピによるヒュームの再構成を再構成し、しかる後にその再構成に対する対案を提示する、という回りくどい手続きを経る必要がある。

直接の引用はないとはいえ、サッピの議論がヒュームの有名な帰納主義批判の分析であるのは明らかなので、まずサッピの議論を念頭に置きながらヒューム自身の議論を読み返してみよう。『人性論』(Hume 1739)の第一巻第三部での議論によれば、ヒュームは7つの関係(類似性、同一性、時間・場所の関係、量や数の割合、なんらかの質の程度、反対性、因果関係)を哲学的関係として特定し(Book I, Part III, section I)、類似性、反対性、質の程度、量や数の割合の四つについては観念のみに依存する(ヒュームはそういう言葉を使わないがサッピの議論にあわせるなら)アプリオリな知識である。また、同一性や時間・場所の関係は感官に直接与えられたもの、すなわち印象を越え出ることはない(Book I, Part III, section II)。サッピの言う「感覚の訂正不可能な知識」とはこの「印象」のことであろう。というわけで、観念や印象を越え出る哲学的関係は、因果関係だけである。物理的対象についての知識も、それが印象を引き起こすことから推論されるので、因果関係に依存している。

ヒュームは因果関係について、われわれが実際に観察するのは(つまり印象として与えられるのは)接近・継起・恒常的連結でしかなく、そこから必然的な結びつきを導出するには「まだ経験していないものは既に経験したものに似ているはずだ」(Hume 1739, Book I, Part III, section VI)という原理に訴える必要がある、と主張する。これがサッピの言う「帰納の仮説」であろう。この原理が論証的に証明されない(つまりアプリオリに証明できない)ことは、この原理に対する反例を容易に思いつくことができることからもわかる。また、この原理自体が蓋然的(サッピの言い方で言えば「帰納的」)な知識であるという可能性については、蓋然的知識は観念や印象を越え出る要素を持つため因果関係に頼らざるをえず、因果関係は「帰納の仮説」に頼らざるをえないわけだから、「帰納の仮説」が蓋然的知識だというのは一種の循環を犯すことになる。ヒューム自信の表現を使うなら、「ある同一の原理がもう一つの原理の原因であると同時に結果であることはありえない」(ibid.)。というわけで、因果関係についてわれわれは知り得ないし、物理的対象についての知識や帰納的知識というものも存在しない。

以上のように、人生論第一巻第三部の議論において、サッピが挙げた要素は確かに確認できる。しかしこれは正確にいってどういう論証になっているのだろうか?まず、サッピの観点からの解釈を再構成してみよう。サッピはこの論証でKKテーゼが重要な役割を果たしていると考えているわけだが、KKテーゼに類するテーゼへのヒューム自身の言及はこの論証の文脈中、どこにも存在しない。もしサッピの言うとおり、KKテーゼが「十分な証拠」に関する分析を介して使われているとすれば、ここで使われるKKテーゼは(F4からF8への導出と同型的な)以下のようなものであると想像される。

H1 もしaがpを知っているならば、aは自分がpを知っていることを知っている
H2 aがpを知っているならば、aはpを信じるための十分な証拠を持っている(知識の概念の分析から)
H3 もしa がpを知っているならば、aは自分がpを信じるための十分な証拠を持っていることを知っている。(H1とH2より)

このH3と接続するということを念頭においてヒュームの議論のさまざまな要素を組み立て直すなら、

H4 aにとって利用可能な基礎となる知識は感覚の訂正不可能な知識(印象)とアプリオリな知識(観念のみに依存する知識)に限られる
H5 帰納の仮説(ヒュームの言う「原理」)がなければ、感覚の訂正不可能な知識とアプリオリな知識から物理的物体に関する知識や帰納的に獲得される一般的知識を導出することはできない。(帰納の仮説がなければ接近・継起・恒常的連結から必然的結びつきを推論できない)
H6 aは帰納の仮説が正しいということを知り得ない(循環論法等により)

となるだろうか。ただし、「物理的・帰納的知識」とは、サッピの言う物理的物体に関する知識や帰納的に獲得される一般的知識のことである。これら三つの命題からの自然な帰結は

H7 aにとって利用可能な基礎となる知識からは物理的・帰納的知識を導出することはできない

となる。ここで、「十分な証拠」について次のような補足が必要だろう。

H8 aは自分がある命題を信じるための十分な証拠を持っていると知るためには、その命題を利用可能な基礎となる知識から導出しなくてはならない

すると

H9 aは自分が物理的・帰納的知識を信じるための十分な証拠を持っているということを知ることができない (H7とH8より)

となり、従って

H10 認知者aは物理的・帰納的知識を持つことができない (H3とH9より)

が導出できて、めでたくKKテーゼを使って懐疑主義の結論にたどりついたことになる。途中、様相命題と非様相命題が入り乱れているが、両者を行ったり来たりするための細かいステップは省略されている。この再構成においてはヒンティッカの言う強い意味での知識を成立させる条件(H4やH8)はKKテーゼとは独立に登場している。これは、他の要素を記述したあとで、最後にKKテーゼの必要性を指摘するというサッピ自身の記述の仕方とも整合している。

以上、ヒュームとサッピのテキストにできるだけ沿う形でサッピのKKテーゼによるヒューム解釈を再構成したわけだが、これはどのくらい説得力があるだろうか?まず、知識の正当化(十分な証拠の提示)を本人がやらなくてはいけないという趣旨の記述は『人性論』のこの箇所にはない。むしろ、ヒュームがこの文脈で一貫して集合的な「われわれ」という一人称を使っていることを考えるなら、そうした正当化の作業は「われわれ」のうちの誰かがやりさえすればよい、という解釈も十分成り立つだろう。するとH8は、「われわれ」の誰かがやる作業についての、より三人称的な命題に置き換えることが可能だろう。また、H7やH8が証拠の知識の不可能性についての様相命題であることを考慮に入れるなら、H3も、十分な証拠を持っていると現に知っている必要がある、という強い要請である必要はなく、「十分な証拠を持っていると知りうる必要がある」という弱い要請でも十分望みの結論につなげることができる。以上のような考察から、PEHKKテーゼを使った対抗解釈を組み立てることができる。

H'1 もしaがpを知っているならば、だれか人間的な認知力の持ち主がaがpを知っていることを知っているということがありうる。(PEHKKテーゼ)
H'2 aがpを知っているならば、aはpを信じるための十分な証拠を持っている(H2と同じ)
H'3 もしa がpを知っているならば、だれか人間的な認知力の持ち主がaがpを信じるための十分な証拠を持っていることを知っているということがありうる。(H1とH2より)
H'4 人間的な認知力の持ち主にとって利用可能な基礎となる知識は感覚の訂正不可能な知識とアプリオリな知識に限られる(H4の別バージョン)
H'5 帰納の仮説がなければ、感覚の訂正不可能な知識とアプリオリな知識から物理的・帰納的知識を導出することはできない。(H5の別バージョン)
H'6 人間的な認知力の持ち主は帰納の仮説が正しいということを知り得ない。(H6の別バージョン)
H'7 人間的な認知力の持ち主にとって利用可能な基礎となる知識からは物理的・帰納的知識を導出することはできない。(H'4~H'6より)
H'8 人間的な認知力の持ち主がaがある命題を信じるための十分な証拠を持っていると知るためには、その命題を利用可能な基礎となる知識から導出しなくてはならない。(H8を第三者に拡張したバージョン)
H'9 人間的な認知力の持ち主はaが物理的・帰納的知識を持っていると知ることができない(H'7とH'8より)
H'10 認知者aは物理的・帰納的知識を持つことができない (H3とH9より)

H1~H10とH'1~H'10の類似性からも分かるとおり、PEHKKテーゼは、KKテーゼをPEHKKテーゼに置き換えた以外は、ヒュームのテキストと、サッピによるその解釈に忠実である。さらには、人間的認知力、という背景条件を明示することにより、H'4やH'6はより理解しやすいものとなっている。もちろん、これは、PEHKKテーゼを使ったバージョンがKKテーゼを使ったバージョンよりももっともらしいと主張するための根拠としては薄弱であろう。しかし、前にも述べたとおり、ここで必要なのはそうした強い主張ではなく、ちゃんとした対案が存在することを示すことだけである。

6PEHKKテーゼと認識論の運命

以上、サッピによるファイヤアーベントやヒュームの分析を吟味することで、 懐疑主義にKKテーゼが本質的であるというサッピの主張を検討した。その結果、KKテーゼは決して必要ではないという結論が得られた。(注12) さて、これは一体どういう意味をもつだろうか?

まず考えなくてはいけないのは、PEHKKテーゼはKKテーゼと同じようにして却下できるかどうかということである。一見して明らかなように、自己知識による反論や、B(a, J(a, p))やJ(a, J(a, p))といった含意による反論はPEHKKテーゼにはあてはまらない。誰か他の人が確かめてあげることが可能ならば子供や犬も知識を持ちうるし、本人が自分の信念が正当化されていると思う必要もまったくない。ということは、PEHKKテーゼはヒンティッカの考えるような訂正不可能性テーゼに頼る必要もないということであり、訂正不可能性テーゼとの親和性に基づく批判もPEHKKテーゼには当てはまらないことになる(従ってサッピの三つ目と四つ目の反論をかわすことになる)。また、PEHKKテーゼは、正当化を認知者本人から切り離したことにより、サッピの第二の反論もかわしている。PEHKKテーゼにとって知識の正当化を刻々と変わる合理性の基準に求める必要はなく、将来的に存在する理想的な合理性基準による正当化を想定すればすむことになる。

こうした性質から、PEHKKテーゼは、認識論における外在主義を動機づけている問題意識ともうまく折り合いをつけることができる。外在主義とは、信念の正当化は認知者本人に利用可能な証拠とはまったく関係がない、という考え方である。たとえば、認知者aと世界のありさまとの間に(a自身も気づかない)ある適切な因果的な関係があるだけで、そのありさまを記述する命題pについて、aはpを信じることを正当化されていることが可能である。PEHKKテーゼは、その適切な因果関係が人間的な認知力を持った第三者によって発見可能である、という条件さえ認められるなら、外在主義者に同意することができる。知識の正当化の仕事を認識的共同体全体の仕事と考えるなら、内在主義の難点と外在主義者たちが考える問題の多くは回避できるのである。

さて、一つだけ残ったのが、サッピが科学哲学の観点からのKKテーゼに対する反論として第一に挙げた論点である。これは、KKテーゼを受け入れると、懐疑主義に陥るか、真理の対応説を放棄するかしなくてはならない、という点であった。信念と世界の対応関係そのものについての知識は、認知者本人だけでなく、人間的な認知力しかもたないいかなる存在にとっても不可能であろうから、この反論はPEHKKテーゼにも生きることになる。実際、本稿は、まさにPEHKKテーゼを使えば懐疑主義に陥るということをヒュームを例にとって示したのであった。ということは、それだけを理由として科学的知識についてPEHKKテーゼを否定することはできないものだろうか?

この点に関するわたしの答は、「PEHKKテーゼだけ否定してもあまり役には立たない」ということになる。実は、PEHKKテーゼの普遍的なバージョン、

(6) (a)(p)(K(a, p) -> ◇Ex (H(x)&K(x, K(a, p))))

を否定するのはあまり問題ないように見える。これは要するに、ある人のある知識について~ ◇Ex (H(x)&K(x, K(a, p)))が成り立っているというだけのことである。しかし、上記の懐疑主義的な議論に使ったPEHKKテーゼは(5)で提示した、個別の認知者と個別の命題に関するものである。ここで、任意の認知者aと命題pの組み合わせについて、(i)PEHKKテーゼが成り立つか、(ii)PEHKKテーゼは成り立たないか、どちらかである。(i)の場合、もしもPEHKKテーゼを使えば懐疑主義に陥るということを否定しないのならば、

(7) ~ K(a, p)

という結論を許容することになる。他方、(ii)の場合、

(8) ~ (K(a, p) -> ◇Ex (H(x)&K(x, K(a, p))))

となるが、これは

(9) K(a, p) & ~ ◇Ex (H(x)&K(x, K(a, p)))

と同値である。(9)の後半を変形すると、

(10) □(x) (H(x) -> ~K(x, K(a, p)))

□は論理的必然性をあらわす様相オペレータで、これはつまり、xが人間的認知力しか持たない存在であるならば、xがK(a, p)だと知ることは論理的にありえないということである。われわれはみな人間的存在であるから、K(a, p)だと知ることはありえない。つまり、二階の知識に関して人間的可能性を否定しているわけである。

(7)と(10)をくみあわせると、科学的知識についての認識論の仕事について、ずいぶんと悲観的なイメージが描かれることになる。われわれは何が科学的知識かを知ろうとして科学的知識についての認識論的分析をするわけだが、あらゆる認知者と命題の組について(7) か(10)が成り立つということは、我々が知ることができるのは、~K(a, p)という否定的な結論だけで、K(a, p)という肯定的な結論について知ることは論理的にありえないということである。これは、認識論的な分析がかなり強い意味で不毛な作業だということに他ならない。

もしこうした結論を受け入れたくなければ、この議論の前提となった、「PEHKKテーゼを使えば懐疑主義に陥る」という命題を否定するしかない。実際、上でみたファイヤアーベントの議論の再構成にせよ、ヒュームの議論の再構成にせよ、PEHKKテーゼ以外にもさまざまな前提に依拠して結論を導いていた。そうした前提を拒否することで(7)を避けることに成功するならば、はじめてわれわれは科学的知識についてK(a, p)という肯定的な結論を知ることができるのである。

7まとめ

本稿ではまず、KKテーゼにさまざまな問題があり、特に科学的知識の分析には不適切であることをサッピらの議論を使って論じた。次に、サッピによる懐疑主義批判の吟味を行い、KKテーゼを否定するだけでは懐疑主義を却下することはできないということを示した。KKテーゼの対案として私が提案したPEHKKテーゼはKKテーゼの難点の多くを逃れているのみならず、PEHKKテーゼの否定が認識論という仕事の不毛さを示すことになってしまうという性質を持っている。以上のことから、懐疑主義に対する批判としては、PEHKKテーゼ以外の部分で批判を行う必要がある、と結論づけた。二階の知識の人間的可能性は、KKテーゼを否定するほど簡単に否定することはできないのである。(注13 )

注1 以下、英語では "a knows that p" と表現されているものを「aはpを知っている」と訳す。英語の方はpに命題をそのまま入れても大丈夫な形になっているので、それを正確に日本語に置き換えるなら「aはpことを知っている」という形になるだろう。しかしこれはあまりにも日本語としてこなれないため、「aはpを知っている」という表現で代用する。そのあたりの厳密さにこだわる読者は、いちいち「こと」を補いながら読んで欲しい。

注2 実はこの展開には問題がある。それは、(2)の置き換えを単純に(4)の内包的文脈に拡張している点である。もしかしたら、aは、aがpを知っていることは知っていても、「哲学的常識」の欠如のために(4)の二行目にあるようなさまざまな知識は持てないかもしれない。このように、哲学的分析を安易に内包的文脈に拡張することにはいろいろ疑問はあるが、本稿の議論ではそれは一応認めることにして話をすすめる。

注3 ヒルピネン自身は、知識の分析についてK(a, p) <-> J(a, p) & p という弱い定式を採用することでこの難点を避けようとしている。この分析は確かに上記の難点を避ける効果はあるけれども、知識は信念の一種であるという強い直観を犠牲にすることになる。

注4 ここでも、さきほどのヒルピネンと同じく、知識の分析を内包的文脈において使っているという点は指摘して置いた方がいいだろう。次のK(a, p)->K(a, J(a, p) )も同様である。なお、ヒンティッカやヒルピネンと違い、サッピはK(a, p) -> B(a, p) & J(a, p) & T(p) とでもいうべき分析を使っている(ただし、T(p)は「pは真である」)。

注5 第三や第四の反論を見る限り、サッピは訂正不可能性テーゼをKKテーゼとほぼ同一視しているが、これはやはり問題であろう。

注6 正確にいえば、サッピは1977年に出た彼の編著の第二版のafterwordの中で歴史的な懐疑主義的議論とKKテーゼを結びつける努力をしてはいる(Suppe 1977, 718-719)。しかしながらこの時点では彼の議論はどれも非常に簡略で、議論の根拠となる原典の提示を全く行っていない。結局、以下のファイヤアーベントの読解に基づく議論がサッピのこの件に関する最善の努力だということになる。

注7 実のところ、この論文ではファイヤアーベントはそこまで極端な立場をとっていないように思われる。サッピ自身、ファイヤアーベントが自分でこういう表現をしたわけではないことを認めている(Suppe 1989, 312)。ファイヤアーベントはこの論文で知識の実在論的形態を擁護しており、上記の議論も、観察的知識は訂正不可能ではないという穏健な結論(しかも1977年のafterwordを見る限りではサッピも同意するはずの結論)を導くために使っているようである(Feyerabend 1958, 169)。この解釈が正しければサッピのファイヤアーベントに関する議論は根底から見当違いということになる。ここでは、議論を進めるために、サッピの解釈が正しいものと仮定しておこう。

注8 勘違いしやすいところだが、この無限後退はKKテーゼと関係なく導かれている点に注意。KKテーゼ自体もK(a, p) -> K(a, K(a, p)) -> K(a, K(a, K(a, p))) ->...と無限後退を起こすが、サッピはこれについてはあまり問題ではないと考えている。Suppe 1973 参照。

注9 実は、このステップには二重に問題がある。まず、既に指摘したとおり、ヒンティッカやヒルピネンのバージョンの分析を使うと、F4からF8は導出されない。第二に、F8を導出するだけならKKテーゼなど必要ない。タルスキの「Pが真なのはPであるとき、そのときに限る」という分析を使うだけでよい。実はこれも哲学的分析を内包的文脈に拡張しているが、F4からF8への導出も同じことをしているのでどっちもどっちである。つまりサッピの議論はここでも破綻しているわけだが、本筋の議論を進行させるためにこの点も大目に見ることにしよう。

注10 ◇は存在様相のpossible をとって、pと読み、その他は大文字の部分だけ取り出している。発音の仕方は「ペーケーケーテーゼ」とでもなるだろうか?

注11 前の注でも述べたとおり、ファイヤアーベントはそもそもF1を明確には否定していない。もし、その注で示唆したとおり、ファイヤアーベントの目的が観察的知識の訂正可能性を論じるということにあるのであったら、F4やF8やF'4などの主張がこの論文中に見つかるはずがない。

注12 ただし、もちろん、すべての懐疑主義的議論からKKテーゼを排除できると主張しているわけではない。実際、ロックによる、他人を見ていないときには相手は存在しないという議論は、KKテーゼを明示的に使っているように思われる(Locke 1690, Book IV Chapter XI section 9)。しかし、そういう事例はわたしの見るところあまり多くなく、伝統的懐疑主義者の議論のたいていはPEHKKテーゼによる再解釈の余地をのこしているようである。

注13 本稿の初期のバージョンは、メリーランド大学のgraduate colloquiumで1997年に発表され、出席者からは有益な助言を得た。フレデリック・サッピ教授とスティーブ・ノートン(Steve Norton)からは非常に細かいコメントをいただき、わたしの主張を明確化する上で重要な示唆をうけた。あわせてここに謝意を示したい。

文献

Barense, J.G. (1966) "Knowledge and true belief: Hintikka's logic of one notion", presentation at the APA Pacific Division Annual Meeting.

Carrier, L.S. (1974) "Skepticism made certain" in The Journal of Philosophy 71, 140-150.

Chisholm, R.M. (1963) "The logic of knowing" in The Journal of Philosophy 60, 773-795.

Feyerabend, P. (1958) "An attempt at a realistic interpretation of experience" in Proceedings of the Aristotelian Society 58, 143-170.

Hall, M. (1976) "Skepticism and knowing that one knows" in Canadian Journal of Philosophy 6, 655-663.

Hilpinen, R. (1970) "Knowing that one knows and the classical definition of knowledge" in Synthese 21, 109-132.

Hintikka, J. (1962) Knowledge and Belief: An introduction to the logic of the two notions. Ithaca: Cornell University Press.

--. (1970) "'Knowing that one knows' reviewed" in Synthese 21, 141-162.

Hume, D. (1739) A Treaties on Human Nature.(訳語については大槻春彦訳『人性論』岩波文庫を参照したが、完全に従ったわけではない。)

Locke, J. (1690) An Essay concerning Human Understanding.

Suppe, F. (1973) "Facts and empirical truth", in Canadian Journal of Philosophy 3, 197-212.

--. (1977) "Afterword", in F. Suppe (ed.) The Structure of Scientific Theories, 2nd ed. University of Illinois Press.

--. (1989) The Semantic Conception of Theories and Scientific Realism. University of Illinois Press.