神野慧一郎

 『我々はなぜ道徳的か----ヒュームの洞察』

 (勁草書房2002 年 v+234+11頁、2700円)

 伊勢田哲治

 本書は、著者のヒュームに関する学識を進化論心理学や大脳生理学などの知見やメタ倫理学・規範倫理学上の最近の議論と結びつけるなかで「道徳というものは存在するのか、存在するとすればどういう意味で存在するのか」(p.3)という問いに答えようとした意欲的な著作である。すでに確立したものに安住することなく前進して行かれるその姿勢には敬意を表したい。

著者は、本書の前半において、進化心理学や大脳生理学の知見を「道徳感情論」に結びつける。実はここでいう道徳感情論が正確にいってどういうテーゼか著者はあまりはっきり書いてくれていないのだが、問いとの対応でいえば、「道徳の存在論的基盤は道徳感情である」というような存在論的テーゼかと思われる。まず、進化心理学からは、利他行動が適応戦略であるような場面がある(第二章・第三章)ということと、適応戦略を担うのにもっとも適しているのは感情の次元である(第四章)という二つの指摘がなされる。著者は、これらの前提から、普遍的な利他的感情が「人間本性」とも呼ぶべきレベルで存在しうるという余地を見いだす(注意が必要なところだが、著者は決して「人間本性がある」という安易な断定はおこなっていない)。そして、感情は理性より原初的なものであるから、道徳的反応においてもそうした感情が基本となる、と考える。大脳生理学からも感情が「人間の態度や行為の決定において不可欠」(p.104)であることが示され、道徳感情論の傍証となる。

後半では、前半の考察がブラックバーンの投射論と結びつけられ、道徳はどういう意味で存在するのかということについての考察が深められていく。投射論とは、道徳的命題の真偽はわれわれの態度が自然的な対象に投影された結果決まるという考え方である。ただし、投射されるのはどんな態度でもよいわけではなく、前半の議論をふまえるならば、「人間本性」にのっとった態度が投射された場合のみに道徳的命題の真偽が問題になるということであろう(このあたりの議論は明確に述べてはないが、p.85あたりの論述からそう読みとれる)。本書の末尾では、以上のような道徳感情論と親和性の高い倫理理論としてハーストハウスの徳論型倫理が紹介される。

 さて、以上のような著者の議論には傾聴すべき点は多いが、同時に、問題もいくつかあるように思われる。まず、著者は最終的に進化心理学や大脳生理学の知見が「道徳感情論にとって強力な支持」(p, 121)を与えると結論しているが、その評価には同意できない。進化心理学について言えば、感情のタイプが遺伝的基礎を持ちうるかどうかすらまだ分かっておらず、これでは本性的な利他的感情が実際に存在するかどうかについて今のところ何らの示唆も得られてはいないと言わざるをえない。(ポイントを明確にするために空想的事例を使うと、人間にとって空を飛ぶことが適応戦略で、かつそのためにもっともよいのは羽を持つことだとしても、だからといって人間に羽があることの証拠には全然ならない。)他方、本性的な道徳感情というものが存在することがなにか独立の根拠から分かっているなら、その感情から道徳感情論の話を始めればよいのであって、その感情の進化的背景を知ることにどういう意味があるのかが不明となる。

 メタ倫理学上の議論にもいくつか問題がある。まず、著者が主に依拠するスーパーヴィーニエンスを使った反実在論の議論はそれほど強力なものではない。現在の道徳実在論の主流であるボイド=レイルトン流の実在論は、論理的必然性ではなく形而上学的必然性に依拠することで容易にスーパーヴィーニエンスと(E)命題(p.131)を両立させることができる。実在論を論駁したいなら別の論を持ってくるべきだろう。さらに、メタ倫理的な問題についての著者の結論は非常に分かりにくい。第六章の大半をブラックバーンの投射論の説明にあてていることから内在主義支持なのかと思えば、「道徳判断には、外在的な理解が可能」(p.143)として外在主義も支持するという。しかし、メタ倫理学の常識では内在主義と外在主義は両立しないことになっている。さらに、ほとんど同じ箇所で構成主義的な表現や斉合説に近い表現など、存在論的に対立する様々な立場が著者自身の見解として入り乱れて登場している。これらの主張を整合させることができればメタ倫理学上の重要な貢献となることは間違いないが、残念ながら著者はこれらを単に並列するだけである。

 これと関連して、第七章の客観性についての議論も疑問である。投射論に対する実在論側の批判として、投射論では結局人によって何が道徳的に真かが変わってしまうのではないかという、相対主義の問題がある。他方、第七章で著者が論じるのは、道徳感情をもとにどの程度道徳的な行動をすることができるかという問題であり、そこでは何が道徳的かということはすでにわかったものと見なされている。しかし、何が道徳的かがそもそも一意に決まらないという批判に対して、この答えは的はずれであろう。おそらく著者はこの問題にはすでに「人間本性」に訴えることで答えたつもりなのだろうが、仮に人類に普遍的に見られる遺伝的な感情タイプがあったとしても、それが道徳的よさの定義として使えると主張するにはもう一段議論が必要であろう。

 最後に、著者は「徳論型倫理」を支持する議論においてハーストハウスに依拠するが、彼女の功利主義・義務論批判をあまり鵜呑みにするのは危険であろう。たとえば著者がとりあげる「剰余」の問題については、ヘアの二層理論を使えば功利主義の枠のなかに(「割り切れない」感情が結果として全体の効用を高めるという前提のもとで)すっきり収まるし、義務論からも似たような手法が使えるだろう。ついでに言えば第一章で著者が触れられる「ナップザック問題」も同じ二層理論の枠組みで解決ずみである。

 以上のような批判的検討が、著者がさらなる前進をするための踏み台となれば幸いである。

(いせだてつじ・名古屋大学)