岡本裕一朗著『異議あり生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版)書評

伊勢田哲治(名古屋大学)

本書は、好戦的なタイトルとは裏腹に、ある意味でなかなかよくできた生命倫理 学と環境倫理学(著者にならって生命・環境倫理学という言い方を利用する)へ の入門書である。

まず、序章で著者自身の言うところの本書全体の問題設定を確認しておこう。本 書冒頭で著者は、生命・環境倫理学を含む応用倫理学全般について、新しい論点 がない、現実に対応できていない、現実に対応するときには単なる常識論にな る、というような診断を下す(わたしも「応用倫理学」というカテゴリーで日本 で出版される本や論文の大半にこの診断があてはまるという点では著者と同意見 である)。これらの理由から応用倫理学は「終わっているのではないか」と著者 は言い、それが本当かどうか判断するための「材料を提供する」のが本書の目的 だと言う(15ページ)。わたしの読み間違いでなければ、これが本書の目的のは ずである。しかし、以下の各章で実際に著者がやっている作業は、生命・環境倫 理学の主要なテーマについて論争を呼んだ古典的な議論を紹介し、自分自身の見 解(しかもかなりの極論)を提示する、というものである。言い換えれば、本書 の本体での議論は、生命・環境倫理学に非常に内在的な議論に終始しているので ある。これは、もしも著者が額面通りの目的を持っているのであれば、控えめに 言っても目的と手段があまりにも食い違っている。この手法で何かが「終わって いる」ことが示せるとしたら、著者自身の見解が「終わっている」かどうかぐら いなものであろう。最近の研究については他の本に譲る(16ページ)と著者は言うが、 生命・環境倫理学が現状で「終わっている」かどうか判断するために見るべき 情報はまさに議論の現状、すなわち最近の論点であるはずである。 クローンや人間中心主義については額面上の目的に添った論点もあるが、 著者が批判する傾向に反対する論者が生命・環境倫理学の中にいることは、 なによりも著者自身が引用する文献によって明らかである。

そうなると、著者の意図は別のところにあるのではないかと疑いたくなってくる。 そして実際、こうした古典的な議論や極端な議論を提示することは、読者に思わず反論 したい気をおこさせ、いわば読者を論争のまっただ中に導くことになる。とすれ ば、著者の真の意図はそこにあると考えるのが妥当だろう。すなわち、目をひ くタイトルで読者を引きつけ、とりあえず読ませて、生命・環境倫理学の中心ま で導く。あとは巻末の文献ガイドを頼りに新しい論点を自分で学んでいってくだ さい、というわけである(この文献ガイドも文献の選択になかなか配慮が行き届 いていてよい)。著者の議論がかなり荒っぽいのも、ツッコミどころを多くして 読者を巻き込む戦略だと考えれば納得がいく。

ただ、本書の意図をこのように読み替えるとしても、著者の表面上の問題設定 には妙なところがあるので苦言を呈しておこう。「生命倫理学」が常識論ばかり言う、 とか「環境倫理学」は批判にどう答えるのか、といった表現が本書では繰り返されるが、 これは(著者の愛用する言い方を使えば)「カテゴリーミステイク」であり、 ある問題について論じる分野と、その分野における主流の立場を混同している (分かりやすい例で言うと、ある公園で遊んでいる人の大半が野球をやっている からといって「公園が野球をやっている」という表現がおかしいのと同じである)。 言い方として変だというだけでなく、この言い方をしてしまうと、これらの分野に おける反主流派(たとえば生命倫理学における功利主義者や環境倫理学にお ける人間中心主義者)は生命・環境倫理学者ではないということに なりかねない。これらの分野を日本に紹介した加藤尚武自身がこういう 言い方をしているので一概に著者を責めることはできないが、そんなところで先 達を真似する必要はないのであって、カテゴリーミステイクに基づく問題設定は やはり避けるべきだろう。

わたしの理解が正しければわざとツッコミどころを多くしてある本書に対し細か な批判を行うのは野暮というものであるが、入門書としての性格を考えると ちょっとまずいと思われる部分もあるので、以下、各章ごとに指摘していこう。

第一章では、著者は、トムソンとトゥーリーの議論の紹介を軸にして中絶の是非 について論じている。紹介そのものは丁寧で、両者について批判すべきポイント もきちんと押さえられているので、中絶をめぐる論争の出発点の紹介としてはな かなかよい出来になっている。ただ、論争全体の見取り図ということでいえば、 紹介する立場が偏りすぎているきらいがある。 受精卵主義の側がどこまでがんばれるかという検討や、妊娠3ヶ月あたりに 線を引く立場が単なる常識論か根拠があるかという検討も(額面上の目的から 言っても)ほしいところである。

細かい点でもいくつか不満がある。まず、著者は、種差別という非難をさけるた めにトゥーリーがあのような議論をしたのは「明白」だと言っている(40ペー ジ)が、著者自身の記述を比較しても分かるとおり、種差別という概念がシン ガーによって広められるのはこの論文の出た後であり、この分析は一種のアナク ロニズムである。さらに、受精卵と成人の間のどこかで線を引かなくてはならな いという線引き問題が動機付けとしてあるということを著者自身指摘しているの だから、それ以上の動機を求める必要はないだろう。また、トゥーリーの議論が 「定義の繰り返しに終始している」(50ページ)という診断はトゥーリーに対し て厳しすぎる読み方だろう。トゥーリーの議論の背景にあるのは「欲求は尊重し なくてはならない」という原理であり、これは定義ではなく実質的な規範的主張 である。著者が定義の連鎖とみなすものは、実際にはこの原理を出発点とした論 証の過程である。そこのところはきちんと押さえてあげなくては、トゥーリーに 対しても読者に対しても不親切であろう。

第二章では臓器移植の問題を扱っている。臓器売買の問題はまだ日本ではほとん ど論じられておらず、この論点を紹介した点で本書は評価できる。しかし、本章 を通じて非常に気になるのは、臓器移植そのものの倫理性の問題と、臓器移植の 実効性の問題をきちんと区別せずに論じている点である。その結果、現状維持派 は実質上の反対派である(81ページ)といった主張がなされる。しかしこれは概 念的には混乱した議論であるし、実際的にも誤っていると言わざるをえない。仮 に現状維持派の立場では移植がまったくできないとしても、現実の状況に当ては めた結果が同じなら実質的に同じ立場だ、というのでは、著者が本気で倫理学を やる気があるのかどうか疑問に思わざるをえない。哲学的議論においてはどうし てその結論にいたったかという理由が大事である。また、事情が少し変われば結 論も変わる可能性がある、という意味で、理由の差は実質的な差でもある。さら には、現在のシステムでも脳死からの臓器移植によって救われている人が 日本ですでに数十人にのぼり、アメリカでは年間数万人のオーダーの人が 臓器移植を受けている。現状維持派は実質上 の反対派だと著者が考えるということは、これら移植で命を長らえた人がいると いう事実は誤差の範囲内とでもいうことだろうか。実のところ、日本における臓 器移植の現状について著者が調べた様子はあまりない。たとえば「脳死者の臓器 を移植して一人の命を救う」(53ページ)という記述は、現実の脳死移植の大半 で複数の臓器が利用されているということを知らないで書いているようにしか読 めない。

池田清彦への評価(76ページ)も疑問である。著者は池田の議論を「ロジカル」 だといいながら、いっこうにその「ロジカル」な議論を紹介する気配がない。紹 介するのは、レシピエントやそのまわりの人々が「浅ましい」という非常に感覚 的な主張だけである。それに続く非対称性の議論は一見池田の議論の紹介のつづ きのように見えて、著者自身の主張であるということは注の中で断っている。ま た、著者はサバイバル・ロッタリーについて「道徳的なシステムと言えないだろうか」 と肯定的に見える結論をしておきながら(68ページ)、その箇所につけた注の中 では「大いに問題だ」とむしろ否定的な見解を述べている(251ページ)。こうし た読者をひっかけるような論の進め方にはあまり好感をもてない。

第三章では安楽死の問題とクローンの問題が取り上げられ、自己決定の重要性が 強調されている。安楽死については著者は本人の同意があるかぎり積極的安楽死 をすることには問題がないという立場をとっている。古典的議論を紹介している ので仕方ない面もあるが、やはり問題設定が若干古い感じがする。現在では苦痛 緩和技術の発達により「除去できない苦痛」という条件はほとんど満たされず、 議論の焦点は尊厳死や間接的安楽死に移っているというのが私の理解であるが、 著者の議論はその前の段階で止まっている。

また、滑りやすい坂道論に対する反論はあまりに粗雑である。「非自発的安楽 死」と「反自発的安楽死」の間ではすべらない(105ページ)と著者は考えてい るようだが、その根拠はほとんど示されていない。滑りやすい坂道論を相手にす る際には、それが心理的滑りやすさを問題にしているのか、規範的な滑りやすさ を問題にしているのか、前者ならば途中に十分な心理的距離があるかどうか、後 者ならば途中に規範的に重要な落差があるかどうかを論じる必要がある。そうい う基本的な部分はもっときちんと紹介してほしいものである。

クローンについての著者の議論もツッコミを入れるべきところは多い。クローン 人間を作ることで一番大きな影響を受けるのは、言うまでもなくクローンとして 産まれてくる子供である。それを自己決定だけの問題に収束させるのはまずいだ ろう。また、著者の「自然主義的誤り」の説明(129ページ)はムーアの議論の 紹介としては非常にまずい。この書き方では、ここでいう自然主義とは「自然な のはよいことだ」という立場だと読者が誤解するように仕向けているとしか思わ れない。「自然主義的誤り」という表現を紹介するなら、めんどうでもムーアが どういう意味で「自然主義」という言葉を使ったかきちんと説明すべきであろ う。ついでにいえば、「自然主義的誤り」と「事実から価値は出てこない」とい うのも厳密には独立のテーゼであるが、本書はメタ倫理学の教科書ではないので そこまでの厳密さを要求する必要はないかもしれない。そのほか、134ページの 男性中心主義に関する議論や137ページで自分で滑りやすい坂道論を使っている ところなど、この近辺では著者はツッコミどころを多く用意してくれている。

第四章では人間中心主義を批判するさまざまな立場を論じている。まず取り上げ られるのはシンガーの立場である。著者がシンガーの功利主義に同意しないのは 自由だが、シンガーが何の根拠もなく動物を三分類しているかのような記述 (152-154ページ)は困 りものである。シンガーが「平等な配慮の原理」(実質的には功利主義)という 道徳原理を適用してこうした区別にたどり着いたという議論の醍醐味を紹介して ほしいところである。また、それと 関連して、シンガーの議論が自己論駁的だという著者の診断はおかしい。シン ガーが反対しているのは区別した扱い一般ではなく、根拠のない差別扱いであ る。シンガーの立てる区別が平等な配慮の原理という根拠を持つのに対し、人間中心主 義はそうした根拠となる道徳原理を持たない。読者のツッコミを期待して意図し て妙な議論をしているのかもしれないが、シンガーの議論の紹介が不十分なた め、読者が自力でこのツッコミにたどりつく望みは薄い。

生命中心主義については、現代における生命中心主義の代表的論客であるテイ ラーの議論を紹介していないのはやはりまずいであろう。生命中心主義をどう実 践に結びつけるかという問題などについてテイラーは答えを提示している(著者 の引用するシュバイツァー自身もある程度の答えは用意している)わけだが、そ のことにまったく言及しないで切り捨てるのはこの場合少しアンフェアである (彼らの議論の善し悪しはまた別の問題である)。

もう少し一般的な論点として、実現不可能な理想を語ることは偽善に過ぎないと いう趣旨のことを著者は述べている(164ページ)。この伝でいけば、政治家が 完全に倫理的になることはないのだから政治倫理について語ったり汚職を防止す る措置をとったりするのは偽善だということになるのだろうか?

第五章では『沈黙の春』や『成長の限界』に示される破滅予測が批判的に検討さ れている。まず『沈黙の春』についてだが、カーソンが農薬をどう使えばよいか について何も具体的な提案をしていないかのような記述がある(187ページ)が、 それは事実誤認である。カーソンは農薬の使用がもっとも効果的になる時期を選 んでピンポイントで農薬を使うことを提案している。いずれにせよ、代替手段が あるかぎり農薬をできるだけ減らした方がいいというのは十分具体的な主張であ り、カーソンの主張が具体性を欠くという著者の批判は(意図的にやっているに せよ)的はずれとしか思えない。

次に『成長の限界』についてであるが、著者は本当に『成長の限界』を読んだの か疑わしい記述が多い。石油の埋蔵量などについての予測はあくまで目安として 提示されているだけでありメドウズのチームが行う多様なシミュレーションの 大半はそれに依存していないのだが、 著者の記述を見るとあたかもそうした埋蔵量予測がこの本の中 心であるかのような印象を与えてしまうだろう。また、著者はメドウズチームの 予測する破滅の時期が2000年であるかのような書き方をしているが(193 ページ)、これもシミュレーションのアウトプットを少し気をつけて見ればわか るとおり、メドウズチームの予測する破滅の時期はおおむね2050年あたりで ある。また、著者が『成長の限界』のどの部分に反対しているのか不明である。 地球が有限だという自明の主張に反対しているのだろうか?石油はいくら使って もなくならないとでも考えているのだろうか?人口がいくら増えても食料問題は 起きないと考えているのだろうか?もしそうでないなら、結局は早いか遅いかの 違いだけであって、破滅的結果を防ぐ努力が必要であることには変わりないと思 うのだが、どうなのであろうか。

第六章では著者は環境保護運動の背後にある政治的な意図について論じている。 著者の考えでは、70年代における資源枯渇の問題、80〜90年代における温 暖化の問題はいずれも原子力産業が背後にあって仕掛けたものだということにな る。もちろんこれは十分ありうることだが、はたして意味のある批判だろうか。 まず、あまりに当たり前のことだが、ある主張を誰がどういう意図でしたかとい うことと、その主張が妥当かどうかというのはまったく独立の問題である。さら に言えば、仮に原子力産業が資源枯渇論や温暖化論の背景にあるとしても、環境 保護運動自体がそれによって規定されているとは考えにくい。70年代における 資源枯渇論は、具体的提案としては、シューマッハーの『スモール・イズ・ ビューティフル』やロビンスの『ソフト・エネルギー・パス』と結びついていた とされる。これらは、言うまでもなく、原子力のような巨大エネルギー産業を否 定する考え方である。著者はこれをどう説明するのか。また、80年代の環境保 護運動は、特にチェルノブイリ事故以降、反原発運動と密接に結びついていた。 著者はこれについてどう考えるのか。

以上、つい野暮なツッコミをしてしまった部分もあるが、本書を読者に有効に利 用してもらうためには、この程度の注意はやはり必要だろう。この本をきっかけ に生命・環境倫理のおもしろさに目覚める読者が多いことを祈るばかりである。