京都生命倫理研究会 2006年6月24日 於奈良女子大学

「伊勢田哲治・樫則章/編『生命倫理学と功利主義』(叢書【倫理学のフロンティア】ィ・・ナカニシヤ出版)を読む」合評会報告

作成 児玉聡、伊勢田哲治、江口聡、奥田太郎

合評会に参加した執筆者:
伊勢田哲治(名古屋大学/編者・1.2.5章)、江口聡(京都女子大学/7章)、児玉聡(東京大学/8章)、奥田太郎(南山大学/10章)
コメンテータ:
神崎宣次氏(大谷大学)、相澤伸依氏(京都大学・院)、伊吹友秀氏(東京大学・院)、林芳紀氏(東京大学)、三浦隆宏氏(大阪大学)

『生命倫理学と功利主義』(以下、本書)の合評会は、最初にコメンテータ5名からの質問がまとめて行なわれ、続いて執筆者4名の応答があり、最後にフロア(約20名)を含めた総合討論が行なわれた。以下では、合評会の内容を再構成して、最初にコメンテータの主要な質問とそれに対する執筆者の応答を順に記し、次に、フロアからの質問とそれに対する執筆者の応答を記す。なお、この報告の作成に当たっては、最初に児玉が当日に配布されたレジュメとメモ書きに基づき第一稿を作成し、さらに伊勢田が当日の質疑応答を録音したテープを元に総合討論の部分を大幅に加筆修正した。その過程で江口と奥田が自分の関わる部分を中心に加筆した。その後、コメンテーターの方々にもチェックをお願いし、執筆者側のまとめで発言の真意を取り違えていたところなどについて修正を行った。質問の要約には正確を期したが、聞き違いや誤解のため不正確になっている部分がある場合はご容赦願いたい.

1. コメンテータの主要な質問と、執筆者の応答

1-1 伊勢田論文をめぐる応酬
神崎宣次氏は、「功利主義者であること:伊勢田哲治「生殖技術」の章についてのコメント」と題された発表の冒頭で、一種の冗談として、功利主義が完璧な理論であることに同意すると宣言した後で、だとしても功利主義者になることには違和感が残ると述べた。この一連の発言は、今回の合評会では功利主義が正しいかどうかを問題にするのではなく、功利主義者が功利主義者を自認する際のアイデンティティ、なぜそう自認するのかという必要性やオブセッションをこそ問題にしたい、という趣旨に基づくものだった。
次に神崎氏は本書全体に対するコメントを行った。神崎氏は、「功利主義はたいへん評判のよくない倫理学説である。とくに生命倫理学においてその傾向が強いように思われる」(まえがき、i頁)という「被虐意識」が全編を通して奇妙なほど繰り返し吐露されていることが、本書の特徴であると指摘した。続いて、生命倫理の分野において功利主義の評判が悪いというのが事実かどうかは別として、このような認識に基づくがために本書において功利主義者たちは批判をやりすごすことに執着するあまり、「功利主義以外の理論が主張することは功利主義でも言えなくはない」という形の防衛的・消極的な議論が多くを占めることになっている、との指摘がなされた。神崎氏は、本書のいくつかの章は、そうした防衛的な議論に終始していることが一つの原因となって、決定的につまらないものになっているという。ただし、それに続けて、本書には真剣に読まれるべきいくつかの章も含まれているとも断った(これについて、フロアからどの章のことかという声があがったが、神崎氏は、それは合評会のあとで明らかになるとだけ答えて、先に進んだ)。
これらのコメントに対して、伊勢田哲治は、まず、同意すると言われても、自分は功利主義を完璧な理論とは考えておらず、社会的合意形成の理論としても欠点が多いが学ぶべきことの多い理論だと考えていると断った。その上で、功利主義をまじめに受け取るに値しないと考えている多くの人に対しては防衛的な議論は決してつまらないものではなく、そういう人こそがこの本で想定している読者であることを指摘した上で、神崎氏にとって防衛的議論がつまらないのは神崎氏がそうした想定読者でないことによるのだろうと応じた。また、本書では防衛的な議論ばかりを行っているわけではなく、事前指示(6章)やQALY(9章)の議論は、功利主義的な思考がより積極的な形で使われる例として組み込まれたのだと応じた。
続いて、神崎氏は第5章の「生殖技術」に関して、四つの具体的な質問を行った。第一は、第5章の最後の一文である「そうした考察をふまえるなら、日本におけるガイドラインも功利主義者たちの立場も、まだまだ功利主義的な検討の余地があると言っていいだろう」(118頁)という一節についてである。氏の主張では、この一文を読んで納得する人がいるとすれば、その人はもともと功利主義者であるだろう。功利主義者でないものにとっては、そこまでの議論はまったく不十分なものにしか見えない。そのため、たとえばこの一文にある「功利主義的」という言葉は非常に曖昧なものとなってしまっているのではないだろうか。したがってこの一文は、「医療倫理の諸問題の解決への寄与」(まえがき、ii頁)を標榜し、それができないならば倫理学は店じまいすべきとすら述べる功利主義者にしては、無責任な結論ではないかと批判した。
それに対して、伊勢田は、この一文でいう「功利主義的」は別に曖昧ではなく、「功利主義的な検討」の例はすでに二次的影響の議論などで与えられており、それに類する議論ということで理解できるはずだと応じた。
第二に、神崎氏は、第5章では原則R(「ある仕方で生まれることが状況Aを満たすとき、その仕方で生まれてくることを子どもの福利を理由に禁止することはできない」102頁)が生殖医療を考える上で重要な原則となると述べられているわりには、本章の議論ではそれほど重要な役割を果たしておらず、なぜ著者がそれを重要な原理だと主張するのかが伝わってこないと指摘した。具体的には、出生前診断の問題には原則Rはなじまないし本文でもこの文脈では原則Rが使われていないこと、原則Rが日本のガイドラインに対する批判となっているという指摘には疑問があること、原則Rより基礎的なルールで議論には十分だと思われること、ハリス以外は原則Rを使っているように見えないこと、などを指摘した。
それに対して、伊勢田は、本章を圧縮する際に、原則Rに関する記述を整理してひとまとめにしてしまったために分量的にはたいしたことがなくなっており、原則Rの重要性がわかりにくくなっていることを認めた。ただし、102ページから103ページにかけての段落でこの議論が生殖技術に関するさまざまな問題に適用されているという趣旨のことが書いてあることも指摘した。グラバー報告書やシンガー=ウェールズに関して原則Rを使っている旨の記述がないのは、彼らについてはハリスと異なることを述べている場合だけ別に記述しているからで、総論ではこの三者はほぼ一致しているという補足説明も行った。また、出生前診断・着床前診断に原則Rがあてはまらないという神崎氏の指摘については、伊勢田は、まさにそこが重要なところであると応じた。つまり、代理懐胎などの問題と出生前診断などの問題についてハリスらが一見矛盾する結論を出しているように見えるのだが、一方は原則Rの前件を満たしているのに対して他方は前件を満たしていないという差があるということで区別が説明できるのである。
さらにこれと関連して、神崎氏は「日本における規制の現状と照らし合わせるという作業を行った」(118ページ)と本文で言うが見当たらない、と指摘した。伊勢田はこれに対し、確かに実質的な照らし合わせは本文中で行えていない(紙数の都合で最終的にカットしてしまった)と認めつつ、114ページあたりの論述がそれにあたると答えた。
第三に、神崎氏は、伊勢田が扱っている議論のうちで、(生殖医療がもたらす障害者や家族関係に対する)二次的影響の問題(112頁以降)や置き換え可能性と非同一性問題(116頁以降)の議論では、そもそも「功利主義的な」問題が選ばれているようにみえ、このような問題も功利主義で扱えるという議論を行うことが反功利主義者を納得させるのに有効だと著者が考えているのが理解しがたいと主張した。 それに対して、伊勢田は、これらの議論の中身を見てもらえれば、反功利主義者たちが功利主義に対して行ってきた批判であることが分かるはずだ、と答え、そうした一見したところ反功利主義的に見える議論が、実は功利主義的な議論であることを批判者たちに自覚してもらうことがこの部分の目的なのだ、と応じた。
最後に、神崎氏は、satisficingは「充足化」(9頁)という訳語よりも、すでにハーバート・サイモンの翻訳において定着している「満足化」を用いるべきでは、と指摘した。
それに対して、伊勢田は、指摘に感謝し、今後は満足化という訳語を使うと答えた。

1-2 江口論文をめぐる応酬
相澤伸依氏は、「Qu'est-ce que le bonheur? 功利主義者にとって幸福とは何か」という発表で、江口聡の「遺伝子操作」(第7章)に対するコメントを行い、とくに功利主義における幸福の位置づけを中心に質問をした。また、伊吹友秀氏は、「三つの質問」という発表において、同じ江口の章に対する質問を行った。以下、相澤氏と伊吹氏の主要な質問と、江口による回答を順に記す。
第一に、遺伝子操作反対論の一つとして、親の子どもに対する「設計的態度」を批判する議論があるが、江口はこの議論が重要である理由として、本質的に設計的な思想である功利主義との類似性を挙げる(158頁以降)。しかし、相澤氏によれば、両者はまったく次元の異なる話であり、遺伝子操作における設計的態度の批判が、功利主義批判につながるとは考えられないと指摘した。
それに対して、江口は、たしかに一方の功利主義は社会政策における設計的態度であり、後者の遺伝子操作における親の態度は、個人のレベルにおける設計的態度であるものの、両者は良い結果(帰結)を目指すという態度が同じである点で共通しており、その一方に対する批判は、残りの一方に対する批判になりうると回答した。
第二に、親の設計的態度に不安を感じるわれわれの直観を分析するくだりで、「あるがままの子どもを受け入れられない親は、子どもを不幸にし、自身も不幸になる」という趣旨の記述があるが(164頁)、相澤氏は、これは江口の幸福についての単なる直観的な判断であり、それ以上の根拠がないと批判した。
それに対して、江口は、親の設計的態度を完全に否定するわけではないが、あるがままの子どもを受け入れられないと、親とその子どもは実際に不幸になるのであり、単なる直観ではないことを強調した。
第三に、相澤氏は、「[遺伝子操作の技術は]本質的にコストやリスクに見合う社会的効用が見込めない」(165-166頁)という江口の主張を取り上げ、この一文における「社会的効用」が何を指すのか明確にすることを要求した。
それに対して、江口は、「社会的」という表現が曖昧であることを認め、「本人にとっても、親にとっても」というぐらいの意味であると回答した。
第四に、相澤氏は、「社会的効用が認められない」という主張の例証として江口が用いている「子どもの身長を高くする」という遺伝子操作について、江口がそのような遺伝子操作が「その子どもの(そして親自身の)幸福に有効な意味で寄与することはほとんど考えられないと思う」(166頁)と述べていることを問題にし、これは単に江口自身の幸福観に基づく主張であり、普遍性のないものだと批判した。
それに対して、江口は、外面的なものに幸福はないというのは古代ギリシア以来の歴史に裏打ちされた幸福観であり、普遍性があると主張した。
最後に、相澤氏は、この章の結論を問題にして、「賛成にしても反対にしても説得力のある見解は功利主義と矛盾するものではない」(167頁)とか「遺伝子治療の研究は慎重に進められるべき」(同)といった結論はあまりに無難であり、功利主義はさじ加減一つで何でも言える理論なのかと質問した。
それに対して、江口は、功利主義はどのような結論でも支持できるわけではないと主張し、遺伝子操作に関してはっきりとした結論が出せないとすれば、それは科学的・社会的な情報が不確かであるからに過ぎず、理論的には功利主義はちゃんと結論を出せることを強調した。
続いて、伊吹氏は、江口の論文の要約を行ったあと、三つの質問を行った。第一に、言葉の定義の確認として、遺伝子操作が遺伝子治療と遺伝子改良の両者を含むものとして用いているのかどうかと尋ねた。というのは、たとえば子どもに対する親の「設計的態度」の議論は、通常遺伝子改良の文脈で論じられるのに、江口は「遺伝子操作」という言葉で改良だけでなく治療にも当てはまるかのように書いているからである。
それに対して、江口は、遺伝子操作は治療と改良の両者を含むが、「設計的態度」の議論においては改良の問題が念頭にあったと答えた。
次に、伊吹氏は、本章では遺伝子操作賛成論として、消極的賛成論(功利主義的には禁止する十分な根拠がないので許容すべき)は議論されているが、積極的賛成論(功利主義的には積極的に行うことが望ましい)はほとんど言及がなく、これは論点を枚挙して検討するという江口の姿勢に反しているのではないかと指摘した。伊吹氏は、積極的賛成論の一例として、「両親は子どもを産むにあたっては、できる限り幸福になりうる子どもを産むべきである」とするサヴァレスキュの議論を紹介し、たとえば絶対音感を身に付けることは子どもの幸福にとっては望ましいので功利主義的には許容されるだけでなく、義務であるという議論があると説明した。
これに対して、江口は、遺伝子操作に関する積極的賛成論があることは承知しているが、現時点では取り上げるに値する論文や本がないと指摘し、絶対音感を身に付けることによって一般に子どもの幸福が増大すると考えるのは、あまりに短絡的な発想だと考えると主張した。というのは、絶対音感があるからといって楽器や歌が得意になるわけでは必ずしもなく、むしろピアノなどの音程が気になって不快を感じる機会が増える可能性があるからである。
最後に、伊吹氏は、先の相澤氏の最後の質問と同様、江口の結論を問題にしたが、ここでも江口は、自分の判断が自身の道徳的直観に基づいてなされているわけではない点を強調し、むしろ哲学的な視点から人々の直観の分析を行っているのであり、直観の背景にあると考えられる議論の良し悪しを(道徳的直観ではなく)哲学的直観に基づいて吟味していると主張した。
以上のような江口の答弁に対して、フロアから、江口の言う功利主義の概念は曖昧であり、特に完成主義的価値論が入っているようだがそれを功利主義にどう取り込むのか、という質問があった。これに対し江口は、まず、本書第一章で説明されているように帰結主義と福利主義と単純総和主義をあわせたものとして功利主義を理解している、と答えた。また、完成主義については、ミルもまた完成主義の要素をとりこんでいるが、彼の場合、幸福になるためには完成を目指すのがよいという意味で完成主義をくみこんでおり、そこには特に矛盾はないと主張した。

1-3 児玉論文をめぐる応酬
林芳紀氏は、'If You're a Utilitarian, How Come You're So Arrogant?'と題された発表で、児玉聡の「功利主義と臓器移植」(第8章)のコメントを行った。林氏は、最初に、本章における児玉の主要な目的は、臓器移植の倫理的問題の検討というよりは、むしろ功利主義を批判するために従来用いられてきた「功利主義の結論は直観に反する」という議論を論駁することにあると指摘した上で、そのような児玉の試みに対する二つの批判を提示した。児玉は二つの問いに対してまとめて答えたため、以下では、最初に林氏の批判を説明し、次に児玉の回答を記す。
第一は、功利主義は道徳的思考における直観の地位を不当に貶めているという批判である。林氏によれば、児玉の議論において用いられているヘアの二層理論では、人々の持つ道徳的直観は、直観レベルにおける「一見自明な原則」としての地位しか有せず、批判レベルに直観を持ち込むことは許されていない。しかし、批判的レベルにおける議論においては、直観に訴えることによっては理性的な解決が望めず、唯一理性的な解決法は功利主義のみであるとするのは、功利主義者の傲慢以外の何物でもないと林氏は批判した。
第二は、「直観に反する」という批判に対して功利主義者が「だからどうした(So what?)」(190頁)と居直りの態度を示すことに対する批判である。児玉によれば、現代の功利主義は「直観に反する」という批判に防衛的になるあまり、功利主義がもともと備えていた急進的性格を失ってしまっている。そこで、児玉は、社会改革の思想としての功利主義の復権のために、「『功利主義の結論は常識に反する』と言われたら、『だからどうした』(So what?)と切り返す勇気を持つことの方が、とりわけ生命倫理の領域に関しては重要だ」(190頁)と主張している。しかし、林氏の考えでは、人々の直観に対するこのような「唯我独尊的な態度」は、理性的な議論に対する妨げになりかねず、功利主義的改革にとっては不利益になるだろうと指摘した。また、直観は「発見的装置(heuristic device)」の機能を果たしうる――すなわち、功利主義の結論が「直観に反する」ことは、その結論に至るまでの推論が誤っていないかどうかを見直す契機になりうる――という意味でも、功利主義者は直観を重視すべきであるとされる。
以上の二点に対して、児玉は、功利主義者は傲慢にならずに人格者になるべきだという林氏の主張を認めつつも、人格者であることと、熟慮の上で正当な理由をもたないと判断されるような直観に対して「だからどうした」と答えることは両立すると主張した。すなわち、直観の地位に関して、直観レベルの道徳的思考においては、ある行為が「直観に反する」かどうかは重要であり、批判レベルの思考においても、ある行為が「直観に反する」という事実が、考慮に入れるべき正当な理由を探求するための発見的装置としての役割を果たすことを認めるものの、「直観に反する」という事実が正当化の役割を果たすことはできないため、「直観に反する」という事実をそれ自体で重視すべきだという議論は退けざるをえないと主張した。
児玉の回答に対しては氏は、児玉が論文の中で行った「だからどうした」という答え方自体が傲慢だと言っているのだ、と再反論した。林氏が言いたいのは、もしかしたらその直観をふくらませて豊かな倫理学理論を構築していけるかもしれないのに、非常にせまい功利主義的な合理性の枠で直観を「だからどうした」と切り捨てることでその可能性に目をふさぐことになってしまうというのが問題だということだとのことであった。これに対して児玉は基本的に同じ回答を繰り返した上で、功利主義が道徳に関する唯一理性的な解決法を提供するとまでは考えておらず、もし林氏が直観により高い地位を認めるそれ以外の理性的な解決法を提示することができるならば、それを十分に検討する用意はあると述べた。

1-4 奥田論文をめぐる応酬
三浦隆宏氏は、奥田太郎の「守秘義務と医療情報」(第10章)へのコメントとして、5つの論点を挙げて質問を行った。三浦氏の問いは、主に守秘義務に関するものであった。以下、三浦氏の問いとそれに対する奥田の回答を順に述べる。
三浦氏は、第一に、究極の個人情報とも言われる遺伝子を取り扱う遺伝子診断や遺伝カウンセリングと守秘義務の問題について言及がないが、どう考えているのか、と尋ねた。これに対して奥田は、今回は専門職倫理としての守秘義務を功利主義的に考察することが主目的であったため触れなかったが、遺伝子情報を取り扱うことが従来の守秘義務のあり方に変質をもたらすか否かは別途考えられるべき重要課題だと考えている、と述べた。
第二に、223頁の小見出しに「権利保護」という表現が見られるが、これは、法的権利(保証)と個人情報保護を意味していると考えてよいのか、と尋ねられた。これに対して奥田は、そう考えてよいと述べた。
第三に、三浦氏のまとめにおいて、奥田は二層理論型功利主義で守秘義務の解除の問題がうまく扱える、と主張しているという趣旨の部分があったが、奥田はこのまとめは正確ではないとして、真意を説明した。奥田の真意は、むしろ、批判レベルに一度行ってしまったら直観レベルに戻れなくなるかもしれないので守秘義務の問題では批判的レベルに移行するのは慎重になるべきだ、ということであり、二層理論に批判的である、とのことであった。また、守秘義務を解除したいと思わせるほど重要な情報は守秘義務が絶対解除されないという保証があってはじめて得られる、という守秘義務のパラドックスは疑似問題である、というのがそのあたりで一番言いたかったことであり、そこをまとめにふくめてほしかった、とのことであった。さらに、批判的レベルの思考を「公共的な意思決定の場面」で行うというのは気になった、という三浦氏の疑問については、コンセンサス会議や審議会の場を想定している、と述べた。
第四に、表題に「守秘義務と医療情報」とあるにも関わらず本文に「医療情報」という語がまったく見られないのはどうしてか、と尋ねられた。これに対して奥田は、医療情報の現代的な在り方と守秘義務との関係を考察することも重要な課題だと当初考えていたが、専門職倫理としての守秘義務の根幹部分の解明を目指して書き進めた結果、取り扱われる医療情報の具体的細部にまで分け入ることができなかった、と述べた。また、医療情報の主な部分は個人情報であるが、それは守秘義務とは分けて考えるべきだ、という趣旨の発言もあった。
最後に、ウィニーやトラステッド・インサイダーなどによる情報漏洩の問題についても言及されていないが、どう考えているのか、と尋ねられた。これに対して奥田は、情報漏洩の問題は専門職倫理としての守秘義務というよりむしろ情報管理の問題だと考えているので今回は言及しなかったが、現代的な情報管理問題が従来の守秘義務の在り方にどのような影響を与えるかを考察することも必要だ、と述べた。
この応酬の後の奥田へのコメントとして、フロアから、守秘義務と法的義務および個人情報を「切り離す」というのは奇妙であるという指摘が出された。指摘の趣旨は、医師の守秘義務はそもそも法的義務であるし、個人情報に関わらない守秘義務はそもそもあるのか、という点であった。これに対して奥田は「わたしはあいつを殺してやりたい」と患者が言った、というのは個人情報ではない、と切り返したが、それを誰か特定の個人が言ったという情報は個人を特定する情報を含んでいるので個人情報に他ならない、とフロア側から再反論があった。
また、フロアからのもう一つの質問として、守秘義務は積極的に解除されるべきかもしれないという議論において内部告発の話が出てきているのはどういう意味か、守秘義務の解除に内部告発がかかわるような場面があるのか、というものがあった。奥田は、内部告発と守秘義務の解除は直接結びついているわけではなく、守秘義務のようなものが悪事の隠れ蓑になってしまう可能性を指摘するための事例として出ているだけであり、守秘義務の解除を積極的に主張しているわけではない、との答弁がなされた。


2. 総合討論
2-1 功利主義の理論的問題をめぐる質疑応答
今回の総合討論のかなりの部分が、生命倫理学とかかわる限りでの功利主義の理論的諸問題に向けられた。以下、各論点についての応酬を、おおむね話題が出された順に紹介する。(以下のまとめにおいては、それぞれの発言者を完全に特定することができなかったので、著者以外の発言はすべて「フロア」として一括した)。

2-1-1 直観のあつかい
まず、フロアから、「直観に反する」という批判に対する「だからどうした」という功利主義者の対応(第二章で紹介するレイチェルズの第三の戦略)について、児玉以外の執筆者はどう考えるかという質問があった。
それに対して伊勢田は、功利主義にも功利原理の正当化や、総量説と平均説の間の選択などで直観が必要となることを認める。批判的レベルでは直観を使ってはならない、というよりは最小限の直観しか使わないということが大事であり、功利主義の長所の一つは最小限の直観にしか訴えないことであると主張した。また、全員が同じ結論で合意しているような場合などでは、直観が批判レベルでも正当化根拠になりうる場合があると述べた。しかし、いずれにせよ、最終的には直観を批判レベルで受け入れることはできないにしても、頭ごなしに「だからどうした」と言うのは賢明ではないと述べた。
また、江口は、直観は重要であり、また人間の本性に深く根差していて変更が難しいものもあるかもしれないと指摘した。たとえば、「近親者の遺体は丁重に埋葬しなければならない」というような直観は、「道徳的」と呼ばれるべきかどうかはともかく、浅薄な「効用」計算どころか自己利益にさえ優越することもありえ、変更が難しいものかもしれないと主張した。むしろ、直観に対しては「だからどうした」と切り返すよりは「なんでそう思うの(Why?)」と尋ねることにより、直観を支えている信念が正しいかどうかや、その人が持つ直観同士の整合性を問題にした方が戦略として優れている。歴史的にも、功利主義による改革は急に直観を変えさせようとしてきたわけでなく、漸進的な改革を目指すのが哲学的急進派である、と述べた。
さらに、児玉は、ピーター・シンガーも直観を吟味する上で進化論的知見を用いることの重要性を説いていることを指摘して江口の主張に一定の同意を示したが、やはりその場合でも直観に対して批判的な態度で臨むことを忘れてはならないと付言した。
最後に、奥田は、功利主義の立場をとるわけでなく、レイチェルズの第三の弁護戦略に対するコミットメントはない、本書においても常識を大事にしつつ、ヘアの批判的レベルの考え方が常識にどれだけ切り込んで行けるのか、という観点から執筆した、と、自身の立場を明らかにした。直観は基本的に重視すると述べ、「だからどうした」という答え方には原則として同意できないと述べた。

2-1-2外的選好のあつかい
これに引き続いて、フロアから、外的選好の問題について質問があった。それによると、功利主義の一つの問題は単純加算主義であり、選好強度の比較の問題もあるが、生命倫理学において重要になるのは外的選好の話である。現場の医師と話していると、自分の目の前に移植を必要とする患者がいる、といった当事者性が持ち出され、生命倫理学者の発言は当事者でもない者の発言として軽んじられることになる。そう言われたときどうするか、という問題は本書を通じてその問題があまり扱われていないのが問題である。唯一奥野論文においてはヒト胚研究への嫌悪感はそのうちなくなるだろうという研究者側の想定は間違っているかもしれない、という指摘がなされており、それは重要である。外的選好についてどう扱うのか考えをしめしてほしい。以上のような質問であった。
児玉はこれに対し、倫理学者は、そうした医師に対し、当事者の選好だけを考慮するのではなく、いろいろな人の選好を考慮してimpartialな判断をするべきだ」と答えればよいのではないか、と答えた。これに対し、質問者は、生命倫理において重大問題である外的選好をどう処理するのかという原理的な問題について児玉の意見を問いただした。これに付け加えて、他の参加者から、児玉の立場は基本的にリベラリズムだから外的選好は考慮されないのではないか、あるいは外的選好など持つべきではないという立場なのではないか、という確認の発言があった。
児玉はこれに対し、どういう外的選好を想定しているのか分からないが、少なくとも事実に基づかない選好は考慮されない、また、リベラリズムと外的選好はあまり関係ないのではないかという返答を行った。伊勢田がこれにさらに補足して、児玉の立場は、批判的レベルでは外的選好も考慮にいれ、直観レベルでは外的選好が排除されるリベラリズムの立場をとる、というものではないか、という指摘を行った。

2-1-3 功利主義を受け入れない人の扱い
次に、伊勢田に対してフロアから質問があった。それは、伊勢田は以前から整合説と合意説をベースに功利主義をとっているが、直観が割れているとき、つまり合意がないときには自分と違う直観にも権利を与えるのかどうか、という質問であった。具体的には、アイデンティティと関わるような直観は合意しにくいと思われるがそういう直観は拒否するのか、というものであった。
伊勢田は、倫理的な議論を行う際の目的をできるだけ合理的な合意を得るということにおくなら、相手の直観にある程度の重みを与えるというのはその目的自体に含まれていると答えた。さらにこの答えに対して、重みを与えるというのは拒否権まで認めるのか、という確認がなされ、伊勢田は、拒否権を認めるということは物別れになるということだと解した上で、合意に失敗して物別れになることはもちろんありうる、と答えた。さらに同じ質問者から、合意に達しない場合はどうするのか、お前の直観は不整合でとるにたりないといって功利計算をする、というような行き方は選ばないのか、という質問があった。伊勢田は、そういう場合にも功利計算はするかもしれないが前提を受け入れない相手に対してはなんの説得力も持たないだろう、と答えた。ここで考えている物別れとは、結局社会契約に失敗して社会が作れなかった、というような状況であり、事実としてお互いに拒否権を発動しあうことになる。
同じ質問者からさらに、もっと具体的なレベルで、教育において、たとえば信仰上の理由から武道の授業をうけない、といった拒否権を認めるのか、という質問があった。これに対して伊勢田は、その意味での拒否権はだいぶレベルの違う話であり、功利主義的にそういう拒否権を認めるという合意を得ることは十分ありうる、と答えた。質問者はさらに、それでは何でも認めることにならないか、という追及を行ったが、これには伊勢田は、拒否権を認めない方が功利主義的にのぞましい事例も十分ありうる、と答えた(江口がこれについて、「宗教上の理由からうちの子供には一切教育しません」といった拒否を例に挙げた)。

2-1-4 未確定領域功利主義
この伊勢田の答弁に対して、では結局すべて功利主義で判断する、という立場なのか、という確認があったので、伊勢田が自分の立場を説明した。それによれば、みんなが直観を共有してそれで問題を解決できている限りは、特に功利主義を持ち出す必要はない。しかし、直観が共有できない問題について合意をとろうとしたら何が使えるかといえば、そういう場合の手がかりになるものは少ない。そこで、「みんなが幸せな方がそうでないよりいい」という程度の直観は誰もが共有しているだろうから、それをてこにして合意を探ろう、というのが伊勢田の立場である。ただ、今回の本においてはそうした部分は一切書かなかった、と伊勢田は述べた。
この発言について、別の参加者からコメントがあった。伊勢田は以上のような立場を以前から「未確定領域功利主義」と呼んで、ひかえめな立場だと主張しているが、これは結局新たに決定する時には功利主義を使えと言っているわけで、係争中のほとんどの問題について功利主義で判断を下せと言っているわけだから少しもひかえめではないのではないか。伊勢田は、これに対し、特に理由は示さずに、未確定領域功利主義は控えめな立場だ、と答えた。
これと関連する論点として、あとから、民主主義や社会保障もすべて功利主義によって説明がつくのか、また功利主義によって説明するべきなのか、という質問があった。こうした制度については人間本性といったものから説明するやりかたもあるわけだが、そういう説明ではだめなのだろうか。
これに対しては、江口が、歴史的に見た場合、まさに功利主義こそがそれらの制度を推進してきたのだということを指摘した。功利主義が効率を重視して弱者を切り捨てるなどというのはその歴史をまったく無視した批判である。また、伊勢田は、別に功利主義を使わずにそうしたシステムについて合意できるならわざわざ功利主義を持ち出すまでもない、と、先ほどの議論を繰り返した。ただ、合意がとれないときには何かしら共有できるものに頼らざるをえないわけで、みなが幸福な方がいいという直観はその手がかりとなる、というのが伊勢田の主張である。
この伊勢田の答えについて、質問者から、ということは、論争があるような問題について、今日の人類の智慧のなかで一番調停に役立ちそうなものが功利主義だ、という趣旨なのか、と確認があり、伊勢田もそれを肯定した。

2-1-5 認知的心理療法(コグニティブサイコセラピー)と直観・選好の合理性
さらに、功利主義的な幸福とは何なのかという点についても応酬があった。まず、幸福として何を考えるかがはっきりしないと功利計算はできないのではないか、という趣旨の疑問が提示された。
伊勢田はこれに対し、確かに効用の個人間比較やどういう効用を計算に入れるかという問題をはじめ効用の計算にまつわる未解決の難問は多いことを認めた。
これに関連して、言語化できないようなもやもやした直観は合理的でないという理由で功利主義で無視する根拠はあるのか、という質問があった。
伊勢田の答えは、直観も選好の一種であり、もやもやしているというだけの理由ではもちろん拒否されないというものであった。しかし、児玉の回答にもあったように、事実に照らして生き延びることのできない選好は合理的な選好とは認められず、もやもやをはらしてみたら、実はその選好が子供のころの体験に基づくもので、自分としてはそのもやもやを持っていたくないと思うようなものかもしれない。そういうプロセスは経たい、という趣旨を説明した。これはブラント(Richard Brandt)の言う認知的心理療法という手法である。
これに対し質問者は、そんなことを言ってしまえばすべて個人の選択になってしまい、どんなもやもやした感覚にも合理的な説明をつけようと思えばつけられてしまうのではないか、と応じた。伊勢田はそうは思わないと答えた。それに補足して江口は、誤った信念に基づく選好や、論理的に混乱しているような選好は考慮に入れる必要はないだろうが、そうではない場合、単なる嫌悪感のようなものでも功利主義的には考慮に入れるべきだと答えた。
伊勢田は、なんでも合理的になってしまうのではないかという質問の意図について、どの直観を考慮に入れるかさじ加減でどうにでもなるではないか、という問題が気になっているのだろう、と解釈した上で、それは功利主義だけの問題ではないと応じた。さらに、功利主義は、どの直観や選好がなぜ重要なのか説明をしなくてはいけないという要請をする点で、この問題について何の手がかりも与えない他の立場よりましである、と主張した。
この「さじ加減」という問題と関連して、緊急性について質問があった。緊急避難的に「今これをやらなければ困るんだ」と当事者が言うような状況においては、直観的規則を否定することは功利主義的にはありうるのかという質問があった。これに対して、江口は、本当に緊急避難が必要な状況であれば、当然そういうことはありうる、ただ、本当にそういう状況なのか、せっかく決めた直観的規則をoverrideするような状況なのかということはよく吟味する必要がある、と答えた。
直観や欲求の合理性についてはさらに、別の質問者から、伊勢田と江口では直観の扱いに差があるのではなかったのか、江口の立場は合理的な選好でなくても認めるべきだという立場だったのではないか、という確認があり、江口は、不合理な欲求を功利計算に入れるのはおかしい、という同じ説明を繰り返した。
また、認知的心理療法について、伊勢田がこれはあくまで自分の内面を反省するためのもので心理療法であるから合理的かどうか判断するのは本人である、という補足をした。会場から、親から受け継いだ信念はそのプロセスで合理的と認められるのかという質問があったが、それについても、結局判断するのは本人である旨の回答を伊勢田は行った。また、江口がこれは実際の治療ではなくあくまで思考のツールである旨の補足を行った。
そうした補足をうけ、認知的心理療法についてはさらにいくつかの質問があった。第一には、だれに心理療法をする責任があるのか、たとえば、クローンが気持ち悪いという欲求が不合理かどうか判断する際に、気持ち悪いと言っている側に気持ち悪いか説明する責任があるのか、それともそういう欲求は不合理だと思う方が情報を積極的に提供すべきなのか、どちらに責任があるのかという質問があった。
これには江口が回答した。合理的な選好と認められるためには、別に選好の理由は説明できなくてもよい。「学者になりたい」という選好は他の理由からの説明を持たない基本的な欲求かもしれず、不合理とは言えない。しかし、「学者になれば金持ちになる」といった誤った信念に基づいていれば不合理になる。欲求の合理性とは、事実と論理に照らして生き延びる、というあくまでネガティブな意味での合理性である。
また、認知的心理療法を行う前の選好はどう判断されるのか、という質問もあった。伊勢田はこれに答えて、実際に認知療法を経ることが合理性の要件なのではなく、もし認知的心理療法を行ったならば生き延びるであろうような選好であることが条件なのだ、と答えた。

2-1-6 冷静な判断のできない人のあつかい
こうした合理性の強調に対し、フロアから、以下のような質問があった。児玉が「人格者」という表現を使っていたが、そこに象徴的にあらわれるように、功利主義は理性的な判断ができる冷静な人のことしか考えていないように見える。しかし、子供が泣きわめくときに思わず子供に手をあげてしまう親などは、そんな冷静な判断ができる状況にない。実際のところ、冷静に判断して功利主義が実践できるような状況は本当に存在するのか。以上が質問の趣旨であった。
これに対して伊勢田は、二層理論功利主義では、現実の世界ですべての人がいつも功利主義的に判断しようとするのは非常にまずい考え方だということになっている、と説明した。子供に手をあげてしまいそうな親にとって必要なのは、「子供に手をあげてはいけない」という直観的なルールをきびしく植え込まれることであり、それが結局親子の幸福を最大化する。実際の現場において人が何をしようか、と考えるレベルとそういう人たちにどう行動させるのが一番よいかと考えるレベルは違い、功利主義はもっぱら後者のレベルで働く。伊勢田は編者として各著者にこうした二層理論型功利主義の観点について論じるように要請しており、それが本書の特徴になっている、とも伊勢田は指摘した。
江口はこれに補足して、功利主義を日常生活の中で実践しようという人間はとても「人格者」とは言えないと言い、伊勢田奥田は、功利主義者として振る舞うのは、審議会の委員になったときなどに限るのではないか、という立場を表明した。

2-1-7 リベラリズムと価値論
次に、児玉から、江口の議論についての質問があった。江口の章では功利主義からまずリベラリズムを導き出し、さらにそれをもとに遺伝子治療に論じていた。しかるに、リベラリズムといえば善の捉え方(conception of the good)については中立の立場だと通常理解されているが、今の応酬では、どういうものが幸福とみなされるかについて江口は積極的な主張を行っていた。リベラリズムの議論と幸福論をきちんと分ける必要があるのではないか。
江口はこれに答えて、国内の議論では井上達夫をはじめとしてリベラリズムは価値論に立ち入らない立場だという了解があるようだが、これはおかしいのではないか、と述べた。リベラリズムにはそういう立場だけでなく、ミルのような人もおり、ミルの場合にはリベラリズムが幸福を増進するからリベラリズムを擁護する、というはっきりとした価値論がある、と江口は主張した。

2-1-8 グローバルな功利主義
もう一つ、功利主義の理論的問題についての質問として、国内の活動で他の国に被害を及ぼすような場合についてどう考えるのか、というものがあった。
伊勢田は、本書の中(20-21ページ)でグローバルな功利主義とローカルな功利主義の区別をとっていることを紹介し、シンガーやケーガンはグローバルな功利主義の立場をとるが他の多くの功利主義者はローカルな功利主義者であると答えた。しかしローカルな功利主義は、外部への影響があまりないという前提があるからとれる立場で、そういう影響があるということを認めるならグローバルな立場をとらざるをえない、と答えた。
この答えに対し、ではなぜ功利主義者はグローバルな功利主義を採用しないのか、と重ねて質問があったが、伊勢田の回答は、シンガーのように生きるのは覚悟がいるからだ、というものであった。
この答えに対して、さらに、グローバルな功利主義と存在先行説は矛盾するのではないのか、という疑問が別の参加者から出された。伊勢田はこれに対し、グローバルかローカルかという対立と存在先行説かどうかという区別は別のレベルの区別であると答えた。存在先行説であっても、すでに存在している人の選好であれば身近な人であれ遠く離れた人であれ考慮に入れるというグローバルな形を取る事ができるし、そうしないのならその人は功利主義者とは言えないだろう。

2-2 功利主義と障害者の扱い
今回の合評会では、特に障害者をめぐる問題について白熱した応酬がなされた。

2-2-1設計的態度について
これについてはまず、江口の章における設計的態度を巡る議論について質問があった。エンハンスメントと治療のはっきりした区別はできないと江口は答えていたが、実際の江口の判断を見ると、エンハンスメントは否定し治療は認めるという判断を下しているように見える。それはいいのか。江口はこれに答えて、それは治療は理由がはっきりしているので認めやすいという常識的な判断だ、と述べた。
この答えをうけて、質問者は、障害があろうとありのままが一番だと言って治療も否定するという立場があるが、それに対してはどういう態度をとるのか、と尋ねた。江口は、この章の議論は治療に関してはそういう態度には無理がある、という答えになっていると答えた。

2-2-2 スクリーニングと少数者の利益
フロアから繰り返しなされたのは、出生前診断などによる障害のスクリーニングは、現在社会で暮らしている障害者に対する差別につながるという指摘であった。
これに答え、江口は、スクリーニングが現に存在する障害者への否定的な態度につながってはならないという点を強調した。これについては伊勢田が自分の担当章の中(113ページ)で心理的な滑り坂はありうるという指摘を行っているが、江口はこの指摘を一応認めたとしても、それによって障害者に対する否定的な態度が正当化されるわけではないことを強調した。
以上の回答に対して、ある参加者から、障害についての判断といわゆる障害者についての判断はダブルスタンダード(二重基準)になっているのではないか、本当に切り分けることができるのか、という疑問が提示された。「障害がないほうがいい」と「お前たち障害者はいないほうがいい」という判断には確かにそうとう距離があるが、産む直前の「障害があるなら生まない方がいい」という判断と産んだ直後の「障害があるのなら生まれてこない方がよかった」という判断では距離が少なく、さらにそこから「障害者は生まれてこない方がよかった」という判断も距離が少ない。これは本当に単に心理的な滑り坂なのか、論理的につながっているのではないか、という質問であった。
このような指摘に対して、江口は、「障害の否定は障害者の否定である」という説得力のある議論は見たことがないと言い、そうしたつながりは論理的に成り立たないし、心理的にもそのようなつながりがあるのか疑わしいと述べた。そして、医療者がスクリーニングを勧めることと、生まれてきた障害者に対して偏見なく接することは、ダブルスタンダードではなく完全に両立しうることだと主張した。
伊勢田はこれに異を唱え、今回の出席者も含めこれだけ多くの人が論理的なつながりがあると思っているということが心理的なつながりがあることの何よりの証拠だ、と言った。ただ、伊勢田も江口と同じく論理的には障害についての判断と障害者についての判断はつながっていないと主張した。質問者の挙げた例では、産んだあとで産まれてこない方がよかったとさかのぼって判断し、産んだ親を非難するのなら、それは子供に関する判断ではなく、あくまで「障害があるなら生まない方がいい」という判断に反したということが非難されているのだ、と分析した。でも実際そういう非難があるではないか、という応答に対しては、伊勢田は、実体的にそういう批判をする圧力があるのはわれわれにとってはそういう区別をつけるのが難しいという心理的な事実であり、論理的に区分できるということと矛盾しないと答えた。

2-2-3 スクリーニングと少数者保護
若干異なる視点からの議論として、スクリーニングによって障害者が少数者になることに由来する討論も本合評会の中で何度か交わされた。
まず、フロアから、仮にスクリーニング自体が障害者に対する差別意識を含まなくとも、スクリーニングによってある種の障害を持つ人が減れば、そうした人を対象とした治療の施設が減り、治療のノウハウが失われることを指摘して、実際的に生きにくくする効果があるのではないかという指摘があった。
これに対して伊勢田は、それは先天的なものだけでなくあらゆる病気にあてはまる、と応じた。たとえばマラリアの治療法を開発することは結果的にマラリア患者数を減らし、マラリア患者の治療施設の数も減らすことになるが、だからといってマラリアの治療法が望ましくないとわれわれは考えない。
質問者は、確かにその場合にはマラリアの治療法を開発するべきでないなどという結論はでないが、そこで功利主義の受け入れがたい部分が現れていると指摘する。障害にせよマラリアにせよ、患者が少なくなれば治療施設が減り少数者が不利益を被る。しかしそれは功利主義的には正当化されてしまうだろう、と質問者は言う。
伊勢田はこれに対し、少し数が減っても施設を維持するという直観レベルのルールがあった方がみんなが幸福になると我々は考えるだろうから、功利主義的にも少数者の保護は認められる、と答え、児玉から、先日シンガーが講演会で同趣旨のことを述べていたと指摘した。伊勢田はまた、障害者とマラリアではこの場合の直観的ルールについての判断が違いうるということも示唆した。
結局功利主義が障害者やマラリア患者などの少数者を大事にするのは、そうしないと少数者の不満が爆発して結局損になるからなのか、という確認があり、伊勢田がまあそれが基本線だと肯定した。これについて江口は、そもそも障害者は社会的コストになるからいない方がよいなどと論じている功利主義者などいないのに、なぜそんな批判を受けるのか分からない、という感想をのべた。
これに対しフロアから、たとえばカリフォルニア州でダウン症などについてスクリーニングの社会的コストとスクリーニングをしなかった場合の医療費のコストを比較計算した例などがある、という指摘があった。しかし、伊勢田は、功利主義者はそんなふうに経済的価値だけで幸福をはかってはいけない、と言ってそういう計算を批判する側にまわるだろう、と応じた。

2-2-4 障害はそもそも不利益か
以上のような議論を通じて何度も出てきたのが、障害が不利益であるという考え方自体についての疑念であった。以下、その応酬をまとめて再構成する。
まず、ある質問者から、ダウン症などについては、生きて行くことはできるのだから障害だとは捉えないという考え方も提案されているがそれをどう思うか、という質問があった。江口は、障害はやはり障害で、耳が聞こえないのはやはりハンデだと思う、と答えた。
これに対して、あとで別の参加者から、功利主義者の障害についての立場は「手がないよりあったほうがいい」といった素朴な障害概念に基づいているのではないか、という指摘があった。障害がない方がいいと単純に考えると、論理的か心理的かは別として、やはり障害者もいない方がいいという判断に繋がりやすいのではないか。また、さらに別の参加者からも、本書の障害に関する議論には、障害とは社会的な構成物だという社会モデルの観点が抜け落ちているのではないか、という同趣旨の指摘があった。
これに対して伊勢田は、それについては別の論文(「生殖技術と社会的圧力」『中部哲学会年報』35号、95-101ページ、2003年)で取り上げており、本書では注でその論文に言及するにとどめたのだ、と説明した。その論文では社会モデルに反論するハリスの議論を検討しており、それに一応の説得力を認めたため、今回は社会モデルについて検討しないことにしたとのことであった。
また、ある障害が不利益になるかならないかは技術の発展段階に応じて変わるのではないか、という指摘があった。これに応じて伊勢田は、そうした発展段階を考慮に入れることができるのが功利主義のよいところであり、そういう心配をする人はもっと功利主義に好意的になってもよいはずだ、と述べた。

2-2-5 障害児への態度
より実践的なレベルでの問題として、助産師に対する教育はどうしたらいいのか、という質問がフロアからあった。助産師は子供が産まれるまでは障害があるからなるべく産まない方がいいという態度をとり、一旦産まれたあとはがんばって支えて行きましょうという前向きな態度に急に切り替えるべきなのか。功利主義的には助産師は二重基準の実践者になるべきなのか。
これに対して伊勢田は、あくまで二重基準としてではなくそういう態度を教えるべきだ、と応じた。あくまで障害というものに対する否定的な態度は一貫した上で、産まれたあとは子供に対する肯定的な態度と矛盾しない態度をとる、という意味で障害を受け入れることになるであろう。
江口はこれに補足して、だれもが歳をとれば障害や病気になることを指摘した。そういう場合、われわれはあいかわらず病気や障害がない方がよいと判断するが、だからといって病気や障害者になった人はいない方がいいなどという判断を突然下すようになったりはしない。だったら子供についても同じような区別をするのに問題があるとは思えない、と述べた。
また、障害児が産まれたあとの親にたいするケアとしては、そうやって功利主義的に筋道を通すやり方よりも、対話を重視するアプローチが最近注目されている、という指摘があり、伊勢田はそれはたしかに親と子の双方の幸福になるであろう、その意味でそういう考え方も功利主義に取り込むことができる、と応じた。
これに関連して、フロアからは、功利主義者は功利主義者でなくなることをめざすべきだという自己消去説があるから功利主義者が功利主義的計算を振りかざすのはそもそも変なのだ、ということが指摘され、伊勢田もパーフィットらがその立場をとることを確認した。

以上、若干省略・再構成した部分もあるが、当日のやりとりの大半を収録した。当日参加した執筆者一同、コメンテーターおよび参加諸兄からの貴重なコメントにあらためて謝意を表したい。