「明治期日本の動物愛護運動を生んだ「外圧」----英字新聞の言説分析から----」
伊勢田哲治 (名古屋大学情報科学研究科)

日本における本格的な動物愛護運動の出発点となったのは、1902(明治35)年に広井辰太郎をはじめとする文化人、知識人らが結成した動物虐待防止会(以下防止会と略)であると言われている。防止会はのちに動物愛護会と改称され、大正年間に設立された日本人道会とともに戦前日本の動物愛護運動の中心として長期間にわたって活動を続ける。しかし、防止会とその運動の性格について本格的研究はほとんどなされておらず、基本的な事実関係のまとめすら行われていないというのが現状である。本発表では防止会の成立を要請した外的な動機、特にいわば「外圧」にあたる部分について考察を行う。これまでの研究で、イギリスにおける「他者の苦痛への配慮」の制度化が日本にも影響したのだといった分析はあるが、具体的にどういう形で影響が発揮されたのかはまったくといっていいほど検討されてこなかった。発表者は、この点については当時の在留外国人が非常に直接的に影響力をもったのではないかと考える。
対象となるのは主に「ジャパン・ウィークリー・メイル」紙(以下「メイル」紙)である。これは1870年から1917年にかけて横浜で出版されていた週刊新聞であり、明治期三大英字紙の一つである。また、神戸で発刊されていた「ジャパン・クロニクル」紙も動物愛護関連の興味深い記事があり、分析の対象とする。
「メイル」紙を始め、明治時代の英字新聞においては日本における動物虐待問題がしばしば取り上げられていた。たとえば1890(明治23)年には「メイル」紙上で少なくとも数回にわたって東京における乗合馬車や荷馬車の馬がひどい扱いを受けていることに関する記事があり、法律や動物愛護組織の整備が訴えられている。そのうちの一つにおいてはインドのジャーナリストの日本滞在印象記の中で馬車馬の虐待について言及がなされ、社説でも論旨が補強されている。そうした社説が日本人側にも認知されていたこともいくつかの証拠があり、たとえば「メイル」紙の記事に応じて警視庁から業者への内諭が出され、1891年には「メイル」紙と邦字紙との間で論戦もたたかわされた。
在留外国人がこうした影響力を持ち得た理由を考える上では、当時の日本の対外関係を考える必要がある。19世紀末から20世紀初頭にかけては不平等条約の改正が重要な課題となっていた時期であり、改正の条件として文明国として認知されることが重要であった。防止会の運動は、そうした情勢の中で、内外の期待を担う形で始められたと考えることができる。たとえば防止会の設立趣意書で動物虐待を「断じて文明国民の行作にあらず」と表現をしていることもその文脈で考えるときよりよく理解できる。
「メイル」紙ほかの英字新聞は、防止会の設立を歓迎したが、その後も防止会があまり活動しないことに関してかなり批判的な論評を行ったり、動物虐待の事例についての情報提供を行ったりするなどして防止会に対して影響力をふるう。つまり、在留外国人は、動物愛護運動の始まる土壌を用意しただけではなく、その運動の内容にも直接の影響を与えていたわけである。防止会の側も新聞の英字欄や機関誌でそうした批判や情報提供に答える態度を示している。ただし、日本人の運動に在留外国人が満足しなかったであろうことは、東京の虐待防止会の設立からほどなく、1906(明治39)年には横浜で在留外国人を中心とした愛護組織が組織されたことからも推測される。
現在はまだ英字新聞の研究はまだほとんどなされていない状態であり、本研究も予備的なものにすぎないが、それでも欧米の動物愛護運動から日本の動物愛護運動への具体的な影響関係の一端は明らかにできるものと考える。