外在主義メタ倫理学の積み残したもの

October 16, 1999
伊勢田哲治(名古屋大学)

1.メタ倫理学における外在主義と内在主義

道徳語・道徳判断の二つの側面(Hare 1963; Railton 1989)
記述的側面----道徳判断が「よい」とされる対象についての記述を含むという側面
指令的側面----そうした判断が何らかの形でわれわれの動機付けや行為に結びつくという側面

内在主義と外在主義は指令的側面と道徳語・道徳判断との関わりの取り扱いに注目した分類 (Brink 1986, Smith 1994など)

内在主義 (internalism)----指令的側面は道徳語の意味や道徳判断の内容に本質的に含まれる
外在主義 (externalism)----指令的側面は道徳語や道徳判断に偶然的に結びつけられているに過ぎない

2. ボイド=レイルトン流の道徳実在論

レイルトンの二種類の自然主義の区分 (Railton 1989)
方法論的自然主義----メタ倫理の方法としてのアプリオリな概念分析を否定して、現実に行われている道徳的実践をうまく記述し説明できる理論の構築を目指す
実質的自然主義----そのような理論の内容として、道徳概念は現実の実践の中において何らかの自然的性質と同定されているとする立場

レイルトンは両方の意味において自然主義者。ボイドはあきらかに実質的自然主義者だが、方法論的自然主義者かどうかは議論の余地あり。

道徳実在論----そのようにして同定される自然的性質が「道徳的事実」であり、道徳命題の真偽もその事実にてらして決まるとする立場

では何が道徳的事実なのか?
ボイド、レイルトンとも、おのおのの基準にもとづいて道徳的事実の有力な候補を挙げるにとどまる。

レイルトン (Railton 1986)----道徳的説明においてその性質が果たす役割を重視
「社会的観点からみた合理性」全ての関係者の客観的利害を等しく配慮した上での道具的合理性の判断

ボイド (Boyd 1988)----「よさ」という概念のあいまいさを重視
ある種の非功利主義的帰結主義
homeostatic cluster notion 人間にとって重要な様々な要求が相互にかかわりあって一群をなしたものが「道徳的なよさ」

ボイド、レイルトン共に、道徳判断の指令性は、我々がこれらの性質に対して心理学的に動機付けられていることから生じると考える。従ってそのような動機付けを欠いた者 (amoralist) に対しては道徳判断はまったく指令性を持たない。
両者とも分析的真理という意味での定義を与えようとしているわけではない。(したがって自然主義的誤謬を犯してはいない。)彼らの考える同定はむしろ水とH2Oの同定に近い。

3. 異文化間の道徳的不一致の問題

道徳実在論を含む外在主義の問題点としてよく挙げられるのが、異文化間の道徳的不同意が成立しなくなることである(ex. Smith 1994)。

沸騰するお湯を見て「あれは水ではない」という日本人と"That is water."というアメリカ人の間には本当の意味での不同意は存在しない。同じことが奴隷制をみて「よい」と判断する文化と「悪い」と判断する文化の間の違いについてもいえることにならないか?----文化相対主義?

さまざまな文化が水についてのあやまった理論を立ててきたが、だからといって水の本性について正しい一つ理論があることを疑う理由にはならない。(レイルトン)
←この議論は方法論的自然主義に背反する。水についての理論の場合はこれらの理論自体は我々の理論構成のためのデータではないが、方法論的自然主義メタ倫理では様々な文化における「よさ」についての理論そのものがデータ。

文化による食い違いの一部は、「よさ」がクラスター概念であるために、真偽が一意に定まらないことによる。(ボイド)
←クラスター概念に訴えることは、この問題を和らげはするが、消しはしない。二つの文化が明らかに別のクラスターを「よい」という語と同定したときどうするかという問題は残る。

一応の解決案
方法論的自然主義を見直せばこの問題は避けられる。たとえばレイルトンの分析はexplicationとみなした方が都合が良いのではないか。 explication(哲学的明確化)---- 日常言語の曖昧な概念を分析する際に、元の用法から離れすぎない範囲で、哲学的に有用であることに重点をおいて概念の明確化を行うこと。(Carnap 1962などにより詳しい定式化がある)

4. 道徳的一致と行為との関わりを巡る問題

私見では、外在主義の本当の問題は、心理学的動機付けによる分析では、道徳判断の指令的側面を十分にとらえきれないという点にある。

二つの義務が葛藤したとき、これまでにない新しい事例に遭遇したときなどに、道徳的な論争や思考が必要となる。非認知主義などの内在主義の観点からいえば、そのような論争や思考は、結論が出ればそれがそのまま行為の指針となる。そしてまた、まさに行為の指針をえるためにわれわれは論争・思考を行うのである。
しかし道徳実在論の観点からいえば、そのような議論・思考は「よさ」・「義務」などの語の正しい指示対象を見つけるためのもの。その結論を行為に結びつけるには、そこで「よい」とされたものに対してわれわれが動機付けられていることがのぞましいかどうかを考えなくてはいけない。それならば、はじめから何に対して動機付けられているのが望ましいかを直接論じた方がてっとりばやいことになろう。

レイルトンの見解 (Railton 1993 295-296)----「社会制度、周囲の期待、サンクション」などが「ある行為が義務であること」と「その行為へ動機付けられていること」のギャップをある程度うめる。しかしそのような適切な動機付けの範囲についての問はそれ自体では道徳的な義務についての問ではない。
←これは道徳の範囲を不当に切り縮めてはいないか?

もうひとつ可能な道徳実在論からの反論----もしわれわれが道徳的に行動するように動機付けられていなければ、そもそも道徳的な議論・思考に行為の指針を求めたりしないだろう。したがってここで想定されているような状況は生じ得ない。
←われわれが「道徳的に行動する」などという抽象的なレベルで心理学的に動機付けられているかどうか疑問。むしろ、「うそをつかない」「盗まない」といった具体的なレベルで動機付けられているのではないか。だからこそ、脳死の場合のように、これまでにない状況に遭遇した場合は、事前の動機付けなしに、合理的な判断にしたがって行為しなくてはならなくなる。そうしたあたらしい状況に応じた動機付けないし行為の指針を産み出す力が道徳判断にはもとめられているのであり、外在主義にはその観点が欠けている。

5. 結語

道徳実在論はそれなりに魅力的な点もあるので、適切な動機付けの問題など、より内在主義的な要素をとりいれることで改良できるならば、それを目指すべきであろう。

文献

Boyd, R. (1988) "How to be a moral realist" in G. Sayre-McCord (ed.) Essays on Moral Realism. Ithaca: Cornell University Press; reprinted in Darwall et al. 1997, 105-135.
Brink, M. (1986) "Externalist moral realism", Southern Journal of Philosophy 24, Supplement, 23- 41.
Carnap, R. (1962) Logical Foundations of Probability second edition. Chicago: The University of Chicago Press.
Hare, R.M. (1963) Freedom and Reason. New York: Oxford University Press.
Railton, P. (1986) "Moral realism", in The Philosophical Review 95, 163-207.
--. (1989) "Naturalism and prescriptivity", in Social Philosophy and Policy 7, 151- 174.
--. (1993) "What the non-cognitivist helps us to see the naturalist must help us to explain", in J. Haldane and C. Wright (eds.) Reality, Representation, and Projection. New York: Oxford University Press: 279-300.
Smith, M. (1994) The Moral Problem. Cambridge: Blackwell.


Last modified: Wed Dec 22 17:39:23 JST 1999