「証拠と法」カンファレンス参加報告

2008年6月の20日から22日にかけて、アメリカニューハンプシャー州のダートマス大学で、Episteme誌の主催による「証拠と法律」カンファレンスが行われた。Epistemeは数年前にAlvin Goldmanを編集長として創刊された社会認識論の専門誌であり、創刊以来毎年一回、社会認識論に関連する話題を取り上げたカンファレンスを開催している。今年はダートマス大学のWalter Sinnott-Armstrongがホスト兼オーガナイザーとなってこのテーマでのカンファレンスが実現した。発表者12人に対して30人ほどの参加者という、大変小規模なカンファレンスであったが、発表陣は非常に充実しており、議論も大変白熱していた。以下、どのような発表が行われたか、私自身のノートと、資料などをもとに整理する。証拠法に関する哲学的議論は日本ではなじみが薄い分野なので、まとめの中で適宜背景情報も補足する。
発表のアブストラクトは以下で公開されているので参照されたい。
http://epistemejournal.wordpress.com/conference/2008-dartmouth/
また、今回のカンファレンスで行われた発表はすべて論文化されてEpisteme誌の特別号に寄稿される予定であり、正確な内容についてはそちらを参照されたい。

1 法的証拠の認識論
初日は到着時間の関係でほとんど参加できなかったが、「法的証拠の認識論」と題するセッションで以下の三つの発表が行われた。
Fred Schauer(Harvard), “The Role of Rules in Evidence and Epistemology”
Amalia Amaya (Harvard), “Justification, Coherence, and Epistemic Responsibility in Legal Fact-Finding”
Ron Allen(Northwestern), “Explanationism All the Way Down”

Shauerはこのカンファレンスのオーガナイザーの一人であり、法律学の側から法的な推論についての研究を行っている。Shauerの発表は、裁判における証拠の扱い方を定めたアメリカ連邦証拠規則(Federal Rules of Evidence)を貫く「規則による証拠評価」という考え方を評価するというものだった。こうした規則ベースの考え方は分析系の認識論からは批判されるけれども、裁判だけでなく日常への適用も可能であり、もっと認識論的に評価されてもよいのではないか、という趣旨のものだった。1 AmayaはShauerのもとで研究する大学院生である。彼女の発表は、調和主義や徳認識論の考え方を法廷における事実認定(陪審の仕事はこれにあたる)にあてはめようというものだった。三人目のAllenも法律学者として確率的推論などについて研究している。Allenの発表は、法廷での思考プロセスを最善の説明への推論とベイズ主義の二つの観点と比較し、主観的確率という考え方を法廷での思考に適用するのは難しく、法廷での思考は最善の説明への推論だと理解するのが正しい、という趣旨だった。(報告者はこの発表の質疑から参加することができた)。主観的確率ととらえられない理由として、主観的確率は積み重ねるとだんだん減っていく(たとえば0.7の主観的確率のもの二つを掛け合わせると、全体は0.49で間違いの確率のほうが高くなってしまう)。しかし裁判プロセスではそれに対応することは起きない、といった話題があつかわれたようである。

2 立証責任と推定

二日目午前中は「立証責任と推定」と題するセッションが行われ、Haackら三人が発表した。

2-1 Susan Haack(Miami), “Proving Causation: Weight of Evidence and the Atomism of Evidence Law”

Haackは科学哲学と法哲学の両方で活躍する哲学者である。今回は証拠の重みの評価について、現在の法律慣習を批判的に検討するという趣旨の発表であった。
Haackによると、小さな証拠の積み重ねで何かを立証できるか、というのはアメリカの裁判史上でもなんどか争点となってきた問題である。たとえばGeneral Electrics 対Joiner (1997) (522 U.S. 136 (1997).)では、JoinerがPCBへの曝露によって肺がんになったかどうかが争点となった。Joinerの側は動物実験などの間接的な証拠の積み重ねで因果関係を立証しようとし、GE側がそれを否定した。2 連邦裁判所の判決は、動物実験と立証すべき人間への影響の間には大きなギャップがあるので証拠としてみとめないというものだったが、Stevens判事は部分的少数意見の中で決定的でない証拠の積み重ねが決定的な証拠になる可能性を認めた。また、1986年のOxendine対Merrell Dow Parmaceuticlesの控訴審(506 A.2d 1100, D.C. 1986))では、一審の判決を覆した判決理由において証拠をモザイクにたとえ、個々の証拠が決定的でなくても「部分の総和より大きい全体をつくることがありうる」と述べた。
HaackはStevens判事やOxendine対Merrell Dow控訴審判決の考え方に同意するとともに、その考え方を認識論的に正当化しようと試みる。Haackが依拠するのは、自著Defending Science-within Reason: Between Scientism and Cynicism (Prometheus Books, 2003)の中で提示した証拠の重み(weight of evidence)の理論である。そこにおいて、証拠の重みはsupportiveness, independent security, comprehensivenessの三つの要因で評価される。independent security、つまり示されるべき結論と独立にどのくらいの保障が存在するかという点について言えば、保障の度合いは証拠が個別でも集合体になってもあまり変わりはない(つまり個々の証拠の持つ保障の総和が集合体の保障となる)。しかし、結論をどのくらい支持するかというsupportivenessと、どのくらい包括的かというcomprehensivenessについては、細かい証拠が集まることで改善が見込める。包括性については言うまでもないので、支持性について分析する。ここで重要な概念としてHaackが提示するのが、証拠が「かみあう」(interlock)という考え方である。日常的におこなわれるdouble checkingといった行動でも、いくつかの証拠がかみ合うことによって結論がより確実になる。「かみ合う」ためには、二つの証拠において同じ項が現れなくてはならない。Haackは証拠と結論の間にもinterlockingという関係を想定していて、Joinerの裁判で問題になった動物実験の関連性については、人間に近いほど結論とかみ合い、曝露量が近いほど結論とかみ合う、といったとらえかたをしている。証拠群と結論が十分にかみ合っていれば、証拠の支持性は高くなる。疫学的証拠は必要か、動物実験は十分か、といった論争はまとはずれで、個々の証拠の種類ではなく、証拠の質や結論との関係を考えなくてはならない。また、科学的証拠の裁判での利用についての転換点となったDaubert 対 Merrell Dow Pharmaceuticals, Inc.509 U.S. 579, 1993),では、あるハザードが原因となったと推定するうえでの閾値として、「リスクが二倍になる」(doubling of risk)ことを目安とし、それを下回る証拠については採用しないことにしているが、これもまた証拠として認めるかどうかの基準としておかしい。
以上のような分析を踏まえた上で、HaackはDaubert裁判で確立されたとされる、いわゆるダウバート基準(Daubert Standard) 3  の基本理念を批判する。ダウバート基準はアメリカ連邦証拠規則第702条の2000年における改定という形で規則に取り入れられた。そこでは、個々の証拠が信頼性(reliability)を持つことが求められ、信頼できるための最低ラインとして優勢(preponderance)、すなわち「間違っている確率よりあっている確率の方が高い」(more likely than not)という基準を満たすことが求められている。Haackによれば、これは証拠になるかどうかの判定を個々の証拠だけを見て行うという意味で、証拠に関する原子論(evidentiary atomism)である。しかし優勢の条件を満たさない弱い証拠が集まって強い証拠になるということは十分ありうるはずであり、ダウバート基準における原子論的要素は改められるべきだ、とHaackは結論する。
質疑ではいくつかの批判的コメントがなされた。まず出された疑問は、その証拠にどのくらい根拠があるのかを本当に陪審は評価できるのか、というものだった。陪審の教育レベルは多様であり、証拠のよしあしが評価できる人ばかりではない。ダウバート基準が優勢という制約を設けているのは、そうした人たちがまどわされないように選別するためなのではないだろうか。これについては、証拠法学者のAlex Steinから、信頼性の低い弱い証拠が出されるときには、その証拠の信頼性についての証言という、いわば二階の証拠(second-order evidence)をあわせて出させることで解消可能なのではないかという提案がなされた。Haack自身は、最初から、二階の証拠も三階の証拠も全部ふくめた話をしているつもりだった、という答えであった。
聞いた感想であるが、Haack自身は証拠の積み重ねを確率的には取り扱えないという立場を表明していたが、そうでもないはずであろう。証拠がひとつだけなら間違いということがあっても、二つ以上の独立のソースからのデータが同じ方向に間違うとなると確率は低くなり、それがたくさんかさなれば、すべて同じ方向に間違えているという確率は無視できるくらい小さくなるだろう。もちろん、Haackが「かみ合う」と表現する質的な判断は必要だが、どのくらいかみ合っているのかは条件付確率などの形で量的なものに落とすことができるだろう。

2−2 Dale Nance(Case Western), “The Weight of Evidence”
Nanceは次のような挿話から講演をはじめた。ある殺人事件について、二人の証人が容疑者が殺したと証言し、容疑者が犯人であることは合理的な疑いの余地がない(beyond reasonable doubt)ように見えるものとする。しかしここで、じつは現場には三人目の証人になりえた人物がいたが、証人になる前に自動車事故で死んだものとする。この三人目がどんな証言をしただろうかということについては何の情報もない。さて、これによって合理的な疑いが発生するということはありうるだろうか?多くの人はそこで合理的な疑いの根拠になりうると答えるのだが、Nanceはそれは証拠の重みというものの二つの意味を混同したあやまった考え方だという。
Nanceの考え方の背景にあるのはケインズの議論である。ケインズは「証拠の重みは確率とはちがう」と主張していた。この考え方によると、新しい証拠が増えて、否定的な証拠だったために全体として確率が下がったとしても、証拠の重みは増える。つまり、証拠の重みは、ケインズにとっては、証拠の「完全さの度合い」である。
Nanceはこの考え方を取り入れるためにデルタウェイトδweight(どちらに傾いているか)とシグマウェイトΣ weight(十分な量の証拠があるか)を区別することを提案する。
デルタウェイトは簡単に尺度化できる。中間をゼロとした線分で証拠がどちらに傾いているかを表示すればよい。
また、デルタウェイトについてはカプランの説得の責任(burden of persuasion)についての基準が利用できる。これはO(C|E)>D(+)/D(-) という式であらわされるという説明だったが、それぞれの記号の意味については聞き逃した。
これに対して、シグマウェイトについては尺度を考えるのが難しい。直観的に考えて、すべての関連する証拠(all relevant evidence)をあつめたときにシグマウェイトが最大化される(maximized)はずである。しかしすべての関連する証拠とはいったいなにかと考えると、これを明確に述べるのは難しいし、無限に存在する可能性がある。これに対して、シグマウェイトの最適化(optimization)は考えることができる。最適化とは、それ以上証拠を増やしても、証拠を得ることによるコストの方が証拠によって得られるものを上回るような状況である。
デルタウェイトとシグマウェイトの区別から、証拠の収集について一定の基準が得られる。まだシグマウェイトが最適化されていないときにはそれを最適化するのが優先される。しかし最適化されたらもはやシグマウェイトについて考える必要はなくなる。デルタウェイトだけ考えればよい。
Nanceの基本的な主張のひとつは、ふたつのウェイト判断は相互作用しないということである。また、シグマウェイトの最適化は今の法律システムでは実現できないともNanceは言う。まず、不可欠な証拠の破壊を防ぐ手段がない。また、対立型の裁判手法では、原告・被告とも明らかに自分に有利な証拠だけを持ち出すので、全体像を知るために不可欠でも中間的な証拠はどちらからも採用されないということがありうる。
説得の責任とシグマウェイトの関係についてだが、説得の責任の基準を修正することでシグマウェイトの欠落を説明しようという試みはうまくいかないとNanceは言う。これについてはすでにいくつかの試みがある。たとえばすでに紹介した式の右辺に修正項としてシグマウェイトを入れ、O(C|E)>D(+)/D(-)+εと表すという提案がある。しかし、これではせっかく最適化されていたデルタウェイトがゆがめられることになってしまい、証拠のバランスからいえば本来説得の責任を持つはずの側が責任を逃れたりということがおきてしまう。また、Alex Steinはデルタウェイトの基準と別にシグマウェイトの基準を説得の責任に含めることを提案する。これはNanceの考えとも近いが、通常の意味での説得の責任とはそもそも別物だと考えた方がいい、とNanceは言う。
Nanceによれば、実際の裁判において、シグマウェイトが最適化されているかどうか(つまり十分な証拠がすでに法廷に提出されているかどうか)の判断は陪審ではなく判事にまかされるべきである。これにはいくつかの理由がある。まず、シグマウェイトを評価するには専門知識が必要である。また、治療的選択肢を持つという点でも判事に利点がある。もうひとつの理由として、証拠が足りないかどうかの判断は、陪審が惑わされないように同じ証拠が違う形で二度提出されることを防ぐ(たとえばすでにA氏が証言しているのに、A氏から聞いた話をB氏が証言するといったことを防ぐ)判断と連続的だと考えられるが、これは通常判事の責任とされている。
この発表に対しては、やはり最適化という概念をどうとらえるのかというところでさまざまな質問が出された。たとえばある事件に対して100人目撃者がいたら全員証人に呼ぶのか、という質問があり、Nanceの答えは10人も呼べば十分だろう、というものだった。そこでかさねて、それならば証拠が最適化されているかどうかを見ているのではなく、証拠の十分性(adequacy)を見ているのではないかという意見が出され、Nanceもまた十分という言葉でも悪くはないかもしれないと認めていた。もうひとつの概念化の仕方として、そういうとき裁判官は最低限要求される証拠の閾値についての判断をしているのではないか、という意見もあった。
似たような事例として、社会調査が証拠と認められるようになる前は、たとえば製造物責任を争う際に指示がわかりにくいかどうかの証人として双方がとにかくたくさんの証人をつれてくるといったことが行われていたが、それをやらなくなったことは最適化と呼べるのか否かという質問もあった(これも言えるというのがNanceの答えだった)。
シグマウェイトの考え方はベイズ主義などでこれまであまり扱われてこなかった証拠の考え方であり、興味深い。また、最適化の考え方において証拠あつめのコストが明示的に取り入れられている点で、単なる認識論的判断を超えた証拠評価の手がかりを与えている点も注目できる。ただ、やはり最適化という概念自体はもう少しつきつめて考える必要があるだろう。

2−3 Karen Petroski (St. Lewis) “The public face of presumptions”
冒頭の紹介によれば、Petroskiは弁護士で大学でも教えているとのことであった。Petroskiは推定(Presumption)の概念、特にそれが法廷で用いられる際の用法について論じた。裁判ではいろいろな文脈で推定が使われる。たとえば立証責任についての推定というものがあり、基本的には現状を変えるべきだといっている人が立証責任をもつ。推定のもうひとつのカテゴリーは事実についての推定であり、死亡の推定(7年間行方不明の人は死亡したものとみなす)がこれにあたる。もうひとつ解釈的推定というものもあって、領域外の出来事への制定法の適用において使われる。これらに共通するのは、何の根拠もなくある結論を導き出すことが認められているということと、その結論が論駁可能(defeasible)だとみなされているということである。
こうした議論で推定が取り上げられる際にはどの範囲に推定が認められるかという実質的な問題が取り上げられることが多いが、Petroskiのこの発表における関心はそちらではなく、推定の概念そのものの解明にある。Petroskiの見るところ、推定という言葉の用法は混乱していて、ある推論の規則をさすこともあれば、その規則をあてはめて得られた結果を推定と呼ぶこともある。
Petroskiは、推定とは理由の一種だと考える。Richard Gaskin のnormative pluralism の考え方の中で同様の考え方が提示されている。理由としての推定は、規則よりは弱い存在である。ほかの同種の事例にあてはまる保証はなく、将来への含意は弱い。こうしたことから推定が事実の一種と混同されがちになるが、そうではなくて、あくまで事実特定的(fact specific)な理由という存在だ、といのがPetroskiの考えである。
この発表に対して、たとえばもしdefeasibleだという点で推定と規則を区別しようとしているなら、実はほかの規則もdefeasibleだが、区別が崩壊しないか、という質問があった。Petroskiとしてはそこにポイントがあるわけではないとのことであった。また、別の質問者からは郵便についての推定(切手を貼って投函したら「受け取ってない」という証言がないかぎりついたものと推定する)という例が出され、これは根拠のある推論のように見えるがどうか、という質問がなされていた。もうひとつ、信念の理由は二種類あって、証拠に基づいて信じるという証拠的理由と、証拠にかかわらず信じる理由があるという意味での実際的な理由(例としてあがっていたのは、自分が教会の中にいるという状況ではそのこと自体が神様の存在を信じる実際的な理由となるというものだった)が区別されるが推定はどちらなのか、という質問があり、答えは後者の実際的な理由の一種と考える、ということだった。
聞いた感想であるが、具体例にそった議論になってなかったこともあり結局どの文脈での「推定」をどういう意味で理由と呼んでいるのかはよくわからなかった。しかし、無根拠に何かを信じるという決定が実践的な理由で下され、しかもそれを覆す手続きもはっきりしているというのは社会的意思決定全体についても参考になる思考法であろう。

3 裁判所は何を知っているか

二日目の午後は、認知主体としての裁判所についてLaudanらが講演をおこなった。

3−1 Larry Laudan, (Mexico)“The Epistemic Arithmetic of Criminal Justice”

Laudanは言うまでもなく科学哲学において多くの重要な仕事をしてきた哲学者であるが、近年の関心は法律の認識論に向かっている(本人の言によれば「科学についてはすでに優秀な哲学者がたくさんとりくんでいるが、法律についてはまだ認識論的研究はあまりなされておらず、なすべきことがたくさんある」とのことである)。
さて、Laudan は裁判所の持つ誤った量的な理想について論じる。裁判所は二つの要請の間のトレードオフを行わなくてはならない。一方ではできるかぎり多くの犯罪者を有罪にすべきだと考えられるが、他方ではできるだけ冤罪を減らすべきである。どのくらいの証拠で有罪とみなすかのラインをどこに設定するかによって、あやまった有罪と誤った無罪の間のトレードオフが調整される。
では、冤罪の比率はどのくらいであれば許容できるのだろうか。たとえば1000人に一人が冤罪だという程度のレベルに抑えたとしても、毎年数万人が冤罪で有罪になっている計算になるが、これは許容可能な数字だろうか?この問題について考える際に、法律家たちがしばしば用いてきたのがブラックストーン比率(Blackstone ratio)と呼ばれるものである。これは18世紀の法律家ブラックストーンの言った「十人の罪人が逃げるほうが一人の冤罪を出すよりまし」という言葉に基づくもので、(誤った無罪):(誤った有罪)の比率をさし、これが10:1になるのが理想的だとされる。しかしこの比率は、ちょっと算数(arithmetic)をしてみるとまったく意味をなさないことがわかる。たとえば、100の裁判で、9人の冤罪と90人のあやまった無罪宣告があって、1つだけ正しい判決でもブラックストーンの比率を満たすことになるが、そんな間違いだらけの裁判がいいと思う人はだれもいないだろう。実際の統計からいうと、アメリカの裁判全体での有罪判決率は69%程度だが、たとえば冤罪率が5%くらいだとすると、無罪宣告をうけた人がすべて本当は犯罪者だったとしても10:1のブラックストーン比率にはたどり着かない。[つまり有罪宣告比率を大幅に引き下げないといけないことになる、ということなのだと思うのだが、そのあたりの分析は聞き逃した](ところでこれに関連して、Laudanから、日本の有罪率の高さについて質問をうけた。日本では有罪率が9割を超えていて、ほかの先進国とは比べ物にならない突出した数字なのだが、これは結局検察が事実上の裁判所として機能しているということなのか、という質問である。もしそうならば、法規上はともかく、実質的には大変特異な司法システムが働いていることになる。この解釈が正しいのかどうか、ご存知の方がいればご教示いただけると幸いである。)
なお、ブラックストーン比率については一般に次の式が成り立つ。
BRmax=[1/F (CF)]*[(1/CR)-1]
記号の説明が聞き取れなかったのだが、要するに無罪率を有罪率×冤罪率で割るとその状況でのブラックストーン比の最大値が求まるはずである。現実的な想定の下では最大値をとっても10にはならない。
さて、冤罪率をコントロールするための指標として、ブラックストーン比率とは別に、裁判にかけられた無実の人の中での有罪になった人の比率を下げるべきだという考え方もある。しかし、この比率は無実の人が裁判にかけられる絶対数を上げれば、冤罪の絶対数が減らなくても比率を改善することができてしまう。つまり、裁判にかけられる数に制限をかけないと意味がないのである。結局、冤罪のコントロールには、比率ではなく実数を減らすように努力するのが正しいというのがLaudanの分析である。
では、冤罪の数はどういう観点でコントロールするのが正しいだろうか。まず、標準的な推定によれば、現在の先進国で一生のうちに冤罪になる確率は一生のうちに深刻な犯罪の被害者になる確率の数千分の一である。市民一人一人にとってのこの二つの関係について、Laudanはラプラス=ノジックテーゼ(Laplace-Nozick thesis)というものを提唱する。これは、冤罪数(Nfc)冤罪コスト(Costfc)防げなかった重大犯罪数(N crime unprevented)防げなかった重大犯罪のコスト(Cost crime unprevented)の間には以下の関係が要求されるというものである。
Nfc*Costfc= N crimes unprevented * Cost crimes unprevented
この式をもとに考えるとすると、もし、冤罪に落とされたときのコストと、重大犯罪の被害者になったときのコストが大体同じくらいだとするなら、結局
N fc / N crimes unprevented = 1
ということになる。重大犯罪について誤った無罪判決をひとつ出すごとに本人の再犯や周囲の人間の追随をひとつうながしてしまうと考えると、結局冤罪と(重大犯罪に関する)あやまった無罪の相対的な数の正しい比率はせいぜい1:1くらいだということになる。逆に、この比が10になるのが適正だというブラックストーンは、ラプラス=ノジックテーゼに当てはめるなら、防げなかった犯罪のコストが冤罪のコストの10分の1だと言っていることになるが、それは信じがたい。
この発表について、Alex Steinから、こうした計算は作為と不作為の区別を無視して、悪い意味で功利主義的な判断になっているのではないか、と批判があった。裁判所が自らの行為で市民を不幸にするのと、誰かが市民を不幸にするのを裁判所がふせぎそこねるのでは同列に論じることはできないはずである。これに対してLaudanは、別に功利主義をとるわけではないが、裁判所の行為が義務論的に論じられるのもおかしい、と答えていた(ようである)。また、ほかの参加者からの補足として、そもそも社会契約の理念にたちもどるなら、国家がわれわれを犯罪から守ってくれる引き換えに国家に参加したはずなのだから、200年越しの約束を果たそうとしているだけなのだともいえる、というコメントもあった。また、この議論と死刑との関係はどうなのか、という質問にたいしては、逆転の可能性がない刑罰は問題である、と答えていた。
聞いた感想としては、まず、犯罪の抑止と誤った無罪判決の間の関係を気軽に考えすぎでなはいかという印象を持った。また、ラプラス=ノジックテーゼも、結局比率についてのテーゼであり、冤罪とあやまった無罪が両方同時に増えるような政策をとっても満たせてしまう。これでは数を制限すべきだというLaudanの提案が生きない。もうひとつ、ブラックストーン比率については、冤罪率5%という設定に問題があるのではないかという印象を持った。冤罪率が0.1%であればその10倍でも誤った無罪宣告の数としてそれほど現実離れした数字にはならない。つまり、その程度の冤罪率を達成した上ではじめてトレードオフを考えよ、というルールとしてならば理解できるだろう。

3-2 Alex Stein, (Cardozo), “The Epistemic Authority of Courts”
Steinは証拠法を専門とする法学者で、その著書Foundations of Evidence Law (Oxford University Press, 2005)はこのカンファレンスの中でも何度も言及され、証拠法のからむ発表にはかならずコメントするなど、非常に存在感は大きかった。ただ、本人の講演では、事前に配布されたアブストラクトとまったく違う話をする、と断って話を始めていて、少々驚いた。
Steinの講演のテーマは裁判所の認識論的権威である。結論から言うと、裁判所は事実認定(fact finding)において特定の結果を望むことを許されておらず、そのことが権威のみなもとになっている、というのが基本的な主張である。
Steinの議論の出発点になるのは、ギネット(Ginet)のKnowledge, Perception and Memoryにおける知識の定義である。ギネットは正当化された真なる信念という通常の知識の定義に加えて、「利害中立的な正当化」(disinterested justification)という条件を挙げる。つまり、利害中立的でない人が何を信じようとも、それは利害中立的な正当化とはなりえず、その信念は知識とはいえないというのである。Steinは、ギネットが利害中立性に着目した点は評価するが、その導入の場所をあやまったと考える。というのも、利害中立でなかろうが、信念を形成する際に正しい理由を選んでいたら、動機にかかわらずその信念は正当化されているはずだからである。これにたいしてSteinが提案するのは、正当化ではなく権威の問題として利害中立性をとらえることである考えるのが正しい。
原告も被告も陪審も同じ証拠のセットに基づいて信念を形成するのに、陪審の判断だけが権威を持つ理由は、これによって説明される。原告や被告になく陪審にあるものは、利害中立性である。たとえ原告と陪審の信念の内容と根拠が同じでも、両者には権威において差があるのである。
これに対する質問として、まず、ほかの信頼性を増す要因との関係はどうなるのか、という質問が出た。たとえば、利害関係のおかげでより多くの情報が得られて結果としてより信頼性の高い判断ができるということはあるのではないか。Steinの答えは、その批判はギネットに対してはあてはまるが、ここでの目的は判断の正確さを増したいわけではなく権威の根拠を考えたいのだ、というものであった。それを受けてAlvin Goldmanから、コイントスなど無作為な判断は利害中立的だが信頼性はなくdisinterestedはそれ自体では価値がないのではないか(やっぱり裁判所においても大事なのは信頼性ではないか)という質問がなされた。これに答えて、Steinは何の信頼性もない無作為な判断は「公平さ」(impartiality)であって、利害中立性とは区別されるべきだと述べた。利害中立性は、すでに正当化された信念という基準をクリアしている信念の特徴づけにおいて、正当化のあり方が持つ性質の一種である。もう一人、Walter Sinott-Armstrongからは、利害関心を持たないことが要求されるのか、利害関心が影響しないことが求められるのかという質問がなされた。Steinの答えは、少なくとも刑事裁判については前者が要求される、というもので、それをうけて、裁判官でさえその意味でまったく関心を持たないということはありえないだろう、とSinott-Armstrongが切り返すと、実際陪審の不適格の判断は現に利害関心を持つかどうかに基づいてなされるではないか、とSteinは答えた。
この講演の質疑は終始話がかみあっていなかったが、結局Steinの言うところの権威という概念が認識論者にとってまったくなじみのない概念だったという問題だと思われる。認識論者にとっては認識的権威と信頼性はある意味で切っても切れない関係であるが、証拠法の専門家であるSteinにとっては、それと独立な、社会的判断における認識的権威というカテゴリーが自然なものだと感じられていたわけである。このあたりでも科学的合理性と社会的合理性の対比に類するなんらかの食い違いが存在するものと思われる。

Michael Saks (Arizona State), “Explaining the Tension Between the Supreme Court's Embrace of Validity as the Touchstone of Admissibility of Expert Testimony and Lower Courts' (Seeming) Rejection of Same”

Saksは現在ロースクールで教鞭をとる社会心理学者である。犯罪同定科学(forensic identification science)のおかれた制度的な地位からこの領域の科学者たちの判断のパターンを分析する、というのがこの講演のテーマだった。
犯罪同定科学とは、指紋や頭髪など、犯罪の現場で発見されたものと被告のものが一致するかどうかを評価する研究領域で、より広い犯罪科学(forensic science)の一部である。名前からしても犯罪同定科学は科学の一部のはずだが、裁判所で犯罪同定科学の証拠が使われるようになったとき、この領域が科学からある部分で距離を置く動機が生じた。というのも、科学的な研究でそれまで行っていた同定の確実さが掘り崩されたら、犯罪同定科学は裁判所での権威を失うことになるからである。ここでポイントになるのは、刑事裁判で要求される確実さの度合いが、証拠によって個人を特定することができるというレベルでなくてはならないという点である。ほかにもまったく同じ条件を満たす人がいるかもしれない、という状況では有罪判決を下すことはできない。
これにあわせて、犯罪同定科学では、多くのカテゴリーにおいて、個人を特定するレベルの正確さを持っていると主張する。例外はDNA鑑定と頭髪鑑定で、これらについては個人の特定は主張できない。しかし、法廷での発言まで見ると、しばしば頭髪鑑定においても正当化できる以上の確実さが主張されている。Saksは具体的に、アーカンソー州での裁判で頭髪鑑定の専門家が発言していた内容をビデオで見せた。この鑑定家は、検察からの質問に対しては、現場の頭髪と容疑者の頭髪は「似ている」としか言わず、「適合している」といわせようとした検察に対しては異議が認められた(ここまでは教科書どおりの対応である)。しかし、弁護側からの質問で、頭髪鑑定で誰かが特定されるということはないはずだ、と確認されたところ、ビデオの中で鑑定家は「実際にはそれ以上の確実さはある」とにおわせる、教科書を逸脱した証言を行っていた。なお、ここで使われた事例では、あとでDNAテストで実は冤罪であったことが判明し、頭髪を再調査したところ、似てすらいなかったことが判明した。こうした教科書と法廷のギャップは、一方で科学的であることが求められつつ、他方で刑事裁判において有用な証拠であることが求められるという、犯罪同定科学のおかれた二律背反状況を反映しているものと考えられる、というのがSaksの分析である。
別の例で、ある火事が放火かどうかを判定する基準がテストされたことがあって、実際に放火かどうかを専門家が判定する際に多くの指標が使われているのだが、それらの指標をテストした結果、実は放火かどうかと関係がない指標が多いことが判明した。しかしこういう形で犯罪科学が自分の地位を脅かすのは珍しい。
実際には犯罪同定科学は主張されているような確実性を持たない。そもそも、犯罪同定科学での議論は本質的に確率的である。いろいろな証拠を積み重ねて、ほかの人である確率がほとんどありえないほど低いということを示すというのが推論のプロセスである。また、指紋の専門家でも鑑定において事前の示唆の影響をうけるということがわかっており、その意味でも不確実性がある。また、DNA鑑定ではそれぞれの遺伝型の存在比率がわかっているが、頭髪鑑定や指紋鑑定ではそうした存在比率のデータもない。
では、なぜ裁判所は犯罪科学者を信じるのだろうか。一つにはやはり「科学」だからだ、というのがあるであろう、とSaksは考える。また、「みんながやっている」つまり、どの裁判所でも指紋や頭髪を証拠として採用しているので、自分だけ採用しないのはむずかしいという事情もある。
この講演に対してはいくつかの質問があった。Larry Laudanは、ダウバート基準では錯誤率(その証言がどのくらいの確率でまちがうか)がわかっていないと証拠として採用できなかったはずだが問題はないのか、と質問した。これに対するSaksの答えは、実際に下級裁判所では錯誤率の考え方を犯罪科学にあてはめるのをさけている、というものだった。
この発表はこのカンファレンスの中では一番STSに近い視点からの発表であったが、それでもジャザノフのような視点から規制科学としてとらえるというような分析の視点が出てこなかったのは意外だった。

4 さまざまな種類の法的証拠
三日目の午前はさまざまな種類の法的証拠について、三つの講演があった。

4-1 Jennifer Mnookin, (UCLA) “Of Black Boxes, Machines, and Experts: Problems in the Assessment of Legal and Scientific Validity”

Moonkinは法律学が専門である。この講演では法律的な証拠の考え方の一つの特徴について論じた。まず、エキスパート判断をする機械があるとして、この機械を証拠として採用するかどうかを考えるとき、法廷はどういう思考プロセスを採用するだろうか。大きくわけて、そうし機械があったとき、その信頼性を説明するときにメカニズムの説明ベースの考え方とインプットーアウトプットのテストベースの考え方がある。Daubert基準をはじめ、証拠法の世界では説明ベースの考え方よりもテストベースの考え方の方に重点がおかれている。
指紋を例にとる。われわれは指紋による同定の科学についてメカニズムについての説明を持っているだろうか。実のところ、指紋がどういうメカニズムでできているのか、どうして一人一人違うのかといった指紋のメカニズムについてはよく分からない。しかし、実際に指紋で同定してみたら高い信頼性で同定できるので採用されているわけである。ただし、このテストベースのやり方に問題がないわけではない。指紋同定の手続きはACE-V と呼ばれる考え方に基づいている。ACE-Vとはanalysis-comparison-evaluation −verification (第二の試験者によるチェック)というプロセスを指す。これは要するに二人の人が注意深く見ました、という以上のことではない。evaluationといっても本人の経験によって同じかどうかを判断するだけで、文脈的知識もブロックされているわけではない。verificationもブラインドテストではないので誰が最初のテストをしたか知っている。試験者になるためのテストも簡単なので品質保証にはならない。また、DNAテストなどで矛盾する結果が出ないかぎり錯誤を修正するメカニズムもない。
こうした状況はもちろん望ましくないが、どうやって変えるかについて二つの考え方がある。ひとつは統計的証拠などにもとづいた客観的な評価のメカニズムを作ることで、これは説明ベースの考え方に近い。しかしダウバート基準が求めているのはむしろその試験者が信頼できるかどうかをテストベースで確認することである。
発表者は基本的にダウバート基準の方向性を支持する。いまのところ指紋については統計的データベースを作るのは非常に難しい。大体の手続きはみな知っているので手続きを透明化することで得られるものは少ない。また、手続きを明確化しても信頼性の保証にはならない。
もう一つの事例として、血液アルコール濃度テストをMoonkinはとりあげる。これが証拠として採用された裁判において、被告側はこの機械の仕組みがわからないといって、ソフトウェアやファームウェアを公開するように要求してきた。特定の状況で誤作動するソフトウェアかもしれないから、この要求には一理ある。実際に裁判所はプログラムの公開を命じて調査が行われ、非常にまれな状況では誤作動することが確かめられた。この場合、たしかに被告側の言い分もわかるが、ここでもまた、証拠法の考え方からいえば、ソフトウェアなどのメカニズムがわかることは証拠として採用される上での必要条件ではない。
これに対するAlvin Goldmanのコメントは、まず、ここでいうテストベースの考え方は、自分のいう信頼性主義の考え方を司法に生かしたものとして評価できるということだった。ただ、その観点からいえば、個々の機械のレベルではなく、司法システム全体について同じ考え方を当てはめるべきではないか、ということであった。Moonkinもそれに同意していた。また、Larry Laudanからは、ダウバート基準ではまだどのくらいの錯誤率なら認められるのかがはっきりしないので、その状況で錯誤率の情報をあつめても仕方ないのではないか、という質問があった。これへの答えは、今のところどうやって決めるかもはっきりしないし、一律の基準が与えられるともおもえない、というものであった。もう一人、Ron Allen からは、錯誤率をもっと改善できるかどうか知るにはメカニズムの知識が必要なのではないか、「大事なのは説明ではなくテストだ」というのはコミットメントというより説明が得られないという状況での「絶望の行為」なのではないか、という辛口のコメントがあった。Moonkinの答えは、メカニズムの知識もあればいいけれども本質的なのはテストだ、というものだった。

Walter Sinnott-Armstrong, (Dartmouth) “Brain Scans as Legal Evidence”
Sinnott-Armstrongはメタ倫理学者として有名であるが、道徳の脳科学的基礎付け、脳科学の哲学、脳科学の倫理などさまざまな領域へと関心を広げている。法律の哲学についてもFrederick Schauerと1996年にPhilosophy of Lawというアンソロジーを編集するなど、かなり以前からかかわりを持っている。今回の発表では、脳科学的証拠が法廷で利用できるかという問題について論じた。
タイトルにいう脳スキャンとしてはPET、SPECT、MRI、fMRI、DTI、EEG、MEGなどさまざまな方法があるが、ここでは主にfMRIを考える。fMRIは血流を計って脳の活動を調べるやり方である。
fMRIは法廷でどういう用途が考えられるだろうか?まず考えられるのは嘘発見器としての用法である。次に、陪審のバイアスを調べるために使うという用法がありうる。また、被告の脳の損傷や精神疾患の証拠としても使えるかもしれないし、量刑や保釈の判断をする際に将来の行動の予測に使うといった用法も考えられる。
さて、こうしてさまざまな用途が期待される脳画像であるが、今のところ脳画像は刑事裁判では使わないことになっている。その理由をひとことでいえば、脳科学者は「連続誇張犯」(serial exaggerators)だから(Micael Saksの考えた表現なのだそうである)だという。つまり、脳画像で分かることについての脳科学者の主張はつねに誇張されていて信用できないというのである。
アメリカ証拠法(FRE) 403)条では証明力を持つ(probative)証拠でも危険(dangerous)な証拠は排除されるとされている。しかしそもそも脳画像は証明力を持つだろうか。たとえば、異常性の判断に脳画像は使えるだろうか。ある活性化のパターンが異常かどうかのひとつの判断基準は集団の平均からの逸脱が大きいかどうかということだが、集団平均は個人間のばらつきがおおすぎてとても使えない。異常性の兆候となるものがあったとしても、偽陽性が正しい陽性の結果より多いだろうことが予測されるのでやはりprobativeではない。さらに、異常性とある脳画像パターンの間に相関があっても因果関係があるとは限らない。さらに、脳画像が特殊な人でも法的責任能力がないことにはならない(スカイダイビングが好きな人はアブノーマルだろうが法的責任能力には問題はないだろう)。
次に、脳画像の危険性について考える。これについてはいくつか興味深い結果が出ている。まず、Bright & Goodman-Delahunty(2006)4 は、陪審の立場で証拠に文章だけを与えられた人と、被害者の写真を与えられた人と、事件のあった家の写真を与えられた人とを比べる研究をしている。それによると、被害者の写真を見た人が有罪宣告をする率が高いのは理解できるが、内容的にはまったく中立的な証拠であるにもかかわらず家の写真を見た人まで有罪宣告率が非常に高くなったつまり、画像情報はそれ自体バイアスをかけるおそれがある。また、別の研究で、まったくいい加減な説明にニューロサイエンス的用語を加えるだけで信頼性があがったり、まったく情報量を増やさない図を加えるだけで信頼性がましたりといったことも観察されている。たとえば、Gurley & Marcus(2008)でも、説明の言葉は同じでもニューラル画像をつけただけで説明を信用する人の比率が増えた5
これらはすべて現実の陪審ではなく実験室での仮想的な意志決定であるが、では、本物の陪審も同じような影響をうけるだろうか。今のところ実際の陪審を対象とした研究はない。しかしそうした研究をデザインすべきだろう。
このように、probativeでなくdangerousだということが分かっている現時点で、脳画像を証拠として認めないという法廷の判断は正当化されている。しかし今後もちろん脳科学が発達することはありうる。
以上はまったく認識論とは関係のない話だったが、最後に認識論的な論点として、法廷における証拠の採用においては、その証拠がもつ確率だけが問題になるのではなく、価値観や錯誤のコストなども含めて総合的に判断されなくてはならない、ということの一つの例になっている、とSinnott-Armstrongは主張した。
この発表に対して、Michael Saksから実際に脳スキャンの会社が法廷で機械が使えるように議会工作をしているという情報提供があった。また、Alvin Goldman からは、最後の発言について、証拠の認識論的正当化は確率的な観点でできるのではないか、そのあとで別のプロセスとして投票のときに価値観や錯誤のコストを考慮するということになるのではないか、というコメントがあった。Sinnott-Armstrongはそれに答えて、認識論者はたしかに純粋な認識論的正当化に関心を持つかもしれないが、日常では価値も含まれている、と言う。しかしGoldmanは裁判所や陪審員もそういう区別はしているのではないか、とたたみかけた。
Jennifer Mnookinからは、他の科学的証拠とくらべて脳スキャンは特別なのか、という質問があった。Sinnott-Armstrongの答えは、「脳科学者」はほかの研究者よりも人々の判断に影響力を持っているように見える、ということだった(このあたりは「脳トレ」などがはやる日本の現状と比べても興味深いポイントである)。もう一つ、質問として、Gurley & Marcusの研究はあまりにも問題があるのではないか、というものがあった。本当の裁判における陪審は十分な資格のある人が一番効果的なプレゼンテーションをしていると想定する理由がある。したがって、情報を増やさない図はないはずだと推定することができる。そういう状況における陪審には実験と同じ条件はあてはまらないはずである。しかし、これに答えて、Sinnott-Armstrongは理想的な状況ばかりを考えるのはまちがいで、陪審のおかれる状況もいろいろだという。

4-3 Edward Stein (Cardozo), “Revisiting the Justifications for Spousal Testimonial Privileges”
Steinはもともと哲学で学位をとり、Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science といった認識論の著作があるが、途中で法律の勉強をはじめて現在はロースクールで家族法を教えている。(なお、同じCardozo大学からこのカンファレンスにAlex Steinもきているが、姓が同じなのはまったく偶然だとのことである)。
Steinは配偶者特権について論じた。配偶者特権とは、配偶者間での秘密の会話などについて両者の合意がないかぎり隠すことが認められており、また、配偶者に反対する側の証人になることを強要されない、といった内容を持つ(ただし配偶者が共犯である場合には特権が失われる)。
この特権について興味深いのは、もともとの正当化は根拠がなくなったにもかわわらず特権自体は残っているということである。
通常の正当化の議論は夫婦間のコミュニケーションが妨げられないようにするというものや、避難所を確保する、配偶者に不利な証言をすること自体がrepugnantだという議論、プライバシーの侵害だという議論などである。しかしこれらの議論はどれも強いものではない。特権について知らなくても夫婦は会話するだろうし、結婚していない人も避難所は必要である。repugnantなことを裁判所が要求することは多いし、プライバシーの権利は無制限なものではない。実際、かつてベンサムはこうした特権は犯罪を奨励することになると論じた。
現代においては、家族関係の多様化への対応という観点からは配偶者だけに特権を与える制度を廃止したいという強い動機が生じている。しかし過去のそうした試みは失敗してきた。そこで妥協的な案として、Steinはdesignationアプローチと機能主義的アプローチを考察する。
designation アプローチとは、配偶者に限らず、誰かを特権者として指名できるという考え方である。一人を指定できるという考え方、20〜30人を指定できるという提案などがある。この場合、確かに平等は保障されるが、悪事に利用されるかもしれないし、「偽」の関係や「死んだ」関係にも利用できてしまう。また、裁判で利用できる証拠が大幅に減ってしまうことになり、裁判の遂行にも影響がでてしまう。
機能主義的アプローチとは、法的に結婚していたり登録していたりするカップルについてはその関係が「偽」ないし「死んだ」ものだと主張する側に立証責任を負わせ、そうでないカップルについては関係が「本物」だと示す側に立証責任を負わせるというやりかたである。つまり、関係の実際の機能にそって特権を認めるという考え方をとる。これならば、法律的な結婚に限らず、実態にあわせて特権を与えることができる。しかし、すべりやすい坂道をすべりかねないという問題や、裁判所で使える証拠が減るという問題はある。また、結婚保護法(DOMA)に類するものを持つ州では結局平等性が保障されない可能性は高い(結婚保護法とは、他の州で同性婚をしたカップルが自分の州にきても自分の州で同性婚の制度がなければ婚姻関係を認める必要がない、という連邦法であり、これに依拠する同趣旨の州法が存在する)。
これにたいする質問として、まず、配偶者にとって不利な証言をするのはrepugnanceではなくsufferingだと言うのが正しい概念ではないか、というものがあった。また、Alvin Goldmanからは、証拠法の四つのカテゴリーの中で、ほかの三つではすこしは認識論的な考慮があるが、特権については認識論的考慮はまったく入ってこないのか、という質問があった。Steinの答えは、もともとは配偶者の証言は信頼できない、という認識論的な理由もあったが、現在では配偶者だけを特権化することの正当化にはならないと考えられる、というものだった。また、Sinnott-Armstorngからは、たとえば姉と弟が一緒に暮らしていて性的関係以外は事実上の配偶者として機能しているとしたとき、これはカップルに含まれるのかという質問があり、Steinはそうした関係も含められるように考えている、と答えた。
この発表については、Goldmanの質問にもあるように、結局あまり認識論的な話にならなかったため、若干カンファレンス全体の趣旨からもそれるものとなっているように感じた。ただ、もちろん法律の哲学の話題としては興味深い問題であろう。

本カンファレンスに参加して
これらの発表を通して、認識論的合理性とかなり違う合理性の基準が実際に運用されている証拠法の世界にふれることができたのは大きな収穫である。Sinnott-Armstrongも言うように、裁判というしくみの中での事実認定はけっして純粋に認識論的な作業ではなく、さまざまな価値観やコストの評価がついてまわる。このカンファレンスで発表者の多くが言及したダウバート基準は裁判というしくみの中で信頼性主義に近い考え方での証拠のルールを定めたものであるが、それにしても純粋に認識論的な判断を下しているわけではないことはHaackなどの分析からも明らかである。
もう一つ印象的だったのは、HaackやGoldmanやLaudanといったそうそうたる哲学者たちが、実際に証拠法をより哲学的に洗練されたものにするための積極的な提言をするつもりでこの研究にたずさわっているということであった。つまり、認識論的な合理性が証拠法的な合理性を尊重して道を譲るのではなく、証拠法の現状はおかしいからと改革を求める立場をとっているわけである。これは、リスク論で科学的合理性が社会的合理性の側にあわせるという考え方に慣れている身としては非常に新鮮に思えた。

1 Shauerにはすでに同じテーマを扱ったPlaying by the Rules: A Philosophical Examination of Rule-Based Decision-Making in Law and in Life (Oxford University Press, 1991)という著作があるので詳しくはそちらを参照されたい。

2 この裁判についてはたとえば以下のサイトに紹介がある
http://www.forensic-psych.com/articles/artGEJoiner.php

3 ダウバート基準についてはウィキペディアの英語版に詳しい記述があるとともにリソースへのリンクが存在する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Daubert_Standard

4 Bright, D. A. & Goodman-Delahunty, J. (2006). Gruesome Evidence and Emotion: Anger, Blame, and Jury Decision-making. Law and Human Behavior, 30, 183-202.

5 Jessica R Gurley, David K Marcus(2008) The effects of neuroimaging and brain injury on insanity defenses. Behav Sci Law, 26 (1):85-97


(本報告は文部科学省科学研究費補助金基盤研究B「科学技術リスク論の倫理学的研究」の一環として執筆されたものである)