『応用倫理学研究』第三号、1-17ページ、2006年

戦争倫理学における功利主義的思考
---現代功利主義からの議論の検討--- (註1

伊勢田哲治



キーワード
正戦論、パシフィズム、戦争の規則、功利主義、二層理論、義務論的戦争論




功利主義者たちは戦争の問題について何を言ってきただろうか、そして彼らの議論から我々は何を学ぶことができるであろうか。歴史を振り返るならば功利主義の戦争論としてはベンサムやシジウィックの著作があり、近年においてもR.M.ヘア、リチャード・ブラント、ジョナサン・グラバー、ピーター・シンガーらがそれぞれ数本の論文を発表している。本論文では、そうした文献の中でも、特に現代の著作を紹介・検討することを通じて、戦争倫理における功利主義的思考法の利点と欠点について考える。
戦争と倫理の関わりについては、大きくわけて、戦争を始めるのが正当化されるのはどういう場合なのか、あるいはそもそも正当化される戦争などないのか、をめぐる論争と、戦争の中ではどういう行為が許されてどういう行為が戦争といえどもゆるされないのか、を巡る論争がある。本論文では、まず、正戦論についての功利主義者たちの議論を紹介し、次に戦争の規則についての彼らの議論を紹介する。そののちに、戦争倫理学における功利主義的思考の利点、正戦論と戦争の規則を明確に区分することの意味、個々の戦争について功利主義者が発言する際に気をつけるべきことなどについて論じる。


1 功利主義と正戦論
まず正当化される戦争がありうるかという正戦論(just war theory)対パシフィズム(pacifism)の問題についての功利主義者たちの発言を概観・検討する。 (註2)ただし、功利主義者の議論を見る前に、彼らが議論の対象としている正戦論とその対案であるパシフィズム自体について簡単に見ておこう。

1-1 正戦論とパシフィズムの一般的特徴
まず正戦論とは何かを説明する。正戦論は正戦、すなわち正義の戦争(just war)というものがありうる、という立場であり、倫理学的には義務論や権利尊重の立場から展開されることが多い(Walzer2000など)。正戦論にはアウグスティヌスやトマス・アクィナスまでさかのぼる長い歴史があり、現在の正戦論における正戦の基準の原型はすでに『神学大全』にも見ることができる(加藤2003, p39-40)。現在の正戦論において典型的に受け入れられている基準はおおむね以下のようなものである (Orend 2002など)。

(1)正しい大義(just cause)のための戦争であること
(2)主権国家によって宣言されること
(3)その大義が戦争の動機となっていること
(4)十分な成功の見込みがあること
(5)戦争の目的が戦争の手段と釣り合っている(proportional)こと
(6)ほかに手段がないこと

各項目について簡単に解説をしておくと、(1)についてはしばしば「自衛」のみが正しい大義であるという条件が付加される。(2)はテロリズムなどを定義によって正戦から排除するための条件である。(3)は、大義を口実として自国の利益をはかるような戦争ではないことを保証するための条件である。(4)についてだが、成功の見込みのない戦争をすることは無駄な血を流すことになるため、この条件がつけられる。(5)はしばしば比例性の原理(principle of proportionality)と呼ばれるもので、(1)や(3)の条件が満たされたとしても、たいしたことのない大義のために悲惨な戦争を起こすことは認められないことを意味する。正戦論とは、結局、以上のような条件を満たした戦争であれば、その戦争を行うことは倫理的に許容できる、という立場だということになる。
次に、正戦論と対立するパシフィズムであるが、これは「絶対平和主義」とも訳される立場で、以上のような条件が満たされたとしても戦争をすることが倫理的に許容されることはありえない、と主張する。どんな限定された自衛戦争であれ、戦争を認める立場は本来の意味でのパシフィズムではないが、通常の正戦論が認めるより遥かに限定された極端な場面(実際にはほとんど起きないような場面)においてのみ自衛戦争などを認めるような立場もパシフィズムと呼ばれることがあるようである。その場合には絶対的パシフィズム(absolute pacifism)と条件付きパシフィズム(conditional pacifism)といった区別がなされる。
さて、この論争における功利主義の立場は、正戦論の伝統の中で比較的最近登場した少数意見という位置づけがもっとも妥当であろう。(註3) 正戦論は義務論的な立場から展開されることが多いが、功利主義的な根拠づけも可能である。実際、正戦の基準の一つである比例性の原理はあからさまに功利主義的な判断を行うことを要求しているように見える。(註4

1-2 グラバーの正戦論
以下では、現代の功利主義者のなかから、ジョナサン・グラバーとR.M.ヘアの正戦論に関する議論を紹介する。まず、一般的な功利主義のイメージにもっとも近い議論を展開している論者として、グラバーの議論をみて行こう(Glover 1977, ch.19)。グラバーは『死を引き起こすことと命を救うこと』の中で、かなりストレートな正戦論を展開している。(註5
グラバーは絶対的パシフィズムについては、人殺しの絶対的な禁止を戦争の文脈にまで拡張するため、立場の単純さと斉一性という点では優れていると評価はする。しかし、どんな大きな悲惨や不幸よりも生命の方が大事だという価値判断には承服できない。条件付きパシフィズム(グラバーはcontingent pacifism と呼ぶ)にはグラバーはかなり好意的であるが、たとえば第二次世界大戦で連合国側がそういう態度をとっていたらどうなっていたかを想像するように言う。もしかしたらこの12年はヒトラーの支配の最初の12年になっていたかもしれず、その後ずっとヒトラーの支配が続いたとしたら生じたであろう不幸よりも第二次大戦の不幸の方が小さかったという可能性は十分ある。つまり、実際に起こりうる状況に照らしても戦争を避けることが常によいとは限らない、とグラバーは言うわけである。
また、正戦論の中で大きな論点となる自衛戦争だけを認めるべきかどうかという論点についても、グラバーは、戦争を始めること自体が悪いと考える原理的な理由は存在しないという。さらに言えば、自衛戦争ならいつでも正当だとはいえず、まったく勝ち目のない戦争で無用な血を流すことのコストが大きすぎる場合もありうる。もちろん、戦争を始めた方が非難されるという慣習をつくり戦争をすることへの障壁を作るという意味では自衛戦争のみをみとめる決まりを作ることはよいが、そのメリット(特に個々の場面でその規則に従うべきかどうか)もあくまで他のコストとの比較で判断されなくてはならない。

1-3 二層理論と正戦論
グラバーのような比較的ストレートな正戦論に対して、ヘアの議論はより義務論的要素を取り入れている。
ヘアは1979年の「テロリズムについて」という論文では、功利主義というよりは普遍的指令主義の立場から、ナショナリズムに基づく戦争は普遍化できないとして否定的な見解を述べていた。しかし、その後、ヘアは、「哲学と実践:戦争と平和に関するいくつかの論点」と題する論文の中で愛国心の重要性を説く立場へと、かなり大きく方向転換をする(Hare 1985)。この論文の基調をなす二層理論について簡単に解説しておこう。
ヘアが『道徳的に考えること』で展開した二層理論(two level theory)は、規則功利主義からさらに進んで、ある規則に従うようなメンタリティや直観を養うことの重要性を打ち出す(Hare 1981)。二層理論そのものについて簡単に解説しておく。われわれは日常的には道徳的直観にもとづく比較的単純な規則(直観的規則)にしたがって生活している(これが直観的レベルと呼ばれる)が、道徳的思考のすべてがそうした思考ではありえない。というのも、直観的規則を選ぶ際や直観的規則同士が対立してしまう場合にはそうした直観を前提としないような道徳的思考(これが批判的レベルと呼ばれる)を行わなくてはならないからである。批判的レベルにおいては、理想的にはあらゆる情報と完全な推論能力の下で判断が行われることになり、ヘアは、そうした条件の下で直観的規則を前提とせずに道徳的な判断をしようとするならば、それは行為功利主義的思考とならざるをえないと考える。
二層理論の一つの特徴は自己消去的(self-effacing)な道徳的思考の可能性を認めるということである。自分の好きなときに功利計算に訴えてよいと直観的レベルで人々が考えている社会は、結果として批判レベルにおける功利主義の観点からみてもあまり望ましい社会とはいえない可能性が高いので、むしろ功利主義を嫌うような人が多くいる社会を功利主義が目指すことになる場合もありうる。また、二層理論は、例外性がはっきりしている状況では規則を停止して直接功利計算を行うことを認めるという点でも規則功利主義とは違っている。 (註6
この二層理論の観点からみると、家族や国家への忠誠心や、パシフィズムというメンタリティないし規則を我々が持つことの是非も功利主義的に判断されることになる。自分の家族や国家への忠誠心はそれ自体では普遍化可能ではない。しかし、「だれもが自分の家族や国家に忠誠心を持つべきだ」という指令は普遍化可能である。そして、忠誠心というメンタリティを一人一人が持つことは功利主義の観点から見ても望ましい。その根拠としては、政府が存在しないよりは存在した方がよい、しかし現在の状況では世界政府が成立する見込みはなく、世界の中には侵略的な国家も一定数存在する、といった状況認識が挙げられる。そうした世界においては政府を維持するためにある程度の忠誠心は必要である。しかし、他方、第一次世界大戦以前の西洋で一般的だったタイプの国家への忠誠心は、結局二度の世界大戦に世界を導くことになってしまった。ヘアは、現在そういう忠誠心があまり見られなくなったのは、そうした忠誠心の受容効用が低いことに人々自身が気づいたからではないかという(74)。
では、パシフィズムはどうだろうか。こうしたメンタリティを人々が持つことも基本的には望ましいので、パシフィズムを教えることは功利主義の観点からも認めうる(68)。つまり、義務論的な正戦論よりもむしろ二層理論の方が、絶対的パシフィズムに対して好意的だという逆説的な結果になる。
しかし、パシフィズムが忠誠心と対立する状況(特に、「ならず者」国家roguesが存在する状況)において、パシフィズム的メンタリティに従い続けることは低い受容効用を持つ、とヘアは考える(76)。また、核バランスが崩れることの帰結が深刻になりうることを考慮して、ヘアは軍縮運動にも危惧の念を表明している。85年当時の状況では、西側のみにおいて大きな反核運動が存在し、東側には存在しなかった。この状況が続けば、核のバランスがくずれ、核戦争が生じる可能性があるとヘアは危惧する。
忠誠心とパシフィズムのどちらにも限界がある、と考えるヘアは、この両者を折衷したメンタリティとして、「非攻撃的な愛国心」(non-aggressive kind of patriotism)を推奨する(p.74)。つまり、自分の国の政府の安定を維持し、他国から攻撃されたときに武器をとる程度の政府への忠誠心を人々が持つのが望ましいとヘアは考える。このメンタリティからは、少なくとも自衛のための戦争を支持することは国家や家族への忠誠心の発露として正当化される。ヘアが具体的に念頭に置くのは1982年のフォークランド紛争であるが、彼は、この戦争においてイギリスがアルゼンチンの侵略に対して防衛したのは全く間違っていなかった、と(自分自身の「非攻撃的愛国者」のメンタリティをもとに)主張する。同様にしてイラン・イラク戦争のイラン側の戦争もヘアは支持する。このように、ヘアは正戦論の中でもかなり許容度の広い立場へと変わっている。
以上のように、グラバーもヘアも(少なくとも80年代のヘアは)現実の戦争のあるもの(第二次世界大戦における連合国側やフォークランド紛争におけるイギリス側)について正戦である可能性を認めており、積極的な正戦論者であるといっていいだろう。しかし、彼らの評価が本当に客観的な功利計算の結果となっているかどうかは功利主義の内部でもかなり論争の余地があるところだろう。たとえば加藤は「戦争は粉飾決算で正当化されている」と述べ、きちんと情報公開がなされるなら戦争が比例性の原理を満たすことはあり得ないと論じている(加藤2005, p.209)。そうした意見も功利主義内部の意見として傾聴すべきであろう。また、第二次世界大戦における連合国側はまだしも、フォークランド紛争ではイギリスが反撃をしなければ死者はでなかったであろうから、通常の正戦論でイギリスの反撃が正戦に分類できるとは考えにくい。

2 戦争の規則
次に、戦争が一旦はじまったあとで許される行為、つまり戦争の規則(Rules of War)の問題について功利主義がなにを言えるのかをみていこう。(註7

2-1 戦争の規則の一般的特徴
戦争の規則についての考察もアクィナスらの正戦論以来連なる長い歴史を持つ(加藤2003、75ページ)。現在ではジュネーブ条約をはじめとした国際条約で戦争の規則はかなり明文化されており、通常以下のようなものが挙げられる。(Orend 2002など)

(1)非戦闘員(non-combatant, the innocent)に対する攻撃の禁止
(2)残虐な手段の禁止
(3)戦闘行為の目的が戦闘行為の手段と釣り合っていること

それぞれについて簡単に補足する。(1)は戦争の規則の中でも古くから存在するもので、通常は、いわゆる二重効果論をベースに、非戦闘員自体を標的とした攻撃と、戦闘員を標的とした攻撃に非戦闘員も巻き込まれる場合を区別し、前者のみを禁止する。(註8) (2)に関しては、核やBC兵器の禁止など、使用可能な武器についての禁止が典型的であるが、拷問やレイプの禁止などもここに含まれる。(3)は、たいしたことのない軍事目標の獲得のために大規模な戦闘行為を行うことは認められない、というルールであり、比例性の原理の一種である。
さて、以上のような戦争の規則について功利主義の側からは何が言えるだろうか。ここに挙げた三つの規則のうち、正戦の基準とも重なっている比例性の原理は、ここでも非常に功利主義的な判断を要求していることが指摘できる。しかしもちろん、非戦闘員の攻撃や手段の制限という規則を義務の問題として捉えるなら、義務論の要素もこれらの規則には含まれることになる。功利主義がこうした部分にどういう態度をとるかについてはやはり実際の功利主義者の言説を見る必要があるだろう。
戦争の規則についての功利主義側の態度表明としては、創刊された当初のPhilosophy and Public Affairs誌上で1972年にかわされた論争がよく知られている。この論争においては、トマス・ネーゲルの義務論的議論に対して功利主義者のリチャード・ブラントとヘアがそれぞれの立場から反論を寄せている。さらにこの論争に対してはジョナサン・グラバーも数年後にコメントしており、それも以下で見ることにしよう。

2-2 ネーゲルによる功利主義批判
まず本論文の目的と関わる範囲でネーゲルの議論を見てみよう(Nagel 1972)。ネーゲルは戦争倫理における自分の立場を「絶対主義」と呼ぶ。ただし、彼のいうところの絶対主義とは、行為の結果何がおきるかへの配慮ではなく、どういう行為をしているかに対する配慮を優先する立場だとのことなので、通常は義務論と呼ばれる立場をさしていると考えてよい(124)。彼が依拠する基本原理は「他の人格に対して意図的に行うことは、主体としての相手に対して、相手が主体としてそれを受け取るという意図のもとに行われなくてはならない」という原則である(p.136)。彼はこれをベースにして、戦争においてある種の行動は決して認められないと主張する。具体的には、ネーゲルは、非戦闘員を攻撃することは、その相手自身を主体とみなして攻撃を行っているわけではなく、戦闘員を足止めするための単なる道具として使っていることになるので認められないと考える(139)。(註9)また、不必要な苦痛を与える兵器を使うことはいかなる場合にも認められないとする(141)。
これに対して、功利主義は結果によって行為の善悪を判断する。功利主義的な考え方もまた多くの人が道徳的直観としてもっており、しかも絶対主義と功利主義という二つの道徳的な直観は相互に対立するとネーゲルは考える。戦争の規則に関しても、たとえば非戦闘員への攻撃の禁止や非人道的な兵器の禁止が功利主義の観点からも事実上正当化されることはネーゲルも認めるが、功利主義からはこうした禁止は決して破ってはならない規則とはならないため、破ってよい状況かどうかについての解釈の余地が存在することになる。そのため、功利主義的な議論は「大量殺戮兵器の使用がいったん道徳的に真剣な可能性となったならば、そうした兵器の採用や使用を防ぐには不十分である」(124)とネーゲルはいう。
ただし、ネーゲルは功利主義をささえる直観が強いことを認めるため、功利主義を全面否定はしない。むしろ、ネーゲルの功利主義への批判は、極端な事例において、功利主義だけでは規則を絶対的なものとして保持できないため、歯止めとなるものが何か必要である、という点にある。そして、ネーゲルの言うところの絶対主義は「大規模な殺人の功利主義的な擁護論の奈落に落ちる前の唯一の障壁」であることが多い(126)。だからこそ、功利主義的直観と共に絶対主義的直観も失ってはならない、とネーゲルは考えるのである。このように、ネーゲルは折衷主義的に功利主義を批判しているのである。

2-3 ブラントのネーゲルに対する反論
このネーゲルの論文に対し、ブラントから規則功利主義的な反論が、ヘアとグラバーから行為功利主義的な反論がなされた。まずブラントの方からみて行こう(Brandt 1972)。
ブラントがこの論文で採用するのは「契約説的なタイプの規則功利主義」である(145)。「契約説的」というのは、規則功利主義的な規則は「合理的で無私な人間なら選ぶはずの規則」だと考えるからである(p.149)。この立場からすると、ネーゲルの功利主義への批判はあたっていない。すなわち、「規則功利主義者なら、ある種の行動はどんな状況においても絶対的に道徳的に禁止されるという点でネーゲルに同意するということが十分ありうる」とブラントは言う(146)。
契約説的な思考は、実際にハーグ条約に調印する際に人々が考えなくてはならなかった思考と非常に近い、とブラントは言う。そこでは、将来自分の国がどういう立場に立つか分からないという「無知のベール」のもとで戦争の規則が選ばれることになる(p.151)。そこで結局選ばれるのは、戦争する両国の期待効用を最大化するような規則、つまり規則功利主義的な規則なのである。
では、規則功利主義が認めるような規則とはどういうものなのだろうか。ブラントは規則功利主義の観点から戦争の規則を三つに大別する。それは
(1)軍事作戦上の損失がほとんどないような人道的制限
(2)軍事上の勝利にとって負担となりうるような人道的制限
(3)人道的な理由による軍事上の損失の受容
の三つである(154-161)。(1)に分類されるのは占領地の略奪や捕虜の虐待などで、これは規則功利主義の観点から全面禁止するのに特に問題はない。(3)に分類されるのは、人道的制限が軍事的損失は生むが、勝敗には影響しないような状況であり、ブラントは日本への原爆投下はこのカテゴリーに含まれると考える。ブラントは、こういう状況についても人道的制限を要求する規則が功利主義的に認められるだろうと考える。(註10
(2)のグループには戦争の行方に関係するような文脈での非戦闘員を対象とした攻撃などが含まれ、これが一番判断として難しい。このグループについては、禁止するかどうかの判断に、利益と損失の比較考量が必要となる。そこでブラントは一般原則として次のものを挙げる。「勝利が関係者全員に対して持つ効用と、もしその行為が実行された場合の勝利の確率の上昇とを掛け合わせたものが、その行為の両陣営へあたえうる反効用と、その確率を掛けたものよりも大きい場合にのみ、ある軍事行動は許容される」(157)。これは、期待効用計算の要素が入っているためにわかりにくくなってはいるが、比例性の原理の一種であることは容易に見てとれるであろう。また、勝利することの効用といえば、通常は勝利する側のみにとっての効用を考えるが、この一般的な形においては「関係者全員」(all concerned)が潜在的な受益者ととらえられている。また、ブラント自身注意を引いているように、この規則は個々の行為について判断するための基準であるため、行為功利主義的な側面を持っている。つまり、この場合、規則功利主義で選んだ基準がそれ自体行為功利主義的なものとなっている。(註11
ブラントは、以上のような考え方が決して非現実的なものではないことを示すため、アメリカの軍規やハーグ条約はすでにこの精神にのっとっている、と指摘する。たとえば、アメリカの軍規には「生命の損失や財産への損害は、それによって得られる軍事上の利益に対して不釣り合いなほど大きいものであってはならない」という条項があり、ここでは功利主義的な計算が要求されている(p.156)。

2-4 ヘアやグラバーによる議論
ブラントに対する補足として、ヘアは二層理論型行為功利主義の視点からの議論を行う(Hare 1972)。(註12
ヘアは、ネーゲルが考えるような「絶対的」規則が功利主義から導きだせると考える点でブラントに同意しており、その方策もまた二層的な思考法を採用する、という点で同じである。ただし、「絶対的な規則」を、文字通り例外を認めない規則と理解するブラントと比べると、ヘアは、そうした規則を絶対的なものとみなされる規則として捉えているようである。その結果、ヘアはそうした規則を絶対的だと考えることの心理的効果の方を強調する。つまり、規則が気軽に破られること自体のデメリットを考えれば、規則は何があっても破らないという意識が浸透していることが功利主義的にみて望ましいというだけのことなのである。
そのため、一般的原理どうしが対立したり、あるいは「状況があまりに特別であるために一般的原理の適用が最善とは考えにくいと強くさししめすものがあるなら」そうした一般的原理は停止されて高次のレベルの判断(行為功利主義的な判断)がくだされることになる(56)。ブラントと違い、ヘアは具体的な戦争の規則の内容には立ち入らないが、おおむねブラントの判断には同意できるとしている。
この点でグラバーはさらに一歩立ち入り、既存の戦争の規則への批判を行っている(Glover 1977, 273-279)。彼によれば、一律に非戦闘員への攻撃を否定したり、特定の兵器だけを禁止したりするのは恣意的である。非戦闘員への攻撃については、行為と不作為の区別のあいまいさ、戦闘員と非戦闘員の区別のあいまいさ、といった問題がある上に、仮に線が引けたとしてもその線が道徳的に重要だと示すのは非常に難しい。兵器の制限についても、制限対象になっていない兵器で制限された兵器よりも大きな苦痛を引き起こすこともできるであろう。もちろん、そうした戦争の規則を持つことが有用であることはグラバーも認めるが、例外的な状況においてまで絶対遵守すべきような性格のものではないとグラバーは考える。

2-5 功利主義的「戦争の規則」論の適用
以上のように功利主義的「戦争の規則」論は、根拠が曖昧となりがちな戦争の規則に対して、積極的に根拠を与え、場合によっては批判的な検討を加えるという作業を行ってきている。そうした営みは現実の戦争に対する批判の視点としても力を持つであろう。
そうした批判の試みとして近年で目立つのはピーター・シンガーによるイラク戦争批判である(Singer 2003)。シンガーが批判の視点として訴えるのは、比例性の原理、すなわち「戦争が正当化されるためには、死や破壊といった戦争のコストはそれによって得られる善を超えるものであってはならない」という基準である。ブラントと比べると期待効用計算という側面が前面に出てはいないが、基本的には同じ原理に訴えていることになる。
この基準に照らすと、アメリカ軍は、アフガニスタンやイラクで、比較的小さいリスクを避けるために民間人に危害を加える可能性のある攻撃(たとえば通りかかったトラックを攻撃するなど)を行っており、明らかに比例性の原理に反している,とシンガーは言う。
シンガーはまた、そうした作戦行動がとられる背景にはアメリカ人の命はアフガニスタン人やイラン人よりも重いという考え方が存在しているとも指摘する。実はシンガーの論考のタイトルは「一つの命を別の命よりも重要視することは決して正当化されない」というものであり、比例性が守られていないことよりも、そのベースとして平等な配慮が欠けていることこそが批判のポイントであることがわかる。これは、シンガー流の功利主義の基本的な立場(平等な配慮の原理)とも整合する点である。

3功利主義的正戦論の利点
以上のような既存の議論をふまえると、功利主義から戦争について何が言えるのだろうか。まず、功利主義的正戦論の利点を確認しよう。

3-1 概念的な首尾一貫性
戦争倫理という領域は、応用倫理学の一分野としてみた時、きわだった特徴を持つ。それは、人間の生命がトレードオフの対象になりうることが議論の前提となっている領域だということである。こうした領域において概念的に首尾一貫した立場としては功利主義はきわだっている。
通常の義務論を戦争にあてはめるなら、戦争において行われることは殺人、すなわち「無実の人を殺すこと」であり、そのことは先に挙げたような正戦の基準を満たしていても変わらないはずである。したがって、いわゆる正戦もまた殺人行為であり、非難の対象となる。つまり通常の義務論の延長で考える限り、パシフィズムがもっとも自然な立場なのである。
にもかかわらず、現代の英米の戦争倫理は義務論系の正戦論が主流である。そうした立場を可能とするため、「無実」(innocent)という言葉の定義は日常の文脈と戦争の文脈で変化させられている。通常は「無実」といえば何らの罪も犯していないということであるが、戦争倫理学の文脈では、戦闘員になるという意思表示をした瞬間にその人は(なんらの罪も犯していなくても)「無実」ではなくなってしまう。だからこそ戦闘員を殺すことは戦争という文脈では「殺人」ではなくなるのである。これならば確かに、非戦闘員を意図的な攻撃の対象にしないかぎりは「無実の人を殺してはならない」という規則を破ったことにはならない。しかし、このようにして「無実」という言葉の意味を変更すること自体、パシフィズムの立場からすれば非常に恣意的なルール変更であろう。そして、この点でパシフィズムに反論しようとするなら、結局、正戦によって得られる利益(あるいはあらゆる戦争を禁じることによって生じる災厄)を持ち出さざるをえないであろうが、それは結局正戦による利益と、「無実」という概念の変更によって奪うことが正当化されるようになる人命とのトレードオフを行っているということになるであろう。
このようなトレードオフは義務論自体の内部で処理できるとは考えにくい。つまり、義務の体系を正当化するという文脈では功利主義的な考慮が必要なのである。そして、これこそブラントやヘアが彼らの論文の中で繰り返し強調していた点にほかならない。

3-2 義務論的戦争論における功利主義的要素
第二に、功利主義は義務論的な正戦論の性格を理解するためにも重要である。正戦の基準にしても戦争の規則にしても、義務論的な要素(「絶対的規則」)と功利計算の要素(比例性の原理)が混在している。ネーゲルはそれを二つの直観が対立しながら共存していると解釈したわけであるが、功利主義(特に規則功利主義や二層理論)からはそうした緊張関係を前提する必要はない。
戦争の規則についての功利主義的な議論は、実は義務論的な立場の代表格であるマイケル・ウォルツァーの議論とそれほど大きくかけ離れるものではない。ウォルツァーは、非戦闘員への攻撃の禁止という条項について、基本的には非戦闘員はいかなる場合にも攻撃の対象とされてはならないと主張する一方で、「最高度の緊急事態」(supreme emergencies)においては例外が認められうるという例外規定を認めている(Walzer 2000, 251-268)。ロールズもウォルツァーの議論を踏襲して「最高度の緊急事態」には戦争の規則に例外が認められるとしている(Rawls 1999, 98-103)。普通、義務論といえば、功利主義が例外的な状況においては義務を停止することを認めるといって非難する側であるが、こと戦争倫理に関しては、実は義務論の側が積極的に義務の停止を容認する議論をしているのである。
ウォルツァー自身は、最高度の緊急事態を狭く定義することで功利主義的な計算と一線を画しているつもりのようであるが、実際の功利主義者たちの判断を見る限り、両者の差はあまりない。「最高度の緊急事態」かどうかは、切迫していることと重大であることの二つの軸において評価され、条件が満たされた可能性がある例として挙げられるのは第二次大戦の初期のイギリスの置かれた状況などである。しかし実は功利主義者のグラバーが現行の規則を破るのが認められるかもしれないと言うのもほぼ同じ状況を想定してのことである(Glover 1977, 279 とWalzer 2000, 255以下を比較せよ)。また、ウォルツァーとロールズはこの基準を第二次大戦末期のアメリカの日本本土爆撃や原爆投下にあてはめ、二人とも、「最高度の緊急事態」の条件はまったく満たされていなかったと判断している。その結果、彼らは当時のアメリカ政府を厳しく批判することになる。ウォルツァーはここでのアメリカ政府の判断を「功利主義的計算」と形容して、「最高度の緊急事態」条項と対比する。しかし、イラク戦争を批判するシンガーの議論や戦争の規則についてのブラントの見解を見るかぎり、彼らがこの時点でのアメリカ政府の判断に同意するとは考えにくい。
ウォルツァーの例外規定が持つ功利主義的側面がウォルツァーの義務論的枠組みと矛盾するということを一つの理由として、「最高度の緊急事態」という考え方を否定する論者もいる (Bellamy 2004)。しかし、二層理論の観点からは、例外規定と通常規定を含めたウォルツァーの議論全体が二層理論的功利主義の立場だと理解することもでき、そこには特に矛盾はない。

3-3 文化的な中立性
正戦論を功利主義的基礎のもとに理解することには別の利点もある。現代における戦争はしばしば異なる文化を持つ国同士の間で戦われるが、どのような義務が戦争において守られるべきかについての認識においても文化的な差異が存在するだろう。そうした差異があるときに、単に一方の文化の押しつけという形でなく正戦の基準を定めようと思うなら、その基準の根拠は対立する文化間で共通の了解となりうるものでなくてはならないだろう。功利主義が依拠する直観、たとえば不幸であるよりも幸福である方がよいという直観は、「幸福」という概念を十分に広く理解するなら、そうした共通了解の候補だと思われる。幸福だけしか判断基準にしないという「情報面でのケチくささ」は功利主義への批判の一つの定番となっている(川本1995, 21)が、異文化間の共通項を発見するという文脈では、かえってそうしたけちくささが力を発揮することになるはずである。

3-4 「戦争」の多様化への対応
功利主義のもつ柔軟性はまた、戦争というものの性質が変わったときの対応能力としても現れる。
この問題は特に、現在のアメリカ政府がしばしば使う「テロとの戦争」(war against terrorism)という表現を考える上で重要になってくる。テロリズムは基本的には国家以外の集団によって行われるので、正式な開戦を経ずに戦闘行為だけが存在することになる。そうなると、テロを行う側はもちろん、テロに反撃する側の行動も正戦の定義を満たさなくなってしまう(分類するならば犯罪に対する警察活動の一種ということになる)。
こうした状況は、義務論的な正戦論にとっては、戦争をめぐる義務の体系そのものの見直しを迫られる、かなり根本的な問題である。正戦であれば(少なくとも戦争の規則上は)認められる相手方戦闘員の殺害も、テロリズムへの対応においては正当化が非常に難しくなる。つまり、もし「テロとの戦争」が「戦争」(しかも正戦)だというなら、正戦の定義自体を変える必要があるのである。
しかし、功利主義の観点からは、こうした問題は正戦論の文脈と戦争の規則の文脈を統合することで対応が可能であろう。もしも比例性の原理を両方の主要な要素ととらえるのであれば、実は厳格な区別は必要ないことになるであろう。戦争を起こすことに関する基準も戦争中の行為についての規則も規則功利主義の同じ枠組みの中にあり、正戦の基準をみたさない戦闘行為も場合によって比例性の原理によって正当化される可能性を考慮することはできる(もちろんそういう判断には慎重にならなくてはならないのはいうまでもない)。実際、シンガーの論考を見ると、彼の挙げる比例性の原理は、正戦の基準としても戦争の規則としても使える非常に一般的な形になっている。つまり、功利主義から見ると、「テロとの戦争」も、特に新しい状況が発生したと見なす必要はないわけである。
ウィットマンはさらにすすんで、そうした形で統合しなければ、正戦の基準と戦争の規則は潜在的なジレンマを内包してしまう、と考え、両者を区別する義務論的正戦論は不整合であると示唆する (Whitman 1993)。というのも、もしある戦争が正しい目的のためのものであるなら、その戦争に勝つのが望ましいはずだが、戦争の規則に厳格に従うことは、場合によって勝利の可能性を減らすことがありうるからである。もっとも、義務論的戦争倫理の観点からは義務の葛藤の調停という形でこの問題は解決できるはずであり、功利主義的な統合が必要だというウィットマンの主張は行き過ぎのきらいがある。

4 功利主義的戦争倫理はどうあるべきか
以上のような利点があったとしても、功利主義的な戦争論には考えなくてはならない問題が数多く残っている。そのいくつかを以下で見ていこう。
本論文での分析から浮かび上がってくるのは、同じ功利主義的な立場からの戦争倫理といえども、論者によって実践的な含意においてかなりの差があるということである。一方ではグラバーのように功利の原理をかなりストレートに当てはめて論じるものもあれば、80年代のヘアのように、具体例の分析では愛国心といった二次的原則を重視する者もある。グラバーやヘアのように現実の戦争に対して許容的な論者もあれば、加藤のように功利主義の観点からパシフィズムよりの議論をする論者もある。
この差は当然ながら現実の戦争への評価にもあらわれる。シンガーはイラク戦争でのアメリカ軍の行動が比例性の原理に違反しているとして批判するが、80年代のヘアのように「非攻撃的な愛国心」を強調する立場からは、あくまでアメリカを守るための戦争と考えるならイラク戦争も支持できることになるであろう。逆にシンガーはフォークランド紛争におけるイギリス側の軍事行動を非難する可能性が十分にある。
シンガーとヘアの差は、功利計算のベースとなる事実認識(特に愛国心といったメンタリティの有用性)における差という側面もあるだろう。しかしそれ以上に、比例性の原理のような功利主義的計算を直接あてはめるか、二層理論をとおして間接的に功利主義を使うかという戦略の差が大きく影響しているようにも思われる。
では、功利主義者は戦争倫理においてどちらの態度をとるべきなのだろうか。実はどちらにも長短があり、これは一概には言えなさそうである。一方で、二層理論というまったく同じ理論装置を使っても、パシフィスト的メンタリティの効用を重視するなら、フォークランド紛争について全く逆の判断を下していた可能性はあるし、われわれの手に入る情報からいって、愛国心とパシフィズムのどちらの効用がどれだけ大きいかについて一概に答えがでるようには思えない。そういう状況でのヘアの態度はかなり安易に見える。意地悪に見れば、ヘア自身がフォークランド紛争におけるイギリスの立場を支持したいために愛国心を強調するような理論を後づけで立てているようにも見える。この点で、直接計算しやすい人命について比較を行うシンガーの議論は、曖昧な部分が少なくてよいように思われる。
しかし、他方で、シンガーやグラバーのように、二層理論的発想が欠けた功利主義には別の危険性がある。彼らももちろん規則を持つことの重要性は認めるわけだが、彼のようにあらゆる局面で行為功利主義的配慮を介入させることを認めると、どんな規則に対する侵犯も正当化する口実として功利主義が利用されてしまうのではないか、というネーゲルのような心配が現実のものとなりかねない。もちろんシンガー自身はそういう使い方をしないにしても、第三者による悪用の余地を開いてしまいかねない。
ただし、以上のような問題は、どういう戦争の規則が必要か、といった問題についての義務論的な戦争倫理にも共通して存在する問題である。功利主義の方が、最終的には功利計算によって正当化しなくてはならないという拘束がある分、直観だけにうったえてどういう義務を作るか論じるよりも意見の一致を得やすいのではないだろうか。
結局、問題は、現実の戦争は利害関係が生々しすぎて、功利主義者といえども自分のナショナリティや政治的立場によって功利主義者としての判断が影響されてしまうということにありそうである。
となると、実は、具体的な戦争には言及せずに一般論としてどういう戦争の(絶対的)規則があるべきかを考察するブラントのような立場が、実は功利主義者が行う貢献として理想的なのかもしれない。行為功利主義的な計算はあくまで文脈を限って行うように事前に規則を定めておくなら、ネーゲルのような心配も回避することができる(これもブラントの立場である)。
本論文では、正戦論に関するグラバーやヘアの議論、戦争の規則に関するブラントらの議論をまとめ、現代の功利主義者が戦争倫理について何を言ってきたかをまとめてきた。検討においては、そのような功利主義的な視点の持つ利点とともに危険性もまた指摘した。しかし、利点の多さを考えるなら、戦争倫理の問題についてはもっと功利主義的な立場からの発言があるべきである。



註1 本稿は、2005年3月29日に行われた日本イギリス哲学会第29回研究大会シンポジウム「近代イギリス思想における戦争と平和」における提題「現代功利主義は戦争の倫理性について何を言えるか」を改稿したものである。当日参加された皆さんには大変貴重な意見を多くいただいた。また、本誌のレフェリーの方二人には大変有益なコメントをいただいた。合わせて謝意を表したい。

註2  なお、正戦論よりもさらに広範囲に戦争を認める立場もあり、現実主義(realism)と呼ばれるが、本論文ではもっぱら正戦論とパシフィズムを中心に考えて行く。

註3 比較的最近といっても、功利主義者による体系的な正戦論の伝統は100年以上はさかのぼる。Sidgwick 1891 ch. XVI参照。

註4  例外的に、ベンサムは戦争をなくしていくために植民地を放棄することなどを盛り込んだ「恒久平和実現のプラン」を発表するなどして、パシフィズムを標榜しているように見える(Bentham 1789,ただし、Bowring版ベンサム全集のこの部分は、編者であるボウリングにより再編集と加筆がなされている疑いがあり、ベンサム自身の立場を知る上では注意して使う必要があるとのことである(Hoogensen 2001参照)。しかし、他の文脈ではベンサムは自衛の戦争を認めるような発言をしているとのことであり、彼ですらも、絶対的パシフィストではない(Conway 1989)。

註5  ただしグラバー自身は、功利主義的な考慮だけからは殺人を禁止する直接の理由がなくなるため、自律の尊重も殺人に反対する理由として考慮されるべきだと考える(Glover 1977, Ch 4-5)。その意味では彼は単純な功利主義ではないが、正戦論の文脈で彼の言うことに関しては、自律という視点を取り入れたことは特に影響していないように見受けられる。

註6  二層理論において、一方で功利主義を嫌うメンタリティを養いながら他方で例外的な場合に功利計算を直接行える柔軟性を維持する、という二重性が存在することについて、こうした二重性をどう実現するかについて疑問視する論者もいる。しかしヘアは、実際にはそれほど難しくない、として特に問題だとは感じていない。Williams 1988およびHare 1988参照。

註7  正戦論を前提とした文脈では戦争開始における正義(jus ad bellum)と戦争遂行における正義(jus in bello)を区別するため、厳密にいえば、戦争の規則も両方に対応したものが存在する。ただし、狭義には戦争遂行における正義にかかわる規則が戦争の規則と呼ばれているようであり、ここでもその用法に従い、戦争開始における正義を規定する規則は「正戦の基準」とよぶことにする。また、戦争をいつ終わらせるか、戦後処理をどうするかといった問題にかかわる戦争後の正義(jus post bellum)という概念も近年では重視されるようになってきている(Orend 2002)。

註8  二重効果論とは、よい意図のために何かをする場合、悪い副次的影響があることが分かった上でその行為を行っても、行為のよさは損なわれない、という議論である。ただし、よい結果をもたらすための中間段階として悪い副次的影響が必要な行為は二重効果論でも正当化されない。

註9  これに対して、戦闘員との間には、「自分が死ぬか相手が死ぬかだ」という相互了解(「おれとお前の関係」、I-thou relationship)が成立しうる(Nagel 1972, 137, 138, n.)。これはカント的な目的自体の定式とはひと味違うネーゲルの興味深い立場であるが、功利主義について検討するという本論文の目的からはずれるため、ここではこれ以上の考察はしない。

註10  ということは、間接的にブラントはここでアメリカの原爆投下は過ちだったと言っているようである。しかし、あとで触れるウォルツァーやロールズと違い、ブラントはその問題には踏み込まない。

註11 グラバーは、非戦闘員に対する攻撃の問題について、ブラントが比例性の原理ばかりを強調しすぎており、現場に判断の余地を残しすぎていると批判している(Glover 1977, 273-279)。しかし、ブラント自身の文章を丁寧に見ると、ブラントは比例性の原理を(1)(2)(3)と分けたうちの(2)においてのみ直接使われるものとして提案しているようである。つまり、戦争全体の勝敗に直接影響しないような場面では非戦闘員への攻撃は絶対的に禁止されているわけであり、グラバーの読み方は若干ブラントに対してアンフェアだと思われる。

註12 正確にいえば、ヘアはこの論文で五つの道徳理論(理想的観察者理論、一般的規則功利主義、特殊的規則功利主義、行為功利主義、普遍的指令主義)をあげ、そのすべてでこの問題について同じ結論が出ると主張する。しかしもちろん一般的な規則功利主義と行為功利主義では例外の扱いが違うはずであり、その点ではヘアの判断は二層理論を前提とした行為功利主義(ヘア自身が後に完成させた立場)に最も近い(特にHare 1972, 55-56)。

文献


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