戸田山和久『知識の哲学』へのコメント

伊勢田哲治



『知識の哲学』における著者の主張

第三部冒頭のまとめによると、
(1)本書第一部でたどり着いた立場はラディカルな外在主義である。
(2)本書第二部の結論は「伝統的な知識の哲学が内在主義的で基礎づけ主義的になってしまったのは・・・根本的に方針を間違えたからだ」(p.152)
終章によると、新しい認識論は以下のようなもので「なくてはならない」(p.241)
(3)新しい認識論は自然化された認識論である
(4)新しい認識論は社会化された認識論である
(5)新しい認識論は「信念」を中心概念にしない
(6)新しい認識論は「真理」を中心概念としなくなる(かもしれない)

以下、本当にそんなことが本書の分析から言えているのかどうか、個別に検討していく。
(・で始まる段落は戸田山氏の主張、→で始まる段落は伊勢田のコメント)

(1)について
pp. 70-73
正当化という要件を放棄するラディカルな外在主義が魅力的だと考える理由
・個人としては正当化を与えられないが知識を持つ場合がある
・動物は正当化を与えられないが知識を持つ場合がある

→哲学で問題となる「知識」と日常語の「知識」は一致する必要はないのでは。「信念」については日常語と哲学用語の区別を認めているのだし。
→これらの事例が否定するのはどちらかといえば個人主義であって、内在主義ではないのではないか。認知共同体が共同体として正当化を行えなくてはならない、という社会化された内在主義についてはどう考えるか。
→「知識とは何か」への答えとしての外在主義と、認識論上の立場としての外在主義は分ける必要があるかもしれない。認識論が規範的な営みであるなら、問題となるのは、何が知識か、ということ以前に、何を信じるのが正当化されているか、ということであるはず。それならば、知識の分析としての外在主義は受け入れつつ認識論上の立場としての外在主義は問題外として却下することもあり得る。
→ドレツキの議論もノージックの議論もそれぞれ問題が指摘されているわけだが、ラディカルな外在主義で本当に満足のいく立場は存在するのか。
→ラディカルな外在主義の考える知識は、反省的レベルで到達不可能な無用の長物なのではないか。(つまり、現に世界がどうあるかということは最終的にはわからないので、「この信念は知識だろうか」という反省を行う際に、なんら指針として役に立たないのではないか)。また、指針として使える部分は、結局その信念の正当化(個人主義的ではなく社会的な内在主義における)の基準ということになるのではないか。

(2)について
pp. 152-154
・デカルトの懐疑主義への回答は内在主義的で基礎づけ主義的で根本的に間違っていた。
・正しい答え方は「日常的で健全な疑いを知識の不可能性へと膨らませる論証の筋道のどこがおかしいかというもの」
・ノージックの閉包原理批判などが正しい答え方の例

→デカルトの議論がこういう特徴を持つからといって「伝統的な知識の哲学が内在主義的で基礎づけ主義的になってしまったのは・・・根本的に方針を間違えたからだ」などと言えるだろうか?内在主義や基礎づけ主義が出てきた理由は、信念の正当化を求めたいという動機からも十分説明できる。
→正しい答え方としては、単に、懐疑論はたいていの文脈でrelevant alternativeではない、というだけでいいのでは。だとすれば問題なのは「論証の筋道」ではなく、関心の差。ある特定の(近代西洋認識論という)文脈では「水槽の中の脳」がrelevant alternativeになるが普通はならない。
→閉包原理にはたらいてほしい場面(他の選択肢が排除できていないというまさにその理由によってある信念が知識であることを否定したい場面)があるのでは?

(3)について
自然化された認識論の基本テーゼ
・「いかにして信念に到達するべきか」という問いは「どのようにして信念に到達しているか」という問いと独立には答えられない。(p.174)どのように知識を獲得すべきかについての回答はつねにどのように知識を獲得しているかについてのデータによってテストされなくてはならない。(p.241)
p.178-190 認識論を自然化する理由
・万学の基礎をなす第一哲学というのは誇大妄想
・認識論の課題は科学的知識を前提として生じてくる問題なのだから、科学の資源を使って答えてかまわない。

→規範的主張を経験的事実によって「テスト」することはそもそも可能なのか?両者の関係は「正当化の文脈」モデルよりも「発見の文脈」モデルで理解した方がよいのでは。
→デカルトも「夢」に関する信念といった「どのように信念に到達しているか」の情報を使っているが、彼も自然化された認識論をやっているのか。
→基礎づけ主義は本当に失敗したのか?穏健な基礎づけ主義で、かつ懐疑論への回答を主要な課題としないような立場ならば自然化せずに(つまりテストとしては経験的事実を使わないような形で)遂行可能では?
→科学に触発された疑問だからといって科学の知識を使ってよいということになるのか?聖書に触発されて進化論に疑問をもった人は聖書を前提として使ってよいのか?そういう場合、なるべく問題となっている当の主張を使わない、というのはむしろ自然な立場では?

(4)について
認識論を社会化する理由
・エキスパートへの認識論的依存(pp. 220-225)
・認識論的作業の分業(pp. 226-229)
・心的内容の外在主義(pp.229-233)
・現実の科学者集団の振る舞いと科学全体の持つ合理性の橋渡し(pp.245-248) 

→総論としては賛成。
→心的内容の外在主義からの議論は本当に「知識の社会性をまじめに考えなければならないより深い理由」(p.233)になっているだろうか?「いかにして信念に到達するべきか」という認識論の問いから考えれば、大事なのはこの意味の信念内容ではなく、「信念内容のうちわれわれにコントロールできる部分」なのでは?

(5)について
・コネクショニズムのある立場によれば信念などそもそもない(p.235)
・データベース中にしかない知識、図書館に蓄えられた知識など、個人の信念ではない知識もある(p.248)

→仮に(客観的にみて)自由意志が存在しなくても、一人称の立場からの「われわれはいかに行為すべきか」という問いが消滅しないのと同様、仮に(客観的にみて)信念なるものが存在しなくても、一人称の立場からの「われわれは何を信じるべきか」という問いは消滅しない。
→「データベース中にしかない知識」を知識と認めることになにかメリットはあるのか。「情報」と「知識」を分けて考えた方がいいのでは?

(6)について
真理が中心概念でなくなるかもしれない理由
・知識と思考の文モデルが認知科学で否定されるなら、「正確な表象」もまた認知活動の目的とはならなくなる(p.250)
・真理は生存に寄与しないかもしれない、というスティッチの議論(pp.189-192)
・真理には内在的価値はない、というスティッチの議論(pp. 200-214)

→認識論にとっては真理よりは正当化の方が大事だ、という意味ではこの主張には賛成。ただ、そうすると外在主義よりは内在主義をとることになると思うのだが。
→戸田山氏がスティッチの議論にどれだけコミットしているかは不明だが、スティッチの議論にはいろいろ妙な点がある。
→「われわれの正当化概念が恣意的でごく局所的であることが理解されると、たいていの人はそれに内在的価値があるとは思わなくなる」(p.201)というが、西洋美術についておなじことを文化人類学者が発見したとき、西洋美術の「美しさ」は認められなくなっただろうか?むしろ多様な美しさ(内在的価値の多元主義)を認める方向に変化したのでは。同じことが認識的価値についても言えそう。
→「信念と真理条件を結びつける解釈関数が部分的で恣意的」(p.212)だから真なる信念に価値を認めるのが「保守的」(同)だとか「ローカル」(同)だというのはそもそも何を問題にしているのかわからない。まず、われわれにとって決定可能な範囲での恣意性については、そうやって真理条件を特定したあとの信念ができるだけ真であることを目指す、というので何も変なところはないのではないか。英語を訳す際、electronとatomのどちらを「原子」と訳しどちらを「電子」を訳すかはある意味で恣意的だが、一旦訳語を決めたあとその訳語の下での正確な翻訳を心がけるのははたして(その恣意性のゆえに)「ローカル」で「保守的」になるだろうか。われわれの力の及ばない部分の真理条件については「いかにして信念に到達するべきか」という課題とは関係ないという意味では確かに無視してよいが、それなら伝統的内在主義で十分。
→「伝統的認識論」が「ある特定の文化に根ざしたローカルな営み」(p.213)だというのは間違いないが、伝統的認識論は真理だけを価値としているわけではない。ゴールドマンの認識的価値の議論など参照のこと。スピード、パワーなどさまざまな尺度が暗黙のうちに存在している。


まとめると、戸田山氏の主張は以下のような穏健な基礎付け主義・非個人主義的内在主義・非自然主義の立場(って、私の立場なんですが)の成立可能性を十分に考慮していない。
[1] 認識論の中心課題として「われわれはいかにして信念に到達するべきか」をおき、「どのように信念に到達しているか」についての情報は発見的にのみ使う。中心的関心は「真理」ではなく「正当化」におく。
[2] 懐疑主義は、上記の問いのsubproblem として扱い、頭から否定はしない。(論法そのものが間違っているとして却下するのではなく、その意味での知識に関心があるかないかの差として扱う)
[3] ある方法論や信念が問題になる場合には、その方法論や信念にできるだけ依拠しない形で正当化を試みる。絶対確実な根拠は求めない。
[4]信念の正当化を行うレベルを個人ではなく認知共同体(子供や動物も場合によっては含めた共同体)に置く。


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