動物福祉とは何に配慮することか

伊勢田哲治(名古屋大学情報文化学部)

英語圏の諸国やドイツなどでは動物の福祉もまた倫理的配慮の対象となるということについて一般にも認識がひろまりつつあるが、日本ではまだまだそうした認識は薄い。そこで本講演においては、原理的な部分にさかのぼり、「動物の福祉とは何か」という問題を「なぜ動物の福祉に配慮する必要があるのか」ということについての倫理学的考察との関わりにおいて考えていきたい。この二つの問いは部分的に相互依存しあう関係にある。動物福祉の実体が何であるかによって、それが配慮されるべき性質のものかどうかということについての答えも変わってくるであろうし、逆に、われわれが何に配慮するべきかという観点から「福祉」という概念のもっとも適切な定義も決まってくるからである。
動物の福祉とは何かということについては幾つかの立場がある。代表的なのは、動物の「感情 feeling」や「選好 preference」に依拠して福祉を考える立場(選好説)、動物の「能力capability」や「機能充足 functionings」に依拠する立場(機能充足説)そしてその動物の「本性nature」にもとづいて福祉を考えようという立場(本性説)などである。
これらのうち、配慮しなければならない根拠との結びつきがもっとも強いのは選好説であろう。多くの文化・個人の倫理観の根底的な部分に「自分がしてほしくないことを相手にしてはならない」という黄金律や、「他人をむやみに苦しめてはならない」という危害原理が存在していて、これらはいずれも感情・選好にもとづく判断である。人類の倫理の歴史はこれらの規則にいう「相手」や「他人」の範囲を拡張することで進んできた。そして、動物福祉は配慮されるべきだという立場のもっともスタンダードな(そしてもっとも説得力のある)論拠は、こうした拡張をホモ・サピエンスという種の境界で終わりにする正当な理由はないという議論である。
しかし選好説にも問題がないわけではない。選好という基準はあまりに主観的すぎてガイドラインになりにくい、という観点からは、客観的に確かめやすく個体間のばらつきのより少ない機能充足説が選ばれるだろう。また、感情や選好は所詮人間にとって大事なものでしかなく、選好説は人間の観点に偏りすぎだと批判するなら、本性説をとることになろう。ここで重要なのは、倫理問題においては、客観性や中立性と動機付けの力はしばしばトレードオフの関係に陥るということである。機能充足説や本性説から福祉を考えると、なぜその意味での福祉を配慮しなくてはいけないかの根拠づけが難しくなってくる。動物福祉の考えが黄金律や危害原理の強いサポートを受けるためには、動物福祉の概念も選好説からあまり遠く離れることはできないであろう。
仮に以上の点が認められたとしても、そもそも動物には感情があるのか、感情の強さをどうやって測るのか、動物福祉と科学の発展という全然性質の違うものをどうやって秤にかけたらよいのか、どういう動物について、どの程度配慮しなくてはならないのか、など、答えなくてはならない難問は多い。本講演でもこれらの問題にある程度の回答を試みるが、最終的な解決にはほど遠い。ただし、これらの問題は人間同士の福祉についても程度の差はあれ同種の問題が存在するのであり、これらの難問を根拠に動物福祉を配慮しなくていいと言うのなら、人間の福祉も配慮しなくていいことになってしまう。「福祉とは何か」「なぜ動物の福祉に配慮する必要があるのか」という問題自体への答とこれら実際的な難問とは切り離して考えるべきだろう。