京都科学哲学コロキアム三十周年記念の会「科学的実在論をめぐるワークショップ」資料

『科学哲学の冒険』はちょっと冒険しすぎではないか?

伊勢田哲治(名古屋大学情報科学研究科)

Oct. 30, 2005

1 まずは褒めておく
・戸田山氏による実在論論争の紹介は要約としては非常に読みやすく、初学者の勉強の助けになることは間違いない。
・自然主義から科学的実在論を擁護するという路線はこれまであまり日本では見なかったので、その意味では非常に意義がある。
・しかし細部に目をやると、各論者の議論の要約に不正確なところ、ピントのずれているところが目立つ

2 実在論論争の枠組みの捉え方

戸田山氏による論争の枠組みの整理
独立性テーゼと知識テーゼのそれぞれへの賛否を軸とした四分割表で定義(P.150)

・道具主義は観察不能な対象について独立性をみとめないのでは?ということはしかし社会構成主義よりもラディカルな立場だということか?
・対象実在論(介入実在論)はある種の観察不能な対象について独立性は認めるけど知識はみとめない、という立場に分類されるのか?
・内的実在論と科学的実在論を両方受け入れる、という立場もいちおうありうるはず(注1)だが、それはこの表のどこにおさめればいい?

これは結局、社会構成主義のようなグローバルな反実在論と、現在の科学的実在論論争における反実在論のような、観察不可能な対象という限定された領域におけるローカルな反実在論を、グローバル/ローカルという基本軸を明示せずに同じ表で分類しようとしたからでは?

さらにいえば、グローバルな論争とローカルな論争では論争の性格自体が違うはず。
グローバルな反実在論が「あらゆるものの実在を疑う」というすっきりした戦略をとることができるのに対し、観察可能な対象については存在をみとめるローカルな実在論は、観察可能な対象と観察不能な対象の存在論的落差という問題を扱うことになる。

3 「実験家の無限後退」
戸田山氏はこの議論の核心を「理論Tをテストするための装置の調整に理論Tそのものを使う」(167ページ)という形でまとめ、「放射性元素を使った実験で免疫学上の理論をテストしようとする」ときに調整に使われるのは「量子力学であって免疫学ではない」から、コリンズの議論は「乱暴すぎ」と登場人物に言わせており、「先生」もそれに特に反対していない (ibid.)。

コリンズ自身による定式化
実験家の無限後退はある実験結果をreplication で確かめようとする際に起きる問題であり、その問題とは、「実験とは熟練を要する営みmatter of skillful practice であり、第二の実験が第一の実験の結果に対するチェックとなるほど十分によく行われたかどうかはけっして明らかとはならない」(注2)

引き比べるならばコリンズが戸田山氏の言うような乱暴な議論をしていないのは明らか。(もちろん、だからといってコリンズが考えるようにこの無限後退を断ち切るには社会的要因が必要だということにはならない。)

4 悲観的帰納法
ラウダンに対する戸田山氏の主な批判の論点
・「ラウダンの言いたいことを証明するには、理論の間違った部分がその理論の成功に関わっていると言わなくてはならないはず」(172ページ)
・しかしそれを言っていないのでラウダンの議論は不十分
・実際、エーテルの場合にはマックスウェル方程式がちゃんと生き延びている

しかしこの批判は戸田山氏が論争の文脈をぜんぜん理解できていないことを示している
・ラウダンは「成功しているから正しいはず」という奇跡論法に対する反論として悲観的帰納法を使っているのであって、「成功しているから間違っているはず」という積極的な主張をしているわけではない。理論のただしさと成功を結びつけるという証明責任は奇跡論法を使う実在論の側にある。
・ラウダンが攻撃の対象にしているのは理論の形而上学的コミットメントのレベルであって、マックスウェル方程式のような数学的等式だけが生き延びるのはむしろ彼の反実在論にとっては有利な証拠となる(注3)

5 決定不全性
・決定不全を、観察データだけからは複数の理論のうちから一つを選び出すことができない、という問題だと定式化する点についてはOK。(181ページ)
・また、この意味での決定不全がさまざまな合理性基準(たとえば189ページであげてあるような諸基準)を持ち込むことで科学的合理性の範囲内で解消できるという点についても異論はない。

・しかしこれは社会構成主義への批判にはなっていても、ファン=フラーセンら科学的実在論論争の内部の反実在論者への答えとしては的外れと言わざるを得ない。
戸田山氏の論述は、それらの基準で選ばれた選択肢が選ばれなかった選択肢よりも実在をよく反映していると考える理由があるかどうかについてはまったく触れずにごまかしている。(反実在論者ももちろんこういう基準は理論の実用的価値のレベルでなら認めることができる。特に、よく確立されたほかの理論との整合性は、その仮説の経験的十全性の一部として積極的に認めることができるはず)。

6 観察可能性
戸田山氏の批判
もし反実在論の「観察不可能」なものについての議論が妥当なら、同じことが「観察可能だけど観察されていないもの」にも当てはまるのではないのか (191ページあたり)

・これはいい批判だが、帰納一般の正当化と観察不可能なものに対するIBEの正当化はやはりレベルが違うのでは?すでに観察されたものからまだ観察されていないがこれから観察される可能性のあるものへの推論はわれわれが生きていく上で不可欠だが、観察不可能なものへのIBEはできなくても別に何もこまらない。

7 意味論的捉え方からの文パラダイム批判
戸田山氏は科学理論についての「文パラダイム」を批判して、「意味論的捉え方」を推奨している。
しかし、そもそもなぜ文パラダイムが問題なのかがきちんと説明できていないのでは?戸田山氏があげる二つの論点は、「法則偏重による弊害」(220ページ)と「理論変化が扱えない」(222ページ)しかし
・文パラダイムと法則偏重主義は別物。非法則的説明でも文のあつまりで表現できる。
・文の集合のうち、一つだけ入れ替わったら全体が別物になってしまう、という批判は、単独では意味不明。モデルだって部分をちょっと手直ししたら「違うモデル」になるはず。モデルの場合に「違うけど似ている」と言えるのなら、文集合についてだって「違うけど似ている」と言えるはず。

第二の批判はもともとは、一つの単語の意味が変わったらあらゆる単語の意味がかわるというファイヤアーベントの言語観とセットで出てきたもの。そこを説明しないと批判としてそもそも成立しない(し、ファイヤアーベントの言語観が否定された今では批判として成立していない)。

文パラダイムの問題点はむしろ、「いろいろな言い方や図で表現できる単一の理論」という考え方が意味をなさなくなってしまうところではないか。そして、決定不全の問題の少なくともいくらかは文パラダイムを放棄することで解消する。

8 意味論的捉え方と実在論
戸田山氏によれば科学の目的は「実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ること」(251−252ページ)。そうしたモデルは「文字通りの真理」であることは目指さない。
戸田山路線は、対象実在論に「意味論的捉え方」を加味することにより、なぜある対象が操作できるのかをモデルを使って説明することで対象実在論を強化するというもの

しかし、モデルという構造のレベルで実在との対応を考えるのなら、戸田山氏の立場はむしろウォラルらの構造実在論に近いのではないか?(注4)
構造実在論---科学理論において実在的であるのは対象ではなく、数学的定式化によって表現される対象間の構造であるという立場

悲観的帰納法に耐えて生き残るのは対象なのか構造なのかというのは現在の実在論論争における実在論側の内部での論争の一つの大きな目玉となっている。

9 自然主義と実在論
戸田山氏は自然主義を採用し、その観点から実在論を擁護するが、では戸田山氏はファインのNOAについてはどういう立場をとるのか。
NOA---自然な存在論的態度。科学者が「存在する」と言うなら、その「存在する」が哲学的な意味での「存在」なのかどうか追及せず、だまってそれを受け入れる、という態度。

NOAは自然主義的で、しかも反実在論的(かつ反-反実在論的)であるが、戸田山氏の自然主義はNOAにはたどり着かないのか。

10 まとめ

戸田山氏は実在論擁護の論陣をはるにはちょっと準備不足だったのではないか。
もちろん初心者むけ教科書という制約はあるが、初心者むけだからといってピントのずれた議論や乱暴な紹介をしていいということにはならない。
それでもあえてこの本を出したのはやっぱり研究者としてちょっと「冒険のしすぎ」だったのでは。

ついでに細かいミス
『科学が作られるとき』はラトゥールとウールガーの共著書の翻訳ではありません。その後に書かれたラトゥールの単著Science in Actionの訳です。(p.144, 279)

注1 たとえば、ハッキングのパトナム対するあるコメントとか、エリスの提案に対するファン=フラーセンのリアクションなど。
Ian Hacking (1982) "Experimentation and scientific realism", reprinted in Richard Boyd et al eds. The Philosophy of Science, The MIT Press. 1991. 特にriprintの250-251のあたりの記述を参照。
Brian Ellis (1985) "What science aims to do" and Bas C. van Fraassen (1985) "Empiricism in the philosophy of science", in Paul M. Chruchland and Clifford A. Hooker eds., Images of Science, The University of Chicago Press.
注2 H.M. Collins (1992) Changing Order. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. p,2. 同書pp83-84も参照。
注3 ラウダンがこの論文の中で「保存主義的戦略」に対して行う批判にすでにこの論点は出ている。
 Larry Laudan (1981) “A Confutation of Convergent Realism", reprinted in Richard Boyd et al eds. The Philosophy of Science, The MIT Press. 1991. のpp. 235-238あたりを参照.
注4 構造実在論については以下の論文、特に、意味論的捉え方と構造実在論をリンクさせる試みとしてはあとの二つを参照。
John Worrall (1989) "Structural realism: the best of both worlds?", Dialectica 43, 99-124.
James Ladyman (1998) "What is Structural Realism?" Studies in History and Philosophy of Science, 29, 409-424.
Steven French and James Ladyman (2003) "Remodelling Structural Realism: Quantum Physics and the Metaphysics of Structure" Synthese 136, 31-56.