国際功利主義学会大会報告

2003年4月11日から4月13日にかけて、国際功利主義学会(ISUS)の「功利主義・人権・グローバル化」と題する総会がポルトガルのリスボンで開かれた。以下、どのような発表や質疑応答がなされたかについて、報告者が見た範囲でまとめる。なお、特別講演以外は常に5〜6の並行セッションが行われていたため、ここで紹介するのは行われた発表の一部にすぎない。

他国への介入の問題

初日はまずBrian Barry が「人権は普遍的か」と題する特別講演で、最近の世界情勢に言及しながら、グローバル化やグローバル化の時代における人権の問題、特に他国への介入の是非について功利主義の観点から分析した。彼はまず現在アフガニスタンやイラクで進行している出来事についてコメントした。ドイツや日本ではアメリカの誘導による戦後の新体制作りがうまくいったと見なされているが、外国の介入は一般的にうまくいかない。戦争の害は介入がうまくいった場合の利益より大きいことが十分ありうるし、戦後体制づくりが理想的にすすまない場合には戦争は害ばかりを産む。また、IMFやWTOの経済介入にも産業構造の破壊などさまざまな問題がある。また、人権が国連の共通語となっていることからもわかるように、グローバル化は人権と深い関わりがある。これも功利主義の観点から説明できる。国際的介入との関係で言えば、イラクに対する経済制裁が人権侵害を産んだことなどが問題となる。人道援助はしても経済援助はしない、といった方法が推奨される。アメリカのパラノイアに対して国際的な意志決定の必要がある。私の印象としては、功利主義の立場から現実問題についてこうした強い主張がなされるのは、功利主義の実践的威力をよく示していると思う。ただし、Barryの議論は、アカデミックな功利主義としては結論にいたる考察の内容が安易に過ぎるように思われた。最初からアメリカ批判という結論があってそれを権威づけるために功利主義が使われているようにも聞こえ、もしそうならばそれは倫理学者の態度としては問題であろう。

契約説と功利主義

初日二つめは「公正さと福利」のワークショップに参加した。Brad Hookerは「スキャンロンの契約説」と題する発表で、近年大きな影響力を持っているスキャンロンの契約説に対する批判を展開した。まず、スキャンロンは狭義の道徳と広義の道徳を区別し、契約説は狭い道徳のみに当てはまると主張するが、功利主義は両方を統一的に扱える。また、スキャンロンはロールズのような道具立てをとらないことにより、契約の条件そのものに道徳的直観がまぎれこむ可能性を産んでしまっている。たとえば、スキャンロンの集積問題への解答(常に一対一で比較し、同程度の深刻さを持つ人々では数の多い方を重視する)も、なにが道徳的に重要な区別かということについての道徳的直観を必要とする。この点で、スキャンロンの契約説は「スペアタイヤ」のような余分なものだと批判する。もう一点、スキャンロンは個々の原理を評価する際に他の原理を固定的なものととらえるべきだという立場をとるが、発表者はそれでは全体が正当化されるかどうかわからない、全体を評価する方が筋がとおっているのではないかと批判する。スペアタイヤだという批判について、これはロールズへの批判にはなるかもしれないがスキャンロンへの反論にはなっていないのではという質問が会場からあり、直観にたよるならそもそも契約という道具立てはいらないはずだ、という回答があった。さらにこの点について別の質問者から、発表者はスキャンロンに対して何もないところから出発するというそもそも不可能なことを要求しているのではないかという疑問がだされた。発表者の答えは、道徳的仮定を持ち込むこと自体を否定しているわけではないが、それによってこの理論の説明力が減っているということを言いたいのだ、と答えた。

Jeffrey Brand-Ballardは義務論的制約について論じる。彼が考慮するのは「非最小化型の制約」すなわち、積極的な危害は長い目でみて危害(あるいは積極的な危害)を最小化しているとしても認められない、という型の厳しい制約である。スキャンロンらの契約説は、功利主義が福利主義をとるためにこの問題を抱え込む、と批判するが、発表者によればこの批判は制約の本質をとらえそこなっている。発表者によれば功利主義と契約説はpatient-focused value theoryという価値論を共有している。この価値論は最終的に行為によって影響を受ける人によって行為の価値をはかることになるので、行為者の側の都合(自分自身が危害を加えているか他の人が危害を加えることになるか)によって結果がかわることはない。これは非最小化型の制約を契約説も受け入れることができないということである。会場からの質問で、なぜスキャンロンは義務論的な立場を取ることができるのか、という疑問が出され、スキャンロンは自分自身を義務論者とは呼ばないが、規範的問題についてスキャンロンが義務論的な立場をとることが多いのは確かだ、という答えが返された。その理由についてはあまりはっきりした答えはなかった。なお、今回の会合では、このワークショップ以外にも、スキャンロンの契約説に言及する発表・発言が多く見られ、スキャンロンの立場が功利主義に対する対案として大きな影響力を持っていることを伺わせた。スキャンロンは日本ではまだ十分に紹介されているとはいえないが、今後きちんとした紹介・検討が行われていくことが望まれる。

功利主義の修正

初日三つめは「行為功利主義と規則功利主義の再検討」というセッションに参加した。このセッションでTetsuji Isedaは「不確定領域功利主義」というタイトルで、功利主義の適用対象を、皆が合意する道徳的直観の存在しない領域(不確定領域)に制限することを提案した。そうした提案をする主な根拠としては、具体的な道徳問題に対する解決の正当化において功利主義はうまく機能していないという点、功利主義が直観的に受け入れがたい結論を産むという批判に対して本当に批判者を満足させる回答がなされていないという点などをあげた。この発表に対して、この立場は共同体ごとに何が正しいかが変わる文化相対主義になってしまうのではないか、理論的にいって文化相対主義はあまりにも問題があるのではないか、という批判がなされた。発表者の答えは、二つの共同体が接触すればそれはすでに一つの共同体であり、接触しないなら実践的にいって相対主義は問題ない、というものだった。発表者はまた、ここで、不確定領域功利主義は理論的視点からではなく、実際に問題を解かねばならない応用倫理学の視点から導入されたものだということを強調した。次に、この立場を受け入れると、理論倫理学のさまざまな営み、たとえば「殺すこと」と「死なせること」には差がないというようなラディカルな主張をしたり、理論的な視点からわれわれの行為を吟味したり、といったことができなくなるのではないかという批判がなされた。発表者の答えは、理論倫理学の営みを否定するつもりはないが、少なくとも解決の正当化という文脈では理論倫理学は使えない、というものであった。もう一つ、確定領域などないのではないか、という批判に対して、それならばそもそもの功利主義に対する批判が成立しなくなるわけでそれならそれでかまわない、という回答がなされた。

行為指導性と行為する理由

次に参加したのは「契約説、義務論、功利主義」というセッションである。ただ、どちらの発表においても契約説も義務論もあまり扱われなかった。まず、Jan Osterbergは「帰結主義と行為指導性」と題する発表で、帰結主義(特に行為功利主義)への一つの批判はそれが行為指導的でないという点である。帰結主義者は、理想的には帰結主義は行為指導的だという答えをするが、これはおかしい。帰結主義の観点から理想的な行為者はすべての知識を持っている。ということは自分がどういう判断をする傾向を持っているかについての知識も持っているはずで、自分が何をするかすでに知っているということは、何をするか自分で考えて決める、という「行為者」としての性質を欠いているということである。会場からの質問で、規則功利主義にはこの批判は当てはまらないのではないか、という質問がだされ、確かにある種の規則功利主義はこの批判を逃れる、ということを発表者も確認した。私の印象としては、意志の自由と決定論をめぐってさまざまなパラドックスが生じるのは帰結主義に限らないため、これを特に帰結主義批判に使うのはどうかと思われた。

Robert Pulververtaftの「価値づけから何かを起こす理由へ」という発表では、価値は理由に還元できるという立場への反論が展開された。価値づけることと理由があることの差は経験選好機械(その機械につながれると、すべての欲求が満たされたという経験をするだけでなく、その機械につながれることを選好するようになる)の事例で示すことができる。選好公平主義、すなわち、ある人がある状態を欲求する(した)ということがその状態を起こす(唯一の)理由となるという立場からいうと、機械につながれる前は機械につながない理由があり、機械につながれたあとは機械につなぐ理由があることになる。しかしそうした変化があっても機械につながることは価値あることではない。つまり、価値のないことでもあることを起こす理由となりうる。会場からは、発表者は内的理由と外的理由といった基本的な区別をしていないだけではないか、という疑問や、発表者は単に理由についてのヒューム主義を擁護しているだけではないかといった疑問が提示された。前者については発表者はもっと単純な理由の概念があるはずだと答え、後者については発表者は肯定的に答えた。私の印象としても、理由についての非常に特殊な立場を基礎にして価値と理由の関係についての一般的結論を導き出す議論には無理があるように思われる。

ミルとカーライル

一日目の最後はFrederick Rosenによる 「JSミルの快楽説」という特別講演が行われた。ミルの幸福の概念や快楽の質の議論に対してはさまざまな批判がなされたが、ミル自身はこうした批判にあまり反応しなかった。Rosen はミルのカーライルとの接点やエピクロス主義の影響を考慮することで、ミルがどうしてこの立場にとどまることになったかを説明できると主張する。まず、ベンサムも快楽の量と質の区別をしており、実はこれはエピクロス主義の伝統にのっとってもいる。ミルはむしろカーライルが単純化して批判するベンサム主義(ベンサム自身の立場ではない)と距離を置くために快楽の質の議論を行ったと考えることができる。ミルはストア主義を純粋主義から切り離す形で理解し、それが実はエピクロス主義と非常に近いことを主張する。これが「不満足なソクラテスの方がよい」という一節のもとになった。ここでもミルが念頭に置くのはカーライルの、功利主義批判で、カーライルは英雄の生を例にあげて幸福などなくても善き生を送ることができると功利主義を批判する。ミルは、このイメージと並置できるような英雄のイメージを提示する。それは、他人の幸福のために自己を犠牲にする功利主義的英雄という描像である。この描像を組み立てる上で、非純粋主義的なストア主義を取り込んだことが重要であった。会場からの質問としては、ミルがベンサムを直接批判している箇所もあるがどう思うかという質問があり、Rosen はミルが1830年代にはベンサムから離れていたが50年代にベンサム主義に戻ってきて、ここで論じているのはその後の文献だという答えをした。その他、やはりベンサムとミルの間には重要な差があるのではないか、という趣旨の質問がいくつかなされた。

科学的知見の倫理的含意

二日目の最初はPeter Singer が「倫理に関するわれわれの理解の深まりの規範的重要性」と題する特別講演を行った。現在の哲学者は、道徳と関係する進化理論や大脳生理学の知見を利用できるという点で過去の哲学者たちよりも有利な立場にある。ヒュームは身内びいきなどの心理について重要な洞察をしたが、その進化論的背景を知らなかった。正義はヒュームが考えるように全面的に人工的な徳な訳ではなく、部分的には生物学的基礎をもつ自然な徳である。ヘイドは近親相姦を使った意識調査で、道徳的直観においては最初から答えがあって理由が後付けであることを示した。グリーンらのfMRIを使った調査は、トロリー問題などのディレンマに答えを出す過程での感情の役割を明らかにしている。これらの知見は、われわれの道徳的直観というものが人類の歴史に起源をもつ生物学的なもので、あまり合理性や正しさを保証するものではないことを示している。反省的均衡のように道徳的直観をあまりに強調する立場はその意味で問題がある。功利主義も直観に依拠しているではないかという反論があるかもしれないが、「一人を殺すよりは五人を殺す方が悪い」といった直観はそうした生物学的基礎をもつとは考えにくい。これはむしろシジウィックの言う合理的直観だと考えるべきである。会場からの質問は、Singer が依拠する科学的証拠の確実さや、グリーンらが自分の実験の結果を正しく解釈しているか、といった点に集中した。なお、私はむしろ、Singerの考える合理的直観がミームである、つまり流行のようなものであるならば生物学的基礎を持つ直観よりも劣ることになるのではないか、という印象を持ち、本人にきいてみた。Singer の答えは本当に合理的な直観と流行のようなものとは厳密に区別する必要があり、自分が合理的だと見なしている直観が流行のようなものだと示されるならそれを放棄する、というものだった。

次に、Simon Blackburn は「政策におけるカントと功利主義」という特別講演を行った。カントの恒久平和に関する提案は、「テロリズムに対する戦争」の有効性などを考えるうえでも有用な洞察を多く含んでいる。しかし、カントのこの問題についての発言は、実は間接功利主義の立場からも認めることのできる、帰結主義的なものである。ただし、カントの他の政治的主張は功利主義の観点からみてそれほどもっともらしくない。コースガードは、カントが革命に立ち上がる人を有徳な人物とみなしている、と解釈するが、カントは政府に従う義務を厳格な義務と考えており、その他の文献上の証拠からいってもこの解釈には無理がある。また、コースガードは、それにも関わらず革命権はないという点でカントに同意する(これはカントの解釈としても正しい)が、今度はカント自身の立場が擁護できない。カントが革命権を否定する理由は政府が人々の一般意志を反映していると考えるからだが、その前提が満たされない例は歴史上多くある。会場からの質問はカントの完全義務の概念を巡ってなされた。カントはいろいろな箇所で完全義務を破ってもよい場面について述べており、政府に従う義務についてもカントは特例を認めるのではないか、といった質問や、義務の対立においては判断力を使うべしということをカントが述べていることから革命を認める余地が出てくるのではないか、といった提案がなされた。

因果性とリスク

午後の一つめは「因果性、リスク、実践的合理性」のセッションに参加した。Adrian Viensは「因果的相互関係と実践的推論」と題する発表で、キース・グラハムの他者危害についての議論を検討した。グラハムは干渉の基準としてのミルのself-regarding harmとother-regarding harmの区別は維持できないと論じる。その主な理由は、自分と他者の間には複雑な因果的相互作用があるため、ある危害が完全にself-regardingであることを確認するすべはないからである。発表者がグラハムに対してどういう立場を取っているかははっきりしなかった。会場からの質問としては、グラハムは両者の区別についての統計的な解釈を考慮しているのか、ミルがこの区別をする理由はむしろ影響を受ける人の同意があるかどうかということを気にかけるからだ、あるいはミルによれば危害の対象となるのはどんな利害でもいいわけではなく権利となる利害だけだ、というようなコメントがでた。発表者の答えとしてグラハムはミル自身にはあまり関心をもっておらず、このミル的な区別が実践的推論にどう影響するかに関心がある、とのことだった。

Michael Zimmermanは「誤った行為をするリスクの関連性」という発表において、実現主義(actualism)と可能主義(possibilism)という二つの立場を比較し、どちらの立場も困難に陥ることから確率的思考が重要であるという議論を行った。実現主義とは、いくつかの選択肢のうち一番起こりそうな結果に関して最善の選択肢を選べ、という立場で、可能主義とはいくつかの選択肢のうち、起こりうる結果に関して最善な選択肢を選べ、という立場である。実現主義をとると、ある選択肢を選んだ場合に自分があとでひどいことをしてしまう可能性が高いような状況(昔の恋人の結婚式に参列するという選択肢を選んだ結果、つい相手に失礼なことをしてしまうような場合)に奇妙な立場に陥ってしまう(「参列して行儀よくする」べきだが「参列する」べきではない、という判断に陥る)。逆に可能主義は、ほとんど起こりそうもない最善の結果のために全般的にはひどい選択肢を選ぶという問題がある。発表者の提案は、さまざまな可能世界を義務論的価値(deontic value)でランク付けし(この価値の中に確率の判断も含む)、意図して選べるものとそうでないものの区別を導入することで、両者の欠点を補うことができるのではないか、というものであった。会場からの質問として、そもそもAかつBが義務ならAも義務だという前提がおかしいのではないか、という反論や、意図して選べる限りにおいて「参列して行儀よくする」のは単一の行為と見なされるべきではないか、という反論などが出た。

午後二つ目は「因果性、リスク、実践的合理性」の二つ目のセッションに参加した。まず、Klint Karsten Jensenが「リスク認識、合理性、功利主義倫理」と題する発表をした。普通の人々は単なる期待値計算とは違うリスク認識をすることが知られている。普通の人が重視するのは、一つには、カタストロフィー的な帰結であり、もう一つは平等になり得ない選択肢である。発表者はこの二つのそれぞれについてそれを嫌うという選好がどの程度合理的かを検討する。その際に基準点として使われるのは個人的善の原理(principle of personal good)、すなわち二つの選択肢が各人にとって同じくらいよいならば、二つの選択肢は全体としても同じくらいよい、という原理である(これは功利主義の帰結の一つだが、必ずしも功利主義とはいえない)。カタストロフィーを嫌うのはもっとも純粋な形においては、個人的善の原理と矛盾し、平等になりえない選択肢を嫌うのはsure thing principle に反する。ただし、前者についてはrisk aversiveであること、後者についてはsure thing principles自体に批判があるのと不公平自体を負の帰結として加算する可能性があるのとで、擁護は可能である。会場からのコメントは、カタストロフィーをきらうのは「全てが無に帰す」こと自体への負の選好が加算されているからだ、という提案や、そもそもある選好が個人的善の原理に反していてもまったく問題ないのではないか、という指摘などであった。私の印象としても、カタストロフィーを嫌うリスク認識は、そもそも期待値計算とは別の要素を持ち込んでいるわけで、功利主義的な原理にそぐわないのは当然ではないかと思われる。功利主義の観点から言っても大事なのは、社会的な意志決定において、不合理だからという理由でそういう選好を無視してしまわないことであろう。

Elinor Mason は「功利主義と未来の予測」と題する発表で、レイモンの帰結主義批判の問題点を指摘した。発表者によると、レイモンは、われわれの行為の長期的な帰結はほとんど分からないため、帰結主義は役に立たない、と論じた。これは古くからある批判で、帰結主義の側からもいくつかの反論がなされている。発表者は、これらの反論に対するレイモンの再反論にさらに再々反論する、という形で議論している。一つの論点は「池のさざ波」議論と呼ばれるもので、もともとの行為から遠く離れていくにつれ、その影響はだんだん小さくなっていくので遠くはなれた帰結については考えなくてよい、という議論である。レイモンはこの主張は偽であると言うわけだが、発表者は、この再反論を、因果関係についての事実的主張ではなく、責任についての規範的主張と解釈することでかわそうとする。もうひとつ帰結主義者がつかう論法は、確率が分からないときは全ての選択肢に同じ確率を与える、という原則に訴えるものである。レイモンはこの原則がいろいろな問題を含むことを指摘するが、発表者は、同じ問題を帰結主義以外の全ての立場も共有しているため、帰結主義に特有の問題にはならない、と論じる。発表者はまた、レイモンが、分からない帰結は道徳的に問題にならない(doesn't matter morally)と主張することについてばかげた主張であるとして批判する。この発表については、主観的帰結主義と客観的帰結主義の区別がこの論争とどう関わってくるのか、という質問や、帰結主義者自身も、よくわからないことについては帰結主義的計算をしようとしないのが結局はいいことだ、ということを認めてきたのではないか、という指摘などがなされた。等確率の原則については選択肢をどう分けるかで結果が変わってくることが指摘されたが、帰納の問題におけるグルーのパラドックスと同じく、なぜそれが正解かは説明できないが正解はわかる、というような回答がなされた。

福利の欲求説

二日目の最後は、John Skorupskiが「福利well-being の概念」という特別講演を行った。福利、ないしその人にとっての善とは、その人にとってそれを欲求する理由があるようなもののことである。ただし、ここでいう理由は評価的理由(たんなる実践的理由ではなく、あることを信じる認識論的理由と類比的な意味での理由)であり、ここでいう欲求は実質的欲求(ヒューム的心理学でいう欲求ではなく、実際の感情を伴う欲求)である。例えば退屈な叔父を訪ねる理由はあっても訪ねたいと欲求する理由はないような場合、退屈な叔父を訪ねることはその人の福利に貢献しない。ヒューム的心理学よりはもっと古い意志・信念・欲求の心理学の方が経験的にもより妥当だと思われる。評価的理由の例として、skorupskiはカテゴリー的目的という形で、喜びなどのいくつかの一般的なカテゴリーを列挙する。この捉え方の一つの帰結として、福利はその人に直接影響を与えるものである必要はない。たとえば、一生かけて美術品を収集してきた人にとって、火事の際に自分の命より美術品を優先する理由は十分にあり、したがって美術品を救うことはその人の福利となりうる。この発表に対しては、会場から、実践的理由と評価的理由を本当に区別できるのか、という疑問や、カテゴリー的目的を特定するには結局欲求に訴えざるをえないのではないか、といった疑問が出された。私の印象としても、福利の欲求説に対する標準的な批判を回避するために非常にアドホックな「カテゴリー的目的」なるリストを導入してしまっていて、欲求説の利点がほとんど失われているように思われた。

三日目の午前中はSinger, Francisco Sarsfield Cabral, Aweredo Lopesらによって功利主義とグローバル化についての議論が行われたが、報告者は残念ながら参加できなかった。予稿を見る限りでは、ここでも近年のアメリカの政策への批判がテーマとなったようである。

最後に、本研究の課題である科学技術倫理教育に、以上のような議論がどうかかわってくるかということについて少し述べたい。実のところ、功利主義をはじめとする帰結主義の理論は倫理学において必ずしも多数の支持者を集めているわけではない。しかし、現実のさまざまな難問について比較的一貫した答えを出すことができるという意味で、功利主義の魅力は決して過小評価してはならないと思われる。特に、科学技術の進展が産み出す新しい倫理問題に対しては既成の道徳律だけでは対処がむずかしく、功利主義の役割が期待される。そのためにも、功利主義を他の倫理学理論(たとえば契約説)と比較したり、功利主義の難点とされる問題が解消できるどうかを考えたりする作業は十分に意味がある。

今回出席したセッションの中で、特に科学技術倫理と関わりが深いのはリスクをめぐる問題群であろう。発表者の一人が指摘していたように、専門家のリスク認識と一般の人のリスク認識は大きなずれがある。これをどのように理解するか次第で、リスク論のあり方もかなり変わってくることになるだろう(ただ、上でも触れたように、不合理な選好だといって単純に却下するのは得策とは思われない)。また、今回の会合で取り上げられたように、複雑な因果関係が存在したり、非常に不確実な予測しかできなかったり、自分自身の将来の選択が関わってきたりする場合にはいったいどういうやりかたで帰結を見積もればいいのだろうか。Masonの発表へのコメントにもあったように、帰結主義者はよくわからないことに安易に帰結計算を持ち込むことは慎むべきだろう。(倫理教育の場面でも、帰結主義的傾向の学生に対して同様の注意は必要となってくるだろう)。自分自身の将来の行動が関わってくる確率判断についてはこれまでの議論の蓄積があまりないが、本当に責任ある行動とは何かを考える上で必ず生じてくる問題の一つである。

倫理教育との関わりで見るべき点もいくつかある。いくつかのセッションで道徳的直観の倫理学的位置づけが大きな問題となっていた。たとえば、近年影響力のあるスキャンロンの契約説について道徳直観に依拠していることによる批判などがあった。シンガーは生物学や生理学の知見を使って道徳直観にあまり根拠がないことを指摘し、私自身の発表では逆に功利主義は道徳直観で処理できない問題だけを扱うべきだと主張した。現在の科学技術倫理教育は、健康や安全や環境保全の重要性についてよくもわるくも学生の道徳的直観に依拠するところが大きい。シンガーの議論が正しいなら、そうした教育路線は根本的に考え直すべきだということになろう。

全体として、この学会であつかうような理論倫理学は、ともすれば倫理教育の実践とは直接関係しないように思われがちだが、教育の場で考えるべき事柄について理論倫理学が与える示唆は大きい。以上の報告からもそれが理解していただけたのではないかと考える。

(本報告は平成14年度科学技術政策提言「科学技術倫理教育システムの調査研究」の一環として行われたものである。)