「第三回 物理学の基礎における新しい方向性」国際会議報告
伊勢田哲治

2004年4月30日から5月2日にかけてアメリカメリーランド州のアメリカ物理学センターAmerican Center for Physics で行われた「物理学の基礎における新しい方向性」(New Directions in the Foundation of Physics)コンファレンスに参加したので報告する。これは哲学者と物理学者が共同で行っている物理学の哲学をテーマとした国際会議である。第三回となる今回は発表者10人に対して80人ほどが参加した。発表者の大半は哲学系の研究者だったが、討議においては物理学者も哲学者も区別なく活発な討論が行われていた。以下、各セッションについて内容をまとめ、感想を述べる。まとめのうち、前提知識として説明されなかった用語についてわたしが説明を補った部分は[ ] で示してある。ただし、わたし自身、物理学の哲学にそれほど通じているわけではないので、以下のまとめや補足には不正確なところも多々あると思われる。その点は御容赦願いたい。今回のこのコンファレンスに関する情報は以下のウェブサイトにもあるので、より正確な情報を得るにはそちらを参照されたい。
http://carnap.umd.edu/philphysics/conference.html

「量子力学の基礎」セッション
このセッションではまず、物理学者のChris Fuchs (ルーセント・テクノロジーズ)が「シンプレックス上における量子力学」(プログラム上のタイトルは「量子的観察者と天気予報士の違いは何か」)と題する発表を行った。発表者の立場は波動関数やその収束はすべて観測者の側の主観的状態であって客観的な系の側の性質ではない、という主観説に立つものである。ただし、確率密度は恣意的に決まるのではなく、メートル原器のような標準量子測定器のようなものにそって決められるものと考える。シンプレックスとは、ベイズ決定理論で利用される重心座標系で、量子力学的観測もベイズの定理にあう形に書き直すことができ、混合状態の収束は情報に基づくベイズ的更新として理解できる。つまり、量子的観察者は本質的に天気予報士と同じ作業をしているのである。また、単なるベイズ的更新に回収できない部分[ベル不等式の破れ等]は観測による擾乱として処理する。この発表に対しては、言葉遣いは新しいかもしれないが実質的に何も新しい解釈を付け足してはいないのではないか、という趣旨の質問がいくつか浴びせられていた。
David Wallace (オックスフォード大)は「デコヒーレンス、決定理論、その他もろもろ---- エヴェレット解釈の新しい方向」と題する発表を行った。エヴェレット解釈[多世界解釈など、混合量子状態の収束を世界や観察者の分岐として理解する立場]の一つの問題は普通の巨視的現象をどう説明するかという点にあり、発表者は波動関数と巨視的物理現象の関係を化学と生物学の関係と類比的な一種の創発現象として理解することでこの問題を解決しようと考える。両者の関係が創発的になる理由として発表者があげるのがデコヒーレンス[一定の秩序だった量子状態にあった粒子がばらばらの量子状態を持つようになること]のプロセスで、デコヒーレンスのパターンによって同じ波動関数が死んだ猫のいる巨視的世界にも生きた猫のいる巨視的世界にもなる。また、エヴェレットは量子力学における確率を頻度説でとらえたために無限にある可能世界の数を比較するという問題に直面したが、発表者は確率の概念を決定理論に基づいて理解することで問題を避けようとする。会場からは、創発現象の考え方をシュレーディンガーの猫にあてはめるとスーパーヴィーニエンスが破られるのではないか、という質問、デコヒーレンスは巨視対微視の対比には関係なく、量子力学と古典力学の橋渡しでしかない、また、量子力学はより客観的な確率解釈に適しているのではないか、というコメントなどがあった。
ということで、このセッションでは量子力学的確率を主観的確率として理解しようという試み二つが紹介されたわけであるが、最後の方の質問者の意見にあったように、量子力学的確率の理解として主観的確率を持ち出すのは疑問がある。その点についてどちらの発表者も多く議論してくれなかったのは残念であった。

「対称性と場の理論」セッション
このセッションではまず、John Earman(ピッツバーグ大)が「キュリーの原理と自然発生的な対称の破れ」と題する発表を行った。キュリーの原理とは、結果における非対称性は原因における非対称性に起源を持つ、という考え方である。[ここでいう対称性とは、ある法則がある変換の下で形を変えないことをいう。] 発表者は量子場理論においてキュリーの原理がどのように破られるか、について考察する。発表者によれば、量子場理論においてはユニタリに実装できない(ユニタリ変換で表すことができない)対称性が存在し(これは通常の量子力学には存在しない)、これによる対称性の破れは拡大する性格を持つ。ただしユニタリに実装できる対称性がユニタリに実装できない対称性に発展することはなく、キュリーの原理のある種の改訂版は維持される。ゲージ対称性[ある系における特定の数学的量がゲージ変換のもとで不変であること]は自然発生的に破れることがあるが、発表者の考えではこれは上記のような対称性とはまったく性質が違う。というのも、ゲージ変換は物理系そのものには手をふれない変換であるため、ゲージ対称性は物理現象の側の特徴ではなく記述のレベルでの特徴であり、理想化の仕方に基づく人工的な効果と考えられるからである。会場からは物理学者のMichael Fisherが、哲学者は数式を純粋に取り出して論じる悪い癖があるが、実際の物理学者はさまざまな暗黙の仮定のもとに法則を使っており、発表者の問題設定は物理理論を理想化しすぎた結果にすぎない、というものがあった。発表者はこれに答えて、ユニタリに実装できない対称性の破れは理想化によってではなく現実の物理系の中でおきることだ、という論点を再度強調した。
James Mattingly(ジョージタウン大)は「問題になるのはどのゲージか」と題する発表を行った。[量子電磁力学、量子場理論、一般相対論などは局所的ゲージ変換に対して不変な「ゲージ理論」であることが知られ、統一理論を構築する根拠ともなっている。] 量子電磁力学はゲージ理論の代表とされているが、発表者によれば、実はいわゆるゲージ自由性は本当には量子電磁力学の中には存在しない。ゲージ場の存在を支持する実験的根拠として、アハラノフ=ボーム効果[電場も磁場もないところを通った電子に力がはたらき、その結果ゆがんだ干渉縞が生じる現象]がしばしば挙げられる。この効果は、電子に影響を与えるものとしてのベクトルポテンシャル[これがゲージ場としての性質を持つ]の存在を真剣に受け取る理由とされている。この路線で行くと量子力学の不決定性と非局所性のいずれかを認めざるをえなくなる。しかし、アハラノフ=ボーム効果そのものは、別にベクトルポテンシャルを使わなくても記述できることが以前から知られており、この場合、不決定性も非局所性も生じない。結局電磁力学的なゲージ場は数学的虚構にすぎず、本当に存在するのは「カレント」場とでも言うべきものだけである。この発表については、特にベクトルポテンシャルを用いない説明の是非をめぐって会場からもさまざまな質問が出ていたが、内容がテクニカルにすぎたため、残念ながら議論についていくことができなかった。
以上二つの発表はいずれも対称性やゲージ理論といった物理理論の数学的構造にかかわるもので、一見して哲学というよりは物理学をやっているようにも見えるが、どちらの発表もそうした構造と実在のかかわりという、科学的実在論の問いを中心としており、伝統的科学哲学の問いとそれほど異質な作業をしているわけではないことに注意をうながしておきたい。

「熱力学と情報」セッション
このセッションではまず、Ben Schumacher (ケニヨン大、物理学)が「悪魔的な熱力学」と題する発表を行った。発表者の関心は情報の物理学にある。マックスウェルの悪魔を考える上でも、情報はなんらかの物理的状態として存在し、情報の処理は力学的系の進化として存在しなくてはならない。そして、ランダウア(Landauer)やベネット(Bennett)の仕事により、情報の消去(別の巨視的物理的状態が同じ巨視的状態にたどりつくこととして定義される)は不可逆な情報処理であり、熱力学にも不可逆であることがわかっている。さらに言えば、「情報の消去だけを行うことはできない」というのはケルヴィンの定式化による第二法則と同値である。この立場から見ると、マックスウェルの悪魔は存在しうるが、有限の物理的系としての悪魔は不用な情報を定期的に消去していかなくてはならないため、熱力学の第二法則を破れない。この意味での情報をもとに平衡状態、温度、エントロピーなども定義しなおすことができ、情報的熱力学を構築することができる。会場からは、発表者のエントロピーの定義は統計力学的な定義と食い違っているのではないか、という質問があり、それに対する明確化として、発表者の考えでは熱力学的エントロピーは統計力学的エントロピーと計算的複雑さの和である(したがって悪魔がどんどん計算的複雑さを増すことで統計力学的エントロピーは減らすことができる)、という答えがなされていた。また、情報を書くことと消すことの間に本当に差があるのか、という質問も何人かから出されていた。
John Norton (ピッツバーグ大)は「安逸をむさぼる者たち----ランダウアの原理とマックスウェルの悪魔の帰還」と題する発表を行った。ランダウアの原理とは、nビットの情報の消去にはk ln nのエントロピー増加が伴う、というもので、マックスウェルの悪魔が第二法則違反となりえない根拠として長らく引用されてきた。ところがこの原理は状態の確率分布がカノニカルである場合にしかあてはまらない。カノニカルな確率分布とは同じ様な系の集合(アンサンブル)における状態の確率分布のうち、アンサンブル全体に割り当てられる状態確率分布がアンサンブルに属する個々の系の状態確率分布と一致するようなものをいう(従って、明白に違う状態確率分布にある系を寄せ集めて平均的な状態確率分布を計算するのはカノニカルではない)。ランダウアの原理の典型的証明においては間に仕切りのある系の集合と仕切りのない系の集合が過って同一視され、その結果熱力学的エントロピーの計算そのものが間違ってしまっている。カノニカルアンサンブルと独立な議論としては状態の多対一写像は常に位相空間の圧縮を伴うという議論もベネットらによってなされてきたが、これも一般論としては正しくない。まず、粒子の入ったセルが右にあるか左にあるかという形で情報が貯えられているなら、すべての系において粒子があるセルを右に統一しても可能な状態の数はかわらない。具体的には、セルが左にある場合にのみそのセル自体を右に平行移動する、という操作でエントロピーを増大させずに多対一写像が行える。発表者はマックスウェルの悪魔を作る具体的なレシピは発見しておらず、そういう試みは結局は失敗すると考えているが、ランダウアの原理のようなやり方で原理的に悪魔の可能性を消去することもできない、というのが結論であった。この発表に対するベネットからの返答も紹介されたが、発表者の疑問に答えるものではなかった。会場からの反応としても、発表者の主な論点は間違っていない、とするものが多かった。
このセッションの二人の発表者はまったく矛盾する主張を行っていたわけであるが、二人の間で特に白熱した議論がなされるわけでもなく、ベネットのNortonへの返答を紹介した際のSchumacherの口ぶりからすると、ランダウアやベネットの側に見落としがあったということをSchumacherが認めた形になったようである。このセッションはある意味では今回のコンファレンスで一番哲学らしくないセッションであったが、一番刺激的なセッションでもあった。

「熱力学からナノテクノロジーへ」セッション
このセッションではまずLeah Henderson(MIT)が「第二法則と時間の逆転に関する対称性」と題する発表を行った。リープとイングベーソンが最近提案した熱力学の公理系は断熱的接近可能性の概念を基礎としている。この公理系について興味深いのは、第二法則を導出するために使われる公理は形式的にはすべて時間対称的だということであり、これをもとに、第二法則は時間不可逆性と関係がないと論じる論者もいる。しかし、発表者は同じ公理系が時間対称的にも時間非対称にも理解できるということを様相論理と時制様相論理のモデルを通して示す。リープとイングベーソンのいう「公理」は様相論理でいえば公理ではなく可能世界同士の接近可能性条件にあたり、かれらの提示する条件は時間対称的な様相論理公理系S4 とも、時間非対称的な時制様相論理公理系S4.3 とも両立するのである。この発表への反応として、司会のDavid Albertから、公理化によって古典力学と熱力学の間の緊張関係を解消しようとするのはそもそも見当違いで、仮に緊張関係が解消できるという結論がでたら、疑うべきは公理化のテクニックの方だ、という感想が出された。
Peter Vermaas (デルフト工科大学)は「技術と量子力学的解釈の基準」と題する発表を行った。彼によれば、量子力学の解釈の問題は部分的に選択問題へと進化している。発表者が支持する様相解釈だけとっても(ファン=フラーセン、ヒーリー、ブブら)現在少なくとも六つのバージョンがあり、特にどれがよいかについて決定的な議論があるわけではない。つまりどれを選ぶかは恣意的な側面があり、これが選択問題と発表者が呼ぶものである。そこで発表者が新たな選択の基準として提案するのが量子力学の技術的適用、特にナノテクノロジーや量子情報[EPRパラドックスを利用して瞬間的情報伝達やテレポーテーションを行おうという試みに関する分野]である。たとえば、量子情報伝達装置については、受信者の側が人間でも巨視的測定装置でもなくナノ機械である状況も考えられるが、そうした状況における「信号」を不決定なままで放置する量子力学解釈は工学的観点からは受け入れがたい。ただ、技術的実践はなんでもそのまま受け入れられるべきだというわけではない。たとえば技術者は系の一部に関するオブザーバブルと系全体に関するオブザーバブルを同一視する傾向を持ち、クリフトンもこの傾向を擁護しているが、量子力学的には両者の同一視は問題である。しかしこの場合でも、量子力学を学んだ後でも技術者が同一視を続けるなら、量子力学は技術的実践を説明する必要があるだろう。この発表に対しては、議論の一般性に関する疑問や、技術者が発表者の考えるような認識論的特権を持つと考える理由はなにか、という質問などが出ていた。

「空間と時間」セッション
このセッションではまずFrank Arntzenius (ラトガース大)が「ガンク、トポロジー、測定」と題する発表をおこなった。発表者によると、ガンク的(gunky、文字どおりには「ぬるぬるな」)時空とは、すべての部分が有限のサイズを持つような時空のことである。発表者は広がりを持たない点から構成される空間という概念にはいろいろな問題があると考える。一例として、空間の分割をめぐる測度論的パラドックス(平面をルベーグ測度0の領域を含む五つの領域に分割して平行移動しつなげなおすことで面積を二倍にできる等)がある。そうした問題をさけるために「点のない領域」からなる空間を考えよう、というのである。そうした領域を定義するには、境界においてのみ異なる領域の同値類として定義するトポロジカルな方法と、ルベーグ測度においてせいぜい0の範囲でしか差のないボレル集合の同値類として定義する測度論的方法とがある。ただし前者のやりかたでは可算加法的な測度を定義することができず、後者のやりかたではすべての領域の中により小さい領域があるという条件をみたすことができない。しかしそもそもガンク的な空間を導入する動機が空間のすべての部分が有限のサイズを持つということにあったので、発表者は特に後者の問題は問題にならないと考える。質問としてアトム的な単位空間を想定するのか、という質問があったが、発表者自身はそういうつもりはないとのことであった。また、時間についてはどうかという質問については、相対論を考えるなら当然時間と空間を区別する理由はないとのことであった。
最後に、Tim Maudlin(ラトガース大)が「時間の流れについて」と題する発表をおこなった。時間の都合でこの発表を聞くことはできなかったが、発表要旨によると、時間が流れるという考え方自体が不整合だという哲学的議論を批判し、時間構造に内在的な非対称性が物理の実践において発露することを示す、という趣旨の発表だったようである。

以上、本コンファレンスの内容を詳しく紹介してきた。物理学の哲学者たちが、量子力学の解釈や時間の流れといったスタンダードな問題において新しい試みを行うと共に、マックスウェルの悪魔のような一旦決着がついたと思われた問題や、対称性・ゲージ場・量子情報といった新しい問題にも取り組み、物理学の哲学の多様化が進んでいる様子を感じていただければ幸いである。物理学の哲学が物理学基礎論としての性格を強めていることは、このコンファレンス自体のタイトルに哲学という言葉が使われていないことにも象徴的に現れている。手法の面でも、中心的議論がおおむね数学的道具を用いて提示・論証されていたことを念のために付け加えておこう。物理学の哲学者に要求される物理学的知識はますます多様化・高度化しているようである。このコンファレンスは来年以降も定例的に行われることがおおむね決まっており、今後も注目していきたいところである。