哲学系一般教育のモデルとしてのクリティカルシンキング
名古屋大学 伊勢田哲治

本提題においては非哲学系学生への哲学教育モデルとしてのクリティカルシンキング(以下CTと略)の可能性について考える。
一般教育から哲学という名前の科目が姿を消していきつつある現状において、哲学系一般教育のありかたについてはいろいろな提案がなされている。応用倫理教育という形で哲学系教員の役割を確保するというのは一つの有力なモデルであり、発表者自身も非哲学系の学生を対象としてさまざまな形で応用倫理の授業を行ってきた。そうしたありかたももちろん有効だと思うが、限界も見え始めているように感じる。一つには、「○○倫理」の名を冠した授業においては伝統的な哲学教育が難しいという問題がある。伝統的な哲学教育ともっと無理無く接合でき、しかもカリキュラムの一環としての有用性を主張できるような授業のイメージはないだろうか。そこで発表者が着目しているのがCT教育としての哲学教育モデルである。
CTとは議論のよしあしを判断したりするための思考法で、情報の信頼性の吟味のしかた、議論の構造の分析のしかた、妥当な推論についての知識、犯しやすい過ちについての知識などが含まれる。
もちろんCTはどんな分野においても必要なスキルであるが、実験や観察といったデータに頼ることのできない哲学的論争において、議論の技法は特に重要な位置をしめる。とりわけ、さまざまな種類の懐疑主義をめぐる論争はCTのよい例である。もちろん、歴史的にはむしろそうした技法が先にあり、それがより大衆化させられることでCTが成立したと考えるべきであろう。そういう意味では、哲学教員がCTを教えることには(単にこれまで論理学の授業を担当してきたという以上の)十分な正当化があるといえるだろう。
アメリカでは、新入生向けの心理学初歩や論理学初歩の授業としてCTのクラスが開講されている。哲学系の大学院生がTAという肩書きでそうした授業を担当することも多い(アメリカではTAの位置づけが日本とかなり異なっている)。
発表者の提案は、哲学教員から提供する一般教育の一つのモデルとして日本でもCTが利用できるのではないだろうかということである。学生に有用なスキルを身につけされるという最近の大学運営の趨勢からも歓迎されるであろうし、また、CTの事例という形でさまざまな哲学上の論争について講じることもできるだろうから、応用倫理教育に比べると従来型の哲学系一般教育との断絶は小さくすることもできる。
発表者自身は、これまでのところCTを単独の授業とするのではなく、倫理系の授業の導入的な部分で何時間か割いてCTについて解説している。発表者の場合、非哲学系の大学院生にむけてそうした授業をすることが多く、学問としての哲学や倫理学の方法論について問われることが何度かあったため、哲学的思考の技法としてCTの解説を取り入れはじめたという経緯をたどっている。今のところ学生からは好意的にうけとめられているようである。新しくCTの授業を創設するのは難しいかもしれないが、こうした形でCTを取り入れることは哲学系一般教育ですぐにでも可能ではないだろうか。
CTを哲学系一般教育のモデルとしてプロモートしていくには、まずそうしたモデルが存在することを広く宣伝してそうした授業が開講される場を増やすことも必要であるが、それと同時に、後継者養成教育においてもCT教育の能力を身につけさせることが必要となるであろう。応用倫理モデルが広まって行く過程では、大学院生に本来の研究分野と別に応用倫理での業績を作らせるというやり方がなされてきた。しかしCTに関して同様の手法をとるべきかどうかについては慎重に考える必要があるだろう。