戦前動物愛護運動関係年表

2013年3月26日版

凡例

・本年表は、現在確認できている範囲で、新聞や各団体機関誌などの情報をもとに、戦前の動物愛護運動の活動内容をまとめたものである。

・書籍や論文の出版については、運動そのものにとって重要なものを除いては記載していない。文献リストを参照されたい。

・動物虐待防止会・動物愛護会関連の事項には[愛] 、日本人道会関連の事項には[人] 、当局の動きや横浜・神戸の動物虐待防止会などその他の動きには[他]というマークをつけてある。

明治8年 (1875)

6月27日 「一平民憐武」という署名の投書が読売新聞に掲載される。日本橋あたりで見た馬車馬の扱いのひどさを報告し、「文明国(ひらけたくに)では恥ずべくあるまじき事」「外国人に笑われましょうかと残念にぞんじます」といったコメントをつけている。現在確認されている範囲で日本人による最初期の近代的な動物愛護言説。読売新聞にはこの後数年の間にも何度か動物虐待を報告する投書や動物愛護家を紹介する記事が掲載されている(文献表参照)。

明治18年 (1884)

9月13日 ジャパン・ウィークリーメール紙上にThe treatment of animalsと題する記事。今のところ判明している限りで同紙のもっとも古い動物虐待防止関係の記事。イギリスでの先例を紹介し、日本もその先例に従うかと問いかける内容 (JWM 1884 9月13日号 (vol.2, no. 11) pp.258-260)。以後、ジャパン・ウィークリー・メイル紙には同様のタイトルの投書や社説がしばしば掲載されている。[他]

明治19年(1885)

9月26日 ジャパン・ウィークリー・メール紙上に"cruelty to dumb-animals"と題する読者T.H.からの投稿。「日本の若者」と自らを呼び、エピソードも日本人であることをうかがわせる(ただし、「徳禽獣に及ぶ」を「澤禽獣に及ぶ」と表記するなど、疑わしい面もある)JWM 1885 9月26日号 (vol.4, no. 13) p.305。もし本当に日本人によるものであれば、日本人による西洋流動物愛護言説のはしりということになる。

明治22年 (1889)

4月6日  ジャパン・ウィークリー・メイル紙に読者からの投稿(4日付け)。鳥の羽根を生きたままむしることについての注意喚起と当局の介入を求める文章。(JWM 1889年 4月6日号 (vol.11, no. 14) p. 334) 。[他]

明治23年 (1890)

4月 29日 『郵便報知新聞』に明治法律学校の学生が法典発布記念運動会で豚を虐殺したことについて非難のコメントが掲載される。(郵便報知新聞1890年 4月29日 3面 「豚殺しの非難」)。さらに翌月のジャパン・ウィークリー・メイルで東京公論や郵便報知新聞がこの件について発言したことを賞賛する記事が掲載される(JWM 1890年 5月10日号 (vol. 11, no. 19) p.478 )。他の新聞にもこれに関する記事があったようだが詳細は不明。

5月5日 警視庁より馬車馬を苛酷に扱わないようにとの内諭。記事中の説明ではジャパン・メイル紙の指摘をうけたものとのこと。(「乗合馬車営業者一般が使用せる馬匹は其の馭者が無暗に鞭撻を加え毫も憐れむの情なきは如何に獣類とはいえ惨酷の至りなり、と去月十四日のジャッパンメールに掲載ありしが、警視庁に於いては早くも爰に注目し...」) (読売新聞 1890年 5月5日 朝刊3面)[他]

8月16日 インドのジャーナリストでボンベイ動物愛護協会のsecretaryでもあるK,M,Shroff がジャパン・ウィークリー・メイル紙に訪日印象記を寄稿(pp,159-161) タイトルにparseeとあるのでゾロアスター教徒と思われる。その中(p.160)で馬車の馬のみじめな状態について記述し、動物にやさしい仏教徒の国であるはずなのになぜ動物愛護会を作らないのかという問題提起を行っている。同号に社説もあり [他]

月日不明 『女学雑誌』に社説「禽獣歎」掲載(無署名だが巌本善治によるものと思われる)。(『女学雑誌』201号 pp.1-3.)。巌本はこのあと翌年にかけて『女学雑誌』誌上に同趣旨の記事を何度か掲載している。[他]

明治 24年 (1891)

5月 ジャパン・ウィークリー・メイル紙と『国会』紙の間で動物愛護論争。居留外国人は動物愛護を唱えながら宣教師が召使いをむち打ったりしているではないか、という『国会』紙の批判に対し、そんな話はきいたことがない、とメイル紙の社説が反論。

明治26 年 (1893)

月日不明 広井辰太郎19歳(?)で上京。本人の説明によれば、三位一体説に疑問を持った為に長崎の英語学校を退学になり、新教神科大学のスピンネルに手紙を送ったところ上京をうながされ入学したという。(広井「動物愛護運動の回顧(二)」『動物愛護』2号合本pp. 11-12)

明治30年 (1897)

月日不明 このころ、広井はアンジェルの Society for the Prevention to the Cruelty to Animalsを上野の図書館で読んだという。(広井「動物愛護運動の回顧(二)」『動物愛護』2号合本p. 12)

明治31 年 (1898)

3月『反省雑誌』(『中央公論』の前身)誌上で動物愛護特集。河野学一の論考や他誌からの転載記事、遊猟に関する無署名記事などが掲載されている。同誌上では4月にも関連記事が掲載されている。[他]

明治32年 (1899)

8月 広井辰太郎 『太陽』紙上に「誰か牛馬の為めに涙を濺ぐものぞ」を8.9月の二回にわけて掲載。この論文をめぐって同じく『太陽』誌上で同年内に「宋襄生」と広井の間で論争(広井の回想によれば、「宋襄生」は『太陽』文芸欄の責任者だった高山樗牛のペンネームだったとのこと。「動物愛護運動を語る」(座談会)『動物文学』87(17年9月)号52-65ページ参照)[他]

12月 広井「動物保護論」を『中央公論』誌上に発表。[他]

月日不明 広井辰太郎の論文に共鳴した大内青巒が櫻井義肇の紹介で広井と会う。以後4年間この三人での相談が行われる(広井「動物愛護運動の回顧(四)」『動物愛護』4号合本p. 17 『動物虐待防止会一覧』p.1 )[ 愛 ]

明治33年 (1900)

3月 広井辰太郎、独逸普及福音教会の内紛で教会を去るが、留岡幸助、岩本善治のあっせんで神奈川県の根岸監獄での通訳としてやとわれる。(広井「動物愛護運動の回顧(五)」『動物愛護』5号合本pp. 23-24 )[ 愛 ]

5月ごろ 広井辰太郎、松井簡治と村田祐二の斡旋で福井県の福井中学の教員心得として赴任(広井「動物愛護運動の回顧(五)」『動物愛護』5号合本pp. 23-24 )[ 愛 ]

明治34年(1901)

4月 15日  読売新聞記事にて、農商務省当局者の談として、牛馬取扱規則の制定が検討されているとの報。牛馬の質の改良が目的であること、イギリス、ドイツ、フランス、オーストリアの先行する法律が参考にされていることなどが記述されている。(読売新聞 明治34年4月15日朝刊6面「牛馬取扱規則制定の必要」)[他]

7月31日 農商務大臣から「牛馬虐待取締の訓令」(訓令第18号)が発せられる。(虐待を禁ずる理由としては「動物本来の良性を損じ発育を害するもの少なしとせず」とある)(『馬事年史』3 311-312ページ、中央公論明治34年9月号、読売新聞 明治34年8月1日朝刊 3面「牛馬酷使取締」)[他]

10月12日 読売新聞に記事、牛馬虐待取締の訓令では各地域の実情に応じた取締をするようにとあるがどうしたらいいかわからないので一定の標準を設けて欲しいという要望が出ているとのこと(読売新聞 明治34年10月12日朝刊 5面「牛馬虐待取締訓令と地方長官」) [他]

11月 16日 明治33年より福井中学で教鞭をとっていた広井辰太郎がモルモン教団のグラントから英語教師の依頼をうけて帰京。この仕事は5月まで続いた(広井「動物愛護運動の回顧(十三)」『動物愛護』13号55-56ページ、十四回、十五回にも関連する記述)[ 愛 ]

12月7 広井、大内青巒と面会し動物愛護団体の結成をもちかける(広井「動物愛護運動の回顧(十三)」『動物愛護』13号55-56ページ)

明治35年 (1902)

1月8日 神戸で警察が動物虐待をよく取り締まっている、というジャパン・クロニクル紙の記事(The Japan Chronicle(旧シリーズno. 236 新シリーズno. 1), 1902年1月8日号p.10"ill-treatment of animals in Kobe: action by the police") [他]

1月 日本橋倶楽部で動物虐待防止会設立に関する相談。出席:島地黙雷、高楠順次郎、前田慧雲、梅原融、大内青巒、櫻井義肇 あとから広井辰太郎、巌本善治もその場によばれ、会の設立の合意がとられた(『動物虐待防止会一覧』 p.1 )[ 愛 ]

2月2日 「日本人道教育会」第一回設立相談会 出席:島地黙雷、梅原融、痴山義亮、前田慧雲、干川貫一、巌本善治、大内青巒、櫻井義肇、広井辰太郎の9人(広井「動物愛護運動の回顧(十三)」『動物愛護』13号55-56ページ) [ 愛 ]

2月9日「動物虐待廃止会」第二回設立相談会 出席:大内青巒、前田慧雲、櫻井義肇、広井辰太郎、巌本善治、高楠順次郎(広井「動物愛護運動の回顧(十三)」『動物愛護』13号55-56ページ、『六号雑誌』256号321(79)−322(80)ページ) [ 愛 ]

      『動物虐待防止会一覧』p.2ではこの日が第一回相談会とされている。こちらでの出席者リストは大内、高楠、櫻井、広井、巌本、前田の他、高島平三郎、高島円、荻野仲三郎。本部を広井宅に置き、趣意書を広井が起草すること、会の名称を動物虐待防止会とすることが決定される。[ 愛 ]

2月28日 『動物虐待防止会一覧』p.3ではこの日に第二回相談会。井上哲次郎他数人の入会者。[ 愛 ]

3月9日 『中外日報』に「遊猟禁止の運動」というタイトルで大内青巒らが「動物虐待遊猟禁止の運動」をはじめようとしているという記事。おそらく防止会のことと思われる。[ 愛 ]

3月16日「動物虐待防止会」第三回設立相談会 出席:荻野仲三郎、酒生慧眼、高島米峰、櫻井義肇、脇田尭惇、村上専精、広井辰太郎の7人(広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ)。『動物虐待防止会一覧』p.3では、この日に村上専精、酒生慧眼、脇田尭惇らが入会[ 愛 ]

4月20日 第四回相談会。出席者:大内青巒、安倍磯雄、神田佐一郎、高嶋平三郎、高嶋米峰、本田増次郎、境野哲、荻野仲三郎、梅原融、櫻井義肇、広井辰太郎の11人。設立趣意書、規約、発起人名簿(この時点で56名)などについて話し合う。本部は広井辰太郎宅。 (『中央公論』明治35年5月号、広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ)『動物虐待防止会一覧』p.3では、この日に近衛篤麿、福島安正、山県悌三郎、安部磯雄、境野哲、本田増次郎、山県五十雄、神田佐一郎が入会し発起人に加わるとある。[ 愛 ]

5月11日 広井・大内、原礼子、鳩山春子、山脇房子の三人を訪問(広井「動物愛護運動の回顧(十六)」『動物愛護』16号合本67-68ページ)

5月15日 第5回相談会 出席者10人(広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ)『動物虐待防止会一覧』p.3では、この日に何礼之、河野学一らが入会[ 愛 ]

5月19日 発起人会(『動物虐待防止会一覧』p.3のみ)[ 愛 ]

5月24日 趣意書完成、最終的な発起人は74名(広井「動物愛護運動の回顧(一)」『動物愛護』1号6ページ「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ。なお、6月に『児童研究』に掲載された趣意書では発起人は63人。)[ 愛 ]

6月1日 読売新聞に記事、牛馬取締規則を励行するため東京市内各所に巡査を派遣、九段坂では一日200件の取り締まりがあった。(読売新聞 明治35年6月1日朝刊2面「牛馬取締規則の励行」)[他]

6月15日 発起人例会(広井の表現では「第六回相談会」) 講演:ダルマバーラ「印度に於ける人道問題」本田増次郎「欧米における対動物思想の変遷」、出席:片山国嘉、河瀬秀治、湯本武比古、山縣悌三郎、プーランシンなど34名。(読売新聞 明治35年6月17日朝刊5面;時事新報 明治35年6月17日;萬朝報 明治35年6月17日2面、広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ Japan Weekly Chronicle June 25th p. 592 にもこの会合についての記述あり)『動物虐待防止会一覧』p.5の名簿では出席者はダルマバーラを除いて37名。(ダルマバーラの略歴と来朝の理由については『智嶺新報』16号(明治35年6月21日号)30ページに解説「ダルマバラ氏の経歴と来朝の理由」。「南北仏教の調和を計り青年仏教徒の連合を策せん為め」とのこと)[ 愛 ]

6月22 日 国民新聞に「馬を打って拘留」という記事。馬をさんざんに打ち苦しめた男が拘留されたとのこと(現物未確認、『動物愛護』55号199ページ)[他]

7月6日 第七回相談会 出席者15名(広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ)[ 愛 ]

7月18日 牛馬使役方取締令による過去10日の取り締まり成績が公表される

荷馬車 説諭 931人、告発33人、負荷を減らされたもの332人

荷牛車 説諭 68人、告発14人

乗合馬車 説諭 47人、告発1人 乗客を減らされたもの 17人

計 1543人

(読売新聞 明治35年7月18日朝刊1面「牛馬使役方取締成績」)[他]

7月 動物愛護会記章の図案を福地復一(ただいち)氏に依頼(読売新聞 明治35年7月14日朝刊2面)[ 愛 ]

7月29日 加藤弘之が動物愛護に関する講演を帝国教育会で行ったとの記事(日出国新聞、現物未確認、『動物愛護』52号199ページに転載)[他]

9月21日 発起人例会(広井の表現では「第8回目」) 出席:後藤牧太、山縣悌三郎、山縣五十雄、湯本武比古(読売新聞 明治35年9月23日朝刊2面、朝日新聞 明治35年9月23日朝刊2面、広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ)[ 愛 ]

10月15日 第9回相談会 出席:山縣悌三郎、湯本武比古、櫻井義肇、広井辰太郎の4人。25日の演説中に外人を加えることなどを決定(広井「動物愛護運動の回顧(十七)」『動物愛護』17号71-72ページ)[ 愛 ]

10月16日 馬を虐待していた飼主を巡査部長が取り押さえて説諭の上、牛馬取扱い規則に基づいて科料に課した(読売新聞 明治35年10月18日朝刊4面「飼馬の虐待」)[他]

10月25日 総会および講演会、芝の唯一館にて。萬朝報によれば演題は以下の通り。本田増次郎、山縣悌三郎「開会の趣旨」、広井辰太郎「日本動物虐待防止会の由来」、村上專精「予の見たる人類と他動物」、黒岩周六「吾人と動物」、大内青巒「動物に対する昔話」。『動物虐待防止会一覧』p.9によれば以下の通り。山縣悌三郎「開会の辞」、広井辰太郎「動物虐待防止会の沿革」、黒岩周六「吾人と動物」、本田増次郎「動物の教訓」村上專精「差別と平等、平等と差別」、大内青巒「動物に対する昔話」。評議員25名、幹事3名を選出(読売新聞 明治35年10月26日朝刊1面; 萬朝報 明治35年10月25日2面、26日2面)萬朝報25日予告では本田増次郎ではなくダムローカが「演題未定」として講師とされていた。なお、『動物虐待防止会一覧』では評議員が27名挙げられている。その他『六合雑誌』263号886ページ(76)ページにも記事(ダムローカについては『智嶺新報』20号(明治35年10月21日号)18-19ページ)に説明記事「ダマロカ氏の渡来」。アイルランド出身でビルマで大僧の資格をえ、ローマで会った織田得能をたよって来日。雲照律師の指導を受けているとのこと)[ 愛 ]

11月23日 評議員会。(萬朝報 明治35年11月23日2面)広井は上記の27名以外に18人の追加の評議員の名前を挙げているがいつ任命されたかは不明(広井「動物愛護運動の回顧(三十一)」『動物愛護』34号 140ページ [ 愛 ]

明治36年(1903)

1月 『六合雑誌』265号78ページに第一回会計報告および入会者の姓名一覧を公表。寄付金と演説会の入場料、弁当代の残りの繰り入れなどで収入は217円37銭7厘5毛。支出は会場費、通信費、謄写版一個、出版費、雑費、切り抜き通信料(?)などで59円45銭2厘5毛、差し引き157円93銭2厘5毛。入会者名簿は「自35年3月至同年12月5日」として110人程度の名前が上がり、女性の名前もかなり多い。発起人の名前は入っていない。[ 愛 ]

1月31日 例会、神田青年会館にて。晩餐会は神田淡路町多賀羅亭にて 講演:村上專精、井上哲次郎、大内青巒、巌本善治(萬朝報 明治36年1月31日2面)。『動物虐待防止会一覧』p.10によれば演題は以下の通り。本田増次郎「開会の辞」、湯本武比古 「動物の保護に就きて」村上專精「何故に動物虐待を防止すべきや」大内青巒「博愛」[ 愛 ]

3月22日? 評議員会 叢書発行、婦人部の設置、条例発布の建議を決定(萬朝報 明治36年3月24日2面)[ 愛 ]

5月15日 例会(萬朝報 明治36年5月15日2面)[ 愛 ]

5月31日『動物虐待防止会一覧』によればこの時点での会員数815名、千葉にも千葉胤臣の尽力で100余名の会員ができたとのこと[ 愛 ]

6月13日『動物虐待防止会一覧』発行。編集発行者は渡辺福三郎、非売品。[ 愛 ]

6月15日 例会 講演:本田増次郎、江原素六、山本直良、出席者三十余名。「動物虐待防止会一覧」の配布、6月20日に婦人部の会合を開くことを決議(萬朝報 明治36年6月15日2面、6月17日2面)[ 愛 ]

6月25日 婦人部会第一回会合 講演:広井辰太郎、高島平三郎、本田増次郎 来会者およそ百名、規約の決定、例会を第一土曜日に行うこと、評議員27名の決定(『をんな』第三巻第七号な15ページ 萬朝報と朝日新聞には6月20日に会合の予告あり)[ 愛 ]

7月4日 婦人部第二回会合 来会:大内青巒(『をんな』第三巻第七号な15ページ)[ 愛 ]

7月15日 評議員会 講演:木下藤次郎(水彩画家)、龍江義信。 小学児童を対象とした懸賞文を募集すること、小学校等で講演会を開くことを決議、千葉胤臣が千葉県支部を作るとの報告(萬朝報 明治36年7月15日2面、7月17日2面)[ 愛 ]

7月 『六合雑誌』に「動物虐待防止会の発達」という記事。婦人部の設立に触れるとともに、「此の会の著しく発達せし証拠は、既に地方に十二に支部が出来、尚近き将来に於て設立されんとする支部の数の少なからざることである」とある。[ 愛 ]

9月12日 本田増次郎訳『驪語』(再版以降は『黒馬物語』)出版[ 愛 ]

9月15日 例会 講演:井上円了、姉崎正治、高楠順次郎、副島八十六 出席:本田増次郎、村上專精、島地黙雷、など40余名。 10月下旬に大会・演説会を開くこと、懸賞の募集、雑誌の発行、動物虐待事項調査について報告(読売新聞 明治36年9月17日朝刊1面; 萬朝報 明治36年9月15日2面、9月17日2面)[ 愛 ]

9月 『六合雑誌』によれば評議員会を開いて小学生からの懸賞論文を募ることと小学校などで講演会を開くことを決めたとのこと。(『六合雑誌』273号721(73)ページ)[ 愛 ]

10月24日 演説会 講演:アウドリー監督「動物に対する東西思想の異同」、黒岩周六「人○とは何ぞや」、村上専精「未定」(萬朝報 明治36年10月24日2面)[ 愛 ]

11月16日 例会 講演:岡田朝太郎、下田次郎、出席:山縣悌三郎、渡邊清二郎など40名(読売新聞明治36年11月18日朝刊5面; 萬朝報 明治36年11月16日2面、11月18日2面)[ 愛 ]

12月15日 例会(萬朝報 明治36年12月15日2面)[ 愛 ]

明治37年(1904)

1月15日 例会(萬朝報 明治36年1月15日2面)[ 愛 ]

2月15日 例会 話者:根本正、村上專精、鈴木券太郎、入江濤吉 岡本經朝 出席二十余人(「あはれみ」の名簿で25人)(読売新聞 明治37年2月18日朝刊1面; 『あはれみ』第一号8ページ)[ 愛 ]

2月25日 『あはれみ』第一号 発行。会員数「千幾百人」との記述(8ページ)[ 愛 ]

3月15日 例会 話者:北條環翠、巌谷季雄、岡本經朝、田中松太郎、松尾童阿彌、金澤久、辻新次、山田_、出席名簿で39人。ネープルスの動物保護会概況報告、児童懸賞論文調査報告。(『あはれみ』第二号4ページ)[ 愛 ]

3月25日 『あはれみ』第二号 発行[ 愛 ]

4月15日 例会 話者: 向軍治、高島平三郎、本田存、富田常次郎、出席名簿で31人。支部との関係についての決議、軍馬の救護についての決議(『あはれみ』第三号3−4ページ[ 愛 ]

4月25日 『あはれみ』第三号 発行。動物虐待取締についての調査結果報告。[ 愛 ]

5月15日 例会 話者:山縣悌三郎、山本直良、小島剛四郎、岡本正文、入江濤吉、出席名簿で31名。(『あはれみ』第四号4−5ページ)高楠順次郎より書簡[ 愛 ]

6月15日 例会 話者:島田蕃根、大内青巒、長野菊次郎、出席名簿で33名。(『あはれみ』第四号5ページ)[ 愛 ]

6月25日 『あはれみ』第四号 発行。事務所を山縣悌三郎宅に移動。新渡戸稲造夫人より5円の寄付との記事。英字欄の記載から、この時点で幹事が山県、本田、櫻井、広井、高島の五人となっていることがわかる。[ 愛 ]

7月15日 例会 話者:広井辰太郎、櫻井彦一郎、根本正、神田佐一郎、河口慧海。出席名簿で32名。(『あはれみ』第五号6ページ)[ 愛 ]

9月15日 例会 話者:広井辰太郎、杉村広太郎、 出席名簿で36人。南海新報の件。好本督がイギリス(英文欄によればロンドンのRSPCAの年次大会)で日本の動物虐待防止会について講演したとの報告。十月の定例大会の延期を決議。会員篠田利英が牛馬給水槽の設計。(読売新聞 明治37年9月15日朝刊1面 『あはれみ』第五号6ページ)[ 愛 ]

10月15日 例会 話者:広井辰太郎、出席 名簿で20名。高楠順次郎より書簡、メンデルソンより「馬のねがい」の和訳の依頼。神戸クロニクルから促された花屋敷への注意。(『あはれみ』第五号6−7ページ)[ 愛 ]

10月25日 『あはれみ』第五号 発行。この号の花屋敷に関する記事は他の新聞にも転載され、結果として花屋敷の象の待遇改善につながったという。(無署名"kindness to animals" The Japan Chronicle 1907 年 2月 7 日号(旧シリーズno.502 新シリーズno.266),p.159)[ 愛 ]

11月15日 例会 話者:山縣悌三郎、広井辰太郎 出席 名簿で30名。(『あはれみ』第六号6ページ)

11月25日 『あはれみ』第六号 発行。[ 愛 ]

12月15日 例会 話者:山縣悌三郎、広井辰太郎 出席 名簿で22名。(『あはれみ』第七号6ページ)[ 愛 ]

明治38年(1905)

1月10日 『あはれみ』第七号 発行。本田増次郎が山縣悌三郎宅に仮住まいしている旨の広告[ 愛 ]

1月15日 例会 話者:本田増次郎ほか多数  出席 名簿で28名、ただし「来会者は27名」との記載あり。三菱石炭運搬の馬匹虐待について勧告書を送る決議。(『あはれみ』第八号6ページ)[ 愛 ]

2月15日 例会 話者:山県、広井、島地ほか多数 出席 名簿で37名、「来会者は37名」との記載も。(『あはれみ』第八号6−7ページ[ 愛 ]

3月15日 例会 話者:広井、櫻井義肇、吉田賢龍ほか多数  出席 名簿で28名。痘苗製造所払い下げの子牛の虐待について注意書を送る決議。上野動物園で、公衆の面前で生きた動物を熊に与えているという報告があり、注意書を送る決議。(『あはれみ』第八号7ページ)[ 愛 ]

3月30日 『あはれみ』第八号 発行。牛馬給水器の設置開始の報告。エム・メンデルソン『馬のねがひ』が著者から寄贈されたとの報告あり(現存する刊本では「動物虐待防止会仮事務所」が出版所となっているが、ここの記述ではむしろメンデルソン本人が自分で出版したものを寄贈したとなっている)[ 愛 ]

5月15日 例会 話者:本田増次郎、前田徳水  出席 名簿で24名。(『あはれみ』第九号六ページ)[ 愛 ]

6月15日 例会 話者:山県悌次郎、杉村広太郎、松尾童阿彌、本田増次郎  出席 名簿で37名。(『あはれみ』第九号6−7ページ、毎日新聞 明治38年6月15日二面)[ 愛 ]

7月10日 『あはれみ』第九号 発行。論説で「動物の権利」論の紹介。本田増次郎が7月18日に日本を離れることとアメリカでの連絡先の記述。[ 愛 ]

9月15日 例会 (毎日新聞 明治38年9月15日二面)[ 愛 ]

10月15日 例会 (毎日新聞 明治38年10月15日二面)この回だけなぜか「会費は食堂に入るものに限り〜銭を要す」(途中判読不能)との但し書きあり[ 愛 ]

明治39年(1906) 

2月 例会  (毎日新聞 明治39年2月15日二面)[ 愛 ]

3月 軍馬の記念給水所を東京市中に建設(読売新聞 明治39年3月8日朝刊3面)[ 愛 ]

3月23日 例会 (毎日新聞 明治39年3月15日二面に「23日に開催する由」との記事あり)[ 愛 ]

3月24日 山県文夫・布施知足・好本督を中心として少年動物愛護会結成。萬朝報によればこの日の会合にはロイド博士、巌谷季雄、向軍次、高島平三郎、山県五十雄の諸氏による講演ありとのこと(『児童研究』第9巻第4号47-48ページ、萬朝報 明治39年3月21日二面)[ 愛 ]

5月 24日 W.F.Mitchell が中心となり、横浜動物虐待防止会結成会が開かれる。広井が出席し講演する。広井の講演内容として、当時すでに動物虐待防止会の会員は5000人をこえるというのが広井の印象で、宇都宮と千葉に支部がある、という発言が記録されている。(無署名(1906 明治39)「prevention of cruelty to animals」『The Japan Weekly Mail』第45巻21号(May 26th, 1906号)551ページ)[ 他 }

6月 例会  (毎日新聞 明治39年6月15日二面)[ 愛 ]

11月27日 イギリスの動物虐待防止会より東京市に馬水槽が寄贈され市役所前に設置された(読売新聞 明治39年11月29日朝刊3面。東京朝日新聞1937年7月14日夕刊3面に関連記事。30年後にまだその水槽が存在していることがわかる) [他]

12月14日 兵庫県でワン車(犬に人力車や荷車を引かせること)を禁止したとの記事(読売新聞 明治39年12月14日朝刊3面「ワン車の禁止」)[他]

明治40年(1907)

1月4日 横浜動物虐待防止会 第一回年次大会。Mitchell会長が間もなく日本を離れるということでE.C. Davisが次期会長に選出される。2月9日にチャリティコンサートを行う予定というアナウンスがあった。("The S.P.C.A: Annual Meeting at Yokohama" The Japan Chronicle 1907年1月10日号(旧シリーズno. 498 新シリーズno.262),p.41) [他]

2月14日 神戸動物虐待防止会設立準備会。趣意書(英語とその日本語訳)が可決された。この趣意書はその後神戸近辺の数百人の日本人に発送された。("Society for prevention of cruelty to animals" The Japan Chronicle 1907 年 2月 21 日号(旧シリーズno.504 新シリーズno.268),p.257)[他]

4月5日 神戸動物虐待防止会の発足大会がひらかれる。服部一三兵庫県知事を会長、水上神戸市長を副会長とすることが決定。会費についての決定。横浜では一家に3円という会費だが神戸ではひとり2円という会費にすることに決まる。"prevention of cruelty to animals: formation of a society at Kobe; Speech by Governor Hattori" The Japan Chronicle1907 年 4月 11日号(旧シリーズno.511 新シリーズno.275),p.498[他]

5月 横浜動物虐待防止会が動物用水飲み槽を提案し市議会で3つが承認された。市議会ではひとりだけ「人間の水でさえ不足しているのに」といって反対があった。"SPCA Water Troughs"The Japan Chronicle, 1907 年 5月 23日号(旧シリーズno.517 新シリーズno.281),p.691 [他]

9月15日 例会 講演:山腰天鏡、高島平三郎、高久某 (読売新聞 明治40年9月16日朝刊2面)[ 愛 ]

9月ごろ? 神戸動物虐待防止会のインスペクターにマツエ氏が就任し、それ以来かなり改善がみられるようになったとJapan Chronicleで報じられている("Kobe SPCA" 『The Japan Chronicle』1907 年 9月 26日号(旧シリーズno.535 新シリーズno.299),p.413

明治41年(1908)

1月15日 例会(萬朝報 明治41年1月15日朝刊2面)この時に千家会長、大内、江原両副会長体制になったらしい(広井の回想には防止会発足直後にその体制になったような記述があるが記憶違いであろう)。「動物虐待防止会の活動 組織を更め千家知事を会長に、大内青巒、江原素六両氏を副会長に、法学博士菊池武夫氏を法律顧問に、また別に会見監督の一命を置くこととなり、此程例会を開きたり」(『中外日報』明治41年1月17日二面、吉田1964 p.572も参照)。また、広井(1940 昭和15)「文部大臣に与うる書」『動物愛護』第20号84ページも参照。大内、江原の二人を副会頭とする体制は長く続いたらしく、大正11年の伝書鳩のメッセージの内には「故大内江原両副会頭遺族」にあてたメッセージも用意され、「故大内青巒翁故江原素六の遺族各位 翁は永く本会副会頭として(以下略)」とある。[ 愛 ]

2月15日 例会(萬朝報 明治41年2月15日朝刊2面)この会合まで「動物虐待防止会」という名前で予告が出ている。[ 愛 ]

3月15日 例会 講演:根本正、宮田脩  (読売新聞 明治41年3月16日朝刊2面)この会合の予告は「動物愛護会」名で、以降の新聞記事等もすべて「動物愛護会」になっている(横浜の団体は「動物虐待防止会」を名乗り続けている)。2月から3月の間に動物虐待防止会から動物愛護会へと改名したものと思われる。(ただし同年11月15日の項も参照)[ 愛 ]

5月15日 例会(萬朝報 明治41年5月15日朝刊2面)[ 愛 ]

6月15日 例会。朝日新聞での「動物愛護会」の初出(萬朝報 明治41年6月15日朝刊2面、 朝日新聞 明治41年6月15日朝刊2面)[ 愛 ]

9月29日 警察犯処罰令が内務省令第16号として公布される。その第3条第14項では「公衆ノ目ニ触ルヘキ場所ニ於テ牛馬共ノ他ノ動物ヲ虐待シタル者」を「20円未満ノ科料ニ処ス」と定めている [他]

11月15日 例会。広井の記録によれば「会名を動物愛護会に改むるの動議提出、少数反対意見出でたるも、起立多数にて変更に決議、結局会長千家男(当日例会欠席)の意見を徴して可否を決定することとす」とのこと(広井「動物愛護運動の回顧(三十二)」『動物愛護』35号 144ページ)。3月の時点ですでに新聞での例会広告に「動物愛護会」という名称が用いられていることと矛盾するが、紆余曲折を経たものと推測される。[愛]

明治42年(1909)

3月2日 神戸動物虐待防止会年次総会。服部知事が病気のため水上浩躬神戸市長が臨席してスピーチ。服部知事が会長に、水上市長が副会長に再選。創設以来の会計報告も行われた。会員は341人とのこと。"Kobe society for the prevention of cruelty to animals: general meeting"  The Japan Chronicle 1909 年 3月 4日号(旧シリーズno.610 新シリーズno.374),p.350 [他}

5月15日 例会 講演;入江濤吉 犬の口輪について警視庁に建議 (読売新聞 明治42年5月15日朝刊2面、5月16日朝刊3面)[ 愛 ]

6月15日 例会 講演;元良勇次郎 (読売新聞 明治42年6月16日朝刊2面)[ 愛 ]

7月  畜犬保護同盟を組織(読売新聞 明治42年7月16日朝刊2面)[ 愛 ]

明治43年(1910)

3月15日 例会 講演:中村広道、黒住(?) 鈴木大拙 出席三十余名(読売新聞 明治43年3月16日朝刊2面)[ 愛 ]

3月24日 横浜動物虐待防止会が市内の成績優秀な小学生に銀牌を贈る。(「動物虐待防止会の銀牌」『読売新聞』明治43年3月27日号朝刊3面)[ 他 ]

明治44年(1911)

6月15日 例会「高島米峰氏の動議に基き、警視総監に畜犬箝口具廃止建議、姉崎正治博士提唱の暑中休暇中小学児童が無心に昆虫を殺さぬよう、府庁並に市役所を通じて全東京府小学校に警告するの二件。決議」とのこと。(広井「動物愛護運動の回顧(三十五)」『動物愛護』40号164ページ)

6月20日 安楽警視総監に箝口具廃止の建議書を郵送。内容は「畜犬箝口具は犬族の自由を奪い、犬の保健上有害にして反って危険性を誘発するの虞れあるのみならず、畜犬本自の目的に副わざる非文明的施設なるを以て即時是れを撤廃されんおとを要請す。(一)一般畜犬に対しては定期又は臨時健康診断を行い、唯だ咬傷を与える危険性ある特殊畜犬のみに箝口令を適用すること。(一)一度び箝口令を実施したる伯林に於いてはその害を認めて近時是れを撤廃せり。 右御実行に相成度此段建議候也」(広井「動物愛護運動の回顧(三十五)」『動物愛護』40号164ページ)[ 愛 ]  

7月13日 箝口具について警視庁に陳情 (広井「動物愛護運動の回顧(三十六)」『動物愛護』42号170ページ)[ 愛 ]  

7月20日 犬の箝口具をやめて口網にするよう警視庁の庁令が発せられた(広井「動物愛護運動の回顧(三十五)」『動物愛護』40号164ページ)[ 愛 ]

7月27日 動物愛護会から再度の建議書。「動物愛護会は謂わゆる箝口具と口網との間に何等本質的の相違を認むる能わずよって の建議の趣旨に基き茲に再び是れが全廃を建議す。」広井の回想では「6月27日」とあるが文脈からいって7月でなくてはおかしい。(広井「動物愛護運動の回顧(三十五)」『動物愛護』40号164ページ)[ 愛 ]

12月 例会。亀井警視総監が出席(広井「動物愛護運動の回顧(三十五)」『動物愛護』40号164ページ)[ 愛 ]

12月 文部大臣に対し遊猟を禁止するよう求める意見書を提出 (広井辰太郎(1940)「文部大臣に与うる書」『動物愛護』第20号84ページ) [ 愛 ]

明治45年(1912)

3月15日 例会(読売新聞 明治45年3月15日朝刊5面)[ 愛 ]

7月15日 例会、神田一橋学士会にて(東京朝日新聞 明治45年7月15日朝刊4面)[ 愛 ]

(大正元年)

11月15日 例会、探検家中村春吉、江木冷灰博士出席、神田一橋学士会にて(東京朝日新聞 大正元年11月15日朝刊4面)(江木冷灰は江木衷の号。江木衷は明治の法律学者、弁護士)[ 愛 ]

大正2年(1913)

5月15日 例会、講演:林毅陸、山上曹源 神田淡路町多賀羅亭にて(東京朝日新聞 大正2年5月15日朝刊3面)[これ以後例会は多賀羅亭(タカラ亭、宝亭などとも表記される)で行われる] [ 愛 ]

7月15日 例会、講演:ダルマーバラ、高楠文学博士 神田淡路町多賀羅亭にて(東京朝日新聞 大正2年7月15日朝刊3面)[ 愛 ]

12月15日? 忘年会 (読売新聞 大正2年12月15日)[ 愛 ]

大正3年(1914)

4月 日本人道会発足 (動物愛護協会所蔵史料「日本人道会沿革」) [ 人 ]

6月2日 新渡戸邸にて最初の会合?(動物愛護協会所蔵史料"History of the Nippon Jindo Kai" 、手書きでタイトル冒頭にEarly という書き足しとby Frances Hawks C Burnett Chairman N.J.K.という記入がある。同じく手書きの記入に再編成後の会の活動として1927年1月から1928年1月の活動を付記することとあるので、1928年ごろのものと思われる) [ 人 ]

6月16日 新渡戸邸にて最初の会合?(Japan Weekly Mail June 27, 1914 p.705)日本人道会(Japan Humane Society)という名前の採択、役員の選出などが行われ、動物愛護会および横浜SPCAのsecretaryの援助に対する感謝が表明されたとのこと。 [ 人 ]

9月15日 例会 講演:隈本有尚、山熊騎兵尉大、タカラ亭にて(読売新聞 大正3年9月15日)[ 愛 ]

11月15日 例会 講演:室伏高信、西村寅三郎、多賀羅亭にて(読売新聞 大正3年11月15日)[ 愛 ]

11月19日 会合、 東京商業会議所にて 「事務の報告、役員の選挙、其他の事務」とのこと (読売新聞大正3年11月19日号 朝刊3面) [ 人 ]

12月15日 忘年会、講演:福来文学博士、土井研究所技師 (読売新聞 大正3年12月15日、東京朝日新聞 大正3年12月15日朝刊3面)[ 愛 ]

大正4年(1915)

1月15日 例会 (東京朝日新聞 大正4年1月15日朝刊3面)[ 愛 ]

12月11日 東京人道会バザー、三越呉服店内 (大出公、鍋島侯、戸田伯、後藤男、三宮男、新渡戸、園田 各夫人)(読売新聞大正4年12月5日号 朝刊4面、12月12日朝刊4面) [ 人 ]

大正5年(1916)

6月15日 例会、「レントゲンの話」藤波医学博士ほか (東京朝日新聞 大正5年6月15日朝刊3面) [ 愛 ]

7月 皇后からの下賜金二千円 (読売新聞1929(昭和4)年5月28日朝刊9面 バーネット夫人インタビュー ;Strong and Wayant1997に引用されているYokohama Advertiser の記事、記事自体は1916年12月ごろのもの;動物愛護協会所蔵史料「日本人道会沿革」) [ 人 ]

7月15日 例会、和田垣謙三、石田良助 (東京朝日新聞 大正5年7月15日朝刊3面) [ 愛 ]

7月26日 警視庁令第10号で闘犬、闘鶏、闘牛が禁止された(東京朝日新聞大正5年7月25日5面、7月27日5面 (庁令の全文を掲載),東京毎日新聞大正5年7月27日3面。東京朝日の25日の版には「動物愛護会員談」として匿名の談話が掲載されている)[他] [愛]

10月15日 講演会 石川千代松 未定、 横山健堂「佐倉宗吾の研究」(東京朝日新聞 大正5年10月15日朝刊3面、読売新聞 大正5年10月15日)[ 愛 ]

11月15日 例会 本多静六、スイイデル嬢(東京朝日新聞 大正5年11月15日朝刊3面) [ 愛 ]

12月15日 例会 未定、福田(徳)博士 催眠術実験 五十嵐光龍(東京朝日新聞 大正5年12月15日朝刊3面) [ 愛 ]

12月 年次大会、帝国ホテルにて。シュナイダー夫人による講演会Needs and Methods of Work in the Humane Field 。1915年11月から1916年10月までの活動報告(Strong and Wayant1997に引用されているYokohama Advertiser の記事) [ 人 ]

大正6年(1917)

2月15日 講演会 堀内中将(東京朝日新聞 大正6年2月15日朝刊3面、読売新聞 大正6年2月14日)[ 愛 ]

3月15日 例会 上田博士 未定、水野葉舟「幽霊談」(東京朝日新聞 大正6年3月15日朝刊3面、読売新聞 大正6年3月15日)[ 愛 ]

3月 シュナイダー夫人による「humane education」と題する講演会、Tokyo Women's Clubにて(Strong and Wayant1997に引用されている1917年s3月27日付けJapan Advertiser の記事) [ 人 ]

4月15日? 例会(読売新聞 大正6年4月13日)[ 愛 ]

5月15日 例会 権田雷斧、穂積重遠(東京朝日新聞 大正6年5月15日朝刊3面、 読売新聞 大正6年5月15日)[ 愛 ]

5月 警視庁警察官練習所にて講演会(8月、11月にも行った模様)『日本人道会報告』6ページ [ 人 ]

6月15日? 例会(読売新聞 大正6年4月13日)[ 愛 ]

6月22日 幻灯種版試映会、神田女子基督教青年会(ストラッザース、新渡戸博士、岸辺福雄)『日本人道会報告』7ページ [ 人 ]

9月15日 例会 馬詰駿太郎、中村進午(東京朝日新聞 大正6年9月15日朝刊4面) [ 愛 ]

10月15日 例会 中川忠順「日本画の鑑賞について」福良竹亮 未定 会費一円(東京朝日新聞 大正6年10月15日朝刊4面) [ 愛 ]

10月 『日本人道会報告』作成 この時点で修身会員32、維持会員67、正会員44、その他の寄付者70とのこと。事務局はストラッザース方  [ 人 ]

11月15日 例会 生沼曹六、来馬家道(ママ)会費一円(東京朝日新聞 大正6年11月15日朝刊4面) [ 愛 ]

12月15日 例会 福田(徳)博士 未定、 五十嵐光龍 「催眠術実験」(東京朝日新聞 大正6年12月15日朝刊3面) [ 愛 ]

大正7年(1918)

1月15日 例会 (東京朝日新聞 大正7年1月15日朝刊4面) [ 愛 ]

2月15日 例会 服部博士、福島大将、岸辺福雄、高橋虎雄(東京朝日新聞 大正7年2月15日朝刊4面) [ 愛 ]

5月26日 少年動物愛護会講演会、東洋幼稚園にて、岸辺福雄(読売新聞 大正7年5月26日)維持費として少年動物愛護会では3銭の会費をとることにし、今年だけで600人の会員を集めたとのこと。[ 愛 ]

月日不明 大阪動物愛護会設立(大原社会問題研究所『日本社会事業年鑑 第一冊』大正9(1920年, p.92)大阪での活動としては捨てられた犬猫の保護を行う大阪聖徳大慈園(大阪市外の天王寺村)があったようだが大阪動物愛護会との関係は不明(大原社会問題研究所『日本社会事業年鑑 第三冊』大正11(1922)年 , p.188) [他]

大正8年(1919)

7月8日 少年動物愛護会講演会、東洋家政女学校にて、「能勢先生の朝寝坊村」、「高橋先生のアントワープ犬」(読売新聞 7月9日 朝刊4面)岸辺福雄のインタビュー記事によると動物愛護会は今は江原素六が会長とのこと。[ 愛 ]

10月15日 例会 (東京朝日新聞 大正8年10月15日朝刊4面) [ 愛 ]

10月 イギリスのコンノート殿下より200円の下賜をうける(読売新聞1929(昭和4)年5月28日朝刊9面 バーネット夫人インタビュー、動物愛護協会所蔵史料「日本人道会沿革」) [ 人 ]

11月15日 例会 田中舎身「蒙古の動物」(東京朝日新聞 大正8年11月15日朝刊4面)  [ 愛 ]

11月15日 中央獣医師会からの動物虐待についての建議書をうけて、内務省警保局長名(川村警保局長)で地方長官宛に「動物虐待防止に関する通牒」が出された(東京朝日新聞 大正8年11月15日朝刊4面、大原社会問題研究所『日本社会事業年鑑 第二冊』,252-253ページ 大正10年) [他]

12月15日 例会 内田魯庵(東京朝日新聞 大正8年12月15日朝刊4面)  [ 愛 ]

末 広井、国際労働者会議に出席するために訪米(広井「国際労働会議の一挿話 栗鼠を愛する心」『動物愛護』9号 p.37)[ 愛 ]

大正9年(1920)

2月15日 例会 (東京朝日新聞 大正9年2月15日朝刊4面) [ 愛 ]

3月15日 例会 (東京朝日新聞 大正9年3月15日朝刊4面) [ 愛 ]

春  広井辰太郎渡欧、ベルリン動物保護会を訪問しクレーメル会長らと交流。前年の訪米から直接ヨーロッパへ渡ったものか。(広井「独逸人の文化力」『動物愛護』第46号179ページ [ 愛 ]

6月15日 例会 (東京朝日新聞 大正9年6月15日朝刊4面) [ 愛 ]

7月15日 例会? 新仏教同志会が行っていた大本教批判のキャンペーンの一環として「変態心理学者」中村古峡の講演会を行う予定との記事(読売新聞 大正9年7月4日5面)[ 愛 ]

夏? バーネット夫人再来日(動物愛護協会所蔵史料"History of the Nippon Jindo Kai"詳しくは上記。1929年10月8日の朝日新聞では大正8年に来日とあり、どちらが正しいかは不明) [ 人 ]

7月30日 バーネット夫人による新聞広告「夏はだれでものどがかわきますから犬や馬やその他の動物にとくべつきをつけて水をのませてください」(『読売新聞』大正9年7月30日 朝刊4面) [ 人 ]

10月10日 新仏教徒同志会がカリフォルニアに置ける日本人排斥運動に対して日本のキリスト教団体が抗議するよう求める決議を挙げる。動物愛護会会員でもある高島米峯、岸辺福雄、広井辰太郎らが講演。(東京朝日新聞 大正9年10月11日朝刊4面)[ 愛 ]

10月10日 読売新聞に岸辺福雄インタビュー。少年動物愛護会の会員がこの時点で東京だけで2000人とのこと。『あはれみ』を復刊する予定との記述。[ 愛 ]

時期不明 広井はこの年ニューヨークを訪れているとのこと。『動物愛護』1号英字版にこのときの写真が掲載されている。大正8年の会合の続きでの滞在かどうかは不明。(『動物愛護』4号後記)

大正10年(1921)

3月15日 例会 (東京朝日新聞 大正10年3月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

5月8日 動物愛護童話会 東洋幼稚園にて、岸辺、丸田、川野、三輪、能勢が話す予定とのこと(読売新聞 大正10年5月8日朝刊4面)[ 愛 ]

5月15日 例会 (東京朝日新聞 大正10年5月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

6月15日 例会 (東京朝日新聞 大正10年6月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

7月1日 バーネットが動物愛護ポスターの配布「夏が来ました、日中の暑い時には牛馬や犬猫にも水を飲ましてやってください」というコピーとのこと。(読売新聞 大正10年7月1日朝刊4面)

9月15日 例会 (東京朝日新聞 大正10年9月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

月日不明 神奈川県動物虐待防止会(マーシャル・マーテン会長)が改組され、神奈川県知事を総裁とし事務所を県庁内に持つ神奈川県動物愛護会に組織替えされた。会長は大谷嘉兵衛、副会長はマーシャル・マーテン。(大原社会問題研究所『日本社会事業年鑑 第三冊』大正11年6月発行、188-189ページ)[ 他 ]

大正11年(1922)

1月15日 例会 (東京朝日新聞 大正11年1月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

2月15日 例会 (東京朝日新聞 大正11年2月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

5月15日 例会 (東京朝日新聞 大正11年5月14日夕刊2面「明日」欄) [ 愛 ]

6月6日 日本人道会が「上野の平和博」内に一銭お金を入れると牛や馬が顔を出す宣伝塔をたてた。(読売新聞 大正11年6月6日朝刊4面。役員とshては後藤男爵会長、岩永裕吉理事長の名前が挙がっている)

8月12日 堀田警視総監へ広井辰太郎が面会し馬の保護について建議。(読売新聞 大正11年8月13日朝刊9面) ハンガリーとドイツの動物愛護団体へ寄付。[ 愛 ]

8月15日 水戸支部発会式?広井、高島、亀谷大尊、大内俊が出席予定との記事(読売新聞 大正11年8月13日朝刊9面)[ 愛 ]

9月10日 カルピスの後援により富士山頂より日比谷公園へ伝書鳩を飛ばすイベントを挙行。(『毎日新聞』大正11年9月3日「空中マラソン競走」広告、『東京朝日新聞』大正11年9月3日「空中マラソン競走」広告)、『東京日々新聞』大正11年9月9日(「空中マラソン競走」広告)、『東京朝日新聞』大正11年9月8日号四面(「私達を愛してください」)、『東京朝日新聞』9月9日号五面(「富士山の上から日比谷へ鳩が明日飛んでくる 動物愛護会の宣伝大会)、『東京朝日新聞』9月11日夕刊一面、「富士山上の福音 空中の勇者より 空中マラソン大会」(動物愛護会からカルピスへの感謝広告)同朝刊二面(「鳩は無事愛の手へ」)、『東京朝日新聞』9月23日夕刊一面「空中マラソン競走当選発表」(ラクトー株式会社による広告、ちなみに飛翔時間は1時間34分とのこと)、[ 愛 ]

この会に関するその他の記事

広井辰太郎(1940 昭和15)「富嶽放鳩記」『動物愛護』第20号81ページ

高島米峰 (1940 昭和15)「鳩は飛ぶ」『権兵衛と烏』高山書院、224-229ページ(1922 (大正11)年 9月10日、動物愛護大宣伝午餐会挨拶)→鳩に関しては中野の軍用伝書鳩研究所の協力を得たこと、この会に桜井義肇が参加していたことの証言、月々の例会が広井のポケットマネーで運営されていたという証言、会長と副会長は欠員のままになっていること、などの記述

カルピス食品工業株式会社社史編纂委員会1989 p65, 三島 (1970), 50-51ページ

9月20日 人道会後援音楽会、神田青年会館にて (石川義一、園○子、曽我部○子、高勇吉、鈴木賢之進)(読売新聞大正11年9月10日朝刊4面) [ 人 ]

大正12年(1923)

7月5日 アサヒグラフに上野動物園の象を解放する計画があることが報じられ、象解放運動が始まる。[ 愛 ]  [ 人 ]

7月6日 人道会会長後藤子爵、バーネット夫人らの上野の象を解放するようにという訴え(アサヒグラフ163号三面) [ 人 ]

7月7日 動物愛護会理事米山梅吉の上野の象の解放に関する談話がアサヒグラフに掲載(アサヒグラフ164号三面)[ 愛 ]

7月8日 東洋幼稚園内の日本少年動物愛護会と都内の少年団で暑さになやむ馬に水をのませる活動を行う。午前中には東洋幼稚園で「面白い講演会」(アサヒグラフ165号5面、読売新聞 大正12年7月8日朝刊4面「馬に水を与える会」)[ 愛 ]

7月10日 「東洋幼稚園長、東洋家政女学校長」の肩書きで岸辺福雄による上野の象の解放に関する談話がアサヒグラフに掲載(アサヒグラフ167号三面)[ 愛 ]

7月11日 「動物愛護会」の肩書きで広井辰太郎の上野の象の解放に関する談話がアサヒグラフに掲載(アサヒグラフ168号二面)[ 愛 ]

7月14日 「上野動物園の象解放に関し実行運動協議のため本社斡旋の下に動物愛護会日本人道会員全て十五名十四日正午より交詢社に参集熱心に打ち合わせた」との記事、『東京朝日新聞』大正12年7月14日夕刊2面。アサヒグラフによれば動物愛護会からの出席者は米山梅吉、高島米峰、広井辰太郎、岸辺福雄、大内由之助、人道会からは鶴見祐輔、金井清、岩永祐吉、朝日新聞社からは下村浩、杉村広太郎、土岐善鷹、成沢金兵衛、鈴木文四郎が出席。米山、岩永、杉村の三人を委員として帝室博物館を監督する宮内庁に交渉に行くことを決定(アサヒグラフ172号(7月15日号)二面)[ 愛 ]  [ 人 ]

7月16日 米山、岩永、杉村の三人が宮内庁に交渉に行く(アサヒグラフ174号(7月17日号)二面)[ 愛 ]  [ 人 ]

7月17日 『アサヒグラフ』の後援のもと、日本人道会で寄付を募りインドから子象を買い入れる計画を発表(『アサヒグラフ』アサヒグラフ174号二面) [ 人 ]

以後震災までほぼ毎号にわたってアサヒグラフでは寄付者の名簿を発表。震災直前の9月1日号では300円に達したお礼の記事も掲載された。 [ 人 ]

7月21日 午前10時 上野動物園の批判的視察(参加者は広井、高島、岸辺、加藤咄堂、片山国嘉、三輪田元道、櫻井義肇、大内俊、久津見厥村、古川大斧、立花博士、石沢博士、アサヒグラフ幹部(鈴木文四郎と成沢玲川)、外務省顧問フレデリック・ムーア、ポーランドの伯爵ルビエンスキーなど三十余名)、

午後1時 動物愛護デー(少年動物愛護会による街頭活動)

午後7時 神田明治会館で動物園批判講演会、「開会の辞」大内俊、「動物園閉鎖論」広井辰太郎、「ベルギー公園の象に林檎をやるの記」岸辺福雄(少年動物愛護会理事)、「鎖の象と市民」鈴木文四郎(アサヒグラフ編集部長)、「私は上野の象であります」高島米峯、最後に岸辺令嬢令息による「動物愛護の歌」が歌われたという(『東京朝日新聞』大正12年7月20日夕刊2面、『アサヒグラフ』178号(7月21日)3面、『東京朝日新聞』大正12年7月22日2面、『アサヒグラフ』179号(7月22日)3面、7面 『読売新聞』大正12年7月22日朝刊4面)[ 愛 ]

8月6日  花屋敷

8月17日 汐留の十五銀行前、お茶の水博物館前、万世○○○の三カ所で街頭宣伝 十五銀行前には副島八十六、広井辰太郎、石○久五郎(石沢久五郎?)、三島海雲の四人が出て馬調べを行った (『東京朝日新聞』大正12年8月17日朝刊5面、『東京朝日新聞』大正12年8月18日朝刊4面、『アサヒグラフ』206号(8月18日)2面)[ 愛 ]

宮内庁からアサヒグラフへ象の解放が決まった旨の連絡。動物愛護会は神田多賀羅亭で報告会。(『アサヒグラフ』206号(8月18日)1,2面) [ 愛 ]

9月1日 関東大震災[ 他 ]

11月28日 象購入計画の中止おわび広告(『アサヒグラフ』復刊第一巻第三号、1923年11月28日) [ 人 ]

大正13年(1924)

1月15日 例会 (『東京朝日新聞』大正13年1月15日朝刊6面)[ 愛 ]

3月15日 例会 談話 藤岡勝二(『東京朝日新聞』大正13年3月15日朝刊6面)[ 愛 ]

4月15日 例会 談話 櫻井忠温(『東京朝日新聞』大正13年4月15日朝刊10面)[ 愛 ]

5月15日 例会:「震災と動物」三浦畜産局長(『東京朝日新聞』大正13年5月15日朝刊6面)[ 愛 ]

6月15日 例会:「活動映画あり家族友人同伴歓迎会費二円五十銭」(『東京朝日新聞』大正13年6月15日朝刊6面)[ 愛 ]

7月15日 例会:「ペルシャ旅行談」縫田総領事(『東京朝日新聞』大正13年7月15日朝刊6面)[ 愛 ]

11月15日 例会(『東京朝日新聞』大正13年11月15日朝刊6面)[ 愛 ]

11月15日 「動物愛護会一覧」発行。発起人、役員、例会出席者名簿などが掲載されているとのこと。現存は確認できず(広井「動物愛護運動の回顧(二十八)」『動物愛護』31号128ページ )[ 愛 ]

大正14年(1925)

1月15日 例会、 会費二円五十銭(『東京朝日新聞』大正14年1月15日朝刊6面)[ 愛 ]

2月15日 例会:山田わか子(『東京朝日新聞』大正14年2月15日朝刊10面)[ 愛 ]

5月16日 人道会後援活動写真会、青山会館にて(『東京朝日新聞』大正14年5月16日「けふの注意」欄) [ 人 ]

7月15日 例会 (『東京朝日新聞』大正14年7月15日朝刊6面)[ 愛 ]

大正15 年 (1926)

5月 帝国競馬協会が牛馬の為の水桶を東京市内20カ所に設置、横浜には重量オーバーの牛馬車を取り締まるための重量器を設置することを決定したとの報道 (読売新聞 大正15年5月10日 夕刊5面)

8月 花屋敷で小熊が死んだことにバーネット夫人が告発活動(動物愛護協会所蔵史料新聞切り抜き(掲載紙不明) [ 人 ]

月日不明 震災で活動停止していた神奈川県動物愛護会が活動を再開。所在地は「県庁内」となっている。「取敢えず水槽十七個を市内の要所に配置し、牛馬に飲用水を供給し、また、日覆千八百枚及蹄油二十五缶を牛馬所有者に分配した」(横浜市市史編纂係『横浜市震災史 第三分冊』 p.285ページ)[ 他 ]

昭和2年(1927)

1月13日 動物養老院計画について批判的な記事が掲載される(SNO生「動物養老院」読売新聞昭和2年1月13日朝刊2面「斬馬剣」欄) [ 人 ]

1月23日 動物愛護会会員より動物養老院計画を支持する立場から「SNO生」への反論(杉原裕三郎「動物愛護の精神」『読売新聞』昭和2年1月23日朝刊2面「斬馬剣」欄) [ 人 ]

5月28日 動物愛護週間開始。日本人道会主催、動物愛護会、東京連合少年団、帝国児童教育会の後援。「昭憲皇太后のお誕生日である来る廿八日を期して」と記事にある。明治天皇の御製をつかったポスターをはる、映画会、展覧会、動物愛護劇などが企画されている(東京朝日新聞 5月19日2面、29日 2面、読売新聞 5月22日朝刊3面) [ 人 ]

10月15日 ロサンゼルスSPCAよりKoran 女学校にカップが送られる。カップは同年5月28日に日本人道会が行った動物愛護週間ポスターコンテストで優勝したことにおくられたもの(同日Japan Times記事、動物愛護協会所蔵)  [ 人 ]

11月13日 「動物の養老院」をバーネット夫人と池村赤子が計画しているという記事(読売新聞昭和2年11月13日朝刊3面) [ 人 ]

12月18日 動物愛護週間記念メダル授与式(アメリカ大使マクヴェー閣下より,Trans-Pacific紙に記事、動物愛護協会所蔵) [ 人 ]

昭和3年(1928)

5月28日 6月3日まで動物愛護週間(日本人道会主催)役員の名前としては記事中に「加藤幹事」の名前があがっている。動物愛護会も参加しているこの年は29日に馬をたすけた巡査に対して殊勲賞を贈るほか、30日から6月3日にかけて労馬展覧会がひらかれ70頭に勲章が贈られた(東京朝日新聞 5月15日2面、5月28日7面、5月31日2面、読売新聞6月4日夕刊11面) [ 人 ]

6月15日 例会、佐藤安之助少将 場所は「神田小川町多賀羅亭」とある (『読売新聞』昭和3年6月14日朝刊3面 タカラ亭は神田淡路町にあったはずだが移転したのか、区画整理があったのか。)[ 愛 ]

昭和4年(1929)

1月16日 鈴木大拙の家政婦だった関口この子がバーネットのあとをうけついで人道会の運動を行って行くことになったという記事(読売新聞1929(昭和4)年1月16日朝刊3面) [ 人 ]

5月28日〜6月3日 動物愛護週間,主催 日本人道会、動物愛護会、後援 東京府、東京市、東京連合少年団、帝国児童教育会。(東京朝日新聞 5月28日夕刊2面, 29日夕刊2面など)[ 人 ] [ 愛 ]

5月28日 読売新聞にバーネット夫人へのインタビュー掲載(読売新聞1929(昭和4)年5月28日朝刊9面) [ 人 ]

5月30日〜 御大礼記念労馬展覧会(代々木練兵場)(動物愛護協会所蔵史料昭和4年12月7日づけ文書)  [ 人 ]

6月 バーネット夫人記念動物愛護慈悲園が鈴木ビアトリスと関口このによって開園(北鎌倉)記事中には世話人として関口この子と河野通史の名前があがっている(東京朝日新聞 5月24日夕刊2面、動物愛護協会所蔵史料「バーネット夫人記念動物愛護慈悲園の設立につきて大方の同情に訴う」) [ 人 ]

10 月19日 バーネット夫人帰国(読売新聞1929(昭和4)年1月16日朝刊3面,朝日新聞10月8日7面、10月20日夕刊2面) [ 人 ]

12月事業報告書(手書き)昭和3年末会員数、終身会員37、維持会員71、正会員49。この時は会長後藤新平、理事長バーネット夫人、幹事広井辰太郎といったかおぶれ。(動物愛護協会所蔵史料) [ 人 ]

昭和5年(1930)

2月 本部を新渡戸邸に移し活動再開。「一時こはれていた」と同記事中にあるので9月以降活動が沈滞していた?(読売新聞1930(昭和5)年2月20日朝刊5面) [ 人 ]

3月15日 例会 (『東京朝日新聞』昭和5年3月14日夕刊2面「明日」欄)[ 愛 ]

3月31日 人道会が「野犬とねこを一掃するため大々的運動を起こす」ことになったという記事(東京朝日新聞3月31日11面)[人]

6月1日〜 動物愛護週間、新渡戸萬里子講演会 「六月一日から動物愛護週間を開きますに因んで」とあるのでこの年は変則的スケジュールだった模様 (読売新聞6月1日朝刊10面 東京朝日は毎年愛護週間のスケジュール等を掲載しているがなぜかこの年は関連記事がない) [ 人 ]

6月15日 例会 (『東京朝日新聞』昭和5年6月14日夕刊2面「明日」欄)[ 愛 ]

10月 4日 動物愛護デー (読売新聞 昭和5年10月4日朝刊5面 なぜ愛護週間と別に愛護デーの企画が行われたか記事中に特に説明はない) [人]

昭和6年(1931)

5月28日~ 動物愛護週間 (東京朝日新聞 5月28日11面 ほか) [人]

10月3日 少年少女動物友の会発会式(東京朝日新聞1931(昭和6)年10月2日朝刊7面(創立委員長 新渡戸萬里子、その他新渡戸博士、安倍磯雄、岸辺福雄、林広太郎伯などが中心となって発足とのこと)読売にも同日に記事? [ 人 ]

12月18日 畜犬税引き下げの陳情を人道会が東京府知事・府会議長あてに行う(東京朝日新聞 12月20日11面)[ 人 ]

月日不明 『動物の友』創刊? [ 人 ]

昭和7年(1932)

5月28日〜 動物愛護週間。29日の愛馬デーの催しでは「日本人道会理事」としてレイモンド夫人が開会の辞を述べている。この年の動物愛護週間には、他に、捕獲された犬の繋留所や化成所にすのこを送るなどの活動が行われている。(東京朝日新聞 5月27日7面、「野犬繋留所に恵みのベッド」5月31日7面) [ 人 ]

6月6日 動物愛護会の幹事広井辰太郎が闘犬許可の動きに反対して鉄道省観光局を訪問。(東京朝日新聞 6月8日7面、広井「動物愛護運動の回顧(三十九)」『動物愛護』46号180ページ。こちらでは観光局の訪問は7日になっている)この際の決議文は以下のとおり。「吾が動物愛護会は決議により当局が人道上又風紀上の見地より世上外客誘致の辞柄に借口して提出されたりとの噂ある闘犬工業公許の申請を断乎却下せられんことを要望す」。

6月11日 藤沼警視総監に対し、闘犬反対の陳情書とメンデルソン氏の書面を提出(広井「動物愛護運動の回顧(四十)」『動物愛護』47号184ページ)。メンデルソン氏は横浜在住の「豪商」で、動物虐待防止会当初の会員であったが、闘犬禁止の件で広井の名前をアドバータイザー紙上で発見して久しぶりに書簡を送ってきたとのこと)

6月12日 動物愛護会と日本人道会が警視庁の闘犬許可の動きに抗議したとの記事(読売新聞1932(昭和7)年6月12日朝刊11面 朝日新聞にも同日記事あり)[ 愛 ] [ 人 ]

6月17日 内務省が闘犬を許可しない意向を表明(読売新聞1932(昭和7)年6月17日朝刊7面 「闘犬ぺちゃんこ 内務省が不許可」)[他]

6月21日 広井辰太郎、高島米峰、鈴木文史郎が藤沼警視総監に面会して闘犬許可をしないよう陳情。鈴木はアサヒグラフ編集長(広井「動物愛護運動の回顧(三十九)」『動物愛護』46号180ページ)

6月 『動物の友』第二巻第一号発行 (動物愛護協会所蔵) [ 人 ]

昭和8年(1933)

2月10日 慈善社交ダンス会が「日本人道会を後援しその事業費をあつめる」目的で行われる。「鍋島公爵夫人、英米独露加大公使夫人、前田候夫人はじめ内外の名流夫人」が主催とのこと(東京朝日新聞 2月7日夕刊2面)

5月 動物愛護週間にさきだって人道会の犬「タマ」による募金活動(「喜捨箱をせなに愛情の犬タマ君 仲間の病犬や宿無しのために街頭を歩き回って」東京朝日新聞5月26日5面。8月7日5面にアメリカからも寄付があったと続報)

5月28日〜 動物愛護週間。 先行企画として27日に鈴木文史朗による講話など(東京朝日新聞 5月26日5面、5月27日7面)

9月15日 例会:福原八郎氏南米帰朝談(『東京朝日新聞』昭和8年9月14日夕刊2面「明日」欄)[ 愛 ]

10月4日 ラジオで清水御世子(清水精三郎夫人)による「非常時における動物愛護」という講話(東京朝日新聞 10月4日 7面に概要照会) [ 人 ]

10月15日 例会 (『東京朝日新聞』昭和8年10月14日夕刊2面「明日」欄)[ 愛 ]

11月21日 理事会でハチ公を「ぽちクラブ」の名誉会員とする決定をし、即日会員章をハチ公に授与(『東京朝日新聞』昭和8年11月23日) [ 人 ]

昭和9年(1934)

1月『動物の友』第四巻第一号発行(市川房枝記念会所蔵)「ぽち倶楽部」の説明とともに、ハチ公ほか数頭の犬が名誉会員となったことの報告もある [ 人 ]

3月15日 例会(『東京朝日新聞』昭和9年3月14日夕刊2面「明日」欄)現在情報がある動物愛護会の会合としてはこれが最後。昭和17(1942)年時点の広井の説明によれば「二、三年前に多賀羅亭の没落するまで凡そ三十余年間続いた」とのことであるが正確な時期や詳細は不明。(「動物愛護運動を語る」(座談会)『動物文学』87(17年9月)号52-65ページ)[ 愛 ]

5月28日〜 動物愛護週間。30日の愛馬の集いではレイモンド夫人、河野恒吉、山内保次の講演などが行われている。28日に「委員長黒沢敬一氏をはじめ日本人道会の役員が明治神宮に参拝」とある (東京朝日新聞 5月28日11面、5月30日11面ほか)

5月 『動物の友』第四巻第二号発行(市川房枝記念会所蔵) [ 人 ]

昭和10年 (1935)

3月12日 ハチ公の慰霊祭に広井が参加し弔辞を述べる(『東京朝日新聞』昭和10年3月13日、『毎日新聞』昭和10年3月13日(未確認))[ 愛 ]

5月28日〜 動物愛護週間。東京市や東京連合少年団をはじめさまざまな協賛団体があがっているが動物愛護会の名前はない (東京朝日新聞5月28日11面、5月29日13面) [ 人 ]

7月17日  神戸動物愛護会が馬用の「超特製カンカン帽」を500個つくり配布。『東京朝日新聞』「地方雑信」昭和10年7月17日5面(「神戸の動物愛護会では、炎熱を防ぐ帽子を馬にも被せてやりましょうという事になり、超特製カンカン帽を五百個調製、少年団員の応援で無帽着流し?の馬を見つけ次第、被せてやることになった」)

8月17日 愛宕署の巡査部長に対して動物愛護会からメダルがおくられる(東京朝日新聞 8月18日13面)

12月16日 人道会へ毎年匿名の寄付をする人がいるという報道。人道会が前年1500年の欠損を出したという人道会の財政状況についての言及もある(「動物にもお歳暮 匿名で美しい"貧者の一灯" 日本人道会大喜び」東京朝日新聞昭和11年 12月16日夕刊3面)[ 人 ]

昭和12年(1937)

4月17日 新渡戸万里子を支援するために各国公使婦人が慈善大舞踏会を開催(東京朝日新聞 4月17日 東京版10面) [ 人 ]

5月28日〜 動物愛護週間、動物愛護章が創設され贈呈された、記事中では新渡戸夫人が「会長」として紹介されている(東京朝日新聞 5月15日 東京版三面、5月29日 東京版10面) [ 人 ]

6月26日 警視庁と日本人道会が協力して野犬狩りを行い、パラマウント・ニュースが撮影するという企画がおこなわれた。「日本人道会からは渡辺理事、金子書記らが立ち会」った。オリンピックを前にして動物虐待国としての評判を払拭するためとのこと(東京朝日新聞6月27日夕刊3面)

6月29日 アンドリュース一家が来朝し日本人道会の会員になったとの報道(東京朝日新聞6月29日) [ 人 ]

7月11日 捕獲された野犬に飼い主をさがす愛犬マーケット開催(東京朝日新聞 7月3日 東京版10面7月11日 東京版10面) [ 人 ]

9月24日 「不幸な犬の展覧会」開催。飼い主とはぐれた迷い犬をあつめ、飼い主が迎えにくるのを待つという企画。しかし実際に飼い主と対面できた犬はなかったとのこと。(東京朝日新聞 9月24日 東京版10面9月26日 東京版10面) [ 人 ]

昭和13年 (1938)

5月28日〜 動物愛護週間 「世紀の少女」デイアナ・ダービン嬢からメッセージとの記事(東京朝日新聞 5月29日 11面) この年には6月1日を帝国馬匹協会が愛馬の日としてキャンペーンを行った。小学生に馬の写生をさせ、愛馬誓約書を書かせてヒトラーやムソリーニに送ったとのこと(東京朝日新聞 5月23日2面) [ 人 ] 朝日新聞で確認できる戦前の動物愛護週間はこの年まで。

9月23日 新渡戸萬里子死去 (東京朝日新聞 9月24日夕刊2面) [ 人 ]

10月7日 新渡戸夫妻の孫の武子が万里子の遺志をついで動物玩具等を各国の動物愛護団体におくることになったとのこと(東京朝日新聞1938年10月7日11面)

10月24日 中央亭にて動物愛護同人会。22名が参加。(『動物愛護』1号後記)[ 愛 ]

昭和14年(1939)

1月15日 『動物愛護』1号発行。連絡先は東京市芝区白金三光町 476の広井の自宅。印刷人は安達正太となっている。題字は荒木貞夫文相。「謹賀新年」として名を連ねているのは広井辰太郎のほか米山梅吉、山本直良、高島米峰、岸邊福雄、大内青里。英語版としてThe Voice for the Speechless も発行される(日本語版の後記では「年に二、三回」出される予定だったようだが英語版は1号のみ)[ 愛 ]

2月15日 『動物愛護』2号発行。[ 愛 ]

3月 東京市主催で「軍馬並びに軍用動物感謝週間」が開催される(東京朝日新聞 3月4日夕刊2面)

3月15日 『動物愛護』3号発行。[ 愛 ]

4月15日 『動物愛護』4号発行。[ 愛 ]

5月15日 『動物愛護』5号発行。[ 愛 ]

6月15日 『動物愛護』6号発行。[ 愛 ]

7月15日 『動物愛護』7号発行。[ 愛 ]

8月15日 『動物愛護』8号発行。[ 愛 ]

9月15日 『動物愛護』9号発行。[ 愛 ]

10月15日 『動物愛護』10号発行。[ 愛 ]

11月15日 『動物愛護』11号発行。[ 愛 ]

11月27日 バーネット夫人の夫、東京で死去、バーネット夫人も日本を去る(読売新聞 昭和14年12月3日夕刊2面、昭和15年2月27日朝刊7面等) [ 人 ]

12月15日 『動物愛護』12号発行。[ 愛 ]

昭和15年(1940)

1月15日『動物愛護』13号発行[ 愛 ]

2月15日『動物愛護』14号発行[ 愛 ]

2月20日 人道会の渡辺和一郎が13日に衆院予算本会議でだされた「犬猫撲殺論」に畑陸相が反論したことに対し、感謝状をとどける(東京朝日新聞 2月20日 2面) [ 人 ]

3月15日『動物愛護』15号発行[ 愛 ]

4月15日『動物愛護』16号発行[ 愛 ]

5月15日『動物愛護』17号発行[ 愛 ]

6月15日『動物愛護』18号発行[ 愛 ]

7月15日『動物愛護』19号発行[ 愛 ]

7月15日 『動物の友』第10巻第7号。(大原社会問題研究所所蔵) 現在確認できているもっとも遅い号。帰還軍馬の愛護運動を訴えて日本競馬会はじめ多くの団体の賛同を得た旨の報告。役員としては渡辺和一郎の名前が編集兼発行人となっており、呼びかけ文の理事長として一色虎児の名前が挙っている。 [ 人 ]

8月25日 畜犬廃止論に対する反論を人道会と獣医師会が行う準備をしているという報道(東京朝日新聞 8月25日 3面) [ 人 ]

9月15日『動物愛護』20号発行[ 愛 ]

10月15日『動物愛護』21号発行[ 愛 ]

11月15日『動物愛護』22号発行[ 愛 ]

昭和16年(1941)

1月15日『動物愛護』23号発行。謹賀新年の挨拶は米山梅吉、山本直良、高島米峰、岸邊福雄、大内俊、安達正太、安田秀文、広井辰太郎の連名。[ 愛 ]

2月15日『動物愛護』24号発行[ 愛 ]

2月19日 犬に対する配給を人道会と獣医師会が陳情したが受け入れられなかったという報道(東京朝日新聞 2月19日 7面) [ 人 ]

3月15日『動物愛護』25号発行[ 愛 ]

4月15日『動物愛護』26号発行[ 愛 ]

4月25日 岸邊福雄の発案で丸の内精養軒で動物愛護会の夕食会。41人の出席。

5月15日『動物愛護』27号発行?[ 愛 ]

6月15日『動物愛護』28号発行?[ 愛 ]

7月15日『動物愛護』29号発行[ 愛 ]

8月15日『動物愛護』30号発行?[ 愛 ]

9月15日『動物愛護』31号発行[ 愛 ]

9月15日 広井、化製所を見学。10月11日「某高官」と会談、23日三河島警察署長の越川高尚と会談 (『動物愛護』33号135ページ)[ 愛 ]

10月15日『動物愛護』32号発行[ 愛 ]

11月15日『動物愛護』33号発行[ 愛 ]

昭和17年(1942)

1月15日『動物愛護』34号発行 [ 愛 ]

2月9日 人道会の渡辺和一郎、金子登(記事には金子保とあるが間違いであろう)、愛護会の広井辰太郎、そのほか小林一恵、川口文子、高橋和子らがあつまって動物愛護運動について相談。基金のある財団法人の人道会をもり立てるのがよいという結論に達したという(「人道会の強化」『犬の研究』42年3月号 p.70 )

2月15日『動物愛護』35号発行 [ 愛 ]

3月15日『動物愛護』36号、発行禁止処分をうける(37号後記)[ 愛 ]

4月15日『動物愛護』37号発行 [ 愛 ]

5月15日『動物愛護』38号発行 [ 愛 ]

6月15日『動物愛護』39号発行 [ 愛 ]

7月15日『動物愛護』40号発行 [ 愛 ]

8月15日『動物愛護』41号発行。実際には42号と合送されたとのこと(42号後記) [ 愛 ]

9月15日『動物愛護』42号発行 [ 愛 ]

9月 『動物文学』誌上で動物愛護会、日本人道会、動物文学会の関係者による座談会。座談会自体は8月10日に行われたとのこと。実際の座談には広井は病気のため欠席したが誌上では座談に参加した形式に編集してある。

10月15日『動物愛護』43号発行。実際には46号と合送されたとのこと(46号後記) [ 愛 ]

11月15日『動物愛護』44号発行。実際には46号と合送されたとのこと(46号後記) [ 愛 ]

12月15日『動物愛護』45号発行。実際には46号と合送されたとのこと(46号後記) 。この号の後記によれば、『動物愛護』はこの時点まで外務大臣、文部大臣および両省の局長全員に送られていたが以後廃止するとのこと。 [ 愛 ]

12月15日『動物愛護』三周年記念合併号発行 (北海道大学図書館蔵)

昭和18年(1943)

2月15日『動物愛護』46号発行 [ 愛 ]

3月15日『動物愛護』47号発行 [ 愛 ]

4月15日『動物愛護』48号発行 [ 愛 ]

5月15日『動物愛護』49号発行 [ 愛 ]

6月15日『動物愛護』50号発行 [ 愛 ]

7月15日『動物愛護』51号発行 [ 愛 ]

8月15日『動物愛護』52号発行 [ 愛 ]

10月15日『動物愛護』53号発行 [ 愛 ]

11月15日『動物愛護』54号発行 [ 愛 ]

12月15日『動物愛護』55号発行。奥付の日付は12月15日だが、実際には2月12日に刷了し、57号と合送されたとのこと。(57号後記) [ 愛 ]

昭和19年(1944)

1月15日『動物愛護』56号発行。この号も実際には2月12日以降に完成し57号と合送されたとのこと(57号後記)[ 愛 ]

3月15日『動物愛護』57号発行 。55号以降はこれまで使っていた印刷所が「企業整備」のために閉鎖され、読売新聞の印刷部を借りて印刷されたとのこと。後記に「三月号から常態に復する訳である」とあるのでこのまま継続する予定だったと思われるが、北大で所蔵されているのはこの号まで。この号の発行から程なくして広井が山形へ疎開したものと推測される。[ 愛 ]

4月7日 日本人道会と「財団法人動物愛護会」の連名で読売新聞に広告「畜犬は撲殺せず 各方面から本会に愛犬の処遇に就いて○々[続々?]と問合わせがあるので当局に照会せしところ野犬は撲殺するが飼主のある畜犬は撲殺せずと確答を得たるにつき愛犬家は安心乞う」(読売新聞1944年4月7日朝刊3面)[ 愛 ]  [ 人 ]

4月11日 「動物愛護財団法人 日本人道会」の名前で朝日新聞に広告「愛犬保護について 本会に各方面から問い合わせが頻々とありますので、当局に伺って、左にお答えします、撲殺されるのは飼主のない野犬だけで、畜犬にはその心配は絶対にありません」(朝日新聞1944年4月11日朝刊4面)

昭和 26年 (1951)

1月10日 山形新聞に広井辰太郎に関する記事。記事中で広井は「本社顧問」とある。(「三十年ぶり破顔一笑 広井恩師と保利大臣再会」明治大正昭和新聞研究会編『新聞集成 昭和編年史 二十六年版 I』, 2001, pp.116-117

昭和27年(1952)

5月14日 広井辰太郎死去 (「(元日大教授、山形市顧問、元夕刊山形新聞社長)十四日午前十時、タンノウ炎で山形市諏訪町の自宅で死去、七十七」 読売新聞1952年5月15日朝刊7面)[ 愛 ]

昭和33 年(1958)

9月9日 岸辺福雄死去(読売新聞1958年9月11日朝刊7面) 尾崎ほか1982ではこの時をもって動物愛護会の終わりとしている。[ 愛 ]

月日不明 尾崎ほか1982ではこの年に日本人道会が基金のすべてを寄付して解散したとなっている。[人]