『誇り高い技術者になろう』に関する『科学・社会・人間』誌上の討論

この討論について

目次

凡例


『科学・社会・人間』 90号 2004.9 p.21

 紹介: 黒田光太郎・戸田山和久・伊勢田哲治編: 
『誇り高い技術者になろう ---- 工学倫理ノススメ』
A5判 263頁: 本体2800円: 名古屋大学出版会: 2004年4月  

松崎早苗*

大学の先生が工学系の学生に良い技術者になってほしいと、優しく語りかける口調で書かれた本で、学生に対する優しい気持ちが溢れている。工学系大学で倫理が講義されるようになってきて、こういう本のニーズがあるのだと思われるが、特別の教科書を持たない先生方には歓迎されるだろう。

 イントロはなかなか上手くできていて、若者がこのイントロを読んでくれさえすれば、中身に入ってくるだろう。その上手い部分は各自実際に手にとって読んで頂くこととして、この本の目的に関する部分を引用しておこう。

 「技術を社会の中に位置づけて考えることができ、見えにくい人たちに対する見えにくい影響までも考慮に入れることのできるような倫理的想像力を養うこと、そして、それを通じて、科学技術の本来の目標を見失わずに人類の幸せな生存に貢献できる技術者を育てること、これが技術者倫理教育の大きな目標です。」

 「こうした目標を果たすために、本書では次の四つのことを目指します。
(1)科学技術・技術者を社会との関係において捉えるために基本知識を身につける(第2章)
(2)技術者がどのような種類の責任をどのような範囲の人々に対して負うことになるのかをミクロなレベルからマクロなレベルへと展開し、倫理的想像力を拡張するためのトレーニングを行う(第3章)
(3)こうして明確となった技術者としての社会的責任をうまく果たすために、技術者としての日々の仕事の中でどのように行動していけばよいのかを明確につかむ(第4章)
(4)技術者が自分の責任を果たそうとする際に障害となりうることがらを分析し、技術者が倫理的に行動できるようサポートする社会の仕組みがどうあるべきか、また技術者はそうした仕組みをどうのように利用できるかを理解する(第5章)」

 タイトルで呼びかけている「誇り高い技術者」とは何かについては、「自分の社会的責任を自覚し、それを引き受けて、自分は他の人々には求められない責任を果たしたのだという喜びを自分への報酬とする。これが私たちの考える「誇り高い技術者」です。すぐれた技術者あるいはプロフェッショナルが、他の人には求められないようなハイ・スタンダードな責任をわざわざ自ら引き受けることができるのは、こうした誇りをもっているからです。」と言っている。

 目標で、「見えにくい人たちに対する見えにくい影響までも考慮に入れることのできるような倫理的想像力」とまわりくどい表現をしているが、技術開発による潜在的被害者のことを考えよと言っているのだなと「想像」しながら先に読みすすむことにしよう。

* 環境と健康リサーチ
[住所情報省略]


『科学・社会・人間』 90号 2004.9 p.22
 目次を紹介する。

第泄煤@技術者になるとはどういうことか
1. 誇り高い技術者とは ‐ 具体例から学ぶ
2.技術とは何か、技術者とはどういう人なのか
第部 技術者としての社会への責任
3.技術者は何に配慮するべきか ‐ 小さな視点から大きな視点まで
4.技術者はどう行動するべきか ‐ 社会の要求を解決するためのガイドライン
5.技術者の責任ある行動を社会はどうサポートするべきか

1では、INAXで入浴感のあるシャワーを開発した若いグループと、デンソーで車の冷房をノンフロンにする技術開発を社内で発足させた技術者を紹介して、開発チーム内での自立性を考えさせている。

2では、技術および最近の技術の性格を説明し、プロフェションとして社会から一定の優遇、尊敬、保護を受けている理由やそれへの姿勢などを説いている。技術者の特殊性を説明するのに、ときどき「医師や弁護士」との比較を持ち出しているがこれが分かりにくい。技術が複雑になったことに関係して技術者の倫理には特有な問題があるとして、例えば:

「医師や弁護士は、人を助けるときに「だます」ことがありえます。専門的な知識をもっているがゆえに、それができます。その意味で、個人としての行動が社会の人々に対して直接迷惑をかけます。意図的な行為が専門家の責任としては大きいのです。それに対して、技術者は人工物をつくります。しかし、設計について述べてきたように、技術者にとっての倫理問題は、失敗、ミス、手抜きという過失によることが多いのです。過失は意図的行為とは区別されます。技術者はテロリストではないので特に爆発するものをつくろうとは意図したわけではないでしょう。しかしそれでも、何らかの仕方で過失があったりすると、そのために人工物が問題を起こすこともありえます。このために、技術者は自分の意図的でない行為の結果に対して責任を負うことが、非技術者に比べて、より頻繁に求められることになります。このようなタイプの倫理問題が技術者に生じやすいというのが、第三のポイントです。」

 分かりにくい説明だが、第一は技術者があらかじめすべての結果を予測できるわけではないから単純に結果責任を要求できないこと、第二のポイントはリスクの評価では「どれだけ安全にすれば十分か」ということが問題であるとして、比較的事故に弱い軽自動車をつくった技術者は、安全でないものを作ったとして責められるべきなのでしょうか、と書いている。この三点を合わせると、技術者に対して非常に手厚い、親切な論調のように見える。このような親切な倫理講義で、学生は納得するのだろうかと思う。逆に、非技術者は何もわからないわからず屋と思いこんで、責任を追及されたときに逆恨みするのではないかと心配である。そうならないためには、「意図」の中身、深さ、展望についてより厳しく考察するように習慣づけた方がいいのではないか。後段に様々な予測手段の技術的説明がつづき、これが楽観的すぎるように思えるのでコメントしておきたい。

 第部では、目次のテーマにしたがって、技術(者)と社会のかかわりを優しく説いている。


『科学・社会・人間』 90号 2004.9 p.23
 はじめに学生に対するやさしい気持ちが溢れていると書いたが、読み進んでいくうちに昔聞いた歌の「なかよしこよし、みーんないい子」のメロディーが頭の中に何回も何回も浮かんできて、だんだん居心地が悪くなってきた。この歌詞は私の違和感を良く表している。3‐3のかなり見えにくい人たち、という部分にとくに関心をもっていたが、公害の歴史を振り返る時、なぜ宇井純の公開講座や『公害原論』が出てこないのか不思議でならない。技術者の倫理を説く本であれば宇井純の実践は真っ先にとりあげて、現在の若い学徒への範の例示とすべきではないだろうか。その他にも、技術が社会に与えた負のインパクトを体系的に告発した本もあるのに、そういうタイプの本は紹介されていないと見受けた。最近のリスク論からコンセンサス会議の提唱あたりの甘さは、私には感心できない。

 コンセンサス会議については次のような記述がある:

「先に「情報格差」ということばで述べたように、専門的な知識や情報を持っているのはもちろん技術者であり、技術者のおかげで、一般市民は科学技術の意義やリスクについて知ることができるわけです。しかし、時には、一般市民の意見の中にも納得できる部分があるのではないでしょうか。ひょっとすると、専門家には持ちにくい重要な感覚を市民はもっているかもしれません。また、科学技術の恩恵を受けるのもリスクを負うのも市民なのですから、専門家の間でも意見が対立している場合には、市民の判断を尊重することは理にかなったことであると言えます。」

 私には、いかにも科学技術、技術者を高みにおいて、市民を見下しているように受け取れる。一般市民の実力は「ひょっとすると」程度にしか認識されていないのだから。ここで、同じように、新技術の導入(技術革新)に際していかに将来の潜在的被害を小さくするかという視点から、意志決定のプロセスについていくつか提案をしているEUの環境問題レポートNo 22『Late lessons from early warnings: the precautionary principle 1899-2000』(A4、2段組、210頁)と比較して見たいが、こちらにはコンセンサス会議については以下の記述しかない:

 「For example, the consensus conference, without safeguards, can easily potentially degenerate into little more than a form of consultation driven by the sponsor’s agenda.」(例えば、コンセンサス会議は、セーフガードがなければ、主催者の方針に導かれたコンサルテーション以上ではないものに簡単に退化してしまう可能性がある。)

 私の違和感はどこから来ているのかと自問しながら読み返してみたところ、著者である先生方が学生に向かって、「技術者になる前に、君たちは市民であるか?」と問う、あるいは、「技術者もみな一人の市民であることから出発すべし」という訓辞を出していないことが分かった。これを明示しないで倫理を説いているから、高みに上がってしまうのではなかろうか。工学の師弟という関係でこの本を読めば、暖かい師の言葉に満ちているが、そんな優しいことで期待できる倫理には限界があるのではないか。公害被害者、環境被害者がこの本を読めばかなりの違和感をもつと思う。


『科学・社会・人間』 91号 2005.1 p.41

松崎早苗氏の書評に答えて

伊勢田哲治*

はじめに

 まず、『誇り高い技術者になろう』(以下「本書」)を通読し、詳細な書評を書いてくださったことについて、編者として松崎氏に感謝したい。また、本書に対して当然出てきてよいはずの批判的な声があまり聞こえてこないので、少々不安になっていたところでもある。そうした「予期した批判」を公にすることで、こうして反論の形で本書の意図を説明する機会を与えてくださった、という意味でも松崎氏に感謝したい。松崎氏の批判の論点はすべてつながっているとは思うが、便宜上、以下、四点にわけて回答を行う。なお、以下の回答には、編集会議などの段階で著者全体で合意されていた内容を敷衍した部分もあるが、編者の一人である伊勢田個人の見解として書いている部分もある。最終的な文責は伊勢田にあるのでその点ご了承されたい。

「なかよしこよし」であることについて

 まず、松崎氏は、本書に対して、問題の取り上げ方が生ぬるいという感想を抱かれたようである。それを示すように、氏は、「なかよしこよし」「優しい」「甘い」といった形容を何度も繰り返しておられる。また、末尾において、「公害被害者や環境被害者がこの本を読めばかなりの違和感をもつと思う」と結論づけている。そうした視点からみて本書の論述が生ぬるく見えるというのは確かにその通りであろう。しかし、それが教科書としての本書の欠点となるかどうかはまた別問題である。教科書には仏教でいう待機説法の考え方が求められる。待機説法とは、言うまでもなく、相手の現在の状態や予備知識、性格などを考慮して、相手を一番望ましい方向へ導くような説明・指導の仕方をすることであり、その結果、別の人に対する説明や指導が一見矛盾する場合もある。ある文脈で適切な教え方が別の文脈では不適切だったり、その逆になったりということは日常茶飯事である。ただし、待機説法は「いきあたりばったり」とは違う。最終的にたどりつくべき目標地点がはっきり見えているなら、目の前の手段の選択がさまざまに変わって矛盾するようにみえても、筋は一本通すことができる。ターゲットをしぼった教科書に求められるのは、表面的な汎用性ではなく、この意味での「筋」を通すことではないだろうか。

 さて、この教科書の場合、最終的な目標地点は松崎氏がイメージするものとそれほど変わらないと思われる。一言でいえば、技術者が周囲の人や市民の幸福のために自分の知識や技能を使い、周囲もそれをサポートするような社会が一つの目標である。そしてそのためには技術者に今よりはるかに高い倫理性が求められる(ただしもちろん技術者だけに求められるわけではない)というのもその通りであろう。ではストレートにそのメッセージを書いた教科書がよい教科書になるか(特に、本書がターゲットとして冒頭で明確に挙げている工学部の1,2年生にとって)といえば、それはかなり疑問がある。

* 名古屋大学大学院 情報科学研究科
名古屋市千種区不老町


『科学・社会・人間』 91号 2005.1 p.42

実は本書に先行する工学倫理の教科書においては巨大事故が主な事例として使われることが多く、本書よりもよほど技術者に厳しい倫理性を要求する内容となっている。しかし、そうした教科書を使った授業が学生の倫理性を高めるために本当に役に立っているのだろうか、という疑問から本書は出発している。

 一つには、大事件ばかりを題材とした倫理教育は倫理というものが非日常的な存在だという印象を与えてしまっているように思われる。それでは学生は「倫理は大事かもしれないが自分には関係ないこと」だと思うだろう。また、技術者が非難される否定的な事例ばかり扱うと、倫理というものを、「工学に対して外から押しつけられるいやなもの」と学生がとらえる恐れもある。こうした要素は、すでに技術者の倫理的責任について一定の理解とコミットメントを持っている人に対しては「今の自分ではまだまだ不十分だ」といって自らを反省するきっかけになるかもしれない。しかし、そこにたどり着く前の段階では、「自分に関係ない」「いやなもの」と思わせるわけであるから、かえって倫理から気持ちを遠ざける効果しか持たないように思われる。

 長くなったが、松崎氏が「なかよしこよし」と感じたメッセージの大半はこうした配慮から意図的に発されたものである。技術者の倫理的責任を日常的でポジティブなものとしてとらえてもらうこと、これが技術者倫理教育の第一段階だと思う。そうして倫理を自分のものとして引き受けたあとで、倫理の「しんどい」面にも少しずつ目を向けていってもらえばよい。

「技術者を高みにおく」論じ方

 上記の点と関連して、松崎氏が違和感を感じておられるのは、技術者を高みにおく論じ方のようである。ここには本書の著者たちと松崎氏の間で実質的な意見の相違がある可能性がある。

 まず、松崎氏が「一般市民の実力は「ひょっとすると」程度にしか認識されていない」といって引用される箇所であるが、ここはむしろ待機説法の一部として理解してほしい。本書の著者たちが心を砕いたことの一つは、市民との対話という思考の枠組みがそもそも存在してこなかった工学教育の世界にどうやってそうした考え方を持ち込むかということであった。相手の心の準備の度合いを考えないと単に拒絶反応を引き起こすだけである。今コンセンサス会議のような考え方を前面に押し出した教科書を作っても、工学部において倫理の教科書として採用される可能性はまずないだろう。ここでの論述が松崎氏からみてはがゆいほどに迂遠なのもそうした配慮があってのことで、まずはコンセンサス会議といった考え方に敵意を持たずに目を向けるようにしむけることが大事だという考えが背景にある。

 しかし、本書のメッセージ全体との関係でいえば、「高み」という言葉の意味次第では、まさに技術者は高みに立つべきである。技術政策に関するさまざまな意志決定のうちには、市民の意見が重視されるべき側面もあれば、専門家である技術者の見解が尊重されるべき側面もある。後者の側面において技術者が専門家としての自信と責任を持つことは悪いことでないばかりか、技術者の倫理行動をささえる重要な要素ではないかとわれわれは考え


『科学・社会・人間』 91号 2005.1 p.43

る。そうした側面に限って言えば、「一般市民の実力」を「ひょっとすると」程度に認識するのは妥当なことである。もう少し説明すると、ここでいう自信とは、おおまかにいって、自分には他の人にはない知識やスキルがあり、それを役立てることができるのも自分だけだ、というような認識のことである。そうした認識を持つことを「高みにたつ」ととらえるなら、技術者であることに誇りをもてという本書の基本的メッセージも技術者にその意味で高みに立つことをうながすものである。そうした自信は自らの職務をきちんと果たす上での強い動機づけとして働くであろう。ただ、問題なのは、これまでの専門家(技術者に限らず)が社会的意志決定において自分たちの意見が尊重されるべき側面の範囲を不当に広く解釈してきたという点だと思われる。

 この意味で「高み」に立つことは、相手を(倫理的・社会的意味で)「見下す」こととは関係がない。知識に不均衡がある場合、一方が他方に教えるという一方通行な関係が生じるのは避けがたいが、それが「教えてやる」というまさに「見下した」態度になるか、「私の持っている情報を共有しましょう」という対等な態度になるか、「恐れながら申し上げます」という「見上げた」(?)態度になるかは両者の関係によって決まる。どの関係であれ、専門家が専門家としての自信や誇りを失う必要はない。

 松崎氏の短いコメントからはこの意味での自信や「高みにたつ」ことに否定的なのかどうかははっきりしないが、本書のメッセージともかかわる重要な論点なのであえて詳しく触れた。

技術者の「逆恨み」

 松崎氏は、本書の論調として、「技術者に対して非常に手厚い親切な論調」と分析し、これでは「非技術者は何もわからない分からず屋と思いこんで、責任を追及されたときに逆恨みするのではないか」と心配されている。ここもおそらく技術者倫理のあるべきすがたについて氏と執筆者の間で実質的な意見の食い違いの存在する部分である。

 本書では確かに、予測できない結果について必ずしも技術者に責任があるわけではないとか、リスクをゼロにするのは不可能なのでそれは求められないとか、製品の目標次第ではリスクと便益のトレードオフがありうるといった主張をしている。それは待機説法でもなんでもなく、額面通りの主張だと思っていただいてよい。倫理学に「「べし」は「できる」を含意する」という基本テーゼがある。実行不可能なことは義務とはなりえない、という考え方である。この考え方は現実の倫理問題に対処する際にも有効だと思う。たとえば、もし、リスクをゼロにするという不可能事をしなかったからといって技術者を責めるなら、その技術者が「逆恨み」するのもまったくもっともなことである。心理的にも、「リスクをゼロにせよ」だとか「あらゆる帰結を予測せよ」だとかいう規範を技術者に課しても、「はなからできるわけないのに」とまじめにうけとってもらえず、規範そのものが空洞化するだけのことであろう。

 もちろん、予測可能な深刻な被害を予測しなかったり、減らそうと思えば減らせるリスクを減らさなかったり、消費者や市民にとって受け入れ不可能なリスクトレードオフをメーカーの側が勝手にやったりといったことは


『科学・社会・人間』 91号 2005.1 p.44

非難されるべきである。しかしこれはもちろん前述のような本書の主張とは矛盾しないし、むしろ本書はこうした点で責任ある技術者になることをこそ求める内容となっているはずである。

「市民」としての技術者

 もう一つ、松崎氏は、本書に「技術者である前に市民であれ」というメッセージが明示されていない、という点を挙げておられている。「市民」という言葉で松崎氏が何を想定しているのかは定かではないので、以下、二つの可能性を考える。

 まず、「市民」という言葉を技術災害の被害者となりうる一人としての視点という意味で使っておられるのなら、確かに技術者にはその視点が必要である。しかし、工学部の学生と接した感覚でいうと、工学部の学生でも1,2年生はむしろこの意味での「市民」の感覚しか持ってない、つまり自分が将来、非常に「見えにくい」形で加害者となりうるという視点の方が欠けている、という印象がある。だとすると、むしろ必要なのは、技術者に特有の倫理的責任という彼らにとって異質な考え方を飲み込んでもらうことの方であろう。本書の論述が「誇り」を契機として技術者に特有の責任という考え方を強調しているのもそうした配慮が背景にあってのことである。 さらに言えば、技術者に要求されるのは、元から持っていた無反省な市民としての視点ではなく、技術者である自分を見つめる存在としての市民の目を自分の中に内面化させることであろう。さもなければ、自分と必要や立場の違ういろいろな人たちの視点でものを考えることができず、自分が元から持っていた非常に一面的な「市民」の視点にとどまってしまうことになる。本書で「見えにくい人たち」へ視点を拡大していくという論述方法をとったのは、そうした問題意識が背景にあってのことである。

 あるいは松崎氏は「社会的な意志決定の積極的な参加者」という意味での「市民」の視点が欠けている、という意味でこれを書いておられるのかもしれない。こうした視点が必要であることもまた否定するつもりはまったくない。しかし、この意味での「市民」としての責任はだれにでも当てはまるが、そうした普遍的な責任以上の責任が技術者にはあるのではないか、という問題意識から技術者倫理教育は始まっている。そうした特別な責任が本当に存在するのか、普通の市民としての倫理の延長で技術者の倫理もすべて処理できるのではないか、という点については工学倫理の中でも論争があるところである。もしこの点が松崎氏の考える問題点であるのなら、この回答で論じることができる範囲を超える。稿を改めて議論をしなおす必要があるだろう。


 以上、四点にわけて松崎氏の批判点・疑問点に答えてきた。もちろんこれで松崎氏が納得するとは思っていないので、さらなる批判をいただけることを期待したい。そうした議論の中で工学教育がいかにあるべきかということについて理解が深まるきっかけとして本書が働くなら、それは編者としても望外の喜びである。


『科学・社会・人間』 92号 2005.3 p.39

倫理以前

唐木田健一*

1.はじめに

 『誇り高い技術者になろう』という本[1](以下「本書」と略)の存在を知ったのは、2004年6月に開催された化学史学会の研究発表会のときであった。そこではシンポジウム「科学技術と倫理」が開催され、パネリストの1人(横山輝雄氏、本書の著者の1人)から言及があった。私は本のタイトルを聞き、何となく著者らの志が伝わってくるさわやかな感じを受けた。それに、結構なことに、「売れている」とのことであった。

 ところで、私にとって意外で少々おどろいたのは、本誌90号における松崎早苗氏による本書の紹介[2]であった。松崎氏はていねいに紹介しつつも、その内容にはたいそう批判的であった。彼女は、本書の記述が「いかにも科学技術、技術者を高みにおいて、市民を見下しているように受け取れる。」とし、「工学の師弟という関係でこの本を読めば、暖かい師の言葉に満ちているが、そんな優しいことで期待できる倫理には限界があるのではないか。公害被害者、環境被害者がこの本を読めばかなりの違和感をもつと思う。」で紹介を結んだ。

 松崎氏の紹介は「売れている」本書の購買者をさらに1名増加させた。すなわち、これをきっかけに、私は本書を自分で読んでみることにした。以下にその感想をまとめる。

 なお、本誌91号では、伊勢田哲治氏が松崎氏の「書評に答えて」いる[3]。伊勢田氏は本書の編者の1人ではあるが、彼の議論と本書の主張とは分けておいたほうがよいであろう。また、伊勢田氏の論考は私の本書理解を変えるものではなかったので、ここにおいてはとくに触れることはしない。

2.諸事例

 結論を先に述べる。本書は編者らを含む多数の著者(14名)によって作成されたもので、その意味では決して均質ではない。また、いまの学生にとって本書は、「技術系会社人生活入門」としての意味をもつのであろう。しかしながら私は、本書の基本的「構え」にはほとんど賛成することができない。

 対立点を明確にするには、まずは個別事例を議論するのがよいであろう。そこで、ここでは、本書に採用されている事例と解説のうちの一部を取り上げ、それに対する私の対照的見解を示す。なお、以下における事例の「要約」は私によるものである。ただし、用語と表現は本書で使われているものを尊重した。また、ここでは本書の記述にもとづいて各事例を考察するのであって、現実にどうであったかは私の関わるところではない。

 ブラウンと新素材自転車の開発〔67-68頁〕

[要約]

 ブラウンはある自転車メーカーから、自転車のフレームをカーボンファイバーの新素材を使って軽くする設計を委託された。彼は、新素材の導入の前に、現行のアルミニウムフレームが本当に最適化されているのか自前で

* [住所情報省略]


『科学・社会・人間』 92号 2005.3 p.40

シミュレーション計算をおこない、新素材を導入しなくても目標重量に近いところまで軽量化が可能であるという結果を得た。発注元の担当者ジョーンズはシミュレーション自体に反対だった。現行のフレームは彼が設計したもので、どうやら自分の設計に文句をつけられるのを嫌ったようであった。ブラウンは、現行のフレームを最適化すれば、新素材の導入に伴う製造工程の変更が不要となり多大なコスト削減ができると考え、自転車メーカーの上層部に報告した。結果として、新素材導入プロジェクトは中止となり、それに伴いブラウンに対する契約も打ち切りとなった。

  *

 私は最初、ブラウンに対する契約の打ち切りというのは、自転車メーカーがブラウンとの取引全般を停止したように読んでしまった。しかし、ここでいう「契約」とは、「新素材による軽量化設計委託契約」のことであろう。すなわち、この事例のポイントは、ブラウンが合理的観点にもとづいて、自分への発注を取りやめるよう取引先の上層部に提案し、実際そうなったということにあると思われる。

 本書の著者は「この話をきいた人の多くが、“ブラウンは一体なんでこんなことをしたのだろう”という反応をします」と書いている。そうだろうか? たとえば、(狭義の技術者ではないかも知れないが)日本の職人などでこういう振る舞いをする人はめずらしくない。ブラウンは「倫理にはコストが伴うが、高潔さに対する報酬もある」と言ったと紹介されている。彼は自己の行為を「高潔」と自賛しているわけだ。しかし、少なくともここでの内容にもとづけば、私にはいくつかの問題が感じられる。

 ある組織が外部から見て不合理な状態にあるとき、その不合理を指摘することには十分な配慮が必要である。とりわけ、自分が直接その不合理による不利益を受けるわけではないときには要注意である。これは、本書の3-3の4で説かれている異文化への配慮とも通じるものである。本事例でいえば、たとえば委託業務の発注は、通常発注担当者が勝手にできるわけではない。一定の社内手続きがあり、そこには複数人が関与する。したがって、不合理の指摘は、それが妥当であればあるほど、その組織に意図せぬ範囲の影響を与えることがある。

 また、本事例では、担当者のジョーンズは何となく後ろ暗いところがある人物のように描かれている。しかし私には、ブラウンがジョーンズを貶めることによって、自転車メーカーの上層部に自分を売り込もうとしたかのように解釈することも可能である。そういわれれば、「ブラウンはこの契約を失いましたが、その埋め合わせに紹介してもらった仕事で何倍もの収益をあげたといいます」と書かれている。これをも高潔な行為と呼ぶのであろうか。仮に私がブラウンの立場で彼と同じ提案をしたいと思ったら、メーカーの発注担当者を通して上層部に提案するよう働きかけ、もし担当者にそれができないのなら「自分が直接上層部に接触する」と告げるであろう。すなわち、「通すべき筋を通しておく」ということである。(本書の182頁には、別の文脈においてではあるが、同じ原則が記述されている。)

 さらに、この事例の場合、技術者(ブラウン)は自営業者だったからそれで済んだが、仮にメーカーから委託を受けた会社の社員で


『科学・社会・人間』 92号 2005.3 p.41

あったらどういうことになったのであろうか。会社が得るはずの利益を消失させたという評価を受ける可能性がある。そして私には、その評価が明らかに不当とは思われない。一般論ではあるが、顧客から注文を受けたとき、相談されたわけでもないのに、その注文の「妥当性」に口出しするのは、無用な《礼儀上のトラブル》を引き起こすことが多いということも知っておいたほうがよい。

 ルメジャーとシティコープタワーの危機〔68-70頁〕

[要約]

 建築家ルメジャーは、シティーコープという会社にビルの設計を依頼され、無事完成させた。その設計の独創性は高く評価されたが、ルメジャーはある学生からの問い合わせがきっかけとなって、自分の設計に見落としがあったことに気づいた。斜めからの風を計算に入れなかったため、16年に1度くるレベルの強風には安全でなかったのである。ルメジャーは自分の設計ミスをタワーの所有会社に報告し、補強工事をおこなった。

  *

 ルメジャーは「わたしのエピソードで一番すばらしいのは、わたしがこの求めに応じたときにはなにもわるいことはおきなかった、ということなのです」と学生に語ったとの紹介がなされている。あきれ返ってものが言えない。欠陥設計の修復をしてなぜ自慢することがあるのか。欠陥に気づき事故の起きる前にそれを修理する行為は企業としてはごくありふれたものである。そんなことは何ら賞賛に値しない。問題は、最近の自動車会社の例でも明らかなように、欠陥を隠して事故を起こせば大犯罪となり、それは身の破滅をもたらすという倫理以前の事実である。

 それに、補強工事に際しては、(自分自身における損失はもちろんのこと)施主に多大な損害をかけたはずである。(少なくとも、納期遅れは明らかであろう。)それに対する自己批判には何ら言及されていない。問題はこちらのほうである。この問題から、欠陥隠しのような犯罪がはじまるのである。

 スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故〔110-115頁〕

[要約]

 1986年1月のNASAにおけるチャレンジャーの爆発事故では、乗員7人が犠牲となり、巨額の予算のかかった機体が失われた。大統領委員会の調査で、爆発の原因は固体燃料ブースターのO(オー)リングにあったことが明らかになった。Oリングの問題は、かねてからNASAとサイオコール社との間で検討がなされていた。

 サイオコール社の技術者ボイジョリーは、Oリングに関わる問題に気づき、それに取り組み、それが事故につながりかねない可能性を指摘した。彼は、行動するにあたっては、同僚や上司との信頼関係を損なわないように注意を払い、また職制上のルートを尊重しつつ上級副社長に問題を伝えた。NASAに対しては、〔ボイジョリーからの具申にもとづき〕会社の技術担当役員がチャレンジャーの打ち上げ延期を提案し、ボイジョリー自身も低温によってOリングの機能が損なわれることを説明した。打ち上げの当日は極端な寒さが予測されたのである。ボイジョリーはまた、Oリングの侵食の様子や自分の行動を詳細な日誌に残した。そして彼は、最後まで〔打ち上げの〕延期を提案した。結果的に事故を防


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ぐことはできなかったが、ボイジョリーはプロフェッショナルとしての責任を果たしたといえる。

  *

 このように紹介したあと、本書の著者は「ボイジョリーは、プロフェッショナルの技術者の模範例です」と書いている。しかし、紹介された限りのこのボイジョリーの行動は、技術者として何らまれなものではない。私は、技術者はごく一部の模範的な人を除いて、こんなことすらできないのかと誤解されることを恐れる。

 ところで著者は、「ボイジョリーは、プロフェッショナルの技術者の模範例です」と書いたあと、「しかし、」として、チャレンジャーの打ち上げを通して会社内でのボイジョリーの立場が悪くなったこと、結局事故のあとで記録していた資料を会社に無断で事故調査委員会に提出したため内部告発者とみなされ、退職をよぎなくされたことを紹介している。ということは、彼について特筆すべき点は、本書の著者が「模範例」として着目した諸行動(上述)というよりは、資料を無断で外部にもち出すという(おそらく)就業規則に違反する振る舞いにあったと考えられる。この点を抜きにして、彼を気軽に「模範」などと呼ぶべきではない。就業規則に反する行為はそれ自体決して模範ではない。私の推測によれば、彼は止むに止まれず、大変不本意なことをしたのである。

 仮に、ボイジョリーが会社員としての立場を相当程度逸脱した行動を取ってチャレンジャーの打ち上げを延期させ、Oリングへの抜本的対策が導入できたとしよう。この仮想の事例においては、技術者の責任は全うされたのである。しかしこの場合、ボイジョリーは、未然に大事故を防いだ人という評価は得られなかったであろう。事故は起きたかも知れないし起きなかったかも知れないのであり、多くの関係者にとっては明らかに後者だったのである。また彼は、現実にそうであった以上に、会社での立場は悪くなったであろう。そして結局彼は、単に退職をよぎなくされただけで、米国科学振興協会から「科学の自由と責任」賞を贈られる〔115頁〕こともなく、外国の本で「技術者の模範例です」と賞賛されることもなかったであろう。現実の技術者が直面している問題は、むしろこちらに近いのである。

3.技術者と「誇り」

 「誇り」の問題

 「誇り」という単語に私が初めて自覚的につまづいたのは、中学の英語の時間であった。私と同年輩の少年の手紙が教科書に載っていて、そこに“I am proud of my father.”という文章があった。それは「私は父が誇りです」と訳されたが、私には「誇り」の意味がわかっていなかった。少年の父親はbankerということであったので、私は「あぁそれが自慢なのか」と解した。しかし、「誇り」と「自慢」は区別されるべきもののようであった。そうは言われても、その後に「誇り」の具体的用例を注意してみると、その多くは「自慢」に置換可能であった。考えてみれば、「誇り」の「誇」は、「誇大」とか「誇張」の「誇」に違いなかった。

 中学生の時代よりも少しあとになって、私は「矜持」という熟語を知った。辞書的には、「矜持」と「誇り」は重なる部分が多いよう


『科学・社会・人間』 92号 2005.3 p.43

である。しかし私は、「誇り」の「自慢」的用例とは異なり、「矜持」という表現には尊敬の念を覚えるものが多かった。「矜持」は典型的には、「-の矜持を保つ」のように用いられる。すなわち、そこには、「自慢」のような外部への誇示とは逆に、守勢が感じられる。すなわち、外部からの圧迫に対してその本質を守るという姿勢である。たとえば、「民族の矜持を保つ」とはそういう意味であろう。以降私は、「誇り」という表現に接したときは、「自慢」と「矜持」のどちらかに区分して扱うようになった。本書のタイトルを聞いたとき私が思い浮かべたのは、もちろん後者であった。

 技術者は特別か?

 本書には、「プロフェッショナルとしての誇り」として、次の文章がある。「“誇り”という視点を持つ上で、まず、だれもが技術者になれるわけではない、ということを確認しておく必要があるでしょう。大学の工学部など、技術者を養成する教育機関に入り、一定の期間・・・の勉強を経て、ようやく技術者になることができます。・・・こうした知識やスキルのおかげで、技術者は、同じトレーニングを経ていない人間にはできないようないろいろなこと・・・ができるのです。・・・その知識・スキル・資格について、まずプロフェッショナルとしての誇りを持ってほしいと思います」〔80-81頁〕。ここでの「誇り」は、明らかに「自慢」に区分されるもののように思われる。  もちろん、本書の著者もその危うさには気づいており、「ここで言う誇りとは、学歴の高さ・・・・を鼻にかける、悪い意味での“プライド”とは異なります」〔vii頁〕と断ったり、あるいは「技術者として誇りを持つということは、他人を見下す意識を持つということとは別物だということです。」〔83頁〕と付け加えている。すなわち、「よい意味での誇りをもつべきであって、悪い意味での誇りはもつべきでない」と主張しているのである。倫理教育としては、理論的には、すでにここで破綻しているのではないであろうか。

 仮に学歴の高さを自慢する人がいたとしたら、その人物はその学歴を獲得するまでの努力や成功の数々、そしてその学歴によって可能になるであろう事柄を誇っているのである。上の技術者の誇りとどこが違うのか。また、「他人を見下さない」ということは、「他者は自己と同様特別な存在である」という認識をもって初めて成立するものである。技術者が特別な存在である(「だれもがなれるわけではない」「技術者でない人間にはできないようなことができる」)ことを強調するのはその逆方向にある。

 倫理はコストか?

 本書の著者によれば、技術者の仕事は「よい仕事」である。まずは、すでに紹介した通り、それは誰にでもできるものではない。それに「技術者の仕事は、自分の生み出したものを通じて直接に社会に貢献し、人々の生活を支え、人々を幸せにします。そして、技術者の仕事には一定の自由裁量の余地があり、クリエイティブなものになります。」したがって、「技術者が他の人々には求められないより大きな責任を社会に対して負うことになるのは、こうした“よい仕事”をさせてもらっていることの代償のようなものです」〔ク頁〕。おそろしいので敢えて断っておくが、「 」内は原文通りである。

 すなわち、「社会的責任は、“よい仕事”をさせていただくうえでのコストである」との


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教えである。そうだとするなら、仮に社会的責任を果たすことによって「よい仕事」をさせていただけなくなったり、「よい仕事」に伴う安泰な生活が危機に陥ったりすることになったら、それはコストのかけ過ぎである。責任を果たすことなど無用ということになる。

 本書の別の個所には次の記述がある。すなわち、技術者は「プロフェッショナルとして社会から教育機会と仕事上の権限、そして尊敬を得るかわりに、社会に対して通常の仕事には要求されないような種類の“余分な”責任を引き受ける。/・・・その責任の余分な部分をいやいや果たすのではなく、良い仕事をした自分に対する“誇り”の感情を報酬とするのが誇り高いプロフェッショナルである」〔255頁〕。やはり「余分な」ことなのであった。論理的には確かにそうなるべきはずのものである。

4.価値観の問題

 本書においては、企業における「技術者の生きる道」が紹介されている〔61頁〕。そこでは二つの「理想形」が上げられている:「チーフ・エンジニア〔システム全体を統括して開発する技術者〕は一人前の技術者の一つの理想形と言えます。」また、「二つ目の理想形は、経営に関与することです。・・・一つの企業にとどまるならば、重役になることが目指すべき技術者像になるかもしれません。」著者の価値観が実によく表現されていて見事である。私は、ヒトさまの価値観などに立ち入る気はないが、仮に学生としてこういう講義を受けなければならないとしたら、バカバカしさを超えて苦痛である。何でこんなことまでお教えいただかなくてはならないのか。こんな価値観が前提では、技術者としての責任を全うするため苦難の闘いの日々を送ることなど、さぞかしバカげて見えることであろう。

 また本書では、(技術者の)「家族に対する責任」が論じられている。「そして何よりも重要なのは配偶者に対する責任、とりわけ、配偶者が仕事や勉強などを通じて自分を高め自己実現する機会を保障し支援する責任」である〔95頁〕。そうであろうか。自分を高め自己実現を追求するのは人生におけるそれぞれ「自己」の基本的責務である。それは各自が人生をかけて追求することである。配偶者という他者に対し、支援はまあよいとして、《自己実現》の機会を保障する責任など誰にも存在しない。配偶者は、一般には、被保護者ではない。

 こんな《思いやりあふれる》教えを敢えて問題にするのは、背後に重大な見解の相違を感じるからである。こういうことを主張する人とは、《自己実現》に余裕のある比較的には少数の恵まれた職業人なのであろう。すなわち、《内助の功》に支えられ職業に没頭することによって生計を立てることができ、しかもそれが《自己実現》に通じると信じることが可能な人である。労働者一般はもちろん技術者ですら、その多くはそんな状態にはないであろう。

 多くの人にとって職に就くのは、まずは生計を立てるためである。それによって「好きなことができるかも知れない」(→「《自己実現》が可能かも知れない」)というのは個人的な期待である。雇用する側はまた別の目的をもっている。被雇用者の期待と雇用者の目的は元来独立のものである。

 本書では「“家族に対する責任”の具体的内


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容をイメージするには、自分が家族をもつ女性技術者として人生をまっとうしようとしていると想像」せよという助言がなされている。私がいま、女の技術者として現実の企業に勤務していると想像し、社内あるいは社外の誰かから「夫の自己実現の機会を保障し支援せよ」と言われたら、意味を理解しかねるか、あるいは大いに立腹することであろう。そんな余裕などない。それに第一、余計なお世話である。

5.「倫=理」

 本書では、「技術者は人工物を介して人とかかわる」という観点が提示されている〔49頁〕。私は和辻哲郎にならい「倫理とは人間関係〔倫〕におけるコトワリ〔理〕である」との主張をしており[4]、この観点は工学倫理にとって重要であると考える。この具体的展開を私は期待したい。

 各プロフェッションにそれ特有の倫理が求められることは事実である。しかし、社会の構成員に求められる倫理以上のものが求められるわけではない。こう指摘することによって私は、工学倫理の問題を社会全般に薄めてしまうことも、また「本書の守備範囲」を超えた議論をすることも意図していない。問題はもっと切実である。たとえば、この講義を聴くはずの学生は、社会の立派な構成員である。そして、少なくとも私の目には、この社会にはあからさまな非倫理的事態が蔓延している。これまで、多くの時代・多くの地域で、学生は社会の不正に最も敏感に反応してきた。しかしいま、社会のこれだけの不正を前に、学生たちは概して《静か》である。工学倫理を「ススメ」る前提が成立していないのではないか。こう考えたとき私は、物理学会のシンポジウムで、ある講演の質疑のとき勝木渥氏が突然(と私には思われたが)、「現在の大学の最大の問題は、学生運動の不在だ」と発言したこと[5]を思い出した。

 倫理的であるとは、さまざまな事実をできる限り首尾一貫して理解することであり、その理解と自分の振る舞いとを整合(首尾一貫)させることである。首尾一貫性の追求は主体的にしかなすことができず、その意味では本書でも主張されている通り〔vii頁〕、行動の理由は自分の内側に存在する。また、首尾一貫性の追求は、科学や技術の探求における本質である。

 したがって、仕事をなすことと社会的責任を果たすことは、当然一体であるべき事柄である。「よい仕事をさせていただける」ことの代償として社会的責任があるわけではない。社会的責任を果たす行為は、いわば内面的に強いられるものである。それは、不整合を感知したときの居心地の悪さによって駆動される。この居心地の悪さは、科学や技術の探求においてしばしば飛躍をもたらすきっかけとなる《アレ》と同質のものである。

 倫理的であるには、まずは関連する・関連し得る諸事実に通じていてそこにおける不整合を感知することがなければならず、またその不整合あるいは居心地の悪さを解消すべく行動するのでなければならない。関連する・関連し得る諸事実は教育の対象となる。これは、対象における工学的詳細に立ち入った考察となり、狭義の倫理からははずれるのかも知れないが、非常に重要な事項である[6]。先に私が「技術者は人工物を介して人とかかわる」という観点に賛意を表したのは、これに


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関係することである。一方、問題は不整合の感知とそれにもとづく行動である。これは直接には教育の対象とはならない。

 本書によれば、誇り高い生き方は「じつはとても楽しくて充実した生き方」である〔ケ頁〕。これは事実であろうか。「誇り」(≒「自慢」)の区分ならそうかも知れない。他方、技術者の「矜持」に関わることなら、私の知る限り、現実はその逆である場合が多い。社会あるいは組織における不正を告発した人にとっては、自分は誤っていたかも知れないという不安に襲われながらの孤独な生活が続く。仮に喜びがあるとすれば、そのような孤独な闘いの中で、思わぬ人から、密かにあるいは公然と、支持を表明されることぐらいである。これは確かに大きな喜びではあるが、「充実」などという事態からはほど遠い。「楽しくて充実した生き方」だけではなく、こういう現実もきちんと伝達する必要があるのではないか。

 実際の問題として、いまの学生には(本書におけるような)こういう「言い方」しかできないということであるなら、それはそうなのかも知れないとは思う。しかし、そういう「言い方」は非倫理的である。言い換えれば、必ずしも事実ではないことをあたかも事実であるかのように主張するのは非倫理的である。少なくとも倫理の講義は、非倫理的態度でおこなうのはよしたほうがよい。それに私の推測によれば、学生に対し、誇り高い生き方は「じつはとても楽しくて充実した生き方だ」と言っても、彼らは冷ややかにしか反応しないであろう。彼らはそれが現実のせいぜい半面でしかないことをよくわかっているからである。(ひょっとして、わかっていないのは一部の教員だけかも知れない。)

 倫理に関わる講義が仮に「会社人生活入門」以上の意義があるとすれば、それはまず現実を前にした学生が立ち上がる契機となるべきものではないかと思われる。学生はいますぐには立ち上がらないかも知れない。しかし、いずれにせよ彼らもいつかは組織と自己に関わる正真の苦難に遭遇することであろう。そのとき、孤独の中を闘い続けた技術者たちのことを思い起こすことがあったとしたら、それは彼らを安易な屈服から遠ざけ、同時に大きな励ましを与えるはずである。

 文献と注

[1] 黒田光太郎・戸田山和久・伊勢田哲治編『誇り高い技術者になろう 工学倫理ノススメ』名古屋大学出版会(2004)。以下の本文で〔○○頁〕と示したのは、本書における頁である。引用文中の「・・・」は引用者による省略、「/」は原文における改行、そして〔 〕内は引用者による補足である。また、原文におけるかっこ「-」は引用の都合で“-”に変更した。

[2] 松崎早苗「紹介『誇り高い技術者になろう』」『科学・社会・人間』90号(2004)、21-23頁。

[3] 伊勢田哲治「松崎早苗氏の書評に答えて」『科学・社会・人間』91号(2005)、41-44頁。

[4] 唐木田健一「日本社会の反倫理性と科学論の問題」『科学・社会・人間』73号(2000)、3頁。

[5]「第27回“物理学者の社会的責任”シンポジウム: 科学者・専門家の倫理とは」『科学・社会・人間』85号(2003)、15頁。

[6] たとえば、次の文献で対象として取り上げ論じている工学的業績は、深い倫理的意義を有している: 唐木田「理論の科学的構築:40年後の水俣病原因究明の場合」『化学史研究』29(2002)、100-107頁。


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唐木田氏の批判に答える

伊勢田哲治*

 90号の松崎氏の書評[1]に引き続き、唐木田健一氏の「倫理以前」と題する書評[2]でわれわれの『誇り高い技術者になろう』[3](以下本書)をとりあげていただき、両氏、および『科学・社会・人間』の編集部には大変感謝している。こうして本書が議論の対象となることは編者の一人として望外の喜びである。

 唐木田氏の批判の多くが私が執筆分担した部分にかかわっていることもあり、前回[4]に引き続いて今回もまた私伊勢田が回答を書くこととなった。前回同様、本稿の内容の多くは編集会議などで話し合われたことを敷衍したものではあるが、私の個人的な意見も多く入っており、最終的な文責は伊勢田にある。以下、引用の頁数は、特に断らないかぎり、上記の唐木田氏の書評の頁である。

 さて、唐木田氏は「本書の基本的『構え』にはほとんど賛成することができない。」として多岐にわたる批判を展開しておられる。その中には、もっともな批判として真摯に受け止めるべきものも多々あると思うが、こちらの意図が唐木田氏にうまく伝わらなかったために批判をいただいている部分も多いように思われる。特に後者について、意思疎通の努力をしておきたい。以下、「われわれと唐木田氏で考えていることはそれほど違うわけではない」という趣旨の主張が何度か繰り返され、読者は若干退屈に感じられるかもしれないが、実り多い論争を行うためには単なる誤解や行き違いをまず解消しておくことが必要であり、その点はご了承願いたい。

1 事例の解釈をめぐって

 唐木田氏の批判を見る限り、ブラウン、ルメジャー、ボイジョリーのそれぞれについて、彼らがなぜ賞賛すべき技術者とされているかについて背景情報が十分でなかった(十分に強調できていなかった)ようである。事例の紹介が舌たらずになって意図が伝わらなくなっているのなら、それは限られたスペースを有効に利用できなかった我々の筆力の問題であろう。

 この点についてはいちいち述べていけば切りがないので、ルメジャーの紹介に関してのみ述べる。ここでは彼の設計がニューヨーク市の安全基準をきちんと満たしていたこと、大学の授業で取り上げられるなどしてよく知られた設計であったにもかかわらず危険性に気づいた人が誰もいなかったこと、などをもっと強調して書くべきだったかもしれない(もちろん本書の中でもふれてはあるが)。こういう状況下では、仮に事故が起きたとしても、「予想し得なかった事態」と見なされ、設計者が追及されることはないだろう。以上のことから、単純に自分の欠陥設計の責任をとるというのとはレベルの違う話だというつもりでこの事例を紹介したのであるが、それがうまく通じなかったのは書き方の問題だったかもしれない。

 ただし、「舌足らず」になること自体についても弁明の余地はあると思う。教科書という限られたスペースの中ではそれぞれの事例について行き届いた紹介など望むべくもない。

* * 名古屋大学大学院 情報科学研究科
名古屋市千種区不老町


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具体的な読者をイメージしながら、その読者が必要とするであろう情報を優先的に並べることになる。ここでは想定される読者は工学系の大学生(特に1、2年生)である。正直なところ、彼らが唐木田氏のような読み方をすることは想定しておらず、そのために、唐木田氏が必要とするような情報が取捨選択の中で省かれることになった。

 また、どういう情報を盛り込むかの選択には、これらの事例をなぜ持ち出すか、という理由も関わっている。ブラウンやルメジャーの「自賛」や「自慢」と見えるような発言を特に引いているのは、これらの行動が自賛や自慢に値するということが伝えたかったからではなく、内的動機づけがあることを本人たちが意識していることの証拠として挙げたのみである。これは本書の中の記述からも明らかだとは思うのだが、おそらくここのところの誤解が後で論じる「誇り」の解釈の話にも影響していると思うので、一応指摘しておく。

 なお、ルメジャーやボイジョリーの事例がいわば「失敗」の事例であり、全面的に賞賛すべき性格のものではない、という認識は、実は本書の企画段階から話題となっていたことであった。彼らに対する賞賛は、設計で見落としをしてしまったとか、事前に低温下のOリングのふるまいについて十分な実験をしておくことができなかったとか、事故を最終的にはふせぐことができなかったとかといった負の側面とセットになってはじめて成立するものである。

 そこで本書では、そうした失敗の要素のない事例を中心的に用いることを考えた。しかし残念ながら技術者倫理で典型的に用いられる事例にはそういうものがなかったために、自分たちで事例の採取を行うこととなった。本書冒頭で挙げられているINAXとデンソーの二つの事例はそうした経緯で集められたものである。

 また、ブラウンの事例については注意深い取り扱いが必要だというのは唐木田氏のご指摘の通りだと思う。ブラウンが見返りを期待できる状況だったかどうかでブラウンの行動の評価は大きく変わるであろうし、他社の内部事情をよく考えずに口出しをするのが問題を引き起こしかねないというのもまたもっともな指摘である。もしさまざまな側面から分析するという趣旨でブラウンの事例を挙げているのであれば、当然唐木田氏が指摘しているような点にも触れるべきだったであろう。

2 誇りをめぐって

 唐木田氏が次に強調しておられるのが、本書でいう「誇り」の概念への違和感である。一言でいえば、唐木田氏は、本書で言っているのは「自慢」であって「矜持」ではなく、そんなものは技術者の倫理と何の関係もない、という趣旨のことを言っておられるようである。これについても、意見やスタンスの違いというよりは意思疎通のレベルの問題が多いように思われる。

 本書では、中心となる「誇り」の概念について十分展開することができなかった憾みがあり、それは今後の課題であると考えている。そのため、唐木田氏のような反応が出るのも理解できる面はある。説明に舌足らずな部分があったりミスリーディングなところがあったりすることについては、素直にお詫びしたい。

 しかし、それをふまえても、唐木田氏の批判にはうなずけないところが多い。まず、唐木田氏は「誇り」という言葉の意味を「自慢」と「矜持」に区分し、自慢は外部への誇示、矜持は「外部からの圧迫に対してその本質を守るという姿勢」だと特徴づけておられる


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(p.43)。この区分に基づくなら、本書の執筆において著者たちが念頭に置いていた「誇り」は一貫して「矜持」の方である。

 では、唐木田氏はなぜそうではないと解釈したのか。氏は、本書の80-81頁の箇所(技術者の特別さについての箇所)を引用したあと、「ここでの『誇り』は、明らかに『自慢』に区分されるもののように思われる」と言われる(43頁)。ここですでに氏は文意を読み誤って、書いてもいないことを勝手に読み込んでおられるように思う。これが「外部への誇示」という外に向かうベクトルをもつものではないことは、たとえば本書81頁の図において「誇りある仕事」の矢印が自分に返ってくるベクトルとして書かれていることや、同じページの中で、「誇り」の内実が、「自尊心」や「誇りをもって行動する」という表現で置き換えられていることからも明らかではないだろうか。

 本書のこの部分でやろうとしている作業は、「矜持」を持ってもらうための基礎固めの作業である。「自分には他人にできないことができる」という事実認識は、もちろん自慢の種にもなるだろうが、それ以外に用途がないわけではない。事実、ここではその同じ認識を矜持の基礎としてもらおうとしている。つまり、技術者としての高い行動基準を維持するための支えとして、自分がくぐりぬけてきたこと、自分ができること、自分の影響力などについて考えてもらおう、というわけである。

「いや、そんなものは矜持の基礎にはならない」と唐木田氏はおっしゃるかもしれない。しかし、それなら矜持の基礎については唐木田氏はどうお考えなのだろうか。唐木田氏が例として挙げる「民族の矜持を保つ」(43頁)という場合、その矜持はなにをよりどころとしているのか。その民族の歴史や文化になんらかの特別さを認識するからこそ矜持を持つのではないか。一見普遍的にみえる「人間としての矜持」も同様で、人間が他の動物と違う特別さを持つという認識があるからこその「人間としての矜持」ではないのだろうか。なんの基礎もなく「矜持を持て」と諭しても、学生にはなんのことやらさっぱりわからないであろう。

 「そのような自己の特別視は他者を見下すことにつながるから望ましくない」と唐木田氏は反論されるかもしれない。事実、唐木田氏は以下のように書かれている。「また、「他人を見下さない」ということは、「他者は自己と同様特別な存在である」という認識をもって初めて成立するものである。技術者が特別な存在である…ことを強調するのはその逆方向にある。」(43頁) しかし、実は唐木田氏自身の文章にも自己の特別視が暗黙に含まれている。というのも「他者は自己と同様特別な存在である」(強調引用者)という文は「自分は特別な存在である」ことを含意するからである。揚げ足取りのように聞こえるかもしれないが、自分が特別な存在であるという認識は、他人も自分と同様特別な存在であるという認識の論理的前提であって、逆方向ではないということを唐木田氏も暗黙のうちに理解しておられるのではないだろうか。そうだとすれば、この点について、本書の著者と唐木田氏の間には意思疎通の不備があるだけで本質的な対立はないということになるであろう。

3 技術者の「理想形」をめぐって

 本書の第二章では技術者のキャリアの「理想形」としてチーフエンジニアや経営者になるという道を紹介しており、ここには唐木田氏は非常に感情的に反応されている。氏は以下のように言う。「私は、ヒトさまの価値観な


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どに立ち入る気はないが、仮に学生としてこういう講義を受けなければならないとしたら、バカバカしさを超えて苦痛である…こんな価値観が前提では、技術者としての責任を全うするため苦難の闘いの日々を送ることなど、さぞかしバカげて見えることであろう」(44頁)。これについては、この節の担当者が回答する方がよいのかもしれないが、とりあえず編者としてどういう意図でこの「理想形」という言葉をそのままにしてあったのかについて説明したい。

 まず、文脈からいって、経営的な立場へ進む道をめざせ、という意味で書いているのではないことは前後と照らして読んでいただければ(たとえば直後に 「スペシャリストとして生き残る道もある」として中村修二氏に触れていることなどからも)明らかだと思う。

さらには、ここでいう理想形とは、「技術者はこうなるのがよい」という価値観の表明ではない(と編者としては理解している)。現実の技術者がたどる経歴を見たとき、彼らの経歴がどちらに向かって行くかをたどっていくと、一種 の「あがり」としてチーフエンジニアや経営者という終着点が存在する、という意味での「理想形」である。「理想」というから価値判断のような気がするのかもしれないが、理想という言葉が「よい」という価値判断を含まずに使われる例としては、「理想気体」という言葉などもある(もちろんここでいう「理想」と「理想気体」の「理想」は具体的な意味内容は違っているが)。

 実際、STS的な分析の文脈においては、科学者や技術者が狭い意味での科学・ 技術だけを扱う存在ではなく、他の専門家や非専門家との相互作用の中で仕事 をする存在であるというイメージが確立されてきている。そうした見方からすれば、企業内技術者が狭い専門の枠をはなれて総合的な判断や経営的な判断も要求されるような立場へと次第に進んでいくということには一種の必然性がある。その必然性が妨げられずに実現したのがここでいう「理想形」だと言ってもよいであろう(くどいようであるが、そうした「必然性」があるという判断 と「技術者はそうなるのがよい」という判断は別ものである)。

 本書であえてこうした非技術者的な「あがり」方をする技術者像を提示したのは、「多くの技術者が最終的にたどる道を考えれば、狭い専門領域のことだけ知っていればいいというわけではないから心せよ」ということを学生に知ってもらいたかったからである。こんなことは企業につとめる技術者の方々には当たり前で「今さら何を」と思われることであろうが、本書の想定する読者は、まさに専門分化した教育をうけつつあるところであり、自分たちが経営的立場に立つかもしれないという認識は非常に薄い。そうした学生たちに倫理や科学技術と社会の関わり全般について学ぶ積極的な動機づけを得てもらうには、そうしたキャリアパスが存在することを知ってもらうのが手っ取り早い、と考えたのである。これもまた、その頁だけを見るのではなく前後の流れとあわせて読んでいただければ十分に読み取っていただけることではないかと思う。

4 誤解を解いた上でなお残るであろうスタンスの違い

 以上は、どちらかといえば、単に言葉の上で行き違っているのではないかと思われる部分についてであった。しかし、もちろん、すべてが言葉の上の行き違いに還元されるわけではない。技術者倫理教育が目指すもの、技術者倫理教育が学生に対して「倫理的な生き方」として提示すべきものについて、本書と


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唐木田氏の間には大きな開きがある。

 わたしが理解するかぎり、唐木田氏の考える倫理的技術者とは、(特に46頁あたりで述べておられるところを見ると)不利な立場に追い込まれても「矜持」だけをたよりにして孤独に不正と戦う、そうした技術者であるようである。そして、本書がそうした技術者像を提示せず、むしろ「うまくやっている」技術者のイメージばかりを描くことに唐木田氏はいらだちを感じておられるのではないかと思う。そうしたいらだちにどう答えるかは本書の著者の間でもかなり温度差があるところだと思うが、本書の企画者の一人としての私の見解を述べる。

 唐木田氏が言われるように、人目につかないところで「技術者としての責任を全うするため苦難の闘いの日々を送る」(44頁)技術者の方々がおられることは私もよくわきまえているところであるし、そうした方々がおられたからこそ防げた事故や不正も多々あることは言うまでもない。そうした誇り高い技術者への敬意を惜しむものではない。また、技術者倫理教育をうけた学生たちが、将来技術者となったときに、そういう場面で誇り高い技術者として振舞えるような技術者に成長することを望む点では唐木田氏と同じである。

 しかし、いくつかの理由から、本書はそうした苦しい側面を前面に出すという方針はとらなかった。まず、第一の理由として、そうした事故や不正というのは、誰が見ても問題だとわかるという意味で、わかりやすい倫理問題である。事故を防がなくてはならないということは、いまさら誰に言われるまでもなく、学生でもわかっている。しかし倫理の問題はそういうところにばかりあるわけではなく、日常のこまごました仕事の中にもさまざまな倫理問題がひそんでいる。そうした一見些細な倫理問題は、ひとつひとつは小さくとも、数の多さから言って、その影響ははかりしれない。本書の冒頭で、これまで技術者倫理の問題としては取り上げられてこなかったユニバーサルデザインの話題をとりあげた理由のひとつは、これが、些細ではあるけれども累積的には大きな影響を持ちうる問題のひとつの典型だと考えたからである。「キャリアを犠牲にしてまで内部告発をするほどの勇気や覚悟はないけれども、できる範囲で少しでも倫理的によい製品を送り出す努力をしています」というタイプの技術者も、多人数いれば十分社会をよくすることができる。そうした日常的な倫理問題に目を向けてもらうために、大事故のようなセンセーショナルな事例の扱いは本書では比較的控えめになっているのである。

 しかしそれでは事故は防げない、と唐木田氏はおっしゃるかもしれない。そこで第二の理由がかかわってくるのであるが、事故対策という点について言うなら、本書のスタンスは、最終的には技術者に自己犠牲を強いるのではなく、社会や企業風土といったシステムそのものを変えていくべきだ、というものである。もちろんシステムを変えるのには時間がかかり、当面は強い倫理的確信を持った技術者の方々に頼らなくてはならないだろう。しかし、本書はそうした状況を肯定してはいない。技術者倫理教育は技術者にばかり責任を押し付けるような教育であってはならず、社会や組織の変革とセットで進まなくてはならない、という教育理念が本書の背景にはある。

 この点と関連して、第三の理由として、自己犠牲を当然の姿として提示するのは義務以上の行為を義務として提示することになりかねない、という問題がある。倫理学では、ある程度以上の自己犠牲を伴う行為は、「義務以


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上の行為」(supererogatory act)、すなわちやれば賞賛されるがやらなくても非難されることのない行為と分類するのが普通である。もちろんどこまでが義務でどこからが義務以上となるかについては具体例に即して注意深く議論しなくてはならない。技術者には技術者としての特別な義務があるという考え方は、普通の人にとっては義務以上の行為であるような行為が技術者にとっては義務となりうるという考え方だと言いかえることができる。とはいえ、技術者にとっても、自らに落ち度のない不正を防ぐために大きな自己犠牲をはらうことは義務以上の行為とみなされるべきだろう。「苦難の闘いの日々を送る」技術者を役割モデルとして提示することは、義務と義務以上の行為の区別をあいまいにしてしまいかねない。

 第四の理由として、教育の効果という点がある。よく指摘されることであるが、倫理教育をうけて就職したあとの学生たちが、理想論と職場の現実のギャップに戸惑い、「倫理と現実は違う」といって「現実的」なものの考え方(つまりは倫理的配慮の欠落した考え方)に染まってしまう、ということが多い。それでは何のために倫理教育をしたのかわからない。これは、英雄的な行動をとる技術者だけをクローズアップすることのネガティブな効果のひとつではないかと思う。現実と理想があまりにもかけ離れたものである場合、選択は二者択一という形になってしまいがちであり、そうすると理想の側を選ぶのは強い確信を持った少数者だけになってしまう。しかし、もちろん倫理の問題は二者択一の問題ではなく、さまざまな選択肢の中で、自分にもできるものの中から少しでもましなものを選ぶというのも十分倫理的な選択である。そうした思考の枠組みを与えることで、学生たちは就職後の職場の現実の中でも倫理を生かすための手がかりを得るだろう。どれだけうまく行っているかは別として、これが本書の目指したところである。これは、一見学生に対してやさしいようでいて、「どうせできないんだから」という言い訳で倫理的配慮を忘れてしまうという抜け道をふさぐという意味で、むしろ厳しい面もある。前回の松崎氏への回答でも強調したが、あることが義務であるためには、それが実行可能であるというのは最低限の条件である。倫理教育において実行可能性の問題は決して忘れてはならないポイントであろう。以上四つの理由から、本書では意図的に自己犠牲的なモデルは提示していない。


 以上、数項目にわたって唐木田氏への回答を試みた。私自身は技術者として現場に身を置いているわけではなく、あくまで哲学者という立場から技術倫理にかかわっており、その点で唐木田氏からみて抽象論とも思える部分が多くなっている面は当然あると思う。そういう点については現場の立場からまたご批判いただければありがたい。

文献

[1] 松崎早苗 「紹介『誇り高い技術者になろう』」、『科学・社会・人間』90号、21-23頁。

[2] 唐木田健一「倫理以前」、『科学・社会・人間』92号、39-46頁。

[3] 黒田光太郎ほか編 『誇り高い技術者になろう』、名古屋大学出版会 (2004年)。

[4] 伊勢田哲治 「松崎早苗氏の書評に答えて」、『科学・社会・人間』91号、41-44頁。